1.生活の再建(1945~1951)
ムラの再建―アメリカ文化との出会い
沖縄の人々は、米軍の収容所に収容された時点で「終戦」を迎えた。それはまた「戦後」の始まりでもあった。避難先の違いで収容された場所は違うが、どの収容所でも米軍から食料や衣服、テントなどが配給されて、ともかくも生活の再建が開始される。
村民が各地の避難民・捕虜収容所から解放され、帰村が許されるようになったのは、1945(昭和20)年も暮れになってからである。12月8日には玉城村百名から、そして1946(昭和21)年1月には本島北部の収容所から、現在の与那原町大見武にあった米軍第12部隊跡に村民が集団で移動。とはいえ、こちらも「収容所」のひとつである。1月23日には、同地に村役場が設置され、村長に與座章三郎が任命された。村役場のもっとも重要な任務は、村民の生活の再建を図り、福祉を推進することであった。4月には大見武で南風原村農業組合が設立され、10月、村役場とともに兼城に移転した。
大見武でのテント小屋生活は一時的で、1946年7月、与那覇、大名、宮平、兼城の4カ字が移動を許可され、次いで喜屋武、本部、津嘉山、新川、さらに山川、神里が帰郷を許された。それぞれの字では、まず字事務所が造られた。兼城はトタン葺き、喜屋武や津嘉山は天幕の屋根であった。
一般の住宅はテント小屋か茅葺きで、茅葺き住宅は、米軍配給の2×4(トゥー・バイ・フォー)資材による「規格住宅」(奥行2間、間口2間半の5坪)だった。資材は米軍配給の他、雑木を切り倒したり、戦時中に使った壕の内壁を壊すなどして調達したが、台風でよく壊れた。5坪の住宅に隣の家族合わせて12名ほどが毛布に足をつっこんで寝たが、それでも「こうして生き残った自分たちの幸福を有難く思い、灰の中から立ち上がらねばならないという決心」だったという証言もある。
交通手段や荷物の運搬手段はなく、徒歩や米軍車両に便乗する時期が一時期続く。まもなくトラックバスが登場、南風原では1950(昭和25)年頃になると、サトウキビや石材(泡石)の運搬などに荷馬車が使われた。この頃には客馬車(喜屋武)や自転車や客三輪車(1952年)も登場、人や荷物を那覇まで運んだ。すでに1947(昭和22)年11月には開南や与儀に市場ができ、農産物を出荷していたが、その頃はほとんど徒歩で行き来していたのである。
衣服は、米軍から配給された軍服(HBT)で普段着や作業服、防水加工されたフード付野戦服(タクヌチブルー=タコの頭)でスーツやスカート、メルトン生地(厚手の毛織物)でスーツやスカート、毛布で寝具他、落下傘の布をワンピースやドレスなどに裁ち直し、着用・転用した。
食生活は、戦時中に育ったイモの共同作業による収穫やイモ苗(カズラ)の植付けから始まった。米軍のゴミ捨て場では、乾パンや賞味期限切れの缶詰などを拾うことができた。1946年4月まで貨幣のない「配給生活」が続いた。配給は再建された区事務所を拠点として行われ、アメリカ米、ポテト、缶詰類、七面鳥の肉、トウモロコシなどが無償で配られた。
4月15日、第一次通貨切り替え(旧日本円→B円)が実施され、5月に賃金制がスタートした。それまでは、米軍キャンプ内外の労役、港湾・道路・住宅などの建設に携わる住民に払われる労働の対価は、食糧・衣類・タバコなどの現物であった。当時の公務員の月給がB円で200円、平均時給が79銭程度。アメリカ煙草20本入り1個20円という時代だった。6月2日には米軍物資が無償から有償配布になった。「配給所」は公式には「販売店」もしくは「売店」と呼ばれ、7月までに、南風原区売店(所轄は与那覇、宮城、大名)、宮平区売店(新川、宮平、兼城)、照屋区売店(喜屋武、本部、照屋)、津嘉山区売店、山川区売店、神里区売店が設置された。1946(昭和21)年5月に作成され、知事宛て提出された村役場の1946年度予算案によると、歳入の主たるものは「販売店売上金」であり、配給は一人当たり月20円×4,000人の換算で行われている。
1946(昭和21)年2月になって、大見武に南風原初等学校が開校、9月には兼城の現敷地に校舎を移転。九州に疎開していた児童が、10月に熊本から、11月に宮崎から帰り、学校教育が本格化する。この頃の南風原初等学校の児童数547名。校舎はテント葺きでスタートしたが、1949(昭和24)年から茅葺き校舎となり、1950年に瓦葺き校舎が登場する。
1948(昭和23)年4月には南風原中学校が創立される。生徒数485名であった。
1946(昭和21)年秋、喜屋武で戦後初めての十五夜遊びが行われ、以後各地で伝統行事の復活が始まった。一方、宮平(1947年)や喜屋武(1948年)で伝統の綱引きが復活、また獅子舞の獅子を神里で1948(昭和23)年、喜屋武では1949(昭和24)年に製作している。宮平では1949年に集落の拝所を再建・合祀、宮平では1950(昭和25)年に遺体を墓に運ぶ字のガンを建造した。
1947(昭和22)年には喜屋武で字の役員制が復活、同年、与那覇や宮平では青年会が結成された。青年会は字や個人向けの労務提供や村芝居(大名)の開催、村の運動会への参加などを通じて、集落の有形・無形の復興に力を尽くした。
婦人会(現「女性の会」)が生活再建に取り組んだ意気込みと成果も大きかった。1947年には各字単位の婦人会が組織され、その連合体として「村婦人会」が1947年8月に結成された。結成当初は戦争未亡人や戦争孤児への激励に始まり、米軍払い下げの軍服を解いて子供服や婦人服に作り直す裁縫の講習会、料理講習会などの「学習」活動、「生活の無駄」をなくす「新生活運動」、荒れ果てた地域の整備を促進するための村や青年会などと一体となった「美化運動」、子供たちに教具や学校備品を贈る運動、区外・村外への視察研修など、活動は広範囲にわたっている。
