今で言う「教育」に当たる言葉は、江戸時代だと「読み・書き・そろばん」であった。「読み・書き」とは『論語』あるいは「文字」を読み書きできることを指し、「そろばん」とは数字の読み書き・計算ができることを意味する。文字と数字を扱う訓練が教育であったが、その後の近代教育もこの線を踏襲して現在に至っていることは確かだ。しかし、この路線には大きな欠陥があった。「読み・書き・そろばん」的発想には、文字と数字を重視する余り、教育とそれを支える研究の情報源としてもう一つ大事なものがあることを見失わせる危険性があるからだ。
もう一つの重要な情報源とは何か。「もの(物)」である。まずは、私たちの「身体」からして「もの」である。身体は、科学の対象としては医学や生物学が扱い、美術の対象ともなる。私たちの周囲を巡らしているのも、食物や道具から建物、植物から動物、そして地球から無数の星まで、すべて「もの」である。
これらの「もの」の世界を、人間の世界も含めて統一的に把握・解釈するために、言葉・文字・数字が生まれたのはまちがいのないところだろう。文字と数字の発明が、人類の大いなる進歩に寄与してきたのも確かである。とはいえ、「もの」抜きに私たちは片時も暮らすことはできないのも事実だ。ところが、日常生活において「もの」をつくったり、収穫したりする人たちは農民や職人であったり、漁師であったりで、歴史的に見ると、残念ながら社会的にはけっして上位に属する身分ではなかった。しかもそれに加えて日本の近代化が、「文明開化」「和魂洋才」のスローガンのもとに、古来日本人が数千年にわたって築き上げてきた「技」とその遺産を廃棄し、欧米のそれらを移入することに性急であったため、近世以前と近代以降の間に深い溝が生まれてしまった。
「読み・書き・そろばん」に偏った結果、日本における教育の場が教室と図書館(室)をほとんど離れなることができなかったことが、「もの」を教育と研究の情報源とし、その価値を主張してきた博物館に対する評価を高めることのできない環境をつくり、許してきたことの大きな要因である。最高の教育研究機関である大学においてすら、教育・研究のため収集した貴重な物的資料を研究室や廊下に山積みして、大学や社会全体のために公開しないのが通常である。「大学博物館」をつくって学内・一般に公開すれば、大学教育・生涯教育の進展にどれだけ貢献できることか。一歩進んで、高校以下の学校にも博物館があればこんなすばらしいことはない。まだ例外的だが、壺屋小学校には空き教室を利用した「焼物博物館」がある。地域の歴史・民俗資料を収集・展示している学校もあると聞く。
大量生産・大量消費の20世紀から、省資源・節約型、リサイクル重視の21世紀へ。「もの」を産み、使う視点の大転換、「もの」を後世に大事に残す視点の再確認が今ほど求められている時代はない。そんな時代に、博物館が果たすべき役割はいよいよ重い。
沖縄県文化振興会機関誌『島の風』6号(99.2/1)