私の「創作」:「琉歌 」から「オモロ 」へーそして「長歌」へ

2018-02-13 08:11:42 | 著作案

一  「琉歌 」から「オモロ 」へ 

 春を寿ぐ琉歌 3首をとりあげ、その語句を借りてオモロ2首をつくってみた。まず本にした琉歌 3首。出典は島袋盛敏著『琉歌 全集』(武蔵野書院)。
a. ときはなる松の 変わることないさめ(ネサミ) いつも春くれば 色どまさる                                       北谷王子
 おなじみの8・8・8・6形式である。
 ときわなる松に、経年の変化はないようだ。春が来るたびに、若葉を添えてくれる。その色たるやむしろ、年毎に勝って来るようにも思えてくるではないか、というのである。「ど」は和語の「こそ」にあたり、「まさ(勝)る」は連体形で「強意」の「係り結び」。「老松」は「歳=年」を「経ている」。しかし、「老いて」「枯死」を待っているのではない。春が巡り来れば、「若松」同様に「若葉」を吹き出す。老松・若松の緑に差はない。否、老松だからこそ、若葉の「緑」、色の「若さ」がいよいよ冴えるのである。「老い」の中に「若さ」が秘められていて、それが年々再現するという「法則性」は変わらない。その松にあやかろう。そうすると自分も若くなる、というのが歌い手の実感であり、祈りなのである。黄色や赤が成熟→死を象徴するのと対照的に、緑→青は生成→生長を表す「民俗カラー」である。
 季節は変転するが、循環して戻り来る。規則的な循環それ自体は不変である。冬が来ればまちがいなく春は来るのである。この歌では、現象界(空間)はまず視覚で捉えられ、それが時間・意識に転化する。

b. 千歳経る松もめぐて春くれば みどりさし添へて若くなゆさ  読み人知らず
 「千歳経る」の琉歌 が「読み人知らず」となっているのは、名のない「庶民」が歌い継ぐうちに作者不明と化したと解してよいだろう。北谷王子や次に引用する尚育王の作品にしても、この種の歌をベースにして詠まれただろうから、両歌が、性格としては「読み人知らず」とされていても、何ら不自然ではない。趣意は同じであり、一方では、それだけ琉歌の世界に身分の違いがなかったことを示している。千年の樹齢を誇る松だが、それでも春が訪れると、変わることなく若さを添えてくれる・・・。それはまさに「共同体の願意」そのものである。

 2つの琉歌 で詠われるのは、「不変」と「変」の相関である。島人たちの感覚からすれば、「不変」は「不変」のまま、「変」は「不変」と読み替えることができる。現象界(空間)を視覚で捉え、(時間)意識に転ずる上記2首の琉歌に比して、次の琉歌は空間を視覚と触覚と聴覚、三つながらで捉え、時間意識に転換する。

c.  ときはなる松の空に春風の うれしおとづれや千代のひび(響)き 尚育王
 新春に訪れる松風の音はうれしい。千年の響きを聞かせてくれるから。歌意はそんなところである。「ときわなる松」に訪れる(音・連れる)春風は、まずは触覚で察知されるが、その風は同時に「松風」と呼ばれて、聴覚を誘う。見れば松は、早くも「新緑」に染まっている。松の色だけでなく、風の響きまで「ときわ」であり、「千代」であることを確信させる。
 この琉歌に、「無常」をはかなむ心情もなければ、無常を「あはれ」と見なす心性もない。春風=松風の「響き」は、「平家物語」の「諸行無常の響き」とは対極の位置にある。島人たちは昔から、「もののあはれ」と無縁な反復=再生=蘇生=永世の、時代と社会を生きてきたのである。

 以上の3首を踏まえてつくった私の「創作オモロ」2題。

1.ときはなる松の
   色どまさる 若くなゆさ 
 千歳なる松も
   色どまさる 若くなゆさ 
 いつも春くれば
   色どまさる 若くなゆさ
 めぐて春くれば
   色どまさる 若くなゆさ
 みどりさし添へて
   色どまさる 若くなゆさ
 変わることないさめ
   色どまさる 若くなゆさ

