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なぜ「陶芸」か

2012-06-22 12:39:34 | Weblog
 「次の仕事」は「陶芸」と決めて、那覇市立壺屋焼物博物館長を辞めてから6年目に入る。57歳での勧奨退職であった。 「なぜ陶芸か」と訊かれれば、「それしかなかった」からである。それまでいくつかの職種を経験してきたが、いずれも「頭を使う」仕事ばかりであった。次は「身体で考える」仕事をーそういう思いは以前からあった。陶芸しかない、と決めて後は「走りながら考える」ことになる。

 知り合いから小型のガス窯をもらい、「実験的」な試みは始めていた。そこで当初は、自宅の庭に小さなプレハブでも建てて実験を継続するつもりでいた。ところが退職4ヶ月前に思いがけず、隣町で出身地でもある佐敷町(現南城市)新里に土地を借りることができた。厚生年金センター方向に向かう坂道を途中で右折したところで、馬天港と中城湾の向こうに勝連半島、その右に津堅島と知念半島が見渡せる場所、アカギの大木が数本立ち並ぶヤマである。

 民家からも離れている。これなら薪窯が築ける! 早速、各地の薪窯を見て回る。窯焚きにも何度か立ち会わせてもらった。工房と窯の図面づくりを開始、併行して資材の調達に奔走する。工房づくりはプロにまかせて、窯づくりは自分たちで・・・。この間、焼物博物館長として培った人脈が役に立った。

 一方、辞めた翌月から沖縄県工業技術センターに3ヶ月間通い、週2日のスケジュールで「釉薬」つくりの研修を受ける。釉薬の原点は、植物の灰と地中の鉱物。植物や鉱物の種類によって、含まれる成分が微妙に違う。成分の違いは、釉薬に変わって後も発色の差となって現れる。それだけでなく、器の素地が赤土か白土かでも色合いは大いに変わってくる。釉薬をつくる素材の種類は同じでも、それぞれの配合比の違いで色合いから溶融の程度まで、これもまさに千差万別。

 方針は決まっていた。窯づくりは、中古の「耐火レンガ」を一部の壁に使った他は沖縄本島北部の赤土を使う。陶土の原料は沖縄の土で、釉薬の原料も沖縄の素材で行く、ということだ。そこでまず、他の陶芸家も試みている ガジュマル灰をはじめとして、いろいろな樹木の灰をつくることにした。ガジュマルの灰は、土との相性がよければきれいなビードロ色が出る。この色は灰の中に含まれる微量の鉄分のせいだと言われている。アカギの切断面は名の通り「赤い」。他の樹木よりも鉄分が多いことを示しているのかもしれない。ガジュマル灰以上に乳濁した青い色が現れるのである。フクギ灰でつくった釉薬は、厚くかかった箇所が珊瑚礁の海の色にも似たブルーになる。琉球・沖縄の最高の建材として重宝されてきたチャーギ(和名イヌマキ)の灰でつくる釉薬は、緑色の「青磁」色となる。アカギやフクギ、チャーギの灰釉は余所で聞いたことがない。鉄釉系は、沖縄本島北部から採れる「含鉄土石」(鬼板)を使っている。

 陶土の原料は業者から買い入れるが、何種かの原土をブレンドしてつくる。赤土系、白土系、両方つくるが、これも配合比によって、成形や釉薬との相性に違いが出てくる。それぞれの土味を活かしながら、その土ならではの器づくりを目指す。

 「焼き」も自前の焼き方を探る他ない。窯自体が、「焼き締め」と「釉薬もの」の2種を同時に焼けるような「欲張り窯」の構造にしたため、この窯のくせ=特徴を把握するのに時間がかかった。先だって7回目の窯焚きを終え、ようやく方向性が見えてきた。

 工房で修行して独り立ちしようという若い人たちは、まず「つくり」から勉強を始め、窯焚きの経験を積む。独立しても、陶土や釉薬(の一部)は既製品を買い、ガス窯で仕事を継続する人が少なくない。ところがわたしの場合は、まったく逆だった。窯焚きの経験がないのに、まず窯から造った。そして陶土は自作、釉薬も自前、焼きは若い「先輩」たちの応援を仰いだ。焼き・陶土・釉薬にようやく見通しがついたところで、目下「つくり」に専念している。

 焼き物を観るにあたっての基準として、「一焼き 二土 三細工」という言い回しがある。「一土 二焼き 三細工」ともいう。いずれにせよ、「焼き味」や「土味」があっての「細工(つくり)」だということだが、もちろん「細工」が下手では話にならない。わたしの「陶芸入門」は、この順序からすれば期せずして「王道を歩んだ」?ことになる。

 当初と違って今、「なぜ陶芸か」と訊かれれば、ためらうことなく「発見の日々が楽しいから」と応じられる。この発見は、わたしにとって「わたしの再発見」であると同時に、「沖縄の発見」も意味している。窯焚きで応援を頼む他は、一切の作業を一人で行っている。仕事がそのまま「心身」の健康維持につながる、というのがもう一つの返答である。


                                                                            (『(株)都市科学政策研究所25周年記念誌』2008.7)

岡本太郎と沖縄と久高島

2012-06-22 12:34:08 | Weblog
はじめに
 
 岡本太郎は、1959年にはじめて沖縄を訪れました。訪れる前の期待に反して彼には、この島々の土地につくり上げられ、伝えられてきた上物の文化に、「こいつはどうしても沖縄だけにしかない、というような凄み」が感じられなかったといいます。「文化遺産」といわれているものは「どうも、もとは中国であり、南方であり、朝鮮、日本」からの「いわば借り物であって、沖縄全体がそこからつき出てくる」「クリエートされた気配、その息吹きが感じられない」というのです。

 結局彼が行き着いたのは、粗製の石の香炉が置かれるだけの場で、自然木を介して人と神がじかに向き合い、交わる「お嶽」でした。久高島での話です。彼はその「何もないこと」に驚愕し、胸を打たれました。名著『忘れられた日本―沖縄文化論』(1961年)での話です。「お嶽」に案内したのは、島のノロ(神女)の息子さんでした。

  岡本は沖縄訪問の後、「芸術とはオールであると同時にナッシングだという、不思議である」(「曼陀羅頌」『神秘日本』、1964年)というテーゼを提起し、また1971年に刊行した『美の呪力―わが世界美術史』では、「無いーあることを拒否するポイントからある((「ある」に傍点)を捉え、またある側から無を強烈に照らし出すべきではないか。そういう弁証法的な捉え方によってこそ文化の全体像を照らし出すことができるのだ」と述べています。「弁証法」について他では、「ぼくは、弁証法というのは、正と反とが永遠に強烈に対決することだと思うのです」。「正でもない反でもない、なにかその間に生まれるエネルギー的な緊張があると思う。」(『日本列島文化論』、1970年)とも述べています。

岡本太郎の「弁証法」

 そこではじめに、岡本の「弁証法」について考えてみましょう。彼の沖縄文化論のキーワードである「何もないこと」の論説を、彼の側と沖縄の側、双方から解くかぎとなると考えるからです。

上記の命題をわたしなりの「整数論」で表記してみましょう。

 まず、横線を引きます。その中央に0(ゼロ)を書いて、正の数が並ぶ世界をオールの世界、負の数が並ぶ世界をナッシングの世界、あるいは「反」の世界と考えることにしましょう。そして正の無限大の側と、負の無限大の側から同時にゼロに向かって運動を始めます。ゼロに向かうということは、正の側では引いていく、負の側は足していくことになりますが、正の側で引いていくというのは取り込んでいくといってもよいでしょう。

 双方の運動はそれぞれが、正の側のエネルギーと負の側のエネルギーを取り込み、増幅しながらゼロに向かい、ついにゼロの地点で対立・衝突して、「爆発」します。そこに新しい<芸術>あるいは新しい<表現>や<思想>が生まれる。そういう意味では、ゼロは「ない」ということではなく、「ない」と「ある」の接点で双方の世界を統括する<壮大なゼロ>ということになります。

 岡本のいう弁証法とは、そうした運動が永続的に続くものと考えられます。彼の沖縄文化論に引き寄せていえば、ゼロの位置に「お嶽」があって、左側に「何もない」領域、言い換えれば<神>の世界、右側が「ある」の領域、<人間>界、ということになるでしょう。神と人の双方が「お嶽」というゼロの地点に向かって運動を始め、その場面で展開される<儀礼>という時空間で向き合い、火花を散らしながら、島を支え、豊かにするエネルギーを放出する、ということです。このゼロ地点では<神>が<人>となり、<人>が<神>になるというスパークが見られます。

 わたしはここで、岡本の「弁証法」を「整数マンダラ」と名づけたいと思います。「マンダラ」とは、静(形あるもの)と動(形にいたらないもの)の激しいせめぎあいの世界である、という付則を足した上で。


「見える文化」と「見えない文化」、「見せる文化」と「見せない文化」

 ゼロから左側を「見えない文化」、右側を「見える文化」というように分類してみましょう。これは当然「見る側」からする分類ということになります。これに対して「見せる文化」と「見せない文化」という分類もできます。これは「見られる側」からする分類です。正の側を「見せる文化」、負(反)の側を「見せない文化」といってよいでしょう。ここでは「見られる側」が「見る側」を拒否もしくは選別するという主体的な意志が働きます。

 いずれの分類でも、「文化」は双方の総和(壮大なゼロ)ということになります。一方、「見せる」領域も確保されています。ここでは「見る側」の「共有」(見る側の所有)の「申し出で」(たとえば「撮影」という形で)を許容することを意味します。一方、「見せない」ということはそのような「所有」「共有」の申し込みを拒否することです。「見せない」ことを「見せる」ことによって、島=シマは島=シマとして存立しているのです。

 そのような「文化」をかたくなに保持してきた典型的な<祭り>が、久高島の「イザイホー」であり、宮古の「ウヤガン」であり、八重山の「アカマタ・クロマタ」であるといえましょう。

 岡本は芸術における「見せる」「見せない」の位相について、「曼陀羅頌」(前出)で以下のように述べています。「密教においては、秘仏に象徴されるように、あらわにならないがゆえにこそ力である。この神秘力、呪力が芸術においても、実はその本質なのである」。「見せる、と同時に見せないという矛盾が、ひとつの表情の中に内包され、充実していなければならないのだ。ジレンマである」。「優れた芸術には永遠にフレッシュな感動がある。それは永遠に己れをわたさないからだ。その拒否、秘密がなければ、純粋ではあり得ない。秘密即純粋なのだ。つまりそれは見せていると同時に見せないことである。」


「見られる側」「見せない側」の倫理

 このテーゼを撮影の現場に応用するとどういうことになるでしょう。『沖縄文化論』初版本?で岡本は、「(久高島では)写真をとられることを『ぬく』といって、写されると早く死ぬと考えるそうだ。生魂をぬくということらしい。」と述べています。久高島の女性は、写真を「撮る」「撮られる」の関係を見事に言い当てています。「見る」「見られる」、「撮る」「撮られる」の違いは、見る側の眼底に焼き付けられるか、印画紙に焼き付けられるかの違いでしかありません。事の本質は、「見る側」「撮る(取る・採る・獲る・盗る)」側が「所有者」に、「見られる側」「撮られる側」は「被所有者」に転化するという危険性ないし、現実性を持っているからです。

