goo blog サービス終了のお知らせ 

雑誌『新沖縄文学』が問いかけたものー状況への対峙と基層を掘る作業

2012-07-06 10:10:34 | Weblog
 わたしは、この壇上にあがること自体たいへん疑問に思うくらい、『新沖縄文学』のふまじめな読者ですが、何回か文章を掲載させていただいた恩義もありまして、引き受けた次第です。
 さて、何を提言できるか、わたしとしては雑誌をめくることから始めるしかないということで、大急ぎでメモを取り始めたのですが、新しい提言とまでは行きませんでした。しかし、休刊されることになった『新沖縄文学』の次へ向けての新たな展望、さらには沖縄の雑誌ジャーナリズムのあり方について考える場合に、やはりこれまでの経緯を振り返ることも重要なことではないかと考えますので、とりあえずまとめたわたしのノートをお手元に配りました。それに沿って、話を進めていきたいと思います。

 初めに、発行刊数95冊。創刊が1966年4月、終刊は1993年5月で特集は「『新沖縄文学』を総括する」。沖縄でこれだけの年数をかけて、これほどの巻数を重ねた雑誌は他にない、ということを確認しておきましょう。

 まず、時期区分ですが、だいたい3期くらいに分けられるだろうと思っています。まず第1期は「文学雑誌」としてスタートした1966年4月の創刊号から68年8月の10号まで。第5号を除いて、いずれも「創作」を前面に押し出しています。その理由は、第1号の座談会のタイトル「沖縄は文学不毛の地か」とする問いかけに示されるように、雑誌の方向性として「創作」を促し、作家を育てるというコンセプトを持っていたから、と考えられます。この時期の特筆事項としては、何よりも第4号(67年2月)に掲載された大城立裕作「カクテル・パーティ」が、第57回芥川賞(1967年上半期)を受賞したことでしょう。この受賞は一般に、「沖縄は文学不毛の地」ではないことを示したものとして、話題を呼びました。雑誌『新沖縄文学』としても、「文学雑誌」の面目を全国に発信したという自負を、密かに抱くことになったかと、推測されます。受賞と前後して、「総合雑誌」に向けた萌芽が現れ始めます。たとえば第3号で「沖縄史への展望」という座談会を企画し、沖縄史研究の水準や現段階を一般に紹介していますし、第5号では、「(沖縄タイムス)芸術選奨)特集として各分野に関わる「論文」を冒頭に掲載しています。また、表紙自体がある意味で戦後美術史を語っているということもあります。

 第2期は「文学雑誌から総合雑誌へ」の移行期として、1968年10月の11号から72年5月の「日本復帰」をはさんだ74年1月の25号まで、としました。なぜ11号を第2期の開始に持ってきたかといいますと、この号は「三大選挙その背後にあるもの」を「特集」とし、その後は「状況の分析」と「状況への提起」を基調とする特集が増えるからです。この期の25冊中、従来通り「創作」を冒頭に据えたのは14、16、20、24の各号4冊のみ、この間に文学関係特集として「山之口獏」(第12号)、「『神島』の内包する問題」(第13号)、「『復刻』広津和郎」(第17号)がはさまります。71年8月刊の20号「創刊5周年記念号」はほとんど文学オンリー、「これからの沖縄文学のあり方ー総括と展望」と題する座談会を設けて、その中で文学雑誌はどうあるべきか、という議論もなされています。

 一方で、「沖縄返還」がスケジュールに上り始めたこの時期に、臨時増刊号『70年沖縄の潮流』が出たのは1969年11月、この冊に「文学」関係は掲載されません。定期刊行の残り16冊はいずれも「状況」特集。中で際立つのは、「祖国日本」と「復帰運動」を根底から問い直そうとする第18号(70年12月)の特集「反復帰論」、第19号の特集「続・反復帰論」(71年3月)でしょう。第21号(71年12月)が「復帰」を半年後に控えて「中国とわが沖縄」を特集したのは、「祖国日本」ならぬ「アジア」を射程に入れたという意味で、これも特筆されるべきだと考えます。沖縄住民の意に反した形で、日米双方の「国家」によって推進される一連の動きに異議をとなえ、返す刀で「祖国復帰運動」にメスを入れる。そして「日本国憲法」を問い、「人権」を問い、「沖縄学」のあり方を問う。「復帰」2年後の第26号(74年10月)が「総合誌」への転換を明言したのは、ある意味で必然的であった、とも言えましょう。

 第3期は、「文化と思想の総合誌」として再スタートした26号から現在までです。総合誌への転換については同誌の「編集後記」に述べられていますが、その大きなきっかけとなったのは、その前の号、25号で掲載した「沖縄の文化と自然を守る要望書」(沖縄の文化と自然を守る十人委員会)の提起です。海洋博関係の公共工事や本土大企業による土地買い占めなどに伴って、沖縄の自然・文化・歴史環境が、大きく変化もしくは破壊されていくことへの大きな危機感があった。その危機感が、特集「崩壊する沖縄」を生み出したといえましょう。この企画をいわば再スタートの地平=序論に設定し、そこから「再生沖縄」に向けての総論や各論を展開していく。それが『新沖縄文学』の新しい戦略であったと考えられます。文学部門はどうなったかと見てみますと、第30号(76.11)で新しく設けられた「新沖縄文学賞」の第1回審査結果が発表されます。そして、第3回「新沖縄文学賞」が発表される第37号から、「創作」、「詩」、「短歌」、「俳句」の掲載は断続的になります。

 とりあえず、このような時期区分を設定してみたうえで、次に11号以降の「特集」を私なりに分類、整理してみます。

 タイトルに残る《沖縄文学》については、繰り返すことになりますが、12号(69.2)「山之口獏」、13号(69.5)「『神島』の内包する問題」、17号「《復刻》広津和郎」、20号(71.8)「創刊5周年期年号」「創作・詩他」、24号(73.6)「創作・シナリオ・詩・短歌・俳句他」、35号(77.5)「沖縄の戦後文学」、39号「創作・詩他」、71号(87.3)「島尾敏雄と沖縄」、この号は「文学と思想」とくくられるべきでしょうが、ここにいれておきました。82号(89.12)「沖縄・小説の現在ー新沖縄文学賞15周年記念」、別冊『沖縄近代文学作品集』(91.1)、といったところです。

 次に、《<状況>総論》としては、3つの角度で整理してみました。 ①<沖縄自身を見つめる視線>として、繰り返しになりますが11号(68.11)「三大選挙その背後にあるもの」、臨時増刊号『70年沖縄の潮流』(69.11)、18号(70.12)「反復帰論」、19号(71.3)「続・反復帰論」、「復帰」直後に出された22号(72.7)「憲法を考える」、26号「崩壊する沖縄」、32号(76.6)「新しい沖縄を求めて」、43号(79.11)「80年代・沖縄は生き残れるか」、44号(80.3)「挑戦する沖縄」、48号(81.06)「琉球共和国へのかけ橋」、53号(82.9)「おきなわにこだわるー独立論の系譜」、55号(83.3)「戦中・戦後の餓えと民衆」、59号(84.3)「84病める沖縄」、66号(85.12)「戦後四○年・沖縄はいまー軌跡の検証と展望」、69号(86.9)「国体と沖縄ーその光と影」、75号(88.3)「ポスト国体・どうなる沖縄」、78号(88.12)「沖縄と昭和」、87号(91.3)「沖縄・政治考」、92号(92.7)「『復帰』20年目の5・15」。臨時増刊号『日の丸・君が代』(86.1)もこちらに加えておきましょう。

 一方では②<アジア・世界に開ける眼差し>。これは先ほど述べたように21号「中国とわが沖縄」からすでに始まっていますが、その後は間が開いて60号(84.6 )「熱い眼差しー沖縄から台湾へ」、72号(87.6)「検証・国際交流ーアジアの中の沖縄」、90号「沖縄から見たソ連の激変」、などがあります。次に③「『本土』から見た沖縄」、「外」から見た、と言ってもいいでしょう。36号(77.10)「本土知識人と沖縄」、42号(79.8)「ヤマトの女性から見た沖縄」、64号(85.6)「中野好夫と沖縄」、65号(85.12)「在沖本土人が見た沖縄像ーカルチャー・ギャップを探る」、94号(92.12)「マレビトの視線ー沖縄を見つめる人々」などがあります。

 もうひとつ《<状況>各論》として、分類してみました。くくり方にはいろいろあるでしょうが、問題提起としてとりあえず次のような形にまとめてみました。①<基地、人権、平和、住民運動>として15号(70.1)「人権は守られてきたか」、40号(79.1)「沖縄と有事立法」、50号(81.12)「戦後沖縄・民衆の決起」、68号(86.6)「軍用地主の素顔ー二十年強制使用の狭間で」、73号(87.9)「沖縄基地ー十五年目の基地包囲」、88号(91.6)「湾岸戦争と沖縄」といった特集があります。②<開発、環境、経済>のジャンルとして、32号(76.6)「Ⅰ海洋博を総括する」・「Ⅱ地域開発と農業」、56号(83.6)「自立経済を考える」、63号(85.3)「自然からの警告ー白保・北谷のシンポジウムから」、76号(88.6)「水と暮らし」、77号(88.10)「『カンコウ』に巣くう妖怪ー軍事と観光」、86号(90.12)「玉野井芳郎と沖縄」。③<女性・老人・若者>として30号(75.11)「女性問題を考える」、70号(「長寿県沖縄ーその歓び・哀しみ」、93号(92.10)「沖縄の若者文化ー新しい感性」などがあげられます。④<教育の現場>として46号(80.9)「沖縄・教育の現場」、67号(86.3)「『学校・教師・PTA』ー誰のための教育か」。⑤<マスコミの現在>として、74号(87.12)の「病めるマスコミー体質を問う」。

 次に、《琉球弧の社会と文化》としてくくられるグループがあります。①特定の地域を特集した41号(79.5)「琉球弧のなかの奄美」、61号(84.09)「宮古のすべて」、81号(89.9)「奄美から見た沖縄」、83号(90.3)「糸満・ウミンチューの世界」。②<文化の基層と表層>として29号(75.7)「伝統と現代」、47号(81.3)「沖縄芸能界の現在」、49号(81.9)「南島のエロティシズム」、51号「南島・笑いの文化考」、52号(82.6)「島うたでつづる沖縄の昭和史」、54号(82.12)「食の文化史ー沖縄の風土と食物」、57号(83.11)「ユタとは何かー沖縄精神風土の根を探る」、58号(83.12)「沖縄の芸能・批判と提言」、62号(84.12)「組踊の現在を問うー玉城朝薫生誕三百年記念」などがあげられます。

 最後に《史層を掘る》というもの。このタイトルは、赤坂憲雄さん編集のシリーズから借用させてもらったものです。①は、タイトルそのままに<史層を掘る>。34号(77.1)「共同体論への視角」、79号(89.3)「『南島論』と沖縄」、85号(90.9)「琉球王権論の現在」など。それから②<近現代史の検証>として、28号(75.4)「沖縄と天皇制」、38号(78.5)「『琉球処分』一○○年」、45号(80.6)「沖縄移民」、78号(88.12)「沖縄と昭和」、84号(90.6)「もうひとつの戦争体験ー台湾・フィリピン・南洋群島」、89号(91.9)「アメリカ文化との遭遇」、91号(92.3)「沖縄・戦後の知的遺産」、92号(92.7)「『復帰』20年目の5・15」。そして③<「沖縄学」その人と学問>として、23号(72.12)「世礼国男」、25号(74.1)「沖縄学」、31号(76.2)「伊波普猷の世界」、33号(76.10)「『沖縄学』の先覚者群像ー人と学問」、37号(77.12)「沖縄研究の先人たち」、80号(89.6)「沖縄と柳宗悦ー柳宗悦生誕百年記念」、91号(92.3)「『沖縄学』への期待」。

 以上、非常におおざっぱですが、5つの傾向を特集から眺めることができるとする、提案をさせてもらいました。もちろん他の視角から『新沖縄文学』の特徴なり、功績を探ることも可能であることは言うまでもありません。その一方法を今日は試論として提示してみたわけです。

 実はこれまでにも何度か、誌上で『新沖縄文学』のあり方をめぐっては議論が行なわれております。まず、刊行の意義について。創刊5周年の20号(71.8)で「毎号赤字」ながらも「雑誌の使命である”沖縄という地方における文学、芸術運動を活発に展開する”という大きな使命があるから」継続する、という当事者からの発言があります。創刊10周年の32号でも『新沖縄文学』のこれまでと今後が議論されています。雑誌の「編集後記」を眺めても、大体の流れが見えてきます。そこでとりあげられた内容なり、課題は現在まで引き継がれている、と思われますが、編集者たちはその都度これらの課題を特集他の形で具体化し、提起・提示して来られたことは確かでして、あらためて敬意を表したい、と思います。そしてこの雑誌が、「沖縄タイムス」という日本の一地方紙にとどまらない、報道のスタンスと方向性において全国有数の新聞の力量に支えられて、ここまで来ることができただろう、とも考えております。要約するに、『新沖縄文学』は、文学と評論を通してかたや<状況に対峙する>、もう一方では<基層を掘る作業>、この2つを並行して続けてきた。2つの視角や方法は、今後の雑誌ジャーナリズムのあり方として引き続き有効ではないだろうか、ということを申し上げて、わたしの報告を終ることにいたします。ご清聴、ありがとうございました。(5780字)

