~1か月ほど前から綴り始め、今日クリスマス・イヴに書き上げる~
「宇宙平和」
下記の画像の色紙は、書の大家・勝沼玄象先生が書いてくださったものである。
もう先々月になりますか、勝沼先生の主宰する書塾の書展に訪れたところ、アトラクションがありました。
それは、応募箱に予めが書いてもらいたい熟語などを入れておき、抽選であたった人が先生直々に書いてくださるというもので、私は、ナント!最後のひとり枠にあたってしまったのである。
その書展にご一緒した私のお師匠さんから、「いきなりだと思いつかないから家で考えて来たほうがいいよ」と言ってくださっていたので、よくよくと熟考してきた四字熟語、それが「宇宙平和」だった。
その想いは、世界平和といってもいいだろう。
しかし、「世界平和」としないでわざわざ「宇宙平和」としたのは、わたしなりの「想い」がそこにある。
ーこころー
その世界に足をざく踏み入れ自己探求を続けてきたわたしは、自分の経験や心理・スピリチュアルの書籍より導き出した「こたえ」がある。
自分のこころに深く分け入り、その森のなかで彷徨い、そして手を伸ばすとそこには、静まり返った「宇宙」があった。
こたえを求めていたが、そこには「こたえ」はなく、静寂と無限の世界「宇宙」があるだけだった。
何もないのと同時にある。そして、それは真空の静寂にけしてつかむことのできない星々の美しさがただあるのだった。
過去ブログでも綴ったことがあるのが、わたしは責められて大きくなった。
そのわたしを責める人は母だった。が母の記憶にはそれは微塵もないようだが。
心理的に健全な家庭で育った人には理解できない世界だろうが、あたられると言えばピンとくる人もあるだろう。
そしてそのうえ私の生まれつきの体質?からか、わたしは言葉をそのまま受け取ってしまったのだ。
「そうなんだ。かわいそうなお母さんを作り出したのはわたしが悪いからなんだ」とダメな自分を恥じ、罪悪感いっぱいになった。
だから、私はいつも理想的な姿をイメージして、それに自分を合わすようにして生きてきたように思う。
昔から「好き、嫌い」という明確な感情がわからなかった。
特に趣味や物に関しては自分なりのこだわりがあって、好きという気持ちがあっても、人に関しては何か灰色な曖昧な気持ちがこころを覆っているだけであった。
今から思うと母への嫌いという感情を抑圧していたからだろう。友人関係においても近づいてくる人と付き合うだけで自分から近づくことはなかった。だから自分が損をするような不本意な関係になってしまうことも多々あった。
母から「あんたは悪魔よ!ずるいのよ!」となじられたこともあった。
こんなにいい子なのにである('_')
しかし、私はそれにも抵抗できず、何か母を怒らせるようなところがあるのかもしれないとそれを受け入れてしまったのである。
今から振り返ると、母の精神状態はかなり破たんしていたと思われる。
それは、善なる自分と悪なる自分に分かれてしまっていて、その白と黒とのケンカ状態が心のなかを占めていたのだろう。
自分ではそれはわからない。それは目の前にいるワタシが発信しているように感じる。目の前にいるわたしが責めてくるように感じてくる。
悪魔は自分のこころのなかにいたのに。それが私という「鏡」になって自分の見せつけてくる。こいつを撲滅せねばと叩きのめしたくなる。
わたしは、「鏡」になってしまうほど、それほど「純粋」で何も考えてはいなかった。
単にバカみたいに素直で、わたしは不器用だからとわかっているので、ただ、なんでも一生懸命やる人間だった(*^_^*)
外に行っても、わたしは「鏡」にされやすかった。劣等感に苛まれている人間ほど自分のダメさをわたしのこととして認識し、わたしにダメだしをした。
しかし、わたしは家庭で自分を守る術を学ぶことができなかったので、ある自分のなかに何か言われるようなことがあるのかもしれないと思って努力した。
その「欠点?」をなくすために。
この「からくり」がわかるようになってくきたのは、40代に心理の先生のところに飛び込んでから以降のことである。
あるときわかった。
他人から言われることはその人の劣等感(ダメだと思っていることであり)、そして自分でも自分にダメだしして制限をかけてきたこと。
自分の人生で人から言われて鵜呑みにしてしまったこと。
だから、「それっていいんだよ」って赦してしまえばいいんだ。
ひとが私に言ってくるということは、自分でもそれをダメだと信じているから。
心の底から「いいんだ!」と信じれば、もう自分も他人もなにも言わなくなる。
傷ついてきた人々の心の中が穏やかになって、誰もワタシのこと攻撃をしなくなるんだって。
ただ、それは本当に難しい道のりだった。
自分に制限をかけてきたことは、言い換えるならば、それは、向上することだと信じて努力してきたことだからだ。
それを、その鎧をはがしていくことは、相当な勇気が要ることであったからだ。
それは、今までの努力の形の真逆をいくことだからだ。
それでも、わたしはいわゆる「玉ねぎの皮をむくように」すこしずつ一枚ずつ自分がつくってきた皮をはがしていくことを止めなかった。
人の「鏡」になりやすいエネルギーの強いわたしのこころのなかが「平和」になれば、誰しも自分を赦していくことができるようになる。
わたしはそう確信した。
そう・・・こころのなかをぜ~んぶゆるしてしまうこと。
そうすれば、じぶんを取り巻く外の世界にも平和がおとずれるのだ。
平和はじぶんのこころのなかにある。
外の世界をいくらコントロールしようとしても
いやなことがくりかえされるだけ。
こころのなかのしずけさに耳をかたむけるとき、
じぶんのなかにある「愛」を信じ切った時、
環境もまた「愛」にみちたものとなる。
ここで、あえていう。
「嫌なことをしたヤツを赦せというのか!」とイライラして反論する御仁もいらっしゃるだろう。
わたしはこたえる。
「わたし相手を赦せなんて言ってないよ。そのあなたのユルセナイ!という気持ちを赦せばいいんだよ」って。
いちばんいいのはね、そのユルセナイ!と思う相手にそのことを言ってしまえばいいんだけどね。
それで気分は晴れるし、自分も一歩高い視点で物事を観れるようになる。
それができないから、こころのなかが病んでしまうんだけどね。
なぜ、言えないのかというとね、信じていないからなんだよ。
誰を?
人をさ。自分も他人をさ。
他人を信じて、自分を信じない、これもない。
これは、裏を返せば、他人を信じているのではない。迎合してるだけ。
誰も信じてはいないんだ。
自分を信じて、他人を信じない、これもない。
これは、裏を返せば、猛進してるだけ。恐いから目をつぶって歩いているだけ。
自分を信じる。自分の愛を信じる。
すると外の世界も自分を信じる。あなたの愛を信じる。
何故か?
そのほうが心地よいからさ。
こころが楽だからさ。
じぶんと自分の周りが気持ちよく回り出すからさ。
Chieはカンレキになって、ようやく
なんとなくこころが軽くなってきたよ。
\(^o^)/