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「沖縄」を読む:目次ー渡名喜明 2012-07-12

2021-03-15 07:42:52 | 著作案
※本ブログでは、下記2著及びそれ以後に活字化された文章から、標題に沿う文章を掲載している。
※『文』:『沖縄の文化ー美術工芸の周辺からー』(1986.3 ひるぎ社)収載
 『ひと』:『ひと・もの・ことの沖縄文化論』(1992.2 沖縄タイムス社)収載
※近年、書いた文章を活字面に掲載することを控えている。文章を書くことは続けていて、それらは、次のブログに収載している。そこで、本ブログの内容に沿う文章は、標題だけこの目次に転記し、当該ブログにリンクできるようにした。 明王庵から 「私」の写真帳 「私」をデッサンする
※本ブログの続編を<「沖縄」を読むー2>として別途開設した。参照いただければ幸いである。
 
総論
・日本「本土」と沖縄の<差異>はどのように解釈されてきたか
 (『戦後20年・沖縄の社会変動と文化変容』 琉球大学 1995.3)
・序章 ひと・もの・ことの文化 (書下ろし 1992.2 『ひと』)
  はじめに
  ①<差異>の通念とその転倒ー柳宗悦の場合
  ②見える文化と見えない文化ー岡本太郎・谷川健一の場合
  ③見せる文化と見せない文化
  ④見る側と見られる側
  ⑤見せものー「みもの」と「みごと」
  ⑥身(み)・もの・こと
  おわりに
・差異と多様性の沖縄論 (『ひと』)
  (「富士通ファミリー会講演」 1991.1.30 『ひと』)
・差異の起源と教育の原点 (『ひと』)
  (『私学公論』第24巻第5号 1990.12)

第Ⅰ部 沖縄文化の系譜ー差異・受容・変容ー
・中国文化と沖縄ー美術工芸の分野からー (『文』)
  (原題「中国文化と沖縄」 『歴史公論』118号 雄山閣出版 1985.9)
・琉球における中国文化の受容をめぐってー美術工芸の分野からー (『ひと』)
  (『琉中歴史関係国際会議論文集』 1987.10)
・沖縄文化史の一断面ー近世琉球におけるいけばなの受容を巡ってー (『文』)
  付:御書院御物帳 御座飾帳 御書院(並)南風御殿御床飾
 (『琉球の歴史と文化ー山本弘文先生還暦記念論文集』 本邦書籍 1985.4) 
・近世琉球における仏教受容の一様相ー沖縄の経塚・経碑(『ひと』)
  (『球陽論叢』 同刊行委員会 1986.12)
・琉球における技術史・工芸史の画期と中国
 (『久米村ー歴史と人物ー』 小渡清孝・田名真之編 ひるぎ社 1993)
・産業史から見た近世の工芸(『近世の諸問題シリーズ第Ⅴー近世の産業・近世産業史の問題点』所収 浦添市教育委員会 1987.3)
・同上「関係史料」(同)
・窪徳忠先生と沖縄研究
 (『沖縄国際大学南島文化研究所報』第58号、2013.3)
・「沖縄病」と「台湾病」(『新沖縄文学』60号 1984.6)
・琉球列島における宗教関係資料に関する総合調査
(琉球大学『同報告書』 1994.3)
・近世琉球の服喪の制
  (『家族と死者祭祀』 孝本貢・八木透編 早稲田大学出版部 2006.2)
・士族門中とシジタダシー渡名喜門中の場合ー (『ひと』)
  (書き下ろし 1992.2)
・「私」の系譜
 
第Ⅱ部 表層の王権、基層の王権
・琉球王権論の一課題ー国王の久高、知念・玉城行幸の廃止を巡ってー
(窪徳忠先生沖縄調査二十年記念論文集『沖縄の宗教と民俗』 1988.3 第一書房)
・「琉球王権ー歴史と伝承のはざまで」(雑誌『別冊文藝ー歴史・王権・大嘗祭』1990.1110 河出書房新社)
・アジ・ノロ・王ー物語の構造と論理ー
  (谷川健一編『琉球弧の世界』 小学館  1992.6)
・国王=「てだこ」思想と即位儀礼についての覚書 (『ひと』)
  (『脈』33号 1988.2)
・イザイホー・お新下り・大嘗祭の間 (『ひと』)
  (「沖縄タイムス」1990.11.12.13)
・古琉球王権のメッセージー金石文からみたー
  (『新沖縄文学』「特集:琉球王権論の現在」 第85号 沖縄タイムス社 1990.9) 
・兄と妹の物語ー聖と俗のはざまでー

第Ⅲ部 沖縄文化論の系譜
・カオスとコスモスの美学(『ひと』)
  (『新沖縄文学』80号1989.6)
・美の三様と風景 (『ひと』)
  (『スペースモデュレイター』76号 1990.8) 
・<沖縄の美>に向ける眼差しー三つの視角から
 (那覇市立壺屋焼物博物館『日本のやきものー日本民藝館名品展』図録 2001.2)
<柳宗悦>
・柳宗悦論ー沖縄文化論を中心として (『文』)
  (『新沖縄文学』29号 沖縄タイムス社 1977.7)
・沖縄と近代ー柳民芸論から(『文』)
  (「沖縄タイムス」 1977.12)
・沖縄の近代化と民芸運動
(「沖縄タイムス」 2009.9)
・柳宗悦著『沖縄の伝統』(柳宗悦全集第15巻) (『文』)
  (「沖縄タイムス」 1981.11)
<岡本太郎>
・「なにもないこと」の発見(『彷書月刊』1990.2)
・引き算の沖縄文化論(「沖縄タイムス」 2002.8.11)
・「岡本太郎展」シンポジウム([沖縄タイムス」 2002.8.20)
・岡本太郎と沖縄と久高島
  (新沖縄フォーラム刊行会議編 季刊『返し風』37号 2002.12)
 
第Ⅳ部 工芸・技術の諸相
・柳民芸論における伝統と現代 (『文』)
  (『新沖縄文学』37号 沖縄タイムス社 1977.12)
・沖縄の藍覚書ー蓼藍・インド藍・琉球藍をめぐって (『文』)
  (『えとのす』第10号 新日本教育図書 1977.10)
・芭蕉布と荒焼 (『文』)
  (『やちむん』第4号 やちむん会 1973.12)
・民芸品 (『文』)
  (沖縄タイムス「唐獅子」 1973.7)
・越来文治さんと山原船 (『ひと』)
  (『コーラルウェイ』1988)
・桃原正男さんとガラス工芸 (『ひと』)
  (『コーラルウェイ』1988)
・又吉健次郎さんとジーファー (『ひと』)
  (『コーラルウェイ』1988)
・大城立裕・安次富長昭編『沖縄の工芸ー伝統と現代』 (『文』)
  (「沖縄タイムス」1984.10) 
<紅型>
・「筒描きの紅型」(『日本の染織14 筒描染』1977.3)
・紅型の話(原題「解説紅型」) (『文』)
  (『染織の美』第6号 京都書院 1980.8)
・紅型の技法ー城間栄喜さんからの聞き取りをもとに
  (『沖縄県立博物館紀要』)
・戦後紅型の歩み
  (『沖縄県立博物館紀要』)
・城間栄喜・人と作品 (『文』)
  (『沖縄紅型ー城間栄喜作品集』 京都書院 1978.11)
・城間栄喜の<技と仕事> (『ひと』)
  (「琉球新報」1989.6.2)
・城間栄喜・栄順親子展 (『文』)
  (「沖縄タイムス」 1984.9)
・久米島喜久村家所蔵の紅型幕について
 <織物>
・喜如嘉の芭蕉布 (『文』)
  (『喜如嘉の芭蕉布』(講談社 1977.10)
・大城志津子の世界 (『ひと』)
  (「沖縄タイムス」 1991.2.13)
・新垣幸子さんと八重山上布 (『ひと』)
  (『コーラルウェイ』1988)
・新垣幸子「八重山上布展ー琉球の光と風」に寄せて
  (「沖縄タイムス」09.5.12)
・書評『ミンサー全書』(09.12 南山舎刊)
・澤地久枝『琉球布紀行』(新潮社 2000.12)のスタンス
  (「北海道新聞」 20012.24)
 <陶芸>
・なぜ「陶芸」か
  (『(株)都市科学政策研究所25周年記念誌』2008.7)
・パリ国立人類博物館所蔵の沖縄陶器
  (琉球大学『フランスにおける琉球関係資料の発掘とその基礎的研究』 2000.3)
・琉球の茶と陶
(壺屋焼物博物館企画展「人間国宝の茶陶」図録解説、2000.7)  
・沖縄の木と私
  (『島たや』第4号 クイチャーパラダイス友の会 2007.12)
・ある出会い
  (『沖縄パシフィックプレス』No.126(2000年春季号)
・カーミの復権 (『文』)
  (沖縄タイムス「唐獅子」 1973.7)
・島常賀さんとシーサー 
  (『コーラルウェイ』1988.1)
・金城次郎さんと沖縄陶器 (『ひと』)
  (『コーラルウェイ』1988.9)
・下地正宏作陶展 (『文』)
  (「琉球新報」 1985.8)
<那覇市立壺屋焼物博物館特別展に寄せて>
・「壺屋の金城次郎ー日本民藝館所蔵新里善福コレクション」(沖縄タイムス 2003.1/24)
・「壺屋焼ー近代百年の歩み展」(「沖縄タイムス」2009.1.22) 
・島袋常秀陶芸展に寄せて
  (2002.11 画廊沖縄)
・具志堅全心作陶展に寄せて(「沖縄タイムス」2003.8.25) 
・松田米司陶芸展に寄せて
  (「琉球新報」05.6.20)
・島武己「陶の世界」展評
  (「琉球新報」2004) 
・彩度の白、明度の白ー黒田泰蔵の白磁
  (「琉球新報」06.7.29
・大嶺實清陶芸展に寄せて
・国吉清尚陶芸展に寄せて3題
 <酒器>(「沖縄タイムス」1996.1/17)
 <華器・食器ー世紀末の卵シリーズ>(「琉球新報」1999.2.4) 
 <「国吉清尚の世界>(「琉球新報」 2004.9)
・新垣栄茶陶展に寄せて
  (「琉球新報」 2005.12)
・小田静夫『壺屋焼が語る琉球外史』(08.4 同成社)
  (書き下ろし)

