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「博物館・美術館」ということー中黒「・」の意味ー

2012-06-22 10:50:03 | Weblog
 新しく開館した「沖縄県立博物館・美術館」の展示や企画は、期待以上の水準にあり、関係者のご労苦に心から敬意を表したい。

 しかし、この館名はどう考えてもいただけない。いったい、館名に付与されている中黒「・」は、何を意味するのだろうか。私の語感からすると、「沖縄県立博物館」「と」「美術館」、としか読めない。英語名は、その和文英訳的直訳かと思われるOkinawa Prefectural Museum and Art Museum。「・」が使えないからかandとなっている。そうすると、「美術館」の正体は何なのか・・・。入館すると左側に「博物館」があり、右側に「美術館」がある。館名の意味するところは、私の解釈と違って「沖縄県立」の「博物館」「と」「美術館」らしいことがうかがえる。

 そこで、「沖縄県立博物館・美術館」の存立を規定する県条例を読んでみると、新館の位置付けは教育「機関」で、「博物館施設」と「美術館施設」、「およびその他の施設」からなるという。要するに、旧「沖縄県立博物館」の半身と、生まれるはずだった「沖縄県立(現代)美術館」の半身を足し、これに「沖縄県立博物館・美術館」という上着を着せて誕生したのがこの新館なのである。言いかえれば、「沖縄県立博物館」はすでになく、「沖縄県立(現代)美術館」は未だないことを示す行政本位のネーミングということだ。

 それならそれで、ネーミングも”沖縄県立(博物館・美術館)”、あるいは”沖縄県立「博物館・美術館」”とした方が条例の内容に近いと思うが、さすがにそういうわけにもいかなかったのだろう。「・」を付しただけでも紛らわしいのに、( )や「 」まで加えたら噴飯ものだ。

 私の文章感覚において中黒「・」の付与は、外来語のカタカナ表記で使うか、「軽い」並列を意味する程度でしかない。そのことについて、若干の事例をあげてみよう。手元にある本を適当に選んでめくってみた。

 たとえば、三島由紀夫の『文章読本』(中央公論社)。
 まず「キャッチ・フレーズ」という外来語が出てくる。「・」の付与は言葉の句切りを示すもので、原語では両語の間に一字空きがある。次に出てくるのは欧米の作家名。姓と名の間に「・」をつける。「・」を挟まないと区別がつかないからで、その必要上日本において便宜的に付けられたものだろう。氏名の原文表記ないし現地表記は、一字空きになっているはずだ。カタカナで記載される外来の言葉や人名以外、三島の文章に「・」の使用はない。当然だろう。旧漢字や旧仮名遣いに日本語文体の「美」を感知する三島にとって、「や」とか「と」を「・」で代用させることはできなかったのではないか。

 次に夏目漱石の『三四郎』(角川文庫)。これも半分ほどめくったが、「・」の登場はカタカナ記載しかないので途中で切り上げる。
 村上哲見著『漢詩の名句・名吟』(講談社新書)は、タイトルに沿って「名句」と「名吟」の二部構成になっているかと思い目次を開くと、二つの語句は章だてに見あたらず、本文にも登場しない。「・」に続く「名吟」は、どうやら読者の気を引く付け足し程度の意味しかないらしい。

 最近の論文をめくる。文化人類学が専門の東大教授大貫良夫が執筆した「ものの見せ方ー博物館と展示ー」(岩波講座文化人類学第3巻『「もの」の人間世界』)。この人は、大阪万博跡に建てられた国立民族学博物館の展示準備に携わった経歴を持つ。19ページほどの論文で、カタカナ表記以外に「・」が出てきたのは「原料・材料」の一例のみ。辞書にもある「原材料」を強調するために区分けしたのだろう。
 ちなみに、英語表記ではどうかと思って新約聖書「マタイ伝」に目を通したが、「・」の用法は見あたらない。

 外来語のカタカナ表記を別とすれば、中黒「・」の用例は少ない。日本語の用法としては新しくて、格調も低いことがわかるだろう。県当局の理解では、新館の見かけに比して博物館や美術館の意義は、「・」でつなげられる程度の「軽い」ものでしかないことが察知される。しかしながら、博物館の活動や設立、運営に16年余り関わってきた私の経験と、訪れた国内外の博物館や美術館の事例に照らして見たとき、全国に例のない「博物館・美術館」という名を付したネーミングは、同館の展示や企画、あるいは活動内容にふさわしい「品性」をそなえていない。

 それではどうするか。「沖縄県立博物館」を復活させ、「沖縄県立美術館」を独立させるか。それとも、新館の方向性を示す明確な理念と、日本における「博物館」や「美術館」の固定したイメージを超えるmuseum像を明示するとともに、陣容をそろえて、内容にふさわしい公称を県民に諮るか。二者択一しかない、と思っている。

                 
                                                                                  (The Gallery Voice No33号 2008.1.12)

島武己「陶の世界」展評

2012-06-22 10:45:09 | Weblog
 島武己(たけみ)の作品は、炎のように見える。一見、形を成しながら、瞬時とも一つの形にとどまらない。瞬時の姿を、とりあえず写真に定着してみた。そんな趣がある。作品は、萌え出ずる植物の芽のようでもある。<命>が一つの形をとらんとしてうごめく。炎ほどの速度はないが、明らかに形をつくるために形を変えて行く。動物の胎児のようだといってもよい。形をとる以前の生の躍動である。その姿は何ともなまめかしい。

 一群の作品は「器」である。しかし同じ形のものはひとつもない。それらは器の「器性」ともいうべきものの対極にある。一つの形に収れんすることを拒否しているのである。彼の作品は、わたしたちの内外でひそかに活きている霊の動きにも見える。それは、<神>という定常化され、名詞を与えられた形に至らんとして、なおそこへの到着を拒否する両義性そのものだ。

 「シーサー」そのものに「シーサー」と名づける一方、それが「タイム・トラベラー」だったり「海門」だったりもする。「茶碗」にしろ「花生け」にしろ、何もその通り使えというものでもない。「とりあえず」出来上がった「形」だから、とりあえず「名前」を付けよう、ということらしい。絶えず姿を変えるものに、本来名前は不要だし、名前を付けること自体矛盾だ、と言っているようにも見える。彼の作品は、名辞を授けられながら、それ以前であり、それ以後でもある。

 こう言い換えてもいい。彼の作品にうかがえるのは、絶えざる<動>である。しかしその動きの中には絶えざる<反・動>の契機がはらまれている。そんな相反するベクトル=両義性を、一つの眼に見える形にして呈示しなければならない。それは、彼が陶芸家、あるいは作家である限り、本質的な「矛盾」である。

 だからであろうか。彼には、両義性の別名であるトリックスターの雰囲気が漂う。窯場は工房でもあり、日常寝起きする空間でもある。中城グスクに近いヤマの中にあった彼の窯場は吹きさらしで、大型の小屋といったイメージだった。起居の形そのものが尋常ではないのである。しかし彼の風貌に仙人の面影はない。人をくったような、と同時に、はにかみも見せる彼の表情は、むしろ沖縄の代表的なトリックスターである「キジムナー」に近い。彼から陶芸をとりあげたら、多分何も残らない。彼にとって陶芸とは、キジムナーの釣り竿のようなものだ。

 展評もまた一つの「名付け」に過ぎないし、すべてを語り尽くせるものでもない。しかし、これだけの作品を見逃す手はない、ということは断言できる。

                                                                                       
                                                                                        (「琉球新報」04.7.30 一部改稿)

仲里効『オキナワ、イメージの縁(エッジ)』(2007、未来社)評

2012-06-22 10:40:50 | Weblog
 本書は、沖縄が日本に返還された1972年前後に制作されたドキュメンタリーや劇映画12本の映像作品をとりあげ、論じている。ところが「あとがき」で著者は、「これは映画(作品)論でもなければ、監督(作家)論でもない」と書いている。たしかに、それぞれの作品をトータルでとりあげ、論じるというより、それぞれの作品が描き出す沖縄・オキナワを舞台とする「映像を媒体として時代と私(たち)がどのように出会ったのか」が主題となっていることは否定しない。とはいえ、「復帰」を挟んだこの時代の「イメージ」を鋭くえぐり出し、描いたこれまでにない「映画(作品)論」でもあることも、まちがいないのである。その点で本書はまず評価される。

 本書がもうひとつこだわるのは、映像と向き合う形で展開される「言葉」である。もちろん、ここで言葉という場合、「沈黙」の「言語的意味」も含めてのことである。たとえば、1971年11月19日の「沖縄国会」といわれた衆議院本会議場で爆竹を鳴らし、「沖縄返還協定批准阻止」と「72年返還粉砕」を叫んで「在日沖縄人の決起を呼びかけたビラ」を撒いて逮捕・起訴された3人の青年が、翌年2月16日に開かれた東京地裁の法廷で行われた人定質問に「沖縄語」で返答したことにうろたえた裁判官が「日本語で話しなさい、日本語で!」と叫んだという出来事を巡る論説。あるいは1973年5月20日、国会正門の鉄扉に時速80キロの猛スピードで突っ込み激突死した青年の「沈黙」の「意味」・・・。

 沖縄・オキナワを巡る「映像」や「言葉」を論じるに当たって、著者が拠って立つ場所は、本書のタイトルに如実に示されている。すなわち「縁(エッジ)」である。「内部」ではあるが「中心」ではない「周縁」、内部と外部の「境界」にあり、その故「内部」と「外部」の接点ともなりうる「縁(エッジ)」。 「復帰前」の沖縄で言えば、日本でもない、アメリカでもないが、またそのどちらでもあった「オキナワ」。その位置を脱して日本=「祖国」にひたすら向かう求心運動として展開された「祖国復帰運動」とその思想的陥穽・・・。「復帰」に対する「反・復帰」の潮流の先に来るべき弁証法的「合」が見えないままの上からの「返還」。

 敗戦の2年後に沖縄本島の東に浮かぶ崖っ縁の孤島で生を受け、「祖国」日本の首都で「在日」学徒として生きながら、同時に展開される「沖縄返還」施策の現実と行方にいらだち、「復帰後」も、その内実と現状に言いようのない違和感を抱き続け、異議をとなえざるを得なかった感性があった。その感性が、生後六十年、「復帰後」三十五年目にして描かんとする「オキナワ」の「イメージ」は、「縁(エッジ)」から、この場合で言えば描かれた映像と言語の境界、発せられた言葉と未発の言葉たる沈黙との境界からしか表出できない。著者はそう言っているように見える。そこにこの著作の独自性がある。

 本書は、「沖縄返還」の年1972年前後に制作されたドキュメンタリーや劇映画12本をとりあげ、論じている。「復帰」を挟んだ時代の「イメージ」を鋭くえぐり出し、描いたこれまでにない「映画(作品)論」であるという点で、まず評価される。

 しかし、それに止まらない。主題は、沖縄を舞台としたそれぞれの「映像を媒体として時代と私(たち)がどのように出会ったのか」であって、その展開に当たって本書がこだわったのは、映像(イメージ)と向き合う形で織りなされる「言葉」である。ここで言葉という場合、「沈黙」の「言語的意味」も含めてのことである。「返還」・「復帰」という時代の境界の周辺で叫ばれ、綴られた数々の言葉と、それらに対応する未発の言葉としての無数の沈黙・・・。

 著者が拠って立つ場所は「縁(エッジ)」である。「内部」ではあるが「中心」ではない「周縁」、内部と外部の「境界」にあり、その故内部と外部の接点となり、両者を止揚する場ともなりうる「縁(エッジ)」。 「復帰」前の沖縄で言えば、日本ではなく、アメリカでもないが、またそのどちらでもあった「オキナワ」。両義性の位置を脱せんとして、日本=「祖国」にひたすら向かう「祖国復帰運動」の求心性がはらむ思想的陥穽、・・・。

 敗戦の2年後に沖縄本島の東に浮かぶ縁(エッジ)の島で生を受け、日本の首都=中心で「在日」=「非日」学徒として生きながら、上部で展開される沖縄返還施策の現実と行方にいらだつ若き感性があった。その感性が、生後60年、「復帰」後35年目にして描かんとする「オキナワ」の「イメージ」は、映像と言語の境界、言葉と沈黙が交錯する場からしか表出できないかったのである。

花田俊典著『沖縄はゴジラかー<反>・オリエンタリズム/南島/ヤポネシアー』(06.5 花書院)

2012-06-22 10:36:08 | Weblog
 大和(ヤマト)の時代から今日まで、「沖縄」はしばしば「南島」と称されてきた。もちろんこの呼称は大和・日本とその首都が「中心」であり、「中央」である、とするスタンスにもとづく。史実・現実の「南島」はそれぞれの歴史的文脈において、「異国」とか、「異郷」であったし、「辺境」であり、また「源郷」とも呼ばれてきたが、共通するのは「沖縄」がまず<場>としてとらえられ、「中心」「中央」が好む形でそのイメージがつくられてきたということだ。

 「南島」という<場>をそのように呼んできた側、見てきた側には、この<場>がある共通項でくくられていて、そこには自分たちと「地平を同じくするという視線が欠落している」(花田)。言い換えれば、これらの呼称は「中心」「中央」から見た「差異」を前提としてきたし、している。その「差異」の一部をとりあげて強調し、他(たとえば「基地の島」)を無視ないし軽視する言説もこの系譜に入る。近年の「癒しの島」というコピーも同じだ。誰にとっての「南島」なのか。

 花田はまず、「南島」に関するこの種の言説の立脚するところに「反旗」を掲げる。いずれもおのれのためにする日本的・「中心」的・今日的「オリエンタリズム」ではないか、と。それらの論調に共通するのは、「自分たちが失ったものを残している場」、という意味での「日本(人)の源郷」と見なす視座である。日本の「源郷」たる「南」から立ち現れ、都市文明・現代文明の負を告発する差異と同一性の表象=原人を、花田は「ゴジラ」と称する。「沖縄はゴジラか」。

 おのれが属する民族や文化を中心に据えて、周辺の「異民族」やその「異文化」を劣位に置く視座・イデオロギーはエスノ・セントリズムと呼ばれ、「自民族中心主義」とか「自文化中心主義」と訳されている。「中華思想」が典型だが、近代ヨーロッパにおけるエスノ・セントリズムは、非ヨーロッパたる「オリエント」に関する言説である「オリエンタリズム」として語られることが多かった。すなわち「周縁」たる中近東(アラブ世界)、広くアジアを含む「オリエント=東洋」を語ることによって、ヨーロッパという「中心」のアイデンティティと優位を確認し、確信する、という立場だ。語る側にとって、語られた言説が「真実」かどうかは二の次である。何よりも「オリエント」は「オキシデント=西欧」のためにあるからだ(エドワード・サイード『オリエンタリズム』)。語る側で必要なら、オリエントは「創作」されるし、改変も厭わない。アメリカ大統領ブッシュの政治理念が好事例だ。