神里ではすでに1946(昭和21)年に人力による製糖が始まり、1948(昭和23)年には発動機を取り入れた製糖工場が完成する。1948年には宮平で12馬力の圧搾機を据え付けた貸し製糖工場が操業を始めた。
1946(昭和21)年から1950(昭和25)年代始めにかけては、集落における行政・衣食住・生産・祭りの体制が再開され、整い始める時期であったといえる。
2.生活の戦後スタイルの始まり(1952~1963)
衣食住の「改善」
生活の「近代化」とは、すなわち戦前の生活スタイルからの脱皮を意味した。洋装の普及、食生活の変化、衛生思想の普及、伝統行事の簡素化などが、「生活改善」の名のもとに叫ばれ、定着していった。喜屋武では1952(昭和27)年に「生活改善グループ」が発足、いくつもの料理が盛れる四角い膳のような米軍用食器を購入し、字内の結婚祝いなどの祝儀に貸し出したし、料理講習会も頻繁に行われた。1955年には村産業課の推奨で各字に生活改善グループが結成され、「衣食住の改善を重点に活動」(大名誌)した。
主婦や女性の仕事の「改善=利便化」は、生活改善運動の大きな柱であったが、そのひとつが炊事場の改革であった。「改良カマド」の写真で見ると、床は相変わらず土間だが、レンガを土台とし、白いタイルづくりのカマドと流しが並んでいて、その前に薪が置かれている。据えられた鍋はイモを煮たり、行事の時にてんぷらなどを揚げるシンメーナービやハガマで、流しには水道の蛇口が見えるが、水道普及以前、天水を貯めるコンクリートタンクから引かれたものだろう。壁はブロックづくりに見える。
すでに米軍用のポーク缶詰が食膳に出回るようになっていたが、喜屋武では1953(昭和28)年、家普請の食事に初めて「ライスカレー」を出したら大変な人気であったという。その調理法は料理講習会で学んだものであった。
石油コンロやワクラカマドが普及を始めるのは、1954(昭和29)年から1955年頃のことである。石油コンロは着火も容易だし、いずれも持ち運び可能で場所をとらないところが重宝されたのだろう。ワクラカマドとは、七輪同様の耐火温度が高い土でつくられたコンパクトなカマドのことである。「主食が米に変わる昭和20年代後半から、甘藷作りは減少が続き」(『大名誌』)とされるが、改良カマド・ワクラカマド・石油コンロの普及は主食がイモから米に変わり、食生活のメニューも増えてくる時代に照応しているものと考えられる。三者併用の時代はプロパンガスが普及を始める1960(昭和35)年代まで続く。
服装の分野では、琉装から洋装への変化が著しかった。喜屋武では1952(昭和27)年にミシン120台を導入、主婦の間で副業として縫製業が盛んになった。製品はスカートやズボンである。一方、1951(昭和26)年にはパーマ屋が開業している。ウチナー・カンプー(ジーファー、すなわち簪を用いる伝統的な髪結い)が消えて行くきっかけであったが、そのことは琉装の終わりの始めでもあった。宮城の生活改善グループが結成されたのは1957(昭和32)年で、最初につくったのがモンペであった。他にトイレの手洗い器を購入したり、布団作りや味噌づくりなども行っている。
住生活の変化も著しい。喜屋武では1951(昭和26)年に鉄筋コンクリート住宅が登場する。木造からコンクリート造りへの移行は、まず台風に強い住宅という意義が大きかった。伝統的な住居スタイルは母屋に一番座・二番座があり、食堂を兼ねる台所はシムといって母屋に隣合わせの別棟であった。もちろんトイレは外に造られ、風呂場はなく、井戸の水を大鍋で沸かして体をぬぐう程度で、戦後も屋外にドラム缶でつくった湯船にお湯を沸かして入るといった程度であった。
コンクリート造りになって、台所を母屋の中に設ける家が現れるが、予算の関係その他の理由で茅葺き住宅同様、隣合わせの別棟にする場合も少なくなかった。1957年には喜屋武に風呂屋ができたが、もちろん毎日風呂屋に行ける時代ではなかった。ダイニング・キッチンやバス、トイレが一番座・二番座と同じ棟に定着するためには、水道・ガスの普及を待たなければならない。
映画・電灯・ラジオ
戦後の生活が戦前のそれと著しく変わったことを印象づけたのに、1940年代の終わりから始まる映画の普及と1950年代における電灯の点灯、ラジオの配信の三つがある。典型的な農村であった戦前の南風原村においては、いずれも満たされることのない夢のような出来事であった。
1940年代後半には、戦前から名声を馳せていた無声映画の弁士がフィルムを持って各地を巡回し、有料の映写会を催す程度であった。その他の映画を見るためには、那覇市にできた映画館「アーニー・パイル国際劇場」(1947年)や中央劇場(1947年)まで歩いてもしくは三輪車タクシーに乗って行く他なかった。1950(昭和25)年になると津嘉山に「津嘉山劇場」がオープン、無声映画が上映されたり、沖縄芝居が演じられた。
1950(昭和25)年9月には、那覇では南風原に近いところで神里原に「大洋劇場」が開館。1951年10月1日には沖映本館がガーブ川沿いにオープンする。ここでは「君の名は」(1953年)や「二十四の瞳」(1954年)が上映され、空前のヒットとなった。1953(昭和28)年1月には大宝館と大洋劇場で「ひめゆりの塔」が上映されて、長蛇の列をつくる。
電化の始まりは電灯の点灯である。喜屋武・照屋では早くも1950(昭和25)年には家庭に電灯がつくようになったが、これは民間経営(喜屋武)で、点灯は夜10時までであった。それでも人々はアメリカ世の到来による生活の変化として歓迎した。琉球電力公社が発足したのが1954(昭和29)年、宮平でこの年沖縄配電により各戸点灯、翌1955年に山川・神里・宮城・大名、1957年に新川の各字でランプ生活から電灯のある暮らしに変わる。神里では電灯が点いた時、これで「ニッポン」になったと喜んだという。喜屋武の綱引きのテービー(たいまつ)が」1955年に消えるのも、電化の影響であろう。