第Ⅴ部 文化の基層ー「暮らし」の視座
・「むら」の仕組みと労働慣行ー戦前の佐敷村の場合ー(1) (2)  (『ひと』)
 (『佐敷町史 二 民俗』 佐敷町 1984.3)
・祭の聖と俗ー伊是名島の綱引きをめぐってー
  (『島の文化と社会ー伊平屋村・伊是名村ー』 仲宗根勇編 ひるぎ社 1993.5 pp69~93)
・「町づくりの民俗ー<祭>から<まつり>へ」(『国立歴史民俗博物館研究報告第60集』 同館、1995.3)
・『与那原町史』編集・刊行の存廃をめぐって(「琉球新報」「沖縄タイムス」 2006.3.4)
・近頃の墓事情に思う(ブログ”「私」の写真帳” 2015.10.5)
  
第Ⅵ部 表現の諸相ー詠む・描く・撮る・舞う・書く・読む
<琉歌で遊ぶ>
・私の創作ー「琉歌」から「オモロ」へ、そして「長歌」へ  
 (書き下ろし 2012)
・琉歌「恩納岳あがた」の構造ーその詩と曲とドラマとー 
 (書き下ろし 2012)
<沖縄の私>を詠む短歌
・玉城寛子の短歌世界  
 (『くれない』103号 紅短歌会 2011)
・夫(つま)恋うる歌ー名嘉真恵美子第2歌集『琉歌異装』(短歌研究社)に寄せて
 (書き下ろし 2012)
<描く>
・「描く」ことの神話性
   (書き下ろし 2011)
・普天間敏の世界 (『ひと』)
 (「沖縄タイムス」1989.8.4)
・喜友名朝紀の世界 (『ひと』)
 (「琉球新報」1987.8.29)
・赤・アカマタ・表現ー新城剛個展に寄せて (『文』)
 (「沖縄タイムス」 1983.8)
・境界の発見ー新城剛第二回個展に寄せてー (『ひと』)
 (「琉球新報」1990.9.29)
・宮城保武のデザイン展
 (「沖縄タイムス」2001.11.7)
<撮る>
・なぜ「撮る」か
<比嘉康雄:「撮り手」として、「書き手」として>
・三位一体の世界を写す(「沖縄タイムス、1998.3.19)
・「記録者」と「書き手」の間:比嘉康雄『神々の古層』から『日本人の魂の源郷』まで
  (『EDGE』11号 APO 2000.7)
・「祈りの手-神仏に向き合う形」ー比嘉康雄写真展に思う
  (「沖縄タイムス」2011.1/5.6)
・写真集『岡本太郎の沖縄』(2000年7月、NHK出版)の前後
 (琉球新報 2001.3/4)
・『島クトゥバで語る戦世―100人の記憶―・ナナムイ・神歌』(琉球弧を記録する会)
 (書き下ろし)
・栗原達男写真展「戦争と人々、民族、人生讃歌」(「琉球新報」2,009.3.18))
 <舞う・演じる>
・伊良波尹吉の遠近法ーその庶民性と構想=構成力を巡って
 (新里堅進作・与那原町教育委員会発行『沖縄演劇の巨星・伊良波尹吉物語 奥山の牡丹』解説 2000.3)
<佐藤太圭子の芸>
・異界のメッセンジャー (『ひと』)
 (第7回佐藤太圭子の会 1988.11.12)
・観音の舞い
 (『琉球舞踊太圭流ー踊い歓ら(ウドゥイ・フクラ)・舞い歓ら(モーイ・フクラ)』2009.11)
・主役と脇役
(第15回佐藤太圭子の会」公演パンフレット 2012.12)
<新城知子の芸>
・聖なる主題 (『ひと』)
 (第4回 光扇会 新城知子の会 1086.7.5)
<高嶺久枝の芸>
・祈りの舞 (『ひと』)
 (第1回 琉舞華の会 高嶺久枝練場踊りの会 1987.6.26)
・不条理の美学 (『ひと』)
 (『第ニ回 高嶺久枝の会』 琉舞 華の会 高嶺久枝琉舞練場 1991.9)
・芸のおおらかさと繊細さと
  (『踊り愛がなとー琉舞かなの会発足記念誌』 琉舞かなの会高嶺久枝練場 1998.11)
・柳は緑、花は紅
  (『芸道40周年記念高嶺久枝の会ー琉球芸能の源流を探る』 同会 2009.12)
<平良昌代の芸>
・舞いの想 (『ひと』)
  (『第一回 琉舞 華の会 平良昌代の会』 琉舞 華の会 平良昌代練場 1991.7)
<佐渡國鼓童>
・私の「鼓童」体験 (『ひと』)
  (「琉球新報」1983.2.25)
・「鼓童」ショックの意味ー八重山公演に寄せて (『ひと』)
  (「八重山毎日新聞」1983.3.23)
・天台声明の世界ー琉球芸能との関わりを求めてー(1995.12 佐敷町シュガーホール)
・天台声明と琉球舞踊の共演ー東京版(2003.12 大正大学)
・あふれる香気ー琉球民謡歌手・大城美佐子さんのこと
<書く><読む>
・なぜ「読む」か
  (「沖縄タイムス」2007.4.22)
・文学に見るノロとその神ー神島-小論 (『ひと』)
  (『沖縄文化』32号 1970.11)
・雑誌『新沖縄文学』が問いかけるものー状況への対峙と基層を掘る作業
  (『新沖縄文学』特集号「『新沖縄文学』を総括する」第95号 1993.5)
・島尾敏雄著『離島の幸福・離島の不幸』(未来社 1960)
  (『新沖縄文学』特集号「沖縄・戦後の知的所産ー著作・論文にみるアイデンティの変遷」 第91号 1992.3)
・南風原町字与那覇誌『うさんしー』書評(「沖縄タイムス」 2004.7.24)
・花田俊典著『沖縄はゴジラかー<反>・オリエンタリズム/南島/ヤポネシアー』(2006.5 花書院)
  (書き下ろし)
・仲里効著『オキナワ、イメージの縁(エッジ)』(2007、未来社)評
  (書き下ろし)
・知念盛俊著『沖縄ー身近な生き物たち』(沖縄時事出版)
  (「沖縄タイムス」1998.10.16)
・松村宗棍「武術稽古の儀」(2015.8 書下ろし)
<沖縄芸能を「読む」>
・「組踊」を読む-「執心鐘入」と「手水の縁」の交差するところ  
・仮面の美学ー琉球舞踊「シュンドウ(醜童)を読む」 (1) (2)

第Ⅶ部 暮らしと文化の拠点づくり
・沖縄の博物館ー戦前・戦後の連続と断絶ー(1)(2)
  (『民衆と社会教育ー戦後沖縄社会教育史研究』 小林文人・平良研一編著 エイデル研究所 1988)
・博物館づくりの理念と主体性
   (「沖縄タイムス」1999.9・20/21)
・21世紀の博物館 (沖縄県文化振興会機関誌『島の風』6号 1999.2/1)
・[沖縄県立博物館・美術館」の開館に思うー「博物館・美術館」とは何か
  (「琉球新報」2008.1.10/1.12/1.14 )
・沖縄県立芸術大学を「アジア=沖縄ルネッサンスの拠点」に!
  (「琉球新報」2008.8/29.30) 
・地域博物館の試みー南風原文化センター開館の意義
  (「琉球新報」1989.12)
・新平和祈念資料館開館に寄せて
  (2000年4月29「琉球新報」掲載文に加筆) 
・法律にみる博物館ー壺屋焼物博物館の場合
  (2001.7/16 琉球新報)
・那覇市立壺屋焼物博物館の誕生ー焼物を展望する拠点に
  (「沖縄タイムス」1988.1/28・29の末尾を改稿)
・「博物館・美術館」ということー中黒「・」の意味ー
  (The Gallery Voice No33号 画廊沖縄 2008.1.12)

附録1:「世情」を読む(2005年1月~)
・期日前投票に宣誓は必要か
・「不時着」と「墜落」
・首相訪米の真意 (2005.9.27)
・元時事通信解説委員長発言 (2015.9.20)
・京大発平和声明 (2005.7.25)
・「国」を名乗るものの「テロ」 (2015.2.1)




玉城寛子の短歌世界ー「<沖縄の私>を詠う短歌」を読む(2012-06-22)

2021-02-09 02:45:26 | 著作案
はじめに 

 ときどき通う歯科医院の女医から、小学校時代からの同級生・玉城寛子の短歌が収録された同人誌『くれない18』(紅短歌会)を受け取った。ことづかった女医は玉城の妹に当たる。玉城は琉球大学で国文学を専攻、高校で国語の教師をしていたが、ある時期から「難病」を患い、車椅子の生活をしているらしい。今は、介護のために職を辞したというご主人や娘とその弟と暮らしながら、作歌にいそしんでいる様子。県内の歌壇ではすでに名の知られた歌人である。第1歌集『沖縄の孤独』(2002 紅短歌会)がある。(2011年9月、第2歌集『きりぎしの白百合』を上梓している。後記)。

 雑文を書き散らして40年近く経過している私のひそかな願いは、「詩歌のような散文を書きたい」ということだが、いまだに果たせないでいる。詩歌のような散文とは、まずは韻律的=リズミカルな文章のことである。したがって、私にとって詩歌を読む理由は第一にそのリズムを学ぶことである。

 歌集1冊にまるごと眼を通すのはきついが、歌誌冒頭に掲載されている彼女の短歌は60首。お礼代わりに読後感を記して渡そう、と思い立ったのがこの文章を書き始めるにいたった動機である。とはいえ、もの書きの世界の末端を汚してきたとはいうものの、短歌については素人に近い。しかしそこは同級生のよしみ、私の拙くもしばしば的を外すことまちがいないような「講評」を許してもらえるはずだという勝手な思い込みのもとに、文を紡いでいくことにしたい。

 「短歌」を「読む」ということ

 詩歌から「リズム」を学びたい、とは言ったものの、やはりそれだけで終わりたくはない。どうせなら文学作品一般の読み方につながるような書き方をしたい。日頃から思っていて、たまたまタイトルにひかれて買った吉本隆明の本に、おあつらえむきの一文を見つけた。「短歌を読む」方法の手助けとして、吉本の力をまずは借りることにする。彼は「文学作品というのは、物語性や主題性だけでは見てはいけない」という。そして、読み方に加えて批評する場合も含めて、「言語美学的な考え方からすると」とことわったうえで、次のように記している(「室生犀星に見る徹底した自己暴露」『老いの流儀』NHK出版)。