2.一 ときはなる松の
     千代のひびき 千代のひびき
  又 千歳なる松も
  又 いつも春くれば
  又 めぐて春くれば
  又 空に春風の
  又 うれしおとづれや

 『おもろさうし』では、1.の形で唄われる歌詞を、反復部を省略して2.のように記す。基本的に、唄われるシーンは祭場、先導部と反復(復唱)部の「二重唱」からなっていたと推定されている。私の経験からしても、久高島で実見できた「最後の」イザイホーや、大宜味村喜如嘉のウスデークなどから納得できる説である。

 一番目の「(創作)オモロ」が主題とするのは「色どまさ(勝)る 若くなゆさ(なるよ)」、二番目のそれは「千代のひびき」。言ってみれば、各行の「上句」は「反復部分」を強調するための、手を代え、品を代えた修飾語句ということになる。千年もの間、「若さ」を保ちたいとする願望は、成員の個々を超えて、共同体の願意そのもの、祈りそのものであった。

 ひるがえって考えてみる。3首の琉歌を「解体・再編」すると、どうしてオモロスタイルの歌がつくられるのだろうか。前掲琉歌は、いずれも新春に当たっての「年ほめ」の歌である。もちろん、そこには個人の願意が込められている。しかし、それにとどまらない。新春をことほぎ、長命を期するのは、共同体を構成する全員の総意でもあり、その総意はしばしば「祭」として結晶した。歌人たちは、その総意を8・8・8・6の、文字通り「短・歌」として表出した、といってもおかしくはないはずだ。学説的前提としては、外間守善の、オモロ(やウムイ・クェーナ)から琉歌へ、とするそれに負うている。(『南島の叙情―琉歌』 中公文庫)。ならば、複数の琉歌からオモロを再構成することも可能だはずだ。ただし、前提がある。共同体の「願意」が個人のそれに「依り憑いた」ときに限る、と。

二 「琉歌 」から「長歌」へー春の歌

 次に、前出「創作オモロ」を、琉球文学史上でいうところの「長歌」に改作してみる。
 
1. ときはなる松の 
  千歳経る松も
   いつも春くれば 
  めぐて春くれば
  みどりさし添へて
  変わることないさめ
  色どまさる 
  若くなゆさ

2. ときはなる松の 
   千歳経る松も
   いつも春くれば 
   めぐて春くれば
   空に春風の 
   うれしおとづれや
   千代のひびき 
   千代のひびき

 空間と時間を軸とする座標上で、空間寄りに描いた局面を歌うのが一番目の歌詞、時間軸に引き寄せた局面の歌が二番目ということになる。

 「長歌」とは、基本的に八音が琉歌以上の回数で繰り返された後に、末句を六音で結ぶスタイルである。琉歌にくらべて数は少なく、琉歌にくらべて「定型性」は緩い。
 私の「創作長歌」で言えば、1.2.における冒頭2行「ときはなる松の 千歳経る松の」の反復が、一連の歌を「詠む」歌から「歌う」歌へ、「共有」される歌へと引き戻し、2番目の歌詞末句の「千代の響き」を繰り返すことで「めでたさ」が増幅される。冒頭2行の反復と末句「千代の響き」の繰り返しに、個と共同体の「永続」を期する「祈り」が秘められている、と言い換えてもよい。それぞれの「琉歌」=「短・歌」にくらべれば「共同性」は強調されるが、とはいえ、反復部が消えた分、「創作オモロ」に比して、共同体の「願意」が薄れ、一方、個人の願意としても、短歌形の琉歌にくらべて平板で、メリハリが効いていない。

