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那覇市立壺屋焼物博物館の誕生ー焼物を展望する拠点に

2012-06-22 07:11:10 | Weblog
 那覇市壺屋に、県内ではじめての焼物をテーマとした博物館「那覇市立壺屋焼物博物館」が、2月3日にオープンする。平和通りを出て「やちむん通り」に入るとすぐ左、ひめゆり通りから入ると、県の文化財に指定されている登り窯「フェーヌ窯」の右手先にある。「平和通り」「市場」「サンライズ商店街」と「やちむん通り」を結ぶ場所である。

 通りから見ると縦長の小規模な建物に見えるが、奥行きが長い。右手に幅広い上り階段があって、上りきると広場になっている。この広場には、現在の県庁敷地から出土し、掘り取られた湧田の窯跡が展示されている。一段と小高いところにガジュマルの大木に囲まれたお宮(ニシヌメー)がある。広場はあたかもお宮の境内、階段は表参道に見える。このお宮は大正時代に設置された壺屋地域の守り神で、今は焼物の神様でもある。参詣者も少なくない。博物館は、この神様に抱かれ、見守られる形に設計されている。設計は、沖縄キリスト教短期大学の設計で日本建築学会賞を受賞した真喜志好一氏。

 玄関から中に入ると、細長いロビーがあり、ここは無料空間になっている。休憩・待ち合わせ・用足しなど、通りを歩く人々に気軽に利用してもらおうという趣向である。しかし、この場は博物館の展示のプロローグ部分でもある。「焼物と沖縄」と題し、「焼物とは」「焼物の交流」の二つの解説があって、関連する周辺地域の焼物も展示している。ロビー右奥には「ゆんたくコーナー」がある。ここには館の職員が常駐し、求めに応じて展示の解説をしたり、館の刊行物を配付・販売したり、観覧客のいろいろな質問に答えられる態勢をとる。この博物館だけでなく、他の文化施設や那覇市・県の文化財・文化情報も提供する。

 常設展示室入口には、「観覧者のみなさまへ」というメッセージがある。

  人が手を使い、火を使い、自然を素材として作り続けて今にいたる焼物。それは、長い歴史を持つ人類の文化遺産です。

 わたしたちの沖縄でも、人々は周辺地域と交流しながら、自然に親しむ暮らしの中で焼物の文化を育ててきました。焼物の歴史をたどると、時代の求めに応じながらさまざ まに変化してきたことがよくわかります。
  そのようすを、沖縄の焼物を支え、リードしてきた壺屋と壺屋焼を中心に描くのが、わたしたちの博物館のテーマです。この展示を壺屋のまち並みにつなげていただき、壺 屋焼と沖縄の焼物のこれからを考えていただければ幸いです。

 このメッセージに、壺屋焼物博物館の展示に対する基本的な考え方やスタンスは集約されているといってよい。まず、焼物が人類の普遍的な生活文化、工芸文化の一角を担って今にいたること。沖縄の焼物の場合、自然や暮らしとの交わりや、日本・朝鮮・中国・東南アジア各地との交流の中で生まれ、育ってきたこと。それらの条件は、沖縄の焼物の伝統や特徴を生み出したが、一方では、自然・生活・周辺地域のあり様が、歴史の要請を受けて絶えず変化してきたことに見合う形で、焼物自体が変化してきたのも、紛れもない事実である。また、文献によれば、壺屋は知花(現沖縄市)、宝口(首里)、湧田(現県庁・壺川一帯)の窯場を、琉球王府が一六八二年に統合してできた窯場だという。300年以上の歴史を持つ由緒ある窯場に設けられた焼物博物館として、焼物の歴史をしっかり踏まえながらこれからの沖縄の焼物を展望する拠点にしたい、そのような思いの表明でもある。
 焼物を核とした、地域に根ざし、地域に開かれた博物館。それが、この博物館の目指すところである。

 話を変えて、私たちが「過去」の記憶を失ったとしよう。そうすると、私たちは「現在」の自分の位置さえわからず、これからの自分の生き方もわからなくなるだろう。「自分探し」は、自分の足跡をたどることから始まる。同じように、地域なり、民族なり、あるいは国家なりにそれぞれの「歴史」があればこそ、その地域・民族・国家の現在や未来があり、それぞれの個性や特性、言い換えればアイデンテイ テイ もある。「歴史の教訓」を学ばなかったところに、歴史の悲惨が起こったことは、文字通り歴史が証明している通りである。

 話がおおげさに聞こえるかもしれないが、そうではない。広い意味での歴史博物館というところは、「歴史」があればこそ、「現在」も「未来」もある、ということを、〈もの〉を通して学ぶところだということを言いたいのである。文字や数字だけが、情報を発信するのではない。〈もの〉の一つ一つが祖先の生きざまの結晶であることからして、〈もの〉が語るところを、〈もの〉からじかに聞くことは、祖先から「歴史の教訓」を教わること以外の何物でもない。
 幸い壺屋は、今度の戦争でほとんど被害を受けなかったために、戦前の窯場のたたずまいを随所に残している。〈場〉は〈場〉なりに〈もの〉としての語り口を持っている。その意味で言えば、私たちは〈博物館〉を建物に限定して考えない。この博物館が所在する地域全体を、これまで述べてきた意味での〈博物館〉ととらえている。前置きが長くなったが、メッセージでいう「この展示を壺屋のまち並みにつなげていただき」という言い回しの裏には、そのような私たちの考え方が込められているのである。

 話を展示の内容に戻すと、常設展は「焼物の歴史」のコーナーが第一部となる。沖縄における土器の使用から始まり、窯を使って焼いた最初の焼物、陶磁器輸入の時代、瓦の始まりを経て、壺屋に先行する諸窯、そして壺屋の始まりと展開、近年の壺屋焼につながる。ついで、「暮らしと壺屋焼」のコーナー。ここには、昭和の初めに造られた壺屋の瓦葺き民家の台所部分を復元し、暮らしの中で使われた壺屋焼を紹介するが、民家の建つ空間は吹き抜けになっていて、前の壁面は大型のスクリーンに変わる。二百数十枚のスライドを連続的に投影することによって、戦前・戦後の壺屋の暮らしぶり・仕事ぶりの変遷を定期的に映像で示す。壺屋の人々の語りが間に入り、北島角子のナレーションが語りをつなぐ。

 2階は、瓦の製法の紹介に続いて「壺屋焼の製法と特徴的な作品」。第1部が考古学・歴史学の立場から見た焼物、第2部が民俗学の立場から見た焼物の紹介だとすると、この第3部は工芸の立場からする焼物の紹介、ということになる。このコーナーには、敷地から発見され掘り出されたニシヌ窯の窯跡がほぼ原位置に展示されている。屋上広場の湧田窯跡の展示と合わせて二つも窯跡を展示するのも、この博物館の特徴である。常設展は、沖縄の焼物に多角的に光を当てることによって、焼物を通して見た沖縄文化・沖縄文化史を構成している。展示資料は、関連資料も含めて約400点にのぼる。

 開館を記念する特別展は「陶磁器に見る大交易時代の沖縄とアジア」と題する。3階の企画展示室で開かれる。琉球が、14・15世紀を中心に中国・朝鮮・日本・東南アジア諸国と交易を行い、繁栄した様子を、首里城をはじめとする県内各地の遺跡から出土した国内でもトップレベルの陶磁器類で紹介しようというものだ。「万国津梁の時代」、国中に満ちあふれていたという異国産の財宝類の一端をうかがうことによって、国際化時代、アジアの時代における那覇市・沖縄県の今後の道を探ることができれば、という趣旨で企画された。
 多くの方々のご来館を期待する。(3165字)
                                                            (「沖縄タイムス」1988.1/28・29の末尾を改稿)
 

知念盛俊著『沖縄ー身近な生きものたち』(沖縄時事出版社)

2012-06-22 06:55:29 | Weblog
 サブタイトルは「わが子に語る博物記」となっている。博物記とか博物館といった「博物」の語がつく名詞はすでに古語もしくは死語と化した、とみなす向きもあろうが、そうではない。「生き物」を含む「物」の世界の「博(ひろ)さ」(多様性)を「博く」(多角的に)記すのが「博物記」であり、それを観(み)るところが「博物館」なのだ。

 この本の著者は、30余年にわたて高校の生物教師を勤めて退職、現在は沖縄県文化財保護審議会専門委員、佐敷町文化財保護委員、沖縄生物学界副会長などの役職をこなしながら、一方で町おこしの活動にも力を入れておられる沖縄生物学界の指導者の一人である。

 その人が、幼少のころには佐敷の山野・田畑で慣れ親しみ、その後は生物学の研究者・教育者として全県内で引き続き付き合いを重ねてきた生き物たちへのラブコールにも似た思いを綴ったのが、この本である。生物学者としての調査・研究実績をベースにしながら、人と生き物たちの交わりを自身の生活体験に照らして、また生き物たちにかかわる伝承や歴史から古今の琉歌・俳句・和歌を自在に引用しながら語り継ぐさまは、まさに博覧強記、「博物記」の見本といえよう。

 しかし、それだけではない。著者が愛してやまない生き物たちが今、生息環境を狭められ、姿を消しつつある。失われつつあるか、失われた身近な小動物たちへの愛着と哀惜の思いは、その変化をもたらした人間たちの生活の「近代化」やもろもろの開発行為に対する自責を込めた静かな怒りと警告となって、随所に織り込められている。

 自然界の多様性が失われることは、人間と生き物たちとの多様な交わりが失われることであり、それはそのまま人間の自然性=多様性=人間性の危機の到来を意味している。そのことを踏まえながら、生き物たちとの共棲=共生を図る政策的提言まで行うところに、著者の真骨頂が発揮されている。著者と身近な生き物たちに拍手!
        
                                                                                        (「沖縄タイムス」1998.10.16)

<知念盛俊先生から学んだこと>

 知念盛俊先生が今年3月で定年退職なさるとのこと。私にはいつでも青年教師のイメージしかないから、むしろ私自身が相応に年齢を重ねてきたという思いが強い。私が知念高校に入学したのは1961年4月で、担任が知念先生だった。先生は1957年に知念高校採用ということだから、文字通りの青年教師であったはずだが、しかしその時すでに先生はある雰囲気、否、風格とでもいうべきものを備えておられた。

 それは当時、すでに御自分の研究分野を確定し、研究の方法や資料の収集についても自覚と自信を持っておられたことに起因するものであっただろうが、その時の私にはまだ理由がよくわからなかった。しかし、並大抵の教師でないことはよくわかった。それは生徒に向かう態度に差をつけないところにもよく現れていた。それも、今にして思えば、先生の<科学>的な姿勢の延長であったかもしれない。資料に対する先入観を排除するという態度でもある。ともかく、<学問>とか<研究>というものの片鱗を、私は知念先生から初めて教わった。

 先生に対する青年のイメージは、しかし決して年齢が若かったというだけの理由ではない。研究の対象や方法に対する執着と愛着の度合いにおいて、通常の人間の常軌を逸しているという点においてまさにそうであった。研究対象である陸産貝他の標本が御自宅のすみずみに積まれている光景や、調査に不可欠のカメラと写真、後にはコンピュータに対するこだわりも、はたの人間には理解できないはずであった。そのことは、この後述べる沖縄県立博物館の企画の相談で御自宅にお伺いしたときに確認したことである。先生御自身「常軌を逸している」ことを認めておられて、そのことをおかしそうに話しておられたのがついこの間のようである。

 私が沖縄県立博物館に勤めて2年目の1974年、所蔵資料を博物館の企画展として公開したい旨相談を持ちかけたところ、快く引き受けていただいた。「陸産貝と淡水産貝」展と称して9月19日から29日まで特別展示室で行われたが、沖縄県立博物館始まって以来の自然系展示であった。同時に、その年から始まった「博物館文化講座」の講師として、9月28日に「陸産貝の話」をお願いしている。

 研究者としての先生に直接接することができた3度目の機会は、佐敷町史の編集委員として一緒に仕事をさせていただいた時である。この時の先生の「自然篇」に対するこだわりも見事であった。従来の市町村史(誌)が、その「地誌」的性格のためか、自然に関わる記述がきわめて少ないことや体系的でないことに、先生はかねがね不満を持っておられたようで、その点で私も同意見であった。地域の歴史や文化は、その地域の自然環境を抜きに語れないし、佐敷町史は「史」の字を冠するにしても、佐敷という地域を知るエンサイクロペディア的な内容であるべきだ。そのことが編集委員会で確認されると、先生は早速第一線で活躍しておられる高校の教師や、大学の先生方を専門委員に加え、調査を開始された。もちろん、その中には先生の教え子も交じっていた。

 調査の徹底ぶりは、事務局のメンバーから仄聞したに過ぎないが十分に予想されることであった。佐敷の<自然科学的現在>を可能な限り記録に残したいという側面と、その自然を小学校高学年から大人まで観察できる手引きともしたいという、二つながらにむずかしい仕事を仕上げた先生であるが、その仕事は研究者・教育者としての中間総括でもあった。これからの市町村の史(誌)編集において佐敷町史自然篇は、避けて通れない関門であることは、おそらくまちがいない。

 先生の、そして私のふるさと佐敷町は、目下「全町植物園構想」を打ち出しているが、それも先生の発案であり、現在その基本計画策定委員として御活躍中と聞く。定年退職後の先生の「青年」ぶりがどのように発揮されるか、今から楽しみである。
                
                                                                (『わが師わが友2-知念盛俊の半生』、自由獅子会)

パリ国立人類博物館所蔵の沖縄陶器

2012-06-22 06:36:21 | Weblog
 パリにある国立人類博物館に、一連の沖縄陶器コレクションがある。

 その概要については、すでにヨゼフ・クライナー教授が報告しておられる。教授によれば、これらはもともと「Baron Guy 男爵」のコレクションである。男爵は外交官だったフランス人から入手したとされる。この外交官が1939(昭和14)年に沖縄を訪れた際に手に入れたもので、32件ある。番号は「47.11 から47.1.48 」まで。一部に尚(順)男爵による「マーク」があるという。(Josef Kreiner(Ed.) Sources of Ryukyuan History and Culture in European Collections, 1996,Germany)。

 わたしたち(川平博一・渡名喜明)は1999年1月8日、同博物館を訪れ、クライナー教授報告の「Baron Guy 男爵」コレクション「32」件のうち、28件を確認できた。以下に掲載するのは、その目録である。調査は、同館のCristine Hemme 女史のご協力によるものである。女史のご好意でコレクションの目録もコピーさせていただいたが、諸般の事情でその紹介は別の機会に行いたい。
 その他に、資料棚から壺屋焼の徳利1点と紙製の張り子人形1点も確認できたので、録の最後に追加した。

 以下では、同館所蔵の沖縄陶器について、概要を述べることにする。「47.1/21-1 」以下は、資料添付の番号であり、寸法単位はcmである。なお、尚順男爵の「マーク」入りの作品は見当たらなかった。

資料目録と注記

1 47.1/21-1 魚文・帆船文急須
 高さ9.3(蓋まで) 最大径9.3(口先まで) 底径5.7
「民藝 琉球特産館作」の印刷赤ラベルあり。「\100」の価格ラベル付き。
〈注〉いわゆる「長太郎焼」といわれる技法による。全体に黒釉を施した後に、線彫りで文様を描き、文様の地を掻き落とす「掻き落とし」の技法による。胴部を上下二段に分け、上部に魚と帆船、下部に波を描く。蓋の裏側は白化粧をして後、透明釉をかけている。高台に銘はない。「琉球特産館」の所在などは不明。

2 47.1/22-1 魚文・帆船文サキヂューカー
 高さ5.7 最大径14.2( 口先まで)
〈注〉泡盛を入れる器で、平たい急須の形をしている。内部に飴釉を施す。胴部は面取りになっていて、技法・文様は前記1「魚文・帆船文急須」と同じ。同一職人の作と考えられる。高台に銘はない。

3  番号なし 魚文杯
 高さ2.7 口径4.4 高台径2.1 (以上平均)5個。
〈注〉上記資料2 「魚文・帆船文サキヂューカー」とセットと考えられる。

4 47.1/23-1 赤絵菊文サキヂューカー 高さ6.8 最大径14.7( 口先まで)
「民藝 琉球特産館作」の赤ラベルあり。「\210」のラベル付き。口一部欠損。表は緑・黄の釉薬も。内部は透明釉。
〈注〉白化粧を施して透明釉をかけ、一度焼上げてから、赤・黄・緑などで上絵付けを施し、再度焼いて仕上げたもの。蓋裏や底部にも白化粧をかけ、透明釉が施される。典型的な壺屋焼の技法である。菊花や幾何文などの筆使いは達者で、熟練した陶工の作品と考えられる。




5 47.1/24 赤絵菊・幾何文カラカラ            
 法量計測漏れ。赤の他に緑・青・黄の施釉。注ぎ口・口回りにも赤釉。胴部面取り。
〈注〉前記3 と技法・文様が似通っていて、同一作者かとも見られるが、使用の痕跡(底部の汚れ)がある。高台に銘なし。

6 47.1/1 赤絵菊・波・牡丹・鳳凰文皿
 高さ7.2 口径27.7 底径10.0 青・黄の施釉もあり。
〈注〉白化粧に透明釉をかけて焼いた後、赤絵を施す。牡丹や菊、鳳凰の筆致が見事で、当時の職人の技がハイレベルであったことをうかがわせる優品である。裏にも赤絵の文様が施される。今回調査した作品の中で群を抜く優品である。



7 47.1/2 三彩皿
 高さ6.4 口径25 高台径10.1 高台内に「琉球」の判、高台につり下げ紐用穴2有り。裏は黒釉を施す。
〈注〉現在の壺屋焼でもよく見られる技法。白化粧の上にコバルトと飴釉で斑点文をほどこす。壁にかけることを意識した紐用穴の存在も、食器としての本来の用途に加えて、壁飾りとしての用途を意識していたことを示す。

8 47.1/3 「琉球古典焼」魚文皿
 高さ3.5 口径17.6 口径16.6 高台径8.1 。「琉球古典焼」の赤ラベルが貼られる。高台につり下げ紐用穴2有り。
〈注〉線彫り・掻き落としによる魚文皿。高台に銘はない。以下、資料25までの20枚が同一技法で、大きさもほぼそろっていることから、同一職人あるいは同一工房の作品と考えられる。1000度以下の低火度で焼き、絵の具類で色を施したと見られる。高台に紐でつり下げるための穴もついているが、作品としての完成度は低い。安手のお土産品としてつくられたと推察される。「琉球古典焼」のラベルには上下に帆船、下部に魚文が木版風に表現される。

9 47.1/4 「琉球古典焼」鳥文皿
 高さ4.0 口径16.6 高台径8.1 。高台につり下げ紐用穴2有り。

10 47.1/5 「琉球古典焼」魚文皿
 高さ2.9 口径16.6 高台径9.0 。高台につり紐。

11 47.1/6 「琉球古典焼」鳥花文皿
 高さ4.0 口径16.2 高台径8.4 。「琉球古典焼」の赤ラベルあり。高台につりひもあ
り。

12 47.1/7 「琉球古典焼」鳥文皿
 高さ3.7 口径14.7 高台径7.7 。「琉球古典焼」の赤ラベルあり。

13 47.1/8 「琉球古典焼」魚文皿
 高さ4.0 口径16.6 高台径7.8 。高台につり下げ用紐穴2。

14 47.1/9 「琉球古典焼」象・花文皿
 高さ3.7 口径15.8 高台径8.6 。高台に吊り紐あり。
〈注〉壺屋の陶工たちの間で「エジプト模様」と呼ばれるものの典型。

15 47.1/10 「琉球古典焼」波・鳥・花文皿
 高さ4.2 口径15.9 高台径8.2 。高台に吊り紐あり。

16 47.1/11 「琉球古典焼」人物・花文皿
 高さ3.6 口径16.0 高台径8.6 。高台に吊り下げ用穴2。

17 47.1/12 「琉球古典焼」人物・花文皿
 高さ4.0 口径15.6 高台径7.6 。高台に吊り紐。
「笛を吹く武装した兵士」の文様。典型的な「エジプト模様」。

18 47.1/13 「琉球古典焼」軍艦文皿
 高さ3.6 口径15.3 高台径7.8 。「琉球古典焼」の赤ラベル。高台に吊り紐。
〈注〉船に櫓が載る。軍艦の意匠と見られる。

19 47.1/14 「琉球古典焼」軍艦文皿
 高さ3.4 口径16.7 高台径9.6 「琉球古典焼」赤ラベル。高台に吊り下げ用穴2。
〈注〉船上の車上に、櫓が載る。

20 47.1/15 「琉球古典焼」軍艦文皿
 高さ3.8 口径15.6 高台径8.3 。高台に吊り下げ用穴2 。「¥30」の値札がつく。
〈注〉船上に石橋が載り、その上に櫓が配される。以下、資料23まで同じモチーフ。

21 47.1/16 「琉球古典焼」軍艦文皿
 高さ3.8 口径14.8 高台径7.9 。高台に吊り紐。

22 47.1/17 「琉球古典焼」軍艦文皿
 高さ3.8 口径16.4 高台径8.5 。高台に吊り紐。「琉球古典焼」赤ラベル。



23 47.1/18 「琉球古典焼」軍艦文皿
 高さ4.2 口径15.8 高台径7.4 。高台に吊り紐。

24 47.1/19 「琉球古典焼」軍艦文皿
 高さ3.8 口径16.6 高台径7.7
〈注〉船上に兵士が乗る。

25 47.1/20 「琉球古典焼」馬・蘇鉄文皿
 高さ4.8 口径18.9 高台径8.0 高台に吊り紐。
〈注〉着飾った軍馬に蘇鉄はミスマッチだが、ほほえましい文様。



26 47.1/33 荒焼菓子皿
 高さ8.2 口径22.2 高台径10.1
〈注〉指で両縁を内側に折って、アクセントをつける。器面に施されているのは、マンガン釉か。

27 47.1/34 魚・軍艦文花生け
 高さ29.8 胴径12.5 口径8.6 底径6.4
〈注〉器面の色使いは前記資料26と同じ。

28 47.1/35 荒焼爪楊枝入れ
 高さ4.8 胴径6.3 口径4.3 底径4.5
<注記>器面の色使いは前記資料26・27と同じ。3作品とも同一職人もしくは同一工房の作と考えられる。

 以上が、わたしたち確認できたバロン男爵のコレクション(沖縄陶器)である。他に下記の作品が、資料棚の一角から見つかったので付記する。

29 988.40.16上焼獅子沖縄島盛り付け文徳利
 高さ15.3 口径3.2 胴径7.3 底径6.4
〈注〉白化粧を施した器面の片側に沖縄島、反対側に獅子の文様を張りつけた「タックワーサー」の技法による日本酒用徳利。薄い飴釉と緑釉が文様と口部に施されている。

30 67.36.123 張り子玩具・ホートウ グワ ー
 高さ8.5 長さ13.5 幅6.3
〈注〉紙製の張り子の鳩。玩具としてつくられたものである。

B.若干の考察

 「古典焼」については、あまり研究が進んでいない。一般的な理解としては、1983年4月発行の沖縄タイムス社編『沖縄大百科事典』記載の翁長自修の解説が、簡にして要を得ているので、全文を引用させていただく。

  大正時代から昭和の初期にかけて壺屋で焼かれた陶器の一種。古美術商のあいだでは 〈黒田焼〉ともよぶ。当時の沖縄をエキゾチックな眼でとらえた外来趣味の強い焼物。
 おもに寄留商人の注文によって作られ、本土市場に出された。花瓶や徳利などの壺類が多い。高台の内側には、たいてい〈琉球〉の刻印がある。大部分が、掻落の技法で、当時、陶工のあいだでエジプト模様と呼ばれていた図柄(笛を吹くエジプト人や象に、唐草を配した図柄)などが器全体に彫り込まれている。一部には、焼き上げたあと着色をして、過剰な装飾を施したものもある。

 この分類でいくと、パリ国立人類博物館所蔵で今回確認できた上記資料28件中22件、すなわち、資料1 ~3 、資料8 ~25、資料27が「古典焼」ということになる。ただし、その中で高台の内側に「琉球」の刻印があるのは1点もなく、一方その刻印があるのは、伝統的な壺屋焼の作品である資料7 「三彩皿」である。資料8 から資料25が「焼き上げたあと着色をして過剰な装飾を施したもの」に当たる。
 「古典焼」についての評価は、低い。もっとも早い時期のものとしては、昭和13年12月から15年にかけて沖縄を4度訪れた柳宗悦が昭和17年に書いた「現在の壺屋とその仕事」である。その中で、次のように書いている。

 尤も私達が現在の壺屋で感心している作品は、近頃琉球の品として名を広めた所謂「古典焼」と称するものではない。今ではこの名を有つ焼物は生産額が相当に大きく、どこの工房でも作っているほどである。だがこの「古典焼」なるものは実は今から十年ぐらゐ前に、黒田と云ふ骨董商が計画し、それが偶々當つたと云ふまでで、殆ど琉球の特色はない。今では手法や技術などには、見るべき点があるまでに発達してはきたが、併し模様の題材が琉球とは縁が薄く、且つ装飾がいつも過剰で醜いものが多い。特に安物は、あとで着色したりするので、一層いかものの感じがする。とにかく伝統的な沖縄のものではなく、外来趣味が多く、沖縄の焼物史の中で、涜れた一章を残すものと云っていい。