  まず「韻律」が根底にあり、それから場面をどう選んだかという「選択」、さらに表現対象や時間が移る「転換」、そしてメタファー(暗喩)やシミリ(直喩)などの「喩」があります。 

 「要するに」文学作品は物語性や主題性とあわせて韻律、選択、転換、喩の四つが「いかに巧みに表現されているか」で価値が決定されるというのである。  

 そして短歌。短歌を詠む側にいない人間が、短歌をどう読むか、どう読めるか。まずは作家の歌論に当たるほかない。ところが、どのジャンルでも言えることだろうが、短歌の場合でも歌論もしくは歌観は歌人の数だけある、というのが実情だと思う。だから、私がたまたま読んだ上田三四二の『短歌一生』(講談社学術文庫)も、歌人たちの間でどのような評価がなされているか、知ることはできないし、調べている余裕もない。ただ、そのなかで見つけた彼の詩歌論は、私にとって肝に銘じておくに値する。すなわち、「詩歌は存命のよろこびを歌うものだ」(「いのちの歌」)。そして、続ける。
 
 生きるよろこび、と言っても同じだが、「生きる」には「存命」の語のふかいかげりがない。生きながらえる、死ぬべき運命のものが、幸いにしていのちを全うしているー存命には、そういう生かされてあることの自覚と感謝の含意がある。

 上田は一般論を述べているわけではない。42歳で「死の予告」を読むような「匿(かく)された病名」におののき、さらに18年後、以前の大病と「くらべものにならない術苦ののちに」「一臓をうしなって、いのちをつなぎ得た」(「余命」)という実体験に裏打ちされた歌論なのである。かつて他人事にように読んだ上田の歌論を読み返したのは、玉城寛子の次の歌を眼にしてからである。

  七十歳まで命下さい主治医(いし)へすがる為すべきことの道半ばにて

「詩歌は存命のよろこびを歌うもの」 

 幸いにして私は、上田や玉城のような大病を患ったことはないが、この歌には身につまされるものがある。同い年だから彼女は現在65歳、上記の作歌の時点ではたぶん60代前半である。それでなお「七十歳まで」と歌う心境と体調は、まだ健康のつもりでいる私の想像力の範囲を超えている。しかしよくよく考えれば、やはり他人事ではない。私がつねづね惹かれている仏教思想でいえば、仏教が目指すのは「四苦」からの脱却=解脱である。苦の根源は「生老病死」への「執着(しゅうじゃく)」にあり、とするのである。数十億年単位で人間の命と救済を測り、図る仏教のスパンからすれば、一人の人間の「老」も「病」もすぐ間近にあるか、すでに到来している。もちろん「死」も例外ではない。「諸行無常」とはそういうことだし、ギリシャ哲学の表現を用いるなら「万物は流転する」。この哲理は、あくまで、どこまでも「普遍」である。

 だからこそ人は、否、私たちは「存命のよろこび」を互いに分かち合いたいのである。たとえば詩歌を介して・・・。

 上田の文章で知った吉田兼好の言葉。「されば人死を憎まば、生(しょう)を愛すべし。存命の喜び、日々に楽しまざらんや。」 引用の後で上田は「日々に楽しむとは、兼好にとって、寸刻のたゆみもなく生きることであり、そういう具体的なあらわれが・・・山科の隠棲という閑雅の発見だったのである」とつなぐ。反論するわけではないが、「閑雅」は何も隠棲しなければ得られないものではない、と思う。「日々に楽しむ」ことを「日々」こころがけていれば、いつでも「閑雅」は発見できるはずだ。上田はその「方法」として作詩・作歌をとらえている。

 私は、詩歌のありようは、この閑雅にあそぶことだとおもう。すぐれた歌を読み、みずからも一つの歌をつくるとき、人はこの閑雅にあそんでいるのである。すると時の流れが目に見えてくる。夏が去り、秋が来、雲が行き、木の葉が移り、子供の背丈が伸び、そうして、わが身のうちには否定しようもなく老いの沈澱してゆくのが感じられる。何と、いのちのかぎりということの、目の前にあることだろう。私は歌とは、この時間によせるなげきだと思う。留めるすべもない歳月によせる、未練だと思う。

 如上の文脈で言えば、短歌の主題とは「生老病死」をどう詠み込むか、ということになる。歌論としてはいかにも限定的に聞こえなくもないが、私(たち)のように「老境」に差しかかりつつある人間にとってはわかりやすい。

玉城短歌の「主題性」と「物語性」 

 玉城の歌に戻る。「七十歳まで命下さい」という普通なら括弧でくくられる字余りの会話体を初句に置き、転じて通常の短歌形式に移るのは「韻律」上のテクニックであろうが、今ではめずらしいものではない。「場面」で言えば「すがる」という言葉で表される訴えの相手がおのれの「命を預けた」「主治医」であるところに、二人のこの間の長い会話・対話が推し量られる。そのうえで、「為すべきことの道半ばにて」とする理由で結ぶところが、私たちの共感を呼ぶのである。「為すべきこと」とはまずは家族に対してであろうし、当然「道半ば」の作歌でもあろう。この歌が読者の共感や感動を呼び起こす要因としては、その「主題性」と「物語性」を先にあげるべきだろう。上句から下句に移る「場面」の「選択」と「転換」が美学的な価値を高めていると思われるが、全体に「喩」らしきものはない。あるとかえって、余計に感じられるかもしれない。
 
 いかに読者の共感を呼び、いかに読者のイメージを喚起できるか。文学作品の価値を決める基準として当然列記すべき事項であることを知らされる。本人には酷な言い方になるかもしれないが、上田が「歌とは、この時間によせるなげきであ」り、「留めるすべもない歳月によせる、未練だと思う」とする歌論を実証する、典型的な作品であるということもできよう。

 主題性と物語性で読ませる歌の類例は多い。概して痛みのさなか、あるいはその合間に率直に心境を吐露する歌や、家族に向けて愛情をそそぐ歌にこの形式が多い。読んでいると、このような「主題」には、こみいった「表現のテクニック」はさほど必要としないのではないか、とさえ思われる。玉城の場合、その「物語性」だけで十分に読む者の胸を打つとも言えよう。もちろん、一部に効果的な喩や細工が施され、「言語美学」を添える場合もある。

 くしゃくしゃに心が縮む春宵は明るき友へケイタイを打つ
 「くしゃくしゃに心が縮む」という直喩が新鮮である。春の「宵」に「明るき」友にメールを送る(交換する)ことで、すこしでも心をほぐそう、という歌である。

 作問を仕上げ教室へ走り向かふ退職十年あかときの夢
 誰でもおのれの身に照らして思い当たるような身近な短歌。

 他の作例。

 失明を告げられ怨嗟の声あげし息子は今車椅子(いす)のわれに沿う日々
 朝夕の厨の夫のうしろ姿(で)に車椅子にて心の濡るる
 憂ひなきごとくに澄める秋の空杖止めしばし仰ぎゐる朝
 生の果てにたちゐるごとき胸の痛み崩ゆるな崩ゆるなわれのたましひ
 体調が戻る春よとひと口のチョコを手渡す娘といる朝餉
 苦しいと言へば苦しさ増すのみに少しきついと介護の娘には
 この命甦らせるはペースメーカー主治医(いし)の言の葉耳にはりつく
 山ひとつまた迫り越ゆるべく気迫高めむ秋の陽に向く
 嬉嬉としてパテックス貼る夫の背に為しえることのひとつにあれば
 朝庭に小鳥と口笛交す夫少年にも似て吾(わ)の車椅子(いす)かろし
 苦しみの夕つ時をよぎりくる死の影たたく病巣何処

「歴史的現在」を詠うー玉城短歌の「公的」=「批評的」側面

 上記のような「主題性」と「物語性」を前面に出す作品には、「私」的シーンが多い。ところが、玉城の作品にはそれとは異なった一群がある。それをとりあえず「歴史的現在」=状況に立ち向かい、状況にむけた感懐を詠うジャンルとでもしておこう。

 作例は少なくない。戦争や基地、時勢を詠う歌のどれもそうだと言って過言ではないが、注目すべきはその「詠い方」である。その一例。

  ぬばたまの夜のしじまを流れおり「ぼうや大きくならないで」ああ

 「ぬばたまの」はことわるまでもなく「夜」に前置される枕詞。万葉語を引き出すことで夜の「静寂」の深さを喚起させ、その「しじま」が、流れてくるベトナム生まれの「反戦歌」のメロディーと歌詞の内容をいよいよ意味深いものにさせる。そして、「ああ」という慨嘆の感嘆詞につなぎ、終わる。

  「大きく」なったらまちがいなく戦争にとられることになる息子に向けて、「大きくならないで」と歌う母親の悲嘆は、娘と息子に恵まれた作者の共感であろうが、その共感こそ比較的数の多い彼女の「反戦・非=否戦」「反基地」を主題とする短歌に通底するものである。そして即座に付記しておきたいのだが、彼女の歌は決して「スローガン」ではない。彼女が志すのはどこまでも「文学」である。     

 日米の荒波に沖縄(シマ)はたゆたひてブーゲンビレアの棘あらはなる

  「日米の荒波」に沖縄のアイデンティティ=根を揺すられ、もぎ取られて浮遊し、漂流する、漂流せざるをえない状況をまず詠い込む。そして、場面を変えてシマジマのどこでも赤や紫、白の花を高く咲かせるブーゲンビレアの、その花々ではなく、鋭い棘を眼前に際立たせることで、読む者の痛覚を呼び覚ます。

 それだけにとどまらない。この「棘」は、時に沖縄(シマ)の噴き出す「怒り」に転化することもある。同じく「棘」を詠った次の事例。

 噴き出づる島人の怒り花キリン棘のひしめく米兵(ヘイ)の犯罪
 
 図らずも不幸な事件に引きずり込まれた少女の側に立ち、悲しみと怒りを米軍とその基地の存在、その存在を強要する側に抗議する万余の島人たちをテレビや新聞で見て、花と棘を併せ持つ「花キリン」にひそかに喩えるところに、この作者の力量の高さが示されていると見ることができるだろう。ひるがえって言えば、「日米の荒波」の歌におけるブーゲンブレアも花キリンと同じ位相にあるだろう。「たゆたひて」は大会に集まる人々の「ゆらぎ」、「棘」は怒りのこぶしを隠れた喩としている。

 この種の主題は得てして「説明的」になりがちで、その「説明」に惑わされる一面がないではない。とはいえ、短歌が「文学」であればあるほど、吉本のいう韻律、選択、転換、喩の四つが「いかに巧みに表現されているか」が問われてくると思われる。

