あとりえちえ

自分の力では抗えないものがあると気づくと自由になる!



連日、酷暑が続いています。マスクをつけながらの行動は、さらに辛いですね。
みなさま、くれぐれも、熱中症に気をつけてください。

さて、夏と言えば・・
涼しくなるために「怪談」がつきもの。
まあ、幽霊話ですが、この幽霊というものは、ウソかマコトかわかりませんが
死後にそのような状態になるようです。

しかし、生きていながら幽霊になることもあるのです。
わたしは、かつて、自分が幽霊だと感じていました。
「この感覚」が辛くて、とうとう心理の先生に相談に行ったのです。

どのような感覚かと言いますと、
自分が自分と感じられない心持ちといいますか、
それこそ足がなく彷徨っているかんじといいますか、
人のなかで生きていてもこの世で自分はたった一人という孤独感といいますか。

実は、現在の私は、以前よりずっとこころ穏やかな状態になることができているので、
あのときの辛さの感覚を忘れてしまっています。
なので、自分が心理の先生に訴えた言葉や
過去に書いたブログなどの記憶を引き出して、上記のように表現しました。

幽霊は、この世に未練や恨みを残して死ぬと、成仏できずにこの世を彷徨うそうでありますが、
生きていて幽霊感覚というのも、死んでからと同じであります。
それこそ、幼少期に自分の感情を表現できなかった、
また、頼りにしていた養育者に理解されなかったという恨み辛みがありますと、
それが、自分のなかに統合されずに、無意識に生き続けていたので、
あのような感覚になったのだろうと思われます。

それが、あとりえちえでは「コドモココロ」と表現している気持ちです。
大人になって意識に上ることはなくなったけれど
心の奥底という無意識に生き続けているコドモというわけです。
スピリチュアルに詳しい人は、インナーチャイルドで、馴染みありますね。

さて、人間の精神活動には、大きく分けて、「思考」と「感情」があります。
感情は、喜怒哀楽を感じ、ここにコドモココロやその記憶があります。
思考は、考えること、理解することや知識を得ることなどです。
時々、自分の心の苦しみについての原因ばわかれば、感情も癒せると思う人がいるようですが、
そうはうまくいきません。
「わかっちゃいるけど、やめられない!」というあの古い流行歌のようなものなのです。
「思考」と「感情」は、連携している部分もありますが、別物だからです。

なので、「感情」に棲んでいるコドモココロは、基本的に「思考」では
なかなか癒すことはできません。
しかし、その「思考力」は、感情に触れずに、俯瞰的な視点を与えてくれるものです。
空に飛びあがって、さらに宇宙まで離れて、自分がいた立ち位置を観ることで、理解するのです。
そう、大人になった自分が、タイムカプセルに乗って過去に遡り、
当時わけのわからないまま傷ついてしまったコドモココロに教えてあげるのです。
もちろん、当時のコドモココロに寄り添って癒してあげることが先決なのですが、
客観的視点は、最終的に自分を成長させることができます。

・・・・・

わたしの幼少期のトラウマのひとつに、親の夫婦喧嘩があります。
子供が寝てからの毎晩繰り返される、襖ひとつ隔てた隣の部屋から聞こえる怒り声に
幼い私は、目が醒め、布団のなかで小さく固くなっていたものでした。
今でも、人が怒っている姿に必要以上の怖さの感覚を覚えます。

あの時代は、日本の高度成長時代でした。日本が、豊かになり始めた頃です。
私が小学校に上がる前、戦後次々と建設された東京の団地に引っ越してきました。
父は、役人でしたが、残業が当たり前になり、毎晩遅くに帰るようになりました。
母は、慣れない団地暮らし。当時ですからエレベーターはありません。
しかも今の造りと違って安普請で、子供が走り回ると階下のお宅からクレームがあったりで、母はそれは気を使ったそうです。