 ましてやその写真が、展示会や出版という形で公開されるとなりますと、写された<私>が別の「私」となって勝手に一人歩きする、あるいは自分の知らない他者の「もの」になってしまうのですから、なおさらです。そのことをシマの女性は、「生魂をぬかれる」という生活=民俗のレベルで表現しているのではないでしょうか。ここで言っていることは写す側、写される側の双方にとって「記録的(学問的・芸術的)価値」がある(?)ということとは、いまのところ無関係です。所有・被所有の関係は消えないからです。

 先だって長野県の知人と二人で、久しぶりに久高島を訪ねました。案内に知念村教育委員会の「文化財案内ガイド講習会」を終了したシマのガイドを頼みました。彼は、今年は「イザイホー」の年なので、とくに「お嶽」と「葬処」だけは絶対に案内するな、という厳命を島=シマの神女から受けた、と言っていました。もちろん、島=シマの人でも選ばれた人以外、決められた時以外は、そこに入ることは厳禁されています。彼によれば、太陽が昇る島=シマの東側は、そこから始祖と穀物が到来したという神話を付随していて、今もその神話は祭りのなかで生きている、ということでした。一方、島=シマの西側は、太陽が沈む方角であると同時に、死者が赴く先でもあり、そこは不浄の場だとのことでした。話の中で、「岡本太郎」が島=シマの了解を得ずに、しかもイザイホーのさなかにこの不浄の場を訪れ、撮影をしたという話題も出ました。岡本は今でも久高島においては「生きて」いるのです。


「見る側」「表現する側」の論理 

岡本は、1966年に行われた「イザイホー」に立ち会っています。そして祭りの合間に入り込んだ島=シマの「後生(風葬地)」について、『沖縄文化論』の増補版(1972年)で次のように書いています。「こっそり」「案内してくれ」たのは「那覇から来ている新聞記者」です。岡本が「このまえ来たときには、島人たちがそこをよそ者に見られるのをいやがるというので、ついゆきそびれてしまったのだ。」「後生(グソウ)だ。私にとってながい間秘密だった原始的葬制。」「けわしい自然に抱き込まれて、禁制の死の地域は無言だ。」

 はたして無数の死者たちは「無言」だったのでしょうか。

 問題は三つあると思います。一つは、島=シマの人たちが「よそ者」が入ることを忌避している領域に無断で踏み込んだ。次に、島=シマにとって最大の浄めの舞台である「イザイホー」の現場に、島=シマの「不浄」を全身に浴びたまま、現れた。そのことは「イザイホー」の場=島=シマを汚したことにならないか。そして三つ目に、その「後生」を写真に「撮り」、島の人々に諮ることもなく自分の著書(増補版『忘れられた日本―沖縄文化論』)で「公開」した。公開することによって読者一般の「共有」に委ねたのです。岡本の行為は、住職が法要で出かけている合間に仏殿に入り込み、「秘仏」に対面、像を撮影して、その写真を寺院にことわりなしに自著で「公開」することと、何ら違いはないはずです。

 島=シマの人が「見られる」ことを拒否し、「見せない」姿勢を貫いてきた領域は、岡本の言葉を借りれば「永遠に己れをわたさない」領域、「秘密即純粋」の世界といえましょう。「その拒否、秘密がなければ、純粋ではあり得ない」のです。秘密の葬処は「見えない」幕で覆われていたのです。「つまりそれは」「見せない」ことによって「見せて」いるのです。「葬処」と「お嶽」はいわば島の「秘仏」に当たるでしょうし、「イザイホー」はーわたしも24年前に見せてもらいましたがー「見せる、と同時に見せないという矛盾」が「内包され」、「充実」した島の「優れた芸術」なのです。

まとめに換えて

 わたしたちは、「岡本太郎」を正負、両様で受け止めなければなりません。彼はわたしたちに、「整数マンダラ」の世界を己の言葉と行為のふたつで開示してくれたのです。わたしたちは、この島々の正負の歴史、正負の文化を己の目で凝視し、正負(正反)双方が発する「生命のエネルギー」(『沖縄文化論』)を<壮大なゼロ>の地点で引き受け、新たな<沖縄>を発現・発信する決意を岡本太郎から今でも、否、今だからこそ求められていると思うのです。

(新沖縄フォーラム刊行会議編 季刊『返し風』37号 02.12/20)

沖縄の近代化と民芸運動

2012-06-22 12:28:10 | Weblog
陶芸と料理

 沖縄発の食材や料理が、全国的に人気を博しているらしい。自然の中から素材を選び、組み合わせ、味を付け、火に掛けて仕上げる、という意味で、陶芸と料理に共通点は少なくない。

 「焼物は作り手と使い手の共同作品」、「使える器、仕える器」を「沖縄の素材で」。この三つを陶器づくりのコンセプトとし、標榜する私にとって、食器は料理におけるカンバスであり、額縁である。料理の盛り付けや彩り、そして器選びは、料理人にとって「味」と並ぶ腕の見せ所である。料理において「美」は不可欠の要素なのだ。そこで、陶芸をやるからには料理もということで、三食とも自分でつくることを心がけるようになって一年が過ぎた。レシピはインターネットで不自由しないが、それでも書店に行くときは料理本コーナーにも足を向ける。

 最近買い求めたのが、同名の料理雑誌で知られる出版社オレンジページが今年の四月に発行した大庭英子著『基本の沖縄ごはんーとりあえずこの料理さえつくれれば7-』である。先行するシリーズを列挙すると、いずれも「基本の」を冠した「和食」「イタリアン」「洋食」「中華」「お菓子」「お弁当」の六冊。お菓子やお弁当を除けば何と「沖縄ごはん」は、和食・イタリアン・洋食・中華と同列に並ぶジャンルにノミネートされたことになる。たとえて言えば「日本の郷土料理」全四十七巻の最終巻ではないということだ。六月には、同社から続編とも言うべき『枝元なほみの沖縄ごはん』まで出版されている。

 『基本の沖縄ごはん』の巻頭には、『基本の和食』の著者でもある大庭による同書刊行の意義が記されている。出版社の意向を受けた文章と見てよいだろう。沖縄の工芸や文化一般の評価にもつながると思われるので、全文を紹介させていただく。

「沖縄ごはん」の民芸性

 「料理には、その土地の文化が詰まっている。人が生きていくための糧というだけではなく風土や歴史、信仰、そして人々の暮らしなどたくさんの背景が『料理』という形で伝えられている。長く愛されている料理は奥が深い。とりわけ、沖縄にはそこにしかない独特の味がいっぱいある。青い海、澄んだ空気、そして温かい人情が育ててきた料理。かつては『琉球』という小さな島国で日本だけでなく中国や台湾など広くアジアの影響を受けながら独自の食文化を育ててきた。」
 
 「台湾」は「東南アジア」と読み変えるべきであろうが、それはさておいて、日本を含むアジア諸地域との歴史的文化的交流や自然環境が(沖縄)「独特の味」を「いっぱい」残しているという件は、沖縄料理が和食・洋食・イタリアン・中華などと並ぶ独立した料理のジャンルとして評価されるべきだ、という(ブームに支えられた)出版社の意向を直接表明している箇所だと考えてよい。

 巻頭言は次の一文で結ばれる。評価の視点の二つ目になる。
「おいしいものに満ちあふれている今の食卓だけれど、いちばんのご馳走は生活に密着した料理、慣れ親しんだ料理。何代にもわたっておばあが伝えてきた沖縄の料理はとても魅力的だ。長く伝えられている、そして力のある『土地の料理』をもっと楽しんでいきたい。素晴らしい食習慣を、絶やさずに伝えていきたい。」

 「おいしいものに満ちあふれている今の食卓」というのは、和食も洋食も、イタリアンから中華まで誰でもつくることができ、自宅で味わうことができる「豊かな食生活」を享受しているという意味だ。その上で「いちばんのご馳走」は「生活に密着し」「慣れ親しんだ料理」、それが「沖縄ごはん」ということになる。この巻頭言で「料理」とか「食」という語を「工芸」、「おばあ」を「おじいやおばあ」に置き換え、表現に若干の修正を加えれば、そのまま柳宗悦(やなぎ・むねよし 1889~1961)の「沖縄民芸論」の簡潔な説明文として読むことができる、というのが私の読後感である。

柳宗悦の民芸論と「民芸運動」

 「民芸」とは「民衆的工芸」の略でいずれも柳の造語。地域の自然と伝統に根ざし、「民衆」の手技でつくられ、「民衆」の暮らしの中で生きてきた工芸、のことだ。日本の伝統美の正系は民芸にあり、とする柳独自の所論を目の当たりに実証するかけがえのない地域こそ、沖縄であった。

 その発見と確証は、昭和13年暮れから15年にかけて4度訪れた調査旅行で得られたものである。この間の、そしてその後の柳たちの動きはすばやく、目覚しかった。「沖縄の富」、「沖縄人に訴ふるの書」をはじめとする柳の旺盛な執筆・著述活動と合わせて、同志とともにする徹底的な調査研究・収集活動、収集した品々や写した写真の展示会開催、機関誌『工芸』や『民芸』における沖縄特集号の相次ぐ発行、制作した映画「琉球の風物」「琉球の民芸」の上映などを通して、有形無形の沖縄文化を紹介する精力的な活動が続いた。沖縄文化を全国に紹介するのに、これだけ多彩な活動が展開されたのはかつてないことであった。しかも、現在でさえ行政が取り組めないほどの運動が、当時、民間の手でなされたのである。
                             (「沖縄タイムス」09.9/7)

 誰が作ろうと、美しいものは美しい。美しいものを生み出す人たちへの理解と尊敬の念を抱かない人に、ほんとうの美しさはわからない。柳のものを見る眼の根幹にあったのは、これである。それまで「下手物」と見下されてきた品々とそれらをつくる各地の職人たち、当時日本の統治下にあった朝鮮の芸術や、台湾の先住民が織り出すいわゆる「台湾蛮布」、アイヌの工芸を見る眼。柳の見る眼は、沖縄に限らず終始一貫している。柳美学におけるヒューマニスティックで、インターナショナルな視角である。

 そんな柳には、時の県政当局が「方言」の価値を貶めるやり方で推進する「標準語励行運動」や、「風俗改良」と称して行われる「琉装廃止」などの施策が、琉球・沖縄文化とそれを生み、支えてきた島の人々と先人達に対する侮蔑と映ったのは言うまでもない。昭和15年に行われた柳一行と県政当局や地元マスコミを交えた「観光振興」の座談会は、会場における「標準語励行運動」の「行き過ぎ」批判と県庁サイドの反批判をきっかけとして、その後一年間に及ぶ「方言論争」を引き起こす。
 
 柳によれば「問題の中心」は、「県庁が指令を発して県民に方言の使用を中止させ、ただ標準語のみを採用せよと強いたのに、吾々は標準語とともに方言をも尊重せよと主張したことによる。しかも日本の方言としての沖縄語の価値を認識されんことを求めたのである」(新漢字新かな遣いに改めて引用。以下同)。
 柳たちの主張にあるのは、今で言うバイリンガルで、複眼的な発想である。論争のさなかに書かれた「地方性の文化的価値」において柳は訴える。()内は私の注。

 「地方性の文化的価値」

 「外来のものを摂取する時期はもう熟し切ったではないか。日本(沖縄)が自ら有つものに反省を向ける時期は来ているのである。今や日本(沖縄)固有のものの上に日本(沖縄)を再建すべき時代が到来したのである。今後も外国(日本)を学ぶことに懶惰であってはならない。併し日本(沖縄)自らを学ぶことにもっと勤勉であってよいではないか。文化は国際的に広げられると同時に民族的にも深まらなければならぬ。かかる反省が起こるとき、地方(沖縄)の文化価値は勃然として意義を高めるであろう。遅れていると蔑んだ地方(沖縄)の文化は都市の吾々が及びもつかない力を見出すであろう。そうしてその富の最大のものは二つある。一つは地方(沖縄)文化が保有する価値量の豊富さである。一つはそこに見られる日本固有性の確実さである。」