                                                                                 (『新沖縄文学』95号、1993.4 沖縄タイムス社)

舞いの想

2012-07-06 08:35:29 | Weblog
 作曲家が、ある作品を作曲するにあたってのイメージは曲想と呼ばれているが、それはその曲を演奏する者にも、また聴衆にとっても相応の曲想があって、三者の出会う場所が、演奏会やレコード・CDを鑑賞する場ということになる。

 我々のようにもっぱら聴く立場にある側からすれば、その曲が未知であれば出会いの場は<発見>に満ちることになり、既知であれば、<確認>や<再発見>の場となる。美術の世界では、たとえていえば「作曲家」はすなわち「演奏家」でもあるが、「シンガーソング・ライター」でもない限り、演奏家が美術家以上にきびしい立場にあることは、その曲が著名であれば、すでに相当数の演奏がなされてきたであろうし、レコード・CDも世に出回り、音楽愛好家の耳にインプットされてもいて、どうしてもそれらの演奏と比較されてしまう、というところからも、容易に察することができる。

 舞踊家の場合もその踊りは、本人の創作舞踊でない限り、演奏家の演奏と共通するであろう。とくに、伝統芸能に関わる踊り手たちにとって。楽譜に相当するのが、踊り伝えられてきた<型>にあたる。舞踊にもまた音楽と同じ<想>があるはずで、伝えられてきた型の想と踊り手の想=解釈、そして観衆の脳裏に刻まれたイメージが、舞台と客席を取り巻く空間で協奏、もしくは競争しているに違いないのである。その場が発見、もしくは確認と再発見の場となっていることも、音楽の場合と同じだ。

 かつてこの出会いの場を律するものがあった。それは<神>と呼ばれたことがあり、眼に見えない共同体の意志と言われるべきものでもあったが、今はそれも失せたか失せかかっている。伝承の型もしくは型の伝承が、あるいは演ずる者が、さらには視る、あるいは聴く者が、とって替わってその位置に座ろうとしのぎを削っているかに見えなくもないが、いずれも十全な意味では果たせないでいる。そしてこの後、果たせる展望もない。

 そんな状況のもとで今日もまた、琉球舞踊を通して伝承と伝達、表現と交歓という困難な課題を担わんとする女性が、表舞台に現れる。視る側のひとりとして、その志と心意気に密かなエールを送りたい。(1047字)

                                                                        (『第一回 琉舞 華の会 平良昌代の会』 琉舞 華の会 平良昌代練場 1991.7)

不条理の美学

2012-07-06 07:41:40 | Weblog
 たとえば「瓦屋節」のように、演技の途中で観客に後姿を見せながら舞台中央奥へ引き、振り返って次の所作に移る間、演者の舞いの意識や視線はおのれの後姿まで、あるいは観客まで届いているのだろうか。尋ねたことはないが、おそらく届いているはずだ。もしかすると、観客に正対しているとき以上に。

 わたしのようにいじわるな観客は、正面から向き合う時以上に演者の質を問おうとすることがある。後姿の舞い・所作に、身体の動き=流れの「淀み」を見てとろうとするからだ。「高平良万歳」の場合などは、後姿の所作それ自体がひとつの見せ場でさえあるからなおさらのことだが、この時演者は文字通り、世阿弥のいう「目前心後」の状態なのだろう。

 観客が舞いの流れに淀みを発見しようとするのは、いってみれば演者の動きに不自然な箇所を見つけようということであり、いいかえれば鑑賞基準のひとつに<自然>を置いていることの表明に他ならない。演者にとってやっかいなのは、演技が<変身>を図るものである限り、<不自然>から出発せざるをえないのに、目標とするところが<自然>であるという背理をになわなければならないということだ。観客は、「振り」=<らしさ>を求めながら、<作為>を拒否する。

 自然という言葉に代えて<花>という言葉を使えばいよいよ世阿弥的になるが、ここの文脈でいえば、自然の花は自ら装って花となったのではないし、種類によって姿・形や香りを違えながら、どれも花としての美しさを失わない、ということになる。自然の摂理によって、花は美しい。しかし、その摂理に<神>の意思を認めた時代や世界がたしかにあったのだ。<見る者>と<見られる者>を結ぶ存在を失ってから久しいが、その時から演者の苦闘と観客のいじわるが始まったといってもよいだろう。

 不条理の美学を極め尽くさずにはおれないひとりの演者の「シジフォスの演技」に、心ならずもいじわるな観客であり続けたい、とひそかに思っているのである。
(1055字)
                                                                                          
                                                                                     (『第2回 高嶺久枝の会』 1991.9)

「記録者」と「書き手」の間:比嘉康雄『神々の古層』から『日本人の魂の源郷』まで

2012-07-06 02:16:08 | Weblog
 比嘉康雄は、わたしにとって畏敬と敬愛の対象であった。写真家というより前に、まず「ほんものの」フィールドワーカーとして。密かにフィールドワーカーを志していたわたしは、彼を知ってその志を捨てた。通常のフィールドワーカーは、「見る」「聞く」「書く」で始まり、そして終る。そこでは「撮る」ことは、あくまで補助手段である。しかし、比嘉の場合、まず「撮る」ことが先にあり、そのために「見る」「聞く」があった。通常の写真家ならそれで終る。「書く」ことがあるとしても、彼の仕事の「一部」でしかない。ところが比嘉の場合、「撮る」ことと「書く」ことは同義であった。久高島における西銘シズとの出会いは、その意味で写真家としての大きな転機であったし、「書き手」比嘉康雄のスタートともなった。

 今となっては確かめようもないが、比嘉は、「書き手」といわれることに、あるいは異議をとなえたかもしれない。自分は「記録者」だと。「他者」のいない「記録」はありえない。そして他者を記す(描く)ことは、至難な技である。他者の「何を」どのような「角度」から記すか、描くか。何を撮るか、アングルをどうするか。どのような構図をとり、どのようにトリミングするか。比嘉にとって、「記す」「描く」「撮る」の間に、違いはない。その集大成が、『神々の源郷 久高島』(上・下)(1993年 第一書房)である。この大作は、比嘉における「もうひとつの写真集」なのである。

 比嘉は、プロのフィールドワーカーである民俗学者や文化人類学者すら、とても太刀打ちできないほどの足数と場数を踏んで、島の人々と濃密な人間関係をつくりあげ、それをベースにして「見て」、「撮り」、「聞いて」まわった。そこから得た確かな実感が、彼の文章に厚みを加えている。だから、フィールドワークを身上とするプロの研究者が、仮に彼の記述や分析の方法に異議をとなえるとしても、その矛先はそのままおのれに向かうことを覚悟しなければならない。比嘉は、相手を「インフォーマント」の枠に押し込めたうえで、「他者」として接していたのではない。彼にとって「他者」とは、「もう1人のわたし」であった。「インフォーマント」として卓越した島の「神女」西銘シズと他の「西銘シズたち」が、比嘉の手を借りて、島と島に生きる人々の「聖と俗」を描いたのがこの上下巻である、と断定したい。

 その意味でわたしたちは、フィールドワーカー「以上」であり、ほんものの「写真家」であり、かけがえのない「書き手」を失ってしまったことになる。彼のスタンスを、他界の直後に出た『日本人の魂の源郷』(2000年 集英社)の例で見ることにしよう。

 この本のモチーフは、タイトルが言うように「沖縄久高島」が「日本人の魂の源郷」だというのではない。本文には、そのようなことは1行も書かれていない。もちろん、帯で作家の池澤夏樹が言うような「日本の根は沖縄にある」という類の表現も、まったく見当たらない。2つのコピーともに、「中央」の「大手出版社」の営業方針や、「仮住まいの旅人」の思い込みからするエスノ・センチュリズム的な発想でしかない。ここでも本人に確かめるすべはないのだが、比嘉にとって迷惑な「賞辞」だったのではないか。彼の言葉を借りてこの本の主題を約言すると、こういうことか。「琉球弧」の「精神の古層」が、久高島や宮古島狩俣の女性たちを主役とする祭祀に残されており、その祭祀を支えてきたのは「母たちの神」であり、「母性原理」なのだ、と。比嘉はいう。

 この「母たちの神」は、<生む><育てる><守る>という母性の有り様の中で形成された、つまり内発的、自然的で、生命に対する慈しみがベースになっている<やさしい神>である。

 この母性原理の文化は、父性原理の文化がとどまることを知らずに直進を続けて、破局の危うさを露呈している現代を考える大切な手がかりになるだろう。

 わたしの勝手な言い回しになるが、比嘉が提示したのは「母性原理」が内包する「円環性」であり、「循環性」である。いずれにせよ、「日本の根」ならぬ<琉球弧の根>に視座を据えながら、ひとえに、まっすぐに、<人類の魂>の行方を気遣う「遺言の書」が本書なのであって、それを「書き手」としての名品といわずして何というか。
 (1918字)
                                                                                          (『EDGE』11号 APO 2000.7)

沖縄の博物館ー戦前・戦後の連続と断絶ー (2)

2012-07-01 16:35:37 | Weblog
米軍による博物館設置とその背景

 沖縄戦の終結まもない1945年8月30日、米軍の統治機関となった海軍軍政府の下に「沖縄諮詢会」が発足し、委員長に志喜屋孝信が就任した。山城篤男を部長とする文教部や当山正堅を部長とする文化部もスタートして、9月3日には当山部長がさっそく「文化部に於ては沖縄の歌と舞踊を中心とする演芸会を巡回開催し幕合を利用して宣伝事項を発表し以て人心の安定、生活の更新、趣味の向上を図らんとす」と発言し(37)、活動の開始を宣言する。

 一方、1945年8月、軍政府のハンナ大尉(後に少佐)は、石川市東恩納に「米国軍政府沖縄陳列館」を設置する。(38)、建物は、消失を免れた瓦葺きの民家が用いられ、資料の収集には、大嶺薫が協力した。同時に駐留海軍軍政副長官ムーレー大佐の邸宅を沖縄式住宅とし、「庭園」を造っている。博物館と建物・庭園設置の目的は、①在沖米軍人に沖縄文化の高さを知らしめ、教育すること、②今後来沖するはずの米国政治家、市民、および沖縄の将来に関心を持つ左官や将官以上の高級軍人、上下両議員に沖縄を紹介する、の2点であり(39)、そのために「沖縄人の建築様式、家具造作、造庭技術および被服織物、陶器その他日常生活並に芸術文化の何れにも冠するすべての事象を展示する」もの(40)であった。上記①、②は、1945年12月24日の軍民協議会に軍側から出席したワッキンス(ワトキンス)少佐の発言であるが、彼は戦前に日本と中国で教師の経験があり、アメリカ帰国後スタンフォード大学の教授を務めた政治学者である。(41)

 ワトキンスは、会議の席上では博物館とムーレー邸宅の計画は「軍政府の命令でもなく、軍政府でやれると云ふ事でもない」、「之はハンナ大尉と私の考でやって居るもの」だと述べているが、決してそうではなかった。「沖縄陳列館」の設置が、時の沖縄統治策と密接に絡んでいた。まず、ワトキンス自身が後に次のように述べている。すなわち、沖縄上陸前にすでに沖縄における軍政の準備はできており、それは「(1)訓練や計画の立案のために膨大な量の情報や教育用の材料を集めること、(2)いつ出会ってもよいように異質の文化について部隊という部隊に教えこんでおくこと、(3)とくに軍政のための多数の要員を集中的に訓練すること」の3点に要約される(42)。沖縄の歴史・文化に関する資料を収集することは、(1)そのものであり、それを展示し、教育することは(2)、(3)の目的に合致する。ワトキンスとハンナの功績は、それを博物館や庭園の設置という形で具現化したところにあった。そのような着想が生まれる背景には、欧米におけるmuseumの長い歴史と蓄積があったことは、言うまでもない。

 米軍は、博物館設置のみならず、沖縄の文化の「程度」を示す文化財の保存や関連図書の収集にも意欲的であった。「皇室を中心とする神社」と「沖縄元来の神社」を区別し、後者については、石碑等とともに保存・修理していきたいとし、また名所の「自然の美」を保存したい意向を示し、米兵に対しては「名所旧蹟の由来を語らないと印象を深くし感興を惹かないから写真やパンフレット等を以て知らす様にしたら如何」と提言している。(43)沖縄側の委員(護得久朝章)から出た「首里城が破壊されて沖縄の歴史の半分は亡くしたと云つてよいと思ふ程だが復興は出来ないものだらうか」という意見にワトキンスは、「復興」については「陸軍基地」があるため早急にはいかないとしながらも標識の設置を提言し、@首里城に対する計画案」を立ててもらいたいと要望している。この時期護得久は、「陳列館」に首里城の模型を置くことを提案している。(44)

 文化財の保護についてみると、アメリカは敵国の歴史的記念物や芸術品を保護・奨励する方針をとっていたが、これは鹿野政直によれば「人心掌握のため緊要と考えられただけでなく、枢軸国がアメリカ軍をVandal(そこには、5世紀にローマを荒らしまわったバンダル人との意味のほかに、『文化・芸術の破壊者』、『野蛮人』との意味も込められているためでもあった。(45)。真栄平房敬は、「あれほど目立つ首里城に対して、なぜか米軍はなかなか爆撃を加えなかった」と述べるが、その理由はこのあたりにあっただろう。翻って、そのことを逆手に利用して首里城の地下に陣地をつくり、国宝が揃う首里の街まで廃墟と化す契機をつくった「日本軍」こそ、「野蛮人」と呼ぶべきであろう。鹿野は、米軍政府が「文化的記念物として保存されうるようなものはなんでも、保存することである」こと、「沖縄におけるすべての城、寺院、神社および同種の文化的記念物は、破壊されたと無傷とにかかわらず、およびそれらに直接に接している地面もまた、すでに部隊が占有していて移転が困難でないかぎり、即刻、軍政府の管理と監督下に置かれる」べきとする方針も合わせて紹介している。(46)