 「手法や技術など」で「見るべき点があるまでに発達して」きた作品として、たとえば那覇市立壺屋焼物博物館に展示してある3点などを指摘できようが、パリ国立人類学博物館所蔵の上記資料8 ~資料25などは「装飾がいつも過剰で醜いもの」に該当しよう。
 しかし、「古典焼」が登場するにはそれなりの歴史的な理由があった。そのあたりを沖縄県立博物館の津波古聡レポート「壺屋と古典焼」(『沖縄県立博物館紀要』第18号、1992) は、次のように指摘する。

 壺屋の陶器は、廃藩置県後、下絵の顔料であるコバルトの導入以外技術的な変化はなかったが、磁器製食器(「スンカン」と呼ばれる「瀬戸地方を中心に全国的に大量生産の磁器」)の移入による苦境は古典焼の製作に追い立てていった。このふたつの出来事は、逆に壺屋にあたらしい図柄と加飾法をもたらしていくことになる。エジプト模様や貼付・盛付・掻落としなどの加飾法は壺屋にとって新鮮なものであった。

 古典焼の影響について、その正の部分を正当に評価した一文である。津波古の論考は、今のところ「古典焼」に関する唯一のもので、参考になる。
 パリ人類学博物館のコレクションは、ほとんど「掻き落とし」の作品で、わずかに資料29「988.40.16 上焼獅子沖縄島盛り付け文徳利」に「盛付」の技法が見られるだけである。しかし、津波古がいうように「古典焼」の「盛況」によって定着した技法は、沖縄で初めて人間国宝に認定された金城次郎はじめ多くの陶工に引き継がれ、現在にいたっている。否、盛り付けや掻き落としなどは、現在では壺屋焼に欠かせない技法なのである。

 それでは、パリ国立人類学博物館所蔵資料の意義はどこにあるのだろうか。
 まず第一に、翁長が「焼き上げたあと着色をして過剰な装飾を施したもの」と説明し、柳が「安物はあとで着色したりするので、一層いかものの感じがする」とこき下ろした製品がまとまって見つかったことである。それだけ評価が低いがために、逆にわたしたちはこの種の製品を従来見たことがなかった。

 第二に、資料の一部に値札がついていて、当時「民藝」あるいは「琉球古典焼」の名で売り出されていた壺屋の焼物の相場がわかることである。資料20「『琉球古典焼』軍艦文皿」には、「\30」の値札がついていて、「安手」の製品の市場価格がわかる。資料1 「魚文・帆船文急須」は、「古典焼」に加えてよい作品だが、つくりは壺屋の伝統そのままである。「\100」の価格がついている。一方、資料4 「赤絵菊文サキヂューカー」の値段は「\210」となっている。こちらは伝統的な壺屋の赤絵の技法によるもので、前者と成形方法は近いが、価格は前者の倍以上である。推測に過ぎないが、このサキヂューカーより完成度の高い資料6 「赤絵菊・波・牡丹・鳳凰文皿」などは、その1.5 倍ないし2倍近い値札がついていたのではないか。

 ところで、件のフランス外交官が訪沖した昭和14年は、民芸運動の理論家であり、実践家であった柳宗悦が沖縄を訪れたのと同じ時期でもある。資料1 「魚文・帆船文急須」や、資料4 「赤絵菊文サキヂューカー」に「民藝」の文字を記したラベルが貼られていることから、この頃から「郷土色」の濃い工芸品を「民芸」の名で製作・販売していたことがわかる。柳宗悦は、彼のいう「民芸」と違う意味や形でこの語が一人歩きしている姿を、民芸の聖地と考えていた沖縄で目の当たりに見た。そのことに対する複雑な思いが、あるいは「古典焼」に対する評価の裏にひそんでいたのかもしれない。焼物だけでなく、それに付された数枚のラベルから、当時の「工芸産業」の実相が見えてくる。もうひとつの意義は、そこにある。
 以上述べた4点の意義は、いずれも同コレクションが昭和14年に入手されたことが明確であることに基づいている。


※ルーブル美術館の中近東の陶磁器コーナーで撮影した資料である。「掻き落とし」と呼ばれる技法や文様表現が「古典焼」に酷似している。



                                      (琉球大学『フランスにおける琉球関係資料の発掘とその基礎的研究』 2000.3)

那覇市立壺屋焼物博物館特別展「壺屋焼ー近代百年のあゆみ」展に寄せて

2012-06-22 06:27:51 | Weblog
 昨年から今年にかけて、いわゆる「壺屋焼」と産地・壺屋をめぐる人、モノ、情報、あるいは技の交流史について、私たちは2つの成果を得ることになった。ひとつは、小田静夫著『壺屋焼が語る琉球外史』(同成社)の刊行であり、もうひとつは、那覇市立壺屋焼物博物館(「壺屋焼物博物館」)が開館10周年を記念して目下開催している「壺屋焼―近代百年の歩み」展である。
 
 私が壺屋焼物博物館の準備室長として開館準備に追われていたころ、八丈島に壺屋焼が散見されるという情報を東京都教育委員会にお勤めの小田氏から得た。氏は島まで同行してくださったうえ、氏の仲介で、さる酒造工場から壺屋焼の酒壷1点を寄贈してもらうことになった。それを開館に間に合わせて展示できたのだが、それから10年が過ぎたことになる。
 
 小田氏は、無人の小笠原島をはじめとする県外遺跡から出土した壺屋焼を丹念に尋ねて回り、7つの都府県の70に及ぶ遺跡の出土遺物から壺屋焼を探り出したばかりか、マリアナ諸島まで足を伸ばして移民・漁民の足跡と随従する壺屋焼の来歴を調査探訪すること30年余。この間の研究成果を「黒潮圏の壺屋焼」としてまとめたのが前記著作である。このたび、年間の優れた沖縄研究図書として沖縄タイムス社から「伊波普猷賞」に選定されたのは、喜ばしいかぎりである。
 
 「海を渡った壺屋焼」という意味でまたもや私事に及ぶが、壺屋焼物博物館長在任の頃、フランス・パリの国立人類博物館所蔵の壺屋焼を調査する機会に恵まれた。そこで、昭和10年代の製作が明らかな赤絵皿と赤絵酒器を見つけて驚いた。管見の及ぶ範囲で戦前戦後の作を通じて、壺屋焼にこれほど達者な筆致の赤絵を見たことがなかったからだ。ところが何と、今回の特別展に同じ時期、同じ作者の作品と見られる赤絵の皿と酒器が展示されているのである。

 「陶芸」の名がつくことはあっても、つくられたものは日常雑器が大半を占める。したがって、器に作者名や製作年代が記されることはほとんどない。そのため、注目されるべき「作品」があったとしてその製作年代を追うには、類似品との比較とあわせて、そのモノをめぐる人や、文献の探索、聞き取り調査などがどうしても欠かせない。モノを追い、人を訪ね、情報を捜し求めて、その結果得られたモノ、物故者も含めて出会った人、発掘した情報を総合し、一つのストーリーをつくりあげるには、多くの時間と労力とカネを必要とする。

 その成果を、研究者は論文や著作に、博物館では展示にまとめる。今回の特別展では新しく発掘された未知・未見のモノ、人、情報がふんだんに提示されていて、開館から10年を経た壺屋焼物博物館の調査研究の進展が十分うかがわれる。「第1期」の展示づくりに関わった者として感慨深い。新しい物語、新しい展示が資・史料に裏打ちされた問題提起であるかぎり、提起に躊躇(ちゅうちょ)してはならない。博物館の展示は常設展であれ、企画展であれ、常に問題提起的でなければならないと常々思っている。

 この特別展が、研究者やつくり手、愛好家にとって示唆に富む「刺激的」な企画となっていること、請け合いである。

                                                                                                                                            (「沖縄タイムス」09.1.22)

伊良波尹吉の遠近法ーその庶民性と構想=構成力を巡って

2012-06-22 06:18:59 | Weblog
 脚本家として伊良波尹吉と直接交渉があった山里永吉は、俳優・伊良波尹吉のことを「確かに一種の天才であった」と述べている。続けて、一を聞いて一○を知るといった明敏な頭脳をもっていて、それに美男子である上に踊りも三味線もお手のものというのだから、役者としては鬼に金棒である、とした。さらに、歌劇作者としても比類のない天分にめぐまれていて、加えて、すぐれた踊りの振り付け師でもあったと高く評価している。

 山里は「一種の天才」と表現する理由を、当時首里(士族)出身でなければ沖縄芝居の世界では出世しないといわれた風潮のなかで、与那原の平民出身、しかも文盲でありながら歌劇のヒット作を次々と生み出し、また観客の耳目を引く創作舞踊を繰り出す彼の足跡を追うと、それ以外に表現の方法がないからだと述べている。

 眼前の光景や、耳にする雑誌の物語、公演で訪れた八重山の歌や踊り、ほとんど暗唱していたのではと言われる組踊りの詩章や内容、直接見聞きした本土の演芸など、あらゆるものが彼の創作の素材となった。その素材を、どのように調理すれば観客が喜ぶ歌劇や踊りに生まれ変わるか、その術を彼は心憎いばかりに心得ていたと思われる。



 周知のように「御冠船踊り」とは、国王交代に当たって中国皇帝の使者として訪れる「冊封使」を歓待する宴で演じられた舞踊と組踊りの総称である。創作・構成・演出・演戯のすべてが国策として遂行された。演じた士族(御冠船役者)たちが、廃藩置県によって禄を失い、市中で組織的に芸を売りはじめたのが「沖縄芝居」の始めとされる。しかし、急激に変化する社会情勢の中にあっては、王国の威光だけを頼りに宮廷芸能を売ることには、相応の困難があった。宮廷芸能をベースにしながら、テーマ・衣装・テンポなどに庶民の日常性を取り入れた新たな劇や舞踊がここに誕生する。

 伊良波が「役らしい役を張れるようになった」のは十九歳、明治三十八年のことだという。当時の主だった役者は、芸を演じるだけでなく、劇のシナリオづくり・演戯指導、踊りの振付、劇団の運営と多忙を極めた。それがため劇団内の内紛や劇団間の過当競争などによる浮沈・離合集散に明け暮れしたが、またそうだからこそ、役者たちは観客に受ける作づくりに精根を傾けたのである。当時の観劇の主体は、マスコミや一部の知識人から「田舎の芋作及び婦女子」「無知のアフィーとアングワ ー」と呼ばれて低級視された一般庶民、とくに「婦女子」であった。しかし、そのような人々こそ時代や社会の変化を末端で、しかも直接的に体現する人たちであった。

  「田舎育ち」で「無学」で、幼少の頃赤貧をなめ尽くした伊良波が、猛勉強と舞台における実践の積み重ねで得たスタンスとは、おのれの出自に戻り、あくまで庶民の側に身を置き続けること、言い換えれば観客と等身大の位置からその夢と現実を映す作品を創り続けることであった。
 しかし一方で、彼の創作や演戯の射程は、組踊りや古典舞踊のような宮廷芸能をしっかり捉えていた。仲程昌徳は、伊良波の歌劇「奥山の牡丹」には「孝行の巻」など四篇の組踊りが参照されているという。象徴的な出来事は、伊良波が真境名由康、島袋光裕とともに訪れて脚本を依頼した結果生まれた山里の名作「首里城明渡し」における国王尚泰の演戯である。共通語で書かれたセリフは、俳優が方言に改めて演じたというが、伊良波の翻訳・演戯は尚泰の娘である漢那憲和婦人をしてそっくりと言わせ、息子尚順男爵に二度と見たくないと言わせたほどの極め付きであったという。

 社会的には最下層にある女性を代表作「奥山の牡丹」の主人公にしたてて市中の女性の紅涙を絞り、国王の役柄でその子女をうならせた伊良波の「遠近法」こそ、生み出す歌劇や舞踊の巧みな構想=構成力を支えたものであった。山里のいう「一種の天才」を、わたしはそのように理解している


                                                             新里堅進作・与那原町教育委員会発行『沖縄演劇の巨星・伊良波尹吉物語 奥山の牡丹』解説(2000.3)

近世琉球の服喪の制

2012-06-22 06:17:05 | Weblog
 近世琉球における服喪の制は、1667年4月23日に王府から布達された「不浄定」によって方向が定まった。時の摂政は羽地朝秀。彼のヘゲモニーのもとに示達された一連の布達類を総称して「羽地仕置」と呼んでいる。その中に収められた「不浄定」は前月16日付けの「葬礼之定」に続いて出されたもので、内容的にはこれと連動するものである。「不浄定」の内容は、次の通りである。

 一 祖父母父母夫婦兄弟は三拾日の事
 一 継父母伯父母弟妹子孫は弐拾日の事
   但弟より下は髪差不抜事
 一 甥姪拾日の遠慮の事
 一 従弟より下は五日遠慮の事
 右此中父母より下親類中差合の刻、不依遠近に一か月の忌にて候付、如此申渡候事
  (寛文七年)羊四月二十三日

 この布達によれば、従来は親族関係の遠近にかかわらずひとしく30日の間、喪に服することになっていた。それを今回、喪に服すべき親族を祖父母・父母・夫婦・兄弟、継父母・伯父母・弟妹・子・孫、甥姪、従弟の4種に区分けし、それぞれ30日、20日、10日、5日と服喪の期間を定めたのである。

 改革の理由について「不浄定」は何も述べないが、「葬礼之定」を見ると、「孝行」を名目として祭儀が華美に流れ、子孫に出費多端の結果を招くことになり、ひいては「奉公」方まで疎意・粗略になるような状況があって、それを牽制することが改革の趣旨であることが述べられている。今回の服喪制の改革にも同様の趣旨が伏在していたことが推察できる。ただし、人はなぜその親族の死にあたって喪に服さなければならないか、その理由は述べられていない。

 この「不浄定」に見える「親類」という用語が、父方親族と姻族の双方を指すことは理解できよう。ただし、後に父方親族、姻族を用語上それぞれ「一門」、「親類」(たとえば「系図座規模帳」1730年)、あるいはそれぞれ「本宗方」、「外戚方」(「服制」、後出)と区別し、双方を併せて呼ぶ場合は「一門親類」と称したことからすれば、ここにいう「親類」はいかにも内容があいまいである。そして、細則が別に定められていたかどうか、それも明らかでない。

 近世琉球における服喪の制(服制)が、制定の論拠を明らかにし、親族関係の遠近を細部にわたって規定したうえで施行されたのは、18世紀に入ってからである。

 1725年制定・37年改定の「服制」は、「本宗方之服制」「妻たる者夫家之為之服制」「外戚方之服制」「出嫁之女本生方之服制」というように、喪に服する側の立場から親族を4つに区分している。その内容を一見すると、たとえば本宗方の場合、服喪期間が50日、25日、20日、10日、5日の5つに分かれ、親族については「父母」「継母」に始まり、「又姪孫」に至るまで52に分かれている。親等でいえば5親等までの規定である。

 なぜ、人は親族の死去に当たって喪に服さなければならないか。1732年に公布され、以後地方支配のテキストとなった蔡温の「御教条」は、つぎのように明記する。

本宗外戚とも忌定の儀は、服制を以て申し渡し置き候通り、いささかも緩疎無く相勤むべく候。この儀、疎略いたし候はば、人情相廃れ、五倫の妨げは勿論の事候。上下ともその心得これ有るべき事。

 すなわち、世間に「人情」を維持すること、具体的にいえば「五倫」の道、すなわち「父子の親」「君臣の義」「夫婦の別」「長幼の序」「朋友の信」を社会関係の規範として維持することであった。「御教条」は、「士農工商之働」7ヶ条、「人倫之働」13ヶ条、「諸事之訳」12ヶ条の32条にわたっているが、その根底には羽地に続いて近世琉球の改革者となった蔡温の儒教思想が一貫している。

 近世の琉球には、士族・農民(「工商」も身分的には「百姓」)の身分的区別があったが、儒教倫理の実践はまずもって士族に求められた。具体的にはどのような形で喪に服することになっていたのだろうか。「服制」付則は、装束に関しては男女とも年齢や官の上下に関わりなく「髪差(かんざし)」を抜き、「大帯」をはずすよう求めている。簪は、身分や位の上下、男女の違いによって素材や形・文様が異なっていたが、国王から農民までいずれも装着することになっていた。服喪に当たって「髪差」を抜くことはすでに「羽地仕置」に明記されているが、髪結いを解くとともに、士族が正装のとき着用する大帯も禁止されたということは、要するに自宅謹慎すること、公職にある者は公務を控えるということであった。

 当然、正月他の家内の祝儀、すなわち「賀礼」も控えるよう指示された。たとえば本宗方の忌50日の場合、「拠ん処無き」公務に差し当たるときは二七日(=14日)で忌みを終えて出勤すること、と記すが、賀礼の停止期間はそのまま二七(14)ヶ月となっている。

 服喪に関する細則を今少しながめてみると、たとえば忌中は白衣を着用すること、本宗20日内に盆に当たった時は行事を取りやめ、また婚礼の儀についても可能な限り取りやめること、やむを得ない事情があるときは軽く行うよう指示している。ただし、「農工商」に従事する者は、「家業の務は毎日衣食の営に相係」るため、たとえ忌中であっても家業に精励するよう求めている。

 この「服制」は、宮古・八重山のような離島まで同時に布達され、地方役人にも遵守が求められた。中国渡来で蔡温と同族の蔡文溥が、儒教倫理を柱として著した『四本堂家礼』(1736年)は、後に首里那覇の士族ばかりでなく離島の地方役人の間でも書写され、家礼のモデルとされたが、それでは忌50日中の殺生、夫婦同衾、読書を禁ずるなど、より細かい指示を与えている。「服制」改定の1年前の著述であることを見れば、儒教倫理による服喪の思想は、この時期すでに蔡温一人のものではなかったことがうかがえるのである。

  
                                                                      孝本貢・八木透編『家族と死者祭祀』(早稲田大学出版部 1997.7)

芸のおおらかさと繊細さと

2012-06-22 06:12:38 | Weblog
 高嶺久枝さんが、琉球舞踊一座の座長として巣立つという。去る2月に、那覇市立壺屋焼物博物館が開館。その初代館長となったわたしも、お客さんに見てもらわなければ存在意義のない施設の長だから、「私設」「公設」の違いこそあれ、久枝さんと同じ立場にある。今後のご健闘を祈りたい。 
 久枝さんは「演じ手」である。それに対して、わたしの職業上の関心は<もの>の「作り手」である。表現されるものに演芸・陶芸の違いこそあれ、日々「芸」に精進している点で、どこかに共通するところがあるはずだ。
 
 高校野球の裁監督ではないが、「大胆かつ細心」。これなども表現のスタンスにおいて、両者に共通するように見受けられる。世阿弥が演技のおおらかさと繊細さについて、『花鏡』(中央公論社版)のなかでつぎのように書いている。

 能は繊細に演じなければ面白くない。しかしいっぽう、繊細な細部ばかりに注意していると、演技表現がぜんたいとして萎縮して見える傾向がある。また逆に、表現をおおらかにしようと努力すると、とかく芸のみどころが少なくなって、全体に平板になる傾向がある。このふたつの努力の関係と調整がじつに重大な難事である。

 当面の心構えとして、彼は「繊細であるべき細部はどこまでも繊細にして、一方おおらかであるべき部分はあくまでおおらかに演じる」こと。ただしその区別ができるためには、十分に師匠の教えを請うて能の本質を知りつくすようにしなければならない、と言っている。そのうえで、要領として「舞や歌、その他さまざまのしぐさの万事にわたって、心は繊細にはたらかせ、からだはおおらかに動かす」ことをあげている。

 「こころは繊細に」、「動きはおおらかに」。能の<幽玄>を表す表現だろうが、優れた陶芸家の芸にも通じるところがあるように思われる。陶芸家の場合は、逆も言えるかもしれない。「こころはおおらかに」、「動きは繊細に」。

    
                                                                         (『琉舞かなの会発足記念誌 踊り愛(かな)がなと』(1998.11)

ある出会い

2012-06-22 05:55:21 | Weblog
 最近、ある篤志家からハイレベルのコレクションが壺屋焼物博物館に寄贈された。その詳細は、近い将来企画展として公開されることになっているので、その際にごらんいただくことになるが、作者のなかには国指定の重要無形文化財技能保持者、すなわち「人間国宝」に認定された本土の陶芸家も何名かいる。

 コレクションの中に、磁器の白い肌に藍色の釉薬で文様を表現する「染付け」の技法が高く評価された近藤悠三の香炉1点が含まれている。この人も人間国宝である。花を付けた梅樹が大胆に表現され、蓋は精巧な金工である。高台内には本人の自筆署名がある。〈磁器〉とは、白色でわずかに透光性を持つ薄手の焼物で、無地もあればいろいろな文様が施されたものもある。日本では有田焼がよく知られているが、沖縄では原料となる陶石が少なく、伝統的な陶芸には磁器は見られない。  沖縄では粘土を素材とし、釉薬をかけるか、無釉で焼き締めるかする〈陶器〉の生産が行われてきた。壺屋焼を代表とする。ただし、世界に冠たる陶芸の国・中国をはじめとして、歴史的に珍重されてきたのは陶器より磁器である。青磁しかり、白磁しかり、染付けしかりである。日本人が作品としての陶器を珍重するようになったのは、茶の湯の開始以降である。

 そんなことでわたしたちは、K氏に関する資料を持ち合わせていなかったが、企画展までにはその略歴や制作の動向などを掌握しなければならない。しかし、戦後、人間国宝に認定された陶芸家は20名近い。近藤悠三の作品集を探さなければならないが、今のところ見通しは立たない。少なくとも9月まではそうであった。

 10月の1日から11日まで、フランス文学専攻で現在は琉球大学の学長をしておられる森田孟進先生とフランスにでかける機会を得た。フランス所在の琉球関係資料の調査が目的である。2日目、森田先生目当てのパリの古書店を訪れた。アジア関係図書の専門店である。わたしが焼物博物館の館長であることを知った店主は、日本の陶芸家の作品集を重そうに抱えてきて、こういうものがありますが、と私の目の前に置いた。作家名を見て驚いた。



 なんとわたしたちが探していた作品集(図録)ではないか。そしらぬ顔をしてパラパラとめくってから脇に置いて、別の陶磁器関係、日本関係の書物のいくつかに眼を通した後、何気なく作品集の値段を聞いた。日本円に換算してほぼ3万円という。あらためて奥付をみると、発行は昭和54年、120部限定版の26番目、本人制作の陶板1枚付きで、定価は何と50万円。こんなお買い得はない。即座に購入することを決め、1500フランを支払った。帰国後気づいたことだが、本人の墨書による贈呈票まで付いていた。(写真は作品集付の陶板)
 後で森田先生から聞いたところによると、店主は奥さんに「安かったかな」と話していたというが、後の祭りというものだ。わたしにしても例のコレクションの寄贈がなければ、近藤悠三の作品に出会うこともなく、パリでその作品集を求めることもなかったはずだが、それにしても作者から贈呈を受けた人の手から、その後どのような経緯があって、パリの古書店にこの作品集が移ったのか。興味は尽きない。この作品集は、日本から地球の反対側に移った後、もう一度その反対側に戻って、壺屋焼物博物館の一角に一時期展示されることになる。地球を一周した作品集。その半周を手伝うことになった思いもかけない20年後の出会い。

 〈出会い〉の不思議さは、〈人〉と〈もの〉、いずれの場合も変わらない。
   
 
                                                                             『沖縄パシフィックプレス』No.126(2000年春季号)

屋嘉比収著『沖縄戦、米軍占領史を学びなおす』(2,009 世織書房刊)書評

2012-06-22 05:35:53 | Weblog
 著者は、本書に続いてほどなく『<近代沖縄>の知識人―島袋全発の奇跡』(吉川弘文館)を刊行、そして時を置かずして亡くなった。享年53歳。
 
 本書において著者は、沖縄の<内と外>およびその<境界>を、<過去と現在>の接点に身を寄せて学術的に検証して行く。その行き方=方法はまた、著者の生き方でもあった。先学の「近現代沖縄思想史」の研究と関連資(史)料を検証するなかで得たのは、歴史の体験者の「記憶」や、それをめぐる「記述」、「史実」を、「継承」することは「学びなおす」ことだ、とする視座であった。その視座を、沖縄の「今・ここ」に設定したうえで、沖縄思想史の方法と展望をこの2著によって示したことが、まず評価されよう。

 本書は、上記のスタンスを機軸に据えながら、沖縄戦と米軍占領史の研究において、「記憶をいかに継承するか」という視角から記述や論述を丹念にたどる。沖縄戦の「当事者」ではないが「関係者」である、という著者と後続の世代にとって、当事者の「記憶」をいかに語らせ、いかに聞き取り、いかに「記述」し、いかにおのれの「身体」と化していくか。論議の検証は、思想<史家>として実証的かつ精密である。それらの方法や問題意識は、米軍占領史の記述にも貫かれている。