 現在からするといかにも正論に聞こえるが、当時の沖縄県民が柳たちの論調に賛同したとは見なしがたい。貧しいとされる沖縄にこそ手づからの豊かな文化が残されている、言葉から生活スタイルまで日本の「古形」「古格」を維持していて、「日本」ではないとされる沖縄にこそ「日本」があり、その認識と誇りに立って沖縄振興を図るべきである、という論理は、県民にはどこかで受け入れ難いところがあった。たとえで言えば、和食や洋食、和装や洋装を満喫し、流暢な「標準語」を話す東京から訪れたハイレベルの文化人たちに対して、私たちも早くあなた方と同じような食生活・衣生活・言語生活がしたいのです、という秘められた思いがある。沖縄では「外来のものを摂取する時期」はまだ「熟し切って」いません、とも・・・。「外来」とはここでは、東京サイドと違って「国際性」に「日本性」が追加される。

 そもそも『基本の沖縄ごはん』の重要な一角を占める豚肉料理などは当時、正月か行事・法事の時にしか口にできなかったし、沖縄の「地方」では「イモと裸足」の暮らしが普通であった。柳が民芸中の民芸とみなした芭蕉布とて、普段着も作業着もこれで間に合わすしかないような衣生活では、貧乏暮らしのシンボルでしかなかったはずだ。

 「豊かさ」とは、「富」とは

 「暮らしの豊かさ」とは何か。ひとことで言えば「選択の幅が広い」ということである。「あれかこれか」ではなく「あれもこれも」の生活である。和食、洋食、イタリアン、中華と同列に沖縄ごはんを加えることで、日本の、そして沖縄の食文化はより豊かになるというのが、オレンジページの基本的なスタンスであろう。とはいえ、ただちに付け加えておかなければならない。前提となるのは、「健康」と「健全」という二つの指針だと。「おばあが伝えてきた(手作りの)料理」にはそれがある。それは豊かさとは別の次元だ。柳民芸論においても、健康と健全は必須の要件であった。二つを支えるのは自然と伝統、すなわち「土地の力」である。

 柳が当時高く評価した工芸や音楽・芸能のどれも、今では国や県の「無形文化財」に指定されている。そこまで評価されたのか、と喜ぶ向きもあろうが反面、国や自治体が法制度を裏づけとして行政的に「保護」する必要があると見なしている現況や、「民衆」の暮らしから遠ざかっていることの逆説的な姿も同時に示している。たとえば「琉球舞踊」が(国の)「重要無形文化財」指定を受けて注目される一方で、同じく重要無形文化財指定の「宮古上布」の生産は、「復帰」前後は1、200反あったのが、今ではわずか20反前後まで落ち込んでいるという。かつて忌避され、今では愛着を込めて「島言葉(シマクトゥバ)」とも呼ばれる島々の方言も、消滅の危機を迎えている。保護どころか「記録」さえ及ばないのが現状だろう。一方で、沖縄メロディーやエイサーが全国バージョンと化し、「琉球料理」でもなく「沖縄料理」でもない「沖縄ごはん」が同列に加わる勢いだ。

 「外来のものを摂取する時期はもう熟し切った」かの感がある現在の沖縄において、あらためて問い直すべき課題は山積しているように思われる。すなわち、沖縄は「万国津梁」の時代のようにアジアに等距離で開かれているだろうか。「沖縄の文化」は豊かなのだろうか。私たちの暮らしは健康で健全なのか。「土地の力」は揺るぎないか。選択肢の多さに翻弄されて、暮らしの基軸を見失っていないか。

 柳の論脈において「豊かさ」と「富」ではニュアンスが違う。「富んでいる」とは、真に美しいものと共にある、ということだ。私たちの暮らしは富んでいるか。

                                                            
                                                                                    (「沖縄タイムス」09.9.14)

新垣幸子「八重山上布展ー琉球の光と風」に寄せて

2012-06-22 12:23:57 | Weblog
 新垣幸子は織物の詩人である。手紡ぎの苧麻糸、無地の糸や部分染めの絣糸を使って、機の上に詩を書いていく。一本一本の糸が経(たて)・緯(よこ)組み合わさって一つひとつの言葉となり、言葉と言葉が紡がれ、できた句が織り合わさって一篇の叙情詩となり、叙事詩となる。
 
 新垣幸子は織物の画家である。緯糸を巻いた杼(ひ)を、一本一本が交互に上がり下がりする経糸の中に投げ込むことで、布に図柄を描いていく。地色と図柄、あるいは図柄と図柄の絶妙な組み合わせは、そのまま画家の仕事である。ここでは杼が絵筆となり、織りあがっていく布がキャンバスに変わっていく。織物のマチエールは「風(ふう)合い」と呼ばれる。

 新垣幸子は織物の作曲家である。それぞれの糸は、ここでは音符である。音符と音符が取り合わさって小節をつくり、小節と小節が連なってリズムが生まれ、楽曲ができる。楽曲はソナタであったり、合奏曲であったり、ときに交響曲ともなる。楽譜に当たるデザイン=「組織図」を布に組み立てるという意味では、新垣幸子は演奏家でもある。彼女の作品からは、色とりどりの音色が聞こえてくる。

 新垣幸子は織物の職人である。織物を本格的に始めたのが1972年。この道一筋の「職歴」30余年を、もっぱら石垣市に拠点を置いて機を織り続けてきた。今や、押しも押されもせぬ「八重山上布」の達人であり、この世界の、そして沖縄織物界の屈指のリーダーである。

 織物を始めて間もない頃東京・駒場の日本民藝館で、琉球王国時代に「貢納布」として製作された「八重山上布」なるものを見て、愕然とした。彼女が幼い頃から地元で見慣れてきたそれと展示されている古作品では、出来上がりがまるで違う。美しく地染めされたものがあり、染めはどれも琉球の織物本来の浸し染め、絣の作り方はこれも本来の手括り。歴史的に見れば、こちらの方が「オリジナルな」八重山上布なのだ。彼女が島で見てきた絣の作り方、染めの方法は、クールと呼ばれる茶褐色の植物染料を糸に摺り込み、白地で織り上げる「捺染(なっせん)」。この技法は廃藩置県以降に導入されたことを後に知る。

 その後、沖縄県立博物館の収蔵作品や、琉球王府が宮古・八重山・久米島に貢納布の注文デザイン帳として配布した「御絵図帳」の丹念な調査・研究を続けながら、古作品の復元を試みる。その時すでに、彼女の前を行く研究者にして作家がいた。今は故人となった「首里の織物」の大城志津子(元琉球大学教授・県立芸術大学教授)である。

 古作品の復元を手がけながら、その仕事をベースに自前のデザインを追及する。ここからの新垣幸子は、織物の研究者にして探求者である。ひそかに大城志津子を師と仰ぐ。彼女の作品には、大城のそれを彷彿とさせるものがある。考え抜かれたデザイン、情緒豊かでやさしい色使い、・・・。しかし今や新垣幸子は、どこまでも「八重山上布の作家」である。1985年に沖展会員、1998年に日本工芸会正会員となる。

 そんな新垣幸子のすべてを今、沖縄県立博物館・美術館の県民ギャラリーで開催中の個展「琉球の光と風」で見ることができる。
         
                                                                             
                                                                                          (「沖縄タイムス」09.5.12)

澤地久枝『琉球布紀行』(新潮社 2000.12)のスタンス

2012-06-22 12:20:19 | Weblog
 戦後沖縄の染織界を牽引してきた人たちと、その作品との出会いを綴るこの本に登場する人物の大半は、評者にとってもなじみが深い。というのも、1973年以降14年間、この人たちの仕事や作品の身近でわたしも仕事をさせてもらった経験があるからだ。博物館学芸員、あるいは文化財保護行政の立場から。それでも、というべきか、だから、というべきか。次のようなくだりを読むと「かなわない」と思ってしまう。

  着手にとっての八重山上布の特色は、着たときの「麻」の感触であると思う。宮古上布のなめらかさとも異なり、芭蕉布のきっぱりした張りともちがう。苧麻のいきおいのいい生気というべきか。何度洗い返してもそれは残っている。糸が宮古上布より太目のせいかも知れない。

 しかもこの本の著者は、相当の着物コレクターでもあるらしい。もちろん、飾ってながめるのではなく、着て楽しむものとして。だから、作者を知らないまま「作品」に出会い、袖を通して後に作者と遭遇する「縁」も一度ならずある。

 ところで、程度の違いこそあれ、この本に登場する染めや織りに関わる地域、携わってきた人たちには、それなりの戦前があり、戦争があり、戦後があった。

 本書によれば、今では国の重要無形文化財となっている「首里の織物」のかつての第一人者・故大城志津子が、弟子の新垣幸子にこう語ったという。「苦悩を抱いている人にしか、魂の入った布は織れないのよ」。彼女もまた幼くして沖縄本島南部で死線をさまよううち、銃弾が胸部を貫通した体験を持っている。訪れる人々が賛嘆の声をあげる沖縄の海や空の青さに染まりながら、登場人物たちはそれぞれの歴史を心と体に刻みつつ美しい布を産み続けてきたのである。

 そんな姿を、社会派ノンフィクション作家・澤地久枝が、澤地なりの地点から確かな筆致で描いた本でもある。
                       

                                                                                           (北海道新聞 2001.2/24)

佐藤太圭子の芸ー観音の舞い

2012-06-22 12:16:33 | Weblog
 「国立劇場おきなわ」で、佐藤太圭子の「師籍四十五周年」記念公演を観た。

 なかでも「諸屯(シュドゥン)」は、迫真的な踊りであった。この演目では、踊り手は採り物を持たない。銀の「房指輪」をはめた指と手の動きが、身体の抑制的なそれと渾然となって、女性の秘めた恋を表白する。象徴性の強い踊りで、踊り手の解釈と技量が試される。

 佐藤が舞台に登場し、向きを変えて観客に歩み寄る姿は一瞬、阿弥陀如来に随伴する観音菩薩の来迎に映り、上半身から指先に至る動きは、突如として広隆寺の弥勒菩薩像を連想させた。「菩薩」とは、自身「仏」としての資格を持ちながら「仏国土」に留まらず、現世の衆生(私たち)を仏あるいは仏国土へ教導する存在である。なかでも「観音」が、日本仏教史上もっとも親しまれた菩薩であることは周知の通りだ。

 一方「弥勒」は、「ユガフ(世果報)」をもたらす「ミルク」として沖縄の童謡や民俗行事でもなじまれているが、仏教思想史上は釈迦滅後56億7千万年の後、釈迦に代わって人々を救うと信じられてきた「未来仏」である。したがって「ミルク・ユガフ」とは元来、弥勒が現世に現れ、この世を「仏国土」に移し変えた状況を指す。
 
 広隆寺の弥勒菩薩坐像は、衆生をどうすれば救えるのか「思惟(しゆい)」している姿だそうだが、造形上は観音と同じように細身で、一見女性的である。詩人・清岡卓行はこの菩薩を次のように詩う(『手の変幻』)。

   典雅に 涼しく 君の細長い指は ・・・ 自分の右の頬にそっと 無辺な慈悲のこころ 澄み切った解脱のこころを まるで 若く美しい生命の 深い羞じらいのように告げている