 著者の花田俊典は、東京からすれば「周縁」の九州、その九州では「中心」にある福岡の国立大学で文学を専門とする大学教官という<場=肩書き>から九州や沖縄の文学を研究し、発言し、書いてきた<人>であるが、彼がこの本で終始批判しているのは、そのように<場=「共同性」>によって<人>を語る、という個性=多様性を抹消する語り口である。従来の「南島論」=「日本論」を「脱中心化」した思想として評価されてきた島尾敏雄の「ヤポネシア論」すら、本書においては<場>によって<人>を語る系譜につながるとして批判され、また著者は「沖縄文学」とか、「沖縄」の作家というくくりかたで文学を論じる語り口に疑義を挟む。この立場からすれば、「沖縄」内部に巣くう「オリエンタリズム」もまた批判されなければならないし、批判されている。

 個別性を払拭し、共通項でくくるとは言い換えれば特定の「名辞」を冠するということだが、そのような「名付け」が行われた時点と地点から、名付けられた内容は共有化・モノ化を始め、「通称」化されておのれの<場>を広げていく。それへの絶えざる抗いが文学の営みだとでもいうかのように、花田は崎山多美の文学に惹かれていく。

 沖縄の「辺境」たる西表島で生まれ、家族に引き連れられて「本島」の都市に移り、育ち、その地の国立大学を卒業して今は塾講師を務めながら自らの文学を紡ぎ上げていく彼女にあるのは、幻想の「故郷」のみである。そこは「往還」すべき場ではあるが、彼女によって創り出される場でもあり、その場は過去であったり、現在であったり、未来であったりする。日常生活の場たる都市の暮らしにも、その中での人間関係にもどこかでなじみきれない主人公(作家)は、言ってみれば「ハイマートロス(故郷喪失)」であり、「ホームレス」=非定住者であり、かつ一個の「わたし」=個性であり、そういうものとしての<人>間性なのである。そのスタンスから書かれる崎山の作品に、花田は「脱・沖縄文学」の可能性を見た。

 <反>オリエンタリズムは<反>である限り、「裏返しのオリエンタリズム」ではないか。今は亡き花田に尋ねれば、そうだ、と答えてきそうな気がする。「完全解答」はないのである。それらしきものが出たとたんに、それは「名辞化=モノ化」を始めて固定された場所をとることになるし、時にはそこから「権力」や「権威」さえ生じ、<場>を占有し兼ねないから。外から押し寄せ、内からにじみ出す「オリエンタリズム」にアンチを唱え、それから脱却せんとするためには、おのれの立つ浮遊する<場>に足をすくわれることなく、<場>に対して<時間>、モノに対してコト、を対置しながら「くりかえしがえし」問い続け、発言し続けていくしなやかな感性がわたし(たち)に問われ、求められている。それが花田の遺言のように聞こえてくる。

『島クトゥバで語る戦世ー100人の記憶―・ナナムイ・神歌』(琉球弧を記録する会)

2012-06-22 09:06:57 | Weblog
 「琉球弧」を記録する会は、「悲惨な沖縄戦」とその前後を生き抜いてきた琉球弧の人々の心と顔、身体に刻まれてきた年輪、あるいは「何百年にもわたって」継承されてきた島々の語りや風景、祭祀・民俗を、「沖縄独自の言葉(島クトゥバ)」、「映像と音声」そして「活字」によって記録し、地域へ還元することによってその保存・継承を図ることを目的として、1997年1月に結成された。以来、同会は、「島クトゥバで語る」「戦世」や「民話」、あるいは「宮古の祭祀・ナナムイ」他の証言ビデオ上映会を、県内を含む全国で展開して、今日に至っている。

 本書は、その証言と映像の記録を、活字と写真で編集し、刊行したものである。

 一般的に言って、「体験」の「証言」は、人々の使う日常語によって聞き取りされ、記録されるのが普通である。ところが沖縄においては、明治12年、「日本・国家」に包摂されてからこの方、その日常語が「地方」の「言葉」として脇に追いやられ、「中央」の「言葉」たる「共通語」が「標準語」として「上」から押しつけられてきた。それは、社会・文化の上=中央からの画一化でもあったが、それを積極的に受容しようとする沖縄側からの要請と相まって、「公用語」と「日常語」の分断が進み、両者の亀裂も深まった。「日常語」の「公用語」への「翻訳」、あるいは後者の前者への取り込みが進み、「ウチナー・ヤマトグチ」なる「新たな方言」が話される結果が現出している。

 基本的に活字文化は「公用語」の領域に属する。この間、沖縄戦や民俗の記録の活字化が相次ぎ、体験証言集も相当の量に上っていると言っても言い過ぎではない。しかし、それらが、「公用語」に「翻訳」されたり、その前作業なる聞き取り調査が「公用語」で行われる限り、語られるのは「体験の翻訳」でしかない。そのうえ「翻訳された体験」が編集者=他者の手で「編集」されるとなれば、そこにはもうひとつの「翻訳作業」が加わることになる。それでは、当の体験証言者の「表情」や「言葉の重み(広がり)」はしぼみ続ける他ないのは明らかだ。 

 これまで活字化された証言集の数々が陥った陥穽から抜け出すために、「記録する会」のメンバーが採用した方法は、聞き手も「日常語」すなわち「島コトゥバ」で尋ねる、言い換えれば「島コトゥバ」を「共通語」として「聞き取り」、記録することである。あるいは映像というもう一つの「言葉」で「写し取り」、記録することである。その活動の結晶が本書である。

 聞き取り調査にしろ、撮影にしろ、聞き手あるいは撮り手と証言者との間に信頼関係がなければ成り立たない。その信頼関係を築き上げるまでの人知れぬ苦労が行間からうかがえるが、であればこそ「公用語」では引き出せなかったはずの証言を得ることもできたに違いない。

 本書は、高齢化した戦争体験者たちの証言と合わせて、宮古の祭祀と祭祀空間を映像で、神歌を「島クトゥバ」で採録している。一見両者の間に何の脈絡もないかに見えるが、そうではない。祭りの場に登場する女性達にも相応の戦争体験、戦後体験があるのは明らかだ。彼女たちがささげる祈りの言葉や神歌は、彼女たちの「証言」意外の何者でもない。「島クトゥバで語る戦世―100人の記憶―」と「ナナムイ・神歌」は、「戦争と平和」のパースペクティブを見事に演出している。
  
                                                                                               (書き下ろし)

写真集『岡本太郎の沖縄』(2000年7月 NHK出版)の前後

2012-06-22 09:02:19 | Weblog
 1959年の11月から12月にかけてと、1966年12月の二度にわたって来沖した岡本太郎の写真集である。1959年の紀行記『忘れられた日本ー沖縄文化論』は、1961年に中央公論社から刊行されている。

 写真集で見る登場人物の表情はどれもひたむきで、しかも明るい。糸満の魚市場で、並べたイカ類を前にしてたばこをくゆらす老婆は、カメラに気づくと居住まいを正し、得も言えぬ笑みを浮かべる。手にはハヂチ(入れ墨)が見える。ブリキの空き缶を置き、その上に幅数十センチメートルのお膳状の台を載せて、「商品」を並べる道端の女性のしゃがむ姿は六十代か。まぶしそうな顔をこちらに向ける。身なりは二人とも琉装。

 頭に風呂敷包みや豆腐入りの木箱、アイスキャンデイーの箱などを載せてバランスよく歩く女性たちの大半は、ゴム草履か下駄履きである。食用にするヤギをにわかづくりの石のかまどで焼いている砂浜には、煙やにおいに顔をしかめながら遊ぶ子どもの群があり、護岸には屈託のない笑顔でそれらの光景を眺めるおばさんたちがいる。

 久高島の女性が神に仕える資格を得るためのイニシエーションである「イザイホー」の各シーンは、モノクロだけにいよいよ印象が強い。
 竹富島の石垣もいい。大半が自然石のままだが、積みにくいはずのところをうまく重ねていて、それが切石の石垣に負けない風情を醸し出す。そんな石垣は、立木を切り倒し、枝を落として立てただけの電柱とよくマッチする。

  『忘れられた日本ー沖縄文化論』を読んだのは、たしか東京の大学に「留学」してまもない1964年の初夏だ。この時期、「祖国日本」は東京オリンピックを間近に控えて国中が沸き立っていたが、そんな国民から「国外」「辺境」として忘れ去られつつあるわが沖縄は、まもなく始まるベトナム戦争の前の「平穏」をしばし満喫していた。そんな状況にいらだち始める学生に、一筋の光明をもたらしたのがこの書だというわけである。

 「外部に位置する切実なポイントから、逆に日本文化を浮かび上がらせて行くのだ。・・・そういう意味で重要な塊は、やはり沖縄だ。したがって、私がここで展開したいのは沖縄論であると同時に、日本文化論である」。訪れた沖縄で、つとに評価されてきた歴史的建造物や「民芸」の類に彼はさしたる評価を与えない。行く先々で彼が感嘆の声を発したのは、そのような「もの」ではなく、いわば人々のむき出しの生きざまであり、その表現であった。写真集『岡本太郎の沖縄』は、そのあかしに他ならない。

 岡本が魂を揺さぶられるような感動を受けたのは久高島の御嶽である。生身の人々が生身のまま、眼に見えない<神>と向き合う聖域、石の香炉以外に人工物がない空間。そこでの体験を彼は「何もないことの眩惑」と名づける。「自然木と自然石、それが神と人間の交流の初源的な回路なのだ。この素朴な段階でこそ、神と人間は相互に最も異質でありながら、また緊密だった。人間は神を徹底的に畏れ、信じた」。むき出しの生きざまの極地、聖と俗の弁証法である。

 「あとがき」で岡本はつぎのように述べている。「わたしはこの報告によって、人間の純粋な生き方というものがどんなに神秘であるか、その手ごたえを伝えたかった」と。そしていう。「私がここでぶつかったのは、はからずも日本の神秘だった。」

 「芸術とはオールであると同時にナッシングだという、不思議である。」(『神秘日本』、1964年、中央公論社)とする芸術家・岡本太郎の結論とも言える命題は、沖縄体験を経て表明された。「岡本太郎の沖縄」とは、そういう沖縄でもある。
                                                    
                                                                                            (琉球新報 2001.3/4掲載)

松田米司陶芸展に寄せて

2012-06-22 08:58:22 | Weblog
<その1>

 手元にある松田米司の作品で、もっとも気に入っているのが二つある。
 
 ひとつはアンビンと呼ばれる土瓶型の水差しで、沖縄の窯場を代表する壺屋の伝統的な形である。赤土の素地に白化粧土で点文を丸く施し、籾殻と石灰をベースにしてつくった壺屋焼独自の透明釉をかけた作品だが、素地の鉄分が濃いめの柿色や黒釉となって発色している。この色合いは同じようにつくられても、ガス窯で焼成された作品に見られることはまずない。取っ手と注ぎ口の付け根に施された緑釉が作品に艶を添える。
 
 もうひとつのお気に入りは、線彫りの中皿。全体に白化粧が施されていて、ほのかに黄みを帯びた発色は、酸化炎焼成で生まれるという。線彫りで丸く縁をとり、さらに波文をつないで、その合間に櫛描きでアクセントを添える。櫛描きの上にほのかに施された緑釉が作品に気品と奥行きを与えている。出過ぎない色合いと飾りだが、かえって職人芸の何たるかをしっかり主張している。

 松田が何よりも、300年以上の伝統を持つ沖縄の焼物・壺屋焼の<技>を体得した<職人>である、ということを始めに強調しておきたいのである。とはいえ、彼は壺屋で修行を積んだ訳ではない。松田の直接の師匠は大嶺実清である。大嶺が高校の社会科の教師を辞して、首里石嶺町に登り窯を築き、石垣島の瓦葺き民家を移築して住宅兼ギャラリーを開設したのは1973年のことである。この年松田は大嶺窯に入門。1979年、大嶺が沖縄本島中部読谷村に有志を募って築いた「共同窯」に移った後も、ここで修行を継続する。師匠の大嶺はその後、沖縄県立芸術大学の陶芸科教授、そして同大学長を勤め、沖縄を代表する陶芸家として知られるに至る。

 「共同窯」が築かれた地・読谷村は松田の故地でもあった。この村は、地元の伝統的な織物「読谷山花織」の再興と「ヤチムン(焼物)の里」づくりを核とした工芸による村起こしで全国に知られている。すでに1973年、壺屋焼を代表し、後に人間国宝に認定される金城次郎もこの場所に登り窯を築いて、作陶を継続していた。読谷村における陶芸工房の数は、今や親元の那覇市壺屋をはるかにしのいでいる。1990年、松田は共同窯で研鑽を積んだ仲間3人と隣合わせの土地に登り窯「北窯」を築いて、現在に至っている。松田の陶歴はすでに30年を越える。

 大嶺実清が同志と築いた「共同窯」の設立理念は、壺屋の伝統的なモノづくりの<システム>と<技>を正統に受け継ぎながら、今の時代に受け入れられる器=作品づくりを目指すところにあった。松田を含む4人が築いた「北窯」は「共同窯」の理念をそのまま受け継いだ。それから14年、今や北窯は先輩の「共同窯」以上に壺屋的なモノづくりの共同=協働システムを維持しながら、暮らしに仕える器=作品を世に問い続けている。

 松田のモノづくりに対する信条は、「食卓が表彰台」という言葉に過不足無く示されている。自分のつくる器が、人々の日常の暮らしで好んで使われる姿に無上の喜びを感じる松田が、柳宗悦の民芸論と民芸運動に共感をおぼえ、彼の沖縄工芸論、沖縄文化論に心惹かれてきたのも当然と言えば当然だろう。昭和10年代半ばの壺屋を訪れた柳は、いかにも当たり前のように村を挙げ、家を挙げて陶芸にとりかかり、健康で美しい器群を生み出し続ける姿に感動した。松田たちは、壺屋の伝統から<技>や<システム>とともに、その<心>をも継承せんとしている。それを保証するのが、すでに本拠たる那覇市壺屋からは消え失せた薪窯・登り窯を核とした共同製作である。「北窯」は彼らの共同性あるいは連帯性のシンボルに他ならない。

 沖縄・壺屋の焼物の伝統を、踏まえるが、固執はしない。松田が尊敬してやまない人間国宝・金城次郎がそうだった。壺屋を出自としない金城だが、彼は壺屋の伝統に生きつつも、誰が見ても金城次郎作としか言えない作品を作り続けて、陶芸界の頂点を極めた。松田の工房にある金城の図録は、今やボロボロである。


