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仏陀

2017-02-18 06:37:29 | 仏教
『釈迦の半生③ 出城と苦行』
 浄飯王はシッダルタの行く末が心配でたまりません。
春夏秋冬の宮殿を建て、それぞれの宮殿に五百人の美女を侍らせ、昼となく夜となく、歌や踊りでシッダルタを慰めます。
しかし、シッダルタには夢幻の如し。
虚しさを感じるばかりで、そこには喜びはありません。
ある日の真夜中、ふと目を覚ましたシッダルタは周りを見て驚きます。
昼間は綺麗に着飾っていた美女たちが酒に酔い潰れ、踊りに疲れ果て、あられもない恥ずかしい醜態で寝転がっていました。
いびきをかき、衣服は千々に乱れ、昼間とはまるで別人の姿にシッダルタは愕然とします。
私は騙されていた。
私は騙されていた。
これこそが人間の真実の姿なのだ。
もうだめだ。
いつまでも迷ってはいられない。
今こそ城を出よう。
出城を決断したシッダルタはシャノクという従者を従え、ケンジョクという名の馬に乗って、夜明け前にひそかに城を脱け出しました。
シッダルタ29歳2月8日のことでした。
 シッダルタは当時のインドで有名な仙人を訪ね、覚りへの道を尋ねます。
しかし、どの仙人の教えもシッダルタを満足させることはできませんでした。
そこで、シッダルタは独りで覚りを求める決意をします。
当時の仙人と言われる人たちの教えを理解し、既にそれらを超えていたと言われるシッダルタは、誰も到達していない真理を得るため、ニレゼン河東岸の苦行林という場所で想像を絶する苦行に打ち込みます。
 一方、シッダルタの出城を知ったカピラ城の驚きと悲しみは大変なものでした。
浄飯王は早速家臣を集めて、シッダルタの行方を探させます。
5人の家臣がシッダルタ探索のために遣わされ、シッダルタの跡を辿りますが、見つけたと思った時は既に立ち去った後・・・。
そんな繰り返しの後、ようやく一本の樹の下で座禅をしているシッダルタを発見します。
家臣はシッダルタに向かって、父王と妻ヤシャダラー、息子ラゴラの「太子に帰ってきて欲しい」という切々たる思いを伝えます。
「太子様、世に出家の動機は四つあると聞いています。
一つは長い病苦で生きていても楽しみがないから。
二つは老人になり身の自由や将来の希望を失ったから。
三つは財産を失い生活に困っているから。
四つは家族に死別して世をはかなむしかないから。
しかし、太子様の場合、これら全てがあてはまりません。
年若く、健康で、財産も地位もあり、家族の方々もお元気です。
何故、一衣一鉢の姿になられ、果てしなく遠い覚りを求められるのですか。
私たちにはわかりません。
どうしても太子のお気持ちがわからないのです。
浮世を離れた仙人でさえも、人恋しい思いを起こしますのに・・・」
涙を流しながらシッダルタに訴え、決心を変えて城に帰ることを求めます。
 しかし、無上の覚りを開くまでは断じて帰らないというシッダルタの決意は、岩のように堅固で揺らぐことはありません。
シッダルタは5人の家臣に対して毅然と言い放ちます。
お前たちにはわからないのか。
あの激しい無常の嵐がわからないのか。
すべてのものは常住しない。
いつかは衰え、いつかは滅びる。
快楽の陰にも無常の響きがある。
美女の奏する絃歌は欲をもって人を惑わすのみ。
三界に在るのは悩みのみ。
猛き火の如く、浮かぶ雲の如く、幻や水泡の如し。
若さを愛すれども、やがて老・病・死によって壊れ去るのだ。
シッダルタの火のように激しい求道への心と深い無常観に5人の家臣は心をうたれます。