 愛する男性を「思惟」する所作は、いつの間にかー必然的にと言うべきかー相手を救わんとする表情やしぐさに転移するのだろうか・・・。 恋から愛、そして「慈愛」へ。あるいは「女性」の「母性」、そして「仏性」への移行。仏教の基本思想である慈悲の「慈」は沖縄語の「ウムイ(思・想・念い)」、「悲」は「カナサ(愛さ)」に当たるように思われた。
                                                  
                                                         (『琉球舞踊太圭流ー踊い歓ら(ウドゥイ・フクラ)・舞い歓ら(モーイ・フクラ)』2009.11)

新平和祈念資料館開館に寄せて

2012-06-22 12:12:31 | Weblog
 与那原の自宅から平和祈念公園に車で向かうたびに、いつも胸がふさがる思いがする。沖縄戦当時、米軍に追われ、見晴らしが利きすぎる直線道路やわき道を通って、沖縄本島南端に向けて避難・敗走した住民や兵士の心境が思いやられるのだ。だから、平和祈念公園に到着すると、「平和の礎」も含めてその整備が進めば進むほど、これでいいのかという疑念と、やはりこれでいいという思いが錯綜する。戦場に変貌した地形をもとのまま残した方が、悲惨な戦争に対する想像力を喚起できる、という側面もあるのだ。

 豪壮な新平和祈念資料館に対する第一印象も同じだ。この資料館は、平和の語り部でなければならない。そうでなければ、同じ場所で亡くなったかも知れない無告の人々は浮かばれない。

 名前は「資料館」だが、性格は「博物館」である。実際、英名には「ミュージアム」が付いている。ということは、平和祈念資料館も、まずは<もの>をして語らしめる場だということだ。ストーリーも悪くない。デイスプレイもさすがプロの業者だ。しかし、全体の印象は文字と図版の氾濫といった感じである。動く映像が、<もの>の足りなさをなんとか補っている。次にレプリカ。避難壕に成り代わったガマ(自然洞穴)や戦後のテント小屋、マチヤグワ―(商店)、「波の上」のバーなどの再現も悪くないが、展示空間全体が狭い。

 大型スクリーンに沖縄戦の戦闘経過を映すスペースは、ガマと隣り合わせで観客が滞ることが十分予想される空間だが、狭すぎて団体客が入るとすぐに身動きがとれなくなるだろう。「ひめゆり平和祈念資料館」の例もあるから相当数の観客の入りが当初から予想されたはずだ。内容が内容だけになおさらである。「展示監修」以前の問題である。常設展示室入り口も狭い。一方、ロビーや柱廊はいかにも広すぎる。旧資料館前に屋外展示(野ざらし?)されていた高射砲や大型爆弾はどうなったのだろう。

 問題はいかに見せるかだ。<もの>が与える衝迫力といったものを見る側に伝えるのは、<もの>自体の性格にもよるが、博物館側の力量に負うところがやはり大きい。力量は、館の理念と、他人まかせでない主体的な調査研究、展示実績によって保障される。その意味では、旧資料館の画期的な「証言展示」を引き継いだことは高く評価される。他方で、戦場から収集された資料の個々が語る語り口を封じ、「オブジェ」としてうずたかく積んだ展示を継承した部分は、博物館人としてはやはり納得できない。

 戦後史の展示「太平洋の要石」は、「生活の再現」にスペースを取られた(取った)ためか、軍事要塞としての沖縄、人々の軍政に対する抵抗などの展示が、ふたたび文字と図版の氾濫で終わっている。全体にいえることだが、この種の博物館(資料館)の現在的な課題とされている「加害」の面に対する気配りも、まだまだという印象だ。

 ここであげたことは、わたしにとって決して他人事ではない。わたしもまた小さな博物館の準備から開館、そして、その後の運営に携わってきたからだ。沖縄における平和研究の拠点として、平和学習の拠点として、そして沖縄からする平和発信の拠点として、新資料館に寄せられる期待は大きい。ところが、同じ博物館人として見る時、現スタッフの体制はその責務を果たすにはあまりにもさびしい。

 条例・規則に記される館の性格づけも、旧資料館のそれと比べると一新されたかに見えるが、職員配置の条項の欠落や運営主体の不明瞭さは、館の将来を思うとき危惧の念を残す。旧資料館を改装して「沖縄県立アジア平和研究所」を設置し、資料館と有機的な関連性を持たせたらどうだろうか。そんなことも考えた。ともあれ、県首脳と展示監修委員会の影に隠れて見えなかった館自体の主体性と力量が、表舞台で初めて問われることになる。同じ仲間として、切にご健闘を祈る。

                                                                                 (2000年4月29「琉球新報」掲載文に加筆) 

法律にみる博物館ー那覇市立壺屋焼物博物館の場合

2012-06-22 11:52:14 | Weblog
 那覇市立壺屋焼物博物館が開館4年目を迎えた今年の5月16日、沖縄県教育委員会から「博物館法第2条に規定する博物館」として同委員会の原簿に登録された。「博物館法」? 「原簿」「登録」? 簡単に言えば、那覇市立壺屋焼物博物館はこれまで「自称」の「博物館」だったが、今回県から公式に「博物館」として「認可」された、ということなのである。そのことにどんな意味があるのだろうか。 

 学校や図書館にくらべて「教育機関」としての認知度が低い「博物館」。これまでいろいろな形で博物館の「現場」へお誘いはしてきたが、この際「登録」とのからみで、「法律に見る博物館」について読者のご理解をいただきたい、というのが本稿の趣旨である。

 「博物館法第2条」を抜粋する。「法律」では「博物館」をどう定義しているのだろうか。「この法律において『博物館』とは、歴史、芸術、民俗、産業、自然科学等に関する資料を収集し、保管(育成を含む。以下同じ)し、展示して、教育的配慮の下に一般公衆の利用に供し、その教養、調査研究レクリエーション等に資するために必要な事業を行い、あわせてこれらの資料に関する調査研究をすることを目的とする機関(中略)のうち、地方公共団体、民法(中略)第34条の法人、宗教法人又は政令で定めるその他の法人が設置するもので第2章の規定による登録を受けたものをいう」。ここでいう「博物館」には「美術館」「植物(動物)園」「資料館」なども含まれる。

 同法「第2章」は、「博物館」の「登録」に関する条項からなるが、要するに「博物館」の設置にあたっての根拠となる条例や規則、しかるべき土地・施設・組織・資料の有無、年間開館日数などが、都道府県が定める基準を満たしているかどうかの審査を受けるべきことや認否を通知することがうたわれ、ているのである。博物館の専門職員「学芸員」配置の有無も明記されている。「学芸員」とは学校でいう「教師」、図書館の「司書」、病院の「医師」などに当たる。「学芸員は、博物館資料の収集、保管、展示及び調査研究その他これと関連する事業についての専門的受講をつかさどる」(第4条第2項)。

 那覇市立壺屋焼物博物館の「登録」は、博物館資料の収集・保管・調査研究・展示・教育普及活動、いわゆる博物館活動が県の基準をクリアーしたことを示すものであり、まことにありがたいことと言わねばならない。
 「登録」にはどんなメリットがあるのだろうか。たとえば、文部科学省が博物館活動を助成するに当たっては「登録博物館」であることが前提となる。実際、同省は壺屋焼物博物館が「登録博物館」となったことを確認したうえで、「親しむ博物館事業助成」を内定した。我が館では目下これを「出前子ども博物館事業」として企画・準備中である。博物館活動を学校や地域で展開しようというのである。

 「登録」を契機にして、より市民・県民に「親しまれる」博物館にしていこうと、職員一同はりきっているところである。


                                                                                             (2001.7/16 琉球新報) 

博物館(資料館)づくりの理念と主体性

2012-06-22 11:48:03 | Weblog
 理念

 日本語では博物館・資料館・美術館などと言葉は違うが、英訳すればその前後に違う形容詞がつくにしても、いずれもミュージアムと表記される。今話題の沖縄県立平和祈念資料館の英語名も同様だし、同館をはじめ県内の主だった博物館・資料館・美術館はすべて「沖縄県博物館協会」に加盟している。これらの機関は通常、資料の調査研究、収集・保管、展示、展示を巡る各種の教育(生涯教育を含む)活動が事業の中心となるが、〈もの〉を媒介とする点で、教室で行われる授業や図書館の教育活動と違う。〈もの〉が、〈文字〉(ことば)や〈数字〉にならぶ重要な教育・研究・文化の情報源であることは、強調しても強調しすぎることはない。

 さて、手元にある沖縄県博物館協会編の『沖縄の博物館ガイド』(1998年1月発行)によれば、現在ある「沖縄県立平和祈念資料館」の設立は1975年で、開館してからすでに24年の実績を持っていることになる。同館の説明によればその「展示理念は県民個々の戦争体験を結集した『住民の視点で捉えた沖縄戦』」である。同館の設立宣言の末尾は次の文章で結ばれている。「私たちは戦争の犠牲になった多くの霊を弔い、沖縄戦の歴史的教訓を正しく次代に伝え、全世界の人びとに私たちのこころを訴え、もって恒久平和の樹立に寄与するため、ここに県民個々の戦争体験を結集して、沖縄県立平和祈念資料館を設立いたします。」

 その「展示のむすびのことば」は次の通りである。「沖縄戦の実相にふれるたびに 戦争というものは これほど残忍で これほど汚辱にまみれたものはない と思 うのですこの なまなましい体験の前では いかなる人でも 戦争を肯定し美化 することは できないはずです 戦争をおこすのは たしかに 人間です しか し それ以上に 戦争を許さない努力のできるのも 私たち 人間 ではないで しょうか 戦後このかた 私たちはあらゆる戦争を憎み 平和な島を建設せねば と 思いつづけてきました これが あまりにも大きすぎた代償を払って得た  ゆずることのできない私たちの信条なのです」

 この理念は「新資料館」にもそのまま継承されている。そのことは、県・平和推進課が出した「沖縄県平和祈念資料館(仮称)建設ニュース」第2号(平成10年3月号)が「新資料館建設にあたっては、現資料館の展示の『設立理念』と『展示のむすびのことば』の精神を継承し、沖縄戦のすべてを展示します」と述べていることから明らかである。
 博物館(資料館)づくりにあたってまず不可欠なのは、設立の理念である。展示の基本方針なり、構成なりをつくるにあたっては、絶えずその理念に立ち戻りつつ作業を進めていかなければならない。「建設ニュース」は展示の基本方針を六点あげているが、その・は「戦争の残虐さや、平和の尊さを民衆の視点から訴えます」、その・は「科学的な検証に基づいた展示を基本とし、感性に訴える展示も実施します」となっている。

 問題は、稲嶺県政(担当は同じく平和推進課)によってなされようとした今回の「展示見直し」が、はたしてこの「設立の理念」や「展示の基本方針」にかなったものであったかどうか、である。世論の動向は、それが「修正」にとどまらない「理念」や「基本方針」の「転換」につながりかねない問題であることを示している。であれば、ことは当然、ルールにのっとって、開かれた場で議論されなければならない。