ラジオの普及状況を見ると、すでに1952(昭和27)年ごろ、米軍のガリオア資金(占領地域統治救済資金)によって市町村に共同受信施設(親ラジオ)が設置され、軍の放送を有線で各家庭に流すシステムがつくられる。家庭にはスピーカーを入れた小箱(子ラジオ)が設置された。
1954(昭和29)年には琉球放送(株)による民間放送が開始する。
南風原村では1955(昭和30)年になって村役所内に親ラジオが設置され、各字の希望家庭に音楽や琉球放送の番組、役所からの通知などを流し始める。
冠婚葬祭のスタイルが変わる
1950年代後半から1960年代前半にかけての時期は、戦後復活したり、引き継がれた伝統的な冠婚葬祭のスタイルが消えていく時期であった。1958(昭和33)年には喜屋武や神里で、初めて火葬にもとづく葬儀が行われた。従来は遺体を棺箱に納めて墓中に安置、数年後に洗骨して厨子甕に納めるというパターンであり、一般に火葬は死後のこととは言え、嫌われていたのである。1964(昭和39)年には、喜屋武で遺体を墓に運んできたガンが焼却された。
一方、1961(昭和36)年には喜屋武で結婚披露宴のホール利用が始まる。会場は与那原町にできた古蔵会館であった。披露宴は本人の親の家で行なうのが一般的で、料理も親戚の手を借りて自前で準備するというのが従来の方式であった。
ホール利用は、職業選択の範囲や通婚圏が広がり、結婚自体が家対家、あるいは集落内の枠を越え、本人たちの友人・職場の交際を重視する性格のものに変わってきたことの現れでもあろう。招待者が200人とか300人と大規模になるのもこの時期である。
同様に73歳や88歳のトゥシビーを祝う生年祝いも家単位から集落単位に変わってくる。すでに会場が本人の自宅からレストランやホール(農協ホールなど)に移るケースが増えつつあった。しかし、その期間は長くない。農協ホールでの最後の結婚披露宴は、字宮城の玉城忠栄さんの長男。1,000円の券を買って、コーラ1本と折詰が出た。
山川では1962(昭和37)年、喜屋武では1963年に合同の生年祝いを初めて実施している。1963年の山川の合同生年祝い記念写真を見ると、屋外に仮設舞台が設けられていて、その横に式次第が書かれた黒板があり、その後に茅葺きのムラヤー(公民館)らしきものが見える。合同の生年祝いは、今でも公民館で行われている。
出産は産婆さんを呼んで自宅で行なうのがこれまでの習慣であったが、次第に産婆さんの産院に移動して行なうようになる。喜屋武では1962(昭和37)年に産婦人科医院で出産する人が現れ、次第にこの方式が一般化するようになる。それとともに、出産に伴う伝統行事も変わるか消えていくことになる。
農業の形が変わる
1960年代前半は、農業生産のスタイルにおいても激変した時期であった。南風原地域における統計はないが、たとえば水稲の栽培面積を見ると、「全琉」の作付面積が1960(昭和35)年次に11,728ha、それが1964(昭和39)年次には4,126haと3分の1近くに激減、甘蔗面積は1960年次に10,463haだが、1964年次には29,830haに急増、水稲作付け面積の約7.5倍に伸びている。この傾向は南風原町においても変わらなかったであろう。
世界の砂糖市場を見ると、1959(昭和34)年にそれまでの輸入先キューバにカストロ政権が誕生して、製品がソ連に流れ、自由主義陣営に砂糖不足が生じた。それを契機にして、日本政府は北海道のビート、奄美大島、沖縄の砂糖を国の責任で買い上げすることを決定した。これも砂糖生産が急激に伸びた大きな要因だった。
喜屋武においてはすでに1955(昭和30)年に「タードーシ」(田圃から畑への切り替え)が始まり、1959(昭和34)年にはサトウキビの新品種NCO310が普及し始めた。この品種は、台風・旱魃に強いため、それまでの品種POJ2725からの転換が一気に進んだ。また1962(昭和37)年の大旱魃を契機に水田や甘藷畑がサトウキビ畑に転換されたことや、1963(昭和38)年8月の砂糖の貿易自由化と世界的な砂糖価格の高騰によって原料代が引き上げられ、他作物よりサトウキビの収益性が高まったことなどが、サトウキビブームを引き起こしたといわれる。
栽培に手間ひまのかかる水稲栽培から、農繁期と農閑期が分かれるサトウキビ栽培への転向は、兼業農家が増大したことを意味する。一方で、字単位で行われていた製糖が「全県」規模の大型製糖工場に身売りするのも、この時期である。
3.充実―生活のヤマトスタイル化(1964~1972.3)
水道の敷設とプロパンガスの普及
電化とともに、伝統的な生活スタイルを大きく変える結果をもたらしたのは、各戸に水道が引かれたことだろう。1964(昭和39)年のことである(新川を除く)。東風平・具志頭・大里・南風原4村における上水道の建設・給水・施設の維持管理を目的とする「南部地区東部水道組合」の設立に伴うものであった。当初は「火と水はただ」という観念が強く、申し込みが少なくて、敷設に必要な希望者数に満たないので、区長が水増しして申請したという話もある。
水道が引かれたことで、井戸水の利用が減り、屋根から天水を引くコンクリート製タンクが不要となった。洗濯など生活用水確保の手段として欠かせなかった集落の共同井戸もその意義を失い、喜屋武では翌年には「危険」「非衛生」といった理由で埋められてしまう。埋められた井戸の跡地には、いくつかの字で子どもの遊び場が設けられる。ブランコや滑り台、シーソーなどの遊具が設置された。
1965(昭和40)年からプロパンガスが普及し、薪のカマドや石油コンロにとって代わることになる。
農協では1966(昭和41)年11月の理事会においてプロパンガスを扱うことを決定、12月から供給を開始した。当初の供給個数は190戸で、その他の大部分は4人の村内個人業者が扱っていた。