<その2>

 「古典」と呼ばれるジャンルがある。『広辞苑』をひもとくと、語義の③に「いつの世にも読まれるべき、価値・評価の高い書物」とある。語義前半の「読まれるべき」を「学ばれるべき」と読み直せば、陶磁器の世界にも「古典」と呼ぶにふさわしい作品群があることはまちがいない。沖縄の場合も例外ではない。そのことをあらためて実感したのは、2002年に浦添市美術館で開催された「沖縄の古陶」展を観たときのことだ。

 今回の個展で松田米司が試みたテーマの一つは、「古典を現代によみがえらせる」。展示を観ての第一印象は、30年の陶歴がなければここまでできないのか、と思わせるような確かな技であり、確かな眼である。とはいえ、いわゆる「復元」ではない。形は、原作より拡大されるか、縮小されている。色使いはシンプルだ。言葉で言えば簡単に聞こえるが、できあがりを見ると新鮮な驚きがあり、発見がある。

 釉薬は黒釉や飴釉、あるいは緑釉の単色、透明釉による素地の発色を加えてもせいぜい2色。作品によっては、それらの色合いに、松田が得意としてきた白化粧の地色が効果を添える。文様も、あるにしてもきわめてシンプル。原作の何倍かに拡大された器を見ると、元の「用」のイメージからは離れるが、他への「転用」のレベルを越えた<作品>に転移していることがわかる。それが古典の古典たる所以か、とも思えてくる。「食卓が表彰台」を口癖にしてきた従来の松田からすれば、この傾向は急角度の方向転換に見えるが、その方向はまちがってはいないはずだ。

 それでは松田が目指してきた、あるいは根ざしてきた「壺屋の伝統」は放棄されたかというと、そうではない。一連の赤絵の作品が示すレベルは、この領域でも松田が一つの到達点を獲得したことを示している。ここでも赤や緑の釉薬の発色を際立たせているのは、ほんのり血の気が差すクリーム色とでもいうべき白化粧の地色である。そして、器らしい器が並ぶ。

 「雑器」と「作品」。二つにして一つなのか、あるいは二つ以外の何ものでもないのか。陶芸を志し、陶芸を営む者たちが行きつ戻りつする二つの領域、二つの課題に、松田米司は今回の個展で「古典」を介して、新たな、そして大胆な提案をすることになった。
       
                                                                                (「琉球新報」05.6.20)

島袋常秀陶芸展に寄せて

2012-06-22 08:54:40 | Weblog
 <用と美>、それは工芸に携わる人たちが繰り返し立ち戻る古くて新しい課題だと言ってよい。その意味で、先だって開かれた那覇市主催の「尚家継承美術工芸―琉球王家の美―」展は、王国の<威信と威光>をかけてつくられた工芸とは何かを知ることができる絶好の企画であった。わたしに見えたのは、<用>が<美>を求め、<美>が<用>に至る極致である。王権の政治カ・財政力を後ろ盾にして、素材、デザイン、製作者を厳選・精選してつくられた工芸の迫力とも言うべきものに、足をすくませ、立ち尽くした工芸関係者は少なくなかったはずだ。

 前おきが長くなったが、島袋常秀さんと無縁なことを言っているつもりはない。島袋さんは300余年の歴史を持つ陶芸の産地・壷屋の出身で、 「壷屋焼」の現在を担う陶芸家である。精細で端正な作品の作り手として知られた父・常恵氏の確かな継承者でもある。

 ―方で、島袋さんは沖縄県立芸術大学の教授として沖縄陶芸界を牽引するとともに、 「新しい陶芸」を目指す若者たちに指針を示す公的立場にもある。島袋さんが置かれている二重の立場は、歴史を踏まえつつ、なお時代を超えた<用と美>の普遍性の追求に島袋さんを向かわせているかに見える。そのような立場にあるのは、島袋常秀さんだけである。

 そこで、わたしが島袋さんに期待するところを(勝手に)述べてみたい。

 柳宗悦の民芸運動が壷屋とその焼物を称賛し、全国に紹介したことはご承知の通りだ。柳の民芸論を―言でまとめれば、<用>と<美>と<民>の三位―体説である。わたしの考えでは、 「民芸」の範疇で「壷屋焼」をはじめとする沖縄の陶芸、さらには沖縄の工芸―般を語るのは正しいが、とはいえ、それのみで語ると余りが出る。

 たとえば、 「尚家」展に展示された赤絵風炉が「壷屋焼」であるのは確かだが、その大胆で優美な絵付けは、圧倒的な存在感を示した染め・織り他の展示作品とともに、 「王国の雅」の水準がいかほどかを示している。それは「壷屋焼の雅」でもある。作り手は職人でも、民衆の日常生活のためにつくられた作品ではない。それはだからといって、 「民芸」の範疇に入る作品や現今の作品に比べて見て、勝りこそすれ劣ることはけっしてない。時代を超えてわたしたちをうならせる説得カがある。陶芸における「公」と「私」、それぞれの「威信」をかけて<沖縄の雅>の再興・発展のために島袋さんのご奮闘を願うのは、わたしひとりだけではないはずだ。今度の展示会に期待するのもそれである。

                                                                                             (2002.11 画廊沖縄) 

国吉清尚陶芸展に寄せてー3題

2012-06-22 08:35:52 | Weblog
<酒器>

 国吉清尚の人と作品に惚れ込んでいる人間として、独断と偏見を承知で言わせてもらえば、彼は沖縄の陶芸界の「無冠の帝王」である。と同時に、彼がまちがいなくいやがるに違いないレッテルをあえて貼らせてもらうならば、彼は誇り高くもシャイな、そして生粋の「琉球人」である。類まれな趣味人でもある。そんな彼のすべてが、今回の「酒器展」に集約されて現れている。

 書くべきことは以上に尽きる。だから、以下は蛇足である。まず「無冠の帝王」について。「無冠」の意味は次のとおりだ。すなわち、審査のある展覧会に出品しない、というよりそのようなものの持つ価値や意味を重視しないから、彼には受賞歴や「何々会会員」といった類の肩書きがないのである。帝王」について。これは作品を見て納得してもらうほかないし、作品がきらいな人はもちろん別の称号をつけてくれればいい。わたしなりの理由を記そう。

 陶芸界では一般に幾種類かの土を混ぜて陶土とするが、彼は混ぜると土味を殺すとしてもっぱら単味の土を使う。釉薬も、壺屋焼を代表とする伝統的なそれにこだわらない。沖縄の自然が生み出した素材が、そのまま彼の材料となる。その意味で彼は「伝統」を介さず、じかに沖縄の自然と向き合っている。窯もはやりのガス窯や電気窯には目もくれない。壺屋より時代を遡る窯場である湧田の古窯を復元したり、壺屋の荒焼窯を参考にするなどして独自の工夫を凝らした穴窯を造り、この窯で作品を焼成する。だとすれば、彼は伝統にこだわる作家でもあるのだ。

 つぎに造形について。この世界で自然な造形という表現が可能かどうか知らないが、釉薬のかかり具合、色具合も含めてそうとしか言えない作品をわたし自身がいくつか持っている。一方では、彼は伝統的な造形のスタイルに対してきわめて反逆的である。彫刻的あるいは現代的と言っておかしくないような。その種の作品は、今度の酒器展でもいくつか見ることができよう。

 まず、「伝統」をはさんでその右と左、両極に位置した作品を生み出すスタンスに敬意を表して、これに独断と偏見にもとづく作品の評価も加えて、彼に「帝王」の称号を冠する。ただし、彼がこの肩書きをいやがるのもたしかだ。

 国吉の作品は、作家本人を知らなくてももちろん楽しめる。とくに今回の展示では。しかし、それではもったいない。生粋の琉球人であることは一目みればわかるが、彼はそのことを恥らうかのような装いをこらす。シャイな人間であることがそれだけでばれてしまうが、そのいでたち・ファッションは、彼が孤高を維持していることの証でもある。その意味でも彼は「帝王」である。

 ただし彼は人間嫌いではない。そのようでいて、実はさびしがりやで、気配り人間である。彼が空手の有段者だということを聞けば、はじめ人は驚くだろうが、彼の古武士然とした雰囲気や所作になるほどとうなずいてしまうだろう。つまるところ、ここで言いたいのはつぎのことだ。彼の風貌は、彼の作品とうりふたつである、と。

 類まれな趣味人であることは、泡盛(それも古酒だけでなく、手製のハブ酒をこよなく愛する)とその器に対する偏執的な関心だけでもわからないでもないが、かつて骨董をなりわいとしていたことまで明かされてしまえば、その偏執ぶりにもこれまた納得がいくはずだ。以上に加えて、料理(調理)にお茶、音楽、琉球犬をあげるならば、彼の愛するところが一般にいう趣味の範囲をはるかに超えていることも、たやすく理解できよう。

 要するに彼は、作品の内と外で遊んでいて、しかも遊んでいるにすぎない。言い換えれば、遊びの王道を行っている。酒と器と料理を愛する陶芸ファンは言うに及ばず、そうでないあなたでも、この展示会を見ないと後悔することを、わたしが請け合う。
                                                                                        (「沖縄タイムス」1996.1/17)
<「華器・食器ー世紀末の卵シリーズ」>

 3年前に平和通りで開かれた酒器展を評して、彼を「無冠の帝王」と称した。今度は「挑み続ける異才」と称することにしよう。タイトルは「華器・食器ー世紀末の卵シリーズ」。

 土は、金武町伊芸から出た新しい土を使ったという。焼きは、従来からこだわってきた穴窯による。一部は、楽焼絵の具を大胆に使って、最近買った電気窯で焼成。食器には縁つき大皿、長板皿、まな板皿、角皿などがあるが、いずれも面を指で掻いた縞状にした、新しい趣向だ。

 そして、卵状の華器。生け花関係者なら、普通は「花器」と書く。国吉の「華器」は、そのような花器を意識的に拒絶しているように見える。「生(活)けられるなら、生(活)けてみろ」とでも言うかのように。閉じられた「卵」。半分割れた卵殻。そんな形状の器に、国吉はあえて、自ら生(活)ける。鉄線を。あるいは、砂を水に見立てて、サンゴ石灰岩や貝殻を「華」に見立てて。そんななかで、あえて生(活)けないことによって、器そのものを生(活)かそうとするのも、彼のやり口なのかもしれない。ロクロ上で、土を広げれば皿、すぼめれば壺、閉じれば卵。

 国吉はたしか55歳だ。20世紀を半分以上生きてきた。これだけ生きれば、来るべき世紀を前にして、誰だって封印したいものはたくさんある。国吉はそれを、彼の陶器に埋め込んだ。しかし、卵は孵る。沖縄の言葉では、「シリーン」という。「再生」のニュアンスが込められている。21世紀の到来は、新生なのか、再生なのか、蘇生なのか。誰にもわからない。

 しかし、生き続けるのだ。土を生(活)かすほか、生(活)きようがない。国吉が生(活)ける「華」は、自分自身なのかもしれない。 
           
                                                                                       (「琉球新報」1999.2.4)

<国吉清尚の世界>

1996年1月に平和通りの「大見屋ギャラリー」で開かれた国吉清尚の「酒器展」の展評で、私は彼に「無冠の帝王」なる「称号」を謹呈した。彼の実力は「中央」でも相当高く評価されているかに見えたが、彼が「中央」(もちろん沖縄でも)の公募展に出品したという話は終ぞ聞いたことがなかったからだ。そして、99年1月の那覇市「D’sギャラリー」で開かれた個展「世紀末の卵シリーズ」では、21世紀に向けての彼の「生と再生」の決意を展評で確認した。ところが、彼はその後4ヶ月も経たないうちに冥界へ旅立った。私には、未だに彼の死の真因がわからない。

 そもそも、国吉は沖縄の陶芸界でどのような位置を占めていたのか、占めているのか・・・。同年で、同時期に壺屋の小橋川永昌工房で修行した島武己と並んで、穴窯の可能性を、沖縄の地で沖縄の土を用いて切り開いた奇才だった、とする私の結論におそらく異論は出ないだろう。沖縄の伝統的な窯は、壺屋に現存するフェーヌ窯とアガリヌ窯に代表される。前者は味噌甕や酒甕など釉薬(うわぐすり)がかからない陶器を焼く窯(筒窯)。後者は、釉薬がかかった普段使いの食器や酒器を焼く窯(登り窯)で、構造がまったく違うが、いずれも陶工たちが共同で使う規模の大きい窯である。

 それに対して穴窯は、個人でも造れ、使える規模にすることも可能だが、日本の陶芸史を見ると、構造的に筒窯・登り窯に先行する古い形だ。近年、両様式の窯とは違う意味で「焼き」にこだわり、「土」にこだわる陶芸家の間で評価が高まっている。薪の炎や灰が諸に器にかかる構造を活かして、通常釉薬を施さず、焼き味、土味を引き出すことにこだわる。いわゆる焼き締めである。釉がかかるとしても、その釉は薪の灰が器に降りかかって溶けた「自然釉」。

 そんな穴窯で彼は、焼き締めはもちろん、ガジマル灰などでつくった釉薬を意識的・積極的に施して焼く方法を試み、また、これも先行者の一人だと思うが、海水に含まれる微量成分の釉薬効果をねらってサンゴを作品の側や中に置いて焼く手法も採り入れた。陶土も、通常使われる石の粒を除いた粘土の他に、あえて小粒まじりのごつごつした土を使って通常の陶磁器にはない質感や量感をねらい、つくりも定型を目指すというより、定型=常識から自由で奔放な「形」をねらった。食器や酒器はもちろん、オブジェも彼の作風の射程内にあった。

 私たちにはどの方法も、それなりに成功し、その時々で彼の作風は極まったかに見えたが、その時すでに彼は別の新しい方法や形の模索を始めていたのである。「無冠」を維持すること、あるいは孤高を保ち続けることは、「冠」を頂けばそこに安住することもできるスタンスにくらべてはるかに難しかったのかも知れない.