 上のような「歴史的現在」を詠う歌は、言葉を変えて言えば玉城における「短歌の批評性」が表出されたジャンルとみなすこともできる。31文字という少ない字数で時代や時勢をいかほど「批評」できるのか。その意味における玉城短歌の「公的」側面を考えてみたい。「短歌の批評性」は、戦後日本の短歌界で久しく議論されてきたテーマらしい。岡部隆志は「果たして、短歌に『批評性』(状況に抗するような力とでも言っておく)があるのか」(「短歌の『批評性』について」『短歌における批評とは』岩波書店)と問うたうえで、「この悩みに、ひとつの答えを出した」作品として塚本邦雄の1首をあげる。「日本脱出したし 皇帝ペンギンも皇帝ペンギン飼育係りも」。
 
 1958年に刊行された歌集の冒頭に置かれた短歌らしいが、岡部は「この歌の衝撃は」と始めたうえでつぎのように語る。
 
  「日本脱出したし」などという意味性にあるのではなく、「皇帝ペンギン」という言葉の比喩力と、その比喩力に支えられた、この歌の歌としての叙情性が醸しだす、歌が抱え込まれているところの状況に対する「姿勢」とでも言うべきものである。もっと直接的に言えば、短歌の抒情が状況に抗する姿勢のまま表現として成立することを示した、と言ってよい。 

 こう述べたうえで岡部は、「塚本邦雄、春日井健、岡井隆、寺山修司と続く前衛歌人たちの短歌には、共通して叙情性に満ちた比喩力があった」とする。だとすれば、玉城短歌に見られる「叙情性に満ちた比喩力」からして、彼女が戦後登場した前衛歌人たちの系譜を正面から引き継ぐ位置にあることが理解される。

 彼女だけではない。このスタンスは、多かれ少なかれ沖縄で短歌を詠む人たち、少なくとも私たちに近い世代の歌人たちの大半に見られるように思われる。アメリカペンギン、日本ペンギンとその飼育係りたちが沖縄に跋扈している限りは、このスタンスを維持するほかない、ともいえよう。歌人でない私たちさえ、「日本脱出したし」と歌い上げたいのである。沖縄の戦後は終わっていない、それどころか昨今の情勢は「戦中」が続いている。私たちの世代の歌人たちは、「ライト」に(軽く)「ヴァース」(詩歌)を詠(詩)える心境にはないし、状況でもないだろう、ということだ。それが必然的なのか、幸か不幸かは別の話である。

「六根」の歌人 

 玉城寛子をまずは「五感の歌人」と呼んでみようか。視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚のすべてを鋭敏に働かせながら、歌う対象に向かうという意味である。仏教ではこれに「意」を加えて「六根」と呼ぶ。「意」とは「意識」を生ずる感官のことである。その意味では、「六根の歌人」と名づけたほうがより近いかも知れない。意識とはもともと仏教語の「六識」のことで、「認識し、思考する心の働き。感覚的知覚に対して、純粋に内面的な活動」(『広辞苑』)を意味する。五感を統括するのが意識ということだ。

 六根を動員した作品として、たとえば60首中の冒頭に記された1首。
    
 旧正の空わなわな震へおりステルス戦機の鋭き嘴

 民間企業では旧正月を休日にするところが少なくない。サトウキビの収穫で繁忙を極める農家とて同じである。作者の住む糸満は漁師の町であり、漁民は例外なく旧正月を祝うというから、道行く車の数も少ないであろう。ところが、農民や漁民にとって数少ない安らぎの祝日などおかまいなしに、轟音を立てて米軍の新鋭戦闘機が飛来する。先端が鳥の鋭い嘴に似ていることから彼女は、戦闘機を巨大な怪鳥に見立てて、それがけたたましく鳴き声をあげながら、空を震わせて飛んで来る様に見立てたのであろう。その「鋭い嘴」は、巨大なロケット弾さえ連想させる。

 もちろん、轟音に「わなわな震える空」は、体験者からすると沖縄戦最後の戦闘地糸満の、当時の上空を連想させるはずなのである。そのような人が彼女の身近にいる。
    
 地上戦の話を拒む隣人は五人兄弟の生き残りひとり  
  
 隣人への慮りばかりだけではない。本人からして、自宅の窓ガラスが音を立てて震えることで戦闘機の飛来を感じとったかも知れないし、病み付きの身体に不愉快な共振を無理強いされたかもしれないのである。

 いやおうなく糾合された視覚・聴覚・触覚を介して「戦争」を意識させる怪鳥は、沖縄を「守備」するどころか、イラクに向かって砲弾を落とすために駐留していると考える方が事実に近い。

 濡れ縁の椅子にて月光浴びをれば戦時のイラクの民思はる
 砲弾に怯ゆるイラクの民人(たみびと)に今宵の満月見えるだろうか
 逃れ逃れて難民に闇さまよへる二百万のいのち

 イラクの民人や難民の「今」の姿は、60余年前の沖縄の人々の「当時の」姿そのままと言ってよい。無辜の民に容赦なく砲弾を浴びせる米軍戦闘機が、他ならぬこの沖縄から飛び立ち、かつて沖縄戦を島人たちに強要したと同じ国が許容しているという耐え難き「歴史的現在」。

 そのイラクにも、沖縄と同じように満月は輝くのである。

 沖縄戦が「終わった」のは6月下旬、旧暦なら5月だろう。旧暦5月の満月の日は、平和な村では収穫の祭り「ウマチー」を祝い、祝意を神に表す日でもあった。そんな時節、沖縄の「難民」たちに「満月は見え」たのだろうか。見えたにしても、砲撃の合間に飲料や食料を調達するだけで精一杯だったのだはないか。あるいは雲に隠れる闇の洞穴のなかでひっそりと声も立てず起きていたのか、寝ていたのか。どの語がどうというのではない。イラクの戦争がそのまま沖縄戦に重なるという意味で、イラクを詠う歌全体が「隠喩」になっているのである。

 空に振動を与えるのは、「怪鳥」だけではない。可憐なうぐいすもまた、「法華経、法華経」と歌って朝空を金色に響かせる。「闇」を「光」に変える小鳥である。

 朝色を金色(きん)に響かすうぐいすの声に浄まる煩ひいくつ

 声しか聞こえないうぐいすも、今朝は太陽の放つ色を浴びて金色に輝いているのだろうか。小鳥のからだだけでなく、声まで金色を帯びているようだ、というのである。自分まで金色に輝くようで浄化された気持ちになる。こんな朝は、日課として数える本人や家族の抱える煩いもすべて浄まる、と作者は言いたいのだろう。視覚が聴覚を呼び、金色の声が心=意識を浄める。文字通り「六根清浄」の歌であり、玉城を「六根の歌人」と呼ぶことがさして的をはずれていないことの例証であると考えたい。仮に「煩ひ」を「煩悩」と深読みすれば、私には如来像本来の色が金色であることが想起される。

 次は視覚と嗅覚の歌。

 月光を吸ひて花房ほどきゆく月下美人の孤高の香り

 無愛想な茎に、思いも寄らぬ大きなつぼみをつけ、あれよという間に花開き、あれよという間にしぼむ月下美人。大輪の花の美しさに加えて、短い開花時間がいよいよ「孤高」に映る。「花房」「ほどきゆく」はいかにも女性らしい表現。花房の大きさが「吸いて」の量を測り、月光の「香り」の濃さまで連想させる。

 他に月夜を歌った2首。眠れない夜に歌うことも多々あるのだろう。

 六月の摩文仁の甘蔗の葉さやさやと鎮魂の音か月夜に奏づる

 聴覚が視覚を呼び起こし、意識を眼覚ませる歌である。「さやさや」というリズミカルな語は触覚も呼び覚ます。

 胸痛のゆるびに微笑む十六夜の月と語らふ窓開け放ち

 恵まれたはずの触覚が、作者にとってしばしば痛覚に変わる。こんな悲しいことはない。そのゆるみの合間に、月と語ろうというのである。どんな話題だろう。イラクや沖縄戦とは違った話題であろうと思うし、願いたい。「ゆるび」は「胸痛」と「十六夜」に、「微笑む」は作者と月に掛かる。「窓」は作者の隠喩となっている。

 次に触覚と嗅覚の歌。

 早朝の渚を素足で歩みだし車椅子(いす)をほどきて潮の香まとひ
 首すらももたげ得ず夫の腕のなか生の香放つレモンを嗅ぎぬ

 聴覚と視覚の歌。

 急速に改憲論議かまびすしシロガシラの群れ今朝は疎まし

 阿部内閣の時期に歌われたものか。「醜い日本」を美辞麗句で覆って「改憲」を図ろうとする国政の記事を読んだ朝は、日頃群れるタイワンシロガシラのさえずりさえもうるさく、疎ましく感じられるというのだろう。小鳥たちの飛び方の速さまで気にさわったかもしれない。「場面」の「転換」と「連続」がおもしろい。「うぐいす」の歌や「月下美人」の歌の、のどかな場面とは違うもうひとつの詠い方を見せている。

玉城短歌の「しらべ」と「みやび」

 韻律あるいは「調べ」の歌。

 行きどまりどの道ゆけどもゆきどまり夢にめざむる未明の悪寒

 「行く」「止まる」「戻る」「行く」のギリシャ神話的な強いられた反復は、私たちでもつらい。そんなテーマの重さとは裏腹の技巧的な歌である。まず、上句の「ゆ」音と「ど」音の連鎖、上句・下句の両方に現れるマ行音の連続が韻律・調べをつくり、それが一首の内容の「暗さ」を救っている。下句の初めに現れる「ゆーめ」の「ゆ」は上句のそれを受け、「め」が下句のマ行音の継続を誘い出す。一方、出始めの「行き」を、2度目は「ゆき」とひらがなで表記することによって「ゆーき」と読むことを求めている。釈迦に説法のそしりを恐れずに付け足せば、音声言葉が呼び起こす韻律効果に、文字言葉がもたらす視覚的な変移(変位)効果を重ね合わせるという意味では、始めの「行きどまり」は「行き止まり」と表記したほうがよかったかもしれない。