 米軍の意図がどこにあれ、沖縄の歴史や文化を紹介し、沖縄の文化財を保存しようという軍側の施策に対して、沖縄側の指導者たちが異議をはさむことはなかった。荒廃した人々を癒し、復興に向けての気力を醸成する意味でも歓迎すべき政策であったことは、彼等が「琉球芸能の復興」にいち早く手を付けたことからもうかがい知ることができるだろう。彼等は、米軍の指導者たちが、沖縄の人間以上にその歴史・文化にくわしく、かつその分野の知識の収集に意欲的であることに感心していた。(47)戦前、政治・経済・教育の主導権を「他府県」人に握られ、しばしば彼らの沖縄の歴史や文化の研究・教育に対しては無視、ないし軽視、さらには圧迫されてきた沖縄の指導者達には、とくにその点が際立って映ったのかもしれない。

 1946年4月24日、「沖縄民政府」が誕生し、沖縄諮詢会委員長の志喜屋孝信が知事に任命された。4月22日発令の軍指令第156号「沖縄民政府創設に関する件」は、知事の権限に関して「沖縄知事は軍政府の政策及指令に準拠し沖縄に於ける総ての行政庁の総合行政を適切に遂行する事に関して直接軍政府副長官に責任を負ふものとす」と定めた。(48)すなわち、知事は軍政府の政策指令の範囲で行政の執行が可能なだけであり、その責任も住民ではなく軍に負うものであった。

 民政府にあっては、文化部のもとに図書館・文化学校、文書、教化(社会教化、宗教)、芸術課(美術、芸能)、博物館、各団体(宗教・教化・芸能・体育)の6課が合った。(49)東恩納の博物館は民政府に委譲されて「東恩納博物館」と改称され、引き続き大嶺薫が館長となった。(50)委譲後の維持費はハンナの計らいで観覧料を徴収して充て、さらに沖縄歴史に関する解説書、列品解説書、名所旧蹟の写真等を販売して運営費に回したが、委譲後の運営その他、すべてハンナの助言に従ってなされたという。(51)

 軍政府は、美術の振興にも積極的であった。始まったのは、教科書の挿絵描きであった。沖縄民政府発足と文化部設置に伴って、芸術家の職員として山田真山、屋部憲、大嶺政寛、大城皓也、山元恵一、金城安太郎等の美術家が採用されて、ハンナ、当山正堅部長の下で制作活動に従事した。作品は軍民の観覧に供し、戦後第1回の作品展をハンナの事務室で開催したという。米人相手に作品を販売し、材料を購入する目的も兼ねていたが、これも帰国間際のハンナの計らいであった。(52)1947年4月、沖縄民政府の知念移動を機に美術家達は文化部を離れ、本土から帰還した美術家も合流して沖縄美術家協会を組織した。石川市東恩納の民政府跡の施設に制作室と作品展示館を設け、作画と米人来館の応対に忙しい毎日であったという。(53)いわば、戦後美術館活動の先駆けであり、活動は首里に開かれた「美術村」に引き継がれたものの、美術館として開花するところまでは行かなかった。米軍の文化政策の中で、住民間にもっとも好評であったのは、伝統芸能の復活と巡回公演であった。これも、ハンナによるところが大きい。(54)とはいえ、食料不足と捕虜収容所生活に対する住民の不満を緩和する目的も持っていたことは、すでに報告されているところである。(55)

 このように、米軍の教育・文化政策は、戦争の悪夢から覚めやらぬまま難民生活に入った沖縄の人々の枯渇した心に、慈雨のようにふりそそいだかのように見えたが、しかし、その政策には、2つの確固たる方針が貫かれていたことを看過することはできない。1つは、戦前の官民共通の主題とも言える「日本化」(「戦前の復活」を含む)を否定する方向であり、もう1点は、これと連動するものだが、同様に戦前県民すべてが確信し、もしくは確信せんとした「日琉同祖論」の否定に基づく政策であったということである。米軍の沖縄歴史、沖縄文化重視の施策は、この2つの路線から脱線しない範囲で実施された。言い換えれば、住民の「離日」あるいは「脱日」政策の一環という側面を合わせ持っていたということである。
 たとえば、1945年8月の初め頃、ハンナの指揮のもとに初等学校の教科書編集が行なわれることになるが、編集の基本方針は、編集の中心メンバーであった仲宗根政善によれば、「日本的」教材、「超国家的」教材、「軍国主義的」教材の掲載禁止であり、とくに「日本的」教材は絶対にまかりならん、と1番厳しく規制されたという。(56)文化財収集において「皇室を中心とした神社」の排除が求められたことは既述の通りだが、舞台における上演芸能や脚本にもこの路線は貫かれていた。
 以上の方針のもとで米軍の検閲を受けながら、沖縄の教科書編集者達が眼目としたのは、茫然自失の住民を鼓舞し、「新沖縄建設」の精神を高揚させることであった。その指針とは、「海洋発展の進取の気象を養うこと」、「(沖縄の祖先が)世界の文化を摂取して沖縄の文化を発展させたこと」、「沖縄の固有の文化を重んじて、沖縄の先人の業績を継承発展させること」である。(57)「日琉同祖論」を押し隠し、「国民精神」ならぬ「沖縄精神」の「作興」を、沖縄の「歴史」に事寄せて眼目としたところに、戦前の教育・文化政策との「連続と断絶」がある。

 「新沖縄建設」は、沖縄民政府が誕生した1946年4月に公布された「初等学校令」第1章「目的」にうたわれている。その施行規則第2章「教則」には、「沖縄文化ノ向上」を図ることが明記され、同時に「海外発展ノ思想ヲ培ヒ積極進取ノ意気ヲ養フ」ことも併記されている。一方、1947年に定められた「文化部の目標」では、「創造的新沖縄」建設のために、「世界文化人」としての教養と品格を促進することがうたわれる。「日本」を介さず、直ちに「世界」へ向かうことが、「新沖縄」の道であった。もちろんそこに、戦前・戦中「海洋発展の進取の気象」を掲げて戦意の高揚を叫んだ「先人」の「業績」は、不問に付されたままである。戦火を浴び、弾痕を受けた「万国津梁の鐘」は、「新沖縄」のシンボルでもあるかのように、東恩納博物館の入り口に展示されていた。(58)しかしまもなく、教育の方向は「祖国復帰」運動と連動しつつ、「日本国民としての教育」に大きく傾斜するようになり(59)、文化部も消滅する。

 琉球大学教授の大田昌秀は、著書『沖縄の帝王―高等弁務官』の「まえがき」で、彼がインタビューした歴代高等弁務官達に共通する沖縄観は、「沖縄人と日本人は違う」つまり「沖縄人は日本人ではない」という一言であった、と述べている。(60)米軍政府の指導者達には、そう述べるだけの「根拠」があった。たとえば、第5代のF・T・アンガーは、赴任した1966年当時―この時すでに、日本復帰運動は押し返すことのできない状態にあったがー、「琉球人が日本をひどく恨みに思っていた」として、その理由を①沖縄人が日本人から「田舎者の親戚」扱いされたこと、②日本が本土防衛のため沖縄を血なまぐさい戦場にしたこと、③戦後の日本がその沖縄を日本の統治に委ねたこと、を挙げている。(61)彼は後年、次のようなことも述べている。(62)①沖縄人は人種からいえば日本人じゃない。彼らは、北海道からのコーカサス系の部族と、太平洋の島々からの人びとが、まざり合った人種である。②日本人と沖縄人との肉体上の違いより重要なのは、琉球の島々に定着し、政治的に独立した王国をつくって暮らし、経済的には中国と日本との間で貿易をしてなりたっていたことだ、③ところが、1879年に日本は琉球王を日本に移し、琉球列島を日本帝国の下に編入し、沖縄と呼んだ、④日本の南端から600マイルも離れたこの地は、日本の統治下でほとんど経済的社会的進歩も期待できず、そのことは琉球列島でたえず思い返されてきた。

 要するに米軍の指導者は、「日本」による差別的な統治を受けてきた沖縄住民を「解放」してあげたとする認識を一貫して持ち続けたいたことになる。OkinawaではなくRyukyu! このような沖縄感はすでに、沖縄上陸前の1944年11月、海軍省作戦本部の指示のもとに、エール大学の文化人類学教授で、沖縄占領後に軍政府統治部長として赴任したジョージ・P・マードックのグループによって作成され、『琉球列島民政の手引』や、同じく同省が作成した『琉球列島の沖縄人―日本の少数集団』に淵源していると見なすことができる。(63)米軍統治を支えたイデオロギーとしての「日琉同祖論批判」に反論する形で、すなわち「日琉同祖論」を基底にすえ、「祖国・日本」への「復帰」を掲げて抵抗する「沖縄人」が、米軍統治者には「田舎者」の「他人」に見えて仕方がなかったのではないだろうか。あるいはすでに彼らは、「復帰」後の継続=再現する「日本」の「沖縄差別」=「田舎者の親戚」扱いを見通していたのか?

 いずれにせよ、博物館は米軍にとって占領政策を円滑に推進するために、一方沖縄住民の側からすれば、自らのアイデンティティのありかを探り、確認する場と位置付けられたのである。

博物館活動の展開と拡充

 首里は、遅くとも15世紀初頭から琉球国の首都として、「琉球文化」形成の中心地であり続けてきた。ところが、廃藩置県後、県都は港町那覇に移され、以後は郷土博物館開館式における首里市長挨拶にも見られるように、「教育都市」、「遊覧(観光)都市」、さらには文化都市としての発展を期したが、那覇の発展に比して歩みは鈍かった。そのため、首里城の整備と郷土博物館の設置には、きびしい財政事情にありながらも尽力したのである。ところが、この戦争によって、かつて柳宗悦そして日本一美しい城下町と絶賛させた街並み(64)は、廃墟と化した。

 首里の復興は、戦前首里市長を務めた仲吉良光を先頭にして開始された。1945年12月14日のことである。(65)まず、建築、遺骨収集、農作物の種子収集等の各班に分かれ、計画的に復興作業が開始した。市長が描く新生首里の姿は、「首里城を元の姿に復元し、弁ヶ嶽、虎頭山一円をむすんで公園化する。在宅地は戦前同様とする。神社仏閣など文化財を復旧する」というものであったという。(66)。要するに、まるごと「戦前の姿」を「復元」することによる「文化都市」の確立であった。首里移住が許可される前の1945年11月2日、軍政府宛に提出された代表名仲吉良光の「新都市建設方に関する請願」において、訴えられた内容は以下の通りである。「(前略)首里、那覇は数百年間沖縄文化の中心地にして古琉球の諸工芸品の粋なるものは悉く首里、那覇の所産にして文化が環境に支配される事実は東西文化の歴々数ゆる処に候ふて、新時代の沖縄文化も結局は首里、那覇において想像されることは単に吾等那覇、首里民の自負のみならず、新都市建設は全沖縄民も亦希望する処と吾等は解し居候(後略)」。(67)

 戦前、ジャーナリストとして活躍した豊平良顕は、人口数千に達した首里市に文化運動の必要を感じ、仲吉に文化部の設置を進言し、実現させた。1946年3月下旬のことで、職員は4、5人。まず首里城、円覚寺、王稜(タマウドゥン)等の破壊された史跡から文化財の残欠を探索・収集する作業が開始された。石造彫刻、建造物の破片、石碑等が主であった。一方、芸能連盟を組織して演劇・舞踊・音楽の再組織化が始まり、絵画展も開始された。集会の度に、文化財の収集・提供が訴えられて、文化部の活動は市民の共感を呼び、小学生まで「こんなものを見つけました」と陶器のかけらを大事そうに抱えてきたという。(68)収集には市民や生徒の積極的な協力があった。

 博物館は、収集活動と並行して開設され、「首里市立郷土博物館」と称された。文化部長兼務で豊平良顕が館長に就任した。首里市汀良町のトタン葺き民家を借りて文化部の事務所とし、隣に12坪のバラックを建て増しして博物館が開館したのは、1946年5月頃であったという。この年の秋には、個人所蔵の紅型、陶器、書画等も加えて「特別陳列会」を開催し、近隣市村から遠く石川市まで数千人の観覧者が訪れたという。(69)。首里に設立された博物館は、米軍設立の東恩納博物館とは対照的に、文字通り住民手作りの博物館であった。
 首里市立博物館は、1947年12月に沖縄民政府に委譲されて「首里博物館」と改称され、博物館課の所管となった。(70)