                                                                                (「琉球新報」2004.9.29 一部改稿)

祈りの手=比嘉康雄写真展に思う

2012-06-22 08:31:31 | Weblog
 沖縄県立博物館・美術館で開催中の「比嘉康雄写真展ー母たちの神」を見た。

 氏が健在の頃は、沖縄市のご自宅にうかがったり、1年間の宮古島滞在中に島で会って長時間語り合ったり、展評を新聞に書かせてもらったりで、親しくつきあわせていただいたが、故人となってすでに10年が経過したことをこの展示会で知った。

 そのような関係もあって、彼の写真とは、いただいた図録類も含めて何度もお眼にかかってきたし、印象に残っている写真も少なくない。今回の写真展でも、かつて感銘を受けた写真の何点かと再会できたのは殊のほかの喜びではあったが、今のわたしの関心事からする新たな発見もあった。彼の写真のテーマを「祈りと暮らし」とすることにさしたる異存をいただくことはないかと思うが、ひときわ眼に止まったのが、一言でいえば「祈りの手」である。

 その理由は、目下陶仏の制作にとりかかっているからである。周知のように、釈迦仏、阿弥陀仏、薬師仏などの如来像は、肩から上部を見ただけでは区別がつかない。坐像・立像の違いはあっても、両手で「印」を結ぶところは共通する。その印の結び方の違いで区分けができるのである。釈迦如来像でいえば、右手を胸の前に上げた形が「施無畏印」で聴衆の緊張を和らげる手つき、左手を聴衆側に向けて下に伸ばしたポーズが「与願印」で、願い事を何でも聞き、望むものを何でも与えることを意味するとされる。とはいえ、如来とはあくまで「祈られる」対象であり、その印は総じて「慈悲」や「禅定」、「説法」、「降魔」など仏の立場からする手つきである。

 それでは、仏像における「祈りの手」はどこにあるのか。興福寺の阿修羅像も正面に向く姿は合掌の形だが、通常見かけるのは観音像におけるそれである。観音は「菩薩」のひとつ。菩薩とは大乗仏教の場合「自己一人の悟りを求めて修行するのではなく、悟りの真理を携えて現実の中におり立ち、世のため人のために実践(慈悲利他行)し、すすんでは悟りの真理によって現実世界の浄土化(浄仏国土)に努める者のことをいう」(『岩波仏教辞典』)。仏と人の「媒介者」である。だとすれば菩薩の合掌は、「衆生救済」の発意と決意を「如来」と衆生の双方に差し向ける意思の表れと解することができよう。
 要するに、如来や菩薩の手は顔つきや表情と並んで、両者が体現する「智慧(真理)と慈悲(愛)」を具体的かつ象徴的に示していると言って過言ではないのである。

 一般に、わが沖縄の島々の民俗社会においては、現世=当世をリードするのが島の役職付きの男たちだとすれば、この世=わが世を神々の世界につなぐ役目は、しかるべきイニシエーション=就任儀礼を経た女(母)=「神人」(カミンチュ)たちが果たしてきた。その典型を、久高島や宮古島の狩俣で見ることができる(た)。島々の神人たちは、唐突といえなくもない比較をすれば、島々の民俗世界における「菩薩」に相当するとみなすことができよう。そのことを踏まえたうえで、比嘉康雄が撮った「祈りの手」はどうなのか。広く見れば神々を期待を秘めて「迎える手」や、謝意を込めた「送る手」も範疇に加わるだろうが、この二つを除くとしても3種ある。

 ひとつは合掌。「拝み手」と呼ぶことにしよう。もうひとつは、両手のたなごころを上に向けて上下する所作。とりあえず「捧げ手」と名付けておこう。そして三つめは、両手の甲を上に向けて上下する形。こちらは「伏し手」ということにする。
 いずれの場合も座して祈るほかに、立礼もある。男女の性差による祈り方の違いがあるようには見えない。また、拝む対象によって拝み方が違っているとも思えない。黙して祈る姿のほかに、祈りごとを唱えながら、あるいは「神歌」を歌いながら祈るシーンもある。

 3種の「祈りの手」を写した本人はすでに他界し、もちろん私たちは彼が写した祈りの現場に赴くことはできない。だとすると今は、「飛躍」のそしりも覚悟のうえで、「祈りの姿」「一般」からその特徴を推測するしかない。とりあえず仏教の場合でいうと、「祈りの形」は9種ある。そして、上記3種はその中に「形式上」包摂されそうだが、このような「分類」は私の「(比較)宗教学」的な関心の外に出るものではないことを、あらかじめおことわりしておこう。

 今は本文に当たる余裕もないが、玄奘三蔵の旅行記『大唐西域記』には、当時のインド人が人に敬意をあらわす作法として9種類があるという。列挙すると、「発言慰問」(言葉をかける)「俯首示敬」(頭を下げる)「挙手高揖」(両手を胸の前で組み、囲みをつくった形にする)「合掌平拱」(合掌)「屈膝」(膝をつく)「長跪」(ひざまずく)「手膝踞地」(手と膝を地につける)「五輪倶屈」(両膝・両手・頭をかがめる)「五体投地」(両膝・両手・頭を大地に投げ出す)の9種である。この作法は、人に対してだけでなくそのまま、あるいは複合した形で「仏」に向き合う姿に重ねてよいだろう。チベット仏教における「五体投地」は、すでにおなじみである。

 インドでは、右手は浄、左手は不浄を表し、両手を合することで先方に敬意を示す古くからの習慣が、今でも続いているらしい。仏教の側に引き寄せて言えば、合掌することによっておのれの「仏」性と「衆生」性がひとつに合わさり、それが「成仏」への希求を表すことになる。とはいえ、合掌は仏教独自ではなく、たとえばキリスト教においても祈りの形として歴史的に確認できる。

 島々における「拝み手」が仏教伝来かどうかは、今は問わないし、本人たちにとっても(多分)あずかり知らないことである。「捧げ手」は「挙手高揖」に該当するだろうし、「伏し手」は「手膝踞地」の簡略形で、いずれも神々に対する恭順の意思表示と解される。両手を上下するのは、祈りの反復を示すものだろう。ふたつとも、神々に差し向ける「祈りの手」としてはー詳しく調べたわけではないがー他県では見られない独自のものではないだろうか。比嘉が撮る島々にとって、神々は「慈悲と恵み」をもたらす「身近な」存在であることが、3種からする「祈りの手」の有りようからもうかがい知ることができるだろう。

 久高島で比嘉康雄が撮った、女=母たちが「神人」の資格を得るための通過=加入儀礼「イザイホウ」が途絶えて久しい。他の島々の各種儀礼も存続の危機に面していることは容易に察しがつく。民俗学者仲松弥秀の名著『神と村』が、「神は遠くへ!」を最終章としてから40年は優に越すだろう。祈りのない社会に「祈りの手」はない。しかし、祈りが満たされた社会が到来したとはとても思えない。にもかかわらず、「古い」神は「すでに」なく、「新しい」神は「いまだ」ない。

 マージナルな時代と社会に生きる私たちは「境界」上で「浮遊」し、「漂流」するしかない。祈りとその対象を失った人たちに未来はあるのか? 比嘉康雄が撮った世界は、そんなことを私たちに問いかける。

 仏像ブームだという。漂泊の時代に、巡礼し、拝観する彼・彼女たちが目的とするのは、「拝む」ことか、「観る」ことなのか? 当の仏たちはすでに応(答)えているのである。「仏はお前たちの心の中にある。宇宙の真理、命の真理はお前たちに体現されている。貪欲・怒り・無知が凝集する煩悩という名の雲に隠されて見えないだけだ。」、と。

 私は私に問いかける。「仏はどこへ?」  仏の側からすかさず問い直されるだろう。「お前はどこへ?」 向き合いながらつくる「陶仏」に合掌しつつ、今日も問い続けるだけである。

琉歌「恩納岳あがた」考-その詩と曲とドラマと

2012-06-22 08:27:02 | Weblog
 ことばの音感

   恩納岳あがた(あなた) 里(恋人)が生まれじま(シマ=集落) もり(杜)も お(押)しの(退)けて こがた(こなた)なさな(為さん)

一般に、女流歌人・恩納ナベの作として知られている琉歌である。表記は、音声のそれも含めて島袋盛敏・翁長俊郎著『標音評釈琉歌全集』(武蔵野書院)を参照する。琉歌が、8音と6音の組み合わせからなる8886形式、30音からなることは、ご承知のとおりである。

 この歌が、三線などにのせて歌われる場合の発音は、上記の漢字・ひらが
な交じり表記とは違ってくる。それをカタカナで表すと、次のようになる。
     ウンナ・ダキ ア・ガ・タ サトゥガ ンマリジマ ムイン ウシヌキ ティ  ク・ガ・タ ナ・サ・ナ

 二つをくらべてすぐに気づくことがある。「おんな・だけ」→「ウンナ・ダキ」。「お」が「ウ」に、「け」が「キ」に変っている。この現象は、琉歌が「琉球語」の「標準語」にして「共通語」であった「首里言葉」の発声法に従って、作られ、歌われてきたという歴史に基づいている。首里言葉の母音は、しかるべき歴史的経緯を経て、a、i、uの3音に凝縮されている。

 そのことを念頭においたうえで、「恩納岳」の歌をよくよく見ると、「ウン・ナ」のナに始まり、「ナサ・ナ」のナで終わるまで、太字・斜字体のア列音(ナ・ダ・ア・ガ・タ・サ・マ)が14音も連なっている。30音の約半数に当たるが、この数の多さは偶然とは思えない。歌をつくるにあたっての「技巧」と考えるべきなのである。この技巧は、「押韻」と名づけられている。句や文の中に、同音の母音を含む単語の響きが繰り返される場合、「母音韻」と呼ばれている。

 短歌や俳句、琉歌のような「短い詩」においては、まず、五七調の5音・7音や、八六調の8音・6音で、単語やその組み合わせをまとめつつ、区切り、連ねる「リズム効果」が構成上の特色となる。その意味での「言葉のつらね」とあわせて、「押韻」は、「音のつらね」として「短い詩」に相応の効果を足してきたと考えられる。百人一首中の、ア列音の和歌。た音・な音が、「頭韻」となっている。
 たきのおとは たえてひさしく なりぬれど なこそながれて なほきこえけれ (大納言公任)

 歌人にして作家の尾崎左永子は、「音自体のもつ音色が、聴き手あるいは読者に与える印象は、それぞれ異なった性質」をもっているとしたうえで、ア列音がもつ「音色」を「開放的、明るさ、母性的、上昇的」と解している(「表現の技術」、日本エッセイストクラブ編『エッセイの書き方』岩波書店)。根拠は示されていないが、長年歌を詠み、かつ読み、文章をつむいできた作家の累積された直感からする発想であろう。「温度や触感にたとえ」ると、五つの列音中とくにア列音は「最も南国的」とまで言い切っている。温暖な「南国」では、躊躇なく口を大きく開け、発声することができる、というイメージに基づくのだろうか。口をすぼめるオ列音は「アよりも暗」く、「男性的」で「寒帯的」と言っている。

 彼女にとって、そこまで意識した上での作歌であり、文章表現だということである。ならば、「恩納岳」の歌においては、こう言えることになる。ア列音からなる言葉で繰り返される「ことばの音感」が、聴き手や読者の聴覚・視覚・触覚、…感覚を挑発し、彼ら・彼女らの体感を刺激しつづけながら、「開放的、明るさ、…」とか「南国的」という語感を誘発・増幅するつくりになっている。「語感」と「体感」が、相互に刺激しあい、誘発しあいながら、増幅して韻律(リズム)をつくりあげていく、…。

 ことばと心の二重奏

 詩歌において、「意味ある言葉」の連鎖とは別仕立ての、「音」における韻とかリズムが持つ意義について、詩人・鮎川信夫が語るところは、ここに引用するだけの価値が十分ある。

  言葉の音というものが、ふかく感情に根ざしたものであり、それが、人間の理性よりも情緒に訴えてくるものだということです。おそらく、それは、無意識のうちにも調和とか均衡を求めている私たちの心の本性と深く合致するものなのでしょう。(『現代詩作法』思潮社)

 和歌や俳句、琉歌の価値は、理性によって発現した言葉の流れが、「調和律」とか「均衡律」とでも名づけたいような沈黙のリズムを求める「心の本性」と、いかに「深く合致」しているかで決まる、ということになる。

 それはまた、仏文学者・言語哲学者の丸山圭三郎が、フランスの言語学・言語哲学者ソシュールの「アナグラム」研究に寄せて書く、次の文章とも通底している。

   ソシュールをまず驚かせ、ついで烈しい興味へとかりたてたのは、右にあげたすべての詩に適用されていながらどこにも明示的には述べられていない秘教的な詩の技法の発見であった。(『言葉と無意識』講談社現代新書)

 ここで、「日本経済新聞」2001年1月22日夕刊「耳を澄ましてーあの歌この句」が紹介している俳句を一例。句中の小石は、戦死した作者の兄の<暗喩>である。
 神棚にははの抱寝(だきね)の小石凍(い)つ  (小原啄葉)

文字面からは分かりにくいが、総数17音しかない中で、一句、二句のア列音6音が、陰で効いている。「か」「だ」「な」「は」「は」「だ」。尾崎の文脈でいえば、ア列音の音色が句意の「暗さ」を救い上げ、「はは」の「母性」を際立たせる作品に「上昇」させている。

要するに、意識化=表意化された言葉で綴られる「意味の流れ」からする「見える技法」と、「無意識」の底に流れる韻・律からなる「見えない技法」、それぞれが醸成するメロディーとリズムが、併行・重奏して和歌や俳句、琉歌のような短型詩=二重奏をつくり、併行・重奏の質あるいは水準が、作品の価値を決定する。

 そうすると、琉歌の二重奏を奏するのは誰か。それに答えるためには、若干の寄り道を必要とする。

 首里言葉においては、「ユムン」は「読む」の他に「語る」や「数える」を意味する。赤子が言葉を発し始める段階と水準を、「ムヌ(もの)ユムン」と表現する。乳首を求め、排泄による不快感を発信し、充足を求める音=泣き声から進んで、分節化=有意味化を意識し始める段階での「言葉の端緒」、発生・展開段階の言葉を発することをさす言い回しである。「数える」という意味合いにおいては、記紀神話における「月読命」を連想してもらえばいい。

「恩納ナベ」の時代、「歌を詠む」とはどういうことだったのか。
姉べた(姉さんたち)やよ(良)かてしのぐしち(して)遊で わすた(私たちの)世になればおと(止)めされて
恩納松下に禁止の碑の立ちゆす 恋忍ぶまでの禁止やないさめ(なかろう)
 
 同時代の先輩たちは、シヌグという祭りの場、あるいは「恩納松下」の広場で、語り合いながら、詠み、詠みながら拍を数え、数を整えながら、リズムをとり、からだを揺らしながら、謡い、そして、踊っていたのである。彼ら・彼女らにとって、歌が「遊び」であり、遊びは歌であった。歌は全身で「よまれて」いた。語感と体感からなるかの二重奏の奏者は、まるごとの<身体>であった、ということになる。「恩納岳」の歌は、そのような「遊び」が禁制となったさなかで詠まれた。

 問答体(対)によるドラマ

 詠み手にして二重奏の奏者はまず、「風景一般」から、あなたにある恩納岳を<選択>=トリミングして、指し示し、「ア・ガ・タ」と発声する。歌曲の始まりと同時に、歌の聞き手と読み手の視線は、あの・恩納岳に誘い出される。