 隠喩と「調べ」の歌。

 生活保護絶たれ生命がまろびゆく枯葉カラカラ冬の街路に

 本人の「実相」を詠ったものではなく、その「心象風景」を詠んだものと解されるが、それはそれとして、深刻なテーマを、隠喩を駆使して軽やかに歌い上げている。「枯葉」は「生命がまろびゆく」の隠喩であろうし、カラカラという擬音は「枯れる」さまを連想させ、同時に「生命」がコロコロ「転がる」情景も暗示する。「冬」の「街路」を「まろびゆく」「枯葉」は、生活保護を絶たれて途方に暮れながら寒風が沁みる道を行くおのれの姿に重なる。上句末尾の「まろびゆく」の「く」から下句の「か」、「が」のカ行音4音につなぐ手法も当然意識されたものである。「ころびゆく」ではなく「まろびゆく」とすることで歌に「みやび」を添え、歌格を整えている。畳み掛ける隠喩の作りようも合わせてこの歌は、作者が今や県内歌壇で知られる位置にあることを象徴しているように思われる。

 「私的」な場面を詠う作品においては、その「主題性」と「物語性」で訴えるものがあれば、「言語美学」的な修辞は喩のひとつもあれば足りるのだろうか。そんな所感を先に付しておいた。しかし、上記二つの作品を読んでいると、どうやらそうではない。やはり吉本が指摘するように、選ばれている「韻律」「選択」「転換」「喩」がどの水準にあるかを見逃すわけにはいかないようだ。「私」という「主題」を「物語」的に詠いながら、表現の位相において「韻律」「選択」「転換」「喩」をたくみに使い分ける、使いこなす玉城短歌の「レトリック感覚」(佐藤信夫『レトリック感覚』講談社学術文庫)の現水準を、この2作は示しているはずだ。

 玉城寛子は、上田三四二が言うように「すぐれた歌を読み、みずからも一つの歌をつくり」ながら、「閑雅にあそんでいる」のだろうか。そうであることを推測させるような「行きどまり」の歌であり、「生活保護」の歌である。




兄と妹の物語ー聖と俗のはざまで

2020-12-19 03:51:01 | 著作案


 私には姉も妹もいない。どちらか一人でもいたら、私の人生や人生観も変わっていたかもしれない。それはそれとして、そもそも兄弟にとって姉妹とはどのような存在なのか。推測の域を出ないが、姉妹とはその兄弟にとって「もっとも近く、もっとも遠い関係である」と言っておこう。もっとも近いとは「親を共有している異性である」ということであり、もっとも遠いとは、「異性でありながら結婚してはならない」というタブーにしばられているということである。物語はここから始まる。とりあえず「兄と妹の物語」と題することにしよう。分析の素材としては神話・伝説と民間信仰。

<strong>昇華</strong>
 有名なところでイザナギ・イザナミの物語。現在の神話学では2人は兄・妹となっている。自ら造った国土に天降りした二人は次に、島づくりに移る。そのための「みと(陰部)のまぐはひ(交接)」をするにあたって初めて行ったのは、天の御柱を廻ること、そして愛の言葉をかけあうこと。ところが生まれた子は「ひるこ」、次に「淡島」でともに「子の例」に合わない。そこで「天つ神」に上申したところ、神が占って言うには、女から先に愛の言葉をかけるのがよくない。そこで2人は再度地上に戻り、柱廻りと言葉の掛け合いを実践し、8つの島を生んだ。この話は「神話」の位相からすると、国土創生と合わせて、「性差」の認識と性交、出産の起源神話と見なすことができる。

 本稿の文脈に戻して言えば、柱廻りと愛の言葉の掛け合いは、「兄妹」という近親間の相姦のタブーを超克し、「男女」の関係に移行するための儀礼=イニシエーションと解される。琉球の島々に伝わる伝説から類例を探そう。たとえば石垣島白保に伝わるところでは、日神がアマン神に命じて八重山諸島を造らせた。次に日神は人種子を下し、池の周りに立たせて互いに反対に巡るよう命じた。そうしたところ、出会った2人は初めて性の道を知り、3男2女の子宝に恵まれた(喜舎場永珣『新訂増補八重山歴史』)。波照間島に伝わる伝説では、あるとき突如として「油雨」が降り、島に住む人々はことごとく死滅したが、2人の兄妹は洞窟に隠れて生き延びた。成人して夫婦となるが、生まれた子はボーズという魚のような子なので、土地柄のせいかと住処を変えた。ところが今度はハブのような子供が生まれた。三度目の引っ越しの後に人間らしい子が生まれ、その後繁盛した(宮良高弘『波照間島民俗誌』)。ここでは住まいの地相が悪いとして住居を移動することが、近親関係から社会関係に移行する行為とみなされている。

 ここで「イニシエーション」の定義を『文化人類学辞典』(弘文堂)から引用しておこう。「広義では、ある社会的・宗教的位置から別の地位への変更を認めるための一連の行為を意味する。この際、儀礼を伴うのが一般的である」。子供から大人へ、近親から社会人へ移行するにあたって、互いの性差を確認したうえで、人間としての繁殖=再生産を図る非日常的な転換行為。上記の神話伝説における「一連の行為」がイニシエーションという名の「儀礼」に相当すると見なすことに異論はないだろう。

 『旧約聖書・創世記』におけるアダムとイブの物語も、以上の文脈の一環として読むことができる。まず、男アダムが神の手でつくられ、そのあばら骨から女イブがつくられる。すなわち2人は「骨肉を分けた」兄と妹である。2人は与えられた土地「エデンの園」になるどの木の実も食べてよいとされたが、唯一「善悪を知る木」の実は取って食べてはならないと禁じられた。その実を食べると死ぬからだというのである。ところがイブは狡猾な蛇の誘いに乗ってアダムとともにその実を食べた。そうすると二人は互いに裸であることに気づき、イチジクの葉をつづり合わせて腰にまいた。異変に気付いた神は2人をエデンの外に追い出し、男には労働の苦しみ、女には出産の苦しみ、そして2人に死すべき運命を与えた。いうまでもなく、創世記の場合、儀礼にあたるのは、神の命に背いておのれの意思で「善悪を知る木」の実を食べることであった。

 「創世記」がいう「善悪を知る」とは何か。「性差」を知ることであり、「生死」を知ること、労働=生産と「消費」「遊び」の違いを知ること、子供と大人の差異を知ること、総じていえば「神と人間の差異」を知ることである。これらの「差異」を知るためには相応の「試練」を潜り抜けなければならないことも、2人は知らされた。エデンの園の外に待っていたのは、数々のイニシエーションであった。これらのイニシエーションを経由することで、人々は人間として生きること、自然の一員であり、一員でしかないことの幸と不幸を知った。

<strong>対立</strong>
 アマテラスとスサノオ、この貞潔な姉と荒ぶる弟の場合はどうか。2人は父イザナギが黄泉の国から帰還し、禊ぎをするときに生まれた。父神は姉には天上を弟には地上を支配するように命じたが、弟はこれをいやがり、ために姉弟は対立するにいたった。2人は和睦を期する契約を行ったが、結局姉は弟の狼藉をきらって洞穴に隠れ、世は暗闇に変わった。姉は八百万の神たちの計らいで外に引き出され、弟は下界に追放される、という物語である。「契約」という名の儀礼によっても2人の和解は実現できず、2人は天と地に引き裂かれたままで物語は終わる。言い換えれば姉と弟の対立は終わることがなかった。

 沖縄では旧暦12月8日に、サンニン(月桃)の葉に包んだ餅を食する風習があるが、その由来は兄と妹の対立・対決の物語として伝わっている。言い伝えの詳細は他に任せるとして、<a href="https://www.city.okinawa.okinawa.jp/sp/about/1610/1617" target="_blank">この伝説</a>では、人食い鬼と化した兄に、固い異物交じりの餅を食わせた妹が、おのれの性器をひけらかし、鬼を食らう口だと脅して、兄をがけ下に落とすというあらすじになっている。兄と妹の「性」を介した食うか食われるかの物語である。

<strong>協和</strong>
 兄と妹、姉と弟の協和は、沖縄・奄美では「をなり(姉妹、ウナイ、丁寧語ではウミナイ)」が「ゑけり(兄弟、ウィキー)」を守護する霊力を持つという「をなり神信仰」として知られている。具体的には、兄弟が出航・航行あるいは出陣の場面で、時に姉妹の手織りの手ぬぐいや持ち物などに付随するセヂとして顕現した。
 ウニヌ(御船の) タカトゥムニ(帆柱の先に) シラトゥヤヌ(白鳥が) イチョン(止まっている)
 シラトゥヤヤアラン(白鳥ではない) ウミナイウシジ(姉妹の霊力の化身だ)
 兄弟姉妹であるが故の、兄弟姉妹であるがままの、儀礼抜きの協業・役割分担がそこにあった。

<strong>関係</strong>
 兄弟と姉妹は、「親縁かつ疎遠な両義的存在」であり、「聖と俗」両界の間を揺れ動く関係なのである。


期日前投票に宣誓は必要か

2020-03-25 07:19:06 | 著作案
 選挙の投票日は決まって日曜日。あいにく日曜日は仕事、または出張中。あるいは家族で出かけたい。そういう人たちは少なからずいるはずだ。そこで導入されたと思われるのが、「期日前投票制度」。

 与那原町では、19日(日)に町議選の投票が行われた。私はその日、終日仕事をしたいということで17日(金)の夕方、選管へ出向いて初めての「期日前投票」を試みる。そうしたら、投票案内状を提出するだけでなく「宣誓書」なるものを書け、と。これまでの経験では、投票日にこんなものを書いた記憶がない。もしかして、「期日前」に投票する人間を「うさんくさく」見ているのではないか? 投票日当日に投票できない「事由」から、署名、そして生年月日まで書いてまちがいないことを宣誓せよ、という。投票用紙をもらうためしぶしぶ応じる。

 帰宅後インターネットで検索。名古屋市と土岐市の様式を見る。「事由」の項目は、名古屋市で「仕事等」「旅行等」「病気等」「住所移転」、土岐市の場合「交通至難の島等」が加わる。与那原町も両市に準じていたように思う。私が思うところ、「事由」調べならアンケートで十分。どうして「真実」であることを「宣誓」までしなければ、用紙を配布しないのか。他で調べると、自治体によっては身分証明書の提示を求めるところもあるとか。

 両市とも、宣誓の相手は選挙管理委員長。「虚偽の宣誓」をしたら告発する? 理由が「休息」では認められない? 「余計なお世話」と言う他ない。備えられた「鉛筆」!?で記入、署名。ここで捺印なし!というのも「宣誓書」にしては不思議な話。いらぬ勘ぐりの一つでもしたくなる。