プロパンガスの普及で、調理方法も一段と進歩した。具体的には、ひとつのコンパクトなコンロで沸かす、煮る、揚げるなどの仕事が同時に二つでき、しかも二つのメニューが同時につくれること、それも石油コンロに比べて火力が強力で、しかも清潔感があること、などが変わった点としてあげられる。
母屋とは別棟になっていて、土や石でできたカマドが据えられた昔ながらのシムから、改良カマドや石油コンロによる調理、コンクリート製タンクに貯めた天水を引く「台所」へ。そして、水道とプロパンガスの普及によって炊事場が母屋に取り込まれ、ステンレス流し台を設置し、イス・テーブルで食事する「ダイニング・キッチン」へと、炊事と食事の空間は60年代後半あたりから大きく変わり始める。
テレビとあわせて「3種の神器」と呼ばれた電気冷蔵庫と電気洗濯機の普及状況を、1968(昭和43)年1月と3年後の1971(昭和46)年2月の統計で比較してみよう。食生活の多様化と主婦の労力の軽減を図る目安になると考えられるからである。冷蔵庫で見ると、1968(昭和43)年には1,765戸中371戸で21%、これが1971(昭和46)年には1,898戸に対して1,094戸で57.6%、3年間で3倍近い伸びを見せ、1971年には2軒に1軒強の割で普及したことがわかる。洗濯機だと、1968(昭和43)年が1,765戸に対して766で43.4%、それが1971(昭和46)年には1,898戸中1,397で73.6%、4軒に3軒近い普及率となっている。電気炊飯器についてのデータはないが、1968(昭和43)年頃にはほとんどの家庭に普及していたと見られる。
テレビと電話
戦後の「娯楽」のありようを変えるにとどまらず、政治経済面でのニュースソースとして、また社会生活や文化のスタイルを「本土並み」に変える大きな要因ともなった、という点でテレビの普及は甚大な効果があった。
沖縄初の「日本語テレビ」局として沖縄テレビが開局したのは、1959(昭和34)年11月1日のことである。開局理由として「沖縄文化の向上を期し、健全なる教養と娯楽を提供する」、「生活必需品の85%は日本内地よりの輸入にまつ現状」に鑑み、「日本内地各産業の公正、適切な紹介並びに沖縄産業の民主的振興を図る」「適正迅速なる広報活動を行い、かつ日本内地ニュース網と直結」することによって「行政の遂行に大いに寄与」する、などを列挙している。
開局から1週間の「開局祝賀番組表」を見ると、初日が午後5時30分から10時まで、翌日からの6日間は午後6時30分から9時30分までの3時間。内容を見ると、琉球舞踊、鶴田浩二や嵐寛寿郎、美空ひばり、水谷八重子主演の映画や演劇・ドラマ、ニュース・天気予報、座談会、クラシックコンサート、職場対抗紅白歌合戦、ジャズやペギー葉山司会の歌謡番組、「ジャックと豆の木」などの子供向け番組、「スーパーマン」などの洋画、クイズ番組など、開局の趣旨を活かし、テレビの機能をフルに活用した構成になっている。
特筆されるのは「皇太子御成婚記念」番組が録画で流されたことである。すでに式典は終わっていたが、ミッチー・ブームはまだ続いていた。ラジオと映画の機能を同時に自宅で満喫できるテレビは、初めのうちこそ設置できる家庭は少なく、そのような家はあたかも集落のミニ映画館の様相を呈した。当初の人気番組は沖縄テレビの「水曜郷土劇場」とプロレスであったという。
1960(昭和35)年6月1日、琉球放送テレビが放送を開始し、番組はさらにメニューを増やすことになる。1964(昭和39)年の東京オリンピックが始まる前あたりになると、テレビは急速に普及する。
4年後の1968(昭和43)年1月調べによるテレビ設置戸数は1,765戸に対して1,500戸で何と85%に急伸、それが1971(昭和46)年2月では1,898戸に対して1,861戸となり、比率は98%。ほとんどの家庭にテレビが入ったことになる。
テレビにくらべて電話の普及はまだ遅れる。1965(昭和40)年に喜屋武、山川、神里などの公民館に電話が設置される。当時一般住宅に電話が引かれる状況ではなく、区民共有の電話といった性格を持っていた。区民にかかってきた電話は公民館職員が当該者の自宅まで走って告げに行く、という光景がしばらく見られるが、1962(昭和37)年から1967(昭和42)年にかけて公民館に広域スピーカーが設置されてからは、区民への「お知らせ」はスピーカーで行われるようになる。
1968(昭和43)年1月調べによる電話設置数は1,765戸に対して51戸で2.9%、それが1971(昭和46)年2月では1,898戸に対して351戸で比率は18.5%になっていて、3年間で6倍以上の急速な伸びとなっている。
老人・青年
1962年9月、「全県」レベルで「沖縄老人クラブ連合会」が結成され、村内でも同年同月宮城老人クラブの結成を皮切りに五つの字で老人クラブが結成されたのを受けて、1963(昭和38)年9月には、既存の6字老人クラブが集まって村老人クラブ連合会が結成される。この年から翌1964(昭和39)年にかけて他の字でも「老人クラブ」の結成が相次ぐ。
会の目的は「健康増進」、「教養の向上」、「相互の親睦」、「社会奉仕による楽しく明るい社会、生きがいのある環境づくり」などにあるとされるが、その背景には「老人」を巡る社会環境の変化があった。
昭和41年版『厚生白書』は、出生率の著しい低下と死亡率の低下が「わが国人口の老齢化傾向を速めつつある」と指摘しているが、後に「長寿県沖縄」として全国に知られる沖縄でも同じような傾向は進んでいたと考えられる。人口の老齢化傾向の背景として白書は、まず農業、漁業などの第1次産業従事者が減少する一方、技術革新への適応の困難性もあって老人の雇用化が進まない現状を指摘する。一方「核家族化」の振興が「親族扶養、老人扶養意識の減退を促進させ」ている点、「生活様式や生活環境の急激な変化」が老人にとって必ずしも住み良い社会環境とは言えなくなっている点をあげる。