 この時点では、なぜ恩納岳なのか、まだわからない。そこにあるのは、「ただの」客観的な事実=現象としての恩納岳に過ぎない。聞き手・読み手は、その「岳」に付与されるはずの「意味」あるいは「わけ」が、次に示されることを予期し、期待する。そして詠み手から、岳のふもとに「里が生まれジマ」があることが告げられる。聞き手・読み手は、作者と恩納岳の類縁関係、主観に基づく岳の提起に納得する。そして、視線が岳のかなた、ここからは視えないよそ・シマに下降させられることに、同意する。

 とはいえ、視線の降下はまだ「事実の移動」にとどまる。ついで詠み手に求められるのは、「意味の移動」である。「それがどうした」、と聞き返されることを作者は、事前に心得ている。小川学夫は、奄美、沖縄におけるわらべ歌に頻出する形として、「一方があくまで聞きてになって、答えを引き出す、そしてその答えによって話が展開していくという構造」を指摘している(「わらべ歌、子供の文学」『岩波講座日本文学史第15巻・琉球文学、沖縄の文学』)。そして、「踏韻、対句、歌詞反復、問答法」などの「大人の文学がもつ表現様式を」「子供の文学が」「すでに取り込んでいた」とも述べている。子供と大人は、「歌好き」「遊び好き」という地平で通じ合っている。
 
 かくして、聞き手・読み手は、期せずして「問答体(対)」という舞台の前に連れてこられたのであり、彼ら・彼女らを「観客」に転換したい作者の術中にはまったのである。当然ながら、次に訊かれるのは、童謡のスタイルに添っていえば、「生まれジマ」「何さ・どうしたの?」である。ここで、作者は、「観客」の質問と密かな期待にこたえて、(幻視の)舞台に上がり、演技者=主役に転じる。あなたとこなた、「里」と私、彼のシマと我がシマを隔てる境界=恩納岳の脇に立ち、横ざまに押し退けたうえで、里のいるシマをこちらに引き寄せよう、と結ぶ。

 このシーンで、「こちら側」に引き寄せられるのは、表向きは彼と彼のいるシマであるが同時に、観客を演じさせられることになった聞き手・読み手でもある。ここまで来た「恩納ナベ」は、すでに自演するにとどまらない。自作の脚本を、観客まで巻き込みながら、演出することになる。

 人・空間・時間の転換、そして結び

 起点は「こなた・私」、到達点は「あなた・里・シマ」、帰結点は「こなた・私」。視線は観客とともに、恩納岳=壮大な正四面体の稜線や底面の対角線上を、めまぐるしく移動し、移動させられる。場面の急速な転変は、乗せられ、引きずりまわされる聞き手・読み手=乗客にとって、不愉快どころか、逆に小気味よい。観光バスのガイド嬢が、左右の手のひらと一連の言葉を駆使して、客の視線と関心を自在にあやつるのにも似て、作者はその歌意と韻を巧みに連ねることによって、彼ら・彼女ら・我らの共感と拍手を呼び起こす。

 歌中の「もり(岳)」「も」「押し退けて」の「も」は、動かしがたい岳であって・も、その岳でさえ・も、の「も」であり、そこには不可能をものともしたくない作者=主役の強い願望が含意されている。とはいえ、そのことが、幻視の世界では可能でも、うつせみの世界では不可能であることは、観る者、聞く者、読む者が、そして誰よりも一人の歌姫が、始めから承知していた。<境界>は、自然のそれを借りた王府=国家が敷いたものであることも。婚姻圏を小さく区切り、労働力=貢納単位の移転・割譲を意味する域外婚を禁じた境界への異議を、直に訴えることは当然許されなかった。

 「姉たち」の世代に黙許されていた越境は、それでも<祭り>のシーンか、平日なら、祭りの時空の延長ともいえる夜と昼の境界、集落間の境界に止められていたと考える方が無難だ。ところが、「あなた・彼」と「こなた・私」の境界で遊ぶのは、今や歌の世界=幻視の舞台に限られる。幻視のシヌグ、幻視の松下を設営し、自ら登板した「恩納ナベ」に、共感・共鳴して登壇した同時代の観客は、「もうひとりの主役」となって幻の仮設舞台で、歌い、踊る。「ナ・サ・ナ」の発声を誘うかのように、クガタ、……、(サーッサ)、クガタ、……、と。舞台ではもはや、主=「演じる者」と客=「観る者」の区分けは消えている。

 しかし、「古代の夢」はいつまでも続かない。劇場の外に立ちはだかる恩納岳は、不可視の古代と文字=標識によって可視化された近世のはざまで、首里=国家・権力と「山原」=民衆の間に、堅固に築き直された障壁を示す高大な「メタファー(暗喩)」と見なすべきだ。

 幻視の世界から醒めかけた歌劇の主役は、舞台上の観客に呼応して、「ナ(為)サ・ナ」の終助詞「ナ」まで歌い切り、その余韻が続く頃には、舞台裏に消えている。席に戻った観客の拍手を浴びる芝居役者は、この頃には、元の作者=演出家に身をやつし、観客に向かって謝意を表している。終助詞「ナ」は、強意に続く詠嘆の響きとともに、ドラマの幕引きを告げている。終始流れていた二重奏もここで終わり、「恩納ナベ」と聞き手・読み手・幻の演じ手はともどもに、おのれのシマ=生産の現場、労働の日常に立ち戻る。

 詩人・評論家の吉本隆明は、「文学作品の良し悪しを決定する」、言い換えれば「ことばの表現に美的な価値を与える」「根本的な要素」として4つをあげる。

 まず「韻律」が根底にあり、それから場面をどう選んだかという「選択」、さらに、表現対象や時間が移る「転換」、そしてメタファー(暗喩)やシミリ(直喩)などの「喩」があります。(「室生犀星に見る徹底した自己暴露」『老いの流儀』NHK出版)

 吉本のひそみにならうと、結論はこうなる。この琉歌においては、作詞(詩)家、奏者にして歌人、劇作家、演出家、役者、総合案内=プロデューサー、の6役を、短時間に使い分け、演じ分ける「恩納ナベ」の手腕の、みごとさが、見ものである、と。作曲家にして指揮者は、<時代>である。

玉城寛子の短歌世界ー「<沖縄の私>を詠う短歌」を読む(1) 

2012-06-22 08:17:42 | Weblog
はじめに 

 ときどき通う歯科医院の女医から、小学校時代からの「同級生」玉城寛子の短歌が収録された同人誌『くれない18』(紅短歌会)を受け取った。ことづかった女医は玉城の妹に当たる。玉城は琉球大学で国文学を専攻、高校で国語の教師をしていたが、ある時期から「難病」を患い、車椅子の生活をしているらしい。今は、介護のために職を辞したというご主人や娘とその弟と暮らしながら、作歌にいそしんでいる様子。県内の歌壇ではすでに名の知られた歌人である。第1歌集『沖縄の孤独』(2002 紅短歌会)がある。(2011年9月、第2歌集『きりぎしの白百合』を上梓している。後記)。

 雑文を書き散らして40年近く経過している私のひそかな願いは、「詩歌のような散文を書きたい」ということだが、いまだに果たせないでいる。詩歌のような散文とは、まずは韻律的=リズミカルな文章のことである。したがって、私にとって詩歌を読む理由は第一にそのリズムを学ぶことである。

 歌集1冊にまるごと眼を通すのはきついが、歌誌冒頭に掲載されている彼女の短歌は60首。お礼代わりに読後感を記して渡そう、と思い立ったのがこの文章を書き始めるにいたった動機である。とはいえ、もの書きの世界の末端を汚してきたとはいうものの、短歌については素人に近い。しかしそこは同級生のよしみ、私の拙くもしばしば的を外すことまちがいないような「講評」を許してもらえるはずだという勝手な思い込みのもとに、文を紡いでいくことにしたい。

  「短歌」を「読む」ということ

 詩歌から「リズム」を学びたい、とは言ったものの、やはりそれだけで終わりたくはない。どうせなら文学作品一般の読み方につながるような書き方をしたい。日頃から思っていて、たまたまタイトルにひかれて買った吉本隆明の本に、おあつらえむきの一文を見つけた。「短歌を読む」方法の手助けとして、吉本の力をまずは借りることにする。彼は「文学作品というのは、物語性や主題性だけでは見てはいけない」という。そして、読み方に加えて批評する場合も含めて、「言語美学的な考え方からすると」とことわったうえで、次のように記している(「室生犀星に見る徹底した自己暴露」『老いの流儀』NHK出版)。

  まず「韻律」が根底にあり、それから場面をどう選んだかという「選択」、さらに表現対象や時間が移る「転換」、そしてメタファー(暗喩)やシミリ(直喩)などの「喩」があります。 

 「要するに」文学作品は物語性や主題性とあわせて韻律、選択、転換、喩の四つが「いかに巧みに表現されているか」で価値が決定されるというのである。  

 そして短歌。短歌を詠む側にいない人間が、短歌をどう読むか、どう読めるか。まずは作家の歌論に当たるほかない。ところが、どのジャンルでも言えることだろうが、短歌の場合でも歌論もしくは歌観は歌人の数だけある、というのが実情だと思う。だから、私がたまたま読んだ上田三四二の『短歌一生』(講談社学術文庫)も、歌人たちの間でどのような評価がなされているか、知ることはできないし、調べている余裕もない。ただ、そのなかで見つけた彼の詩歌論は、私にとって肝に銘じておくに値する。すなわち、「詩歌は存命のよろこびを歌うものだ」(「いのちの歌」)。そして、続ける。
 
 生きるよろこび、と言っても同じだが、「生きる」には「存命」の語のふかいかげりがない。生きながらえる、死ぬべき運命のものが、幸いにしていのちを全うしているー存命には、そういう生かされてあることの自覚と感謝の含意がある。

 上田は一般論を述べているわけではない。42歳で「死の予告」を読むような「匿(かく)された病名」におののき、さらに18年後、以前の大病と「くらべものにならない術苦ののちに」「一臓をうしなって、いのちをつなぎ得た」(「余命」)という実体験に裏打ちされた歌論なのである。かつて他人事にように読んだ上田の歌論を読み返したのは、玉城寛子の次の歌を眼にしてからである。

  七十歳まで命下さい主治医(いし)へすがる為すべきことの道半ばにて

「詩歌は存命のよろこびを歌うもの」 

 幸いにして私は、上田や玉城のような大病を患ったことはないが、この歌には身につまされるものがある。同い年だから彼女は現在65歳、上記の作歌の時点ではたぶん60代前半である。それでなお「七十歳まで」と歌う心境と体調は、まだ健康のつもりでいる私の想像力の範囲を超えている。しかしよくよく考えれば、やはり他人事ではない。私がつねづね惹かれている仏教思想でいえば、仏教が目指すのは「四苦」からの脱却=解脱である。苦の根源は「生老病死」への「執着(しゅうじゃく)」にあり、とするのである。数十億年単位で人間の命と救済を測り、図る仏教のスパンからすれば、一人の人間の「老」も「病」もすぐ間近にあるか、すでに到来している。もちろん「死」も例外ではない。「諸行無常」とはそういうことだし、ギリシャ哲学の表現を用いるなら「万物は流転する」。この哲理は、あくまで、どこまでも「普遍」である。

 だからこそ人は、否、私たちは「存命のよろこび」を互いに分かち合いたいのである。たとえば詩歌を介して・・・。

 上田の文章で知った吉田兼好の言葉。「されば人死を憎まば、生(しょう)を愛すべし。存命の喜び、日々に楽しまざらんや。」 引用の後で上田は「日々に楽しむとは、兼好にとって、寸刻のたゆみもなく生きることであり、そういう具体的なあらわれが・・・山科の隠棲という閑雅の発見だったのである」とつなぐ。反論するわけではないが、「閑雅」は何も隠棲しなければ得られないものではない、と思う。「日々に楽しむ」ことを「日々」こころがけていれば、いつでも「閑雅」は発見できるはずだ。上田はその「方法」として作詩・作歌をとらえている。

 私は、詩歌のありようは、この閑雅にあそぶことだとおもう。すぐれた歌を読み、みずからも一つの歌をつくるとき、人はこの閑雅にあそんでいるのである。すると時の流れが目に見えてくる。夏が去り、秋が来、雲が行き、木の葉が移り、子供の背丈が伸び、そうして、わが身のうちには否定しようもなく老いの沈澱してゆくのが感じられる。何と、いのちのかぎりということの、目の前にあることだろう。私は歌とは、この時間によせるなげきだと思う。留めるすべもない歳月によせる、未練だと思う。

 如上の文脈で言えば、短歌の主題とは「生老病死」をどう詠み込むか、ということになる。歌論としてはいかにも限定的に聞こえなくもないが、私(たち)のように「老境」に差しかかりつつある人間にとってはわかりやすい。

玉城短歌の「主題性」と「物語性」 

 玉城の歌に戻る。「七十歳まで命下さい」という普通なら括弧でくくられる字余りの会話体を初句に置き、転じて通常の短歌形式に移るのは「韻律」上のテクニックであろうが、今ではめずらしいものではない。「場面」で言えば「すがる」という言葉で表される訴えの相手がおのれの「命を預けた」「主治医」であるところに、二人のこの間の長い会話・対話が推し量られる。そのうえで、「為すべきことの道半ばにて」とする理由で結ぶところが、私たちの共感を呼ぶのである。「為すべきこと」とはまずは家族に対してであろうし、当然「道半ば」の作歌でもあろう。この歌が読者の共感や感動を呼び起こす要因としては、その「主題性」と「物語性」を先にあげるべきだろう。上句から下句に移る「場面」の「選択」と「転換」が美学的な価値を高めていると思われるが、全体に「喩」らしきものはない。あるとかえって、余計に感じられるかもしれない。
 
 いかに読者の共感を呼び、いかに読者のイメージを喚起できるか。文学作品の価値を決める基準として当然列記すべき事項であることを知らされる。本人には酷な言い方になるかもしれないが、上田が「歌とは、この時間によせるなげきであ」り、「留めるすべもない歳月によせる、未練だと思う」とする歌論を実証する、典型的な作品であるということもできよう。

 主題性と物語性で読ませる歌の類例は多い。概して痛みのさなか、あるいはその合間に率直に心境を吐露する歌や、家族に向けて愛情をそそぐ歌にこの形式が多い。読んでいると、このような「主題」には、こみいった「表現のテクニック」はさほど必要としないのではないか、とさえ思われる。玉城の場合、その「物語性」だけで十分に読む者の胸を打つとも言えよう。もちろん、一部に効果的な喩や細工が施され、「言語美学」を添える場合もある。

 くしゃくしゃに心が縮む春宵は明るき友へケイタイを打つ
 「くしゃくしゃに心が縮む」という直喩が新鮮である。春の「宵」に「明るき」友にメールを送る(交換する)ことで、すこしでも心をほぐそう、という歌である。