 いずれも沖縄民政府立となった東恩納博物館と首里博物館は、しばらく共存状態が続くが、早晩合併・強化の方向をとらなければならない状態にあった。理由の1つは、1946年10月に民政府が石川市から知念村に移動し、49年7月には那覇に移動していた。建物も仮設状態で推移していた。並行して那覇・首里の復興も急速に進んだ。民政府立となった博物館の課題は、博物館としての最低の必要条件たる施設の拡充と資料の収集の2点であった。1947年10月3日の「うるま新報」は、民政府文化部が首里城跡に「琉球古文化を再現」しようという「総合博物館」の案を立て、まずは首里博物館の移転改築と民間に散在する「沖縄文化資料」の調査・収集・保護に乗り出すことになったことを、報じている。(71)同紙によれば、この作業は、散逸・消失を免れた文化財の所在を掌握し、その保存を図り、文化財に対する認識を高めようとする趣旨であるという。1949年10月には、戦禍で荒廃した文化財、すなわち史跡名勝、美術工芸、建造物および天然記念物の保存を促進すべく「沖縄史跡保存会」が結成されている。(72)

 施設の拡充について見ると、1949年12月、首里市龍潭池畔の元沖縄師範学校体育館跡を新館用地候補として軍政府に要請、51年7月に建設の決定があり、52年2月に工事は着工したのであるが、資金不足から工事は進まず、いったん中止に追い込まれた。(73)一方、1950年5月26日、米軍はペルリの琉球来航100年を記念して、その年に当たる1953年5月26日を記念すべく、5月26日を「米琉親善の日」と定めた。(74)近く決定する手はずになっている沖縄の法的分離と、米軍基地の恒久化を見越しての政策であったと考えられる。米軍は、52年4月の講和条約締結と沖縄の日本からする法的分離の確定に伴って成立した琉球政府、さらに市町村、マスコミの協力を得て、1953年5月26日にペルリ来琉100年事業を盛大に実施することになり、あわせてハードの事業として「ペルリ記念館」を設置することになった。この施設は首里博物館に隣接して設けられることになっていたが、博物館本体の工事の進捗状況がはかばかしくないため、米軍が工事費を立て替えて、5月26日当日、首里博物館は装いも新たに再出発し、この時点で石川市在の東恩納博物館も吸収されたのである。(75)この日に合わせて、戦時中アメリカに渡った首里王府編集の古謡集『おもろさうし』原本(尚家本)を始めとする文化財を私的に探索・収集し、この日沖縄に変換した1米兵の美挙も新聞で大々的に報道された。(76)2年後の1955年4月、「首里博物館」は「琉球政府立博物館」と改称された。(77)

 龍潭池畔の博物館は、資料の増加と施設の不備により、早くも1957年10月、近くの尚家跡に移転・新築の計画が出された(78)が、実現の見通しが立ったのは10年近く経過したキャラウェー高等弁務官の時代である。敷地を琉球政府が購入し、施設費用のほぼ9割を米軍が負担して1966年11月に新館が誕生した。(79)新館誕生については、「豪腕」弁務官として知られるキャラウェーの「離日=懐柔」政策の一環と見なされている。(80)かくして、戦後沖縄の博物館は、石川市東恩納の博物館設置、龍潭池畔の首里博物館建設、尚家跡の琉球政府立博物館建設という歴史の節目において、常に米軍の沖縄統治策・文化政策と直接連動していたことが、理解されるのである。もちろんそのことは、博物館の維持・拡充に心底打ち込んできた歴代館長の大嶺薫、豊平良顕、原田貞吉、山里永吉、金城増太郎、大城知善、外間正幸と職員の活躍を軽視するものではなく、逆にそのご苦労が偲ばれるのであり、ここで敬意を表しておきたい。

 さて、資料の収集について見ると、早くも1948年1月には、沖縄民政府博物館課の山里永吉課長(後の琉球政府立博物館長、前出)は、再度の奄美大島出張によって、名瀬市の医師向井文忠の書画、陶器、漆器などの美術工芸品87点の寄託を実現している。(81)

 1953年6月、首里博物館長原田は、初めて本土に出張し、80点の資料を収集して帰沖している。(82)これが本土からの収集の嚆矢であるが、以後本土からの収集は山里永吉、外間正幸等によって精力的に進められている。その特徴の1つは、収集資料の大半が美術工芸品であって、次にその資料は、戦前収集家・研究者等の手で本土に渡ったものであって、所蔵者は、戦災を受けて廃墟と化した沖縄の復興に寄与すべく、快く愛蔵資料を手放したという点である。(83)残欠文化財にこれら本土からの収集品・寄贈品を加えて、琉球政府立博物館は住民の要求に応えられる態勢をとれるようになり、まずは面目を保つこととなった。もちろん、この間に各種の特別展、アメリカの要請を受けてのハワイ出品等の事業もあるが、ここではこれ以上触れない。

 ただ、新装なった琉球政府立博物館の建物の正面が首里城正殿を模したこと、玄関ロビーに展示されて、いわば展示の導入ともなれば、館のシンボルともなる展示品が「万国津梁の鐘」とペルリ来琉100年記念館開館時に製作された首里城正殿の10分の1の模型であったことは、この館の歴史的・現在的位置を象徴に示すものであった。首里城正殿の正面を模した博物館正面、火炎で黒焦げになり、弾痕を遺す梵鐘と消失した首里城の模型の展示導入部における展示。私達はそこに、戦前・戦後の沖縄の人々の歴史観、沖縄文化観の連続と断絶を見ることができるだろう。

博物館の総合化・専門化・地域化・多様化に向けて

 1952年5月15日の日本復帰と前後して、沖縄における博物館(等)は数が増えるとともに、多様化の様相を見せ始める。もちろん、琉球政府立博物館以外にたてば「沖縄子どもを守る会」が1954年12月に、「恵まれない沖縄の子ども達の福祉増進の永久施設」として那覇市に設立した「子供博物館」(84)や、浄土真宗本願寺派の僧侶上勢頭亨が1960年に設立した八重山竹富島の喜宝院蒐集館(85)に多様化の兆しを見出すことも可能かもしれないが、「復帰」前後の動きの激しさにくらべれば、緩慢であった。たとえば、1977(昭和52)年に結成された「沖縄県博物館協会」が1983(昭和58)年に発行した『沖縄県博物館協会』に収録される同協会加盟の博物館および相当施設28館のうち、設立年が明記されている26館を見ると、1970(昭和45)年4館、71年1館、72年2館、73年1館、74年1館、75年6館の計15巻となっていて、日本復帰前後の6年間で全体の6割近くを占めているのである。(86)

 もう1つ注目したいのは、設立主体が多様であること。すなわち、国立2館、県立2館、市立1館、村立1館、(財団を含む)私立8館である。内容も多彩である。民族博物館1(国立)、水族館1(国立)、戦争資料館2(県立、私立)、海洋博物館1(県立)、歴史博物館1(歴史・民俗・美術工芸中心)、歴史民俗資料館1(村立)、植物園1(私立)、動物園・水族館1(私立)、貝類標本館1(私立)、民芸館2(私立)、民俗資料館1(私立)、自然遺跡・植物園・ハブ展示館1(私立)、古美術館1(私立)、真珠・サンゴ資料館1(私立)が、この時期に集中して開館している。そしてそのいずれも沖縄の自然的、歴史的、文化的特性を捉えた個性に満ちており、教育的意図のもとに設立されたものの他に、観光を主目的とするもの、双方を意図するものの3種に区別できる。「復帰」に伴って、「琉球政府立博物館」から改称された「沖縄県立博物館」は、1974(昭和49)年に2階を増設して、「総合博物館」への転身を図ることになったのである。まず、第1展示室を「美術工芸」中心から自然史・先史・歴史の通史的展示に改めた。(87)同館が「企画展示室」を「潰して」、沖縄の自然史的特性を系統的に示す常設展示室に切り替えたのは、1978(昭和53)年に至ってからだが、そのことはこの時期、「新館建設」が痛切に必要とされてきたことを物語っている。「沖縄自然史博物館構想」が研究者間で討議されることもなかったわけではないが、その後単独館として日の目を見るにいたっていない。近頃琉球大学の地質学教授・木崎甲子郎が沖縄のマスコミの「自然科学の軽視」を指摘している(88)が、何もマスコミに限ったことではなく、近年になって見られる現象でもない。氏が指摘する「人文中心」の風潮にはそれなりの歴史的な理由と背景があったことは、すでに述べた通りである。

 振り返って見ると、日本の博物館史自体が、1872(明治5)年の「博覧会事務局」を出発点とし、今で言う文化財保護を基調とする古美術博物館=「東京国立博物館」と、自然史・教育の2本を柱とする「国立科学博物館」に行き着く流れを主流としてきたのであるから(89)、戦前の沖縄における博物館設置に向けての動きが「美術工芸」と「博物」を基調としたのも、珍しいことではない。木崎が指摘する問題は、にも関わらず、なぜ戦後の沖縄において県立レベルの自然史展示が後回しにされ続けてきたか、と問い直されるだろう。1つには、沖縄における自然史研究がいわゆる「沖縄学」からジャンルとして認知を受けてこなかった状況を反映していると見なすことができようが、そのことと連動して、自然の問題を「文化」の問題そのものと考える社会的基盤が醸成されていなかった状況をも合わせて示している、と考えるが、いかがなものであろうか。その歴史的要因として、戦前・戦後を巡る、あるいは貫く政治・社会・教育の各分野における「回り道」についてはすでに述べた通りであり、戦前から終戦直後に至る高等教育機関の不在に規定された研究者層の薄さや研究蓄積の浅さも、要因として繰り返し述べておくべきだろう。自然を「環境」と捉え、「復帰」後急速に進む「開発」が自然=環境の破壊、すなわり「文化」の問題として社会化するのは、近年のことである。

 今、日本の博物館を取り巻く状況は、総合化、専門化、地域化、多様化の4つの方向で動いていると言って間違いないだろう。同じことは、県内の博物館(等)にも当てはまる。それぞれの「博物館」と関わる行政がこの状況をどのように把握し、また県民が今という時代に何を博物館に求め、あるいはどのような「博物館」をつくる運動を展開すべきか、課題は山積しているように思われる。

 

(37)沖縄県教育委員会『沖縄県史料』戦後1「沖縄諮詢会記録」、1986、pp35。
(38)琉球政府立博物館『琉球博物館三十年史』、1966、pp9~10。
(39)沖縄県教育委員会『沖縄県史料』戦後1「沖縄諮詢会記録」、pp233~234。
(40)『琉球博物館三十年史』、1966、pp9~10。
(41)鹿野政直『戦後沖縄の思想象』、1987、p19。本稿の戦後史、米軍の沖縄統治策および県民の対応については、同書によるところが大きい。
(42)鹿野政直『戦後沖縄の思想象』、p23。
(43)『沖縄県史料』戦後1「沖縄諮詢会記録」、p240。
(44)『沖縄県史料』戦後1「沖縄諮詢会記録」
(45)鹿野政直『戦後沖縄の思想象』、pp21~22。
(46)鹿野政直『戦後沖縄の思想象』、p64。
(47)宮城悦二郎『占領者の眼』、1982、p44。
(48)『アメリカの沖縄統治関係法規総覧(Ⅳ)』、1983、p130。
(49)琉球政府文教局『琉球史料』第3集、1958、p510。なお、軍政府と沖縄民政府の文化政策については、平良研一「占領初期の沖縄における社会教育政策ー『文化部』の製作と活動を中心にー」(『沖縄大学紀要』第22号、1982)参照。
(50)『琉球博物館三十年史』、p10。
(51)『琉球博物館三十年史』、p10。
(52)『沖縄市町村会』『市町村自治七周年誌』、1955、p332。
(53)『沖縄市町村会』『市町村自治七周年誌』、1955、p332。
(54)平良研一前掲論文、鹿野政直前掲書参照。
(55)宮城悦二郎『占領者の眼』、p61。
(56)『那覇市史』資料編第3巻8「市民の戦時・戦後体験記2」、1981、pp235~237。
(57)前掲『琉球史料』第3集、p510。
(58)元沖縄県立博物館長外間正幸氏による。同氏には、資料提供等でご協力を賜った。
(59)たとえば、兼城賢松「日本国民の育成ということとそれに対する一提案」(沖縄教職員会『沖縄の教育』、1963、pp3~22)。
(60)大田昌秀『沖縄の帝王ー高等弁務官』、1984。
(61)鹿野政直『戦後沖縄の思想象』、pp26~27。
(62)鹿野政直『戦後沖縄の思想象』、p27。
(63)大田昌秀『沖縄の帝王ー高等弁務官』、pp60~63。
(64)柳宗悦『沖縄の人文』、1972。
(65)沖縄タイムス社『沖縄の証言(上)』、1971、p11。
(66)沖縄タイムス社『沖縄の証言(上)』、1971、p11。
(67)沖縄県教育委員会『沖縄県史料』戦後1「沖縄諮詢会記録」、p591。
(68)『琉球博物館三十年史』、pp11~12。
(69)『琉球博物館三十年史』、pp11~12。
(70)『琉球博物館三十年史』、p14。
(71)『那覇市史』資料編第3巻3「戦後新聞集成1」、1978、p99。
(72)『那覇市史』資料編第3巻3「戦後新聞集成1」、pp203~204。
(73)『琉球博物館三十年史』、p14。
(74)『那覇市史』資料編第3巻3「戦後新聞集成1」、pp264~265。
(75)『琉球博物館三十年史』、p14。
(76)「沖縄タイムス」1953.5.28 
(77)「琉球政府文教局組織規則」
(78)『琉球博物館三十年史』、p17.
(79)『沖縄県立博物館三十年記念誌』、1976、p25。 
(80)大田昌秀『沖縄の帝王ー高等弁務官』、pp201~201。
(81)『那覇市史』資料編第3巻3「戦後新聞集成1」、p117。
(82)『琉球博物館三十年史』、p16。
(83)『琉球博物館三十年史』、pp16~19。
(84)『琉球史料』第3集、p438。
(85)沖縄県博物館協会『沖縄の博物館』、1983、pp53~54。
(86)沖縄県博物館協会『沖縄の博物館』
(87)1955年4月8日公布の「琉球政府文教局組織規則」では、「美術」「歴史」に「土俗」他を加えた博物館と規定するが、1961年7月31日公布の「琉球政府行政組織法」では、「歴史、芸術、民俗、産業、自然科学等」の各種資料を対象とするよう改正されている。しかし、本格的な「総合化」は昭和49年度から始まる。
(88)「琉球新報」1987.11.1
(89)『博物館学講座2-日本と世界の博物館史ー』、1981。 
                                                                                             (13645字)                                              
                                                     (小林文人・平良研一編『民衆と社会教育ー戦後沖縄社会教育史研究』 1988.2 エイデル研究所)