 もうひとつとりあげたいのは、現・新二つの「資料館」の〈主体性〉の問題である。

 主体性

 「展示見直し」を巡る一連の動きや議論の中に、20余年の実績を持つ現資料館の館長なり学芸員(1人)の姿がまったく見えてこないのは、どういうことだろうか。このことは、現資料館の、もしかすると新資料館の基本的性格にも関わる根本的な問題につながっているように思われる。資料館の主体性という問題である。現平和祈念資料館の「設置及び管理に関する条例」では、行うべき「業務」として次の二つをあげている。「・戦争による被災に関する資料の収集、保管及び展示に関すること。・その他資料館の設置目的を達成するための必要な業務に関すること。」特徴的なのは「資料の専門的調査研究」が明記されていないことである。

 県立の「資料館」はこの館1館しかないので、実績の長い読谷村立歴史民俗資料館の条例で見ると、事業の項目は8項ある。資料の「収集、整理及び保存」「展示・公開」がうたわれるのは当然として、他に「・資料の専門的調査研究を行い、教育活動に資すること」、「・企画展等を開催し、教育文化の向上に資すること」などがある。

 言うまでもないことだが、「資料の専門的調査研究」を抜きにしてその「収集、保管及び展示」は不可能である。首里にある沖縄県立博物館をはじめ、県内の主だった公立の資料館・博物館・美術館がその「事業」の一つとして資料の調査研究を明記しているのはそのためである。24年間の歴史を持つ県立の現平和祈念資料館が、学芸員を置きながら調査研究紀要を発行できず、一般の博物館・美術館・資料館では開催が当たり前(もしくは目標)とされる調査研究をベースにした企画展の一つも開くことができなかったことの背景には、この条例が横たわっていると解される。現資料館の頭越しに新資料館の建設・展示準備が進められているのも、あるいはそのためだろうか。

 一方、現平和祈念資料館の運営は(財)沖縄県戦没者慰霊奉賛会が県から委託される形で行われている。現資料館スタッフを準備作業の蚊帳の外に置くもう一つの理由とも考えられるが、この運営方法にも異議をとなえておきたい。県庁の担当部局・課が、研究者・専門家を委嘱して展示の構想をつくり、展示業者に委託して工事を完成させて後は、運営(のみ)を財団に委託してことを済ますという安易な、言い換えれば没主体的・非「博物館学」的な発想が、今日の問題の根底にあると私は考える。唐突な例えかもしれないが、県にあるのは「博覧会」を長期に開催しているという発想かもしれない。私たちは最近、その失敗例を県立海洋博記念沖縄館の閉鎖で見たばかりである。

 新しい「沖縄県平和祈念資料館」(仮称)は、敷地面積約1万3000平方メートル、延床面積約1万200方メートルで、県立博物館をしのぐ県下最大の資料館となる。新資料館に望まれるのは、おのれを「博物館法」にのっとった「博物館」として明確に位置づけることである。そして、沖縄と沖縄を巡る戦争史研究、戦後史研究、平和学研究、平和教育の専門スタッフを「学芸員」としてそろえ、資料その他の調査研究を保証すること。継続的な調査研究をベースにして常設展の質的向上を不断に図ること、同時に問題提起的な企画展や出版・教育普及活動を展開すること、などの博物館的活動があわせて求められる。

 以上述べたことは、八重山平和祈念館についてもまったく同じことが言える。

 住民や地域の側に立った明確な理念を掲げ、主体的な調査研究を実施し、その結果を常設展・企画展その他の活動で継続的・精力的に世に問うてこそ、県民や世論、学界に支持される「資料館(博物館)」はつくられる。博物館人の一人として肝に銘じたい。

                     
   (「沖縄タイムス」1999.9・20/21)

沖縄県立芸術大学を「アジア=沖縄のルネッサンス」の拠点に!

2012-06-22 11:41:35 | Weblog
 「建学の理念」と学部構成

 沖縄県立芸術大学(「県立芸大」)が創立されて21年目に入ったという。沖縄の工芸に直接・間接に関わってきた者として、また一美術ファン、一音楽ファンとして、一種の感慨をおぼえる。目下、県の「行財政改革ライン」に沿って、「独立行政法人」化に向けての改革論議がなされていると聞く。
 
 組織改革はどのような組織であれ、その理念に沿って、理念の実現に向かってなされなければならない。その意味で私たち県民としても、県立芸大の「建学の理念」を確認しておく必要があるだろう。その「理念」は、『平成20年版 大学案内』(『案内』)のトップに掲載されている。段落の番号は、便宜上私が付与したもの。

  (一)日本文化の中における沖縄の地域文化の特性と伝統は、極めて特徴的であり、文化伝統の源流を探り、文化生成の普遍性を究めるために不可欠の内容を持つものである。わけても沖縄固有の風土によって培われた個性的な芸術文化の継承と創造の問題は、日本文化としてはもちろんのこと、沖縄県にとっても重要な課題であるといわざるを得ない。そして、それらを担う人材の育成もまた長い未来への架橋として緊要なことである。
(二)県立芸術大学を建学する基本的な精神は、沖縄文化が造りあげてきた個性の美と人類普遍の美を追究することにあるが、そのためには、地域文化の個性を明らかにし、その中に占める美術・工芸、音楽・芸能等さまざまな伝統芸術の問題に積極的かつ具体的に取り組み、その特性を生かすことでなければならない。このことは、日本文化の内容をより豊かにするとともにひいては国際的な芸術的文化活動にも寄与するものと信ずる。
(三)我が国の最南に位置する県立芸術大学は、東アジア、東南アジアを軸とした太平洋文化圏の中心として、それらの地域における多様な芸術文化の実態と、地域文化伝統の個性とのかかわりを明らかにし、その広がりを追求し、汎アジア的芸術文化に特色をおいたユニークな研究教育機関にしたい。

 (一)(二)では、「沖縄固有の風土によって培われた個性的な芸術文化」の「美」の「個性と普遍性」を追求し、継承し、創造することが、「日本文化の内容をより豊かにするとともに、ひいては国際的な芸術的文化活動にも寄与する」との信念=精神のもとに、県立芸大は建学される、ということが謳われる。そして、(一)(二)を踏まえたうえで、(三)では、日本とアジアの接点、太平洋文化圏の中心に位置するという地域的特性に基づいた「汎アジア的」広がりを持つ「芸術文化」を対象とする「ユニークな研究教育機関」にしたい、というこの大学の方向性が示されている。「建学の理念」を私なりのキャッチコピーに翻訳すれば、「県立芸大を沖縄=アジア・ルネッサンスの拠点に!」ということになる。

  さて、現行の県立芸大では、美術工芸学部、音楽学部、附属研究所のいずれも、この「建学の理念」(および「設置の基本構想」)に基づいて教育研究の任に当たることを『案内』で表明している。だとして創立から二十年が経過した現在、この「建学の理念」は学部構成にどう反映されているのか。

 美術工芸学部は美術学科の下に絵画・彫刻・芸術学の三専攻、デザイン工芸学科の下にデザイン・工芸の二つの「専攻」からなり、「工芸」専攻は染織と陶芸の二「コース」に分かれる。一方、音楽学部は音楽学科の下に声楽・器楽・音楽学・琉球芸能の四つの専攻からなっていて、「琉球芸能」は「琉球古典音楽」と「琉球舞踊組踊」の二コースからなる。修士・博士課程の大学院についてはここではふれない。
 専攻別で見る限り、「沖縄固有の風土によって培われた個性的な芸術文化の継承と創造」に直接関わるのは美術工芸学部で五つの専攻中「工芸」のみ、音楽学部で四つの専攻中「琉球芸能」のみ、全体で見れば九つの専攻中二つしかない、ということになる。学部内、専攻間のコラボレーションがあるとしても、この数はどう見てもさびしい。一般の「芸術大学」が美術系と音楽系の両学部で構成されるのは、「東京芸術大学」の組織に横並びの「常識」かもしれない。しかし、国内どこの芸術大学も同大のひそみに倣う必要はまったくない。ましてや沖縄のように日本の中でも個性が際だつ地域では・・・。だからこその「建学の理念」だったはずだ。

 「伝統芸術学部」の創設と「アジア芸術文化研究所」設置の提案

 それでは、「建学の理念」を学部レベルで総体として担っているのはどこだろうか。「附属研究所」である。『案内』に見る「設置の理念」によると、「開かれた大学を目指し」た「伝統芸術の継承」、「地域個性の美と人類普遍の美の追究」を目指した「伝統芸術の創造発展」、この二本を柱としている。ところが教官構成を見ると、専任は「文化学」「染織」「民族音楽学」の三名のみ。これでは、美術工芸学部・音楽学部との連携を前提にしても、建学の理念を担う二本柱を支えきることは、どう見てもむずかしい。

 次に、上記理念の(三)、すなわち「汎アジア的芸術文化に特色をおいたユニークな研究教育機関」、としての側面はどの部署が担っているのか。附属研究所がその一端をになっていることは『案内』からうかがえるが、「建学の理念」からすればほど遠い活動内容としか思えない。ということは、この目標は未だ全学的・組織的には実現されていないのである。しかし、この(三)にこそ「沖縄県民・沖縄県の精神」ともいうべき「万国津梁の精神」が貫かれているのは明白である。

 言いかえれば、県立芸大は創立20年を越してなお、「建学の理念」に照らして見る限り、組織構成上は「成人」に達していないのである。仮に縮小再生産の「改革」になるとしたら、この「理念」も見直さないといけないことになるだろう。しかし、それを望む県民がいるはずがない。私たちが「沖縄県立芸術大学」を持っていることを誇るのは、その実績もさることながら、まずこの「理念」に基づいている。補足すれば、中黒「・」で繋がれた県立芸大「附属図書・芸術資料館」も、体制と機能、資料の拡充が求められる。

 本論にもどろう。公立の「芸術大学」として「美術(工芸)学部」と「音楽学部」を併設するのは当然であろう。しかし、「建学の理念」に明記されている「沖縄固有の風土によって培われた個性的な芸術文化」を端的に示す「美術・工芸、音楽・芸能等さまざまな伝統芸術の問題に積極的かつ具体的に取り組み、その特性を生かす」ために、そして「沖縄文化が造りあげてきた個性の美と人類普遍の美を追究」し、継承し、創造するためには、20年の節目を越えた今、明確に「伝統芸術」の「継承と創造」を謳いあげる「伝統芸術学部」を創設すべきである、と私は考える。学科名は「伝統芸術学科」とし、専攻は美術工芸学部から「工芸」を移し、「漆芸」コースを加える。次に音楽学部から「琉球芸能」を移し、(「琉球古典音楽」を含む)「琉球・沖縄音楽」、(「琉球舞踊」「組踊」を含む)「琉球・沖縄芸能」の2専攻とする。そして、「民族芸術学」「民族音楽学」「民族芸能学」「沖縄芸術文化論」などが含まれる「伝統芸術学」を加えた四専攻で新学部を構成する。現在の附属研究所の教育研究機能はここに移す。
そうすると附属研究所はどうなるか。そこで提案したい。

 建学の理念の(三)を設置理念に据えた「アジア芸術文化研究所」に衣替えさせるのである。この研究所を拠点にして県立芸大を、「汎アジア的芸術文化に特色をおいたユニークな研究教育機関」とすることによって、アジア芸術文化間の「架け橋」となることを目指そう、ということだ。3学部と新しい研究所の間の緊密な交流・連携が実現すれば、「日本文化の内容をより豊かにするとともにひいては国際的な芸術的文化活動にも寄与する」ことが一層期待できる。ちなみに、京都市立芸術大学の理念3本のうちの三つめは、「 地域社会と連携しつつ、文化首都・京都の特質を活かした国際的な芸術文化の交流拠点となること」となっている。