仏陀の教え

2017-02-17 14:29:09 | 仏教
『釈迦の半生① 四門出遊』
 約2600年前、釈迦はインドのカピラ城主の浄飯王の太子として生まれました。
4月8日にルンビニー園の花園で生まれたので、釈迦の誕生日を「花祭り」として祝います。
母親の名前はマーヤ。
大変な難産だったためか、太子を出産後7日目に亡くなります。
シッダルタと名付けられた太子は生後7日目で実母マーヤと死別します。
 父親の浄飯王のシッダルタへの思いは格別なものがありました。
待望の後継者であり、愛妻マーヤが命と引き換えに産み落とした忘れ形見です。
そんなシッダルタの将来への期待は日毎に高まります。
ある日、高名のアシダ仙人を招き、シッダルタの将来を占わせました。
ところが、アシダ仙人はシッダルタを一目見るや否や涙を流します。
「太子を前に涙を流すとは不吉である。何事か」と激怒する浄飯王に対して、アシダ仙人は答えます。
「私は太子を哀れと思って涙を流したのではありません。自分を哀れと思って涙を流したのです。」
「どういうことか」と尋ねる浄飯王にアシダ仙人は答えます。
「太子はただのお方ではありません。王位を継承されれば転輪王(世界を治めうる優れた王)となるでしょう。出家されるなら無上の覚りを開かれる仏陀となるでしょう。私には転輪王よりも仏陀になるように思われます。ところが、私はこの通り余命いくばくもない老人です。太子が覚りを開かれても、教えを聴くことができずにこの世を去らなければなりません。なんと残念なことだろうと思わず涙を流してしまいました。」
アシダ仙人の弁明を聴いた浄飯王は大変満足します。
そして、太子をゴータマ・シッダルタと命名し、優れた王に育てるための英才教育を施します。
 立派な王になるには優れた師をつけなければならないと考えた浄飯王は、シッダルタが7歳の時、当時のインドで一番の大学者と称されたバッダラニーを学問の師に加え、更にインド一番の武芸の達人と評判の高いセンダイダイバを武芸の師に迎えます。
シッダルタは一を聞けば十を知る天才でした。
まもなく二人の師は浄飯王に、「太子に教えることはもうございません」と辞を申し出ました。
 なに不自由なく育ったシッダルタですが、成長するにつれて、物思いに耽るようになります。
少年時代から瞑想を好み内省的だったシッダルタは、ある日、鳥が虫を啄むのを見て弱肉強食の過酷な現実を知り、悲嘆します。
そのシッダルタが出家を志す縁となったと言われるエピソードが、「四門出遊」です。
 ある日、東の城門を出た時、シッダルタは、歯がおち、腰が曲がり、杖に頼って歩く老人を見ました。
人は誰でも老いなければならないのだろうか。
シッダルタは老いの苦しみを痛感します。
ある日、南の門を出た時、病人を見ます。
シッダルタは人が病むという病苦の現実を深く感じます。
ある日、西の門を出た時、葬式の行列を目にします。
さっきまで元気だった人が青白くなって動かなくなる。
そして、焼かれて一つまみの白骨になる。
人は誰でも死んでいく。
必ず死ぬのに何故生きるのだろう。
シッダルタは死の苦しみを知らされます。
ある日、北の門を出た時、出家した僧侶を目にします。
人は限りある命を自分の欲を満たすために生きるのではない。
老・病・死を超えた普遍的な真理を求めるために生きているのではないだろうか。
老・病・死に直面しても崩れない本当の幸せを手に入れたい。
シッダルタは真実の幸せを求める気持ちを押さえることができなくなりました。

仏教

2017-02-17 10:47:19 | 仏教
精進料理』
 仏教では僧侶の殺生が禁じられ、大乗仏教では肉食さえも禁じられたためかどうか。
野菜・豆類・穀類を工夫して調理する精進料理が考えられました。
精進料理は僧侶には必須の食事とされ、「行」の一つとして重視されています。
 精進料理は冠婚葬祭やお盆等の際に民間でも作られるようになりました。
料理屋の精進料理は時として仏教の食事の概念と離れた美食を目的に作られることもあるため、動物の出汁を使うこともあるそうです。
中国・台湾・香港・韓国・日本では精進料理を名物とするレストランや料理屋が数多く存在し、特に台湾の精進料理は有名で、広く浸透しているようです。
シンガポールやマレーシアでも、少数ながら仏教系の精進料理があるそうです。
 ところで、率直な疑問ですが、そんな精進料理を食べた修行僧は長生きしたのでしょうか。
昭和40年代、有名な永平寺の僧侶の寿命を過去帳をもとに調べた学者がいました。
結果は散々なものでした。
若い頃からの低栄養と苛酷な寒さのために、多くの僧侶は20歳前後で感染症(ほとんど結核)で亡くなり、一部の僧侶が長生きをしたことがわかりました。
そこで、「高僧だから長生きしたのではない。長生きしたから高僧と呼ばれるようになったのだ」とかの結論に至ったとか。

自業自得

2017-02-17 10:34:33 | 病気
『自業自得 改訂』
 大学の合格発表の掲示板に自分の名前を見つけた時、思わず「あった!」と叫びます。
過去の苦労がよみがえってきます。
仕事がうまくいった時、
好きな人に告白された時、
周りから評価を受けた時、
成功した時は「努力が報われた」と喜びます。
努力や苦労が一通りでなければ、その喜びも一通りではありません。
 成功者に、「何故、あなたは成功したのですか」と水を向ければ、果てしなくしゃべりまくり、ゴーストライターに自伝まで書かせます。
ここが勝負時だと思ったとか、委細にわたり、時には針小棒大に熱く語ります。
「他人のやらないことをやったから成功できた。この成功は自分の努力と苦労の結晶だ」と自負します。
もちろん、その通り。
その言葉に偽りはない。
その時の決断とその時の行動が、その人を成功に導いたことに間違いはない。
 では、失敗した時はどうでしょうか。
それがわかるのなら、成功した時だけでなく失敗した時も、その時の自分の決断とその時の自分の行動に原因を求めなければならないのではないでしょうか。
成功したのが自分の力量であると言うなら、失敗したのも自分の力量不足であると言わなければ、一貫性がありません。
成功した時は、常に自分の手柄であり、失敗した時は、いつも「あいつのせいだ。環境のせいだ。俺は悪くない」では自己本意に過ぎるのではないでしょうか。
良い時はその原因を自分に求めて、悪い時は八つ当たりしたり犯人探しを始めるとしたら、あまりにもご都合主義であり、どこかの隣国のように身勝手過ぎるのではないでしょうか。
 すべては自業自得。
スイカの種からはスイカの芽が出る。
まいたタネしか生えない。
遅速はあっても、原因があれば結果は必ず現れる。
それだけのこと。
運命でもなければ、宿命でもない。
神の御加護でもなければ、悪魔の妨害でもない。
 釈迦はこれを因果の道理として、教えています。