 作問を仕上げ教室へ走り向かふ退職十年あかときの夢
 誰でもおのれの身に照らして思い当たるような身近な短歌。

 他の作例。

 失明を告げられ怨嗟の声あげし息子は今車椅子(いす)のわれに沿う日々
 朝夕の厨の夫のうしろ姿(で)に車椅子にて心の濡るる
 憂ひなきごとくに澄める秋の空杖止めしばし仰ぎゐる朝
 生の果てにたちゐるごとき胸の痛み崩ゆるな崩ゆるなわれのたましひ
 体調が戻る春よとひと口のチョコを手渡す娘といる朝餉
 苦しいと言へば苦しさ増すのみに少しきついと介護の娘には
 この命甦らせるはペースメーカー主治医(いし)の言の葉耳にはりつく
 山ひとつまた迫り越ゆるべく気迫高めむ秋の陽に向く
 嬉嬉としてパテックス貼る夫の背に為しえることのひとつにあれば
 朝庭に小鳥と口笛交す夫少年にも似て吾(わ)の車椅子(いす)かろし
 苦しみの夕つ時をよぎりくる死の影たたく病巣何処

「歴史的現在」を詠うー玉城短歌の「公的」=「批評的」側面

 上記のような「主題性」と「物語性」を前面に出す作品には、「私」的シーンが多い。ところが、玉城の作品にはそれとは異なった一群がある。それをとりあえず「歴史的現在」=状況に立ち向かい、状況にむけた感懐を詠うジャンルとでもしておこう。

 作例は少なくない。戦争や基地、時勢を詠う歌のどれもそうだと言って過言ではないが、注目すべきはその「詠い方」である。その一例。

  ぬばたまの夜のしじまを流れおり「ぼうや大きくならないで」ああ

 「ぬばたまの」はことわるまでもなく「夜」に前置される枕詞。万葉語を引き出すことで夜の「静寂」の深さを喚起させ、その「しじま」が、流れてくるベトナム生まれの「反戦歌」のメロディーと歌詞の内容をいよいよ意味深いものにさせる。そして、「ああ」という慨嘆の感嘆詞につなぎ、終わる。

  「大きく」なったらまちがいなく戦争にとられることになる息子に向けて、「大きくならないで」と歌う母親の悲嘆は、娘と息子に恵まれた作者の共感であろうが、その共感こそ比較的数の多い彼女の「反戦・非=否戦」「反基地」を主題とする短歌に通底するものである。そして即座に付記しておきたいのだが、彼女の歌は決して「スローガン」ではない。彼女が志すのはどこまでも「文学」である。     

 日米の荒波に沖縄(シマ)はたゆたひてブーゲンビレアの棘あらはなる

  「日米の荒波」に沖縄のアイデンティティ=根を揺すられ、もぎ取られて浮遊し、漂流する、漂流せざるをえない状況をまず詠い込む。そして、場面を変えてシマジマのどこでも赤や紫、白の花を高く咲かせるブーゲンビレアの、その花々ではなく、鋭い棘を眼前に際立たせることで、読む者の痛覚を呼び覚ます。

 それだけにとどまらない。この「棘」は、時に沖縄(シマ)の噴き出す「怒り」に転化することもある。同じく「棘」を詠った次の事例。

 噴き出づる島人の怒り花キリン棘のひしめく米兵(ヘイ)の犯罪
 
 図らずも不幸な事件に引きずり込まれた少女の側に立ち、悲しみと怒りを米軍とその基地の存在、その存在を強要する側に抗議する万余の島人たちをテレビや新聞で見て、花と棘を併せ持つ「花キリン」にひそかに喩えるところに、この作者の力量の高さが示されていると見ることができるだろう。ひるがえって言えば、「日米の荒波」の歌におけるブーゲンブレアも花キリンと同じ位相にあるだろう。「たゆたひて」は大会に集まる人々の「ゆらぎ」、「棘」は怒りのこぶしを隠れた喩としている。

 この種の主題は得てして「説明的」になりがちで、その「説明」に惑わされる一面がないではない。とはいえ、短歌が「文学」であればあるほど、吉本のいう韻律、選択、転換、喩の四つが「いかに巧みに表現されているか」が問われてくると思われる。

 上のような「歴史的現在」を詠う歌は、言葉を変えて言えば玉城における「短歌の批評性」が表出されたジャンルとみなすこともできる。31文字という少ない字数で時代や時勢をいかほど「批評」できるのか。その意味における玉城短歌の「公的」側面を考えてみたい。「短歌の批評性」は、戦後日本の短歌界で久しく議論されてきたテーマらしい。岡部隆志は「果たして、短歌に『批評性』(状況に抗するような力とでも言っておく)があるのか」(「短歌の『批評性』について」『短歌における批評とは』岩波書店)と問うたうえで、「この悩みに、ひとつの答えを出した」作品として塚本邦雄の1首をあげる。「日本脱出したし 皇帝ペンギンも皇帝ペンギン飼育係りも」。
 
 1958年に刊行された歌集の冒頭に置かれた短歌らしいが、岡部は「この歌の衝撃は」と始めたうえでつぎのように語る。
 
  「日本脱出したし」などという意味性にあるのではなく、「皇帝ペンギン」という言葉の比喩力と、その比喩力に支えられた、この歌の歌としての叙情性が醸しだす、歌が抱え込まれているところの状況に対する「姿勢」とでも言うべきものである。もっと直接的に言えば、短歌の抒情が状況に抗する姿勢のまま表現として成立することを示した、と言ってよい。 

 こう述べたうえで岡部は、「塚本邦雄、春日井健、岡井隆、寺山修司と続く前衛歌人たちの短歌には、共通して叙情性に満ちた比喩力があった」とする。だとすれば、玉城短歌に見られる「叙情性に満ちた比喩力」からして、彼女が戦後登場した前衛歌人たちの系譜を正面から引き継ぐ位置にあることが理解される。

 彼女だけではない。このスタンスは、多かれ少なかれ沖縄で短歌を詠む人たち、少なくとも私たちに近い世代の歌人たちの大半に見られるように思われる。アメリカペンギン、日本ペンギンとその飼育係りたちが沖縄に跋扈している限りは、このスタンスを維持するほかない、ともいえよう。歌人でない私たちさえ、「日本脱出したし」と歌い上げたいのである。沖縄の戦後は終わっていない、それどころか昨今の情勢は「戦中」が続いている。私たちの世代の歌人たちは、「ライト」に(軽く)「ヴァース」(詩歌)を詠(詩)える心境にはないし、状況でもないだろう、ということだ。それが必然的なのか、幸か不幸かは別の話である。

「六根」の歌人 

 玉城寛子をまずは「五感の歌人」と呼んでみようか。視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚のすべてを鋭敏に働かせながら、歌う対象に向かうという意味である。仏教ではこれに「意」を加えて「六根」と呼ぶ。「意」とは「意識」を生ずる感官のことである。その意味では、「六根の歌人」と名づけたほうがより近いかも知れない。意識とはもともと仏教語の「六識」のことで、「認識し、思考する心の働き。感覚的知覚に対して、純粋に内面的な活動」(『広辞苑』)を意味する。五感を統括するのが意識ということだ。

 六根を動員した作品として、たとえば60首中の冒頭に記された1首。
    
 旧正の空わなわな震へおりステルス戦機の鋭き嘴

 民間企業では旧正月を休日にするところが少なくない。サトウキビの収穫で繁忙を極める農家とて同じである。作者の住む糸満は漁師の町であり、漁民は例外なく旧正月を祝うというから、道行く車の数も少ないであろう。ところが、農民や漁民にとって数少ない安らぎの祝日などおかまいなしに、轟音を立てて米軍の新鋭戦闘機が飛来する。先端が鳥の鋭い嘴に似ていることから彼女は、戦闘機を巨大な怪鳥に見立てて、それがけたたましく鳴き声をあげながら、空を震わせて飛んで来る様に見立てたのであろう。その「鋭い嘴」は、巨大なロケット弾さえ連想させる。

 もちろん、轟音に「わなわな震える空」は、体験者からすると沖縄戦最後の戦闘地糸満の、当時の上空を連想させるはずなのである。そのような人が彼女の身近にいる。
    
 地上戦の話を拒む隣人は五人兄弟の生き残りひとり  
  
 隣人への慮りばかりだけではない。本人からして、自宅の窓ガラスが音を立てて震えることで戦闘機の飛来を感じとったかも知れないし、病み付きの身体に不愉快な共振を無理強いされたかもしれないのである。

 いやおうなく糾合された視覚・聴覚・触覚を介して「戦争」を意識させる怪鳥は、沖縄を「守備」するどころか、イラクに向かって砲弾を落とすために駐留していると考える方が事実に近い。

 濡れ縁の椅子にて月光浴びをれば戦時のイラクの民思はる
 砲弾に怯ゆるイラクの民人(たみびと)に今宵の満月見えるだろうか
 逃れ逃れて難民に闇さまよへる二百万のいのち

 イラクの民人や難民の「今」の姿は、60余年前の沖縄の人々の「当時の」姿そのままと言ってよい。無辜の民に容赦なく砲弾を浴びせる米軍戦闘機が、他ならぬこの沖縄から飛び立ち、かつて沖縄戦を島人たちに強要したと同じ国が許容しているという耐え難き「歴史的現在」。

 そのイラクにも、沖縄と同じように満月は輝くのである。

 沖縄戦が「終わった」のは6月下旬、旧暦なら5月だろう。旧暦5月の満月の日は、平和な村では収穫の祭り「ウマチー」を祝い、祝意を神に表す日でもあった。そんな時節、沖縄の「難民」たちに「満月は見え」たのだろうか。見えたにしても、砲撃の合間に飲料や食料を調達するだけで精一杯だったのだはないか。あるいは雲に隠れる闇の洞穴のなかでひっそりと声も立てず起きていたのか、寝ていたのか。どの語がどうというのではない。イラクの戦争がそのまま沖縄戦に重なるという意味で、イラクを詠う歌全体が「隠喩」になっているのである。

 空に振動を与えるのは、「怪鳥」だけではない。可憐なうぐいすもまた、「法華経、法華経」と歌って朝空を金色に響かせる。「闇」を「光」に変える小鳥である。

 朝色を金色(きん)に響かすうぐいすの声に浄まる煩ひいくつ

 声しか聞こえないうぐいすも、今朝は太陽の放つ色を浴びて金色に輝いているのだろうか。小鳥のからだだけでなく、声まで金色を帯びているようだ、というのである。自分まで金色に輝くようで浄化された気持ちになる。こんな朝は、日課として数える本人や家族の抱える煩いもすべて浄まる、と作者は言いたいのだろう。視覚が聴覚を呼び、金色の声が心=意識を浄める。文字通り「六根清浄」の歌であり、玉城を「六根の歌人」と呼ぶことがさして的をはずれていないことの例証であると考えたい。仮に「煩ひ」を「煩悩」と深読みすれば、私には如来像本来の色が金色であることが想起される。

 次は視覚と嗅覚の歌。

 月光を吸ひて花房ほどきゆく月下美人の孤高の香り

 無愛想な茎に、思いも寄らぬ大きなつぼみをつけ、あれよという間に花開き、あれよという間にしぼむ月下美人。大輪の花の美しさに加えて、短い開花時間がいよいよ「孤高」に映る。「花房」「ほどきゆく」はいかにも女性らしい表現。花房の大きさが「吸いて」の量を測り、月光の「香り」の濃さまで連想させる。

 他に月夜を歌った2首。眠れない夜に歌うことも多々あるのだろう。

 六月の摩文仁の甘蔗の葉さやさやと鎮魂の音か月夜に奏づる

 聴覚が視覚を呼び起こし、意識を眼覚ませる歌である。「さやさや」というリズミカルな語は触覚も呼び覚ます。

 胸痛のゆるびに微笑む十六夜の月と語らふ窓開け放ち

 恵まれたはずの触覚が、作者にとってしばしば痛覚に変わる。こんな悲しいことはない。そのゆるみの合間に、月と語ろうというのである。どんな話題だろう。イラクや沖縄戦とは違った話題であろうと思うし、願いたい。「ゆるび」は「胸痛」と「十六夜」に、「微笑む」は作者と月に掛かる。「窓」は作者の隠喩となっている。

 次に触覚と嗅覚の歌。

 早朝の渚を素足で歩みだし車椅子(いす)をほどきて潮の香まとひ
 首すらももたげ得ず夫の腕のなか生の香放つレモンを嗅ぎぬ

 聴覚と視覚の歌。

 急速に改憲論議かまびすしシロガシラの群れ今朝は疎まし

 阿部内閣の時期に歌われたものか。「醜い日本」を美辞麗句で覆って「改憲」を図ろうとする国政の記事を読んだ朝は、日頃群れるタイワンシロガシラのさえずりさえもうるさく、疎ましく感じられるというのだろう。小鳥たちの飛び方の速さまで気にさわったかもしれない。「場面」の「転換」と「連続」がおもしろい。「うぐいす」の歌や「月下美人」の歌の、のどかな場面とは違うもうひとつの詠い方を見せている。

玉城短歌の「しらべ」と「みやび」

 韻律あるいは「調べ」の歌。

 行きどまりどの道ゆけどもゆきどまり夢にめざむる未明の悪寒

 「行く」「止まる」「戻る」「行く」のギリシャ神話的な強いられた反復は、私たちでもつらい。そんなテーマの重さとは裏腹の技巧的な歌である。まず、上句の「ゆ」音と「ど」音の連鎖、上句・下句の両方に現れるマ行音の連続が韻律・調べをつくり、それが一首の内容の「暗さ」を救っている。下句の初めに現れる「ゆーめ」の「ゆ」は上句のそれを受け、「め」が下句のマ行音の継続を誘い出す。一方、出始めの「行き」を、2度目は「ゆき」とひらがなで表記することによって「ゆーき」と読むことを求めている。釈迦に説法のそしりを恐れずに付け足せば、音声言葉が呼び起こす韻律効果に、文字言葉がもたらす視覚的な変移(変位)効果を重ね合わせるという意味では、始めの「行きどまり」は「行き止まり」と表記したほうがよかったかもしれない。

 隠喩と「調べ」の歌。

 生活保護絶たれ生命がまろびゆく枯葉カラカラ冬の街路に

 本人の「実相」を詠ったものではなく、その「心象風景」を詠んだものと解されるが、それはそれとして、深刻なテーマを、隠喩を駆使して軽やかに歌い上げている。「枯葉」は「生命がまろびゆく」の隠喩であろうし、カラカラという擬音は「枯れる」さまを連想させ、同時に「生命」がコロコロ「転がる」情景も暗示する。「冬」の「街路」を「まろびゆく」「枯葉」は、生活保護を絶たれて途方に暮れながら寒風が沁みる道を行くおのれの姿に重なる。上句末尾の「まろびゆく」の「く」から下句の「か」、「が」のカ行音4音につなぐ手法も当然意識されたものである。「ころびゆく」ではなく「まろびゆく」とすることで歌に「みやび」を添え、歌格を整えている。畳み掛ける隠喩の作りようも合わせてこの歌は、作者が今や県内歌壇で知られる位置にあることを象徴しているように思われる。