 私が言いたいのは、現在の美術工芸学部や音楽学部が「建学の理念」を生かしていない、ということではない。その理念をさらに活かすための提案である。県立芸大の夢はそのまま県民の夢である。また、県民の夢をこの大学に託したい。あらためて訴えたい。沖縄県立芸術大学を沖縄=アジア・ルネッサンスの拠点に! この所論を機に、一人でも多くの県民が県立芸大への期待と提案を公開してくれることを願ってやまない。「県民に開かれた」「私たちの大学」を創りあげていくために・・・。 


                                                                                  (「琉球新報」08.8/29.30)
 

窪徳忠先生と沖縄研究

2012-06-22 11:34:22 | Weblog
 「道教」研究の碩学として知られた東京大学名誉教授・窪徳忠先生が亡くなられたのは、2010年10月2日。97歳で天寿を全うされたが、先立たれた奥様と再会されてからすでに2年余が過ぎたことになる。

先生に初めてお目にかかったのは、私が東大文学部宗教学・宗教史学専攻に籍をおいていた頃で、紹介してくださったのは、主任教授の堀一郎先生であった。時に1969年、「東大紛争」の余韻が残る時期である。その後断続はあったものの、奥様ともども40余年のご厚誼をいただいた関係上、先生の訃報に接した時は万感胸に迫るものがあった。葬儀には、当時の南島研究所長の上原静氏、専任所員の崎浜靖氏とともに参列させていただいた。以下の文章は、参列に先立ってしたため、ご霊前に奉献した文章に若干の加筆・修正を施したものである。

ところで、本誌を借りて先生のご業績の一端を紹介しようというのは、私が大学卒業後の1973年に沖縄県立博物館の工芸担当学芸員として職を得て以降、「宗教研究」から離れて今日に至っている立場からすれば、荷が重い話であり、不遜とすら言えよう。とはいえ、先生の沖縄調査で運転担当をはじめとする「お手伝い」をさせてもらい、その間に先生からお聞きし、垣間見た調査研究の方法や内容、いただいた論文やご高著の記述、そして知り得た先生のお人柄まで、思い起こせば私にも何か書けることがあるかも知れない。それが執筆の動機である。

先生のご研究の柱と業績はいくつもあろうが、その中でまちがいなく重要なテーマの一つが、「中国文化からみた」「沖縄の民間信仰」である。この一文をしたためる主因であるが、まずは、私が理解できる範囲での先生のご研究の概要について触れさせてもらいたい。
 
 さて、「道教」と言えば、すぐに老子や荘子の「老荘思想」を連想される方が多いと思う。しかし、台湾を含む中国文化圏においては、道教の「神々」を祀る多数の「廟」があり、参詣者が絶えない。いいかえれば、道教とは中国においてはまず「宗教」なのであり、先生のお説によれば、「儒教については、宗教とみる説と、そうでないとする説との両説があるので、これを別にすれば」「中国人のあいだからおこった唯一の宗教」(『中国宗教における受容・変容・行容』、1979年、山川出版社。以下引用はすべて同書)なのである。

先生が着目されたのは民間で信仰される道教の内容、その歴史や実態である。調査・研究の範囲は、中国から日本、琉球・沖縄、台湾、東南アジアまで多岐にわたる。先生のご研究の方法は、一貫している。漢文史・資料と研究史の渉猟、徹底したフィールドワークに基づく「実証的な調査」、および「比較研究」がそれである。
 
 略歴をひも解くと、先生が東京帝国大学(現東大)文学部東洋史学科をご卒業なされたのは1937年。その後、兵役召集、東方文化学院研究員、東京大学東洋文化研究所研究員を経て、1949年に東洋文化研究所助教授に着任された。この当時の研究上の主要なご関心は「中国宗教」、特に道教の日本における「伝来」であり、まず注目したのが「道教的にいえば三尸(さんし)説、日本流にいえば庚申信仰であった」。ともに「長生」を念じる人々の間で流布する民間信仰だが、先生は日本のそれを中国からの「受容と変容」で解釈されたのである。とはいえ、お説を詳しく説明をする紙数の余裕も能力もない。この分野の調査研究成果については、第一書房刊『窪徳忠著作集』(全9巻)中の『新訂 庚申信仰の研究』(上・下・年譜編・島嶼編の4巻)に譲ることにしよう。

若干追記するならば、先生のご研究の根底にあったのは、まずは庚申信仰を「日本固有」としたうえで、そのような「固有」の「民俗」に調査研究を限定する柳田國男の民俗学に対する批判であった。そして、柳田・折口信夫の流れを汲んで、日本の「古俗」や文化の「源流」を沖縄に求めようとする余り、中国や東南アジアなど周辺地域との「比較研究」がおろそかになりがちな従来の「沖縄学」の潮流に対する懸念があった。

「源流」や「伝来」、あるいは「ルート」の研究の前提になるのは、文献とフィールドの両分野からする「分布」の広範かつ精密な調査である。日本における庚申信仰の分布を精力的に調査される一方で、伝来の経路として先生がまず想定したのは朝鮮半島経由、続いて沖縄経由。前者については「道教の信仰や三尸説が、土着の信仰や習俗とふかく習合しながら、人々に受け容れられていることがわかった」。

初めての「南西諸島」調査は、沖縄がまだ米軍の直接統治下にあった1966年7月のことであった。先生の「身元引受人」は、琉球大学の学長も務められた動物学の高良鉄夫教授であったと聞いている。その後の度重なる調査の「中間報告」が大著『沖縄の習俗と信仰』(1971年、東大出版会)であり、その「増補新訂」版を私たちは、上記著作集第4巻(1997年)として入手できる。沖縄調査で先生は、「三尸説や庚申信仰の片鱗すらみいだすことができなかったけれども、道教関係の信仰は、朝鮮半島の場合と同様に、土着の信仰と密接に習合し」、「信仰や習俗として人々に受容されていた」ことを知る。

先生の沖縄研究の成果を、一般にも手に取りやすく、わかりやすい文章で書かれたのが『中国文化と南島』(1981年、第一書房)、『沖縄の民間信仰―中国文化からみた』(1989年、ひるぎ社)、『目でみる沖縄の民俗とそのルーツ』(1990年、沖縄出版)である。
これらの本から私たちは、身近にあるシーサーや石敢当、台所で見られるヒ(火)ヌカン(神)、ウチカビ(打紙)と呼ばれる紙銭、ウサンミと呼ばれるお供え物、あるいは木造屋根の棟木に書かれた「紫微ラン駕」、屋敷門の突き当たりに設置されたヒンプン、トゥーティークン(「土帝君」)と呼ばれる土地神、さらにはお墓の左(向かって右)に在するフィジャイと呼ばれる神、などが中国の民間信仰に由来するとともに一部はアジア各地に伝わり、しばしば「変容」を遂げながらそれぞれの地で「受容」されたことを知らされる。

外来の宗教、広く外来の「文化」が、当該地域に「伝播」し、受容されるにあたっては、受け入れる側の取捨選択が働くとともに、土地の事情や習俗に合わせた「書き換え」がなされつつ受け継がれていく、あるいは消えていくというのが、文献と地域を広い範囲で調査され、深く研究された先生の実感であり、結論であった。繰り返すことになるがそれは、文化における「固有」とは何か、を鋭く問う提起でもあった。沖縄とて例外ではないのである。先生のご功績は、得られたデータと研究・考察の範囲にとどまらない。その方法論やスタンスにおいてもまた、得るところ大であると私は考えている。
ここでの記述は先生の沖縄研究における成果に比重を置いたが、ご研究の総体を概観したいという方は、著作集の他の巻、すなわち第6巻『東アジアにおける宗教文化の伝来と受容』、第7巻『道教と仏教』、第8巻『道教とアジアの宗教文化』、第9巻『奄美のカマド神信仰』にも眼を通していただきたい。全9巻の構成とタイトルを見るだけでも、先生のご研究の範疇と範囲と方法、すなわち業績と功績の全般をうかがうことができるはずだ。

先生の論文や著作の末尾あるいは序文に、例外なく添えられる文章があった。その一例。「諸篇は、手を加えたとはいうものの、あくまで中間報告にすぎない。解決をのちに残した点も多く、考えも十分に熟していない。資料の見方も不足であり、独断、曲解も多いであろう。このような多くの欠点を承知しながら、あえてこのような形で発表するのは、ひとつには、博雅の示教をえて、将来の私の研究続行の指針に資そうと思ったために他ならない。お気付きの点について、細大となく御指摘いただければ、まことに幸いである。」
博雅の先生にしてなお、この謙虚さ・・・。若い研究者たちには、研究の姿勢と態度においてもまた、先生から得るところが大きいだろうと考えるのは、私の「老婆心」がなせる業か。

先生は、調査研究と並行して東大東洋文化研究所長や日本民族学会(現文化人類学会)会長、日本宗教学会理事・評議員、日本道教学会発起人・理事・評議員、など学界の要職にも就かれたが、沖縄研究関係では南島史学会の会長・理事・評議員としてその運営にも携われた。もうひとつ特筆されるべきは、沖縄国際大学に浄財とご蔵書7800冊を寄贈されたことだ。同大学は、これを契機にして1996年に「窪徳忠琉中関係研究奨励賞基金」を創設、先生を審査委員長として多くの若き学徒が表彰され、先生亡き後も継続していると聞く。とはいえこの分野ではこれ以上、先生の業績をくわしく紹介する字数もないし、任とも思えない。

一言付記すれば、私にとって最後の職場となった那覇市立壺屋焼物博物館の開館にあたって、先生が参考図書購入費用の一部にと祝い金を贈ってくださり、ありがたくお受けしたことがある。それも今だから、ここでなら活字にできるし、公開したいと思う次第である。

最後にご尊顔を拝したのは、10月8日の告別式会場であった。このとき、先生のご身体は献花できれいに飾られたのだが、「俺の柄じゃないよ」と、いかにも恥ずかしそうにしておられるように見えて、涙をこらえることができなかった。心残りがなかったはずはないが、少なくても沖縄研究については、「やったよ、渡名喜君」と話しかけてくださっているようにお見受けした。

あらためて振り返ってみると、先生のご長命は「道教の神々」からのプレゼントのようにも受け取れるのだが、先生が選んだ菩提寺は奥様の縁故もあって浄土宗のそれであり、ご住職の「引導」によって渡ったのは、阿弥陀如来のまします「極楽浄土」であった。今頃は浄土で、阿弥陀如来から「聞き取り調査」でもなさっておられるのだろうか。道教と仏教の比較研究においても精力的であられたようだから、先生が「彼の地」において調査を継続しておられるとしても不思議ではない。それどころか、今となってはあたりまえのようにすら思えてくるのである。(2013.2.10)

柳は緑 花は紅

2012-06-22 11:20:37 | Weblog
 「古典女踊り」の「柳」は、琉歌2題に三線の伴奏で踊られる。演目のタイトルは、歌の2題目

 柳は緑 花は紅 人は唯情 梅は匂い

の「柳は緑」にちなむ。

 上句の「柳は緑 花は紅」は7・7、続く下句「人は」以下が8・6となっている。琉歌の歌形8・8・8・6と一部違っているのは、琉球の知識人にも親しまれた和歌の五七調を意識していて、「柳は緑 花は紅」が輸入された和語であることを示している。