尖閣列島

2017-02-13 10:59:11 | 中国
中国が尖閣諸島の領土主権を主張する最大の根拠は何か。

 一つは日本が日清戦争時代(1894~95年)に、清王朝が弱体化したことを良いことに、「ドサクサ」にまぎれて釣魚島(尖閣諸島)を清国から不当に奪ったというものである。

 もう一つは2012年9月27日に中国の外交部の楊潔篪部長(外相)が、国連総会で述べた根拠である。それは「第二次世界大戦後、『カイロ宣言』と『ポツダム宣言』などの国際文書に基づいて、釣魚島を含む島嶼は、日本に占領されたその他の中国領土と共に中国に返還された」というものだ。中国共産党の機関紙「人民日報」の日本語版が伝えている。この表現は同紙のウェブサイトからダウンロードした(リンクはこちら)。

 ところが、この二つとも事実とは全く逆であることを証明する決定的な情報があった。

 しかも、その情報は中国共産党の「中国共産党新聞網」(網はこの場合ウェブサイト)、および中国政府の新聞である新華社の「新華網」が載せていた(リンク先参照)ことを、このたび発見した。現在の中国政府の主張と、彼らが(と言っていいだろう)自らのウェブサイトに載せている情報は完全に相反し、決定的に矛盾する。

 記事のタイトルは「蒋介石后悔拒収琉球群島」(蒋介石は琉球群島を領有するのを拒んだことを後悔した)で、発表されたのは2008年1月16日。中国の雑誌「各界」に王幸福という人が書いたものを転載したようだ。その評論を胡平という人が隔週の雑誌「中国人权双周刊」第86期(2012年8月24日-9月6日)に出していることから、筆者はこの情報を知るに至った。

「カイロ会談」での蒋介石とルーズベルトの密談

 この記事で語られているのは、1943年11月末に行われた「カイロ密談」の内容とその舞台裏だ。

 今回は、ここに書かれている「カイロ密談」の舞台裏を読み解くことによって、尖閣問題の解決を握るカギを模索したい。

 1943年12月1日に日本の戦後処理を巡って連合国側から「カイロ宣言」が出されたことは周知のとおり。後のポツダム宣言のひな形はここで作られた。しかし、その宣言が出される前に当時の中国、すなわち「中華民国」の蒋介石主席とアメリカ合衆国のルーズベルト大統領との間に交わされた機密会談を知る人は、戦中・戦後史の研究家を除けばそう多くはない。イギリスのチャーチル首相は参加せず、蒋介石とルーズベルトの二人だけによる、完全な密室会談だ。

 中国のウェブサイトの記事の内容は「アメリカのルーズベルト大統領が中華民国国民政府の蒋介石主席に『日本を敗戦に追いやった後、琉球群島をすべて中華民国(中国)にあげようと思うが、どう思うか』と何度も聞いたのに、蒋介石が断った」というものである。

琉球群島を巡る権力者の生々しいやりとり

 現在の日本人にとってはルーズベルトの発言はショッキングだろう。「戦後の体制を、米英中ソの四カ国で固めよう」と考えたルーズベルトが、中国の大国化を支援するために気前の良い提案をした、とされるが、ここでは置く。この記事の前半、「米中で琉球群島を共同管理しよう」という提案の部分までは一定程度知られている内容だ(※『日米戦争と戦後日本』五百旗頭真著、講談社学術文庫などを参照)。

 しかし、中国のこの二つのウェブサイトに掲載された内容には「蒋介石がルーズベルトのオファーを断り、断った後に、ひどく後悔し、絶対に口外するなと部下に口止めをした」といった内部情報が生々しく書いてある。この「拒絶と後悔」および「口止め」の部分は、私が知る限りこの時点までは公になっていなかった。中国国外でも、これに注目した動きはなかったようだ。




『チャイナ・ギャップ 噛み合わない日中の歯車』

 今回の「カイロ密談の舞台裏」に基づいて今日の尖閣問題を読み解く試みは、何よりもこの情報が中国共産党と中国政府のウェブサイトに書いてある、ということがキーポイントだ。

 詳細は2月20日に発売される『チャイナ・ギャップ 噛み合わない日中の歯車』で述べている。版元の都合を言えば発売後に公開したいところではあろうが、尖閣諸島を中心とした東シナ海情勢が危険な水域に達し始めたので、思い切ってここで公開させていただく。