私には姉も妹もいない。どちらか一人でもいたら、私の人生や人生観も変わっていたかもしれない。それはそれとして、そもそも兄弟にとって姉妹とはどのような存在なのか。推測の域を出ないが、姉妹とはその兄弟にとって「もっとも近く、もっとも遠い関係である」と言っておこう。もっとも近いとは「親を共有している異性である」ということであり、もっとも遠いとは、「異性でありながら結婚してはならない」というタブーにしばられているということである。物語はここから始まる。とりあえず「兄と妹の物語」と題することにしよう。分析の素材としては神話・伝説と民間信仰。
<strong>昇華</strong>
有名なところでイザナギ・イザナミの物語。現在の神話学では2人は兄・妹となっている。自ら造った国土に天降りした二人は次に、島づくりに移る。そのための「みと(陰部)のまぐはひ(交接)」をするにあたって初めて行ったのは、天の御柱を廻ること、そして愛の言葉をかけあうこと。ところが生まれた子は「ひるこ」、次に「淡島」でともに「子の例」に合わない。そこで「天つ神」に上申したところ、神が占って言うには、女から先に愛の言葉をかけるのがよくない。そこで2人は再度地上に戻り、柱廻りと言葉の掛け合いを実践し、8つの島を生んだ。この話は「神話」の位相からすると、国土創生と合わせて、「性差」の認識と性交、出産の起源神話と見なすことができる。
本稿の文脈に戻して言えば、柱廻りと愛の言葉の掛け合いは、「兄妹」という近親間の相姦のタブーを超克し、「男女」の関係に移行するための儀礼=イニシエーションと解される。琉球の島々に伝わる伝説から類例を探そう。たとえば石垣島白保に伝わるところでは、日神がアマン神に命じて八重山諸島を造らせた。次に日神は人種子を下し、池の周りに立たせて互いに反対に巡るよう命じた。そうしたところ、出会った2人は初めて性の道を知り、3男2女の子宝に恵まれた(喜舎場永珣『新訂増補八重山歴史』)。波照間島に伝わる伝説では、あるとき突如として「油雨」が降り、島に住む人々はことごとく死滅したが、2人の兄妹は洞窟に隠れて生き延びた。成人して夫婦となるが、生まれた子はボーズという魚のような子なので、土地柄のせいかと住処を変えた。ところが今度はハブのような子供が生まれた。三度目の引っ越しの後に人間らしい子が生まれ、その後繁盛した(宮良高弘『波照間島民俗誌』)。ここでは住まいの地相が悪いとして住居を移動することが、近親関係から社会関係に移行する行為とみなされている。
ここで「イニシエーション」の定義を『文化人類学辞典』(弘文堂)から引用しておこう。「広義では、ある社会的・宗教的位置から別の地位への変更を認めるための一連の行為を意味する。この際、儀礼を伴うのが一般的である」。子供から大人へ、近親から社会人へ移行するにあたって、互いの性差を確認したうえで、人間としての繁殖=再生産を図る非日常的な転換行為。上記の神話伝説における「一連の行為」がイニシエーションという名の「儀礼」に相当すると見なすことに異論はないだろう。
『旧約聖書・創世記』におけるアダムとイブの物語も、以上の文脈の一環として読むことができる。まず、男アダムが神の手でつくられ、そのあばら骨から女イブがつくられる。すなわち2人は「骨肉を分けた」兄と妹である。2人は与えられた土地「エデンの園」になるどの木の実も食べてよいとされたが、唯一「善悪を知る木」の実は取って食べてはならないと禁じられた。その実を食べると死ぬからだというのである。ところがイブは狡猾な蛇の誘いに乗ってアダムとともにその実を食べた。そうすると二人は互いに裸であることに気づき、イチジクの葉をつづり合わせて腰にまいた。異変に気付いた神は2人をエデンの外に追い出し、男には労働の苦しみ、女には出産の苦しみ、そして2人に死すべき運命を与えた。いうまでもなく、創世記の場合、儀礼にあたるのは、神の命に背いておのれの意思で「善悪を知る木」の実を食べることであった。