 一方、<思想>史家として、個人史という「小さな物語」と、沖縄戦・米軍占領史という「大きな物語」の境界=接点に身を置きつつ、「沖縄」とその研究史から「越境」せんとする。

 思想史家・屋嘉比収の提起=提案は、残されたわたしたちにとっても、踏まえつつ・越えるべき課題として十分な手ごたえを感じさせる。それが、もうひとつの評価されるべき点である。
                                                                                                                                                                                                                  ( 2010/12/14)

琉球の茶と陶

2012-06-22 05:30:21 | Weblog
 近年まで沖縄では、来客に際しての茶の出し方は、本土のそれとは違っていた。土瓶に茶を入れ、湯を注いで湯のみ茶碗とともに出す。客は自分で茶を注いで、何杯でも飲む。湯や茶を注ぎ足すのが歓待の仕方で、本土のように一杯だけ出してそのまま、というのは主客どちらもきらった。比嘉春潮は人が死んだ時に備えるのが一杯きりだからだろう、と述べているが、祖先の霊前や仏前にそなえるのが「一杯きり」ということにもつながるのだろう。「茶の湯」の作法や思想の普及度の違いや、民間レベルにおける「主客」とか「接待」に対する考え方の違いも関係するのかもしれない。

 沖縄で愛飲されてきたのは、中国産の「シーミーチャ」(清明茶)である。最近はジャスミン茶ともいう。祖先の霊前に供える茶は「ウチャトー」(お茶湯)、その茶碗は「ウチャトー・ヂャワン」と呼ばれる。いうまでもなく仏教の影響である。専用の茶碗を仏具屋で売っているが、「壺屋焼」ではない。産地を特定する必要もないような本土産である。一般に壺屋焼は下手物とされ、本土産が珍重されたが、それは近代以降のことで、王国時代はやはり中国産か琉球産だったであろう。

 琉球に茶や喫茶の法が伝わったのは、中国経由か日本経由か定かでない。
 琉球から中国に、恭順の意を伝える公式の使者を初めて派遣したのは、1372年である。琉球王は皇帝の臣下という形の外交だから、中国式の喫茶・点茶の法も必須の知識・作法だったと考えられる。王の即位に当って皇帝の名代「冊封使」が来琉し、王に任ずる冊封の式典を挙行する慣例は、1404年に始まる。国王から冊封使に茶を献ずる方式は、あるいはこの時には始まっていたのか。陶磁器で見ると、首里城の発掘調査で、14世紀半ば頃のものと見られる天目茶碗が出土している。金武正紀によれば沖縄の遺跡から出土する天目茶碗や茶入れは、14~15世紀が主だという。いずれも中国製である。

 一方、仏教は文献上で見ると13世紀から14世紀にかけて、日本から伝来したと考えられる。仏前に茶をそなえる「茶湯」も同時に伝わっただろう。だとすると、仏前に茶を供えるパターンと、公式の接遇の茶。どちらが先行したのか、今のところわからない。

 時代はくだるが、最初の冊封使録である陳侃の『使琉球録』には、円覚寺、天界寺に遊んだおり、寺で茶を振る舞われたという記述がある。1534年のことである。同書によれば、寺僧は「烹茶の法」を心得ている。「古鼎を几上に設け」、湯をわかし、沸騰する頃あいに、「茶鍾」(茶碗)に「茶末」を一匙盛り、そこへ湯をそそぎ、「竹刷」(茶筅)でたててから、ややあって客にすすめる。その味は、はなはだ清らかである、というのだ。ここでいう「茶鍾」は天目茶碗だったのだろうか。茶の点て方は中国式ともいえるし、「茶の湯」方式ともとれる。茶は中国産だったのか、日本茶だったのか。この年、茶の湯の開祖とされる村田珠光はすでになく、千利休の師・武野紹鴎は剃髪したばかりの34歳である。

 さらに時代はくだって、1603年から3年間滞琉した浄土宗の僧袋中は、著書『琉球往来』の中で、滞在中の堺の茶人を招き、道具を取りそろえたうえで茶席を設けたことや、国内に池坊の門流がいて諸道具をそろえて立華を行っていたことなどを記している。道具を陶磁器に限って見れば、「天目、建盞、茶碗」「真壺」「真楽、瀬戸物」「青磁花瓶」がリストにのぼる。一方では、円覚寺で仏前に「奠茶」「奠湯」がなされることを記す。

 袋中が「近日和堺茶ノ名人出来」と記す茶の湯の名人が誰か、明記されていない。わたしたちの頭にすぐに思い浮かぶのは僧喜安である。喜安は1600年、泉州堺から来琉し、茶道で国王尚寧に仕えている。1609年の島津入りに当たっては琉球と薩摩間の折衝役を務め、尚寧が薩摩・江戸に上った時は随行している。帰国後、王府内に茶道職「御茶道宗」が設けられると、その任に当たって茶道の普及に尽くした。

 島津入り以降、琉球は形のうえでは王国の体裁をとりながら、実質的には幕藩体制下に組み込まれることになった。それからは、薩摩・江戸との各種交流が頻繁になり、そのため、和風文化の素養を身につけることは、公務をあずかる士族にとって単なる教養ではなく、国家を維持するうえでの職務と位置づけられた。その推進者が1666年、摂政の位について各種の改革を断行した羽地朝秀である。彼が制定した「羽地仕置」に「学文」(学問)、「算勘」など11の学芸・芸能を記し、そのうち一芸すら習得していない者は、たとえしかるべき身分であっても国務に当たらせないことを明記していて、その芸の一つに「茶道」や「立花」も列記されている(1667年)。

 これらの芸に対する素養が上薩・上江の際に不可欠とされたのは言うまでもないが、国内で公務として披露される実践の場は王城内の南殿であった。薩摩から琉球の外交・内政全般にわたる目付役として派遣され、3年単位で常駐する在番奉行を接待することを主目的に作られた建物である。創建は「天啓年間」(1621~1627)と記録される。招請の方式は純和風であり、茶道や立花、座敷飾りの作法がこの場で行われたと考えられる。招請は公務であった。そして、薩摩・江戸などにおける所作・振る舞いのための学習の場でもあった。在番奉行や付け役の士は、王府の役人にとって和風芸能の師匠であり、相談役を兼ねたことになる。当然茶の湯についての指導も受けたであろう。

 沖縄県立博物館に残る「御座飾帳」は、1790年から1793年にわたって7回行われた在番奉行と付役衆の招請に際して行われた南殿・書院・鎖之間などの座敷飾り、床飾りを記録したものである。床には招請の趣旨に沿う画幅が飾られ、違い棚には相応の工芸品が並ぶ。茶の湯関係で言えば「台子一組 御茶具揃」が準備された。もちろん、飾られる絵画・工芸品・道具の類は国の威信をかけた水準のものであった。公式に招請するからには、そのレベル如何は接遇の質とともに、薩摩と琉球の政治関係・力関係を象徴するものであっただろう。事実、「御座飾帳」とともに伝わる「御書院御物帳」に記される王府の書画等の目録には、中国皇帝の直筆から中日の著名な画家・書家の作品が並び、相当のレベルの作品を王府が所蔵していたことを示す。ただし、書画のみの記載で、茶の湯に使われた陶磁器類については言及されないのが残念である。

 文献や歴代の陶工家譜に見るかぎり、「茶陶」制作に関する記事の初出は平田典通(1641~1722)のそれである。宿姓家譜によれば、彼は1667年、王府の命を受けて「御茶壺」「御茶碗」を制作・進上した。この年は、羽地朝秀が士族に茶道・立花他の稽古を督励した年でもある。翌68年には立花用と見られる「砧形御花入」「仙人の花入」「細口花入」「四角御菜皿」を書院に納めて報奨される。そして80年には「赤焼」の炉、「茶家」(土瓶)、「御天目」、「御茶壺」、「屋良部(ヤラブー注)之葉形皿」を「白薬掛」によって制作し、書院に納品する。平田の功績の中で茶陶に関するそれはむしろ一部である。しかし、茶器や花器を国内で生産できる態勢をつくることは、羽地の政策に陶芸の分野で連動するものであり、その功績は高く評価されよう。

 平田典通の次代を担った陶工は、仲村渠致元(1697~1754)と仲宗根喜元(1700~1764)である。仲村渠は湧田村で代々陶工を務めた家筋に生まれ、王府の命で八重山に陶芸指導に派遣されたり、薩摩に陶芸の研修に行くなどして、陶芸界に貢献した。一方、仲宗根は越来村の農家に生まれた。平田典通の子典寛の指導を受けて頭角を表し、18世紀前半の琉球陶芸界の牽引車となった。「茶陶」関係の家譜記事では、仲宗根が1729年に「建盞」「志武喜(渋きー注)御茶入」「御天目」を焼き出し、35年には命を受けて「御天目二対」を焼成、天王寺・天界寺に祭器として納品している。1737年には「大花瓶一箇」「大丁字風呂一個」「御茶入一個」「天目一対」を書院用に焼成、翌38年には「御濃茶御茶碗」「御花入」を、1748年には「南京茶家」「湯煎鑵」「茶庫」を「内府」に献上している。仲村渠は1728年に上意を受けて「南京茶家」「香合」「花入」を制作・納品している。残念なことに、茶陶の類でこれらの陶工の作品は何一つ残っていない。
 この時期、士族を中心に「私的」に「茶の湯」をたしなんだという記録も未見である。

 以上を要するに、当初、天目茶碗や茶入れが輸入され、茶碗に茶を点てて仏前に供えたり、公式の場で呈されたが、茶の普及につれて、土瓶に茶を入れ、湯を注いで茶碗に汲んで飲む形で一般に普及した。一方、日本から「茶の湯」が禅僧を中心に伝わり、堺の茶人なども渡来して王府を中心に士族の教養として広がるが、一般の暮らしまで浸透しないままに終わった。茶陶としては、歴代の著名な陶工が制作し、王府に進上するなどの記事は残るが、現在残る遺品はない、ということだ。

 近年はやりの「ぶくぶく茶」は東恩納寛惇によれば、木(桑)製の大鉢で飲まれたようだが、古くはどうだったのだろう。後考を期す。

             
          (壺屋焼物博物館企画展「人間国宝の茶陶」図録解説、2000.7)

「描く」ことの神話性

2012-06-22 05:20:54 | Weblog
 本江邦夫の著書『中・高校生のための現代美術入門』(平凡社)によれば、「抽象画」においては、「地」と「図」の関係があいまいになり、(「もの」ではなく)「色」と「形」が主役になる。

 抽象画は、「遠近法」を無視し、三次元の世界を二次元化する。分類された「名前の体系」として秩序づけられてきた「この世界」を、カオス=混沌(無秩序・無名辞)の世界に還元し、「次なる世界」の「創造」につなげていく。この営みはいかにも「神話的」である。実際、カンディンスキーは「描く」ことの意味について、次のように述べている。本江の著からの引用である。

 描くとは、さまざまな世界が雷鳴を響かせながらぶつかりあうようなものであり、・・・・、あらゆる作品は、宇宙が生まれたのと同じやり方で生まれてきます。つまりカタストロフィ(終局)を通じて。これこそが、さまざまな楽器の混沌のごとき咆哮を、最終的に展開の音楽ともいうべきひとつのシンフォニーにつくりあげるのです。作品創造、それはまさに世界創造なのです。(『回想』、1913)

 画家が「もの」にたよらず、「ただ色と形だけで自分の世界をあらわさねばならないとしたら、そこで決定的な役割をはたすのは何なの」(本江)か。本江によれば、カンディンスキーはそれを「内的必然性」、つまり「色と形にたいする画家の心からの欲求」とする。「絵の主題などどうでもいい」のである。「となると、絵は色と形による、音楽のようなもの」になる。「事実、このころのカンディンスキーの作品は、色彩のシンフォニーのよう」で、「題名も<コンポジション>(構成とか楽曲の意味)、<即興>といった音楽につうじるものが多い」。

 「作品創造」は「世界創造」だというカンディンスキーの言説からわたしが思いつくのは、宗教学者M・エリアーデの著書、たとえば『永遠回帰の神話』や『聖と俗』、『生と再生』である。彼はこれらの書において、世界各地で行われる<祭儀>の原初的・根元的意義は「創世神話の再現」にある、ということを手を変え、品を変えて力説する。神による「天地創造」においてこそ、考えられる限りでの最大のエネルギーが発揮されたから、というのがその理由である。だからこそ人々は、祭儀において「疲弊した」現世の「秩序」を「神話というシナリオ」によっていったん解体(死=カオス化)し、その後に再生(蘇生)させる(再活性化=新秩序の創造)、というのである。

 だとすれば、「作品創造」はその都度の「神話の再現」ということになり、その意味で<祭儀>的営為である。先日NHKで昨年9月に開かれた「サイトウ・キネン・フェスティバル 松本」における内田光子の鬼気迫るピアノ演奏、小澤征爾の絶妙なタクトの振りによるベートーベン「ピアノ協奏曲第5番・皇帝」を見ていて、言いがたい感動を覚えた。その理由をいまから思えば、彼女と彼は、B翁の創出した音楽という名の神話世界を音曲という名のシナリオをもとに、全霊を込めて再現=創造していたからだと、解する他ない。二人の、手と身体の動きは<祭り>空間を演出し、自ずから演ずる者のそれにもたとえられよう。そして、そうであるがゆえに<劇>的だったのだ。

 「演出」「演技」「演奏」などの言辞をくくるのは、「演ずる」という言葉。その言葉を現出する舞台=世界の要にいるのは<神>なのだ、とエリアーデなら言いそうである。カンディンスキーならこう言うだろう。自分にとって「描く」とは「神を演じる」ことなのだ、と。    
                                                                     (2007.06.07)

金石文から見た琉球王権のメッセージ

2012-06-21 19:37:22 | Weblog
金石文の意義

 周知の通り、県内に残る最古の文字記録はかつて首里城外「園比屋武(そのひゃん)御嶽」の裏の地にあった「安国山樹華木記」碑である。この碑は沖縄戦で二つに割れ、今は沖縄県立博物館に保管されている。記されたのは1427年のことである。この石碑の持つ意義はいくつもあろうが、ここでは3つのことを前もって指摘しておきたい。まず現存する最古の金石文であること、次に、王権の側から発するメッセージとして最古のそれであること、そして碑文が漢文で記されていること、以上である。金石文とは梵鐘や石碑などに記された文章をいう。

 具体例は後ほど述べるとして、琉球において王権のメッセージは、まずは鐘銘や碑文の形で具現化された。情報伝達の手段としては、もっぱら口頭と身振りを柱とする身体に頼っていたはずの当時の庶民からすれば、石板に記された意味不明の記号や文様は、王が彼らのあずかり知らぬ異界と結びつく存在の証文に見えたはずだ。図像でいえば、「安国山樹華木記」碑に後続する石碑に描かれた日輪は<王>のシンボルであったし、『おもろさうし』の表現を借りるなら、王は「てだ(太陽)」であった。そのことも、あらかじめ念頭に入れたうえで、王権のメッセージとしての意味を持つ金石文の形式と内容から、琉球王権の位相を探ってみたい。

王権のメッセージ





「むら」から「まち」(2)へー戦後南風原の社会と文化ー交通・流通・情報

2012-06-21 18:22:25 | Weblog
1.交通

徒歩・馬車・トラック・タクシー

 各地の捕虜・難民収容所から出身集落に戻ってきてしばらくは、交通手段と呼べる類のものはなく、通行は徒歩か、米軍車両に便乗させてもらう程度であった。所用や通学の途中で米軍車両が通りかかると、親指を示して止めてもらい、「テイク・ミー」と言って便乗を頼んだ。急ぎの米兵は「ハーバー・ハーバー」と乗車をせかした。降りるときは「サンキュー」と礼を言った、そんなエピソードもある。 

 一般の軍作業では、「GMC」と呼ばれる、後部車輪が8つ、前部車輪が2つついた2トン半軍用トラックが送り迎えをした。集落の決まった場所に、決まった時間に迎えにきた。軍作業では、港湾の物資の積み下ろしや運送に従事する「ドライバー」に人気が集まった。「GMC」を運転する業務についた人は、大豆やらガソリンやらの配給物資を運ぶ途中、一部を山に隠し、帰宅途中に戻って積み込み、横流し売り場や自宅に持ち帰った。それが生活の足しになった。いわゆる「戦果」である。「ラージグヮー」と呼ばれた今のピックアップに似たトラックを運転して帰るドライバーもいた。1948(昭和23)年3月、沖縄民政府文教部は、3ヵ月間に退職した教職員が300余人と発表したが、その大半は実入りのいい軍作業に転職したと言われている。軍のドライバーになるには、軍当局から免許を取る必要があった。

 1947(昭和22)年11月頃から開南や与儀に開かれた「青空市」や、首里の市場に農産物を売りに行くようになったが、やはり徒歩であった。1948(昭和23)年には平和通りにテント小屋の市場が立ち、1952(昭和27)年5月にはこの地に那覇市の公設市場、1953(昭和28)年には与儀に農連市場が開設される。

 荷車は日本軍の戦車や米軍の軍用車などから部品を抜き取り、組み立ててつくった。トラックを再生利用した人もいる。1949(昭和24)年にアメリカから馬697頭が輸入されるが、勝連港からの陸揚げ荷役作業をしたのが津嘉山農立隊。津嘉山の金城勇造が輸入された馬を購入し、荷馬車用とした。馬車は製糖期はキビ運搬用。他に、玉城村港川の石切り場から石材を乗せて運んだり、砂やセメントを与那原から運んだりした。馬車の汲み取り車もあった。わずかな期間だが人力車もあった。客馬車は那覇の市場で箪笥や水屋などの家具を買った時や、正月準備などで徒歩では運べないほどの買い物をしたときなどに利用された。南風原で客馬車の営業を始めた一番手は喜屋武の野原広盛(前外当小)で、1950(昭和25)年のことである。

 新川の花城清行は、1952(昭和27)~53(昭和28)年頃、マツダの中古四輪車を購入、朝の4時から起きて作ったイモや野菜を農連市場に運び、帰りは首里の酒造工場から酒糟を買って帰った。酒糟は飼っていた豚のえさの材料である。車の大きさは今の軽トラックより小さい。新川では常時農産物を市場に運ぶ女たちが4、5人いたので、便乗させてあげた。花城は、開南、与儀の市場や農連市場で仲買人に産物を売った。現金で買い取ってくれた。自分たちで品物を並べて売るということはなかった。市場から帰ると翌日の販売分の準備や畑の手入れなどで忙しかった。首里のウフカクジャーにも近くの市場で商う仲買人がいたので、イモや野菜をざるにいれ、頭に載せて徒歩で首里まで運ぶ女たちもいた。
 免許は那覇署で取った。簡単な学科と実地試験があったが、当時警察にも試験用の車はなかったので、3名で2トントラックを借用し、その車で実地試験を受けた。実地試験は豊見城村の集落内で行われた。当時車はほとんどなかったから、危険ということもなかった。トラックは、あちこちに放置されていた戦前の軍用車を解体して部品を集め、組み立てて使っていた。トラックを持っていた人は、運送の需要が大きかったので儲かった。
 津嘉山の金城策誠(仲新門)は1949(昭和24)年三輪車を購入、「南風原タクシー」として営業を始めた。幌をつけ、両側に長いすを並べたもので、1950(昭和25)年頃の写真で見ると片側で4人ほどが座れる規模だった。後に「大南タクシー」と改称して現在に至る。同じく三輪車を購入した大城喜徳(新親国小)は養豚業を営んでいた。真玉橋の場まで毎日のように車で豚を運び、肉は開南の市場に運んで並べ、奥さんが売りさばいた。

 南風原村役場の1951(昭和26)年度予算案では、「独立税」として前年度にはなかった項目「自転車税」と「車税」が初めて登場する。それによると自転車税・車税ともに年間1台で100円、自転車が37台分、車が44台分計上されている。この頃になると、課税の対象となるぐらいに自転車と「車」が普及し始めていたことを示している。

 1952(昭和27)~53(昭和28)年頃には喜屋武で、大城喜徳、大城豊助、野原広栄が、オート三輪車を購入し、人や物資の輸送に携わる。エンジン音が大きく、力の弱い三輪車でパタパターと呼ばれた。待合所は照屋十字路で、今の高齢者支援センターの場所。那覇の農連市場までの運送だった。8人乗り、相乗りが普通で、運賃は大人10円、子供5円だったという。力が弱く、乗客を乗せたままでは国場から寄宮に向かう坂道を上りきれないので、壺川経由で農連市場に向かったという。大城喜徳の場合、大城喜仁と共同で玉城村の人から中古の三輪車を購入、「大里玉城タクシー」の名で営業を始めた。車種は三菱の「みずしま号」だった。客待ちはしたが、1、2人の乗客でも運行することがあり、1日に10往復はした。乗客には、販売用に縫い上げた洋服や織り上げた反物を持った女たちや、農産物をもっこで担いだ男たちも多かった。頼まれて荷物だけを届けることもあった。2、3年ほど運行して転業した。

 1954(昭和29)年度の村役場作成「南風原村事業別調」によると、この年の運送業は荷馬車37、トラック2、三輪車10、四輪車2で、物資の輸送は荷馬車、人の輸送は三輪車が主流だったことを示している。
 1955(昭和30)年の撮影とされる国際通り(現沖縄三越前)の写真を見ると、この時期、ボンネットバス、アメリカ製大型タクシーと並んで三輪車タクシー、土砂運搬用荷馬車が共存している。(沖縄タイムス社『改定増補版 写真記録沖縄戦後史1945-1998』)

 10年後の1964(昭和39)年、津嘉山に「南風原自動車練習所」(後の津嘉山自動車学校)がオープンする。この時期、運転免許保持の需要が伸びたことを示す。車の保有台数を見ると、数値が初めて現れる1968(昭和43)年度『村勢要覧』では「三輪車及びトラック」194台、「乗用車」401台が「文化製品調べ」の項目にくくられているが、1971(昭和46)年度要覧では「自動車保有台数」が独立してもうけられ、それも自家用と営業用に区別されている。種別もトラック、普通乗用車、小型乗用車、軽自動車、自動三輪車、特殊自動車、タクシー、原動機自転車に区分けされている。普通乗用車、小型乗用車、軽自動車を「乗用車」とみなして、自家用・営業用を合算すると930台、3年前の2倍をはるかに越えている。自家用のみを合算すると889台、この数字をこの時期の世帯数2,210で割ると40パーセントとなる。車社会の到来は目前に迫っている。

道路の整備

 集落の再建に当たっての大きな事業のひとつが道路の整備であった。まずは人の通行、そして住宅建築のための資材運びの必要、そして畑の往復、農産物の運搬など、道路の改修・拡幅は差し迫った事業であった。
 津嘉山では早くも1948(昭和23)年に、屋号「前金城前」を起点とし、一日橋に至る基幹道路の改修が行われた。琉球石灰岩を粉砕したイシグーは、旧西原飛行場の滑走路からはがされたものを、トラックを借りて運んで道路に敷いた。
 与那覇では、今の公民館横の道路拡幅は戦後まもなく、5坪のキカクヤー(規格住宅)をそれぞれの屋敷に建築するための米軍命令で行われた。またこの道から大見武に抜ける道は細かったが、道を抜けた一帯に与那覇の人所有の畑が多かったので拡幅された。1950(昭和25)年のことである。当初は字民の共同作業で工事が行われた。道路作業に限らず、共同作業は字民が一致団結して「むらづくり」に当たるという意味で、どの字でもその後も長く続いている。

 1950年代に入って生活の自給体制が整い始まると、コンクリート橋の架橋を含む道路改修の需要が高まり、それが区長の主な仕事だという状況が60年代まで続いた。1956(昭和31)年には喜屋武や山川で共同製糖工場がつくられている。この時期にはサトウキビの植付け・収穫の体制も整い、それに伴い荷車や荷馬車の通行が頻繁となって、その意味でも農道・村道などの整備が必要とされていたのである。

 1957(昭和32)年の議会審議では、村道復旧・村道認定に関する決議が多い。この時期村道改修は村が8割、字が2割を負担して行われた。村道編入に関する議論も行われている。
 製糖工場へのサトウキビ運搬がダンプカーで行われるようになると、ダンプが通過する道路は町道・農道ともにさらに拡幅され、住宅によっては敷地縮小を余儀なくされるところも出てくる。

バスの運行開始

 戦後まもなく「公営バス」として軍用トラックに屋根と座席とハシゴを取り付けて改装したバスのはしりが出現したが、住民の移動が活発化するにつれ、輸送需要をみたすことができなくなった。そこで1950(昭和25)年3月公営バスが廃止され、同年4月民間バス会社として協同バス・沖縄バス・首里バスの3社が設立され、アメリカの援助資金でいすゞ自動車製のボンネットバス59台が導入された。
 沖縄バスは設立に当たって、糸満線(東風平経由)の運行を開始する。この路線は那覇を発して国場・津嘉山・山川を通り、東風平を経由して糸満に向かうもので、この時初めて南風原村に定期のバスが走ることになる。
 1951(昭和26)年8月7日には東陽バス設立され、志喜屋線、知念線が運行を開始する。この路線は、那覇から国場・兼城・宮平・与那覇を経て、佐敷・知念へ向かうものである。東陽バスは民営バスのひとつで、協同バスから独立したものである。