「むら」の仕組みと労働慣行ー旧佐敷村の社会生活 (2)

2012-06-28 01:26:53 | Weblog
むらの「罪」と「罰」  労働慣行  家族の労働  共同労働  ヒヨーとイリチリー

むらの「罪」と「罰」

 むらにとって、社会生活が円滑に維持されるのが何より望ましいことであった。そのための共通理解があり、協約事項があって、秩序を乱したり、規則を破る者には一定の注意なり、処罰が加えられるものとされた。「罪」と「罰」に関わる規則を最終的に決めて、むら中に通達するためには、15歳以上の男女全員が集まるジーンチュズリーが開かれねばならなかった。

 むらにおいて「罪」と見なされる行為はいろいろあり、これに対する処罰の方法もいろいろあったことが予想される。しかし、大半のむらではこれらについて詳しく聞くことはできなかった。狭いむらでは、規制は比較的よく行き届いており、むらは平穏であったという印象が強く残っている、ということであろうが、また特定の家庭や個人に関わるとして口をつぐむこともあっただろう。ここでは人口が多く、港も持っていて、よその市町村やよそのむらからの移住者が多かった津波古の事例を中心に述べてみよう。

 もっとも罪深いとされたのは、盗みであった。ただし、盗みといっても屋内に忍び込んで金銭を盗むというような事件は、ごくまれにしかない。むしろ、畑仕事や家畜の飼育など、生業に支障をきたす盗みが多かった。たとえば、茅モーから無断で茅を刈ること、他人の畑のカンダ(甘藷のかずら)を刈り取ること、大根やニンジンなどの野菜を盗むこと、所有の自他を問わず、畑のサトウキビを盗み食いすること、などである。
 この種の盗みを監視、摘発する方法として、津波古にはサンバクーがあった。同時に懲罰の名称でもあった。津波古にはサンバクーが7口あった。ということは、盗みをしてサンバクーを科されている者が常時7人いるということで、彼らは盗みの現行犯を見つけない限りは、1日銭の計算で罰金をむらに納めなければならなかった。サンバクーの対象となる「罪」は、他にソテツの葉を盗む(葉で箒が作れる)、海岸からアダンの葉を切る(防潮林はアダンでできていた。その葉は草履や当時流行したアダン葉帽子が編めた)、山から木を伐る、他人の田畑の畦の草を刈る、むらの人々全員が仕事を休んで憩うアブシバレーに畑作業をする、ウスエー(硬貨の裏表を当て合う賭博)をする、などである。甘薯のかずらやソテツは葉が9枚まではよいが、10枚以上ついたものは禁止というように細かい規制がなされたほどである。港に置かれている他人のサバニ(小舟)に乗ることも禁じられ、サンバクーの対象となっっていた。

 むらでは、畑で働いてよいのは明るいうちだけであった。家畜の餌が不足して日が暮れてから畑で甘薯のかずらを刈るためには、盗んだものでないことを示すために薯も一緒に掘って来なければならなかった。そこで、サンバクーを科されている人間は日が沈んでから、時には明け方まで、盗みの現行犯を探しまわったという。現行犯を見つけると、サンバクーを渡す旨言い渡すとともに証拠の品をとりあげて、暗いうちはそのまま、明け方だとその日の夕方、コーサクグヮーのところに二人で赴いて、むらの帳簿を書き換えてもらった。コーサクグヮーとは、「むらの役職」でも触れたが、各砂糖組の世話役で、製糖関係ばかりでなく、むらの行政職務も一部代行しており、津波古ではサンバクーの金銭徴収も彼の仕事であった。摘発者と摘発された者との間に論争が起こる場合は、コーサクグヮーやむらの有志が裁定者となった。サンバクーに関わる盗みの件で、コーサクグヮーは一晩に2、3回もたたき起こされることがあったという。しかし、気の弱い者はこのサンバクーを何年も持つことにもなり、沖縄戦でこの制度が自然消滅になってようやく解放された人もいたという。何よりもサンバクーが怖かったと話者はいう。

 サンバクーの対象になるのは、7歳以上とされたが、罪を犯すのは若者たちが多かった。家畜の草刈は若者たちの重要な日課であったし、グループで夜中まで遊び、畑からサトウキビを盗んで食べるのも彼らであった。畑や屋敷内の野菜は盗んでならないが、ミカン(シークヮーサー)などの果物はサンバクーの対象とならないので、モーアシビーの帰りにグループで果物を盗むことなど、よくあったという。
 小谷でも津波古のサンバクーと似た制度があったが、ここではミカンやバンジロー(グァバ)などの果物を盗むのは罰金の対象となった。現行犯で押さえられた者は、次の盗みを見つけるまで1日1厘ずつ、昭和15年頃には1銭ずつを納めたという。字佐敷では「1貫札」が2口あり、1日1銭の罰金となっていた。富祖崎にも同じような罰金制度があった。

 津波古には砂糖組が8組あり、各クミから1人ずつ夜警を出した。彼らはハチニンガシラと呼ばれ、週に1回ずつ6尺棒を持って夕方からむらの行政区域全般を巡回した。無断の茅刈りやアダン葉盗み、モーアシビーの監視・取締りが主な任務であった。茅刈り、草刈りは他のむらや隣村の与那原、その先の西原あたりからも来たという。他むら、他村(そん)から泥棒がむらに入ったというような場合も、ハチニンガシラが取り締まり、また山原船の乗組員が酒を飲んで騒ぐのを見張るのも彼らの仕事であった。ハチニンガシラの制度は、大正2、3年頃まで続いた。

 津波古では、薯のかずらや畦の草刈り、無断の茅刈りなどの盗みをした者を摘発し、またむらの暴れ者に懲罰を加える方法としてフダイリ(札入れ)も行なわれた。ムラヤーには、ミックヮーバークー(盲箱)が置かれていて盗みをした者の名と盗みの内容、あるいは暴れ者の名前などを記入した札を入れられるようになっていた。日を決めて15歳以上の男女全員を集合させ、むらの役員が箱を開いて報告し、本人をみなの前に呼び出して罰金を申し付けるというものであった。罰金は40円という大金であったため、盗みを見つけても札を入れないことが多かったという。明治34年生まれの話者が物心ついてから、このフダイリで摘発されたのはたった1人であったという。本人が罰金を納めきれない場合は、ヤギや豚などの家畜を没収し、それも不可能な場合は、親類が納めなければならなかった。フダイリは、大正2、3年頃まで行なわれたという。キビ苗を盗んだり、鶏を盗んだり、他のむらで空き巣に入るような村の嫌われ者を懲らしめる方法として「ティーヒチェー」があった。年に1回も開かれなかったが、ティーヒチェーで懲らしめなければならないと判断される人物がいる場合は、むらの有志が開催を提案した。この時は、15歳以上の男女全員が、土帝君前の広場に集まった。特別の理由もなく集まらない者には罰金が科された。合図とともに5人1組で手をつなぎ、嫌われ者とは手をつなぐのを拒否したので、結局本人は皆からつまはじきされる格好になった。そこで彼は皆に詫びを入れ、村の役職から訓告を受けた。ティーヒチェーは、大正6、7年頃まで行なわれたという。フダイリやティーヒチェーで告発される人間は少なかったが、これがむらの人びとに無言の圧力となり、むらの風紀を維持する結果となったことは、想像に難くない。

 どのむらでも鶏の放し飼いは禁止された。畑や屋敷内の野菜を食い荒らされるのを恐れたからである。とくに、豆の植え付けや収穫の時期、あるいは稲の収穫時期には、鶏を囲うよう、むらからきびしく言い渡された。鶏の飼育数にも制限があった。制限飼育数は2羽から5羽であった。外間では4羽まで飼育が許されていて、それ以上飼いたいときは、むらに申請し、その分の「税」を納めねばならなかった。
 むらでは、鶏の放し飼いや飼育数を調べるトゥイトゥイ(鶏取り)がときどき実施された。むらの役職が回るところや、若者や子どもたちが回るむらもあった。規制期間中に放し飼いになっている鶏や、制限数以上の鶏を取り上げたが、外間では足の長さにも制限があり、数のうえでは規定範囲であっても、足の長さが規定以上だと取り上げたという。足の長い鶏は、麦畑やトーナチン(ナミモロコシ)畑などにも入るから、というのが理由であった。捕獲した鶏は売り払い、むらの費用や青年会の活動費、子どもたちの「ムーチーユレー」の費用などに回された。

労働慣行

 戦前は、津波古に商業、飲食業、旅館業などを営む人がおり、富祖崎や仲伊保に漁業を営む人がいたが、むら人の大半は農業に従事していた。したがって労働の形も、農業を柱とする生活様式に規定された。労働の単位で見ると、家族単位か、親類や友人の手を借りるか、あるいはクミの一員として相互扶助体制で行なうもの、そしてむら自体が単位となる共同作業に分かれた。家族で行なう仕事は、日々の農耕作業、家畜の飼育、副業としてニクブク(ワラ編みの敷物)編み、帽子編みなどであり、相互扶助による労働には製糖作業、稲や豆の植え付けと収穫、あるいは屋根葺き、建物の新築や補修、墓普請などがあった。むらの共同作業としては、道や橋の普請、土手の修復、ムラヤーなど共同施設の建造や修復があった。むらの共同作業には、前述のように、むらの一員たる資格を持つ15歳以上の者が参加した。
 昼、夜、雨天時と、その時々の仕事があった。たきたま夕食後のひととき、夕涼みをしたり、海に近いところでは夜釣りに出かけたりする程度で、1日中休めるのは前述のアブシバレーや盆、正月ぐらいであった。

 家族で行なう労働は言うに及ばず、クミの相互扶助や、むらの共同作業にしても、労働の対価として金銭が支払われることはなく、無報酬と決まっていた。個人的な労働として見れば、現金収入を得るために、あるいは借金や利子の返済のための賃労働も行なわれた。1日単位のそれは「ヒヨー」で、日雇いのことである。もう1つの形は「イリチリー」で、借金またはその利子の返済のために年季を決めて、通いで、あるいいは住み込みで働くものであった。

家族の労働

 家族内の労働においては、年齢を問わずに働ける者は仕事を分担したし、またさせられた。家の男たちは、若者も含めて夜が明けきらないうちに起床し、家畜の草刈りに出かけた。一方、主婦は男たちより早く起きて、主食の薯を煮た。シンメーナービと呼ばれる大鍋の約1杯分が1日分の主食であった。男たちが刈ってきた草を牛やヤギに与えて後に朝食が始まる。煮たての薯とイチャガラス(イカの塩辛)やカラスグヮー(アイゴの塩辛)程度の朝食であった。 

 朝食がすむとまもなく男たちは畑に出かけた。畑に出るのに農具だけをかついで行くことは、まずなかった。家畜小屋からカジグエー(糞のまじった枯れ草)を取り出し、オーダー(もっこ)にかつぐか、ミジグエー(溜めておいた尿)を桶にかついで畑に向かった。畑で毎日やる仕事は薯掘りであり、時期によってサトウキビの手入れ、大豆の植え付け、収穫などの仕事があった。換金作物はサトウキビだけと言ってよいぐらいで、大豆は豆腐をつくるために栽培した。他の野菜は家族で食べる程度のもので、畑の一角か屋敷内の菜園で栽培された。

 正午頃、シトゥミティナカー(ちょっとした間食)をとり、アサバン(アシバン、昼食のこと)は普通午後3時頃になった。田畑から家が近い場合はいったん帰宅するkともあったが、家族だけで食事をするときは、朝食同様にイチャガラス、カラスグヮー、ラッキョウなどの漬物がつく程度であった。田畑から戻るのは、日が暮れかかっることであった。帰る時は、掘った薯をバーキ(ざる)に入れてオーダーでかつぎ、また時折は薯のかずらや、石や薪などをかついで帰った。かずらは家畜の餌にし、石は石垣や井戸その他を作ったり、補修したりするためのものであった。

 一方、女たちは朝食の片付けがすむと、豚の餌づくりにとりかかった。カンダバー(薯のかずら)を、煮た薯と合わせて茹で、つぶしたものであった。できた餌を豚に与えるのも女たちの仕事で、午前は10頃、夕方は5時から6時頃にかけて与えるのが常であった。男たちが外に出ている間、牛馬の草を補充したり、水を与えるのも彼女たちの役割であった。
 ふだん女たちは、洗濯、育児、炊事などの家事に従い、若い娘たちは帽子編みをした。この帽子編みは、数少ない現金収入の手段であった。帽子編みは戦後も一時期続いている。豆の植え付けや製糖期などの農繁期には、よそからも手伝いやウィーマールー(相互扶助)の人たちが来るので、食事の準備や運搬、片付けに忙しかった。女が畑に出るのh、収穫後のサトウキビ畑の打ち返しのときであった。