「創世記」がいう「善悪を知る」とは何か。「性差」を知ることであり、「生死」を知ること、労働=生産と「消費」「遊び」の違いを知ること、子供と大人の差異を知ること、総じていえば「神と人間の差異」を知ることである。これらの「差異」を知るためには相応の「試練」を潜り抜けなければならないことも、2人は知らされた。エデンの園の外に待っていたのは、数々のイニシエーションであった。これらのイニシエーションを経由することで、人々は人間として生きること、自然の一員であり、一員でしかないことの幸と不幸を知った。
<strong>対立</strong>
アマテラスとスサノオ、この貞潔な姉と荒ぶる弟の場合はどうか。2人は父イザナギが黄泉の国から帰還し、禊ぎをするときに生まれた。父神は姉には天上を弟には地上を支配するように命じたが、弟はこれをいやがり、ために姉弟は対立するにいたった。2人は和睦を期する契約を行ったが、結局姉は弟の狼藉をきらって洞穴に隠れ、世は暗闇に変わった。姉は八百万の神たちの計らいで外に引き出され、弟は下界に追放される、という物語である。「契約」という名の儀礼によっても2人の和解は実現できず、2人は天と地に引き裂かれたままで物語は終わる。言い換えれば姉と弟の対立は終わることがなかった。
沖縄では旧暦12月8日に、サンニン(月桃)の葉に包んだ餅を食する風習があるが、その由来は兄と妹の対立・対決の物語として伝わっている。言い伝えの詳細は他に任せるとして、<a href="https://www.city.okinawa.okinawa.jp/sp/about/1610/1617" target="_blank">この伝説</a>では、人食い鬼と化した兄に、固い異物交じりの餅を食わせた妹が、おのれの性器をひけらかし、鬼を食らう口だと脅して、兄をがけ下に落とすというあらすじになっている。兄と妹の「性」を介した食うか食われるかの物語である。
<strong>協和</strong>
兄と妹、姉と弟の協和は、沖縄・奄美では「をなり(姉妹、ウナイ、丁寧語ではウミナイ)」が「ゑけり(兄弟、ウィキー)」を守護する霊力を持つという「をなり神信仰」として知られている。具体的には、兄弟が出航・航行あるいは出陣の場面で、時に姉妹の手織りの手ぬぐいや持ち物などに付随するセヂとして顕現した。
ウニヌ(御船の) タカトゥムニ(帆柱の先に) シラトゥヤヌ(白鳥が) イチョン(止まっている)
シラトゥヤヤアラン(白鳥ではない) ウミナイウシジ(姉妹の霊力の化身だ)
兄弟姉妹であるが故の、兄弟姉妹であるがままの、儀礼抜きの協業・役割分担がそこにあった。
<strong>関係</strong>
兄弟と姉妹は、「親縁かつ疎遠な両義的存在」であり、「聖と俗」両界の間を揺れ動く関係なのである。
与那原町では、19日(日)に町議選の投票が行われた。私はその日、終日仕事をしたいということで17日(金)の夕方、選管へ出向いて初めての「期日前投票」を試みる。そうしたら、投票案内状を提出するだけでなく「宣誓書」なるものを書け、と。これまでの経験では、投票日にこんなものを書いた記憶がない。もしかして、「期日前」に投票する人間を「うさんくさく」見ているのではないか? 投票日当日に投票できない「事由」から、署名、そして生年月日まで書いてまちがいないことを宣誓せよ、という。投票用紙をもらうためしぶしぶ応じる。
帰宅後インターネットで検索。名古屋市と土岐市の様式を見る。「事由」の項目は、名古屋市で「仕事等」「旅行等」「病気等」「住所移転」、土岐市の場合「交通至難の島等」が加わる。与那原町も両市に準じていたように思う。私が思うところ、「事由」調べならアンケートで十分。どうして「真実」であることを「宣誓」までしなければ、用紙を配布しないのか。他で調べると、自治体によっては身分証明書の提示を求めるところもあるとか。