あの昭和40年代、父だけでなく、多くのお父さんが身を粉にして働いていました。
私の知るどのお母さんも、専業主婦と言われ、2~3人の子供を育てていました。
近年、テレビの情報でしたが、それは政府の政策だったそうです。
あの第二次世界大戦敗戦後の日本が、焼け野原から復興し、国力をつけていくため、
女は家に居て子供を産み育ててもらい、男は2倍働かせるとのこと。

もしそうだとしたら、
そんな生活を強いられたのなら、必ず歪はくるものです。
そして、父が、毎晩遅くに帰宅したのは、父のせいではなく、また
母が、ひとりで子育てに奮闘して疲弊してしまったのも、母のせいではなかったのです。

それは、個人の力では抗えない大きな力に強いられたのであり、
時間をもとに戻していけば、「戦争」に行きつきます。
もちろん、「親の夫婦ケンカ」から「戦争」につなげるのは、
何か飛躍しすぎているのではないかと感じる人もいるでしょう。

ある面、そうだと思います。


しかし、ここは歴史を議論する場ではありません。
自分のコドモココロを癒す これが目的です。

子供は、例え親にあたられたとしても、「自分が悪い」と思います。
それは、大きくなるまではその養育者に依存していくしかないからです。
養育者が自分を育てるに値しない者だと思うと、不安になり生きていけないからです
私も、今から思うと親にあたられましたが、「自分が悪い」と無意識的に思っていたようです。

しかし、自分に自信がもてるようになると、リラックスしてきて
「相手がわるい」と感じることができるようになります。
自分に向けられた「怒り」のエネルギーを反転することができるのです。
その感覚を得られると、幽霊感覚から少し距離をとることができ、救われます。

しかし、物事を二元性(良いか、悪いかで分けてしまう考え方)は、不幸です。
自分か、そうでなければ相手が悪者にならなければいけません。
物事は、複雑であり、そうそう白黒に分けられるものではないのです。
これは、自分の世界をとりあえず安定させるための子供の思考です。


日常におけるほとんどのいざこざでは
「誰も悪くない」のです。


そのことは、自分の思考ではよくわかっていました。
しかし、前回ブログで書きましたように、コドモココロに理屈は通らないのです。
子供は、「悲しかった」「怖かった」そのときの年齢で、
恨み辛みの感情と共に心の奥底に棲みつづけているからです。

コドモココロには「悪者」が必要です。
私は、時々、先の戦争からさらに遡って、明治時代の人に悪者になっていただいたことありました。
「富国強兵策を打ち出したオオクボトシミチがわるいのよ!」なんてね。
もちろん、本気じゃなく、ちょっとお茶目に。
コドモココロは、「自分でも親でもないおじさんが悪いのだ」と納得してしまったものでした。
大久保利通はお墓の中で「なんで?」と目を白黒させているでしょうね(笑)


話を元に戻します。


私たちは、日常の生活ではあまり実感できませんが、
抗えないもののもとで生きています。

先に述べましたように、私たちは歴史の延長線上に生きています。
先の戦争で日本は負け、その後も大国の影響下にいます。

また、先のブログ「無題」で書きましたように、知らず知らず
その時代時代の雰囲気や情報が、無意識に自分に入り込み
それが自分の考えとなっていくものです。


そう考えていくと、個人の努力で何ともしがたい
しょうがないことがたくさんあることに気が付いていきます。


この「しょうがない」と感じることは、敗北や迎合を意味するものではありません。


自由になるため、自分を「とらわれ」から解き放つ言葉です。



自分の力では到底抗えないものがあることを受け入れると、

「今の自分にあるもの」に目がいくようになってくるからです。


夫婦喧嘩で無意識丸出し!一生懸命生きた私の両親、かなりの高齢ですが、元気でいてくれています。


繊細で、ものがわかるのにたくさんの時間を費やしてしまった私も、元気です。


そして、見上げると青い夏空が広がり、セミがミンミン鳴いています。


現在、私は平和な日常のなかに存在しています。














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