 私の理解では、歌意はいくつか考えられる。まず「柳は緑(そのまま) 花(牡丹)は紅(そのまま) 人はただ情け(そのまま) 梅は(その)匂い(そのまま)」、というもので、「あるがまま(でいい)」というニュアンスになる。次は「比較級」にあたる解釈で、「緑は柳がいい 花は(牡丹の)紅がいい 人は情けに限る 梅の良さは何といっても匂いだ」として、それぞれの持ち味を評価するもの。3つ目は「緑はなんと言っても柳の緑 紅はなんと言おうと(牡丹の)紅 情けこそ人の本性 匂いは梅に勝るものはない」という「最上級」の評価。

 「柳は緑 花は紅」の対句は、北宋の詩人蘇軾(1037-1101)の「柳緑花紅真面目」に見える。「真面目」は「しんめんもく」と読まれ、「ありのままのすがた。本来そのままのすがた」(『新字源』)の意である。『広辞苑』では「本旨。趣旨」とする語釈がそれであろう。禅の世界で引用されることで知られていて、蘇軾は禅や禅語に親しむ環境にいたようだ。

 日本の場合で言えば、たとえば禅僧・一休和尚の歌に

 見るほどに みなそのままの 姿かな 柳は緑 花は紅

 禅僧・沢庵和尚の歌に

 色即是空 空即是色 柳は緑 花は紅 水の面に 夜な夜な月は通へども 心もとどめず 影も残さず

 がある。

 いずれの歌も、「(結局)柳は柳のまま、牡丹は牡丹のまま」ということで、他と比較せず、おのれを主とせよ(随所に主となれば、立処皆真なりー臨済)という禅の思想に通じる。その文脈からすると、上記琉歌の解釈は1番目が近いということになる。『琉歌全集』における島袋盛敏の解釈がこれ。しかし、柳や牡丹、梅の枝を採物にして踊るあでやかな女踊りからすると、禅的な解釈は逆に説教じみておもしろくない。せめて2番目の解釈、できれば強引の感はあるが3番目の最上級の解釈を私はとりたい。多様な解釈ができるところに、文学の「真面目」がある。

(『芸道40周年記念高嶺久枝の会ー琉球芸能の源流を探る』(同会編集・発行、09.12)

<補注>
1.岩波『仏教辞典』では、「禅宗において、悟りの心境とはどのようなものかを示すときに好んで用いられる語句」として、「緑の葉や赤い花という何の変哲もないありのままの自然を示すことにより、悟りは日常生活そのものの中にあるとする禅宗の立場を端的に言い表している」と説明している。同辞典では南宋初期(13世紀)の禅僧道川の語句「目前に法無し、さもあらばあれ、柳は緑、華は紅」を紹介している。
2.同辞典は謡曲「放下僧」のセリフにもこの語句があることを紹介している。岩波日本古典文学大系・謡曲集下からその前後を添えて引用しよう。「されば大小の根機を問わず、持戒・破戒を選ばず、有無の二辺に落つることなく、皆成仏する例あり。かるがゆゑに草木も法身の姿を現はし、柳は緑花は紅なる、その色々を現はせり」。

大嶺實清陶芸展に寄せて

2012-06-22 11:14:29 | Weblog
 大嶺實清を評するに、まずは職人そのものであるというと、沖縄県立芸大の教授・学長を務めた陶芸界の大御所を指す言葉かと、いぶかる向きもあるかもしれない。しかし、天久新都心にある「ギャラリー宇(そら)」で開催中の個展トップに置かれる二段角型酒注を一目見れば、誰しも彼の並々ならぬ「職人芸」に瞠目するに違いない。二年程前になろうか。久しぶりに彼の工房を訪れたとき、彼はロクロに向かって何十個もの湯飲みを引いているところだった。改めて普段着の彼を見た思いがした。その彼をわたしが知ったのは三十年以上も昔、彼が首里石嶺に登り窯を築いて間もないころだった。当時の彼の作品はすべて、壺屋のそれかと見まがうような日常雑器だけだった。そこには、きわめて「アート性」の強い近年の作品群を予想させるものは見あたらなかった。

 その後の彼が職人の域に止まらなかったのは、「壺屋焼」にこだわりながらも、「沖縄の伝統」を探るのにそれ以前、あるいはそれ以外に射程を拡げたところに示されている。行き当たったのが、八重山新城島でつくられた「パナリ焼」と呼ばれる土器である。彼が工房の若手たちと無人の島に渡り、その復元を試みた映画を見たことがあるが、彼の土・焼き・器へのこだわりとアプローチの仕方は、研究者のそれと変わらない。このとき、琉球列島の焼物の原点、モノづくりの原点としての島々の自然、に立ち到ったという実感が、彼の胸中を去来したのは確かだと思われる。

 原点に立っておのれの陶歴を振り返ったとき、学生時代に志したアートの世界がふたたび彼の眼前に現れて来た、というのはわたしの勝手な想像だが、その後の作歴をたどると、まんざら的がはずれているとも思えない。目指したのは「クラフト(工芸)のアート(美術)化」だろうが、その過程は「アートのクラフト化」と並行するものであったと推測される。強引にクラフト=日常(俗)、アート=非日常(聖)と範疇化すれば、彼の陶芸は「日常の非日常化」、「非日常の日常化」を同時に試みることであったのではないか。その意味で、クラフトとアート、日常と非日常、俗と聖の結節点に位置する抹茶碗が、酒注やオブジェ作品と並べて展示されているのは象徴的である。

 大嶺實清の試みはまさに「弁証法」的であり、それゆえに終わりがない。若手陶芸家を育てるという意味で優秀なオルガナイザー=組織者である大嶺は、弁証法的な実践と提案を続けているという意味でまた、先端を行くオルガナイザー=挑発者でもある。

                               (「琉球新報」    )

彩度の白、明度の白ー黒田泰蔵の白磁(「琉球新報」06.7.29)

2012-06-22 11:10:09 | Weblog
 <白>の魅力は、色であって色でないところにある。

 白が<色>になるのは、他の色が備わったときだと言ってよいのかもしれない。島の娘たちは「無垢の白」を織物の素地の色で表し、愛の濃淡を藍染めの濃淡にたとえて詠った。

 浅葱(アサヂ)頼(タヌ)ダクトゥ紺(クン)染(ズ)ミハ染(ス)ミティ ワンチャメティタボリ元(ムトゥ)ヌ白地(シルヂ)

 浅めに染めてくれるよう頼んだのに、私をこんなに色濃く染めてしまって・・・、今さらのようではあるが元の「白地」に戻してくれ、というのである。しかしよそ目で見れば、藍に染まった後に「素地=無地」が「白」地に変わったことを悟るのは、悪いことではない。「色」の世界を知ったのだから。

 白はどの色とも合うと言われるのは、白が他の色をよりいっそうその色らしく見せるからである。逆にいえば、どんな色も白をさらに白らしくする。そういえば、藍色の濃淡を白地に表して磁器の評価を世界に高めたのは、中国の「染付」であった。

 それでは黒田泰蔵の「白磁」はどうなるのか。わたしたちがイメージする白磁は、白の素地に透明の釉薬(うわぐすり)がかかったものだ。ところが黒田のメインは、「素地」をそのまま焼き上げた作品群である。「他の色」もなければ、もちろんつやも模様もない。紙のように白いが、紙ではない。だとすれば、黒田の白磁を「白く」するのは何か・・・。<光>であり、<明かり>である。はじめに回り道をしたのは、このことを言いたかったからだ。ここで話は「彩度」から「明度」に移る。

 光や明かりは、黒田の「無垢の白」をより白くする。形に「陰影」=表情が添えられることで、白がいよいよ白くなる。影が「灰色」かどうかは今は問わない。光がつくった白の変位というべきだ。黒田の白に形を与えるのが彼の卓越した技量であることは言うまでもないが、光や明かり抜きでは白は姿を見せない。「姿」の古語が「かげ」であることを思い起こそう、「面影」、「チュラ・カーギー」・・・。字数が尽きた。そこで一言。

 ギャラリーにおける採光や照明は、ディスプレーの才覚と並んでそのギャラリーの死命を決する。だからこそ白磁の展示はむずかしい。その意味におけるギャラリー「宇(そら)」の力量と展示空間をあわせて体感してもらいたい。そんな展示会にもなっている。

                       
         

「沖縄県立博物館・美術館」の開館に思うー「博物館・美術館」とは何か

2012-06-22 10:56:37 | Weblog
「博物館」と「美術館」

 いつでもどこでも、博物館や美術館の前に立つと私は、心がざわめき、気持が高ぶってくる。いろいろな「もの」との出会いや語らいが待っているからだ。そこに展示された「もの」は、それぞれの「表情」を持っている。その表情を、どのように「読み取る」ことができるかは、館の性格や各々に蓄積された知識、磨かれてきた感性によって違ってくる。「もの」の表情を「読み」、その「語り」を「聞く」ことができるためには、それなりの「学習」が必要だ。博物館や美術館はそういう訓練の場でもある。その訓練をおのれに課してきたこの間の経験が、今の仕事にプラスしている。

 展示された「もの」は、出処を訊ねればわれわれの周りに配置されているか、されていたもの、あるいはそこで生まれたものばかりだ。言い換えれば、われわれを取り巻く自然や社会が、そのまま生きた博物館であり、生きた美術館である。そしてわれわれは無意識のうちに、そこに配置された「もの」が発信する情報を「読み」、そこに「美」を感じている。それら(の一部)を学術的に体系化して、コンパクトに提示するのが博物館や美術館であって、自然や社会と、博物館や美術館をつなぐのがもう一つの「学習」であり、「教育」であると私は思う。「もの」が発信する情報をいかに深く「読む」か。「書」を「読む」ことにくらべて優劣をつけることはできないはずだが、残念なことに日本では、図書館ほど博物館や美術館は一般に親しまれていない。

 そこには、「読み・書き・そろばん」の伝統を引く「国語」と「算数」が教育の中心であって、文明開化に伴うテクノロジー進展の機運が「理科」という科目を生み、戦後になって人権尊重の歴史的流れで「社会科」が誕生したという教育史的背景がある。情報の入手や蓄積、交換の手段を独占する立場にあった支配階級に求められたのが「文字」や「数字」の「知識」であり、「もの」や「わざ」、「芸」に携わる農漁業や諸職、音楽・芸能などの「身体」に関わる領域は、「職人芸」に属するものとして、明治以降も教育上は「その他」の位置しか与えられてこなかった。

 日本における国立の博物館が、「宝物館」的発想や「文化財保護」思想をベースとして誕生したのは明治以降、国立の美術館が「近代(西洋)美術」を対象として博物館から分立したのが戦後も1959年という歴史の短さが、博物館に対する偏見や無理解、美術館に対する認識の浅さを生むもう一つの要因となっている。
 あらためて考えてみたい。いったい、<博物館>と<美術館>は本来どこでつながり、どこが違うのか。日本における公立の博物館や美術館を設置するにあたって指針とされる「博物館法」は、<博物館>を次のように定義している。「歴史、芸術、民俗、産業、自然科学等に関する資料を収集し、保管(育成を含む。以下同じ。)し、展示して教育的配慮の下に一般公衆の利用に供し、その教養、調査研究、レクリエーション等に資するために必要な事業を行い、あわせてこれらの資料に関する調査研究をすることを目的とする機関」である。人間と自然の営みに関わる物的資料を対象とし、核とする研究と教育に従事するのが広義の<博物館>であり、その中には美術館や動物園、植物園なども含まれている。共通するコンセプトは「教育的配慮」が施され、「一般公衆」のために開かれた「機関」だということだ。