 夕食後は、若者はモーアシビーに出たが、他の男たちは、サトウキビの葉で縄(サトウキビを束ねるもの)をなったり、農具の手入れ、バーキ作りと何かと忙しかった。ニクブクを編むこともあった。このニクブク編みは副業の1つで、首里の酒屋に売れた。床に就くのは8時頃で、9時まで起きるところは珍しかった。雨天日には晴れた日だと夕食後に行なう仕事を継続した。若い男女は帽子編みに専念した。一方、子どもたちも、毎日水汲み、薯洗い、家畜の草刈や世話など、大人たちの仕事を手伝うのが当たり前とされていた。

共同労働

 共同労働には、生業に関わるヰーマールー(相互扶助作業)と、むら単位の作業の2つがあった。生業に関わる共同労働では、製糖作業が大きな比重を占めた。各むらには1つ以上の砂糖組があることはすでに述べたが、1組10戸で構成され、作業は1戸あたり3日間で終了した。1日目が刈り取りと運搬、2日目が製糖場(サーターヤー)での製糖作業、3日目が刈り取りの後の畑の打ち直しというスケジュールであった。製糖機械は、石製か鉄製の車を横倒しに3台連結し、取り付けられた長い棒を馬に引かせて車を回転させるという構造になっていた。サトウキビを人力で車と車の接点に挟み込み、回転力で圧搾するという仕組みである。圧搾汁を釜に運ぶ作業、キビの圧搾、馬追い、絞り汁を釜に運ぶ作業、釜炊き、絞り汁を煮詰めて砂糖に仕上げる作業、さらには薪の運搬、搾りかすの片付けと運搬など、分担して仕事が行なわれた。きびしい作業が、1戸あたり3日計算で、組加入の全戸について行なわれるのであるから、1ヶ月以上もハードな作業が続いたことになる。
 稲作、大豆作りなどのような野良仕事でも、植え付けや収穫の時は、親類や友人が加わった相互扶助体制で行なわれることが、たびたびであった。田植えの例で言えば、苗をとる者、運ぶ者、植える者、食事の準備をする者など、手分けして作業が進められた。

 津波古の製糖作業では、砂糖の製造量に多少の差はあっても、ともかく製造、畑の打ち直しが終るまでは労力を提供しなければならないことになっていて、必ずしも厳密な意味での相互扶助の体制にはなっていなかった。組の構成員に内心不満な者がいても表には出さなかったというが、これはむしろ例外で、新里のように1人対1人、1日対1日というのが労働力返済の基本原則であり、病気の者は免除というのが一般的であった。製糖作業その他の相互扶助による共同労働においては、組の係が作業の日数や人数をチェックして、全日程終了後には、不足分は金銭を払わせるなどのクヮフスクー(決算)が行なわれた。したがって、新里では1戸から2、3人出てもよかったという。

 家屋の新築、屋根の葺き替え、あるいは墓の建造や改修、土手の修理なども親類、友人、あるいは砂糖組による相互扶助によって行なわれた。新里では、砂糖組のなかに「クミエー」と呼ばれる小単位があり、家屋や家畜小屋作りなどの相互扶助体制をつくっていた。津波古には砂糖組所有のカヤモー(前述、茅刈り専用の原野)があり、13年に1度、屋根葺き替え用の茅がもらえる順番になっていた。茅刈りは前夜のうちに終わり、次の日は茅を運搬、その日のうちに葺き上げてしまうのが常であった。茅葺きに使う各種の縄や竹などもヰーマールー式の提供でまかなった(津波古)。

 家造りや墓普請、ニービチ(結婚祝い)の時、親類や友人同士が豆腐や野菜(カボチャ、トウガンなど)などを交互に持ち寄るヰーマールーもあった。豆腐の場合、豆まで提供する場合と、豆腐づくりだけを提供する場合の2通りがあった(新里)。シンメーナービの1釜分、あるいは1箱10丁、豆の盛増し2升などの計算で行なわれた。
 道普請、橋造りなど、むらの人々全体で関わる作業は、むら行事として、各戸割り当てによって実施された。津波古ではむらの規模が大きいため、クナ(クミ)単位で行なわれたが、母子家庭も1人宛出ることになっていて、欠席した家庭にはクヮシン(科銭)が科された。大正15年頃で14、5銭程度だったという。畑のねずみ駆除もクナで実施された。

ヒヨーとイリチリー

 1日単位の賃労働は、ヒヨー(日雇)と呼ばれた。仕事は農耕作業が主で、賃金は大正初期で25銭であった。昭和に入ってからは、40銭から50銭が相場になった。労働時間は朝8時事から日没までがふつうで、間食を含む食事時間以外、休暇時間とてなく、その場で鍬を休める程度であった。

借金やその利子を返済するために、期限を決めて特定の農家の農耕作業などに従事し、その賃金を返済に充てる労働形態がイリチリーであった。借金相手の家で働く場合と、よそから借金し、賃金で返済を続けていく場合があった。新里では、イリチリーによる働き手は、むら内の人もいたが、他のむら、他村(そん)から来る人が多かった。遠くは羽地村、勝連村、隣村の玉城村喜良原、大里村高宮城、佐敷村内では兼久、富祖崎などの人がいた。遠くから来た人は、住み込みで働いた。通いの場合は1日越し、2日越し、あるいは3日越しの年季奉公もあった。小学校卒業後の14歳から20歳までの5年間で800円の契約だったという例がある(津波古)が、これはよい方で、別のところでは1年間のイリチリーディマ(契約賃金)は働き者で100円、ふつうは7、80円ぐらいであったという。小学校卒業後の月あたりの賃金が1円、年に10円余という時代であった。

賃金は作業者に支給されるわけではなく、また運搬用の棒・オーダー(もっこ)は自分持ち、住み込みの場合は畜舎などの屋根裏部屋が寝泊りする所だった。イリチリーの状態にある者は、かげで「イリチリーサー」、「ンジャックヮ」などと呼ばれて、親類からもきらわれ、家系からはずされることさえあったとのことである。縄に結び目をつくり、夕食前に1つずつ切り落としては、奉公が明けるのを心待ちにする者もいたという。(7761字)



沖縄の経塚・経碑

2012-06-27 03:22:05 | Weblog
はじめに 現存する経塚・経碑 散逸した経碑 比較と考察

はじめに
 
 首里から浦添に通じるバス道路をしばらく行って首里を抜けると、まもなく経塚という名の集落に至る。バス道路が右にカーブする地点で、左側にまっすぐ細い道が伸びていて、これは旧道である。旧道を50メートルも歩くと、右手の小高い丘に石碑が建っていて、一帯は拝所になっていることがわかる。碑には「金剛嶺」と刻まれている。
 
 この碑は、『浦添市史』第3巻によると、俗に「経塚の碑」と呼ばれ、土地の人々は氏神として尊崇参拝し、旧10月1日には例祭が執り行われるという。また、この一帯は「ウチョーモー」(お経を埋めた野原)とも呼ばれ、地震の際、この地だけはけっして揺れないと言われ、「チョーチカチカ」を3度唱えると被災しないとも伝えられているとのことである。「チョーチカ」は「きょーつか」がなまったものと見られている。

 沖縄で、経塚に関連する地名を持つのはこの地だけであり、経塚に関する調査・研究も少ない。これまでの報告を二、三紹介すると、まず八重山石垣市富崎にあったとされる妙法蓮華経碑に関する喜舎場永氏と宮良賢貞氏の論争があり、当事者の一人宮良氏の論説が氏の『八重山芸能と民俗』に3篇収録されている。氏は、『球陽』に記録される桃林寺住職義翁建立の経塚は、近世日本で盛行した「一字一石経」経塚であり、本島の経塚(事例として浦添の経塚と首里西来院の経碑)もこの部類に属すると述べている。(1)

 一方、宮家準氏は、「遊行宗教者ー山伏の跡を求めて」の中であらまし次のように述べている。

 琉球の遊行宗教者の足跡には、彼らが修験僧と密接な関係を持っていた、あるいは修験者地震であったかもしれないと推測せしめる多くのものがある。まず、大蛇退治の伝説がある。これは、基本的には修験僧が土地の悪霊を封じ込めて鎮める力を持つという信仰に根ざしている。経塚の造塔も同様の信仰に根ざす宗教活動である。経塚造塔の大部分は除魔の目的で経石、金剛般若経などの経を納めたものである。似たような話で、宮古狩俣で空海が刀を土中におさめたとする伝承がある。これらはいずれも、地霊を鎮める目的で地中に経石、経・刀などをおさめて埋める修験道の信仰と類似している。(2)

 多田孝正氏は、「浦添経塚について」において、他の地に建つ経塚・経碑・梵字碑等の伝承、記録を比較しながら、考察を加えておられるが(3)、氏の所説については、後で触れることにしたい。

 本稿では、沖縄県教育委員会文化課が昭和58年度、59年度の2年がかりで調査した金石分遺品調査の調査実務、および報告者編集担当者として、筆者が得た若干の知見を述べてみたい。(4)なお、本稿で述べる経塚については、いずれも正式な発掘調査が行われたことはない。関秀夫氏は「経碑は単なる経典を書写したことを記念するために建立する場合もあり、地下埋納の経石の確認調査が行われないものについては、一石経塚とはいえないものであろう」と述べておられる。(5)本稿も近世琉球の経塚・経碑が一字一石経の系列にあることを述べんとするものではあるが、経石の確認がない現段階では、あくまで仮説的な論考である。

現存する経塚・経碑

 ところで、浦添の経塚は文献にも記載がある。たとえば、『琉球国旧記』(1731)では、「経墓」の見出しで次のように記されている。 

 昔日、此地多妖怪、時時出来、詐変状貌、屡悩行路人、時有日秀上人、写経于小石、蔵之于小石、即建碑石、以圧之、碑石有大書、金剛嶺三字、自此而来、妖怪不復起、而行旅之人、亦楽往還之安御焉。

 昔、この地に「妖怪」が出没し、しばしば往来する人々を悩ませた。時に日秀上人という人がいて、小石に経文を筆写してこの山に埋め、その上に碑石を建てて「金剛嶺」の三字を大書したところ、妖怪は再び現れることなく、人々は安心して往還した、というのである。『琉球国由来記』(1713)はでは「窃ニ思フニ、日秀上人、当国滞在之時、金剛経書写シ玉ヒテ、為被埋歟」として、経名まであげている。
 日秀については、島尻勝太郎(6)、宮家準(7)、多田孝正(8)、氏等の考察があり、ここで詳述はしないが、1503年、上野もしくは加賀の出自で、尚真時代、16世紀の初めに来琉し、多くの仏教的事跡を残して、20余年後に薩摩に渡っている。宮家、多田両氏は日秀を琉球に数多く渡来した高野聖の1人と推測している点で一致している。

 浦添の経碑には「金剛嶺」と記されるのみで、建碑者も建碑年も書かれていない。現存する経碑中、建碑者・建碑年が明記されているものでもっとも古いのは、沖縄本島北部国頭村奥間の「金剛山碑」である。同碑は正面に「金剛山」と刻され、向かって左側面下段に次の碑文が刻まれている。

 康煕四十五年丙戌八月十四日国頭奥間村江参り向氏国頭親方朝稘公請我がるまをさせ給也 其志誠以難申述候 我無徳ニ而別ニ無可謝恩為結縁経墓相企候ニ付老若男女相喜浜ニ至り過分ニ石を拾い聚候 依之がるまの余ニ奉書写金剛経也
 願ハ此功徳を以て朝稘公及間切中老若男女等ニ至迄無病息災延命ニ而弥児孫繁栄 東峰拝書

 碑文の内容は、康煕45(1706)年8月14日に、国頭間切奥間村に来たところ、国頭親方朝稘公より「がるま」を請われた。その志の深さは誠に申し述べがたく、自分は無徳で、別に謝恩の意思を表明できるものもないので、人々に仏縁を結ぼうと「経墓」を建てることを企てた。そうしたところ、老若男女皆ともに相喜び、浜に行って多くの小石を拾い集めて来た。そこで、「がるま之余」にこれらの小石に「金剛経」を書写し、奉納した。願わくばこの功徳によって朝稘公始め間切中の老若男女に至るまで、無病息災、延命にして、子孫もいよいよ繁栄せんことを、というものである。

 「がるま」は、仏教儀礼のようだが、意味不明。この碑は社殿の中に「南無阿弥陀仏」と刻まれた同室石材の碑と並べて建てられていて、奥間集落の拝所になっている。現在は定例の祭りはないが、戦前から終戦直後にかけては、10月15日が例祭で、村・字で祭ったという。個人的にも旅に出たり、出征のときは、集落を離れている間の健康と無事を祈願し、また子供が生まれたときは、奥間の浜から小石を拾ってきて、ここに奉納したという。

 奥間の人で碑文の詳しい内容を知る人はなく、筆者の東峰という人物も知られていない。ただ、碑の建立された10月5日を例祭としていたこと、健康祈願や生まれた子供の無事・長命を祈願したというところに、僧東峰の経塚を築いた意図が貫かれていることをかいま見ることができる。興味深いのは『沖縄県国頭郡志』でここを俗に経塚と言い、日秀上人の建立だと伝えられていると記されていることである。(9)
碑文から経塚築造および経碑の建立年、そして築造の当事者まで明らかであるにもかかわらず、各地を巡行し、多くの事跡を残したとされる日秀上人に付会して語り伝えられていたところに、著名な仏教的遊行者が、伝説世界に進入する有様がうかがえておもしろい。