 投票は「国民の権利=義務」だから、日曜日といえども家を出て投票するのが「本来」のあり方と言いたいのか。否、この方法に「問題」があったからこその新制度導入のはず。導入の主旨は「投票率のアップ」だろうし、多様化・複雑化する国民生活に柔軟に対応した選挙制度改革だと理解する。そうだとしたら、期日前投票と期日投票を「差別化」する理由など、どこにもないはずだ。

 知り合いの豊見城市の市議さんにその話をしたら、この制度を導入しても投票率は上がっていない、とか。その点については、「政治不信」が一番の原因ということで意見は一致。ただし、時間がなくて宣誓書の話にまで至らず。

 私の感覚では、国(=法)とその右に倣う地方自治体の「国民不信」、「愚民視」が「宣誓」要求の根底にあると思う。いかがですか?(2009.4.26)

※沖縄タイムス投稿。担当記者によって一部削除・修正されて、4月26(日)Opinion欄に掲載される。

「沖縄」を読むー目次

2018-11-22 13:26:20 | 著作案
 
「沖縄」を読む:目次ー渡名喜明
2012-07-12 18:54:42 | 著作案
 
 
※本ブログでは、下記2著及びそれ以後に活字化された文章から、標題に沿う文章を掲載している。
※『文』:『沖縄の文化ー美術工芸の周辺からー』(1986.3 ひるぎ社)収載
 『ひと』:『ひと・もの・ことの沖縄文化論』(1992.2 沖縄タイムス社)収載
※近年、書いた文章を活字面に掲載することを控えている。文章を書くことは続けていて、それらは、次のブログに収載している。そこで、本ブログの内容に沿う文章は、標題だけこの目次に転記し、当該ブログにリンクできるようにした。 明王庵から 「私」の写真帳 「私」をデッサンする
 
総論
・日本「本土」と沖縄の<差異>はどのように解釈されてきたか
 (『戦後20年・沖縄の社会変動と文化変容』 琉球大学 1995.3)
 (復帰20周年記念沖縄研究国際シンポジウム実行委員会『沖縄文化の源流を探る』)
 
・序章 ひと・もの・ことの文化 (書下ろし 1992.2 『ひと』)
  はじめに
  ①<差異>の通念とその転倒ー柳宗悦の場合
  ②見える文化と見えない文化ー岡本太郎・谷川健一の場合
  ③見せる文化と見せない文化
  ④見る側と見られる側
  ⑤見せものー「みもの」と「みごと」
  ⑥身(み)・もの・こと
  おわりに
・差異と多様性の沖縄論 (『ひと』)
  (「富士通ファミリー会講演」 1991.1.30 『ひと』)
・差異の起源と教育の原点 (『ひと』)
  (『私学公論』第24巻第5号 1990.12)
 
第Ⅰ部 沖縄文化の系譜ー差異・受容・変容ー
・中国文化と沖縄ー美術工芸の分野からー (『文』)
  (原題「中国文化と沖縄」 『歴史公論』118号 雄山閣出版 1985.9)
・琉球における中国文化の受容をめぐってー美術工芸の分野からー (『ひと』)
  (『琉中歴史関係国際会議論文集』 1987.10)
・沖縄文化史の一断面ー近世琉球におけるいけばなの受容を巡ってー (『文』)
  付:御書院御物帳 御座飾帳 御書院(並)南風御殿御床飾
 (『琉球の歴史と文化ー山本弘文先生還暦記念論文集』 本邦書籍 1985.4) 
・近世琉球における仏教受容の一様相ー沖縄の経塚・経碑(『ひと』)
  (『球陽論叢』 同刊行委員会 1986.12)
・琉球における技術史・工芸史の画期と中国
 (『久米村ー歴史と人物ー』 小渡清孝・田名真之編 ひるぎ社 1993)
・産業史から見た近世の工芸(『近世の諸問題シリーズ第Ⅴー近世の産業・近世産業史の問題点』所収 浦添市教育委員会 1987.3)
・同上「関係史料」(同)
・窪徳忠先生と沖縄研究
 (『沖縄国際大学南島文化研究所報』第58号、2013.3)
・「沖縄病」と「台湾病」(『新沖縄文学』60号 1984.6)
・琉球列島における宗教関係資料に関する総合調査
(琉球大学『同報告書』 1994.3)
・近世琉球の服喪の制
  (『家族と死者祭祀』 孝本貢・八木透編 早稲田大学出版部 2006.2)
・士族門中とシジタダシー渡名喜門中の場合ー (『ひと』)
  (書き下ろし 1992.2)
・「私」の系譜
 
第Ⅱ部 表層の王権、基層の王権
・琉球王権論の一課題ー国王の久高、知念・玉城行幸の廃止を巡ってー
(窪徳忠先生沖縄調査二十年記念論文集『沖縄の宗教と民俗』 1988.3 第一書房)
・「琉球王権ー歴史と伝承のはざまで」(雑誌『別冊文藝ー歴史・王権・大嘗祭』1990.1110 河出書房新社)
・アジ・ノロ・王ー物語の構造と論理ー
  (谷川健一編『琉球弧の世界』 小学館  1992.6)
・国王=「てだこ」思想と即位儀礼についての覚書 (『ひと』)
  (『脈』33号 1988.2)
・イザイホー・お新下り・大嘗祭の間 (『ひと』)
  (「沖縄タイムス」1990.11.12.13)
・古琉球王権のメッセージー金石文からみたー
  (『新沖縄文学』「特集:琉球王権論の現在」 第85号 沖縄タイムス社 1990.9) 
・琉球王権の物語(「文化ジャーナル鹿児島」No.33 1992.9.1)   
神話と王権儀礼 『甦る首里城 歴史と復元』(1993.3 首里城復元期成会)
 
 
第Ⅲ部 沖縄文化論の系譜
・カオスとコスモスの美学(『ひと』)
  (『新沖縄文学』80号1989.6)
・美の三様と風景 (『ひと』)
  (『スペースモデュレイター』76号 1990.8) 
・<沖縄の美>に向ける眼差しー三つの視角から
 (那覇市立壺屋焼物博物館『日本のやきものー日本民藝館名品展』図録 2001.2)
<柳宗悦>
・柳宗悦論ー沖縄文化論を中心として (『文』)
  (『新沖縄文学』29号 沖縄タイムス社 1977.7)
・沖縄と近代ー柳民芸論から(『文』)
  (「沖縄タイムス」 1977.12)
・沖縄の近代化と民芸運動
(「沖縄タイムス」 2009.9)
・柳宗悦著『沖縄の伝統』(柳宗悦全集第15巻) (『文』)
  (「沖縄タイムス」 1981.11)
<岡本太郎>
・「なにもないこと」の発見(『彷書月刊』1990.2)
・引き算の沖縄文化論(「沖縄タイムス」 2002.8.11)
・「岡本太郎展」シンポジウム([沖縄タイムス」 2002.8.20)
・岡本太郎と沖縄と久高島
  (新沖縄フォーラム刊行会議編 季刊『返し風』37号 2002.12)
 
第Ⅳ部 工芸・技術の諸相
・柳民芸論における伝統と現代 (『文』)
  (『新沖縄文学』37号 沖縄タイムス社 1977.12)
・沖縄の藍覚書ー蓼藍・インド藍・琉球藍をめぐって (『文』)
  (『えとのす』第10号 新日本教育図書 1977.10)
・芭蕉布と荒焼 (『文』)
  (『やちむん』第4号 やちむん会 1973.12)
・民芸品 (『文』)
  (沖縄タイムス「唐獅子」 1973.7)
・越来文治さんと山原船 (『ひと』)
  (『コーラルウェイ』1988)
・桃原正男さんとガラス工芸 (『ひと』)
  (『コーラルウェイ』1988)
・又吉健次郎さんとジーファー (『ひと』)
  (『コーラルウェイ』1988)
・大城立裕・安次富長昭編『沖縄の工芸ー伝統と現代』 (『文』)
  (「沖縄タイムス」1984.10) 
<紅型>
・「筒描きの紅型」(『日本の染織14 筒描染』1977.3)
・紅型の話(原題「解説紅型」) (『文』)
  (『染織の美』第6号 京都書院 1980.8)
・紅型の技法ー城間栄喜さんからの聞き取りをもとに
  (『沖縄県立博物館紀要』)
・戦後紅型の歩み
  (『沖縄県立博物館紀要』)
・城間栄喜・人と作品 (『文』)
  (『沖縄紅型ー城間栄喜作品集』 京都書院 1978.11)
・城間栄喜の<技と仕事> (『ひと』)
  (「琉球新報」1989.6.2)
・城間栄喜・栄順親子展 (『文』)
  (「沖縄タイムス」 1984.9)
 
 <織物>
・喜如嘉の芭蕉布 (『文』)
  (『喜如嘉の芭蕉布』(講談社 1977.10)
芭蕉布ー南の島、沖縄の布(別冊太陽No67)
・大城志津子の世界 (『ひと』)
  (「沖縄タイムス」 1991.2.13)
・新垣幸子さんと八重山上布 (『ひと』)
  (『コーラルウェイ』1988)
・新垣幸子「八重山上布展ー琉球の光と風」に寄せて
  (「沖縄タイムス」09.5.12)
・書評『ミンサー全書』(09.12 南山舎刊)
・澤地久枝『琉球布紀行』(新潮社 2000.12)のスタンス
  (「北海道新聞」 20012.24)
 <陶芸>
・なぜ「陶芸」か
  (『(株)都市科学政策研究所25周年記念誌』2008.7)
・パリ国立人類博物館所蔵の沖縄陶器
  (琉球大学『フランスにおける琉球関係資料の発掘とその基礎的研究』 2000.3)
・琉球の茶と陶
(壺屋焼物博物館企画展「人間国宝の茶陶」図録解説、2000.7)  
・沖縄の木と私
  (『島たや』第4号 クイチャーパラダイス友の会 2007.12)
・ある出会い
  (『沖縄パシフィックプレス』No.126(2000年春季号)
・カーミの復権 (『文』)
  (沖縄タイムス「唐獅子」 1973.7)
・島常賀さんとシーサー 
  (『コーラルウェイ』1988.1)
・金城次郎さんと沖縄陶器 (『ひと』)
  (『コーラルウェイ』1988.9)
・下地正宏作陶展 (『文』)
  (「琉球新報」 1985.8)
<那覇市立壺屋焼物博物館特別展に寄せて>
・「壺屋の金城次郎ー日本民藝館所蔵新里善福コレクション」(沖縄タイムス 2003.1/24)
・「壺屋焼ー近代百年の歩み展」(「沖縄タイムス」2009.1.22) 
・島袋常秀陶芸展に寄せて
  (2002.11 画廊沖縄)
・具志堅全心作陶展に寄せて(「沖縄タイムス」2003.8.25) 
・松田米司陶芸展に寄せて
  (「琉球新報」05.6.20)
・島武己「陶の世界」展評
  (「琉球新報」2004) 
・彩度の白、明度の白ー黒田泰蔵の白磁
  (「琉球新報」06.7.29
・大嶺實清陶芸展に寄せて
・国吉清尚陶芸展に寄せて3題
 <酒器>(「沖縄タイムス」1996.1/17)
 <華器・食器ー世紀末の卵シリーズ>(「琉球新報」1999.2.4) 
 <「国吉清尚の世界>(「琉球新報」 2004.9)
・新垣栄茶陶展に寄せて
  (「琉球新報」 2005.12)
・小田静夫『壺屋焼が語る琉球外史』(08.4 同成社)
  (書き下ろし)
 