 この定義は『広辞苑』も踏襲しているが、いずれも欧米のmuseumを意識したものであることはまちがいない。たとえば「大英博物館」の公式名称はThe British Museum、「ルーブル美術館」はMusée du Louvre、印象派の展示で知られる「オルセー美術館」はMusée d'Orsayであって、いずれもmuseumである。欧米と違って日本では、博物館がデパートだとすれば、美術館はその一角あるいは外郭を形成する専門店といったニュアンスの違いがある。

 ところで、museumという語は、ギリシャ神話の学術・芸術の女神Musa(英名Muse)にちなむとされ、「ムセイオン」museionを語源とする。その意味は「ミューズの神殿」であって、要するにmuseumは本来的に「知と美の殿堂」であったのだ。そして、「知と美」のありかと行方を問うのがフィロソフィーphilosophyであり、この学問は諸学の一つでしかない日本の「哲学」とは違って、諸学を基礎づけ、包括し、統括する「学の中の学」であった。学術と芸術が対等なものとして認識され、女神ミューズを戴き、フィロソフィーで理論武装するという構図は、「現実主義」と「実利優先」がはびこる今日の日本・沖縄において、ひときわ再認識・再確認が求められていると思う。                                                                                      

 「博物館の展示」、「美術館の展示」

 新館に入るとロビーをはさんで、左側に首里にあった旧「沖縄県立博物館」のスタッフと資料を引き継ぎ、従来の展示を拡充する形で開かれた「沖縄県立博物館・美術館の博物館」(以下「博物館」と記す)があり、右側に「沖縄県立現代美術館」構想のもとで資料が収集され、新たに組み立てられた展示構想によってオープンした「沖縄県立博物館・美術館の美術館」(以下「美術館」)がある。

 「博物館」の常設展示は、日本の南、アジアの東に浮かぶ島嶼群の「風土、自然の中で育まれてきた沖縄の歴史、文化を人類史、自然史の流れの中で位置づけ、海と島に生きていくことの普遍的な意味を問う」として、「海と島に生きる~豊かさ、美しさ、平和を求めて~」をメインテーマとしている。この主題=理念はきわめて明快で、的確だと私は思う。理念が明確であればあるほど、展示の質は高まる。その質を保証するのが収集資料の量である。新しい常設展示は、前身に遡れば六十余年の歴史を持つ諸活動の成果が一気に開花した趣になっているし、開館記念特別展「人類の旅ー港川人の来た道」も、上記理念を敷衍した力の入った展覧会となっている。

 一方「美術館」は、特別展「沖縄文化の軌跡 1872-2007」を開くに当たって、常設展スペース、企画展・ギャラリースペースのすべてを使いきっている。ということは、その内容が特別展終了後に開示される「常設展」の方向性を示しているということだろう。図録では展覧会の趣旨について、「自明な事象を再度検証しつつ、(近代以降の)沖縄文化とは何か、沖縄の表現とは何か」を、「現在から過去を問う」形で展開する、としている。ジャンルで言えば、「絵画・彫刻・建築・工芸・文学・音楽・舞踊・演劇・デザイン・映像その他の表象文化」となっていて、従来の美術館の展示のイメージをはるかに超えている。そしてその分、挑発的であり、刺激的である。

 現在、全国どこの博物館や美術館においても従来とってきた「見せてあげる」「教えてあげる」という一方通行で、固定的・静的な展示スタイルが問い直されている。新しい方向として、「もの」と「もの」の行間を埋める多様な方法の模索と併行して、「問いかける」、「共に考える」、「共に創る」スタンスに移りつつあるように見える。新しい「博物館」や「美術館」もそうしたことは重々承知していて、随所にスタッフの苦心と工夫の跡が見える。

 「もの」自体に語らせる工夫と、「もの」と「もの」の行間を埋める作業の質は、資料収集の実績と学芸スタッフの調査研究のレベルに負うところが大きい。その意味では、決して長くはない準備期間と、開館準備に携わるにしては気の毒という他言いようのない最少のスタッフが、「博物館」とは違って実績と蓄積のない「美術館」づくりに向けて、関連する調査研究と、それに併行する資料収集、展示構想づくりから展示作業の実務、普及・広報活動、関連イベント開催準備から重厚な図録づくりまでこなしきったことに、心からの敬意と賞賛の拍手を送りたい。

 ところで、「博物館」と「美術館」の展示スタイルは、並べて見ると共通点と相違点が共に見えて、きわめて興味深い。博物館の展示スタイルにおいては、「もの」と「もの」をつなぐストーリーの展開はどこまでも「学術的」であり、堅実である。その分、展示の流れが平板になりやすく、その意味で「教科書的」になりがちである。とはいえ、「実証性」が基礎になるからこそ、「教育的効果」が上がり、信頼性も高まる。
 一方、美術館の場合、「学術的」であることは必要条件だが、「もの」と「もの」の行間を埋めるのではなくそれらの「断絶」を示したり、「もの」の「沈黙」を提示することも可能だ。その分、館側の「学術性」とともに、今、「美」とは何か、を自問し、自答する「思想性」が問われて来る。表現された「もの」は、制作者とその時代の思潮・思想を反映している。その「思想性」をどう読み解き、展示し、観覧者に問いかけるか。ひとえに館の理念と学芸スタッフの資質にかかってくる。

 たとえば、「美術館」の特別展のプロローグとエピローグをつなぐ、「あたまにものをのせるのはかっこわるいことか?」という島袋道浩氏の作品。作者は、観覧者に「頭上運搬」の体験を提案し、鏡に向かわせておのれの姿の「かっこよさ」、「かっこわるさ」を「見せる」。よいか悪いかを決めるのは作者ではなく、体験者本人。エピローグでは沖縄や韓国の路上で見られる頭上運搬の連続映像を提示する。この場面では言ってみれば、作者も、体験者も、館側もどこからどこまでが「作者」であり、「作品」なのか、「範囲がわからない作品」となっているのである。「あなたと私とみんなと美術館」が作者で、あなたは「作品づくり」に参加するとともに「作品」そのものとなっている、・・・?。そこに、この作品を採用し、展示する館側の美術観=思想性のひとつがあるのだろう。

 この展示手法は、いかにも現代の美術館ならではと思われる。現在の博物館ではこのテーマにおいて、頭上運搬の「体験学習」は提案できても、「作品」とすることはできないはずだ。ちなみに、「博物館」の部門展示「沖縄の伝統とくらし」では、奄美・沖縄における頭上運搬と背負う運搬の分布地図を掲示している。
                              
 「博物館・美術館」というネーミング

 ところで、新館の名称「沖縄県立博物館・美術館」における<博物館>と<美術館>の間にはさまれた中黒「・」は、何を意味するのだろうか。「沖縄県立博物館」「と」「沖縄県立美術館」の併称だとすれば、紛らわしい表現とせず別々に記載すればいい。そうすれば「沖縄県立博物館」の歴史と伝統は名前の上からも生き延びるし、「沖縄県立美術館」は誕生したことになる。ところが、新館が存在する法令的根拠となる「沖縄県立博物館・美術館の設置及び運営に関する条例」を読む限り、そうではない。

 新館は、「沖縄県立博物館・美術館」という名称を持つ「(教育)機関」として設置され、「博物館施設」と「美術館施設」及び「その他の施設」から構成される。すなわち、旧「沖縄県立博物館」は「機関」から「施設」に格下げされて名称を失ったまま身体だけが生き延び、論議されてきた「沖縄県立(現代)美術館」も同じく「施設」に格下げされて、身体のみ誕生したことになる。要するに、「沖縄県立博物館」は維持できなくて、「沖縄県立美術館」は設置できないことを示す「苦肉」のネーミングでしかないのである。

 そもそも中黒「・」は、外来語のカタカナ表記で使われるか、文章表現上「軽い」並列を示す程度の記号であり、機関の名称に付すほどの重みはない。この記号の付与には、1(博物館)+1(美術館)=1(博物館・美術館)という意図的な誤算=カラクリ、あるいは強弁が見え隠れしていて、<博物館>や<美術館>の意義と歴史に対する県当局の無理解ないし軽視がうかがわれる。辞書にもないような紛らわしい、その意味でいかがわしく、全国に例のないこの「新語」は、どうやら県の「行財政改革」の結果、建物を一つにまとめ、事務部門の大半を統合する必要から生まれたらしい。そうだとすれば、行政当局の思い上がりもはなはだしい。旧「沖縄県立博物館」は言うまでもなく、新しく生まれるべき「沖縄県立(現代)美術館」ですら、数多くの県民の献身的な協力なくして、維持・発展や誕生は不可能であったはずだ。貴重な美術品を寄贈した人たちのなかには、「沖縄県立(現代)美術館」の開館に期待して協力した人が多いのではないだろうか。

 すでに述べたように、日本における博物館や美術館の歴史はたかだか百年余りで、今のままでいい、という訳でもない。この度生まれた「沖縄県立博物館・美術館」が、日本における旧来の<博物館>や<美術館>の自足的なイメージを払拭し、両者を隔てた溝を埋める新たな提案をするというのであれば、趣旨には大いに賛同したい。繰り返すことになるが、「沖縄県立博物館・美術館」の「博物館」や「美術館」は、それぞれがこれまでにない意欲的な試みや提案をいくつも行っている。しかし、ロビーをはさんだ二つの「施設」は<博物館>として、また<美術館>としてどちらも果たさなければならない課題が少なくないように見える。日本における新たなmuseum像の提示を、全国に先駆けて求めるのは、現時点では酷でさえある。陣容だけ見ても、他県の独立した博物館や美術館に遠く及ばないのである。

 今のところ、「沖縄県立博物館・美術館」の「下」に「博物館施設」があり、「美術館施設」があるという名付けや性格付けが、さして問題視されているようには見えない。しかし、新聞紙上で「博物館」や「美術館」を論ずる執筆者たちから記者まで、苦し紛れ(?)で「県立博物館」とか「県立美術館」と書いているし、現「博物館・美術館」の印刷物や展示キャプションの一部にも、「沖縄県立博物館・美術館」と「沖縄県立博物館」が併記される場合があり、「県立美術館」と記されているものもある。いずれの場合も、「沖縄県立博物館・美術館の博物館(美術館)」と記そうものなら、読者や観覧者が混乱するのをはばかってのことと思われる。この種の「混乱」は、今後も継続して生じる可能性があり、それが県内外の誤解を招く恐れもある。

 新館の展示や企画が、今後の学校教育や生涯学習、文化振興や観光振興などに大いに寄与する可能性を秘めた高いレベルにあることに比してこのネーミングは、「沖縄県の品格」を示すどころか、疑わせるものとしか思えない。組織(機関)の名称は単にその「機能」だけを示せばいい、というものではない。いわば、その組織の特徴と「品性」を直截に表すシンボル的意味合いがある。組織の統合の「必要性」は、言ってみれば時の行政内部の問題であり、行政内部の論理が一般の常識や感覚、期待にそぐわないことがあるのは、「永田町」の例をまつまでもない。

 新しくできた「沖縄県立博物館・美術館」をベースにして、伝統ある「沖縄県立博物館」の復活と、「沖縄県立美術館」の独立を名実ともに果たすか。あるいは一躯二頭のヌエ的な名称を破棄し、日本における<博物館>と<美術館>の間にある壁を取り払う画期的なmuseum像を、明快な理念=フィロソフィーによって提示するとともに、ふさわしい陣容を揃えたうえで、県民の叡智を結集して「沖縄の知と美」のありかと行方を示す新たな殿堂の公称を探り出すか。二つのうち一つを選ぶかしかないと私は思う。

                                                                        
(「琉球新報」08.1.10/1.12/1.14 )