 東峰は、東恩納寛惇の『南島風土記』によれば、首里万松院不羈の弟子元仁のことで、名護に万松院を創建し、首里の万松院は蓮華院と改められた。不羈は脱心(諱祖頴)の雅号で、詩をよくしたが、弟子の元仁も詩才があり、東峰はその雅号だという。(10)尚敬王の冊封副使徐保光が「為東峰上人賦」として詠んだ「天授山万松院歌」が、彼が著した『中山伝信録』に収録されている。なお、『琉球国由来記』を見ると、東峰は天王寺、天界寺、崇元寺、安国寺の住持も勤めている。

 「金剛経」を小石に書写し、経塚を築いて碑を建てたと見られる事例は、伊江村にもある。現在は伊江村教育委員会に保管されているが、もと照太寺にあったと言われる「金剛尊経碑」である。同碑は表に「金剛尊経」と刻まれ、裏に「乾隆三十九年甲午三月吉旦 棟山盥手書之一石三拝建立」とある。1774年の建立で、棟山は『伊江村史』によれば、1772年から1775年まで照太寺の住持を勤めている。照太寺は臨済宗に属する寺で、尚清王時代(1527~1555)の創建と伝えられる。

 首里の西来院達磨寺庭に建つ碑は、細粒砂岩製で剥離がひどいが、現在台湾大学に残る戦前の拓本を参照しつつ見ていくと、碑の表には中央に「妙法蓮華経全部」と大書され、その下に「謹奉書写一字一拝太本敬立」と記されている。その両側には、国頭村奥間の「金剛山」碑と同じ法華経「化城喩品」中の偈文「願以此功徳云々」が刻まれている。裏文は、剥離が進んで、判読不能な箇所が少なからずあり、全文の解読は不可能だが、僧古関太本が仏道帰依について半生を振り返り、「児孫」の仏道成就を祈願する旨を述べたものと推察される。法華経「法師品」には、法華経を書写することの功徳が説かれている。

 古関については、『球陽』に記事がある。尚穆9(1760)年の条に「古関和尚、奏して天徳山号を改め、併せて禅鑑師の木主を設く」(原漢文)と題して、古関が国王に奏して浦添にある天徳山龍福寺の山号寺名を元のとおり「補陀洛山極楽寺」と改称し、開祖禅鑑の神主を寺内に設置したことが、書かれている。(11)古関が臨済宗の僧侶であったことは、龍福寺が禅宗の寺院であること(『琉球国由来記』など)によって知ることができる。王国時代に公認された仏教宗派は「真言宗」と「臨在宗」に限られていたからである。碑文中の「丙申」という干支と、『球陽』の記事から建碑念は1776年と推測される。この碑が建つ西来院は菊隠(?~1620)の創建で、もと首里上儀保村にあったが、100年ほど前に現在地に移転したという。この碑文が本来西来院にあったものかどうか不明である。碑文中に「当山」とあるが、それがどの寺を指すかも明らかでない。

 経碑と考えられるものが、もう一基宮古平良市(現宮古島市)にある。祥雲寺に隣接する観音堂の境内に建つもので、表に「経呪嶺」と大書され、裏には「雍正丙辰冬白川氏恵道建焉」と記されている。1736年、白川氏恵道によって建立されたもので、恵道は1731年から1737年まで平良の頭職を務めており、在任中に建てられたものである。経文の呪力によって願意を成就しようとしたものだろうが、経名や建碑の趣旨は明らかでない。島の役人として首里に上る機会もあっただろうし、観音堂の境内に建つところからすると、あるいは航海の安全を祈願して建てたものか。


(1)「富崎経塚記」「続・富崎経塚記」「富崎観音堂経塚塔婆面の刻字について」宮良賢貞『八重山芸能と民俗』(根元書房 1979)
(2)宮家準「遊行宗教者ー山伏の跡を求めて」窪徳忠編『沖縄の外来宗教』 弘文堂 1978)
(3)多田孝正「浦添経塚について」沖縄県教育委員会編『沖縄県歴史の道調査報告書』 1985)
(4)本稿における経碑の資料は、ことわらない限り同調査の報告書『金石文ー歴史資料調査報告書Ⅴ』(沖縄県教育委員会 1985)に収録されたものを利用している。
(5)関秀夫「歴史考古学の現状と課題②ー宗教の諸相」板詰秀一・森郁夫編『日本歴史考古学を学ぶ』中 有斐閣 1986)
(6)島尻勝太郎「護国寺の創建と日秀上人」『沖縄大学紀要』第1号(同大学 1980)
(7)宮家準前掲論文。
(8)多田孝正前掲論文。
(9)島袋源一郎『沖縄県国頭郡志』(大正8)
(10)東恩納寛惇『南島風土記』「蓮華院」の項。
(11)球陽研究会編『球陽』(角川書店 1974)


散逸した経碑

 文献に見えながら、現存が確認されないか、残欠のみの経碑ないし経塚がある。
『球陽』の尚敬27(1739)年に「経塚並びに一堂を八重山島富崎に営建す」と題する次の記述が見える。

富崎浦は、常に船隻往還する所の処なり。是を以て桃林寺住僧義翁長老、海上安瀾の為に、塚を此に建つ。乃ち記して曰く、妙法蓮華経全部を一字一石に書写し奉ると。又、乾隆七年、順天氏西表首里大屋子真香、其の一堂を造営す。(原漢文)

 桃林寺の創建は1614年で、臨在宗妙心寺派の寺として今日に至っている。義翁が何代の住職か不明だが、現存仁王像の背面に刻された「奉喜捨 現住義翁代 当所頭並諸役人 維時雍正十五歳在丁巳作 (以下略)」中の「義翁」と同一人物であろう。「正十五歳」は1737年に当たる。

 戦後、この経塚の性格について地元石垣市で論争が行なわれている。喜舎場永氏と宮良賢貞氏の間で行なわれたもので、宮良氏の批判は、喜舎場氏が「(義翁)が妙法蓮華経の全文を一字一石毎に書写して土中に埋めて、その上に石碑を建て、南無妙法蓮華経の七字を刻して経塚といって創建したのである。これが八重山での日蓮宗の芽生えである」(12)、と述べたことに対して加えられた。批判の主旨は、はたして法華経の「全文」を書写したかどうかと、禅宗の寺院桃林寺の僧義翁が日蓮宗の題目である「南無妙法蓮華経」を刻したことの是非である。

当該地の発掘調査がなされておらず、また宮良氏が観音堂の裏山から発掘した経碑と見られるものの残欠は文字の部分を欠いているため、十分な批判たりえていないが、少なくとも『球陽』記述では「妙法蓮華経全部」とあって「南無」の字は見えないこと、また当時の琉球にあっては、仏教宗派の布教は真言宗と臨在宗に限られていて、日蓮宗他は禁制となっていたことからして、また前述したように臨済宗の首里西来院に同じく「妙法蓮華経全部」と記され、「一字」毎に「一拝」して書写し、奉じた旨の記述が施されている1776年建立の経碑が現存することから、そして法華経は日蓮宗に限らず優れた大乗経典として天台宗を始め、他の宗派でも珍重されていることからして、「日蓮宗の芽生え」とするのは、勇み足の感が否めない。

桃林寺の住持が境内に経塚を築いたとする記事が、もう一篇『球陽』にある。尚敬30(1742)年の項に、「経塚を八重山島桃林寺の囲中に営建す」と題するものである。

八重山島桃林寺の住僧徹道長老、衆人の為に災いを除き、福を祈りて此の塚を建つ。乃ち記に曰く、金剛般若経全部を一字一石に書写し奉ると。(原漢文)

この経塚も現存しない。

 戦前の沖縄図書館や郷土博物館の資料目録をめくると、経碑らしきものの拓本が見える。いずれも原碑、拓本ともに存在しない。

1. 妙法蓮華経碑   一品三拝  脱心  康熙30(1691)年
                『郷土誌料目録』(昭和4年3月 沖縄県立沖縄図書館)
※脱心(祖頴)(1632~1697)は、尚貞王時代の冊封使汪楫滞在時(1683年)の万松院3世住持で、隠遁した後を弟子の徳叟に譲り、院号はもう1人の弟子東峰(元仁)に譲った。雅号を不羈と称し、詩を良くしたことは既述の通りである。脱心の略歴は、真境名安興著『沖縄一千年史』にも記されている。
2. 一品三拝   首里蓮華院   康熙31(1692)年
                『沖縄県教育会附郷土博物館目録』(昭和14年11月 同館)
3. 妙法蓮華経碑   一石一字拝   祖頴 
                  前記『郷土誌料目録』
4. 一石一字拝  首里蓮華院  康熙31年
※以上4基のうち、1と2、3と4は、それぞれ同一経碑と考えられる。
5.金剛土   弁ヶ嶽   康熙52(1713)年
                  前記『郷土博物館目録』
※真栄平房敬氏によれば、戦前弁ヶ嶽頂上に石碑が建っていたという話を古老から聞いたことがあるが、何と記されていたか記憶していないと言っておられたとのことである。
6.妙法蓮華経   那覇市若狭町  乾隆41(1776)年
                  『郷土博物館目録』
7.妙法蓮華経   首里市鳥堀町   嘉慶3(1798)年

比較と考察

 現存する経碑、散逸した経碑を含め、建碑年、経碑名、建碑者、建立場所、建立目的、出典などを表記すると、別表の通りとなる。備考中、『誌』は『郷土誌料目録』、『博』は『沖縄県教育会附郷土博物館目録』を示す。
 経塚・経碑の歴史的、仏教史的意義については、今後の発掘調査の結果を待たなければならず、また今回の金石文調査で初めて全県的な分布が明らかになった梵字碑や、他の史跡なども含めて総合的な考察が必要であり、現在の筆者の手に負える課題ではない。ここでは、とりあえず既出資料から直接的に判断できる分を整理してみたい。



 ところで、多田孝正氏は「浦添経塚について」において、国頭村奥間の「金剛山)碑、伊江村の「金剛尊経」碑、北中城村島袋の「諸尊供養碑」、県立博物館の梵字碑等と、日秀上人についての伝承・研究等を比較、考察したうえで、造営・建碑者を必ずしも日秀に限定する必要はない。日秀は高野聖の1人と考えられるが、造営・建碑者は別の高野聖であって、日秀が傑出していたためにたまたま彼の事績に付会されて伝えられたことも十分考えられる、と述べている。表では、冒頭に浦添の経塚を挙げたが、国頭村奥間の「金剛山」碑の建碑者が碑文から「東峰」であることが明らかであるにもかかわらず、日秀上人の建立として語られている事例や、多田氏の考察などからして、日秀以外の建碑と考えてもおかしくはない。

 建碑年を見ると、浦添の経塚を除けば、1691年から1798年の百余年の間に建てられている。この点については、後ほど考察を加えることにして、建碑者は、明らかな分について見る限り、宮古の頭役白川氏恵道を除けばいずれも僧侶で、しかも日秀以外ではすべて禅宗(臨在宗)の僧侶と考えられる。宮古唯一の寺院祥雲寺も臨在宗であったから、隣接する観音堂に残る「経呪嶺」碑の建立にも同寺の住僧が関わったと推測される。とはいえ、地方役人が「奉納」したこと、さらには国頭村奥間において地元の「地頭」の依願で建立が実現し、それに住民が参加した、とする事例もあわせて考えてみると、檀家制度が存しなかった近世琉球において「現世利益」を媒介として仏教側からする布教の姿と、民衆側からする受容のあり方の一例を示すものとして、注目されてよいであろう。

 埋納経では、金剛般若経が一例、「金剛経」もしくはそれと見られるものが4例である。中村元・紀野一義訳注『般若心経・金剛般若経』(岩波書店)の解題によると「金剛経」は「金剛般若経」の略称である。法華経は6例となっている。経塚築造ないし経碑建立の場所では、寺院内の他に観音堂境内、村境、拝所等となっている。建立の目的は除魔・伏魔、無病・息災・延命、航行安全、除災・招福、仏道成就祈願等いろいろあるが、総じて現世利益的となっているのは、前述の通りである。

 ここで、金剛般若経や法華経を埋納する経塚について、他県の事例を垣間見ることにしよう。法華経を埋納するのは古代、中世、近世の如何を問わず、一般的であったようだが、金剛般若経についてはどのようなものであろうか。兜木正享氏著『経塚埋納の経典』にこの経の名が見えるが(13)、古代に限られている。中世、近世における金剛般若経埋納の全国的な報告を知らないので論及は控えるが、試みに琉球と歴史的・文化的に関係の深かった薩摩の事例を、眼に触れた限りで紹介しておきたい。
 金剛般若経埋納の事例が、『鹿児島市史』3巻所収「鹿児島の金石文」に坂元町の経碑として紹介されている。
 奉納石写金剛般若経一誦
  宝暦十年 八月彼岸日
     有無軒観水直計
     実相軒文教志
 国家長久 子孫繁昌 宿願此山 永離塵網(14)
 宝暦10年は1760年に当たる。同書に記載される次の例も金剛般若経のことであろう。川上町にあるもので、1730年の建立である。
 奉発願文及般若経全部一石一字供養
  享保十五年庚戌二月一五日
                      願主密山己龍謹白(15)
 『川内市史』石塔篇にも、「金剛経」に関する経塚が1例収録されている。田海町堂坂にある経塚は、不動明王の坐像で、台座背面に「上原男女百余名員各捨衣資刻不動尊納金剛経石於台之下而結般若縁也」、その側に「宝永三年二月念又八日□□也」と刻まれているという。註では、昔この坂に妖怪が出て人々を苦しめたので、その妖怪を退治するために造立されたとある。(16)宝永3年は、1706年に当たる。