 琉球文学史上「長歌」と呼ばれているもので、よく知られるのは次の歌。

あはぬ徒らに
戻る道すがら
恩納岳見れば
白雲のかかる
恋しさやつめて
見ぼしやばかり

 発声上は、8・8・8・8・6となっていて、琉歌より八音が一句多い。この歌は、琉球舞踊のジャンルの一つ「古典女踊り」の中でも典雅さで知られる「伊野波節」において、三線の音色に乗せて歌われることでも知られている。白雲に恋慕の情を仮託する心象は、必ずしもこの作者の特性ではないようだが、それにしてもこの歌に、共同体成員が共有する「願意」が秘められているとは思われない。その意味では、オモロと琉歌 をつなぐ位置にあるとも見なされる。

三 「琉歌 」から「長歌」へー恋の歌
 そこで次は、「叙情性」の強い琉歌を「本歌」として、長歌形式の「恋歌」3首をつくってみたい。
 まず寝屋で待つ娘の心情を詠う「寝屋の戸」。

約束のあてど
ねやの戸はたたく
夜嵐のたたく
ねやの戸はあけて
里待ちゆる夜や
ねやも清めとて
つぼでをる花の
花の露待ちゆす
かにがあゆら

本歌
約束のあてど寝屋の戸はたたく 誰がすてやり言ゆる二人待ちゆめ
夜嵐のたたく寝屋の戸はあけて 見れば里や来ぬ月ど入ゆる
寝屋も清めとて無蔵(んぞ=あなた=恋人)待ちゆる宵の 弓張りの月やしまの西に
寝屋の戸よあけて里待ちゆる夜や 花の露待ちゆす かにがあゆら
 
 場面は娘の部屋、時間帯は夜半。夜嵐が吹いて、戸をがたがた鳴らす。恋人がたたく音かとときめく。契りの約束があって、「里」=恋する男を待っているのである。寝屋も清めて、ひたすら待つ。つぼんでいる花は露と出会って開く、と人は言うが、その花が露を待つ心境もこのようなものか。「かにがあゆら」は「かくあらん」(このような心境であろう)の意。「(約束の)あて・ど」と「(戸は)たたく」は「強意」を表す「係り結び」の関係。

 つぼむ花は露を受けて開く。それがうれしく、めでたい、という心情や心境がこの島々にはあった。次の琉歌 がそれ。今でもめでたい唄として、正月や結婚披露などの祝宴で、「かぎやで風節」として三線にのせて歌われる。

けふのほこらしややなを(何)にぎやなたて(譬え)る つぼでをる花の露きやた(行き会った)ごと


次は、訪ねてきた恋人と過ごす一夜の歌。男の側から詠う。「寝屋の匂ひ」。

春に咲く梅や 
梅も匂ひしほらしや 
春の夜(ゆ)やねや(寝屋)の 
い語らひもあ(飽)かぬ
あ(明)け雲とつ(連)れて 
手枕にうつ(移)る
匂のしほらしや 
声のしほらしや

 季節は春、舞台は寝屋とその庭。庭には芳香を放つ梅の花。語り合っていたら一睡もしないうちに時間が経過したという場面、差し込む朝日のほの明るさで、恋人のかわいい顔が目の前に浮かぶ。梅の香りと併せて娘の放つ香りは、日が映る枕に移り、残る。漏れ入る梅の香りとこもごもで、そのかぐわしいこと。娘のひそやかな声が、何ともかわいらしい。

本歌
春の夜や寝屋の内までも梅の 手枕にうつる匂ひのしほらしや
梅も匂ひしほらしやい語らひも飽かぬ 寄らて眺めゆる花の木陰
あけ雲とつれてほける(歌う)鶯の 声に初春の夢やさめて
春や花盛り深山鶯の 匂ひしのでほける声のしほらしや

四 「創作」ということ
 仰々しく「創作」という言葉を使ってみたが、「オモロ」や「長歌」の「様式」を借り、テーマは琉歌 から借りたという意味合いであり、それ以上ではない。その意味では「試作」とか「実験作」というべきかも知れないが、それが「成功」しているかどうかの判断は私にはつかない。それでは「遊び」に過ぎないのではないか、と言われる向きもあるだろうが、今の私にはそれでよいのである。