 3社でスタートしたバス事業は1年後にはたちまち14社に増える。3社のうち戦前に乗合自動車業にたずさわっていた人が集まって設立された協同バスが5社に分裂し、新規参入してくる会社も相次いだためだ。台数も59台から、239台へと急増したが、全部が新型バスというわけではなく、トラックを改造した公営バスの延長のようなバスも走っている。
 1953(昭和28)年6月には沖縄バス百名線が運行を開始する。この路線は、国場、兼城十字路を通り、喜屋武を経由して大里村大城に抜け、玉城村百名に至る。同年10月、琉球バスの富里線が運行開始。那覇から国場、津嘉山、神里を経て玉城村富里を終着地とするもので、これで神里区民がバスで那覇に通うことができるようになる。

 1958(昭和33)年1月、東陽バスの城間線、泡瀬線が運行開始。城間線は佐敷(馬天)を起点とし、与那原を経て、宮城、大名を経由して首里、浦添市城間を終着点とする。この路線の開通によって、南風原全村にバスが運行するようになった。この年、バス会社6社に統合、昭和バス、沖縄バス、銀バス、東陽バス、青バス、首里バス。この年、10月には沖縄バス「大里線」が運行を開始。国場、兼城十字路、喜屋武を経て大里村大城を終点とする。
 1959(昭和34)年9月1日、那覇バスターミナルが新設され、バスの運行体制が確立する。

一家に1台

 一家に1台の割で乗用車が普及するのは、アメリカ文化と隣り合わせで暮らしてきた「庶民」の「夢」であったと言っても過言ではないだろう。1983(昭和58)年版の『町勢要覧』で見ると、人口21,588人、乗用車保有状況は1.2世帯に1台となっている。夢はほぼ実現されたことになる。
 それが1998(平成10)年度『町勢要覧』になると1996(平成9)年4月1日時点で1世帯に2台、夫婦おのおのが乗用車を持つ時代の到来である。

2.流通

「配給所」と「売店」

 帰還当初は、共同でイモを掘ってきて皆に分配、その後は耕しやすい所を共同で耕して、イモを植えた。まだ境界も不明だった。戦車が踏み固めたところをはずして耕作した。イモだけでは足りなくて、米軍から無償で配給された食糧で命をつないだ。配給所ははじめ、大見武にあった。米軍布告によって「金銭取引」が禁止され、米軍の配給物資で生活する「貨幣なし経済」状態が1946(昭和21)年4月まで続いた。「食べ物は役場から区長さんの家に持ってきて各家に。配給所があったのは戦後1、2年。その後は兼城の配給所へめいめいで取りに行った。」(新川)

 1946(昭和21)年3月、軍政府は金銭取引禁止を解き、法定通貨としてB型軍票と新日本円を指定、旧日本円と交換する旨伝えた。続いて米、大豆、メリケン粉、黒・白砂糖、塩、油、イモなどの公定価格表を公表した。4月26日には「割当配給量および配給制度」を発表して今後の方針と配給方式を公示する。計画によると、「1か村平均5か所の割で」「販売店を設置する予定で」「販売店はできるだけ、住民が歩いていける範囲の便利な場所に設置する」「販売店は毎日開けること」「ただし各世帯の代表者は5日ごとに」「指定された販売店に指定された日」に行くことになっていた。配給は「配給カード」に基づいて行われるが、これには世帯主及び家族数が記され、カードには使用年月日、受け取った物資の種類、数量」の欄が設けられていた。購入は規定のカロリー最高制限量の範囲内であれば在庫食糧品を選んで購入できる、ともある。販売店の配給係吏員は村長の任命とされた。
 「南風原村役場」でも1946(昭和21)年5月、有償配給制の施行に伴う「46年5月予算書綴」を作成する。それによると、歳出の部に「販売店設置数及係員数」の項目があり、「販売店」は字宮城(「南風原区売店」)と字宮平(「宮平区売店」)に設置されていて、「係員」はそれぞれ13人。「販売店」の職員数は沖縄民政府から人口・世帯数によって定められていて、事務員と販売係、雑役に分かれる。13人は、2,600人・650世帯以上の区域に該当する。南風原区売店の所管は宮城、与那覇、大名、本部、照屋、喜屋武、宮平区売店の所管は宮平、兼城、新川、津嘉山、山川、神里となっている。当時の南風原の人口は6,000人、総予算1,324,330円で、歳入の内訳は「販売店売上金」、「交付金」、「補助金」からなるが、そのうち66パーセントに当たる880,000円が「販売店売上金」となっていて、その内訳は「食糧品売上金」のみである。

 一方、「歳出」の部を見ると、両売店の職員給料費が42,900円で一人当たり平均150円、「商品代」が1,188,000円で「一般販売商品代」と「救護商品代」に分かれている。村役場も「配給品」を無料で仕入れたのではないことがわかる。

 村役場における「販売店売上代金」とはどういう性格のものだったのだろうか。翌1947(昭和22)年10月13日付で「琉球列島米国軍政本部」から沖縄民政府知事に出された軍指令「食糧衣料その他の補給品売上よりの収入」によると、「食糧衣料その他の補給品はどだい役場を賄ふ資金を調達するためニ割五分値上して住民へ販売するよう軍政府が村売店へ提供したもの」であった。
 歳入の備考欄を見ると、「南風原」「宮平」両売店区域のそれぞれの人口に一人当たり月20円、5月からの11ヶ月分を掛け算して積算されている。両売店区域の人口4,000人、これは総人口から「要救護者数」を引いた数である。残り2,000人分は「救済費交付金」として396,000円が計上され、一人当たり18円の11ヶ月分で積算されている。働き手のいない家族の人員を示すと見られる「要救護者」には無償の配給が続いたと見られる。

 2ヵ月後の1946(昭和21)年7月6日には「追加更正予算」が提案されている。それで見ると、販売店売上金は14,400円の増額となるが、売店が「南風原区売店」「宮平区売店」の他に、照屋、津嘉山、山川、神里の「売店売上金」が上程されている。この間に5字に新たに「売店」が設置されたことになる。これは7月4日に、5字の住民が収容所などから帰還を許されたことによる。予算書には「区長俸給」180円も計上されている。ちなみに村長俸給は340円、「販売店書記」は平均150円である。

 予算書には「配給人員」(すなわち「要救護者」を除く「人口」)の挿入メモがある「南風原村人口調」が添付され、7月末人口と10月末人口が記載されていて、人口増加による販売店の職員増加数を記している。それによれば、7月末の人口で4,974人が、10月末には6,365人に増えている。5月に作成された予算案では4,000人しか計上されていなかったから、帰還者の数が急増したことがわかる。翌1947(昭和22)年1月には再度追加予算の申請がなされている。それによると、各区売店の歳入案では「食料品売上金」に続いて新たに「衣料品売上金」が計上されている。翌1947(昭和22)年度予算案にはさらに「雑貨売上金」が加わる。

 1948(昭和23)年度の南風原村の予算書にも「販売店売上金」が計上されているが、残念ながら1949(昭和24)年度予算書が残っていない。その次の1950(昭和25)年度予算案からはこの「販売店売上金」が消え、かわって重要財源として「市町村費負担金」が登場する。これは「土地割当負担金」「家屋割当負担金」「市町村民負担金」の3種で構成されているが、いまでいう固定資産税と町民税にあたるものだろう。税収が村行政の歳入項目に登場することになるが、この頃「販売店」は村の手から離れたことを意味する。

 売店についての町民の証言を次に紹介する。照屋の「売店」(配給所)は現在のバス停の所にあって20坪ほどの広さだった。配給物資は主にメリケン粉、缶詰、ジャガイモ、チーズなど。缶詰は缶を開けて、中身を一人当り何グラムと量るので、計算が大変だった。配給は1月に1回。「配給所」から区長宅に物資を運んで来て、配給係が配給した。
 神里の売店は旧公民館の南側にあった。テントを設営して配った。配給物資はその日に配らないと盗まれるということだったが、1日では終わらなかった。配給の合図はガスボンベを転用した鐘を何回か鳴らして行った。
 以下は津嘉山の儀保福三の証言である。
 津嘉山区売店の事務員になったのは46年11月4日、月給170円。11月9日には書記に任命された。村長からの辞令で役場職員ということだった。月俸も190円になった。売店で売る品物は全部アメリカ製品だった。ジャムとか卵とか・・・。当時の売店は現在の津嘉山農協のところにあって、職員が4、5人いた。配給日の決定や一人当りの支給量、売価などを割り出した。売店に米はなく、メリケン粉やとうもろこし粉が主だった。ベーコンはひとつの大きな缶詰をあけて、みんなに分けた。ピーナッツや卵の粉、アイスクリームの粉などもあった。売店に勤めていた1946(昭和21)年にはまだ畑の生産量も少なかったので、雨が降った場合は「(食料)増産休暇」をとって、イモを植えた。また共同作業ではイモを掘らせて供出させ、これを配給した。食糧のイモが収穫できるようになると、「農家」「非農家」の区別ができた。その判断を誰がやったかは知らないが、配給は非農家が優先で、農家には配給はほとんどなかった。配給所だったところがそのままマチヤグヮー(雑貨店)に移行したところもある。

 軍政府は1950(昭和25)年7月1日付をもって、食糧配給の業務を「民営の卸業々者および小売業者に移管する」ことを決定、沖縄群島、宮古・八重山群島の食糧卸は民政府から推挙され、同日付で発足する沖縄食糧会社が独占的に取り扱うことになった。有償配給制度は1950(昭和25)年7月まで継続された。


マチヤグヮー・共同購入・ス-パー

 字照屋で初めてマチヤグヮーを開いたのは、屋号「仲筋」大城山戸。戦後一時期交番があったところで、現在の照屋バス停前、「照屋歯科」駐車場がある場所である。販売したのは「売店」が販売しない商品、たとえば菓子、酒、そうめん、調味料、コーラなど、天秤で量り売りもしていた。菓子はアン菓子やアメなど、自転車で配達する業者がいた。酒は、近くに喜屋武・本部・照屋の人2、3人が共同出資してつくった酒造工場があって、そこがつくる「南風」という銘柄を入れた。原料は、始めはイモ、そして黒砂糖、その後米でつくる泡盛に変わった。酒のつまみとして缶詰、とくにサバの缶詰はよく売れた。大城山戸は精米業も営んでいた。彼の名前は後述する1954(昭和29)年度「南風原村事業別調」にも見える。

 津嘉山の金城成宏は、1950(昭和25)年に雑貨屋(マチヤグヮー)を開く。現在も続いている雑貨屋としては「金城商店」が一番古い。開店当初自転車を購入、那覇や島尻一帯をまわって仕入れを行う。「ギアーM」という名の自転車だったという。当時のマチヤグヮーはいわば小さな百貨店で、おもちゃまで売っていた。1954(昭和29)年ごろ、自転車では仕入れが間に合わなくて、南風原タクシーの金城策誠がタクシーとして使っていたバーハンドルの三輪車を購入した。その頃からは、小売だけでなく、各マチヤグヮーに商品を卸す仕事もやった。

 前述した村役場作成の1954年度「南風原村事業別調」は、課税の基礎資料としてつくられたものである。項目は住所、事業主氏名(事業所名は一例を除いて、すべて個人名)、種別事業日数、売上収入金、年売上収入金、所得率、百分の五賦課税率、摘要からなっている。
 この資料から、当時の南風原村の「事業」の様子を字別に見ることにしよう。与那覇では「物品販売」5、これは「マチヤグヮー」と見られる。「搾乳業」2、「4分の3トラック」1。宮城では売店1、さすがに売上収入金の額は多く、他の「事業」より一桁多い。次に物品販売3、「荷馬車」4。大名では物品販売1、搾乳業1、そして「土木業」1。こちらも他より1桁売上金が多い。宮平では売店1、物品販売3、「建築業」1、荷馬車1。兼城では物品販売6、「理髪業」1、「瓦工場」1(これは後に大城組を創業した大城鎌吉の名で載っている)、荷馬車1。本部は物品販売3、「布団業」2、理髪業1。喜屋武は売店(野原広善)1、物品販売5、「売薬」1、「染工場」1、荷馬車3、「三輪車」2。山川では売店1、物品販売2、荷馬車2、搾乳業1、「トラック」1、「製糖場」1。神里は物品販売3、荷馬車2、「精米業」1。照屋では物品販売3、三輪車2、荷馬車1、精米業1、「酒造業」1(前述の「南風」の醸造販売元である)、布団業2。津嘉山では売店1、物品販売14、荷馬車22、三輪車6、「四輪車」2、「加工業」3、「医師」1、「湯屋」1、「業」13、「日琉畜産株式会社」1、「飲食店」2、製糖場1、精米業、理髪尭、「修理業」1である。

 以上の「事業」のうち物品販売すなわちマチヤグヮーの総数は44と一番多いが、その他の「事業」も増え、生活が比較的安定化してきたことがうかがえる。

 一方、1946(昭和21)年4月、当初農業に必要な資金や設備の貸し付け、農業必需品の生産、農産物の加工、組合員の生産物の販売、農産物の運輸などの事業を展開すべく「南風原村農業共同組合」が結成された。結成当初は住民の食糧や薪などの生活資材、建築用資材、肥料、家畜などの集荷配給業務が主だったという。1951(昭和26)年「南風原村農業協同組合」に改組された。1958(昭和33)年4月頃から「動く農協」への転換を図るべく、「移動店舗」を実施することになる。組合の購買物資を積み、各字を回って、「事務所」を拠点に販売活動を始めた。

 これを受けて与那覇では、生活改善グループが農協と話し合い、代金は商品を分け合って後に払うこと、農協に在庫がない品物も取り扱ってもらうこと、などを決め、その結果食品から農薬にいたるまで「数多くの品物」の「共同購入」が始まった。1954(昭和29)年3月9日の琉球新報によると、共同購入の機運が高まったのは、前年の「ドル切り替え」によって、すべての日常品が値上がりしたのがきっかけであった。「高く買わされない」「安く買う」方法として採用されたのが農協を通した共同購入である。購入物品は、農機具、肥料、薪、から米、油から石鹸や歯磨きまで25種類に上っている。当時のリーダー新垣密子は「スーパーもない頃でしたので、卸商や字内のマチヤグヮーからも少しにらまれましたが、物が自由に安く手に入るようになるまで続けました」と語る。油など店から買うより1升当たり8セントもちがったといい、1ヶ月で5ドルも安くつくので、その分は農信協への貯金に回したという。

 移動店舗や共同購入の実績をもとに農協では、「組合員に低廉な生活物資を供給する」趣旨を拡充すべく、1972(昭和47)年頃から「くみあいマーケット」の設置を検討、1976(昭和51)年7月31日、兼城の国道沿いに開店の運びとなる。
 一方、戦後まもなく宮平に開店した「大城商店」は、1959(昭和34)年与那原に移転、1975(昭和50)年には宮平の国道沿いに南風原店を開店する。その4年後の1979(昭和54)年8月には、国道を隔てた向かい側の敷地にショッピングセンター「ファミリープラザ丸大」を開店、広大な店舗と駐車場を構えて、南風原における大型小売店舗進出ラッシュのさきがけとなる。


3.情報

ボンベ鐘から親子ラジオへ

 収容所から、あるいは疎開先から帰還した人たちにとって、まずは身内の安否を訊ね、あるいは無事生還できたという情報を伝えることが、切実な課題であっただろう。それはそれとして、出身集落に戻り、生活の再建が始まると、着の身着のままで暮らしを立て直さなければならない人たちには、何よりも一致団結してことに当たることが肝要であった。

 集落単位で作られた「事務所」には酸素ボンベがつるされ、字民に集合の合図や緊急事態などの通知がなされた。喜屋武では1946(昭和21)年に設置されたが、たとえば2回、3回、4回、5回の連打は、それぞれ青年会、女子青年会、婦人会、生徒の集合の合図であった。長打で尻すぼみの合図は字の常会や葬式を知らせるもので、乱打は火事の発生や泥棒の出現を意味した。米兵が女性目当てで侵入してきたときも、ボンベが乱打され、自衛を目的として人々が集まった。津嘉山の鐘は平田毛にあった。新川では米兵が侵入する気配を見せたり、火事などの緊急事態のときに、鐘を鳴らした。
 通常、村や区の情報は、区長から班長そして区民へ、あるいはその逆の形で区や村へと伝えられた。

 すでに1950(昭和25)年1月には米軍直営の日本語放送AKARがスタート、米軍提供のニュースやNHKの娯楽番組が流されていた。1952(昭和27)年ごろ、米軍のガリオア資金(占領地域統治救済資金)によって市町村に共同受信施設(親ラジオ)を設置し、軍の放送を有線で各家庭に流すシステムをつくり始めていた。家庭にはスピーカーを入れた小箱(子ラジオ)が設置された。

 1954(昭和29)年6月8日、南風原村議会で議案「村営ラジオ設置について」が可決される。可決後まもない10月、琉球放送ラジオが米軍の統括下で民放としてスタート。このころの沖縄の受信機台数は137,600台とされ、そのうち有線放送の契約受信機台数は10万台を数えていた。翌1955(昭和30)年4月、村役場の一角に一坪のスペースが確保されて、放送設備一式が設けられた。ガリオア資金によるものであった。

 親子ラジオ設置に係る技師として、大城孔賢(津嘉山)が採用された。当時22歳だが、技術を持っていたので、役場の課長クラスと同等の待遇であった。1戸当たりの子ラジオ設置費は50円(喜屋武)。「役場から各字まで20~30メートルごとに電柱を建てて、鉄線で各家庭まで放送を流し、スピーカーは自己負担だった。」(大城孔賢)各字の希望家庭に音楽や、役所からの通知などを放送した。娯楽とて何もない時代で村民から喜ばれ、音楽のリクエストもあった。好評の琉球古典音楽を朝夕流し、民謡は昼間たまに流した。

 琉球放送の番組も流されたと思われるが、この時期の琉球放送は、まだ米軍の直轄下にあって、ニュースは逐一検閲、米軍の反共番組を押し付けられ、定時番組を急に変更させられて軍政副長官の発表を強要されるなど、民放としてはきわめて変則的な運営を余儀なくされていた。

 鉄線による配電では役場から離れた神里や山川では音波が届きにくい。そこで神里の金城慎誠は自分でアンプを組み立てて「親ラジオ」をつくり、字神里と大里村平川の一部120戸ほどに放送を流した。役場や与那原署などから来る公文や、直接公的機関から届けられる情報を自分で放送した。ところが、沖縄テレビが試験電波を発信するようになったため、新しい時代の到来を予感し、配信を止めることにした。沖縄テレビの開局は1959(昭和34)年11月である。

 1958(昭和33)年5月、琉球放送は米軍から全放送施設を買い取り、局を琉球大学構内から那覇市久茂地の新社屋に移動した。それまで有線放送業者から「もっと音楽や放送ドラマなどの娯楽番組を増やしてほしい」との要望をよせられていたのを受けて、隣県鹿児島県の南日本放送から番組をテープで送ってもらって聴取者の要望にも応えることができるようになった。

 1959(昭和34)年5月には村議会で親子ラジオの「委託経営」に関する討議が行われ、結局、役場親子ラジオ経営から手を引くことになる。大城はそれとともに津嘉山農協に移り、ここで農協経営の親子ラジオを任される他、喜屋武・照屋・本部3字には自ら「ラジオ局」を設けて放送を流すことになった。喜屋武農協と個人経営の設備は、米軍払い下げのアンプ他を自ら修理して使用した。

 兼城や他の「上」の親子ラジオ経営は宮城の与那嶺さんに委託された。
親子ラジオでは、近江俊郎の「湯の町エレジー」、笠置シズ子の「東京ブギウギ」、美空ひばりの「悲しき口笛」、並木路子の「りんごの歌」といった内地の流行歌も流れ、それで歌謡曲を覚えたという人もいる。流行歌は劇場がスピーカーで流すのを聞いて覚えることもあった。浪曲を親子ラジオで聞いたという人もいる。「本土」(「祖国」)と分断された生活を送る沖縄の人たちにとって、娯楽であると同時に、本土の情報源としても、映画と並ぶ重要な役割を担っていた。
 すでに高校生や中学生の間では鉱石ラジオを組み立て、本土の番組を聴取するなどのブームもあったが、1956(昭和31)年、本土でトランジスタブームが起こると、その流れは沖縄にも届くようになる。役所からの連絡などは相変わらず必要なので、一般家庭では市販ラジオと親子ラジオが併置される状況も始まった。そして1964(昭和39)年、大城孔賢が経営していた喜屋武・照屋・本部への放送配信が終わる。他の字の配信停止もこの頃であろう。すでに1950年代の終わり頃からテレビを入れる家庭が出てきて、この年東京オリンピックの開催を控えて、テレビブームは高まっていたのである。

 1962(昭和37)年、山川で、公民館に放送用具が設置され、マイク・拡声器による連絡事項などの放送が始まる。1963(昭和38)年には与那覇、1967(昭和42)年には喜屋武と津嘉山でマイクによる放送が始まる。字民への連絡がずいぶん楽になったと当時の区長は回顧する。
 この間、ラジオの普及も目覚しく、1968(昭和43)年までの南風原村『村勢要覧』で見ると、トランジスターラジオを所有する戸数は総戸数の74パーセントに上った。

新聞と電話

 戦後の新聞発行は1945(昭和20)年7月25日に米軍の情報宣伝機関紙として創刊された「ウルマ新報」だが、後「うるま新報」と題字が変わり、1947(昭和22)年4月から企業発行となって、有料で配られるようになった。

 1947年度の南風原村予算案には早速消耗品費の中に「新聞代」として月15円の12ヶ月分180円が計上されている。字宮城でも、公民館で字用として早速購読を開始、12月の決算書には「字用新聞代」(1ヶ年分)が現れる。区外の情報は役場から入る他は何もないような状況だったし、個人が購読できる時代でもなかったので、区民の復員に関わる情報なども含めて、字として購読する必要性は高かったものと思われる。
 1950(昭和25)年から、村でも字宮城でも新聞代は月30円に増額されている。1948(昭和23)年7月に「沖縄タイムス」が創刊されているので、両紙を購読するようになったのかもしれない。
 公的機関に次いで事業所当たりで新聞購読が始まったと見られるが、個人宅で新聞を購読するようになったのはいつかはっきりしない。与那覇の新垣善清は1957(昭和32)年ごろからとしている。時代は下るが1968(昭和43)年の南風原村『村勢要覧』で見ると、新聞購読戸数は全戸数の66パーセントとなっている。

 電話の利用は役場から始まった。すでに1946(昭和21)年7月6日に知事宛申請が出た同年度の「追加更正予算」に「電話費」として月50円の11ヶ月分が計上されている。しかし、役場に電話が設置されていた訳ではなく、役場と併設された郵便局にあった電話を使っていたものと思われる。1954(昭和29)年に農協に入所した中村良信は農協どころか役場にも電話がなく、電話をかける時には郵便局に行ったと証言している。

 琉球電信電話公社発行の『1960年度電信電話要覧』で見ると、1960(昭和35)年6月30日時点で、南風原村における電話設置状況は5件に過ぎない。役場や学校、農協などの村レベルの公的機関に設置されるにとどまっていたものと見られる。1965(昭和40)年、喜屋武、神里、山川の公民館に電話が設置される。当時神里では、個人で電話を入れていたところはせいぜい2、3軒程度なので一日電話番をしているような状態だった。

 1968(昭和43)年の『村勢要覧』には電話の設置状況も記載されている。それによると、総戸数1,765の内、電話を設置している戸数は51、全体の2.9%に過ぎない。それが、71年2月になると調査戸数2,210戸中、自家用305戸(事務用46)で13.8パーセントに伸びる。しかし、一般村民の電話利用は公民館で、という状況がまだまだ続く。1975(昭和50)年、宮平公民館に「公衆電話」が設置される。この年、「南風原分譲住宅」(兼本ハイツ)に入居した田港※※の話では、「12月に入居して加入を申し込んだが、電話が入ったのは翌年の8、9月頃」、「当時はちょうど電話が普及し始めているときで、工事が追いつかなかったと思う」と話している。

 1987(昭和62)年の役場発行『DATA BOOK 統計資料に見る南風原町』で見ると、電話普及率がようやく1世帯に0.8台という状況になっている。この時点で新聞やラジオ、テレビの普及率はすでに掲載されていない。掲載するまでもないまでに普及が進んでいたと考えられる。

映画の隆盛

 ラジオの受信は、娯楽という一面にとどまらず、戦後社会の「情報化」に大きな変化をもたらしたが、娯楽性という観点で言えば、ラジオに先立って人々に熱狂的に受け入れられたのは、映画であった。