両市とも、宣誓の相手は選挙管理委員長。「虚偽の宣誓」をしたら告発する? 理由が「休息」では認められない? 「余計なお世話」と言う他ない。備えられた「鉛筆」!?で記入、署名。ここで捺印なし!というのも「宣誓書」にしては不思議な話。いらぬ勘ぐりの一つでもしたくなる。
投票は「国民の権利=義務」だから、日曜日といえども家を出て投票するのが「本来」のあり方と言いたいのか。否、この方法に「問題」があったからこその新制度導入のはず。導入の主旨は「投票率のアップ」だろうし、多様化・複雑化する国民生活に柔軟に対応した選挙制度改革だと理解する。そうだとしたら、期日前投票と期日投票を「差別化」する理由など、どこにもないはずだ。
知り合いの豊見城市の市議さんにその話をしたら、この制度を導入しても投票率は上がっていない、とか。その点については、「政治不信」が一番の原因ということで意見は一致。ただし、時間がなくて宣誓書の話にまで至らず。
私の感覚では、国(=法)とその右に倣う地方自治体の「国民不信」、「愚民視」が「宣誓」要求の根底にあると思う。いかがですか?(2009.4.26)
※沖縄タイムス投稿。担当記者によって一部削除・修正されて、4月26(日)Opinion欄に掲載される。
一 「琉歌 」から「オモロ 」へ
春を寿ぐ琉歌 3首をとりあげ、その語句を借りてオモロ2首をつくってみた。まず本にした琉歌 3首。出典は島袋盛敏著『琉歌 全集』(武蔵野書院)。
a. ときはなる松の 変わることないさめ(ネサミ) いつも春くれば 色どまさる 北谷王子
おなじみの8・8・8・6形式である。
ときわなる松に、経年の変化はないようだ。春が来るたびに、若葉を添えてくれる。その色たるやむしろ、年毎に勝って来るようにも思えてくるではないか、というのである。「ど」は和語の「こそ」にあたり、「まさ(勝)る」は連体形で「強意」の「係り結び」。「老松」は「歳=年」を「経ている」。しかし、「老いて」「枯死」を待っているのではない。春が巡り来れば、「若松」同様に「若葉」を吹き出す。老松・若松の緑に差はない。否、老松だからこそ、若葉の「緑」、色の「若さ」がいよいよ冴えるのである。「老い」の中に「若さ」が秘められていて、それが年々再現するという「法則性」は変わらない。その松にあやかろう。そうすると自分も若くなる、というのが歌い手の実感であり、祈りなのである。黄色や赤が成熟→死を象徴するのと対照的に、緑→青は生成→生長を表す「民俗カラー」である。
季節は変転するが、循環して戻り来る。規則的な循環それ自体は不変である。冬が来ればまちがいなく春は来るのである。この歌では、現象界(空間)はまず視覚で捉えられ、それが時間・意識に転化する。
b. 千歳経る松もめぐて春くれば みどりさし添へて若くなゆさ 読み人知らず
「千歳経る」の琉歌 が「読み人知らず」となっているのは、名のない「庶民」が歌い継ぐうちに作者不明と化したと解してよいだろう。北谷王子や次に引用する尚育王の作品にしても、この種の歌をベースにして詠まれただろうから、両歌が、性格としては「読み人知らず」とされていても、何ら不自然ではない。趣意は同じであり、一方では、それだけ琉歌の世界に身分の違いがなかったことを示している。千年の樹齢を誇る松だが、それでも春が訪れると、変わることなく若さを添えてくれる・・・。それはまさに「共同体の願意」そのものである。
2つの琉歌 で詠われるのは、「不変」と「変」の相関である。島人たちの感覚からすれば、「不変」は「不変」のまま、「変」は「不変」と読み替えることができる。現象界(空間)を視覚で捉え、(時間)意識に転ずる上記2首の琉歌に比して、次の琉歌は空間を視覚と触覚と聴覚、三つながらで捉え、時間意識に転換する。
c. ときはなる松の空に春風の うれしおとづれや千代のひび(響)き 尚育王