すでに述べたようにこの時期、栽培に手間ひまのかかる水稲栽培から農繁期と農閑期が分かれるサトウキビ栽培への転向が促進され、兼業農家が増大するが、その結果、家庭内労働力としての老人の位置や役割にも変化が生じることになる。たとえば、老人の余暇時間が増えるが、一方では孤独感や疎外感をつのらせることにもなる。
また伝統的な集落の行事・祭祀の場面で指導的役割を果たしてきた老人たちだが、そのような伝統行事も衰退ないし変化を始めていた。老人の心身の健康を図りつつ互いの連帯感を強める必要が、行政と社会、そして「老人」たち自身の間で求められていたのである。
青年たちの活動のひとつは、村の運動会・陸上競技大会・球技大会に参加して、字の連帯意識を確認し、高めることにあったが、そのための資金集めとして有給でサトウキビ作を支援するなどの活動、あるいは「教養の向上」を目的とした視察研修なども行っていた。これらの活動は、娯楽が少なく、那覇で遊ぶ機会も場も多くはなかった青年達の「男女交流」の場でもあった。
津嘉山の大城孔賢は、津嘉山農協の親子ラジオ技師を務めるかたわら、ソニーの録音機を取り入れてラジオやレコードからダンス曲を録音し、それを流して仲間の青年達に社交ダンスを教えた。青年会活動の一環であった。本人は那覇のダンス教習所で習ってきたという。1961(昭和36)年には喜屋武で青年会活動の一つにダンスが加わる。
その延長線にあったのが、字単位で行われる「盆踊り」の流行だろう。1967(昭和42)年には山川、1968(昭和43)年には喜屋武で盆踊りが開始される。開催の主体となったのは、喜屋武では青年会であり、公民館がバックアップした。夏休みの間に涼しげな浴衣を着て、老若男女がやぐら舞台を囲んで円陣で踊る光景の裏には、「日本復帰」が現実的課題として政治スケジュールに上り始める時期が重なっていた。同時に、テレビの普及によるヤマトスタイルと生活様式に慣れ始めた時期でもあり、それともうひとつ、公民館に放送設備がそろったことも流行の要因のひとつとなった。流される音楽でもっともなじまれたのが、1964(昭和39)年の東京オリンピックに合わせて歌われ、流行した三波春男の「東京オリンピック音頭」であった。
住スタイルの変化
伝統的な住宅様式を見ると、屋根は茅葺き、建物は道路側に向くか南向きに建てられ、東側など方位的に優位とされる側から順に一番座・二番座、その裏に裏座があった。一番座ないし二番座に仏壇があり、裏座は米や大豆などの物置だったり、若夫婦の居間となった。「茶の間」は二番座があてられるか、台所兼用だった。台所は左隣に設けられ、土間だった。畜舎や便所は屋外にあった。若者の部屋は、東側にトタン屋根の別棟で造られたこともある。
この様式は、茅葺きの家から瓦葺きに改築されても基本的に変わらなかった。瓦葺きには、戦前同様まるごと木造となることもあったが、台風対策を兼ねて、柱や壁はブロック・コンクリート製とし、屋根を木造瓦葺きとする家も少なくなかった。喜屋武の大城政喜が、1964(昭和39)年に建てた住宅がその一例である。この造りは「耐力性あるブロックの壁体と防水性、防暑性のある木造屋根からなり、それぞれの長所を生かした混構造であった」と説明されている。(『沖縄の住居』鈴木雅夫、1980)建物造りは、プロの棟梁の指導を受けながら、セメント調合など互いでできるものはユイマールー(相互扶助作業)でやるのが、普通だったという。
大城家では、それまで板戸だけしかなかった家にガラス戸が加わる。同家で変わったのは建物だけではない。住宅の新築に合わせて、屋敷囲いをブロック積みに変えた。この頃まで屋敷の周りには、シマダキ(リュウキュウチク)、仏壇に供えるフチマなど、有用の植物が植わっていた。ブロック積みに変わったのは、その方が「近代的」であるという意識もあった。
この時期、台所も変わり始める。きっかけとなったのは、すでに述べたように、水道の敷設(1964年)とガスコンロの普及(1965年)で、その結果それまで土間だった台所に床が張られ、イス・テーブルによる食事スタイルが始まる。一方、自宅に風呂が設置されるようになるが、それでも風呂はトイレと並んで別棟であった。電気洗濯機は風呂場に置かれていた。
住宅から屋根が消え、将来増築して2階建てとする際の「床」になることを想定して建てた1階建ての「スラブ・ヤー(スラブ家屋)」に様式が移っていくのは、1960年代後半のことである。この種の建物には外階段がもうけられ、屋根には増築用角柱が付属し、屋上は花ブロックで囲われる。この空間は洗濯物干し場、子どもの遊び場、「ミニ・ビアガーデン」などの「多目的広場」として活用されたが、一方旱魃による水道断水の予防策として、水タンクが設置される住宅も増える。この様式の住宅は、対風性を得るために、防暑性、防湿性を犠牲にしたことが特徴としてあげられる。
神里では、1970(昭和45)年に字で初めて「洋間」を取り入れた住宅が現れる。造りは1階スラブ建て。間取りを見て気づくのは南向きではあるが、従来のそれのように一番座、二番座、台所が横一列に並ぶ構造になっていないことである。
「玄関」を入るとすぐに「洋間」になっていて、このスペースにはソファーセットが置かれ、テレビもその一角に配置される。応接間と居間を兼ねた間取りで、いわゆるリビングルーム。その両脇に床の間6畳と、押し入れ・箪笥を備えた6畳間の2部屋がある。6畳間は寝室にもなる。洋間の先・北側に床張りの台所があり、イス・テーブルが置かれる。いわゆるダイニング・キッチンである。台所とブロック壁を隔てて東側にバス・トイレが設けられている。トイレは当初は汲み取り式だったという。台所の西側には和室6畳間があって、家族が増えるとここで食事をすることになる。
この間取りは、後の「団地」方式を先取りした設計になっているのである。
少し時代はさかのぼるが、1966(昭和41)年の役場調べによると、水洗式トイレがあるのは1,863世帯中、わずか12戸に過ぎない。