 「私的」な場面を詠う作品においては、その「主題性」と「物語性」で訴えるものがあれば、「言語美学」的な修辞は喩のひとつもあれば足りるのだろうか。そんな所感を先に付しておいた。しかし、上記二つの作品を読んでいると、どうやらそうではない。やはり吉本が指摘するように、選ばれている「韻律」「選択」「転換」「喩」がどの水準にあるかを見逃すわけにはいかないようだ。「私」という「主題」を「物語」的に詠いながら、表現の位相において「韻律」「選択」「転換」「喩」をたくみに使い分ける、使いこなす玉城短歌の「レトリック感覚」(佐藤信夫『レトリック感覚』講談社学術文庫)の現水準を、この2作は示しているはずだ。

  玉城寛子は、上田三四二が言うように「すぐれた歌を読み、みずからも一つの歌をつくり」ながら、「閑雅にあそんでいる」のだろうか。そうであることを推測させるような「行きどまり」の歌であり、「生活保護」の歌である。

那覇市立壺屋焼物博物館特別展に寄せて

2012-06-22 07:25:48 | Weblog
「壺屋の金城次郎ー日本民藝館蔵新里善福コレクション」

 日本民藝協会が1940(昭和15)年頃制作した映画「琉球の民芸」に、20代後半の金城次郎が登場する。生乾きの皿の器面に、線彫りで魚貝文を描く姿である。このとき金城は壺屋の新垣栄徳のもとで仕事をしていたが、すでに濱田庄司や河井寛次郎など、柳宗悦が始めた民芸論と民芸運動に共鳴し、同志となった陶芸界のトップが注目するほどの腕前を見せていた。

 民芸運動のリーダーたちが評価したのは、もちろん金城だけではない。それぞれの土地の自然や、暮らし方、あるいは信仰などに支えられた仕事ぶりこそが、健康的な美しさに満ちた品々を生み出す、とする柳の民芸論を見事に証する風景が壺屋にあった。そんな風土が金城次郎という偉才を生み、育てていることを、彼らは強調する。そういう意味で金城は、まさに「壺屋の金城次郎」なのである。

 戦後いち早く壺屋に工房を造って金城が独立したのは1956(昭和31)年、時に33歳。仕事に油がのり始める時期であった。才能と技量を全面的に開花させるその後の金城については、すでに宮城篤正が紹介したとおりである。

 柳たちが「民芸の宝庫=沖縄」を「発見」してから30年余が経過した1975(昭和50)年、日本民藝館(館長・濱田庄司)が那覇市首里に沖縄分館を開設した。沖縄が激戦地となり、多くの人と技術と作品を失ったことに心を痛めていた故柳宗悦の遺志でもあったのだろう。その分館に、自らが収集した壺屋の作品の大半を寄贈した人物がいる。濱田庄司と親交があった新里善福である。新里は1939(昭和8)年、日本大学高等師範部を卒業、戦前から戦後にかけて教員を勤めて後、国頭村長、立法院議員を経て、琉球政府建設運輸局長に就任、1963(昭和38)年から72(47)年に沖縄が「日本復帰」するまでの間は、琉球電信電話公社総裁の要職にあった。

 1972(昭和47)年5月15日の「沖縄返還」を契機に、「公社」が発展的に解消されるのを受けて総裁・新里が残した業績のひとつは、大著『沖縄の陶器』の刊行である。「発刊のことば」で新里は次のように述べている。「沖縄の焼物は、ほとんどが名ある名工でなく、土のなかに生まれ育った素朴な人たちによってつくられた。それだけに尊いのである。私は、こうした焼物が新生沖縄の若い世代の魂に触れ、そこに民族としての自覚、誇り、自信が触発されるものと考える。そして、この触発から生ずるエネルギーが新しいものの誕生につながることを信じ、期待する。」

 新里が、壺屋時代の金城次郎作品を中核とするコレクションを、沖縄分館に惜しげもなく寄贈したのも同じ理由からであった。ところが、諸般の事情で分館は閉鎖され、作品群は日本民藝館の収蔵庫に納まることになった。公社の秘書課職員として、彼の焼物収集あるいは沖縄分館への寄贈の経緯を間近で見た仲本栄章(現エヌ・ティ・ティ・ドゥ取締役)は、那覇市立壺屋焼物博物館の開館とこの間の活動を見て、新里善福コレクションを壺屋焼物博物館に移管、展示できるよう現日本民藝館館長柳宗理に懇請した。

 『沖縄の陶器』に祝辞を寄せたのは、時の沖縄タイムス社相談役で「沖縄民芸協会顧問」として沖縄の民芸運動を牽引した豊平良顕である。その長男で、昨年まで沖縄タイムス社社長の役職にあった良一(現同社取締役会長)も、新里善福コレクションの「里帰り」を柳館長に要請した。仲本・豊平両氏の熱情に柳館長は快く応じてくださり、館蔵新里善福コレクションの中から150点が壺屋焼物博物館に「長期寄託」されることとなったのである。

 来る1月18日から始まる特別展「壺屋の金城次郎ー日本民藝館蔵新里善福コレクションー」には、その中から壺屋時代の金城次郎作品122点が展示される。1918(大正8)年に濱田庄司・河井寛次郎が初めて壺屋を訪れてから、80年余が経過する。作品の観覧もさることながら、展示を通してその間に語り継がれてきた多くの人々の壺屋と壺屋の焼き物にまつわる〈物語〉にも思いを寄せていただければ、こんなありがたいことはない。(敬省略)

                                                                                          (沖縄タイムス 03.1/24)

「壺屋焼ー近代100年の歩み」

  昨年から今年にかけて、いわゆる「壺屋焼」と産地・壺屋をめぐる人、モノ、情報、あるいは技の交流史について、私たちは2つの成果を得ることになった。ひとつは、小田静夫著『壺屋焼が語る琉球外史』(同成社)の刊行であり、もうひとつは、那覇市立壺屋焼物博物館(「壺屋焼物博物館」)が開館10周年を記念して目下開催している「壺屋焼―近代百年の歩み」展である。
 
 私が壺屋焼物博物館の準備室長として開館準備に追われていたころ、八丈島に壺屋焼が散見されるという情報を東京都教育委員会にお勤めの小田氏から得た。氏は島まで同行してくださったうえ、氏の仲介で、さる酒造工場から壺屋焼の酒壷1点を寄贈してもらうことになった。それを開館に間に合わせて展示できたのだが、それから10年が過ぎたことになる。
 
 小田氏は、無人の小笠原島をはじめとする県外遺跡から出土した壺屋焼を丹念に尋ねて回り、7つの都府県の70に及ぶ遺跡の出土遺物から壺屋焼を探り出したばかりか、マリアナ諸島まで足を伸ばして移民・漁民の足跡と随従する壺屋焼の来歴を調査探訪すること30年余。この間の研究成果を「黒潮圏の壺屋焼」としてまとめたのが前記著作である。このたび、年間の優れた沖縄研究図書として沖縄タイムス社から「伊波普猷賞」に選定されたのは、喜ばしいかぎりである。
 
 「海を渡った壺屋焼」という意味でまたもや私事に及ぶが、壺屋焼物博物館長在任の頃、フランス・パリの国立人類博物館所蔵の壺屋焼を調査する機会に恵まれた。そこで、昭和10年代の製作が明らかな赤絵皿と赤絵酒器を見つけて驚いた。管見の及ぶ範囲で戦前戦後の作を通じて、壺屋焼にこれほど達者な筆致の赤絵を見たことがなかったからだ。ところが何と、今回の特別展に同じ時期、同じ作者の作品と見られる赤絵の皿と酒器が展示されているのである。

 「陶芸」の名がつくことはあっても、つくられたものは日常雑器が大半を占める。したがって、器に作者名や製作年代が記されることはほとんどない。そのため、注目されるべき「作品」があったとしてその製作年代を追うには、類似品との比較とあわせて、そのモノをめぐる人や、文献の探索、聞き取り調査などがどうしても欠かせない。モノを追い、人を訪ね、情報を捜し求めて、その結果得られたモノ、物故者も含めて出会った人、発掘した情報を総合し、一つのストーリーをつくりあげるには、多くの時間と労力とカネを必要とする。

 その成果を、研究者は論文や著作に、博物館では展示にまとめる。今回の特別展では新しく発掘された未知・未見のモノ、人、情報がふんだんに提示されていて、開館から10年を経た壺屋焼物博物館の調査研究の進展が十分うかがわれる。「第1期」の展示づくりに関わった者として感慨深い。新しい物語、新しい展示が資・史料に裏打ちされた問題提起であるかぎり、提起に躊躇(ちゅうちょ)してはならない。博物館の展示は常設展であれ、企画展であれ、常に問題提起的でなければならないと常々思っている。

 この特別展が、研究者やつくり手、愛好家にとって示唆に富む「刺激的」な企画となっていること、請け合いである。

                                                                                                                                            (「沖縄タイムス」09.1.22)                                                                                          

琉球における技術史・工芸史の画期

2012-06-22 07:21:33 | Weblog
尚真王代に技術史の画期

 久米村士族蔡文溥は、著書『四本堂家礼』(1376年)において「久米職分之事」なる一項を設けて次のように述べている。久米村士族が首里那覇の士族とは異なって幼少の時から王府から扶持米をもらい、「講談・読書」の師匠をおおせつかっているのは、学問によって奉公すべき職分であることに基づくのであり、したがって単に博学であるにとどまらず作文(漢文)や中国語の修得にも精を出すように、と。すなわち、久米村人がこの稿の主題である技術・工芸をになう職人たることは元来考えられないし、その旨の記録も未見である。よって、本稿では視野を広くとって、琉球の技術史・工芸史における三つの画期を示すとともに、中国との関わりを概観することにしたい。

 さて、1372年、中山王察度が明国皇帝太祖の招諭に応じて「表」(上奏文)と「方物」(特産物)を奉じたことに始まる琉球と中国間の公的関係は一般に「朝貢関係」と呼ばれるが、朝貢に対しては皇帝から国王と使者に何倍ものお返し(回賜)があるのがこの関係の特徴のひとつであった。1375年には李浩が皇帝の命を受けて、察度あてに文綺(美しい絹織物)20匹・陶器1000個・鉄釜10口を携行するとともに、馬を買う代価として文綺等の絹織物150匹、陶器65000個、鉄釜990口を持参した。馬と硫黄を購入して帰国した李浩は、琉球の国俗として中国製高級絹織物よりも磁器や鉄釜を好むと報告している。

 この報告は、当時の琉球では陶芸技術や鋳鉄・鍛冶・製鉄技術が未発達の段階にあり、しかもその製品が大量に必要とされていた時代でもあったことを示している。そのことは、県内のグスク時代遺跡から大量の中国製磁器片が出土していることや、牧港に入港した日本船が満載している鉄塊をすべて買い取り、農民に与えて農具を作らせたという察度にまつわる伝説からもうかがうことができる。言い換えるならば、琉球にとって中国は技術の分野でもモデルとするべき超大国であったということだ。

 現存する物的資料から技術史を構成することは、少なくとも古琉球時代については至難と言わねばならない。主な理由は資料・史料の決定的な不足であるが、それでも豊富な石灰岩を加工して築いた各地のグスクから石工技術が琉球において重宝されたことを知ることはできる。そのためには、相応の鉄製工具とそれを使いこなす技術が必要であったことは当然である。中国との関係でいえば、時代は降るものの、たとえば素材は輝緑岩、製造は中国福建省と見なされる円覚寺放生端の欄干に「大明弘治戊午歳(1498年)春正月吉日 長史梁能通事陳義督造」と明記されている。梁能と陳義が久米村人であることは家譜から明らかであるが、そのこととともに、優れた彫刻作品として評価される欄干羽目は技術と文様素材の両面で中国をモデルとしていたことを身近に知らせてくれる。龍や獅子・鳳凰・鶴亀などの中国的モチーフは、文様素材の範囲で受け入れられたばかりでなく聖なる動物としての観念も同時に導入されたと見なければ成らない。卑近な例で見ると、現今ブームを呼ぶシーサーで、起源を遡ることのできる最古のものは、この放生橋の親柱に彫刻された獅子像なのである。放生橋の直後に建造されたと考えられる第二尚氏の陵墓・玉陵(タマウドゥン)」の正面を飾るのは、素材は琉球産の細粒砂岩「ニービヌフニ」であるが、モチーフや技法は放生橋欄干羽目のそれを継承している。現存しないが「百浦添欄干之銘」(1509年)によると、首里城正殿を巡らす欄干も放生橋欄干と同様の様式であったことが推察される。

 いずれも尚真王の時代であるが、この時代はまた建造物一般についてみてもいくつかの代表的な作品を生んでいる。ひとつは先述の円覚寺創建、これは相応の木工技術抜きにはありえなかったし、さらにタマウドゥンや園比屋武御嶽石門・弁ゲ嶽石門などは石工技術の進展を思わせる。15世紀末から16世紀初頭にかけての時期を、技術史の画期として位置づけることは可能であろう。

王府の役職として定置

 工芸史の分野で尚真時代に高度の水準を獲得していたと見られるのは、漆器装飾の一技法である「沈金」である。これは漆面に文様を彫り込み、その線に漆を用いて金箔を施すもので、中国の「鎗金」に淵源する。荒川浩和・徳川義宣の研究によって尚真時代にさかのぼることが指摘され、近年安里進が文様史の立場から立証している。ただし、いつ誰がどのようにこの技法を中国から伝え、どのような組織体制によってつくられたか、確かめうる文献は見つかっていない。伝承や所蔵先からして、もっぱら国王からの献上もしくは下賜を目的として王府直営の工房によってつくられたことが推察されるのみである。

 16世紀後半には、王府部内に技術・工芸を統括する部署がつぎつぎ設置される。第一の目的は王府自身の需要を満たすことであったと考えられる。『琉球国由来記』によれば、設置年代は不明ながら1562年には石奉行・木奉行が存して石工・木匠および石普請・木普請を所掌し、尚永王代(1573 ~1588年)には「瓦奉行職」が存在していて瓦細工(職人)や焼物細工を統括している。『球陽』によれば、1589年には「螺赤頭奉行職」が設置されて「螺赤頭・簾匠・貫物匠・火矢人・畳打匠・皮匠・鼓張匠・加籠匠」を統括していた。『球陽』は「金奉行職」の設置を1592年と推測している。この職は本務は不明ながら「金具師・表具師・削物師・彫物工・縫物工・玉貫工・鞍打工・錫工」を兼務している。『琉球国由来記』は、1612年に毛泰運(保栄茂親雲上盛良)が「貝摺奉行職」に任じられたことを記すが、設置は16世紀後半にさかのぼると考えられる。所轄は「貝摺師・絵師・檜物師・磨物師・木地引勢頭・御櫛作・三線打・矢矯」である。