新春に訪れる松風の音はうれしい。千年の響きを聞かせてくれるから。歌意はそんなところである。「ときわなる松」に訪れる(音・連れる)春風は、まずは触覚で察知されるが、その風は同時に「松風」と呼ばれて、聴覚を誘う。見れば松は、早くも「新緑」に染まっている。松の色だけでなく、風の響きまで「ときわ」であり、「千代」であることを確信させる。
この琉歌に、「無常」をはかなむ心情もなければ、無常を「あはれ」と見なす心性もない。春風=松風の「響き」は、「平家物語」の「諸行無常の響き」とは対極の位置にある。島人たちは昔から、「もののあはれ」と無縁な反復=再生=蘇生=永世の、時代と社会を生きてきたのである。
以上の3首を踏まえてつくった私の「創作オモロ」2題。
1.ときはなる松の
色どまさる 若くなゆさ
千歳なる松も
色どまさる 若くなゆさ
いつも春くれば
色どまさる 若くなゆさ
めぐて春くれば
色どまさる 若くなゆさ
みどりさし添へて
色どまさる 若くなゆさ
変わることないさめ
色どまさる 若くなゆさ
2.一 ときはなる松の
千代のひびき 千代のひびき
又 千歳なる松も
又 いつも春くれば
又 めぐて春くれば
又 空に春風の
又 うれしおとづれや
『おもろさうし』では、1.の形で唄われる歌詞を、反復部を省略して2.のように記す。基本的に、唄われるシーンは祭場、先導部と反復(復唱)部の「二重唱」からなっていたと推定されている。私の経験からしても、久高島で実見できた「最後の」イザイホーや、大宜味村喜如嘉のウスデークなどから納得できる説である。
一番目の「(創作)オモロ」が主題とするのは「色どまさ(勝)る 若くなゆさ(なるよ)」、二番目のそれは「千代のひびき」。言ってみれば、各行の「上句」は「反復部分」を強調するための、手を代え、品を代えた修飾語句ということになる。千年もの間、「若さ」を保ちたいとする願望は、成員の個々を超えて、共同体の願意そのもの、祈りそのものであった。
ひるがえって考えてみる。3首の琉歌を「解体・再編」すると、どうしてオモロスタイルの歌がつくられるのだろうか。前掲琉歌は、いずれも新春に当たっての「年ほめ」の歌である。もちろん、そこには個人の願意が込められている。しかし、それにとどまらない。新春をことほぎ、長命を期するのは、共同体を構成する全員の総意でもあり、その総意はしばしば「祭」として結晶した。歌人たちは、その総意を8・8・8・6の、文字通り「短・歌」として表出した、といってもおかしくはないはずだ。学説的前提としては、外間守善の、オモロ(やウムイ・クェーナ)から琉歌へ、とするそれに負うている。(『南島の叙情―琉歌』 中公文庫)。ならば、複数の琉歌からオモロを再構成することも可能だはずだ。ただし、前提がある。共同体の「願意」が個人のそれに「依り憑いた」ときに限る、と。
二 「琉歌 」から「長歌」へー春の歌
次に、前出「創作オモロ」を、琉球文学史上でいうところの「長歌」に改作してみる。
1. ときはなる松の
千歳経る松も
いつも春くれば
めぐて春くれば
みどりさし添へて
変わることないさめ
色どまさる
若くなゆさ
2. ときはなる松の
千歳経る松も
いつも春くれば
めぐて春くれば
空に春風の
うれしおとづれや
千代のひびき
千代のひびき
空間と時間を軸とする座標上で、空間寄りに描いた局面を歌うのが一番目の歌詞、時間軸に引き寄せた局面の歌が二番目ということになる。
「長歌」とは、基本的に八音が琉歌以上の回数で繰り返された後に、末句を六音で結ぶスタイルである。琉歌にくらべて数は少なく、琉歌にくらべて「定型性」は緩い。
私の「創作長歌」で言えば、1.2.における冒頭2行「ときはなる松の 千歳経る松の」の反復が、一連の歌を「詠む」歌から「歌う」歌へ、「共有」される歌へと引き戻し、2番目の歌詞末句の「千代の響き」を繰り返すことで「めでたさ」が増幅される。冒頭2行の反復と末句「千代の響き」の繰り返しに、個と共同体の「永続」を期する「祈り」が秘められている、と言い換えてもよい。それぞれの「琉歌」=「短・歌」にくらべれば「共同性」は強調されるが、とはいえ、反復部が消えた分、「創作オモロ」に比して、共同体の「願意」が薄れ、一方、個人の願意としても、短歌形の琉歌にくらべて平板で、メリハリが効いていない。