『大名誌』は1972(昭和47)年の「日本復帰」前後の住宅事情の変化を次のように記している。「日本復帰の昭和47年前後から、大名でも現代風のスラブ建ての家に造り変えられるところが増え、調理場も板張り床になり、風呂も室内用に変わり、便所も室内に水洗式になり、生活様式も格段に変化して清潔になった」。
4.「村」から「町」へ―「南風原らしさ」を求めて(1972~)
「豊かな自然環境を生かした、生活利便性の高い田園都市」を目指して
1972年5月15日、沖縄の施政権が日本に返還されるに伴って、日本国憲法を頂点とする新たな法体系のもとで、人々は「ヤマト世」を生きることになった。ドルショック直後の「世替わり」は、ドルと日本円の交換レートの引き下げ、あるいは1973(昭和48)年10月に始まる「オイルショック」などで生活の混乱を招く事態も起こしたが、南風原村においては新しい時代の到来を期して1974(昭和49)年11月、「南風原村総合計画」を策定した。「刊行のことば」で、時の村長大城徳盛は次のように述べている。
「沖縄県民の多年の願望でありました祖国復帰が実現して2ヶ年余、激動と混乱、模索と私達を取りまく情勢はまことにきびしいものであります。」「特に昨今の石油危機、異常物価、沖縄開発という美名のものとでの大資本による土地買占め、乱開発は地域社会に大きな変動を与えています。このようにゆれ動く情勢の中で、那覇市近郊の我が南風原村は、産業、人口の集中化がいちじるしく、次第に農村部までその波紋は拡がり、村の土地利用、行政上の幾多の問題をなげかけています。又、沖縄は政治、経済、教育等の面でも基盤が弱く他府県との格差は大なるものがあり、早急にその助成策が望まれます。」
「復帰」直後の急変する状況にどう対処すべきか、短い文章からも課題の深刻さがよくうかがえる。報告書に「田園都市」の定義はないが、『大辞林』では「田園地帯に適正規模で建設され、都市生活の利便と田園生活の風趣とを享受できる理想都市。一八九八年に英国のE=ハワードが提唱。」と説明されている。補足すれば、従来「農村」の「都市化」という形で直線的あるいは対立的に理解されてきた「都市」と「農村」の構図を書き換え、双方の特質を活かしつつ共生・共栄する新しいコミュニティづくりを指す用語として誕生したということだろう。
那覇市近郊であることが「産業、人口の集中化」を招いたが、それは県都に隣接するという「利便性」故の現象でもあった。周辺町村からすれば南風原村は、那覇市に行くのに通過しなければならない地域という意味での「交通の要衝」でもあることを意味する。それと連動した中心商店街の形成も課題であった。
南風原村はまた、那覇市に近接する肥沃な土壌に恵まれた農村としての伝統を持っていたが、その伝統を新しい時代の流通社会に通用・活用する方向性が求められていた。具体的な方途として報告書は、「さとうきび中心から野菜・花卉園芸中心への転換」を提案する。一方、戦前から知られてきた「琉球絣」の産地としての地域特性を活かす施策の必要性も説かれている。
車社会の到来と暮らしの変化
「植樹祭」(1972年)、「若夏国体」(1973年)、「沖縄国際海洋博覧会」(1975年)の「復帰記念事業」が終了して後の1978(昭和53)年7月30日、「本土一体化」の総仕上げとしての「交通方法変更」が実施された。
同年度発行の『南風原村勢要覧』で見るとこの年の普通乗用車普及は1,892台で1.46世帯当り1台、軽乗用車211台で13.15世帯あたり1台となっている。両者を合算すると2,103台、1971(昭和36)年時点の889台から見て2.4倍近い数字になっている。
車社会の到来は余暇の過ごし方にも大きな変化を与えた。ひとつは、ドライブ・ブームと連動したドライブイン・レストランやドライブ・スルーの登場であった。南風原でのさきがけは「南風原ドライブイン・レストラン」である。開店は1972(昭和47)年、売れ筋のメニューは「Aランチ」「Bランチ」であった。
1973(昭和48)年に与那覇近くに開店した「A&W」はアメリカ仕込みのハンバーグとフライド・チキン、飲み物としてルートビアを提供した。車に居ながらにして注文と食事ができるのが宣伝文句であった。次いで、ハンバーグ専門の「マクドナルド」、フライド・チキン専門の「ケンタッキー・フライドチキン」が誕生する。
これらの店はいずれも国道329号線沿いに開店し、人気を博した。それは、ファスト・フード時代の到来も意味していた。
自家用車でのドライブにランチ、ハンバーガー、フライド・チキンなどで外食。それらの流行は、かつて憧れたアメリカ文化社会へのノスタルジアであっただろうが、憧れたアメリカ式生活スタイルの実現でもあった。円高・高度成長時代の日本に復帰することでそれが実現できたとすれば、「ヤマト世」も悪くないと実感した人もいたに違いない。
時代を同じくして、国道329号線沿いには中古車・新車の販売店、修理工場、ガソリンスタンドが相次いでオープンする。中古車販売店の先駆けは一日橋近くにできた「希望の広場」で、早くも1961(昭和36)年に開店している。昭和58年版『町勢要覧』では、一帯の写真のキャプションが「別名南風原中古車街道」と記されている。
1975(昭和50)年5月、沖縄国際海洋博覧会開催を目前にして石川~名護間に「沖縄自動車道」が開通、翌1976(昭和51)年、兼城(南風原)十字路から那覇高校の間でバス専用レーンが実施される。
団地と「スーパー」
1977(昭和52)年11月から翌1978(昭和53)年にかけて、兼城・本部・津嘉山にまたがる県営(第一)団地・県営第二団地の入居が始まり、1977年12月には県住宅供給公社によって兼城・本部にまたがる一帯に造成・建築された「南風原分譲住宅」(いわゆる「分譲」)の供給が開始される。
県営団地は賃貸アパート形式で3DKの250戸、第二団地は3DKないし3LDKの320戸、分譲住宅は一戸建ての196戸、合計すると766戸となる。