第Ⅴ部 文化の基層ー「暮らし」の視座
・「むら」の仕組みと労働慣行ー戦前の佐敷村の場合ー(1) (2)  (『ひと』)
 (『佐敷町史 二 民俗』 佐敷町 1984.3)
旅・観光ー<差異>の発見あるいは移動する祭り (財団法人沖縄協会『島尻地域の観光を考える』1992.8)
・祭の聖と俗ー伊是名島の綱引きをめぐってー
  (『島の文化と社会ー伊平屋村・伊是名村ー』 仲宗根勇編 ひるぎ社 1993.5 pp69~93)
・「町づくりの民俗ー<祭>から<まつり>へ」(『国立歴史民俗博物館研究報告第60集』 同館、1995.3)
・『与那原町史』編集・刊行の存廃をめぐって(「琉球新報」「沖縄タイムス」 2006.3.4)
・近頃の墓事情に思う(ブログ”「私」の写真帳” 2015.10.5)
  
第Ⅵ部 表現の諸相ー詠む・描く・撮る・舞う・書く・読む
<琉歌で遊ぶ>
・私の創作ー「琉歌」から「オモロ」へ、そして「長歌」へ  
 (書き下ろし 2012)
・琉歌「恩納岳あがた」の構造ーその詩と曲とドラマとー 
 (書き下ろし 2012)
<沖縄の私>を詠む短歌
・玉城寛子の短歌世界  
 (『くれない』103号 紅短歌会 2011)
・夫(つま)恋うる歌ー名嘉真恵美子第2歌集『琉歌異装』(短歌研究社)に寄せて
 (書き下ろし 2012)
<描く>
・「描く」ことの神話性
   (書き下ろし 2011)
普天間敏の世界 (『ひと』)
 (「沖縄タイムス」1989.8.4)
・喜友名朝紀の世界 (『ひと』)
 (「琉球新報」1987.8.29)
・赤・アカマタ・表現ー新城剛個展に寄せて (『文』)
 (「沖縄タイムス」 1983.8)
・境界の発見ー新城剛第二回個展に寄せてー (『ひと』)
 (「琉球新報」1990.9.29)
「奥原崇典墨彩画展に寄せて」(「沖縄タイムス」1998.12.9)
<撮る>
・なぜ「撮る」か
<比嘉康雄:「撮り手」として、「書き手」として>
・三位一体の世界を写す(「沖縄タイムス、1998.3.19)
・「記録者」と「書き手」の間:比嘉康雄『神々の古層』から『日本人の魂の源郷』まで
  (『EDGE』11号 APO 2000.7)
・「祈りの手-神仏に向き合う形」ー比嘉康雄写真展に思う
  (「沖縄タイムス」2011.1/5.6)
・写真集『岡本太郎の沖縄』(2000年7月、NHK出版)の前後
 (琉球新報 2001.3/4)
・『島クトゥバで語る戦世―100人の記憶―・ナナムイ・神歌』(琉球弧を記録する会)
 (書き下ろし)
・栗原達男写真展「戦争と人々、民族、人生讃歌」(「琉球新報」2,009.3.18))
 <舞う・演じる>
・伊良波尹吉の遠近法ーその庶民性と構想=構成力を巡って
 (新里堅進作・与那原町教育委員会発行『沖縄演劇の巨星・伊良波尹吉物語 奥山の牡丹』解説 2000.3)
<佐藤太圭子の芸>
・異界のメッセンジャー (『ひと』)
 (第7回佐藤太圭子の会 1988.11.12)
・観音の舞い
 (『琉球舞踊太圭流ー踊い歓ら(ウドゥイ・フクラ)・舞い歓ら(モーイ・フクラ)』2009.11)
・主役と脇役
(第15回佐藤太圭子の会」公演パンフレット 2012.12)
<新城知子の芸>
・聖なる主題 (『ひと』)
 (第4回 光扇会 新城知子の会 1086.7.5)
<高嶺久枝の芸>
・祈りの舞 (『ひと』)
 (第1回 琉舞華の会 高嶺久枝練場踊りの会 1987.6.26)
・不条理の美学 (『ひと』)
 (『第ニ回 高嶺久枝の会』 琉舞 華の会 高嶺久枝琉舞練場 1991.9)
・芸のおおらかさと繊細さと
  (『踊り愛がなとー琉舞かなの会発足記念誌』 琉舞かなの会高嶺久枝練場 1998.11)
・柳は緑、花は紅
  (『芸道40周年記念高嶺久枝の会ー琉球芸能の源流を探る』 同会 2009.12)
<平良昌代の芸>
・舞いの想 (『ひと』)
  (『第一回 琉舞 華の会 平良昌代の会』 琉舞 華の会 平良昌代練場 1991.7)
<佐渡國鼓童>
・私の「鼓童」体験 (『ひと』)
  (「琉球新報」1983.2.25)
・「鼓童」ショックの意味ー八重山公演に寄せて (『ひと』)
  (「八重山毎日新聞」1983.3.23)
・天台声明の世界ー琉球芸能との関わりを求めてー(1995.12 佐敷町シュガーホール)
・天台声明と琉球舞踊の共演ー東京版(2003.12 大正大学)
・あふれる香気ー琉球民謡歌手・大城美佐子さんのこと
<書く><読む>
・なぜ「読む」か
  (「沖縄タイムス」2007.4.22)
・文学に見るノロとその神ー神島-小論 (『ひと』)
  (『沖縄文化』32号 1970.11)
・雑誌『新沖縄文学』が問いかけるものー状況への対峙と基層を掘る作業
  (『新沖縄文学』特集号「『新沖縄文学』を総括する」第95号 1993.5)
・島尾敏雄著『離島の幸福・離島の不幸』(未来社 1960)
  (『新沖縄文学』特集号「沖縄・戦後の知的所産ー著作・論文にみるアイデンティの変遷」 第91号 1992.3)
・南風原町字与那覇誌『うさんしー』書評(「沖縄タイムス」 2004.7.24)
・花田俊典著『沖縄はゴジラかー<反>・オリエンタリズム/南島/ヤポネシアー』(2006.5 花書院)
  (書き下ろし)
・仲里効著『オキナワ、イメージの縁(エッジ)』(2007、未来社)評
  (書き下ろし)
・知念盛俊著『沖縄ー身近な生き物たち』(沖縄時事出版)
  (「沖縄タイムス」1998.10.16)
・松村宗棍「武術稽古の儀」(2015.8 書下ろし)
<沖縄芸能を「読む」>
・「組踊」を読む-「執心鐘入」と「手水の縁」の交差するところ  
・仮面の美学ー琉球舞踊「シュンドウ(醜童)を読む」 (1) (2)
 
第Ⅶ部 暮らしと文化の拠点づくり
・沖縄の博物館ー戦前・戦後の連続と断絶ー(1)(2)
  (『民衆と社会教育ー戦後沖縄社会教育史研究』 小林文人・平良研一編著 エイデル研究所 1988)
・博物館づくりの理念と主体性
   (「沖縄タイムス」1999.9・20/21)
・21世紀の博物館 (沖縄県文化振興会機関誌『島の風』6号 1999.2/1)
・[沖縄県立博物館・美術館」の開館に思うー「博物館・美術館」とは何か
  (「琉球新報」2008.1.10/1.12/1.14 )
・沖縄県立芸術大学を「アジア=沖縄ルネッサンスの拠点」に!
  (「琉球新報」2008.8/29.30) 
・地域博物館の試みー南風原文化センター開館の意義
  (「琉球新報」1989.12)
・新平和祈念資料館開館に寄せて
  (2000年4月29「琉球新報」掲載文に加筆) 
・法律にみる博物館ー壺屋焼物博物館の場合
  (2001.7/16 琉球新報)
・那覇市立壺屋焼物博物館の誕生ー焼物を展望する拠点に
  (「沖縄タイムス」1988.1/28・29の末尾を改稿)
・「博物館・美術館」ということー中黒「・」の意味ー
  (The Gallery Voice No33号 画廊沖縄 2008.1.12)
 
附録1:「世情」を読む(2005年1月~)
・「不時着」と「墜落」
・首相訪米の真意 (2005.9.27)
・元時事通信解説委員長発言 (2015.9.20)
・京大発平和声明 (2005.7.25)
・「国」を名乗るものの「テロ」 (2015.2.1)
 
 
 
 
 
 
 
 

私の「創作」:「琉歌 」から「オモロ 」へーそして「長歌」へ

2018-02-13 08:11:42 | 著作案

一  「琉歌 」から「オモロ 」へ 

 春を寿ぐ琉歌 3首をとりあげ、その語句を借りてオモロ2首をつくってみた。まず本にした琉歌 3首。出典は島袋盛敏著『琉歌 全集』(武蔵野書院)。
a. ときはなる松の 変わることないさめ(ネサミ) いつも春くれば 色どまさる                                       北谷王子
 おなじみの8・8・8・6形式である。
 ときわなる松に、経年の変化はないようだ。春が来るたびに、若葉を添えてくれる。その色たるやむしろ、年毎に勝って来るようにも思えてくるではないか、というのである。「ど」は和語の「こそ」にあたり、「まさ(勝)る」は連体形で「強意」の「係り結び」。「老松」は「歳=年」を「経ている」。しかし、「老いて」「枯死」を待っているのではない。春が巡り来れば、「若松」同様に「若葉」を吹き出す。老松・若松の緑に差はない。否、老松だからこそ、若葉の「緑」、色の「若さ」がいよいよ冴えるのである。「老い」の中に「若さ」が秘められていて、それが年々再現するという「法則性」は変わらない。その松にあやかろう。そうすると自分も若くなる、というのが歌い手の実感であり、祈りなのである。黄色や赤が成熟→死を象徴するのと対照的に、緑→青は生成→生長を表す「民俗カラー」である。
 季節は変転するが、循環して戻り来る。規則的な循環それ自体は不変である。冬が来ればまちがいなく春は来るのである。この歌では、現象界(空間)はまず視覚で捉えられ、それが時間・意識に転化する。

b. 千歳経る松もめぐて春くれば みどりさし添へて若くなゆさ  読み人知らず
 「千歳経る」の琉歌 が「読み人知らず」となっているのは、名のない「庶民」が歌い継ぐうちに作者不明と化したと解してよいだろう。北谷王子や次に引用する尚育王の作品にしても、この種の歌をベースにして詠まれただろうから、両歌が、性格としては「読み人知らず」とされていても、何ら不自然ではない。趣意は同じであり、一方では、それだけ琉歌の世界に身分の違いがなかったことを示している。千年の樹齢を誇る松だが、それでも春が訪れると、変わることなく若さを添えてくれる・・・。それはまさに「共同体の願意」そのものである。