 以上の記録から、16世紀後半には木工・石工に始まり、瓦・焼物、漆器から各種細工にいたるまで、王府が一括して所掌し、それが1713年の『琉球国由来記』編集の時期まで継続していたことがわかる。同書にはそれぞれの奉行下に配置された人員まで記されていて、しかも有禄であったことがうかがわれるのである。16世紀後半は技術史の面からして尚真代につぐ画期に当たっていたことが理解されよう。

近世における技術・工芸史の特質

 つぎに、近世の技術史・工芸史を概観すると、いくつかの特質が見られるが、ここでは2点を指摘しておこう。
 一つは、王府内外にあった関連部署・施設の整備・統合が図られたことである。それは王府自体の需要を引きつづき満たすとともに一般への供給を積極的に図るものでもあった。同時に。民間・地方への技術移転を図る側面もあったと見なすことができる。整備・統合の最たるものが1682年の窯場統合であろう、これは従来美里間切知花・首里宝口・那覇湧田にあった窯場を牧志(現在の壺屋)に統合したもので、以後官民共用の窯場として栄えて今日に至っている。また、前記各奉行も統廃合が行われ、近世末期(1689年)には「普請奉行所」(王城普請・修補に伴う石工・木工、屋外扁額格護)、「瓦奉行所」(瓦・壺、各種陶器、瓦葺用漆喰他)、「鍛冶奉行所」(金銀細工、鍮鉛銅錫鉄等による各種細工)、「貝摺奉行所」(螺鈿・沈金・堆錦等の漆器加飾、木地引き。絵師もここに所属している)、「小細工奉行所」(国王用「唐御衣装」・王冠、各種縫物・畳・笠・照明具・鞍打・各種表具・加籠・硯類)となっている。民間・地方への技術移転の一例として、1667年、各間切に「鍛冶細工」(鉄匠)を配属して農具の修理に当たらせたことをあげることができる。

 近世琉球における技術史・工芸史のもう一つの特質としてあげられるのは、国外から積極的に技術の導入を図ったことである。その方法はいくつかある。まず、1600年代初めの薩摩人善済による染色や越前人宗味入道による養蚕・真綿製造のような在住日本人技術者による技術伝授がある。次に、薩摩に渡って彼の地の技法を導入する場合である。史料で見る限り、尚豊による鹿児島からの朝鮮陶工の招来とその一人「一六」の定着、あるいは儀間真常による木綿技術の導入を先駆けと見なすことができる。

 一方では、中国に渡り、彼の地の技法を修得して国内に伝えた者も少なくない。『球陽』1636年の記事に「曽氏国吉」が進貢使に随従して福建省に渡って3年間螺鈿(夜光貝などの薄片を文様に切り、漆面に装飾する技法)を学び、帰国後初めて「貝摺師」となったとあるが、荒川・徳川等の研究によって螺鈿技法も16世紀には高水準に達していたことが明らかになりつつある。螺鈿に関する何らかの新技法をもたらしたと見られている。国吉は福建から「浮織」の技法も導入したと同書に記されるが、具体的なことは明らかでない。陸得先(武富親雲上重隣)は白糖・氷糖および朱塗黒赤梨地に金箔銀箔を施す技法を福建で修得し、白糖の法を浦添郡民に、漆芸技法を貝摺勢頭に伝授したという。1663年のことである。琉球陶芸の麒麟児宿藍田(平田親雲上典通)が北京に赴き、五色「焼玉」の技法を学んだのは1670年のことだが、帰国後も釉薬の研究を続け、1682年には、復元された首里城の棟を飾る龍頭・獅子頭も作製している。家譜によれば、冊封使の来琉を期して北京城のそれを模するよう命じられたという。

 関忠勇(嘉手納親雲上憑武)は当初壺細工であったが、後に進貢・接貢の随員として渡中を重ねた。1683年には尚貞冊封に対する謝恩使毛国珍(池城親方安憲)に従って福建に渡り、翌年彼の地で「白糸挽拵」「縮緬織煮」の技法を修得したが、それは毛国珍の指示によるものであったという。

 この船には中国画法を学ぶことを目的とした琥自謙(石嶺親雲上伝莫)、査秉信(上原筑登之真知)が乗船していた。家譜によるといずれも王命を受けての渡航であり、両人ともに王調鼎・謝天遊・孫億について絵の指導を受け、1687年に帰国した。
 前記関忠勇は、1685年久米島に渡って「綿子白糸」の製法を伝えている。翌年鹿児島に渡り、そこで前記の中国技法を伝授するとともに杉原紙・百田紙の製法を学んで帰国、さらに1697年には中国で「煮貝」の法を学び、帰国後貝摺師に伝授した。
 前記毛国珍は1670年、羽地朝秀が摂政在任中に三司官に就任し、以後21年間その要職にあった人物だが、諸職の振興に力を入れたことは、島津進上の品作製に当たって宿藍田を督励したという宿姓家譜からもうかがうことができる。その背後には羽地朝秀の諸芸修得奨励があったと考えることができる。

 要するに、王府による諸職振興を企図した王府内諸部署整備から1世紀を経た17世紀後半は、諸芸の修得・流布を積極的に図った時期であった。ついでに述べるならば、1660年に全焼した首里城が1672年に復元されるが、その際初めて瓦葺きに改められたのを契機として、公的建造物の瓦葺きが急速に普及した。前記窯場の統合もこの動きに連動するものであろう。またこの時期各地の橋が石橋に改修されている。木工・石工の分野でも技術の革新が行われたことが推察されるのである。この時代を技術史・工芸史における第三の画期とする所以である。

                                                                   
                                                                    (小渡清孝・田名真之編『久米村ー歴史と人物ー』収録、1993.3 ひるぎ社)

沖縄の木と私

2012-06-22 07:17:06 | Weblog
 南城市佐敷字新里に三つの部屋からなる薪窯を築き、陶芸を初めてから二年余、先だって六回目の窯焚きを終えたところである。窯と工房のある場所は、中城湾と勝連半島、津堅島が遠望できるところで、敷地にはアカギの大木が数本立って樹陰をつくっている。

 この位置から、私が二歳から十八歳まで過ごした南城市佐敷字伊原が真向かいに見える。伊原は、沖縄戦で住宅は焼かれたものの、屋敷囲いの石垣や樹木はほぼ戦前のまま残されていた。道路幅も戦前のままで、集落の周辺は大半が水田であった。実家の屋敷を囲むのはまずウカファ、和名クロヨナの大木数本。この時期十月に薄紫の花を咲かせている豆科の樹木で、葉っぱは田圃の緑肥に使われていた。窯の敷地で、久しぶりにこの木とその花にお目にかかったときはうれしかった。

 実家で他に目立ったのはデイゴの大木一本。ウカファやデイゴの大木の間は、父が後で植栽したと見られる仏桑華が垣根をなしていた。申し訳程度の石積みで造られた門を入ると、これも戦前から植わっているシークヮーサーの古木が立っていた。和名ヒラミレモン。実が青い間はすっぱく、秋に熟して径が三センチほどになると、ほのかに甘味が加わった。近隣の漁村からたまに訪れる女性の魚売りから買い取られた魚が刺身になるときは、青い実の果汁が醤油に注がれた。

 屋敷囲いで目立ったのは、隣家のガジマルである。屋敷の周りに土を盛り上げ、周囲にサンゴ石灰岩を積んで造られた土手の上に植裁されたもので、私が小さい頃すでに大木の列をなしていた。猛烈に吹く台風の脅威から逃れるための造りだったが、子供たちからすると、相手の頭をさわると勝ちとなる「戦争ごっこ」のかっこうの「戦場」でもあった。四方八方に伸びる樹枝の上で「敵陣」の来襲を待つ間のひととき、先輩がつり下げたメジロ捕獲用の竹籠を発見することがあった。もちろん彼らの自作である。
 この木の樹脂を集めてガム代わりにしたこともある。集落でも一際目立つガジマルの大木の木陰は昼でも薄暗く、この木にはキジムナーが住んでいるとして、下を通るのがはばかられた。
 ガジマルの隣家は私の祖父の妹が嫁いだところで、私の従姉妹が嫁いだところでもあるという親戚関係だが、その隣の隣は父方の分家で、道路に面する側はサンゴ石灰岩の切石がきれいに積まれていた。その内側にフクギが並んで立っていた。その頃かなりの太さと高さになっていたから、当時で樹齢が百年をかなり越えていたかもしれない。

 フクギは「福木」の字を当てられることがあるが、ある言語学者は「矛木」の意だろうと語っていた。たしかに樹形は矛を立てた姿に似る。この木の樹皮からは黄色い樹液が採取され、古くから貴重な染料とされて今に至っている。王国時代の織物や紅型(ビンガタ)では、王族・上流士族の衣装を染めるものとして限定され、一般には禁色であった。


 実家の前面には水田が広がっていて、その向こうは佐敷から知念半島につながる尾根の傾斜面になっている。その斜面にひときわ目立つ亀甲墓があって、その傍らに立つリュウキュウマツも相当の年数が経過した大木に見えた。集落から見渡す限りではリュウキュウマツの数は少なかったが、隣の集落・屋比久の今でいう「公民館」一帯の高台には相当の数が植わっていて、景観に威厳を添えていた。リュウキュウマツは薪材として一番だが、今は入手し難い。

 1964年に進学のため上京、72年に帰郷したが、この間に景観は激変していた。水田は「キューバ危機」に伴う甘味資源の輸入減に起因する国のサトウキビ増産策に促されてキビ畑に転換され、風景から潤いが消えていた。集落内外の道路は、収穫されたキビの搬送が大型ダンプに変わったことに加えて、車社会の急速な到来を契機として拡幅された。拡幅に当たっては、道路に面した畑には手を付けず、屋敷の一角を割く方針がとられたため、屋敷囲いの石垣が崩され、樹木や生け垣が取り払われた。代わって築かれたのは、無味乾燥のコンクリートブロック塀である。

 ブロック塀に代わった理由は、他にもいくつか考えられる。まず、石垣や屋敷林の復元に資金と時間がかかること、住宅のコンクリート化が進んで対風性が高まったために屋敷周りを高木で囲う理由が失われたこと、板戸やガラス戸からアルミサッシに変わることによって住宅内が明るくなると、ブロック塀の方が採光がいいと考えられたこと、屋敷の一角が削られたうえ、車庫を新たにつくらなければならなくなり、狭くなった敷地を有効に利用するためにはブロック塀がいいと考えられたこと、などがそれである。それに加えて、七二年の「復帰」後に続いた「農地改良」政策によって農地から起伏が失われたため、集落は、一見「豊か」に見えるが実は索漠とした貧相な景観を呈することになってしまった。

 大木になり、樹枝を張り巡らすガジマルは、住宅敷地や集落内から姿を消し、学校の校庭で日陰をつくる役割を担うことになった。同じように大木になり、樹根も旺盛に伸びて面積をとるデイゴは、一時期那覇市街で街路樹に採用されたが、今では歩道を壊すとして迷惑がられている。県花として、古屋敷の一角や公園で勢いを保持したまま赤い花を咲かせて初夏の青空を染める他、琉球漆器の素地として重宝されることで、何とか面目を保っている。

 花を愛でる樹木としては、デイゴの他にカンヒザクラやイジュが一般に知られているが、紙数も尽きかけたので言及しない。最後に、陶芸と樹木との不思議な巡り合わせについて触れることにする。
 屋内が暗くなるとして、高くなりすぎたフクギの枝を剪定ないし間伐する家がときたま見られる。切り落とされたフクギの幹や枝は、わたしにとってのどから手が出るほど欲しい「陶芸材料」に変わる。陶磁器の表面にガラス質の皮膜をつけたり、色や模様を添える材料を釉薬(うわぐすり)と呼ぶが、実はこの釉薬の始源が、薪から立ち上り、器にかかる灰なのである。器に被った灰に含まれるカルシウムやアルミニウム、珪酸分、鉄分などが、ある温度に達すると化学変化を起こして素地にツヤを出し、色を添えるのである。これを「自然釉」と呼ぶ。

 「自然釉」現象を解析して、天然の鉱物から釉薬の原料として探し出されたものに、特定の樹木の灰を調合してつくるのが「灰釉」であるが、私は沖縄産の樹木のそれにこだわっている。フクギ灰ベースの釉薬は、薄くかかると冷涼な透明感があり、厚くかかると微量に含む鉄分の釉薬化現象で緑からコバルトブルーまで微妙に色合いを変えながら発色する。ガジマル灰も清澄な透明感を出すが、緑=青の発色ではフクギに及ばない。

 アカギは文字通り木の色が赤い。この赤は、あるいは鉄分の色かと近頃は考えている。というのも、アカギ灰ベースの釉薬では濃度や焼成温度の違いによって、白色や乳濁色と併せてコバルトブルーも多彩な発色を見せるからだ。白釉は珪酸分の多いモミ灰やワラ灰でつくるから、アカギには珪酸分も多いかもしれないが、今は単なる推測に過ぎない。

 灰釉づくりで実験中の木としては、他にチャーギ、ユウナ、ヒルギがある。チャーギは和名イヌマキ。沖縄では王国時代から最高の建材として愛用されてきた。首里城の復元にも、この木材が使われている。近年県内からは産出されず、県外から移入している。仏壇もこの木材でつくられたものが一級品と見なされていて、わたしは仏壇専門の木工所から端材をもらって薪に使っているが、一部を灰にして釉薬材料としている。沈んだ青磁色といった趣になる。

 釉薬として試してみたい樹木にデイゴやモクマオウなどがあるが、上記の木材も含めてそこそこの量を必要とするし、チャーギを除いていつでも入手できるというものでもない。しかも、釉薬の融け方や発色は、灰と鉱物材料の配合比によってかなり違ってくる。したがって、好みの発色や色合いを探し出すのに時間がかかるが、いろいろな発見があって興味が尽きない。ガス窯や灯油窯、電気窯では出せない薪窯ならではの発色もあり、そこが薪窯による陶芸の醍醐味でもある。

 生きた木に個性があるように、その成分にも個性があり、そして灰が釉薬に変わると、その個性が発色の「色合い」を変え、それぞれの「色合い」を器に添えて生まれ変わる。そこのところが不思議であり、またそれぞれの木からの恵みとしてありがたく受け取ってもいる。「沖縄の木」との付き合いは、60年を経てこれからも続く。(3559字)
 (『島たや』第4号 クイチャーパラダイス友の会 2007.12)