 1934(昭和9)年生まれの大城敏雄(照屋)は、現在の徳州会病院の近くにあった米軍の戦車置き場跡の広場で、戦前の無声映画(トーキー)を見たことがあるという。中学時代の1948(昭和23)~1949(昭和24)年頃で、年配者に連れられて行った。映画は「蘇州の夜」だった。弁士がフィルムを持って各地を上映してまわっていた。弁士は有名な山田という人だった。

 山里将人『アンヤタサ!』によればこの弁士は山田義認。彼は1948(昭和23)年10月、「山田映画社」を設立、映写機と若干のフィルムを持って沖縄全島を巡回興行するかたわら、那覇では中央劇場を中心に活躍した人気の弁士である。1948(昭和23)年から1950(昭和25)年にかけて山田と並ぶ著名な弁士・瀬名波肇の二人が本島で繰り返し上映したとみられる映画のリストが山里の著書にはあるが、それによると「蘇州の夜」は1946(昭和21)年の制作で、主役は佐野周二と李香蘭(山口淑子)である。

 1950(昭和25)年、与座仁徳により屋根付き、トタン屋根の「津嘉山劇場」ができる。沖縄芝居の他、山田弁士の無声映画も上映していた。座席は2階建てで、1階は立ち見で150人ほど入れるほどの広さだったが、造りが丈夫でなくて、客の重みで2回座席が崩落したことがある。津嘉山劇場の他に東風平の外間にも劇場があった。

 この時期の映画状況を眺めると、1947(昭和22)年3月、松尾に露天の中央劇場、9月には那覇市牧志にアーニーパイル国際劇場がオープン。1950(昭和25)年1月、栄町に初の屋根付き館・沖縄劇場が開設され、有料で奄美経由の邦画フィルムなどを上映していた。南風原に近い方では、神里原通りに大洋劇場があって、徒歩で見に行った。開館は1950(昭和25)年9月である。1951(昭和26)年10月1日には沖映本館が開館。ここでは「君の名は」(1953年)や「二十四の瞳」(1954年)を上映、空前のヒットとなる。
 1953(昭和28)年1月には大宝館と大洋劇場で「ひめゆりの塔」が上映されて、長蛇の列をつくった。「無期限ロードショー」であった。南風原からは徒歩の他、大型タクシーに大勢で乗って映画を見に行った。

 一方、米軍政府も映画を利用した教育宣伝活動には熱心であった。1951(昭和26)年2月7日、「沖縄人の自立及び自治能力を高める」「米国及び琉球列島米国民政府の政策ならびに事業について説明するための諸活動を通して米国への敬意、理解及び感謝の念を抱かせるようにする」「共産党の宣伝活動を阻止する」などを目的とする琉米文化会館が設立された。南風原村を含む知念地区は那覇琉米文化会館の所轄であった。
 同会館の「移動文化会館」は「出張映画」「展示資料や幻燈写真」及び「貸し出し文庫」などの事業を展開した。この移動文化会館が1955(昭和30)年6月21日、照屋で開催された。「参加人数」は不明ながら、映画観覧者は750人に上り、また同年宮平での「参加者 97人」、ここでも「出張映画が実施されたが、観覧者数記載なし、の記事が『那覇市史 戦後の社会・文化1』に収録されている。観覧は無料であった。

 1955(昭和30)年に村営親子ラジオの技師として役場に勤めることになった津嘉山の大城孔賢は、琉米文化会館に行って映写機とフィルムを借りて上映会を行った。フィルムはアメリカや日本のニュース映画が主だったが、まだ娯楽の少ない時期だったので喜ばれた。できの悪い映写機だったが、需要が多いので青年たちに映写機の扱い方も指導した。

テレビの普及

 1953昭和28)年2月1日、日本におけるテレビの本放送がNHKによって開始された。民放の本放送開始の一番手は、日本テレビ放送網で、6ヶ月後の1953(昭和28)年8月28日であった。しかし、当時は受像機の価格が高く、なかなかテレビは普及しなかった。そこで盛り場、駅、公園などに受像機を設置、これらの街頭テレビには多数の群衆が集まり、プロレスやプロボクシングに熱狂した。テレビは、日本の経済成長と価格の低下によって、電気冷蔵庫、電気洗濯機とともに、「三種の神器」として急速に普及しはじめた。

 南風原では早くも1957(昭和32)年には兼城の城間金昌宅にテレビが入る。1958(昭和33)年、皇太子妃に正田美智子が内定。沖縄でも「ミッチーブーム」が起こる。本土においては、1959(昭和34)年は「皇太子御成婚」の年で、この模様を見たいと白黒受像機の普及が200万台を超えた。このビッグイベントでテレビは広く国民に認知され、一大飛躍期を迎えた。沖縄テレビの開局は1959(昭和34)年11月1日で、この日から1週間「開局記念番組」を流しているが、4日目に「皇太子御成婚記念」なる1時間番組を放映している。

 開局当初の放映は午後6時から10時15分まで。この頃津嘉山では、金城成宏が経営する雑貨店にテレビが設置され、近隣の人たちに見せる場合は5セントを徴収していた。子どもたちがよく見に来たので、整理券の意味合いもあったと思われる。
 沖縄テレビ開局当初の那覇市における人気ぶりを、沖縄タイムス『増補改定版 写真記録沖縄戦後史』は次のように記されている。「11月1日、沖縄テレビ開局によるテレビの出現は娯楽の少ない当時の県民に熱狂的に歓迎された。高価で買えない庶民は、おもしろい番組の時間を見計らって電気店へ。おかげで店は黒山の人だかり。」

 沖縄テレビでは、開局間もない12月21日、「水曜劇場、舞台中継」のメインタイトルで、与座劇団の「片割れ心中」を那覇市寄宮のあけぼの劇場から実況中継した。「水曜劇場」(翌年「お茶の間郷土劇場」と改題)は、毎週テレビで郷土劇を見られるとあって熱狂的な歓迎を受け、水曜日の夜ともなると映画館や結婚披露宴場、各種集会の観客、出席者が減少、一方テレビのある公民館の広場にはファンが夕方から敷物を持参して集まり、即席の露天劇場に変わった、と『沖縄テレビ三十年史』と記している。新川の花城清行は、人気番組は水曜日の夜8時から始まる「水曜郷土劇場」とプロレスだったと回顧する。

 『沖縄テレビ三十年史』によれば、1959(昭和34)年11月の開局当初2,600台しかなかったテレビが、翌1960(昭和35)年には12,800台に増加したという。
 テレビの急速な普及には、1960年6月1日、「琉球放送テレビ」が放送を開始したことも影響していると思われる。10月9日には「街頭テレビ 琉球放送と沖縄テレビが普及とPRを兼ね全島9ヶ所に街頭テレビを設置した。放送時間は午後6時から11時まで。毎晩テレビのある広場には60~70人が集まった。」(沖縄タイムス『増補改定版 写真記録沖縄戦後史』)。大名では、1961(昭和36)年、字で初めて3、4軒の家にテレビが入る。「夕方になると隣の人や宮城の近くの人も見に来て終了時の11時までにぎわっていた。」(『大名誌』)

 この時期、村内では公民館にテレビを設置する事例が増える。まず、1960(昭和35)年、神里公民館にテレビが寄贈される。そして1962(昭和37)年、字宮城では新しい公民館が建設されたのを契機に、テレビを設置する。
 それから数年後、『村勢要覧』に掲載された1968(昭和43)年1月現在の「各字別文化製品調べ」では、テレビ所有戸数が全戸数の85パーセントに上る。これはトランジスタラジオ74パーセント、新聞66パーセント、電話2.9パーセントをはるかに上回る数字である。これに対して「三種の神器」の一つ「洗濯機」は43.4パーセントとテレビの半分強の普及、「冷蔵庫」にいたってはいまだ21パーセントに過ぎない。
 
 1978(昭和53)年には 沖縄が日本に返還されて6年後の1978(昭和53)年度版『村勢要覧』によると、ラジオが1.05世帯に1台、新聞が1.08世帯に1台、テレビは0.93世帯に1台と各世帯にほぼ1台の普及となっているが、電話はいまだ2.13世帯に1台となっている。
 携帯電話の普及は、20年以上先の話である。

与那原大綱曳ー「むら」の「祭り」から「まち」の「まつり」へ (2)

2012-06-21 17:34:56 | Weblog
<祭り>と<まつり>  「与那原大綱曳実行委員会」と「与那原まつり運営委員会」  「むら」から「まち」への変容ーその要因   「“つなひき”から“まつり”へ」ー町商工会青年部の決起   「まつり」の二元性と一元化に向けて

<祭り>と<まつり>

 以上で見てきた「大綱曳」と一連の行事が、主催者の「綱曳行事規定」が明記するように、「昔から祭事を兼ねた行事」であることは、たしかであろう。まずは、事前に行なわれる村落発祥に関わる拝所に供物を供えて参拝することからしてそうであり、起源が穀物収穫前の「虫払い」行事として位置付けられていることが、その「祭事」的側面を表している。旧暦6月の稲作儀礼は、全県的に見れば15日の「ウマチー(稲大祭)」と24日ないし25日の「カシチー」、25日ないし26日の「浴(あ)ミシの御願(ウグヮン)」に区分けされるが、15日に行なわれる子どもたちのウマチーヂナグヮーが元来「ウマチー」の「祭事」的意味合いを持っていたことはたしかだろうし、26日の「大綱曳」は、「アミシのお願」すなわち稲の収穫後に「雨乞い」を通して豊年を祈願する「祭事」の一環と見なすこともできる。この日綱引きを実施する集落は、近隣地域に多い(多かった)。(20)「規定」が「祭事を」「兼ねた行事」とするのは、「祭事」=神事に対する「祝祭」=「遊び」的側面を指してのことであろう。大塚民俗学会編『民俗学辞典』では、「祭」を「神霊をよび迎えてこれに供献侍座し、以ってそれを和ませんとする集団行事」と定義しているが、ウマチーヂナグヮーがそうであるように、村落発祥に関わる祖神の前で執り行われるのが綱引きであったことが、与那原の場合も推察可能なのである。

 綱引き自体が「年占い」的要素を持っていた事例も報告されているが、ここでは立ち入らない。与那原の場合は、「拝礼・供献侍座」が宗教学でいう「祭儀(ritual))性を、綱引きに「祝祭(festivity)」性を見てとることもできよう。しかし、いずれにせよ「与那原大綱曳」が「大綱曳」を維持していくためには、「祭儀性」より「祝祭性」により大きな比重をかけなければならない事態に立ち至るのも不可避であった。一言でいえば、祭儀性の確保と祝祭性の拡充ということになるが、そのためには1952年制定時に「昔より祭事を兼ねた行事であるから」これを「如何なる事由あるにせよ町全体綱としての行事変更は絶対に容認せざる事」とした「規定」の内容を放棄して、「町全体綱」として「行事変更を容認」する動きに抗することができなくなったのである。「祭事」が生き延びるために「まつり」への包摂を受け入れたということだ。ここでいう「まつり」とは、特定の<神>に対する祈りがない行政種々のイベントとしてのそれである。以下では、その流れと新たな位置づけの試みを概観してみたい。

 さて、時代の変化に即応した変更を伴いながらも、6区の「綱曳実行委員会」は前述の規定を柱にして、毎年欠かすことなく大綱曳の運営を継続してきた。新聞も毎年「万余」の観衆によるにぎわいを伝えた。しかし、昭和50年代に入って、大綱曳の運営形態に大きな変化が起こった。同会が、6区の区長を中心とする構成から、町議会議長を委員長とし、区長会、商工会、町議会、町当局および町教育委員会、青年会、婦人会、町体育協会、町老人クラブおよび有志による構成に変わったのである。これには、当時の町長の強い意向があったと考えられる。昭和57年7月のことである。町長粟国良行は議会、商工会、青年会、婦人会など各種団体に呼びかけて協議、各種団体から実行委員を選出して「窓口を一本化すべき」との結論を得て、自ら「実行委員会設立世話人」として「綱曳実行委員会」を招集、会長に町議会議長を推薦したのである。この席で町長は、各団体に結集を呼びかけると同時に招来は「与那原祭として発展させるべきだ」という意見を提出している。一部団体から異論はあったものの、新組織による運営方法でスタートすることに決定した。町長の提起と決定の裏側には、会議で商工会長が述べた「海洋博とも関連して人手が多くなる。責任分野をはっきりさせて強力に態勢づくりをすべきである」とする考え方が共通していたのであろう。この会議は7月2日。沖縄返還を記念して開催される「沖縄国際海洋博覧会」の開会は7月20日と間近に迫っていたのである。
 こうして、「規定」作成時、すなわち1952年7月から23年が経過した時点で、「如何なる事由あるにせよ町全体綱としての行事の変更は絶対に容認せざる」態勢と体制は、ここに瓦解したのである。新「実行委員会」による開催趣意書は「今年は思考を変えて、各種行事を取り入れて各方面に幅広く呼びかけ、『住みよい与那原の町』『活気あふれる与那原の町』を知って戴き、今後の町の発展に寄与させるべく行事をもつ決意」であると述べている。昭和51年からは、町議会議長に代わって町長本人が「綱曳実行委員会」の委員長となり、53年にふたたび6区区長による互選となったが、上記の全町体制による組織は継続された。

 以上が体制変更の外発的要因とすれば、この間くすぶってきた内発的要因もあった。旧来の「綱曳実行委員会」による「大綱曳」は、すでに行き詰まりを見せていた。まず、綱つくりと綱かつぎ要員の確保がむずかしくなっていた。罰金(過怠金)制度も機能しなくなっていた。農業人口の減少やサラリーマンの急増、外来人口の増加、それらに伴う価値観の変化などが影響したと考えられる。罰金をとらなくなったのは、昭和50年頃からだというが、前述の通りこの年、「実行委員会」に大改革が加えられている。毎年の寄付金集めにも限度があった。町からの補助金交付がいつからなされたか不明だが、判明する昭和48年度のそれが70万円、50年度に80万円、53年度150万円、55年度には250万円と増大を続けている。集客増を図るために、観客の好みの多様化に対する配慮も必要とされてきた。昭和43年の新聞広告によれば、大綱曳のと従来から行なわれてきた「角力(沖縄相撲)大会」の他に、「(米人による)海上スキー」、「ヨットパレード(ヨット協会)」、「大学生によるダンスパーティ」などが開催予定となっている。しかし、時代の趨勢は旧来の6区単独による「大綱曳」の維持に赤信号を点していた。


「与那原大綱曳実行委員会」と「与那原まつり運営委員会」

 そして昭和54年、町制30周年を記念して「与那原まつり運営委員会」が結成され、「大綱曳」はその中に取り込まれることになる。新聞の一面を使った「まつり」の広告で、「運営委員長」の粟国良行町長は、「町制30周年に当り町の融和と団結を計り、全町民の英知とエネルギーを結集し、長期的展望に立って町づくりのために道を切り開いて行くこと」を目標とし、町民が「まつり」に参加することを通して「誇りと自信をもち大同団結の絆を固く結び、明日の与那原の町づくり」に取り組むことを呼びかけている。「与那原大綱曳」を支えてきたのは、6区すなわち「旧与那原村(むら)」であったが、ここに至って、「むら」単独開催から「まち」主催へと大きく方向を変えることになった。その趣旨は「明日の与那原の町づくりのため」であった。その体制とは、6区区長主導の「綱曳実行委員会」は「与那原大綱曳実行委員会」として存続するものの、別に町は「与那原まつり運営委員会」を組織化、「与那原大綱曳実行委員会」をその傘下に収めるというものである。

 この時の組織と運営をながめてみよう。「まつり」は、町を主体とする「与那原まつり運営委員会」と「商工まつり実行委員会」の共催とし、前者は町長を委員長とし、区長会を中心とする「綱曳実行委員会」、青年会・婦人会・老人クラブを中心とする「盆踊・エイサー実行委員会」、そして漁業協同組合を主体とする「ハーリー実行委員会」によって構成され、各種イベントについては「ラジオ沖縄開発センター」が協力するという形になった。商工会は「商工パレード」と「味自慢コーナー」「製品展示即売会」を担当する。ハーリーとは、元来旧暦5月に豊漁を祈願して港で行なわれる「爬龍船競争」のことで、当添区が漁港を有し、町の漁業協同組合がある。ちなみに、ラジオ沖縄開発センターの企画は、タレントによる漫談、民謡ショー、琉球舞踊などで編成される「芸能バラエティショー」で、他に小学生以下による「チビッ子のど自慢大会」、「小中学生角力大会」、「花卉植木市」、「出店(テナント)」である。開催時のスケジュールを見ると、初日は開会式に続いて「鼓笛パレード」「ラジコン大会」「チビッ子相撲大会」「芸能バラエティーふるさと万歳(ラジオサテライト)」「エイサー・盆踊りの夕べ」「花火大会」のメニュー、2日目が前日に続いて「出店・植木市」「ラジコン大会」、そして「チビッ子のど自慢大会」、続いてメインの「大綱曳」、そして「爬龍船競争」「民謡のど自慢大会」、最後が「花火大会」となって幕を閉じている。8月6日の「沖縄タイムス」は、参加者数が2日間で延べ6万人に達したと報じている。

 ところで、この年昭和54年11月9日付の「沖縄タイムス」は、一面広告で10日(土)・11日(日)の「第一回かでなまつり」開催を伝えている。嘉手納町は北谷町から分村して30年余、この年で町制移行4年目を迎えた本島中部の町で、広大な嘉手納飛行場を抱えることで知られているが、第1回の「まつり」開催の目的として、従来行なわれてきた「野国総官祭」と「芸能文化祭」を包含して、これに「産業振興」と「民俗芸能の継承」および「健康で豊かな人間性を備えた町民の育成と、更に『活力ある豊かなまち』づくりを目指して、町民の連帯意識の高揚を図ること」を掲げている。「野国総官」は、中国から琉球にイモをもたらしたとされ、沖縄産業発展の「三大恩人」の1人に数えられてきた地元出身の歴史的人物である。「まつり」の行事日程を見ると、初日の「かでなまつりびらき」に始まって、「街頭パレード」「歩行者天国」「子どものど自慢大会」「カラオケ大会」「余興(婦人会・老人クラブ)」フォークコンサート」「花火大会」となっていて、2日目は前日同様の「歩行者天国」と(植木市及び出店)、そして「仮装行列」「芸能祭」「素人のど自慢大会」「カチャーシー大会」と続いて幕を閉じる。「カチャーシー」とは本島地域で、祝い事などで一般に行なわれるテンポが速い即興の群舞である。イベントを一覧して気づくのは、「与那原まつり」に比して、綱引きのような地域の核となってきた伝統行事が見当たらないことである。「野国総官祭」が「官製」のそれであることは、明らかである。

 「かでなまつり」より1日早く9日(金)から10日(土)まで、那覇市に隣接し、人口も県内で3番目を誇る浦添市が「第二回 てだこまつり」を実施している。「浦添てだこまつり実行委員長」の市長又吉盛一は、新聞広告の挨拶のなかで「かつて首里以前の王都として栄え、歴史的にも由緒ある土地で、しかも民俗芸能の盛んなところ」である浦添市が、「市民意識の高揚と市民の相互連帯をはかることをねらい」として「てだこまつり」を開催すると表明し、この「まつり」を通して「本市の民俗芸能、産業、文化を広く市の内外にアッピールして、『てだこの都市浦添』の名を高め、平和で豊かな街、市民生活づくりの原動力にしたい」と延べている。「てだこ」とは、王国時代の国王の古称で「太陽の子」を意味する。行事日程を概観すると、「ミスてだこコンテト」「民謡ショー」「チビッ子コーナー」「歩行者天国」「美術工芸展」「市史・民俗資料展」、そして芸能祭、さらに「フォークロックコンサート」「出店」「ラジコンカーレース」「七万人のひろば」などとなっている。

 これらの「まつり」が「老若男女」の全参加型である点において、従来の「祭り」と何ら違うところはない。与那原・嘉手納・浦添三者の「まつり」を比較して与那原のみに顕著なのは、「大綱曳実行委員会」の独立性・主体性を認めて、「大綱曳」の「祭儀(ritual)」性を継承させたことである。一方、嘉手納や浦添の「まつり」にあるのは、その「祝祭(festivity)」性のみである。行政当局が主催し、主宰するのであれば「祭儀(ritual)」性を担うことは、行政の立場上不可能であることは言うまでもない。それぞれのイベントを見渡す限り、それなりの地域的な味付けが加わりはするが、おおまかな「まつり」の構成に変わりはない。言い換えれば、それが「新しい」「まつり」のスタイルであり、イメージであって、当初からパターン化、マンネリ化は始まっていたと見なすこともできよう。したがって、開かれるべき「与那原まつり」にとって、従来から天下に勇名をとどろかせてきた「大綱曳」を抜きにして「まつり」を構成することは不可能であった。町長本人のいささか強引とも見えるやり方で、「むら」の祭儀を「まち」の祝祭空間に包摂した背景には上記の事情があったと考えられる。しかも、時代のキーワードは「町づくり」「村づくり」であった。それが伝統的な「町」や「村」の崩壊の危機を示すキーワードであったことは、首長の挨拶に与那原が「町の融和と団結」、嘉手納が「町民の連帯意識の高揚」、浦添が「市民意識の高揚と市民の相互連帯」を謳っていることからも明らかであろう。

「むら」から「まち」への変容ーその要因

 「町制30周年記念」と銘打った「与那原まつり」は、その開催趣旨にのっといて1度限りとなった。恒常的な「与那原まつり」の開催に至るまでには、なお4年間という歳月を必要とした。この間の「まつり」に向かう動きを加速させたのは、30周年記念「与那原まつり」の翌々年昭和56年に結成された町商工会青年部の問題提起と活動であった。その主旨が「“つなひき”から“まつり”へ」であったことは、象徴的である。同青年部が目指したのは、「大綱曳」を巡る世代間、地域間、団体間、業種間、官民間の格差や落差の撤廃であった。そのスローガンは「ブリッジ・ザ・ギャップ」。自ら「橋渡し役」を担おうという「決意表明」であった。次に、彼らの提起・企画・事業を概観することにしたいのだが、その前に少し寄り道をしておきたい。青年部の提起の前提ともなった「むら」から「まち」への変容と、その要因を今しばらく探ってみたいのである。
 まずは、「大綱曳」を支えてきた伝統的な社会基盤について考えてみよう。1952年の「綱曳行事規定」制定の時点では、「大綱曳」の「余興」は「角力(沖縄相撲)」と「演芸会」のみであった。その形は、戦前のそれを引き継ぐもので、また他地域の綱曳でも二つの組み合わせはめずらしくない。その意味ではまさに「民俗」行事であった。地域を東西(もしくは南西)に区分し、東西それぞれの<中心>、あるいは綱引き場を集落の創設他に関わる聖地に設定する点も、他の地域と同様である。親川における慰労会を兼ねた「演芸会」も、他地域における豊年祭の「むら踊り(むら芝居)」と性格上、変わるところはない。その意味で、大綱曳は規模でこそ他地域を圧倒するものの、「規定」が述べるように「祭事」そのものであった。規定は規制であり、限定であった。それはまず、「地域」の限定として現れた。繰り返すように、6区、すなわち旧「与那原村(むら)」である。戦前から戦後まもない時期まで、大里村(そん)の1つの「むら」でしかなかった旧与那原が「大綱曳」を維持できたのは、この地が沖縄本島東海岸における海上交通と陸上交通の要として、殷賑を極めたからと断定できよう。

 大綱引きと相撲と演芸の伝統的な3点セットが、「新しい町づくり」を目標とするイベント=まつりに包摂されんとする動きに抗することができなくなった最大の要因は、社会構造の変容にあった。まず、海路・陸路の要衝であった与那原の街並みは港が軍港としての役割も付されたために沖縄戦では米軍の集中爆撃を受けることになり、住宅地の境界すら不明になるほどの壊滅状態となった。かつて与那原が面する中城湾に帆をはためかせて走り、あるいはたたんで安らぐ「山原船」は大半が水中に沈むか無残な姿を残した。一方では、戦後復興の機運に乗って、海運業の近代化と各地の港湾の整備が進む。さらに、米軍の手で旧来の道路網をベースにした軍用道路の敷設が始まり、陸上交通も様変わりする。海路を「山原船」で押さえる一方、那覇を発ち、与那原を終点とする「軽便鉄道」や客馬車で人が運ばれ、首里・那覇との物資輸送を荷馬車で確保した与那原の突出した役割は、戦後まもなく両足をもぎとられて終焉を迎えることになったのである。戦前のにぎわいの余韻を確かめるかのように、1949年に大里村から分村、「与那原町」として独立したものの、3年後には「綱曳行事規定」を制定。それは、「規定」を設けて「引き締め」を図らなければならない「社会的要因」がすでに無視できなくなっていたことの、「裏返し」の現象であったと見なすことができよう。