 2つの琉歌 で詠われるのは、「不変」と「変」の相関である。島人たちの感覚からすれば、「不変」は「不変」のまま、「変」は「不変」と読み替えることができる。現象界(空間)を視覚で捉え、(時間)意識に転ずる上記2首の琉歌に比して、次の琉歌は空間を視覚と触覚と聴覚、三つながらで捉え、時間意識に転換する。

c.  ときはなる松の空に春風の うれしおとづれや千代のひび(響)き 尚育王
 新春に訪れる松風の音はうれしい。千年の響きを聞かせてくれるから。歌意はそんなところである。「ときわなる松」に訪れる(音・連れる)春風は、まずは触覚で察知されるが、その風は同時に「松風」と呼ばれて、聴覚を誘う。見れば松は、早くも「新緑」に染まっている。松の色だけでなく、風の響きまで「ときわ」であり、「千代」であることを確信させる。
 この琉歌に、「無常」をはかなむ心情もなければ、無常を「あはれ」と見なす心性もない。春風=松風の「響き」は、「平家物語」の「諸行無常の響き」とは対極の位置にある。島人たちは昔から、「もののあはれ」と無縁な反復=再生=蘇生=永世の、時代と社会を生きてきたのである。

 以上の3首を踏まえてつくった私の「創作オモロ」2題。

1.ときはなる松の
   色どまさる 若くなゆさ 
 千歳なる松も
   色どまさる 若くなゆさ 
 いつも春くれば
   色どまさる 若くなゆさ
 めぐて春くれば
   色どまさる 若くなゆさ
 みどりさし添へて
   色どまさる 若くなゆさ
 変わることないさめ
   色どまさる 若くなゆさ

2.一 ときはなる松の
     千代のひびき 千代のひびき
  又 千歳なる松も
  又 いつも春くれば
  又 めぐて春くれば
  又 空に春風の
  又 うれしおとづれや

 『おもろさうし』では、1.の形で唄われる歌詞を、反復部を省略して2.のように記す。基本的に、唄われるシーンは祭場、先導部と反復(復唱)部の「二重唱」からなっていたと推定されている。私の経験からしても、久高島で実見できた「最後の」イザイホーや、大宜味村喜如嘉のウスデークなどから納得できる説である。

 一番目の「(創作)オモロ」が主題とするのは「色どまさ(勝)る 若くなゆさ(なるよ)」、二番目のそれは「千代のひびき」。言ってみれば、各行の「上句」は「反復部分」を強調するための、手を代え、品を代えた修飾語句ということになる。千年もの間、「若さ」を保ちたいとする願望は、成員の個々を超えて、共同体の願意そのもの、祈りそのものであった。

 ひるがえって考えてみる。3首の琉歌を「解体・再編」すると、どうしてオモロスタイルの歌がつくられるのだろうか。前掲琉歌は、いずれも新春に当たっての「年ほめ」の歌である。もちろん、そこには個人の願意が込められている。しかし、それにとどまらない。新春をことほぎ、長命を期するのは、共同体を構成する全員の総意でもあり、その総意はしばしば「祭」として結晶した。歌人たちは、その総意を8・8・8・6の、文字通り「短・歌」として表出した、といってもおかしくはないはずだ。学説的前提としては、外間守善の、オモロ(やウムイ・クェーナ)から琉歌へ、とするそれに負うている。(『南島の叙情―琉歌』 中公文庫)。ならば、複数の琉歌からオモロを再構成することも可能だはずだ。ただし、前提がある。共同体の「願意」が個人のそれに「依り憑いた」ときに限る、と。

二 「琉歌 」から「長歌」へー春の歌

 次に、前出「創作オモロ」を、琉球文学史上でいうところの「長歌」に改作してみる。
 
1. ときはなる松の 
  千歳経る松も
   いつも春くれば 
  めぐて春くれば
  みどりさし添へて
  変わることないさめ
  色どまさる 
  若くなゆさ

2. ときはなる松の 
   千歳経る松も
   いつも春くれば 
   めぐて春くれば
   空に春風の 
   うれしおとづれや
   千代のひびき 
   千代のひびき

 空間と時間を軸とする座標上で、空間寄りに描いた局面を歌うのが一番目の歌詞、時間軸に引き寄せた局面の歌が二番目ということになる。

 「長歌」とは、基本的に八音が琉歌以上の回数で繰り返された後に、末句を六音で結ぶスタイルである。琉歌にくらべて数は少なく、琉歌にくらべて「定型性」は緩い。
 私の「創作長歌」で言えば、1.2.における冒頭2行「ときはなる松の 千歳経る松の」の反復が、一連の歌を「詠む」歌から「歌う」歌へ、「共有」される歌へと引き戻し、2番目の歌詞末句の「千代の響き」を繰り返すことで「めでたさ」が増幅される。冒頭2行の反復と末句「千代の響き」の繰り返しに、個と共同体の「永続」を期する「祈り」が秘められている、と言い換えてもよい。それぞれの「琉歌」=「短・歌」にくらべれば「共同性」は強調されるが、とはいえ、反復部が消えた分、「創作オモロ」に比して、共同体の「願意」が薄れ、一方、個人の願意としても、短歌形の琉歌にくらべて平板で、メリハリが効いていない。

 琉球文学史上「長歌」と呼ばれているもので、よく知られるのは次の歌。

あはぬ徒らに
戻る道すがら
恩納岳見れば
白雲のかかる
恋しさやつめて
見ぼしやばかり

 発声上は、8・8・8・8・6となっていて、琉歌より八音が一句多い。この歌は、琉球舞踊のジャンルの一つ「古典女踊り」の中でも典雅さで知られる「伊野波節」において、三線の音色に乗せて歌われることでも知られている。白雲に恋慕の情を仮託する心象は、必ずしもこの作者の特性ではないようだが、それにしてもこの歌に、共同体成員が共有する「願意」が秘められているとは思われない。その意味では、オモロと琉歌 をつなぐ位置にあるとも見なされる。

三 「琉歌 」から「長歌」へー恋の歌
 そこで次は、「叙情性」の強い琉歌を「本歌」として、長歌形式の「恋歌」3首をつくってみたい。
 まず寝屋で待つ娘の心情を詠う「寝屋の戸」。

約束のあてど
ねやの戸はたたく
夜嵐のたたく
ねやの戸はあけて
里待ちゆる夜や
ねやも清めとて
つぼでをる花の
花の露待ちゆす
かにがあゆら

本歌
約束のあてど寝屋の戸はたたく 誰がすてやり言ゆる二人待ちゆめ
夜嵐のたたく寝屋の戸はあけて 見れば里や来ぬ月ど入ゆる
寝屋も清めとて無蔵(んぞ=あなた=恋人)待ちゆる宵の 弓張りの月やしまの西に
寝屋の戸よあけて里待ちゆる夜や 花の露待ちゆす かにがあゆら
 
 場面は娘の部屋、時間帯は夜半。夜嵐が吹いて、戸をがたがた鳴らす。恋人がたたく音かとときめく。契りの約束があって、「里」=恋する男を待っているのである。寝屋も清めて、ひたすら待つ。つぼんでいる花は露と出会って開く、と人は言うが、その花が露を待つ心境もこのようなものか。「かにがあゆら」は「かくあらん」(このような心境であろう)の意。「(約束の)あて・ど」と「(戸は)たたく」は「強意」を表す「係り結び」の関係。

 つぼむ花は露を受けて開く。それがうれしく、めでたい、という心情や心境がこの島々にはあった。次の琉歌 がそれ。今でもめでたい唄として、正月や結婚披露などの祝宴で、「かぎやで風節」として三線にのせて歌われる。

けふのほこらしややなを(何)にぎやなたて(譬え)る つぼでをる花の露きやた(行き会った)ごと


次は、訪ねてきた恋人と過ごす一夜の歌。男の側から詠う。「寝屋の匂ひ」。

春に咲く梅や 
梅も匂ひしほらしや 
春の夜(ゆ)やねや(寝屋)の 
い語らひもあ(飽)かぬ
あ(明)け雲とつ(連)れて 
手枕にうつ(移)る
匂のしほらしや 
声のしほらしや

 季節は春、舞台は寝屋とその庭。庭には芳香を放つ梅の花。語り合っていたら一睡もしないうちに時間が経過したという場面、差し込む朝日のほの明るさで、恋人のかわいい顔が目の前に浮かぶ。梅の香りと併せて娘の放つ香りは、日が映る枕に移り、残る。漏れ入る梅の香りとこもごもで、そのかぐわしいこと。娘のひそやかな声が、何ともかわいらしい。

本歌
春の夜や寝屋の内までも梅の 手枕にうつる匂ひのしほらしや
梅も匂ひしほらしやい語らひも飽かぬ 寄らて眺めゆる花の木陰
あけ雲とつれてほける(歌う)鶯の 声に初春の夢やさめて
春や花盛り深山鶯の 匂ひしのでほける声のしほらしや

四 「創作」ということ
 仰々しく「創作」という言葉を使ってみたが、「オモロ」や「長歌」の「様式」を借り、テーマは琉歌 から借りたという意味合いであり、それ以上ではない。その意味では「試作」とか「実験作」というべきかも知れないが、それが「成功」しているかどうかの判断は私にはつかない。それでは「遊び」に過ぎないのではないか、と言われる向きもあるだろうが、今の私にはそれでよいのである。