県営団地はエレベーターなしの5階建てで、その間取りを見ると、ほぼ真四角でトイレが外側階段の上にはみ出す設計になっている。玄関に入ってすぐ左がバスとトイレ、玄関正面がダイニング・キッチン、ダイニング・キッチンの隣に洋室、奥に和室の6畳間、その右隣(洋室の奥)に押し入れつきの4畳半和室、そしてダイニング・キッチンと6畳間の外側にバルコニーがある。若夫婦2人に子ども2人の家族構成が想定される。
一方、分譲住宅の方は2階建てで1階部分に応接間、ダイニング・キッチン、6畳和室、バス、トイレ、2階部分が洋間2室となっている。入居から5~6年が経過した時点での1戸当りの平均入居者数は分譲住宅(後「兼本ハイツ」と改称)と「第一団地」が4.2人、第二団地が3.9人となっている。中年夫婦2人に子ども2人の家族構成がイメージされる。
3団地の入居開始は南風原村の急速な人口増と町並みの変化をもたらすことになる。対前年人口増加率を見ると、10年来0.2から3.2%の範囲で推移していた数値が、1971(昭和46)年に5.8%に増え、「復帰」の年1972(昭和47)年には8.1%と急増する。これは国家公務員、自衛隊、本土系企業の社員などが那覇市近郊に居住地を求めたことが要因として想定されるが、その後一時下降した後、1977(昭和52)年に8.7%、1978(昭和53)年には9.4%と再び急増する。これは明らかに3団地の入居者数によるものであろう。1970(昭和45)年の人口総数は10,917人だが、1980(昭和55)年には2倍近い20,127人にはねあがっている。
続いて1982(昭和57)年に兼平ハイツ、1988(昭和63)年に東新川と北丘ハイツ、2000(平成12)年に宮平ハイツが入居を開始する。
1979(昭和52)年5月、「分譲住宅」、県営団地と国道329号線をはさんだ場所に「プリマート一日橋ショッピングセンター」が開店する。当初は1階建てで食料品スーパー、衣料品スーパー、洋菓子店などが店を並べたが、2年後に2階を増築、総菜屋、ダンキンドーナツ、ケンタッキー・フライドチキン、化粧品店、薬局、電器店などが同居する。
1979(昭和54)年8月には、宮平の国道沿いにショッピングセンター「ファミリープラザ丸大」がオープン、この年、1976(昭和51)年7月にオープンした農協スーパーと合わせて三つの大型スーパーマーケットが並ぶことになる。そして1983(昭和58)年には一日橋に総合衣料スーパー「マルエー」が開店する。
時期はさかのぼるが、DIY(Do It Yourself)をうたい文句としてホームセンター「メイクマン」一日橋店がオープンしたのは1976(昭和51)年のことである。余暇を利用して「一日大工」や「庭づくり」にいそしむ人々が増えたことの現れである。
これらの大型店舗が宮平、兼城(南風原)十字路から一日橋界隈に集中して現れるのは、人口増に加えて村民、近隣住民の暮らし振りが安定してきたことを示すものであろう。それとともに、いずれも大型駐車場を兼ね備えていて、車社会の到来が要因となったことも確かである。スーパー形式の品揃え、販売方法がアメリカからスタートしたことも付記しておかなければならない。
こうして、「南風原村」は1980(昭和55)年4月1日をもって「南風原町」に移行する。
かぼちゃ産地宣言
「さとうきび中心から野菜・花卉園芸中心への転換」とは、言い換えれば「都市近郊型農業」への転換を図るということであった。出荷の射程は、早くも那覇市を通り越して「本土」まで伸びていた。1973(昭和48)年、「熱帯の切花」ストレリチアの県外出荷が始まった。1974(昭和49)年には山川で冬瓜、1975(昭和50)年には同じく山川でカボチャの本土出荷が開始される。
1976(昭和51)年10月29日、南風原農業協同組合は津嘉山農協とタイアップして、「カボチャ特産地宣言」大会を開催した。翌日の琉球新報は、「サトウキビからカボチャを基幹作物に―。」本土の端境期をねらい昨年からカボチャを本土に出荷している南風原農業協同組合(与那嶺盛男組合長)は「今後、村ぐるみで銘柄カボチャを生産、本土に売り込もう」と宣言の趣旨を記している。そのうえで、カボチャの増産と出荷増を図るねらいとして「単収がサトウキビよりいい」、「端境期は高値相場で売れる」、「冬場は沖縄の気象条件がよく、露地栽培が大量にできる」の三つをあげている。
その後のカボチャの出荷額には上下の変動があるが、目立つ傾向としては生産・出荷品目の多様化がある。平成12年度版『統計はえばる』第7号で「個別農産物粗生産額順位」を見ると1位が生乳、2位サトウキビ、3位へちま、以下10位までの順位はきく、きゅうり、豚、ストレリチア、カボチャ、鉢物類、にがうりとなっていて、10品目で粗生産額の84%を占めている。
1977(昭和52)年、南風原村で初の「土地改良総合整備事業」が始まる。この事業は「農業用排水施設、農道の整備、暗渠排水、客土、区画整理、交換分合などの事業を地域の実情に応じて、メニュー方式で実施することにより、農業生産性の向上を図る事業」とされるもので、引き続き宮城、山川、宮平でも実施され、他の「農道整備事業」、「かんがい排水事業」、「農村基盤整備事業」なども加わって、「農業生産性の向上を図る」上で、効果をあげていると見られるが、農村景観を変える結果ともなっていることは否定できない。
『統計はえばる』第7号から農業に関する他のデータも紹介しておきたい。1980(昭和55)年から2000(平成12)年の間に農家数は1985(昭和60)年の1,026戸をピークとして急減し、2000(平成12)年には3分の1強の362戸に減っている。ところが「年齢別農家人口の推移」では、30歳から59歳の「働き盛り」の農家人口が増加の一途をたどっていて、その下及び上の世代の人口が減少していると際立った対照を見せている。これは、第2次産業他の職種についていた人たちが景気の落ち込みでリストラなどに遭い、農業にUターンしたものと役場では見ている。