 与那原町史編集事務局の上江洲安昌氏によれば、「山原船」の船主は首里・那覇から都落ちしてきた旧士族の「寄留民」が多く、「馬車持ち」(バシャスンチャー)は農業を営む在来のジーンチュが兼業していたのだという。出自の違う2種の住民によって「大綱曳」は支えられてきたのである。これに花を添えたのが、歌劇・演劇と舞踊を核とする「沖縄芝居」の天才と称された伊良波いん吉一座や、琉球古典音楽の名人仲泊兼蒲の活躍による芸能興隆であり、「芸能の町」としてのイメージの定着である。その面影は今でも大綱曳における女性部隊の「メーモーイ(前踊り)」や、大綱上の「シタク(歴史的人物の扮装)」に見ることができる。
 与那原の方向は、海を志向するベクトルと陸に向かうベクトル、地元民と寄留民のバランスを保ちながら定められてきたが、一方「寄留民」が隣村佐敷との境界近くに形成した集落・当添は、定着した人々が漁業に従事し、漁村に普及する「爬龍船競争」を開始し、「海の祭り」として伝えてきた。いわば、「まち」全体が「陸」と「海」の絶妙なバランスの上に構成されてきたといえよう。その意味では、旧与那原以外の「むら」、すなわち大見嶽、上与那原、板良敷のように、旧暦6月26日に自前の綱引きを伝統行事として引き継いできた集落にとって、いわば1区に過ぎない与那原の綱引きである「大綱曳」を「町の」「大綱曳」とすることに反発があったことは予想される。旧6区が「町の」「大綱曳」に包摂されることを拒絶してきたのは、すでに見てきた通りである。旧「むら」同士、旧「むら」と新興集落、「農村」と「漁村」、それぞれの間に潜む溝をどう埋めるか、「大綱曳」から「まつり」への移行にあたって、無視できない課題であった。

 町内の人口増と人口分布の変化も、視野に加えておきたい。近年の現象として、「大綱曳」の実働部隊を提供してきた6区の人口が減少しているのに対して、近隣集落の人口はドーナツ減少で増加する傾向が見られる。町全体としては人口増となっているから、明らかに新規参入の町民が増えている計算になる。このことが、町民の「大綱曳」に対する興味や関心の拡散を引き起こし、結果的に「つくる」「かつぐ」要員の慢性的な不足を呼び起こしていると解釈することができる。ちなみに6区と他区の人口構成を昭和51年と昭和60年で比較すると、51年の場合で6,531人対5,762人(合計12,293人)で6区が53パーセントとなっている。ところが60年になると、6区が6,248人に対して他区合計は7,236人(合計13,484人)で、総人口は増大しているにも関わらず、6区の割合は46パーセントに落ち込んでいる。しかも、6区中唯一人口が増えた江口区の人口には、新しく誕生した県営団地440人が含まれていて、その大半は新来の住民と解される。
 こうして、昭和50年代に入ると綱作りに無断で欠席する6区住民から罰金を徴収することが不可能になる。一古老は、学校教員や町会議員のような本来率先して行事に参加すべき人々の出席率が悪いとかこっていた。1952年に森下区長として「綱曳行事規定」の案文を作成し、「町全体綱としての行事の変更は絶対に容認せざる事」なる一文を書き入れた兼島信助は後に町長を務めた人物だが、彼も昭和57年の時点においては町の全面的な介入に賛同しているのである。


「“つなひき”から“まつり”へ」ー町商工会青年部の決起

 昭和55年12月1日に結成された与那原町商工会青年部は、活動目標の1つとしてかかげる「商工業に従事する青年の情熱を傾注し、新しい町づくり、村づくりの実現を期する)活動の具体策として「与那原大綱曳強力事業」を決定、翌年から早速その取り組みにかかった。青年部としてはじめての町外研修を翌年1月に名護市で実施し、同地での「桜まつり」と同市商工会青年部の取り組み状況を学ぶに及んで、「与那原大綱曳」に組織的に関わることを決意、さっそく「大綱曳」を巡る環境の分析と今後の課題の検討にかかったのである。検討の結果を、「与那原大綱曳推進協力委員会」進発式(昭和56年7月7日)における部長照屋善実の報告から概観することにしよう。(21)

 まず、大綱曳を巡る環境はどのように変化したか。1つは那覇市や糸満市でも「大綱曳」が行なわれるようになり、もはや与那原町の専売特許ではなくなったこと。次に各地で「まつり」ブームが起こり、それが定着して一種の「まつり離れ現象」が生じている。さらに、各地で「まつり」ブームが起こり、それが定着して逆に「まつり離れ現象」が生じている。問われているのは、「まつり」の特徴である。それでは改めて「与那原大綱曳」の特徴とは何か。「沖縄一の歴史と伝統」「独特なシタクによるデモンストレーション」「綱曳の味を失わない『持ち上げ綱』のユニークな技術の蓄積」「旧六区区長主体による実行委員会づくり」の4点がそれである。このような特徴を持ちながらも、問題点がいくつかある。1つは綱曳だけの「単発的なまつりに終っている」こと、次に従来の形の実行委員会づくりが結果的に「町民結集」を「制約」していること、そして「つなづくりに参加する人の減少化、若年化」が見られること、「町当局の取組み姿勢が弱い」ことである。さらに縄張り意識のせいか、あるいは慣れすぎたせいか町内各組織の連絡・協力は必ずしもよくない。芽はある」。照屋が後日述べたところによれば、「このままでいくといつの日か与那原から綱曳がなくなるのではないか」「実際に毎年曳くのは無理だから2年に1度にしてはどうか、あるいは5年に1度にしては」などの意見も町民の間では出ていたというのである。

 問題の「決定的なポイント」は何か。照屋報告は「琉球新報」の次の記事を引用する。「今や大綱引はひとり旧与那原地区だけの独占物であってはなるまい。大綱引は町民の融和と親交を図り、天下に同町の良さをPRする絶好の行事である。これを意識の面で旧与那原とそれ以外の区民(上与那原、大見武、与原、板良敷、当添)とを“分断”している状況は改善される必要があるようだ。(中略)『旧与那原の人』と『寄留民』という“差別意識”は未来を志向する町の発展を阻害するガンと言っても過言ではない」。

 こうして、照屋報告は、現状分析の「一言要約」として「大綱曳」を「まつりブームで方向性を見出せない旧態依然・活力停滞型のまつり」と断定するのである。進むべき道、改善の方向について報告は、基調として「400年の沖縄一長い歴史と伝統を生かしつつ、町民の総力を結集して時代の変化にマッチした個性化、多様化の演出」を提起する。そのうえで商工会青年部はの実践的課題をあげる。すなわち、①町民としてまた商工会員としての地域社会に対する責任を果たすべく、自ら進んで綱をつくり、かつぎ、ひくとともに、②町民だけでなく隣町村民から与那原大綱曳の「本物さ」に共鳴する県内各地の綱引きファン及びまつりファンを対象としたうえで、③「町民のエネルギーの統合」「よなばるのイメージアップ」「家族ぐるみ手ぶらで参加できる伝統行事」としての大綱曳の意義を再確認し、④「与那原馬車スンチャー(馬車引き)、与那原フナトー(船頭)の逞しい気概、伝統文化を愛する創造的な心・人を育てることに寄与しよう」の4点である。報告はこのような情勢分析をもとに、商工会青年部の当面の行動方針として3つの「基本行動」を提起する。

  1.「よびかける」→「現状改革の情熱を!」
   イ)行事のあり方改革(“つなひき”から“まつり”へ)
   ロ)協力・参加の呼びかけ
 2.「つくる・かつぐ・ひく」→「愛郷心の発露として!」
   イ)「メーン・イベントの各行程(つくる~ひく)に直接参加」
   ロ)「伝統の精神(ムラおこし)とつなづくりの技術を学ぶ(継承)」
  3.「もりあげる」→「あらたな感動づくりを!」
   イ)新しい行事・企画の提案とそのための実行委員会への参加
   ロ)独自の企画の創造とそのための実行委員会予算への組入れ

 この基本方針のもとに、商工会青年部は「よなばる大綱曳推進協力委員会」を結成し、内部を5つの部局に区分けした。芸能部会(ロック・コンサート、カラオケ大会)、パレード部会(商工パレード、県警音楽隊演奏パレード、銀行支店・ちびっこ他のみこしパレード)、イベント部会(エイサー、花火、ウィンド・サーフィン、お化け屋敷)、展示即売部会(町産品、植木市、青年部コーナー)、および事務局である。スケジュールは「大綱曳実行委員会」のプログラムに追加されて、足掛け3日間の日程となった。イベントの中の「エイサー」とは、青年たちの勇壮な団体芸能で、元来盆踊りの一種であるが、近年は独立して演じられることがあり、学校行事にも取り入れられている。「まつり」では、当添青年会が演じる。ちなみに、この時の「大綱曳実行委員会」の「大綱曳」を除くイベントは綱引き当日のチビッ子相撲と民謡ショーに限られた。
 照屋の後日談によれば、青年部はこの基本方針を確認したうえで、行政に対して改革実施を訴えたが、「綱曳は区の行事である」「金がない」「今からでは遅い」などの理由で積極的な回答を得られず、結局60余名の青年部員が総がかりでこの大事業に取り組むことになったという。予算的には「大綱曳実行委員会」から受けた補助金15万円からスタートしながら、最終的には585万円の事業として完結させた。そして、次年度の大綱曳のあり方に対して8項目の提案を行なった。

 1、まつりとして位置づける。
 2、実行委員会は町内の主な団体をすべて網羅する。
 3、3月か4月には実行委員会を発足させ、早目に取り組む。
 4、町も積極的に参加する。
  ・職員が何らかの形で取り組みに参加する。
  ・研究する機関をつくる。(資料収集、企画など)
 5、財源確保については、町からの補助金支出の増額にたよらず、「金のなる木」を知恵を出し合ってさがす。
 6、青年のもっている創意とエネルギーを汲みつくす手だてをとる。
 7、綱づくり作業の合理化。例:カンバン方式
 8、まつりを成功させるための提案を全町民に呼びかけ、町民のもっている創意、ネットワークを最大限に活用する。
 9、「保存会」の組織の結成について検討を進める。(22)
 「与那原大綱曳を与那原まつりへ」とするスローガンを掲げる商工会青年部の積極的な関与は、翌年昭和57年も拡充して継続された。この年、新たに「ブリッジ・ザ・ギャップ」が新たに加わった。

 この年実施された町長選挙において、青年部は「現状改革の公約をとりつけるべく」(照屋)公開質問状をつくり、ふたりの候補者に送った。質問状の内容は「商工業の振興発展について」と「大綱曳行事のあり方について」である。質問状は後者に関して、前年度「大綱曳実行委員会」に提起した8項目の提案を再録したうえで、2点について質問している。「町民相互の融和と親交を図るうえで絶好の役割を果たす大綱曳が、逆に意識の面で旧与那原とそれ以外の区民とを分断している現状を改めていかなければならないと考え」るが、その点についてどうか。そして、「この点を解決改善していく方策としては、従来の実行委員会方式を改め、町が全町民によびかける形でもって積極的に関与し、主体的な取組みをしていく以外にはない」と考えるが、それについてはどのように考えるか。
 照屋によれば、告示直前であったため回答は得られなかったが、当選した新町長からは商工会青年部の考え方に基本的に賛同するとともに、就任まもない状況なので来年度から町民総参加による「与那原まつり」とするようイニシアチブをとっていきたい、という回答を口頭で得たという。そして、「公約」通り翌年昭和58年度から毎年開催を前提として「第一回与那原まつり」が開始されるのである。

「まつり」の現状と課題

 かくして、昭和58年8月、「第1回与那原まつり」開催の運びとなる。7月9日、町長を委員長とする「与那原まつり運営委員会」が(再)発足し、次のような組織構成をとることになった。事務局(広報・渉外・庶務、他に花火・図画コンクール、素人演芸会、テナントを担当)、「大綱曳実行委員会」(委員長は町長が「運営委員長」と兼任。以下、カッコ内は委員長もしくは部会長)、「パレード部会」(教育長)、「角力部会」(前町長)、「まつり広場部会」(商工会青年部長)、「獅子舞実行委員会」(上与那原区長、獅子舞は同区の民俗芸能である)、「ハーリー実行委員会」(当添区長)、「エイサー実行委員会」(当添区長、当添区青年会長)、「警備部」(与那原警察署)。ここに、商工会青年部が主張したような「町民相互の融和と親交を図る」ことを主旨とし、「従来の実行委員会方式を改め、町が全町民によびかける形でもって積極的に関与し、主体的な取り組みをしていく」形と態勢ができあがったのである。「まつり」の趣意書は、「与那原まつり運営委員会を軸に与那原のもつ文化財を後世に残すということをふくめ明るい住みよい、そして、活気ある与那原町を内外に宣伝すると共に、今後の町づくりに寄与する」と述べている。

 次に、「第1回与那原まつり」の編成を概観してみると、一言でいえば、「町制30周年記念与那原まつり」の経験を踏まえながら、旧与那原(6区)の「綱曳実行委員会」と、商工会青年部の成果をまるがかえである。運営委員会の構成がそうであったばかりでなく、「まつり」のメニューもそうであった。新企画として加わったのは「ハングライダー」と上与那原の「獅子舞」であり、注目されるのは漁協主催によるハーリーと商工会青年部主催のウィンドサーフィンに見られる<海>に向かう志向の再生である。ただし、この時期は波が荒い日が多いため、万端の準備をしても当日開催不能という事態が生じることがあり、結局海志向の企画はその後散発的に試みられるに留まった。近年これらに替わって、子どもたち主体になる地曳き網大会が2度ばかり開催されている。上与那原の獅子舞はその「むら」行事的色彩のため区外に持ち出すのは、元来タブーとされていたために、第1回の「まつり」に出演しただけで終った。
 町民各層の全参加型をアッピールするのは、「町民パレード」の参列である。ここでは第9回の構成を紹介しよう。まず、「まつり」のスローガンを記した横断幕を先頭にして町3役および各実行委員長・町会議員・教育委員・校長から始まり、県下で優秀な成績を連続してあげている町内小学校・中学校の吹奏楽部による演奏が続く。次いで、各区PTA、町民踊愛好会の踊り、町内琉球舞踊道場の舞踊、区子ども会、町内各種スポーツ団体、ボーイスカウト・ガールスカウト、与那原地区金融協会、町交通安全母の会と連なる。各団体ともプラカードを先頭にし、一部団体はポイントを定めてそれぞれの芸を披露しつつ行進する。パレードは、町内唯一の中学校である与那原中学校から出発、国道331号線を西に向かい、大綱曳き部隊に後続する。
 町役場では町民に「まつり」の積極的な参加を呼びかけるが、とくに団地などの「新町民」への呼びかけに力を入れているという。町民統合のシンボルともいえる中学校のグラウンドを町民パレードのスタート地点としたのも、町当局の苦心の現われかもしれない。

 「町民パレード」が「与那原まつり運営委員会」の直営とすれば、「大綱曳」は、組織的にはその<下>に組み込まれているものの、伝統を引き継ぐ「大綱曳実行委員会」を実施主体としている。隊列の出発地点は「むら」の発祥に関わる聖地。かたや中学校グラウンド。国道を進む隊列が「二元構成」になっているだけでなく、その出発地点からして二元化が始まったのである。それは、<町>対<区連合>の拮抗と提携を表明して見せているかのごとくである。
 「むら」と「まち」の二元構成は、大綱曳終了後の「演芸空間」にも見てとることができる。「むら」のそれは、すでに述べたように「ムラ芝居」の系譜につながると見られる「親川広場」で開催され、芸能好きの町民も訪れる。「まち=町」主導のショーは、「御殿山(ウドゥンヤマ)」の大綱曳会場にしつらえられた舞台で、時間的に並行して繰り広げられる。演目は若者向けが多い。広場では沖縄相撲(角力)大会が催され、県下から強豪が寄り集まる。広場には夜店が立ち並び、町内外の人たちでにぎわう。「御殿山」は昔「天女」が天降りした所、「親川」はその子の「産湯」を浴びせたところとして、いずれも由緒ある「聖地」である。
 2箇所で催された「宴」が終わりに近づく頃、「港」の空き地から花火が打ち上げられて、「まつり」は終了する。

 その後の「まつり」を鳥瞰するために、第10回(平成4年度)の「与那原まつり」のスケジュールを見ると次の通りである。

初日
オープニングセレモニー
子供エイサー(町内2小学校)
スンチャー太鼓(地元青年)
当添エイサー(当添区)
空手演舞
ミスタージョウクマン
ホラーハウス(幽霊屋敷)

2日目
子供地曳網大会
町民パレード
大綱曳道ジュネー
大綱曳行列
大綱曳
琉球國祭太鼓
演芸の夕べ
沖縄角力大会
ビール早飲個人及び職場大会
カラオケ大会
花火大会

 翌年5年度の第11回「与那原まつり」のメニューとくらべてみると、初日に与那原地区交通安全協会主催の管轄町村内・中学校対抗綱引き大会が加わる一方、2日目の子供地曳網大会が抜けただけで、他は前年度と変わらない。そもそも、前述の町制30周年記念限定の「与那原まつり」のイベントと比較しても、「カラオケ大会」や「琉球國祭太鼓」などの時代性を反映したものを除けば変わり映えがしない。毎年新趣向を次々と繰り出せる性格のものでもないだろうが、「マンネリ化」が指摘されるのも止むを得ない側面がある。すでに「大綱引き」を標榜する「まつり」は那覇市・糸満市・沖縄市で開催されているという環境の変化もある。町内外の「リピーター」を確保し、新しい観客を呼び込むためには、絶えざるイベントの革新と拡充が求められるが、ある意味で「飽きっぽい」観衆を長期間引きつけておくのは、並大抵の技ではないということもできよう。

 長年の課題であった「つくる」「かつぐ」はどうなったか。この方面での「統括」も想定してのことだろうが、第1回の「与那原まつり」においては、従来6区の区長が互選で決めていた「大綱曳実行委員長」を「与那原まつり運営委員長」の町長が兼務するという形に変わったが、次の年には元の姿に戻った。より大きな変化は、大綱を編み上げる綱を町内全区で分担して作製し、各区長の責任で実行委員会に納付するシステムに変わったことである。平成3(1991)年のことである。「大綱曳」前日に集められた綱を大綱に仕上げる作業にも人手が要るとはいえ、6区の「チナムシ(綱虫」を自認し、つくりの主体ともなるメンバーからすれば、負担は大きく軽減されることになった。「かつぐ」については、すでに町当局から職員に対して積極的に参加するよう求められていた。これら一連の流れは、行政主導型の「まつり」に加速を加えるとともに、全町民参加への移行を促進するための施策でもあった。しかし、「かつぐ」要員の確保はまだ十全とは言えなかった。そこに飛び込んで来たのが、同じ年に勃発した町外在住の自衛隊員24名の「つくる」「かつぐ」への参加問題である。きっかけは、「運営委員」メンバーの1人が個人的に呼びかけたとのことだが、地元に市民権を得たい自衛隊側からすれば、まさに「渡りに舟」であっただろう。8月14日の「琉球新報」記事は、別の委員の「地域のまつりはできるだけ子どもたちに引き継いでいくのが本来の姿で、それを誇りにしてきた。今年は若者にも呼びかけて後継者づくりに務めてきたのに、自衛隊員が協力したと知って残念だ」とするコメントを掲載、「革新町政の基本姿勢と伝統行事のあり方にかかわる」という批判に対して、「与那原まつり運営委員会」の委員長を務める町長は「配慮に欠けていた」とする所管を発表した。
 ここで着目したいのは、「伝統的行事」としての<祭り>を維持するために図られた側面を持つ<まつり化>が、逆に<祭り>の変質をもたらしかねない危うさである。

 旧与那原が構成する6区が単独で「大綱曳」を維持できなくなった要因には、中核を担ってきた町民の高齢化があったことは、推測に難くない。言い換えれば、伝統の「継承」が喫緊の課題となっていたのである。その様相をいち早く察知し、関連資料の採集、関係者からのヒアリング、それらの「記録保存」を提起し、実現したのは、これまた新しく発足した商工会青年部であった。「まつり」に本格的に参入した年から2年後の昭和58年8月、資料集『与那原大綱曳』が早くも日の目を見た。行政すらなしえなかった快挙であった。内容は、各界の「あいさつ」に続いて「Ⅰ 資料編」「Ⅱ 報告編」「参考」の3部構成で、「資料編」は「記録に見る与那原大綱曳の歩みー戦前・戦後ー」、本稿でも紹介した「綱曳行事規定」のコピー、「写真で追う与那原大綱曳ー綱作りから本番までー」、「綱曳の歌」、「県内各地の綱引」などからなり、「報告編」は座談会や関係者のレポートから構成されている。

 「大綱曳」を巡る歴史の検証と資料(史料)の収集、保存、公開の提案と提起。これも町当局に先立って、商工会青年部が先鞭をつけたということになる。商工会青年部の資料集『与那原大綱曳』発行に遅れること7年目の平成2(1990)年12月、与那原町教育委員会は、B5用紙1枚からなる「与那原町立歴史民俗資料館」「構想」を発表した。その「全文」を下記で紹介しよう。
 1.正式名称:「与那原町立歴史民俗資料館」
 2.展示内容(弾力的に考える)
  1階:①管理事務所、②会議室・集会室、③町内芸術家による個展・グループ展に提供、④サークル活動、趣味の会等の発表の場としての提供
  2階:①大綱曳に関する資料 ※文献、模型、復元、写真パネル
  3階:①戦前・戦後の町全景・部分の写真、②軽便鉄道、与那原駅周辺、③荷馬車、客馬車、軌道馬車、砂糖きび運搬トロッコ、④山原船、テンマ船、ハリュウ船、⑤戦前の町内の民家で使用した民具類、⑥終戦直後に使用した   生活用具、⑦昔の子供の遊具、⑧風俗・習慣(結婚式の様子) ※文献、模型、復元、写真パネル
  4階:町出身の芸術家の作品:○古典音楽の大家の作品、○沖縄芝居の俳優、劇作家の創作舞踊・脚本、○全国的な現代作家の作品 ※文献、実物、年譜、コピー、写真パネル
 備考:①完備するには5、6年は必要とする。②

 素人目には、いかにも豪勢に見えるメニューかもしれないが、博物館関係者が見ればペラペラの紙1枚に羅列した中高校の「文化祭」レベルの「覚書」程度でしかない。まずこの「構想」に決定的に欠落しているのが、なぜ、何を目標として「資料館」をつくるか、という理念の欠如であり、その理念にもとづいてどのような資料館をつくり、どのような運営をしていくか、という「基本方針」の欠如である。このふたつが揃って初めて、どのような「展示」を行なうか、そのために、どのような資料をどのような方針で収集し、保管するのか、という「技術論」が展開されるべきなのであり、それが博物館・資料館づくりの「常識」なのである。(23)そのうえで、どのような施設をつくるか、という基本設計そして実施設計が続く。当然、開館後はどのように地域や学校教育、社会教育と連携した活動を展開するかという「展望」も示されなければならない。しかも、「構想」づくりにあたって、有識者や地域・学校教育・社会教育などの関係者を結集して、つくるべき「資料館」のあり方について議論を交わした形跡もうかがえなければ、先行あるいは先進の関連施設の調査がなされた様子もない。決定的な問題は、理念抜き、基本方針抜き、具体的な資料抜き、それに起因する展示の実施設計抜きに加えて、何と「構想」が発表される10ヶ月前に、すでに建物は着工していたということである。「展示内容」は「弾力的に考える」とし、「資料」は「収集次第展示し、公開する」という無原則的な「方針」では、建築設計者と打ち合わせる材料があるはずがないし、そもそも打ち合わせそのものが「時間切れ」となっていたのである。「構想」通りに事がうまく進むはずがない。町民やマスコミから批判を受けた町当局は、「企画運営審議会」を設置し、嘱託の「学芸員」を配置することを表明したうえで名称も「与那原町立綱曳資料館」と改称、早々と「構想」と「規模」の縮小を宣言しなければならなかった。本稿執筆の時点、すなわち開館して4年が経過した時点で、専用の展示スペースは4階のみ、他の階では一部を収蔵庫に充てるものの、大半は「大綱曳実行委員会」の「保管庫」や会議室などに「転用」されているのが現状である。しかも、定期的に「企画運営審議会」が開催されているか不明で、専門の学芸員は配属されていない。

大綱曳を支えるもの

 <祭>から<まつり>へ、あるいは<祭>を包摂する<まつり>へ。それは、消極的か積極的かの違いこそあれ、「むら」と「まち」の双方から求められた転換であった。しかし、それは大綱曳を維持したいとする人々がいればこその<転換>でもあった。一時期、毎年継続という「大原則」さえ、疑念がはさまれたことは既述の通りである。そうさせてはならない、とする人々の心情=真情が底流としてある。たとえば、大綱曳が近づき、金鼓隊やメーモーイの婦人部隊の稽古の様子が聞こえてくると、とたんに胸騒ぎが始まる町民が少なからずいる。なかでも、一連の大綱曳の行事で中核となる常連である「チナムシ(綱虫)」たちが、時代や世代を越えて存在し、また生まれてきたという「歴史的事実」(ここでは「民俗」というべきかもしれない)が、確かにあるのだ。1年たりとも大綱曳を中断すると、「神」の怒りに触れるとする口頭伝承の形で生きる「信仰」も、隠れた条件としてあげることができよう。(24)そして、「与那原」といえば「大綱曳」、「大綱曳」といえば「与那原」とする「定着」したイメージの存在。