琉球文学史上「長歌」と呼ばれているもので、よく知られるのは次の歌。
あはぬ徒らに
戻る道すがら
恩納岳見れば
白雲のかかる
恋しさやつめて
見ぼしやばかり
発声上は、8・8・8・8・6となっていて、琉歌より八音が一句多い。この歌は、琉球舞踊のジャンルの一つ「古典女踊り」の中でも典雅さで知られる「伊野波節」において、三線の音色に乗せて歌われることでも知られている。白雲に恋慕の情を仮託する心象は、必ずしもこの作者の特性ではないようだが、それにしてもこの歌に、共同体成員が共有する「願意」が秘められているとは思われない。その意味では、オモロと琉歌 をつなぐ位置にあるとも見なされる。
三 「琉歌 」から「長歌」へー恋の歌
そこで次は、「叙情性」の強い琉歌を「本歌」として、長歌形式の「恋歌」3首をつくってみたい。
まず寝屋で待つ娘の心情を詠う「寝屋の戸」。
約束のあてど
ねやの戸はたたく
夜嵐のたたく
ねやの戸はあけて
里待ちゆる夜や
ねやも清めとて
つぼでをる花の
花の露待ちゆす
かにがあゆら
本歌
約束のあてど寝屋の戸はたたく 誰がすてやり言ゆる二人待ちゆめ
夜嵐のたたく寝屋の戸はあけて 見れば里や来ぬ月ど入ゆる
寝屋も清めとて無蔵(んぞ=あなた=恋人)待ちゆる宵の 弓張りの月やしまの西に
寝屋の戸よあけて里待ちゆる夜や 花の露待ちゆす かにがあゆら
場面は娘の部屋、時間帯は夜半。夜嵐が吹いて、戸をがたがた鳴らす。恋人がたたく音かとときめく。契りの約束があって、「里」=恋する男を待っているのである。寝屋も清めて、ひたすら待つ。つぼんでいる花は露と出会って開く、と人は言うが、その花が露を待つ心境もこのようなものか。「かにがあゆら」は「かくあらん」(このような心境であろう)の意。「(約束の)あて・ど」と「(戸は)たたく」は「強意」を表す「係り結び」の関係。
つぼむ花は露を受けて開く。それがうれしく、めでたい、という心情や心境がこの島々にはあった。次の琉歌 がそれ。今でもめでたい唄として、正月や結婚披露などの祝宴で、「かぎやで風節」として三線にのせて歌われる。
けふのほこらしややなを(何)にぎやなたて(譬え)る つぼでをる花の露きやた(行き会った)ごと
次は、訪ねてきた恋人と過ごす一夜の歌。男の側から詠う。「寝屋の匂ひ」。
春に咲く梅や
梅も匂ひしほらしや
春の夜(ゆ)やねや(寝屋)の
い語らひもあ(飽)かぬ
あ(明)け雲とつ(連)れて
手枕にうつ(移)る
匂のしほらしや
声のしほらしや
季節は春、舞台は寝屋とその庭。庭には芳香を放つ梅の花。語り合っていたら一睡もしないうちに時間が経過したという場面、差し込む朝日のほの明るさで、恋人のかわいい顔が目の前に浮かぶ。梅の香りと併せて娘の放つ香りは、日が映る枕に移り、残る。漏れ入る梅の香りとこもごもで、そのかぐわしいこと。娘のひそやかな声が、何ともかわいらしい。
本歌
春の夜や寝屋の内までも梅の 手枕にうつる匂ひのしほらしや
梅も匂ひしほらしやい語らひも飽かぬ 寄らて眺めゆる花の木陰
あけ雲とつれてほける(歌う)鶯の 声に初春の夢やさめて
春や花盛り深山鶯の 匂ひしのでほける声のしほらしや
四 「創作」ということ
仰々しく「創作」という言葉を使ってみたが、「オモロ」や「長歌」の「様式」を借り、テーマは琉歌 から借りたという意味合いであり、それ以上ではない。その意味では「試作」とか「実験作」というべきかも知れないが、それが「成功」しているかどうかの判断は私にはつかない。それでは「遊び」に過ぎないのではないか、と言われる向きもあるだろうが、今の私にはそれでよいのである。