かすりの里
南風原の伝統的な産業として一般に知られているのは「琉球絣」である。その沿革について、沖縄県工芸指導所のホームページは次のように記している。
「琉球絣とは、かつては沖縄で織られている絣柄を総称していましたが、今では南風原産地で織られる絣織物を特に称します。起源は、1611年儀間真常が薩摩より木綿の種子と、木綿技術を導入したことに始まったと言われています。大正の頃までは、小禄、豊見城、垣花が盛んな地域で、藍染の紺地に白絣が特徴でした。現在は南風原町が主な産地となり、製品も多種多様なものが織られています。今では県内織物生産高の大半を占めています。」
「復帰」後の琉球絣を巡る状況を概観する。1975(昭和50)年1月、「琉球絣事業協同組合」が設立される。翌1976(昭和51)年から5年間の生産高の推移を見ると、26,000反から27,400反の間を上下している。この間、1977(昭和52)年10月18日には、「琉球かすりの里宣言」が行われる。当時の琉球新報は結成の背景や動機などについて次のように報じている。
「琉球カスリを正しく継承、発展させ農業生産以上の売上を―。南風原村喜屋武、本部、照屋の三で結成する琉球絣事業協同組合(赤嶺猛理事長)はさる18日、県、村、同議会など関係者を集め、南風原村をカスリの生産地にしようと「カスリの里」宣言を行った。同村は昔から県下で一番のカスリ産地として知られているが、最近の不況続きはカスリ生産農家にも影響を与え、売上はガタ落ちしている。このため、本土、県内向けに“特産地”として宣言、市場拡大を図り、再びカスリ事業を振興させることになったもの。」
1980(昭和55)年4月には「琉球かすり会館」が建設され「原料糸・染科・織物機材の共同購入、共同販売、技術研修などの事業」を行っている。1983(昭和58)年4月27日、「経済産業大臣指定伝統的工芸品」となる。
絣のルーツは南・東南アジアにある。県内でも芭蕉布、首里織、久米島紬、宮古上布、八重山上布などの代表的な織物はいずれも絣文様をはずしてはありえない。その意味で21世紀の到来を間近にした2000(平成12)年11月、町制施行20周年事業として開催された「南風原・アジア絣ロードまつり」は、単に「絣」あるいは「織物」の範囲を越えて、南風原からアジアへ、あるいは南風原からアジアを発信するという画期的な意義を持っていた。
事業内容は「絣の道」の見学会と織物体験、インドネシア、台湾、タイなどの音楽や民俗芸能、アジアの食体験、インド、バリ島、フィリピン、タイ、ウズベキスタンなどアジア各地から招いた人々による織の実演、企画展「南風原・アジア絣ロード展」の開催、琉球絣デザインコンテストや絣のファッションショーの開催、「アジアの絣・世界の絣」と題する記念講演、絣フォーラムの実施など多彩な行事が展開された。
伝統の見直し―地域再発見
地域伝来の「琉球絣」を「アジア的規模」で再確認・再発信するということは、南風原の人たちにとって「地域」の「再発見」でもあったと考えられる。その意味で、町内各地でかつて演じられていた(民俗)芸能を見直し、再現しようという動きも「地域再発見」のもうひとつの大きな流れとなった。
その端緒をつくったのは、1978(昭和53)年に中央公民館が開館したことを契機にして開催された「郷土芸能鑑賞の夕べ」に始まり、翌年から趣旨を「古くから伝わる各地の民俗芸能の交流を通して、町民俗芸能の振興を計り、ふるさとを愛する心を育てる」と改めて衣替えし、2004年で25回を迎えた「民俗芸能交流会」である。
民俗芸能交流会の開催は眠っていた各字の芸能復活にも大きな役割を果たした。1990(平成2)年の第12回交流会までに復活した芸能は組踊り、獅子舞、狂言、「舞方」など8ヵ字で64演目に及んでいる。そして2004(平成16)年の第25回交流会までに芸能交流した字や団体は県内22市町村41字、県外1市、団体16、町内では8字、65演目に及んでいる。
芸能交流の舞台は、他市町村、他団体との競演の場であると同時に、芸能比較の場でもある。それが、町民の芸能に対する視野を広めることにつながる。視野の広がりは、南風原町の芸能を再認識し、さらなる芸能復活を呼び起こす契機ともなる。伝統の再評価は、地域の再評価につながり、ムラ起こし、町起こしにつながる。
町の「民俗芸能の振興を計る」ことが、「ふるさとを愛する心を育てる」ことにつながるとする考え方の背景には、急速に進む「都市化」があり、新住民を交えた村(町)民の「心」を再結集する必要性に迫られていたという事情もあったと思われる。住民の「地域再発見」の拠点として登場したのが、南風原町立南風原文化センターである。開館は1989(平成元)年11月3日。
南風原文化センターの活動は多岐にわたるが、その根底にあるのは、何よりもまず「南風原」という地域に根ざすこと、そして足元を掘っていくと「アジア」の根っこにつながっていくということ、そして「平和」が保たれてこそ「文化は継承し、創造すること」が可能であり、花が開くこと。この三つである。
「黄金南風(こがね・はえ)の平和郷(さと)・はえばるをめざして」
1997(平成9)年、南風原町は第三次南風原町総合計画を策定した。メインタイトルは「黄金南風(こがね・はえ)の平和郷(さと)・はえばるをめざして」。キーワードは「平和」、「発展」、「調和」。急激な都市化の進展に行政が追いつけなかったという側面を認めながらも第三次計画では第一次、第二次計画を受け継いで「自然と文化が活きづく田園都市」を南風原が描く将来像・都市像として提起している。そして「将来の都市像を築き上げていく」ための町民像として掲げられるのは「やさしさと楽しさと誇りに満ちて、未来を創造する町民」である。