 町当局が、平成元(1989)年1月から2月にかけて実施した与那原湾埋め立てを柱とする「与那原町第2次総合計画策定に向けた町民アンケート調査」によれば、与那原町に対して「愛着を持っているもの」、あるいは町の「シンボルと思っているもの」の1位が「与那原大綱曳」で62パーセント、2位が「与那原海岸・砂浜」で31パーセントとなっている。

 綱虫たちの気概は、「まつり」以外でも発揮されている。たとえば、平成4(1992)年5月、東京在住の20代、30代の県出身者が「復帰20周年」を記念して8月に開催予定の「大琉球祭」に、もと商工会青年部長の照屋義実が「与那原大綱曳」とする企画を町当局に提案、町と大綱曳実行委員長もこれに賛同して、主催者側と調整、実現することになった。照屋を会長とする「与那原大綱曳を大琉球祭に送る会」が結成され、町・大綱曳実行委員会と三位一体となった態勢のもとで、総勢82人の町民を東京に派遣。大綱はこの年の「与那原まつり」で使ったものをそのまま輸送し、8月23日の大会初日に与那原勢を中心とする参加者600人によって東京で「与那原大綱曳」が再現されたのである。
(24)「復帰」の年、昭和47(1972)年に神宮外苑で実現してから20年ぶりのことであった。さらに、平成6(1994)年2月には、照屋義実を代表とするメンバー29人が韓国光州市光山の綱引きを見学、参加し、道ズネーやシタクが大綱の上に乗る形など「与那原大綱曳」との共通性を確認し、綱引きによる交流を期して帰国している。
(19248字)


(20)沖縄全県下における綱引きの概要については、平敷令治「沖縄の綱引」(植松明石編『神々の祭祀』所収、凱風社、1991年)参照。
(21)照屋義実「魅力と活力ある地域づくりをめざして」(幸地進編『さきがけ』1986年)、p.6
(22)以上の商工会青年部による提起や経緯は、『資料集 与那原大綱曳』(商工会青年部、1983年)参照。
(23)「綱曳資料館」着工の前年に開館した隣町「南風原町」の「南風原文化センター」の設立経緯や展示は、「現水準」の同種施設として当然参考にすべきと私などは考えるが、その形跡もない。平良次子「南風原文化センターをつくる」(沖縄県町村会『自治おきなわ』343号 1994.11)を参照されたい。
(24)『真南風にのって』(与那原大綱を大琉球へ送る会事務局、1993)


 

「むら」から「まち」へー戦後南風原の社会と文化(1)

2012-06-21 13:59:23 | Weblog
1.生活の再建(1945~1951)

ムラの再建―アメリカ文化との出会い

 沖縄の人々は、米軍の収容所に収容された時点で「終戦」を迎えた。それはまた「戦後」の始まりでもあった。避難先の違いで収容された場所は違うが、どの収容所でも米軍から食料や衣服、テントなどが配給されて、ともかくも生活の再建が開始される。

 村民が各地の避難民・捕虜収容所から解放され、帰村が許されるようになったのは、1945(昭和20)年も暮れになってからである。12月8日には玉城村百名から、そして1946(昭和21)年1月には本島北部の収容所から、現在の与那原町大見武にあった米軍第12部隊跡に村民が集団で移動。とはいえ、こちらも「収容所」のひとつである。1月23日には、同地に村役場が設置され、村長に與座章三郎が任命された。村役場のもっとも重要な任務は、村民の生活の再建を図り、福祉を推進することであった。4月には大見武で南風原村農業組合が設立され、10月、村役場とともに兼城に移転した。

 大見武でのテント小屋生活は一時的で、1946年7月、与那覇、大名、宮平、兼城の4カ字が移動を許可され、次いで喜屋武、本部、津嘉山、新川、さらに山川、神里が帰郷を許された。それぞれの字では、まず字事務所が造られた。兼城はトタン葺き、喜屋武や津嘉山は天幕の屋根であった。

 一般の住宅はテント小屋か茅葺きで、茅葺き住宅は、米軍配給の2×4(トゥー・バイ・フォー)資材による「規格住宅」(奥行2間、間口2間半の5坪)だった。資材は米軍配給の他、雑木を切り倒したり、戦時中に使った壕の内壁を壊すなどして調達したが、台風でよく壊れた。5坪の住宅に隣の家族合わせて12名ほどが毛布に足をつっこんで寝たが、それでも「こうして生き残った自分たちの幸福を有難く思い、灰の中から立ち上がらねばならないという決心」だったという証言もある。

 交通手段や荷物の運搬手段はなく、徒歩や米軍車両に便乗する時期が一時期続く。まもなくトラックバスが登場、南風原では1950(昭和25)年頃になると、サトウキビや石材(泡石)の運搬などに荷馬車が使われた。この頃には客馬車(喜屋武)や自転車や客三輪車(1952年)も登場、人や荷物を那覇まで運んだ。すでに1947(昭和22)年11月には開南や与儀に市場ができ、農産物を出荷していたが、その頃はほとんど徒歩で行き来していたのである。

 衣服は、米軍から配給された軍服(HBT)で普段着や作業服、防水加工されたフード付野戦服(タクヌチブルー=タコの頭)でスーツやスカート、メルトン生地(厚手の毛織物)でスーツやスカート、毛布で寝具他、落下傘の布をワンピースやドレスなどに裁ち直し、着用・転用した。
 食生活は、戦時中に育ったイモの共同作業による収穫やイモ苗(カズラ)の植付けから始まった。米軍のゴミ捨て場では、乾パンや賞味期限切れの缶詰などを拾うことができた。1946年4月まで貨幣のない「配給生活」が続いた。配給は再建された区事務所を拠点として行われ、アメリカ米、ポテト、缶詰類、七面鳥の肉、トウモロコシなどが無償で配られた。

 4月15日、第一次通貨切り替え(旧日本円→B円)が実施され、5月に賃金制がスタートした。それまでは、米軍キャンプ内外の労役、港湾・道路・住宅などの建設に携わる住民に払われる労働の対価は、食糧・衣類・タバコなどの現物であった。当時の公務員の月給がB円で200円、平均時給が79銭程度。アメリカ煙草20本入り1個20円という時代だった。6月2日には米軍物資が無償から有償配布になった。「配給所」は公式には「販売店」もしくは「売店」と呼ばれ、7月までに、南風原区売店(所轄は与那覇、宮城、大名)、宮平区売店(新川、宮平、兼城)、照屋区売店(喜屋武、本部、照屋)、津嘉山区売店、山川区売店、神里区売店が設置された。1946(昭和21)年5月に作成され、知事宛て提出された村役場の1946年度予算案によると、歳入の主たるものは「販売店売上金」であり、配給は一人当たり月20円×4,000人の換算で行われている。

 1946(昭和21)年2月になって、大見武に南風原初等学校が開校、9月には兼城の現敷地に校舎を移転。九州に疎開していた児童が、10月に熊本から、11月に宮崎から帰り、学校教育が本格化する。この頃の南風原初等学校の児童数547名。校舎はテント葺きでスタートしたが、1949(昭和24)年から茅葺き校舎となり、1950年に瓦葺き校舎が登場する。
 1948(昭和23)年4月には南風原中学校が創立される。生徒数485名であった。

 1946(昭和21)年秋、喜屋武で戦後初めての十五夜遊びが行われ、以後各地で伝統行事の復活が始まった。一方、宮平(1947年)や喜屋武(1948年)で伝統の綱引きが復活、また獅子舞の獅子を神里で1948(昭和23)年、喜屋武では1949(昭和24)年に製作している。宮平では1949年に集落の拝所を再建・合祀、宮平では1950(昭和25)年に遺体を墓に運ぶ字のガンを建造した。
 1947(昭和22)年には喜屋武で字の役員制が復活、同年、与那覇や宮平では青年会が結成された。青年会は字や個人向けの労務提供や村芝居(大名)の開催、村の運動会への参加などを通じて、集落の有形・無形の復興に力を尽くした。

 婦人会(現「女性の会」)が生活再建に取り組んだ意気込みと成果も大きかった。1947年には各字単位の婦人会が組織され、その連合体として「村婦人会」が1947年8月に結成された。結成当初は戦争未亡人や戦争孤児への激励に始まり、米軍払い下げの軍服を解いて子供服や婦人服に作り直す裁縫の講習会、料理講習会などの「学習」活動、「生活の無駄」をなくす「新生活運動」、荒れ果てた地域の整備を促進するための村や青年会などと一体となった「美化運動」、子供たちに教具や学校備品を贈る運動、区外・村外への視察研修など、活動は広範囲にわたっている。

 神里ではすでに1946(昭和21)年に人力による製糖が始まり、1948(昭和23)年には発動機を取り入れた製糖工場が完成する。1948年には宮平で12馬力の圧搾機を据え付けた貸し製糖工場が操業を始めた。
 1946(昭和21)年から1950(昭和25)年代始めにかけては、集落における行政・衣食住・生産・祭りの体制が再開され、整い始める時期であったといえる。

2.生活の戦後スタイルの始まり(1952~1963)

衣食住の「改善」

 生活の「近代化」とは、すなわち戦前の生活スタイルからの脱皮を意味した。洋装の普及、食生活の変化、衛生思想の普及、伝統行事の簡素化などが、「生活改善」の名のもとに叫ばれ、定着していった。喜屋武では1952(昭和27)年に「生活改善グループ」が発足、いくつもの料理が盛れる四角い膳のような米軍用食器を購入し、字内の結婚祝いなどの祝儀に貸し出したし、料理講習会も頻繁に行われた。1955年には村産業課の推奨で各字に生活改善グループが結成され、「衣食住の改善を重点に活動」(大名誌)した。

 主婦や女性の仕事の「改善=利便化」は、生活改善運動の大きな柱であったが、そのひとつが炊事場の改革であった。「改良カマド」の写真で見ると、床は相変わらず土間だが、レンガを土台とし、白いタイルづくりのカマドと流しが並んでいて、その前に薪が置かれている。据えられた鍋はイモを煮たり、行事の時にてんぷらなどを揚げるシンメーナービやハガマで、流しには水道の蛇口が見えるが、水道普及以前、天水を貯めるコンクリートタンクから引かれたものだろう。壁はブロックづくりに見える。

 すでに米軍用のポーク缶詰が食膳に出回るようになっていたが、喜屋武では1953(昭和28)年、家普請の食事に初めて「ライスカレー」を出したら大変な人気であったという。その調理法は料理講習会で学んだものであった。

 石油コンロやワクラカマドが普及を始めるのは、1954(昭和29)年から1955年頃のことである。石油コンロは着火も容易だし、いずれも持ち運び可能で場所をとらないところが重宝されたのだろう。ワクラカマドとは、七輪同様の耐火温度が高い土でつくられたコンパクトなカマドのことである。「主食が米に変わる昭和20年代後半から、甘藷作りは減少が続き」(『大名誌』)とされるが、改良カマド・ワクラカマド・石油コンロの普及は主食がイモから米に変わり、食生活のメニューも増えてくる時代に照応しているものと考えられる。三者併用の時代はプロパンガスが普及を始める1960(昭和35)年代まで続く。

 服装の分野では、琉装から洋装への変化が著しかった。喜屋武では1952(昭和27)年にミシン120台を導入、主婦の間で副業として縫製業が盛んになった。製品はスカートやズボンである。一方、1951(昭和26)年にはパーマ屋が開業している。ウチナー・カンプー(ジーファー、すなわち簪を用いる伝統的な髪結い)が消えて行くきっかけであったが、そのことは琉装の終わりの始めでもあった。宮城の生活改善グループが結成されたのは1957(昭和32)年で、最初につくったのがモンペであった。他にトイレの手洗い器を購入したり、布団作りや味噌づくりなども行っている。

 住生活の変化も著しい。喜屋武では1951(昭和26)年に鉄筋コンクリート住宅が登場する。木造からコンクリート造りへの移行は、まず台風に強い住宅という意義が大きかった。伝統的な住居スタイルは母屋に一番座・二番座があり、食堂を兼ねる台所はシムといって母屋に隣合わせの別棟であった。もちろんトイレは外に造られ、風呂場はなく、井戸の水を大鍋で沸かして体をぬぐう程度で、戦後も屋外にドラム缶でつくった湯船にお湯を沸かして入るといった程度であった。

 コンクリート造りになって、台所を母屋の中に設ける家が現れるが、予算の関係その他の理由で茅葺き住宅同様、隣合わせの別棟にする場合も少なくなかった。1957年には喜屋武に風呂屋ができたが、もちろん毎日風呂屋に行ける時代ではなかった。ダイニング・キッチンやバス、トイレが一番座・二番座と同じ棟に定着するためには、水道・ガスの普及を待たなければならない。

映画・電灯・ラジオ

 戦後の生活が戦前のそれと著しく変わったことを印象づけたのに、1940年代の終わりから始まる映画の普及と1950年代における電灯の点灯、ラジオの配信の三つがある。典型的な農村であった戦前の南風原村においては、いずれも満たされることのない夢のような出来事であった。

 1940年代後半には、戦前から名声を馳せていた無声映画の弁士がフィルムを持って各地を巡回し、有料の映写会を催す程度であった。その他の映画を見るためには、那覇市にできた映画館「アーニー・パイル国際劇場」(1947年)や中央劇場(1947年)まで歩いてもしくは三輪車タクシーに乗って行く他なかった。1950(昭和25)年になると津嘉山に「津嘉山劇場」がオープン、無声映画が上映されたり、沖縄芝居が演じられた。

 1950(昭和25)年9月には、那覇では南風原に近いところで神里原に「大洋劇場」が開館。1951年10月1日には沖映本館がガーブ川沿いにオープンする。ここでは「君の名は」(1953年)や「二十四の瞳」(1954年)が上映され、空前のヒットとなった。1953(昭和28)年1月には大宝館と大洋劇場で「ひめゆりの塔」が上映されて、長蛇の列をつくる。

 電化の始まりは電灯の点灯である。喜屋武・照屋では早くも1950(昭和25)年には家庭に電灯がつくようになったが、これは民間経営(喜屋武)で、点灯は夜10時までであった。それでも人々はアメリカ世の到来による生活の変化として歓迎した。琉球電力公社が発足したのが1954(昭和29)年、宮平でこの年沖縄配電により各戸点灯、翌1955年に山川・神里・宮城・大名、1957年に新川の各字でランプ生活から電灯のある暮らしに変わる。神里では電灯が点いた時、これで「ニッポン」になったと喜んだという。喜屋武の綱引きのテービー(たいまつ)が」1955年に消えるのも、電化の影響であろう。

 ラジオの普及状況を見ると、すでに1952(昭和27)年ごろ、米軍のガリオア資金(占領地域統治救済資金)によって市町村に共同受信施設(親ラジオ)が設置され、軍の放送を有線で各家庭に流すシステムがつくられる。家庭にはスピーカーを入れた小箱(子ラジオ)が設置された。
 1954(昭和29)年には琉球放送(株)による民間放送が開始する。
 南風原村では1955(昭和30)年になって村役所内に親ラジオが設置され、各字の希望家庭に音楽や琉球放送の番組、役所からの通知などを流し始める。

冠婚葬祭のスタイルが変わる

 1950年代後半から1960年代前半にかけての時期は、戦後復活したり、引き継がれた伝統的な冠婚葬祭のスタイルが消えていく時期であった。1958(昭和33)年には喜屋武や神里で、初めて火葬にもとづく葬儀が行われた。従来は遺体を棺箱に納めて墓中に安置、数年後に洗骨して厨子甕に納めるというパターンであり、一般に火葬は死後のこととは言え、嫌われていたのである。1964(昭和39)年には、喜屋武で遺体を墓に運んできたガンが焼却された。

 一方、1961(昭和36)年には喜屋武で結婚披露宴のホール利用が始まる。会場は与那原町にできた古蔵会館であった。披露宴は本人の親の家で行なうのが一般的で、料理も親戚の手を借りて自前で準備するというのが従来の方式であった。
 ホール利用は、職業選択の範囲や通婚圏が広がり、結婚自体が家対家、あるいは集落内の枠を越え、本人たちの友人・職場の交際を重視する性格のものに変わってきたことの現れでもあろう。招待者が200人とか300人と大規模になるのもこの時期である。

 同様に73歳や88歳のトゥシビーを祝う生年祝いも家単位から集落単位に変わってくる。すでに会場が本人の自宅からレストランやホール(農協ホールなど)に移るケースが増えつつあった。しかし、その期間は長くない。農協ホールでの最後の結婚披露宴は、字宮城の玉城忠栄さんの長男。1,000円の券を買って、コーラ1本と折詰が出た。
 山川では1962(昭和37)年、喜屋武では1963年に合同の生年祝いを初めて実施している。1963年の山川の合同生年祝い記念写真を見ると、屋外に仮設舞台が設けられていて、その横に式次第が書かれた黒板があり、その後に茅葺きのムラヤー(公民館)らしきものが見える。合同の生年祝いは、今でも公民館で行われている。

 出産は産婆さんを呼んで自宅で行なうのがこれまでの習慣であったが、次第に産婆さんの産院に移動して行なうようになる。喜屋武では1962(昭和37)年に産婦人科医院で出産する人が現れ、次第にこの方式が一般化するようになる。それとともに、出産に伴う伝統行事も変わるか消えていくことになる。

農業の形が変わる

 1960年代前半は、農業生産のスタイルにおいても激変した時期であった。南風原地域における統計はないが、たとえば水稲の栽培面積を見ると、「全琉」の作付面積が1960(昭和35)年次に11,728ha、それが1964(昭和39)年次には4,126haと3分の1近くに激減、甘蔗面積は1960年次に10,463haだが、1964年次には29,830haに急増、水稲作付け面積の約7.5倍に伸びている。この傾向は南風原町においても変わらなかったであろう。

 世界の砂糖市場を見ると、1959(昭和34)年にそれまでの輸入先キューバにカストロ政権が誕生して、製品がソ連に流れ、自由主義陣営に砂糖不足が生じた。それを契機にして、日本政府は北海道のビート、奄美大島、沖縄の砂糖を国の責任で買い上げすることを決定した。これも砂糖生産が急激に伸びた大きな要因だった。

 喜屋武においてはすでに1955(昭和30)年に「タードーシ」(田圃から畑への切り替え)が始まり、1959(昭和34)年にはサトウキビの新品種NCO310が普及し始めた。この品種は、台風・旱魃に強いため、それまでの品種POJ2725からの転換が一気に進んだ。また1962(昭和37)年の大旱魃を契機に水田や甘藷畑がサトウキビ畑に転換されたことや、1963(昭和38)年8月の砂糖の貿易自由化と世界的な砂糖価格の高騰によって原料代が引き上げられ、他作物よりサトウキビの収益性が高まったことなどが、サトウキビブームを引き起こしたといわれる。

 栽培に手間ひまのかかる水稲栽培から、農繁期と農閑期が分かれるサトウキビ栽培への転向は、兼業農家が増大したことを意味する。一方で、字単位で行われていた製糖が「全県」規模の大型製糖工場に身売りするのも、この時期である。

3.充実―生活のヤマトスタイル化(1964~1972.3

水道の敷設とプロパンガスの普及

 電化とともに、伝統的な生活スタイルを大きく変える結果をもたらしたのは、各戸に水道が引かれたことだろう。1964(昭和39)年のことである(新川を除く)。東風平・具志頭・大里・南風原4村における上水道の建設・給水・施設の維持管理を目的とする「南部地区東部水道組合」の設立に伴うものであった。当初は「火と水はただ」という観念が強く、申し込みが少なくて、敷設に必要な希望者数に満たないので、区長が水増しして申請したという話もある。

 水道が引かれたことで、井戸水の利用が減り、屋根から天水を引くコンクリート製タンクが不要となった。洗濯など生活用水確保の手段として欠かせなかった集落の共同井戸もその意義を失い、喜屋武では翌年には「危険」「非衛生」といった理由で埋められてしまう。埋められた井戸の跡地には、いくつかの字で子どもの遊び場が設けられる。ブランコや滑り台、シーソーなどの遊具が設置された。

 1965(昭和40)年からプロパンガスが普及し、薪のカマドや石油コンロにとって代わることになる。
 農協では1966(昭和41)年11月の理事会においてプロパンガスを扱うことを決定、12月から供給を開始した。当初の供給個数は190戸で、その他の大部分は4人の村内個人業者が扱っていた。
 プロパンガスの普及で、調理方法も一段と進歩した。具体的には、ひとつのコンパクトなコンロで沸かす、煮る、揚げるなどの仕事が同時に二つでき、しかも二つのメニューが同時につくれること、それも石油コンロに比べて火力が強力で、しかも清潔感があること、などが変わった点としてあげられる。

 母屋とは別棟になっていて、土や石でできたカマドが据えられた昔ながらのシムから、改良カマドや石油コンロによる調理、コンクリート製タンクに貯めた天水を引く「台所」へ。そして、水道とプロパンガスの普及によって炊事場が母屋に取り込まれ、ステンレス流し台を設置し、イス・テーブルで食事する「ダイニング・キッチン」へと、炊事と食事の空間は60年代後半あたりから大きく変わり始める。

 テレビとあわせて「3種の神器」と呼ばれた電気冷蔵庫と電気洗濯機の普及状況を、1968(昭和43)年1月と3年後の1971(昭和46)年2月の統計で比較してみよう。食生活の多様化と主婦の労力の軽減を図る目安になると考えられるからである。冷蔵庫で見ると、1968(昭和43)年には1,765戸中371戸で21%、これが1971(昭和46)年には1,898戸に対して1,094戸で57.6%、3年間で3倍近い伸びを見せ、1971年には2軒に1軒強の割で普及したことがわかる。洗濯機だと、1968(昭和43)年が1,765戸に対して766で43.4%、それが1971(昭和46)年には1,898戸中1,397で73.6%、4軒に3軒近い普及率となっている。電気炊飯器についてのデータはないが、1968(昭和43)年頃にはほとんどの家庭に普及していたと見られる。

テレビと電話

 戦後の「娯楽」のありようを変えるにとどまらず、政治経済面でのニュースソースとして、また社会生活や文化のスタイルを「本土並み」に変える大きな要因ともなった、という点でテレビの普及は甚大な効果があった。

 沖縄初の「日本語テレビ」局として沖縄テレビが開局したのは、1959(昭和34)年11月1日のことである。開局理由として「沖縄文化の向上を期し、健全なる教養と娯楽を提供する」、「生活必需品の85%は日本内地よりの輸入にまつ現状」に鑑み、「日本内地各産業の公正、適切な紹介並びに沖縄産業の民主的振興を図る」「適正迅速なる広報活動を行い、かつ日本内地ニュース網と直結」することによって「行政の遂行に大いに寄与」する、などを列挙している。

 開局から1週間の「開局祝賀番組表」を見ると、初日が午後5時30分から10時まで、翌日からの6日間は午後6時30分から9時30分までの3時間。内容を見ると、琉球舞踊、鶴田浩二や嵐寛寿郎、美空ひばり、水谷八重子主演の映画や演劇・ドラマ、ニュース・天気予報、座談会、クラシックコンサート、職場対抗紅白歌合戦、ジャズやペギー葉山司会の歌謡番組、「ジャックと豆の木」などの子供向け番組、「スーパーマン」などの洋画、クイズ番組など、開局の趣旨を活かし、テレビの機能をフルに活用した構成になっている。

 特筆されるのは「皇太子御成婚記念」番組が録画で流されたことである。すでに式典は終わっていたが、ミッチー・ブームはまだ続いていた。ラジオと映画の機能を同時に自宅で満喫できるテレビは、初めのうちこそ設置できる家庭は少なく、そのような家はあたかも集落のミニ映画館の様相を呈した。当初の人気番組は沖縄テレビの「水曜郷土劇場」とプロレスであったという。
 1960(昭和35)年6月1日、琉球放送テレビが放送を開始し、番組はさらにメニューを増やすことになる。1964(昭和39)年の東京オリンピックが始まる前あたりになると、テレビは急速に普及する。
 4年後の1968(昭和43)年1月調べによるテレビ設置戸数は1,765戸に対して1,500戸で何と85%に急伸、それが1971(昭和46)年2月では1,898戸に対して1,861戸となり、比率は98%。ほとんどの家庭にテレビが入ったことになる。

 テレビにくらべて電話の普及はまだ遅れる。1965(昭和40)年に喜屋武、山川、神里などの公民館に電話が設置される。当時一般住宅に電話が引かれる状況ではなく、区民共有の電話といった性格を持っていた。区民にかかってきた電話は公民館職員が当該者の自宅まで走って告げに行く、という光景がしばらく見られるが、1962(昭和37)年から1967(昭和42)年にかけて公民館に広域スピーカーが設置されてからは、区民への「お知らせ」はスピーカーで行われるようになる。
 1968(昭和43)年1月調べによる電話設置数は1,765戸に対して51戸で2.9%、それが1971(昭和46)年2月では1,898戸に対して351戸で比率は18.5%になっていて、3年間で6倍以上の急速な伸びとなっている。

老人・青年

 1962年9月、「全県」レベルで「沖縄老人クラブ連合会」が結成され、村内でも同年同月宮城老人クラブの結成を皮切りに五つの字で老人クラブが結成されたのを受けて、1963(昭和38)年9月には、既存の6字老人クラブが集まって村老人クラブ連合会が結成される。この年から翌1964(昭和39)年にかけて他の字でも「老人クラブ」の結成が相次ぐ。
 会の目的は「健康増進」、「教養の向上」、「相互の親睦」、「社会奉仕による楽しく明るい社会、生きがいのある環境づくり」などにあるとされるが、その背景には「老人」を巡る社会環境の変化があった。

 昭和41年版『厚生白書』は、出生率の著しい低下と死亡率の低下が「わが国人口の老齢化傾向を速めつつある」と指摘しているが、後に「長寿県沖縄」として全国に知られる沖縄でも同じような傾向は進んでいたと考えられる。人口の老齢化傾向の背景として白書は、まず農業、漁業などの第1次産業従事者が減少する一方、技術革新への適応の困難性もあって老人の雇用化が進まない現状を指摘する。一方「核家族化」の振興が「親族扶養、老人扶養意識の減退を促進させ」ている点、「生活様式や生活環境の急激な変化」が老人にとって必ずしも住み良い社会環境とは言えなくなっている点をあげる。

 すでに述べたようにこの時期、栽培に手間ひまのかかる水稲栽培から農繁期と農閑期が分かれるサトウキビ栽培への転向が促進され、兼業農家が増大するが、その結果、家庭内労働力としての老人の位置や役割にも変化が生じることになる。たとえば、老人の余暇時間が増えるが、一方では孤独感や疎外感をつのらせることにもなる。
 また伝統的な集落の行事・祭祀の場面で指導的役割を果たしてきた老人たちだが、そのような伝統行事も衰退ないし変化を始めていた。老人の心身の健康を図りつつ互いの連帯感を強める必要が、行政と社会、そして「老人」たち自身の間で求められていたのである。

 青年たちの活動のひとつは、村の運動会・陸上競技大会・球技大会に参加して、字の連帯意識を確認し、高めることにあったが、そのための資金集めとして有給でサトウキビ作を支援するなどの活動、あるいは「教養の向上」を目的とした視察研修なども行っていた。これらの活動は、娯楽が少なく、那覇で遊ぶ機会も場も多くはなかった青年達の「男女交流」の場でもあった。
 津嘉山の大城孔賢は、津嘉山農協の親子ラジオ技師を務めるかたわら、ソニーの録音機を取り入れてラジオやレコードからダンス曲を録音し、それを流して仲間の青年達に社交ダンスを教えた。青年会活動の一環であった。本人は那覇のダンス教習所で習ってきたという。1961(昭和36)年には喜屋武で青年会活動の一つにダンスが加わる。

 その延長線にあったのが、字単位で行われる「盆踊り」の流行だろう。1967(昭和42)年には山川、1968(昭和43)年には喜屋武で盆踊りが開始される。開催の主体となったのは、喜屋武では青年会であり、公民館がバックアップした。夏休みの間に涼しげな浴衣を着て、老若男女がやぐら舞台を囲んで円陣で踊る光景の裏には、「日本復帰」が現実的課題として政治スケジュールに上り始める時期が重なっていた。同時に、テレビの普及によるヤマトスタイルと生活様式に慣れ始めた時期でもあり、それともうひとつ、公民館に放送設備がそろったことも流行の要因のひとつとなった。流される音楽でもっともなじまれたのが、1964(昭和39)年の東京オリンピックに合わせて歌われ、流行した三波春男の「東京オリンピック音頭」であった。

住スタイルの変化

 伝統的な住宅様式を見ると、屋根は茅葺き、建物は道路側に向くか南向きに建てられ、東側など方位的に優位とされる側から順に一番座・二番座、その裏に裏座があった。一番座ないし二番座に仏壇があり、裏座は米や大豆などの物置だったり、若夫婦の居間となった。「茶の間」は二番座があてられるか、台所兼用だった。台所は左隣に設けられ、土間だった。畜舎や便所は屋外にあった。若者の部屋は、東側にトタン屋根の別棟で造られたこともある。

 この様式は、茅葺きの家から瓦葺きに改築されても基本的に変わらなかった。瓦葺きには、戦前同様まるごと木造となることもあったが、台風対策を兼ねて、柱や壁はブロック・コンクリート製とし、屋根を木造瓦葺きとする家も少なくなかった。喜屋武の大城政喜が、1964(昭和39)年に建てた住宅がその一例である。この造りは「耐力性あるブロックの壁体と防水性、防暑性のある木造屋根からなり、それぞれの長所を生かした混構造であった」と説明されている。(『沖縄の住居』鈴木雅夫、1980)建物造りは、プロの棟梁の指導を受けながら、セメント調合など互いでできるものはユイマールー(相互扶助作業)でやるのが、普通だったという。

 大城家では、それまで板戸だけしかなかった家にガラス戸が加わる。同家で変わったのは建物だけではない。住宅の新築に合わせて、屋敷囲いをブロック積みに変えた。この頃まで屋敷の周りには、シマダキ(リュウキュウチク)、仏壇に供えるフチマなど、有用の植物が植わっていた。ブロック積みに変わったのは、その方が「近代的」であるという意識もあった。

 この時期、台所も変わり始める。きっかけとなったのは、すでに述べたように、水道の敷設(1964年)とガスコンロの普及(1965年)で、その結果それまで土間だった台所に床が張られ、イス・テーブルによる食事スタイルが始まる。一方、自宅に風呂が設置されるようになるが、それでも風呂はトイレと並んで別棟であった。電気洗濯機は風呂場に置かれていた。

 住宅から屋根が消え、将来増築して2階建てとする際の「床」になることを想定して建てた1階建ての「スラブ・ヤー(スラブ家屋)」に様式が移っていくのは、1960年代後半のことである。この種の建物には外階段がもうけられ、屋根には増築用角柱が付属し、屋上は花ブロックで囲われる。この空間は洗濯物干し場、子どもの遊び場、「ミニ・ビアガーデン」などの「多目的広場」として活用されたが、一方旱魃による水道断水の予防策として、水タンクが設置される住宅も増える。この様式の住宅は、対風性を得るために、防暑性、防湿性を犠牲にしたことが特徴としてあげられる。

 神里では、1970(昭和45)年に字で初めて「洋間」を取り入れた住宅が現れる。造りは1階スラブ建て。間取りを見て気づくのは南向きではあるが、従来のそれのように一番座、二番座、台所が横一列に並ぶ構造になっていないことである。

 「玄関」を入るとすぐに「洋間」になっていて、このスペースにはソファーセットが置かれ、テレビもその一角に配置される。応接間と居間を兼ねた間取りで、いわゆるリビングルーム。その両脇に床の間6畳と、押し入れ・箪笥を備えた6畳間の2部屋がある。6畳間は寝室にもなる。洋間の先・北側に床張りの台所があり、イス・テーブルが置かれる。いわゆるダイニング・キッチンである。台所とブロック壁を隔てて東側にバス・トイレが設けられている。トイレは当初は汲み取り式だったという。台所の西側には和室6畳間があって、家族が増えるとここで食事をすることになる。
この間取りは、後の「団地」方式を先取りした設計になっているのである。

 少し時代はさかのぼるが、1966(昭和41)年の役場調べによると、水洗式トイレがあるのは1,863世帯中、わずか12戸に過ぎない。
 『大名誌』は1972(昭和47)年の「日本復帰」前後の住宅事情の変化を次のように記している。「日本復帰の昭和47年前後から、大名でも現代風のスラブ建ての家に造り変えられるところが増え、調理場も板張り床になり、風呂も室内用に変わり、便所も室内に水洗式になり、生活様式も格段に変化して清潔になった」。



4.「村」から「町」へ―「南風原らしさ」を求めて(1972~)

「豊かな自然環境を生かした、生活利便性の高い田園都市」を目指して

 1972年5月15日、沖縄の施政権が日本に返還されるに伴って、日本国憲法を頂点とする新たな法体系のもとで、人々は「ヤマト世」を生きることになった。ドルショック直後の「世替わり」は、ドルと日本円の交換レートの引き下げ、あるいは1973(昭和48)年10月に始まる「オイルショック」などで生活の混乱を招く事態も起こしたが、南風原村においては新しい時代の到来を期して1974(昭和49)年11月、「南風原村総合計画」を策定した。「刊行のことば」で、時の村長大城徳盛は次のように述べている。

 「沖縄県民の多年の願望でありました祖国復帰が実現して2ヶ年余、激動と混乱、模索と私達を取りまく情勢はまことにきびしいものであります。」「特に昨今の石油危機、異常物価、沖縄開発という美名のものとでの大資本による土地買占め、乱開発は地域社会に大きな変動を与えています。このようにゆれ動く情勢の中で、那覇市近郊の我が南風原村は、産業、人口の集中化がいちじるしく、次第に農村部までその波紋は拡がり、村の土地利用、行政上の幾多の問題をなげかけています。又、沖縄は政治、経済、教育等の面でも基盤が弱く他府県との格差は大なるものがあり、早急にその助成策が望まれます。」

 「復帰」直後の急変する状況にどう対処すべきか、短い文章からも課題の深刻さがよくうかがえる。報告書に「田園都市」の定義はないが、『大辞林』では「田園地帯に適正規模で建設され、都市生活の利便と田園生活の風趣とを享受できる理想都市。一八九八年に英国のE=ハワードが提唱。」と説明されている。補足すれば、従来「農村」の「都市化」という形で直線的あるいは対立的に理解されてきた「都市」と「農村」の構図を書き換え、双方の特質を活かしつつ共生・共栄する新しいコミュニティづくりを指す用語として誕生したということだろう。

 那覇市近郊であることが「産業、人口の集中化」を招いたが、それは県都に隣接するという「利便性」故の現象でもあった。周辺町村からすれば南風原村は、那覇市に行くのに通過しなければならない地域という意味での「交通の要衝」でもあることを意味する。それと連動した中心商店街の形成も課題であった。

 南風原村はまた、那覇市に近接する肥沃な土壌に恵まれた農村としての伝統を持っていたが、その伝統を新しい時代の流通社会に通用・活用する方向性が求められていた。具体的な方途として報告書は、「さとうきび中心から野菜・花卉園芸中心への転換」を提案する。一方、戦前から知られてきた「琉球絣」の産地としての地域特性を活かす施策の必要性も説かれている。

車社会の到来と暮らしの変化

 「植樹祭」(1972年)、「若夏国体」(1973年)、「沖縄国際海洋博覧会」(1975年)の「復帰記念事業」が終了して後の1978(昭和53)年7月30日、「本土一体化」の総仕上げとしての「交通方法変更」が実施された。
 同年度発行の『南風原村勢要覧』で見るとこの年の普通乗用車普及は1,892台で1.46世帯当り1台、軽乗用車211台で13.15世帯あたり1台となっている。両者を合算すると2,103台、1971(昭和36)年時点の889台から見て2.4倍近い数字になっている。

 車社会の到来は余暇の過ごし方にも大きな変化を与えた。ひとつは、ドライブ・ブームと連動したドライブイン・レストランやドライブ・スルーの登場であった。南風原でのさきがけは「南風原ドライブイン・レストラン」である。開店は1972(昭和47)年、売れ筋のメニューは「Aランチ」「Bランチ」であった。

 1973(昭和48)年に与那覇近くに開店した「A&W」はアメリカ仕込みのハンバーグとフライド・チキン、飲み物としてルートビアを提供した。車に居ながらにして注文と食事ができるのが宣伝文句であった。次いで、ハンバーグ専門の「マクドナルド」、フライド・チキン専門の「ケンタッキー・フライドチキン」が誕生する。
 これらの店はいずれも国道329号線沿いに開店し、人気を博した。それは、ファスト・フード時代の到来も意味していた。

 自家用車でのドライブにランチ、ハンバーガー、フライド・チキンなどで外食。それらの流行は、かつて憧れたアメリカ文化社会へのノスタルジアであっただろうが、憧れたアメリカ式生活スタイルの実現でもあった。円高・高度成長時代の日本に復帰することでそれが実現できたとすれば、「ヤマト世」も悪くないと実感した人もいたに違いない。
 時代を同じくして、国道329号線沿いには中古車・新車の販売店、修理工場、ガソリンスタンドが相次いでオープンする。中古車販売店の先駆けは一日橋近くにできた「希望の広場」で、早くも1961(昭和36)年に開店している。昭和58年版『町勢要覧』では、一帯の写真のキャプションが「別名南風原中古車街道」と記されている。

 1975(昭和50)年5月、沖縄国際海洋博覧会開催を目前にして石川~名護間に「沖縄自動車道」が開通、翌1976(昭和51)年、兼城(南風原)十字路から那覇高校の間でバス専用レーンが実施される。

団地と「スーパー」

 1977(昭和52)年11月から翌1978(昭和53)年にかけて、兼城・本部・津嘉山にまたがる県営(第一)団地・県営第二団地の入居が始まり、1977年12月には県住宅供給公社によって兼城・本部にまたがる一帯に造成・建築された「南風原分譲住宅」(いわゆる「分譲」)の供給が開始される。
 県営団地は賃貸アパート形式で3DKの250戸、第二団地は3DKないし3LDKの320戸、分譲住宅は一戸建ての196戸、合計すると766戸となる。

 県営団地はエレベーターなしの5階建てで、その間取りを見ると、ほぼ真四角でトイレが外側階段の上にはみ出す設計になっている。玄関に入ってすぐ左がバスとトイレ、玄関正面がダイニング・キッチン、ダイニング・キッチンの隣に洋室、奥に和室の6畳間、その右隣(洋室の奥)に押し入れつきの4畳半和室、そしてダイニング・キッチンと6畳間の外側にバルコニーがある。若夫婦2人に子ども2人の家族構成が想定される。

 一方、分譲住宅の方は2階建てで1階部分に応接間、ダイニング・キッチン、6畳和室、バス、トイレ、2階部分が洋間2室となっている。入居から5~6年が経過した時点での1戸当りの平均入居者数は分譲住宅(後「兼本ハイツ」と改称)と「第一団地」が4.2人、第二団地が3.9人となっている。中年夫婦2人に子ども2人の家族構成がイメージされる。

 3団地の入居開始は南風原村の急速な人口増と町並みの変化をもたらすことになる。対前年人口増加率を見ると、10年来0.2から3.2%の範囲で推移していた数値が、1971(昭和46)年に5.8%に増え、「復帰」の年1972(昭和47)年には8.1%と急増する。これは国家公務員、自衛隊、本土系企業の社員などが那覇市近郊に居住地を求めたことが要因として想定されるが、その後一時下降した後、1977(昭和52)年に8.7%、1978(昭和53)年には9.4%と再び急増する。これは明らかに3団地の入居者数によるものであろう。1970(昭和45)年の人口総数は10,917人だが、1980(昭和55)年には2倍近い20,127人にはねあがっている。

 続いて1982(昭和57)年に兼平ハイツ、1988(昭和63)年に東新川と北丘ハイツ、2000(平成12)年に宮平ハイツが入居を開始する。
 1979(昭和52)年5月、「分譲住宅」、県営団地と国道329号線をはさんだ場所に「プリマート一日橋ショッピングセンター」が開店する。当初は1階建てで食料品スーパー、衣料品スーパー、洋菓子店などが店を並べたが、2年後に2階を増築、総菜屋、ダンキンドーナツ、ケンタッキー・フライドチキン、化粧品店、薬局、電器店などが同居する。

 1979(昭和54)年8月には、宮平の国道沿いにショッピングセンター「ファミリープラザ丸大」がオープン、この年、1976(昭和51)年7月にオープンした農協スーパーと合わせて三つの大型スーパーマーケットが並ぶことになる。そして1983(昭和58)年には一日橋に総合衣料スーパー「マルエー」が開店する。

 時期はさかのぼるが、DIY(Do It Yourself)をうたい文句としてホームセンター「メイクマン」一日橋店がオープンしたのは1976(昭和51)年のことである。余暇を利用して「一日大工」や「庭づくり」にいそしむ人々が増えたことの現れである。
 これらの大型店舗が宮平、兼城(南風原)十字路から一日橋界隈に集中して現れるのは、人口増に加えて村民、近隣住民の暮らし振りが安定してきたことを示すものであろう。それとともに、いずれも大型駐車場を兼ね備えていて、車社会の到来が要因となったことも確かである。スーパー形式の品揃え、販売方法がアメリカからスタートしたことも付記しておかなければならない。

 こうして、「南風原村」は1980(昭和55)年4月1日をもって「南風原町」に移行する。

かぼちゃ産地宣言

 「さとうきび中心から野菜・花卉園芸中心への転換」とは、言い換えれば「都市近郊型農業」への転換を図るということであった。出荷の射程は、早くも那覇市を通り越して「本土」まで伸びていた。1973(昭和48)年、「熱帯の切花」ストレリチアの県外出荷が始まった。1974(昭和49)年には山川で冬瓜、1975(昭和50)年には同じく山川でカボチャの本土出荷が開始される。
 1976(昭和51)年10月29日、南風原農業協同組合は津嘉山農協とタイアップして、「カボチャ特産地宣言」大会を開催した。翌日の琉球新報は、「サトウキビからカボチャを基幹作物に―。」本土の端境期をねらい昨年からカボチャを本土に出荷している南風原農業協同組合(与那嶺盛男組合長)は「今後、村ぐるみで銘柄カボチャを生産、本土に売り込もう」と宣言の趣旨を記している。そのうえで、カボチャの増産と出荷増を図るねらいとして「単収がサトウキビよりいい」、「端境期は高値相場で売れる」、「冬場は沖縄の気象条件がよく、露地栽培が大量にできる」の三つをあげている。

 その後のカボチャの出荷額には上下の変動があるが、目立つ傾向としては生産・出荷品目の多様化がある。平成12年度版『統計はえばる』第7号で「個別農産物粗生産額順位」を見ると1位が生乳、2位サトウキビ、3位へちま、以下10位までの順位はきく、きゅうり、豚、ストレリチア、カボチャ、鉢物類、にがうりとなっていて、10品目で粗生産額の84%を占めている。
 1977(昭和52)年、南風原村で初の「土地改良総合整備事業」が始まる。この事業は「農業用排水施設、農道の整備、暗渠排水、客土、区画整理、交換分合などの事業を地域の実情に応じて、メニュー方式で実施することにより、農業生産性の向上を図る事業」とされるもので、引き続き宮城、山川、宮平でも実施され、他の「農道整備事業」、「かんがい排水事業」、「農村基盤整備事業」なども加わって、「農業生産性の向上を図る」上で、効果をあげていると見られるが、農村景観を変える結果ともなっていることは否定できない。

 『統計はえばる』第7号から農業に関する他のデータも紹介しておきたい。1980(昭和55)年から2000(平成12)年の間に農家数は1985(昭和60)年の1,026戸をピークとして急減し、2000(平成12)年には3分の1強の362戸に減っている。ところが「年齢別農家人口の推移」では、30歳から59歳の「働き盛り」の農家人口が増加の一途をたどっていて、その下及び上の世代の人口が減少していると際立った対照を見せている。これは、第2次産業他の職種についていた人たちが景気の落ち込みでリストラなどに遭い、農業にUターンしたものと役場では見ている。

かすりの里

 南風原の伝統的な産業として一般に知られているのは「琉球絣」である。その沿革について、沖縄県工芸指導所のホームページは次のように記している。
 「琉球絣とは、かつては沖縄で織られている絣柄を総称していましたが、今では南風原産地で織られる絣織物を特に称します。起源は、1611年儀間真常が薩摩より木綿の種子と、木綿技術を導入したことに始まったと言われています。大正の頃までは、小禄、豊見城、垣花が盛んな地域で、藍染の紺地に白絣が特徴でした。現在は南風原町が主な産地となり、製品も多種多様なものが織られています。今では県内織物生産高の大半を占めています。」

 「復帰」後の琉球絣を巡る状況を概観する。1975(昭和50)年1月、「琉球絣事業協同組合」が設立される。翌1976(昭和51)年から5年間の生産高の推移を見ると、26,000反から27,400反の間を上下している。この間、1977(昭和52)年10月18日には、「琉球かすりの里宣言」が行われる。当時の琉球新報は結成の背景や動機などについて次のように報じている。
 「琉球カスリを正しく継承、発展させ農業生産以上の売上を―。南風原村喜屋武、本部、照屋の三で結成する琉球絣事業協同組合(赤嶺猛理事長)はさる18日、県、村、同議会など関係者を集め、南風原村をカスリの生産地にしようと「カスリの里」宣言を行った。同村は昔から県下で一番のカスリ産地として知られているが、最近の不況続きはカスリ生産農家にも影響を与え、売上はガタ落ちしている。このため、本土、県内向けに“特産地”として宣言、市場拡大を図り、再びカスリ事業を振興させることになったもの。」

 1980(昭和55)年4月には「琉球かすり会館」が建設され「原料糸・染科・織物機材の共同購入、共同販売、技術研修などの事業」を行っている。1983(昭和58)年4月27日、「経済産業大臣指定伝統的工芸品」となる。
 絣のルーツは南・東南アジアにある。県内でも芭蕉布、首里織、久米島紬、宮古上布、八重山上布などの代表的な織物はいずれも絣文様をはずしてはありえない。その意味で21世紀の到来を間近にした2000(平成12)年11月、町制施行20周年事業として開催された「南風原・アジア絣ロードまつり」は、単に「絣」あるいは「織物」の範囲を越えて、南風原からアジアへ、あるいは南風原からアジアを発信するという画期的な意義を持っていた。

 事業内容は「絣の道」の見学会と織物体験、インドネシア、台湾、タイなどの音楽や民俗芸能、アジアの食体験、インド、バリ島、フィリピン、タイ、ウズベキスタンなどアジア各地から招いた人々による織の実演、企画展「南風原・アジア絣ロード展」の開催、琉球絣デザインコンテストや絣のファッションショーの開催、「アジアの絣・世界の絣」と題する記念講演、絣フォーラムの実施など多彩な行事が展開された。

伝統の見直し―地域再発見

 地域伝来の「琉球絣」を「アジア的規模」で再確認・再発信するということは、南風原の人たちにとって「地域」の「再発見」でもあったと考えられる。その意味で、町内各地でかつて演じられていた(民俗)芸能を見直し、再現しようという動きも「地域再発見」のもうひとつの大きな流れとなった。
 その端緒をつくったのは、1978(昭和53)年に中央公民館が開館したことを契機にして開催された「郷土芸能鑑賞の夕べ」に始まり、翌年から趣旨を「古くから伝わる各地の民俗芸能の交流を通して、町民俗芸能の振興を計り、ふるさとを愛する心を育てる」と改めて衣替えし、2004年で25回を迎えた「民俗芸能交流会」である。

 民俗芸能交流会の開催は眠っていた各字の芸能復活にも大きな役割を果たした。1990(平成2)年の第12回交流会までに復活した芸能は組踊り、獅子舞、狂言、「舞方」など8ヵ字で64演目に及んでいる。そして2004(平成16)年の第25回交流会までに芸能交流した字や団体は県内22市町村41字、県外1市、団体16、町内では8字、65演目に及んでいる。
 芸能交流の舞台は、他市町村、他団体との競演の場であると同時に、芸能比較の場でもある。それが、町民の芸能に対する視野を広めることにつながる。視野の広がりは、南風原町の芸能を再認識し、さらなる芸能復活を呼び起こす契機ともなる。伝統の再評価は、地域の再評価につながり、ムラ起こし、町起こしにつながる。

 町の「民俗芸能の振興を計る」ことが、「ふるさとを愛する心を育てる」ことにつながるとする考え方の背景には、急速に進む「都市化」があり、新住民を交えた村(町)民の「心」を再結集する必要性に迫られていたという事情もあったと思われる。住民の「地域再発見」の拠点として登場したのが、南風原町立南風原文化センターである。開館は1989(平成元)年11月3日。
  南風原文化センターの活動は多岐にわたるが、その根底にあるのは、何よりもまず「南風原」という地域に根ざすこと、そして足元を掘っていくと「アジア」の根っこにつながっていくということ、そして「平和」が保たれてこそ「文化は継承し、創造すること」が可能であり、花が開くこと。この三つである。

「黄金南風(こがね・はえ)の平和郷(さと)・はえばるをめざして」

 1997(平成9)年、南風原町は第三次南風原町総合計画を策定した。メインタイトルは「黄金南風(こがね・はえ)の平和郷(さと)・はえばるをめざして」。キーワードは「平和」、「発展」、「調和」。急激な都市化の進展に行政が追いつけなかったという側面を認めながらも第三次計画では第一次、第二次計画を受け継いで「自然と文化が活きづく田園都市」を南風原が描く将来像・都市像として提起している。そして「将来の都市像を築き上げていく」ための町民像として掲げられるのは「やさしさと楽しさと誇りに満ちて、未来を創造する町民」である。