 石を集めて「金剛経」と書写し、嶺の頂きに埋めて、その地を「金剛嶺」と称した事例が、『三国名勝図絵』の玉龍山福昌寺の項にある。説明では「金剛嶺 当寺の艮嶺を指す、石屋禅師石を※(あつ)めて金剛経を書写し、是を埋めて、鎮護とす、是なり」となっている。(17)福昌寺は1394年に島津氏七代元久の請により、石屋真梁禅師が開いた寺で、藩主の菩提寺である。絵では、嶺頭に石碑が建っているが、「金剛嶺」と書かれているかどうかは明らかでない。同寺は明治初期の廃仏毀釈により消失したとされ、同碑が現存するかどうかも不明である。とはいえ、鹿児島の禅寺に浦添と同様の経塚が存在したことは、注目に値する。

『三国名勝図絵』には、日秀上人と法華経経塚に関する記事もあるので、簡単に紹介しておきたい。「善光寺、西寿院」の項によると、同寺は日秀上人の開山になるが、現在地は後世の移転によるもので、当初は諏方道の篠原氏宅地に建っていた。旧地には供養の石塔が多く建っていたが、現在地に移した。そのなかに、「奉書写法華妙文字一石成就所」と記したものがある。また、往時、篠原氏の宅地の一場所に糞桶を置いたところ、この地がその夜鳴動して光明を放つので、家人が驚いてその地を掘ったところ、法華経の一字一石が埋まっていた。そこで、この字石を納めて善光寺に移したという。(18)

 ところで、経塚の発生当初は紙に書写して経筒に納めるというのが、一般的な形式であり、小石に経文を書写して埋める方式は、一字一石経あるいは礫石経と呼ばれた。三宅敏之氏によると、この形式はすでに鎌倉時代にその形を窺わせる例が見られるものの、全国的に盛行するのは江戸時代だという。そして、経文を小石に書写して埋めたとする旨の石塔や石碑は北海道から鹿児島にいたるまで、随所に見られるとのことである。(19)関秀夫氏によれば、礫石経の経典書写方法としては、法華経を一石一字ずつ墨書した例が多く、多字一石経の例は少ない。(20)

 三宅氏は、「経塚ー遺跡と遺構」において、近年ようやく礫石経経塚に対する関心が高まり、調査・研究が進められて来てはいるが、まだ十分とは言い得ないとして、現時点における概要を次のように述べておられる。(21)
 造営の位置は、社寺の境内やその近辺の他、街道筋にも多く見られ、外見からは標識を立てたものが相当数ある。その事例のもっとも早いと考えられるのは暦応2(1339)年の大分県大野郡朝地町上尾塚のは近く石幢で、正面に「浄土三部経一石一字」と刻されているが、経を埋納したとする記述はなく、発掘もまだ行なわれていない。近世の礫石経経塚では、「法華経」、(一字一石)、「石経」などと記した碑石が、各地に多く遺存している。碑石があれば、その大部分は礫石経が埋納されていることが予想されるが、調査は十分進んでいない。

 また、関秀夫氏は『経塚』において、埋経の願意について、追善供養や現世利益のものがかなり多く見られる、と述べている。(22)氏は続けて、近世の礫石経経塚が、中世までに造営されてきた紙本経の経塚と大きく異なる点を、経塚の造営に多数の庶民が直接参加できるようになったことだと述べ、次のように結んでいる。「全国いたるところに、一字一石経の埋納を伝える口碑や経碑が残るが、これも、一紙半銭をもって手軽に経塚の営造に参加し、多数の人と多量の経石をもって功徳の増大をはかることのできる多数作善の思想が、庶民にたやすく受容され、一字一石の経塚を広範囲に広め得たものと考えられる。」国頭村奥間の「金剛山」碑の事例と比較して興味を引かれるところである。

まとめにかえて

 冒頭で述べたように、沖縄の経塚については、発掘調査が行われたことがなく、経文を書いた小石が出土したという話も聞かない。しかし、本稿で紹介した沖縄の資料の範囲で日本本土の礫石経(一字一石経)経塚の場合と比較すると、鹿児島で金剛般若経と法華経の埋納事例が見られる点や、『新版仏教考古学講座』6巻に三宅氏が執筆した「経塚遺物年表」において、経碑と礫石経が並行して多出するのは1709年以降で、以後この形が主流を占めることからして、また薩摩と琉球の深い歴史関係から見ても、礫石経(一字一石経)経塚の伝播が薩摩経由であった、と推定するのは不可能ではない。ただし、その実証は今後を待つ他ない。


(12)喜舎場永『八重山歴史』(1978 復刊)p187
(13)『考古学ジャーナル』第153号(1978 ニュー・サイエンス社)
(14)『鹿児島市史』(同史編纂委員会編 1971) p756
(15)『鹿児島市史』p754
(16)『川内市史』石塔篇(川内郷土史編纂委員会編 1974) p217
(17)『三国名勝図絵』第1巻(1982 青潮社)p335
(18)(17)掲載書p247
(19)『経塚論攷』(1982 雄山閣出版) p331
(20)『経塚』(1985 ニュー・サイエンス社) p93
(21)『新版仏教考古学講座』第6巻(再版 1984 雄山閣出版) pp160~164
(22)『経塚』 p93
(23)『経塚』 p94                                 
                                        (10869字)                                                                                                

「むら」の仕組みと労働慣行ー旧佐敷村の社会生活 (1)

2012-06-25 09:16:40 | Weblog
 はじめに 「シマ」と「ムラ」  「ムラ」の歴史  「ムラ」の立地と区分け  むらの組織  むらの役職  むらの集会  むらの一員であること  子どもたちの集まり  若者の集まり  むらの共有物  

はじめに

 本稿は、沖縄本島南部の東寄りに位置し、西を与那原町、南を南城市玉城(旧玉城村)、東を南城市知念(旧知念村)に囲まれる南城市佐敷(旧佐敷町)の、戦前期(当時は佐敷村)における人々の社会生活と労働慣行を、フィールドワークで得たデータを整理して、記述せんとするものである。記述を概観して一番印象的なのは、<むら>(以下「むら」と記述する。いくつかの「むら」で構成された王国時代の「間切」をベースにして、明治以降に出来上がったのが「佐敷村(そん)」である)の社会生活において、その構成員が平穏な暮らしを維持するために、強固な自治体制をつくりあげんとしてきた絶えざる努力であり、その真摯な姿である。その努力や姿の一端を伝えることができれば、本稿の目的は達成されたも同然と考える。

 さて、本稿でいう「むら」は、発祥時期が不明な在来の「ムラ」と、近世において首里から流れてきた士族によって形成された「ヤードゥイ」の2つに大別され、両者には、立地に始まり、言葉遣いや思考様式、年中行事に至るまで、相応の違いが見られた。むらには、むらそのものの行政組織と、行政的・相互扶助的な機能を持ったクミ(クナ)やチンジュ、さらに製糖作業を共同で行なう砂糖組など各種組織があった。これらの組織には、種々の役職があった。むらにはムラガシラ(区長)、コーサク、などがいてむらの行政を担当した。この人たちの任務は、むらびとの生活全般に関わったが、何よりもむらびとの心をひとつにすることが第一の任務で、仕事としても年中行事の遂行が一番たいへんであったという。一方では、有志・評議員会という代決機関や、戸主会、同志会(「ジンチュ・スリー」、常会)などの総会に相当する集会があり、重要事項が諮られ、決定された。むらの秩序を乱した者に対する罰は、むらの役職とむら人同士で決することもあったが、「大罪」にあたるものは、むら人全員の前で決せられ、執行された。

 子どもたちや若者たちその他で、むらの行政に直接関わる民俗的な組織はなかったが、子どものムーチーアシビーは、公認、非公認の違いはあるものの、それなりの社会的意味が付与されていた。むらびとの大半は農業を営んでおり、貧富の差こそあれ、生活のサイクルに大差はなかった。男たちは、朝起きると家畜の草を刈り、朝食をすませると、田畑に出かけた。女たちは朝食の準備、片付けを終えると家畜の餌をやり、後は家事、育児に専念した。農繁期には、田畑に出ることもあった。晩は晩でそれぞれに仕事があり、終日休めるのは盆、正月などの節日や行事に限られた。

 むらでは、製糖作業のほかにも、稲や各種作物の植え付け、収穫、家屋の新築、屋根の葺き替え、墓普請、葬祭時などにおける相互扶助作業が行なわれた。これらの相互扶助は、労働時間の等価交換と原則とした。もちろん、むらの清掃、道路の普請、橋普請などの共同作業は、参加する義務を課され、理由無しの非参加者には罰金が適用された。労働の形態としては、他に1日単位の賃労働であるヒヨーや、年季奉公のイリチリーがあった。とくに、イリチリーの労働条件はきびしく、一日千秋の思いで年季明けを待ったといわれる。

「シマ」と「ムラ」

 集落は「シマ」とか「ムラ」と呼ばれ、標準語としては「」、「字」の語を当てている。ところが、「シマ」と「ムラ」の語義はまったく同じというわけではない。ニュアンスの違いは、たとえば前者には「私的」な意味合い、後者には「公的」な意義が含まれる。まず、シマの用例を見ると、自分の集落の人を「シマンチュ」、他集落の人を「タシマンチュ」といい、また自分の故郷を「ウマリジマ」と呼ぶ。シマという言葉は、現在そこに住んでいるか否かに関わらず自分が(あるいは「我々」が)生まれ、育った集落をさす。シマの人を「ムラッチュ」とは言わないし、「ウマリジマ」を「ウマリムラ」とは言わないのである。

 一方、「ムラ」にも特定の用法がある。たとえば、「ムラヤー」は今でいう公民館、かつて「事務所」と呼ばれていたところで、各集落の行政施設であり、社会生活の中心ともなるところであった。「ムラウグヮン」は、ムラに関わるムラ主催の祈願だし、「ムラアシビ」は、ムラをあげての祭・芸能で、この場合のムラは共同体としての、行政単位としての集落を指した。「ムラグトゥ(ムラの行事あるいはムラのためにする共同作業)、「ムラムチ(ムラで費用を負担すること)」などにおけるムラは、まさに行政単位としての集落を意味する。もちろん、これらの「ムラ」を「シマ」という言葉で置き換えることはできない。「シマウグヮン」とか「シマグゥトゥ」という言葉はない。
したがって、本稿での「社会生活」とは、「ムラ」の一員としての「シマ」の人々の生活を意味することとする。なお、公的あるいは行政的意味合いにおけるそれぞれの「ムラ」が、古文献上は「・・・村」と記されることについては、後述して具体例をあげることにする。

 ところで、「ムラ」という言葉には、右に述べたこととは違った別の意味もある。主として「屋取(ヤードゥイ)」に対置される場合で、このとき「ムラ」は在来の集落、すなわちジーンチュ(土地の人)、あるいは王国時代の身分区分けでいくとヒャクショー(平民)の住まう所を指すことになる。これに対してヤードゥイは、後世都落ちしたユカッチュ(士族)が形成した集落で、彼らは「ムラ」の人々から「チュジューニン(居住人))と呼ばれた。王国時代において、農業や漁業を生業としながらも、「士族」としての身分は引き続き認証されていて、言葉使いから習俗まで近隣の「ムラ」とは趣を異にしていて、通婚も基本的に集落内か、他のヤードゥイとの間で、すなわち士族身分(廃藩置県後は士族出身)同士で行なわれるのが常であった。
 現今の佐敷町でいえば、西から津波古・小谷・新里・字佐敷・手登根・屋比久・外間が「ムラ」、兼久・伊原・仲伊保・富祖崎、および行政的に独立していない手登根の「ヤマチ(山内)ヤードゥイ」、仲伊保の「クチマヤードゥイ」がヤードゥイに属する。

「ムラ」の歴史

 佐敷町の歴史をつくってきた各「むら」(ここでは「ムラ」と「ヤードゥイ」の総称とsi,
し、行政単位としては「字(あざ)」と記す)がいつごろできたか、それを知ることのできるてがかりは、今のところきわめて少ない。「ムラ」の発祥を伝える集落もあるが、それとても歴史的に確認できる資料に欠けるため、伝承の域を出ない。ここでは歴史的に確かと見られる資料や史料から、それぞれのむらの歴史を概観することにする。1979(昭和54)年7月に、当時の佐敷村教育委員会が、県教育庁文化課の協力を得て実施した佐敷上城(ウエグスク)の発掘調査によれば、出土した土器、青磁、白磁(1)などから、上城は14世紀中期から15世紀初頭にまたがる遺跡と見なされるという。この時期は文献の上でも苗代大親(ナーシル・ウフヤ 後の尚思紹王)、佐敷小按司(サシチクヮージャー 後の尚巴志王)親子の佐敷居住時代にあたっており、この頃「ムラ」としての佐敷が存在していたことを示している。

 1531年から1623年にかけて、3回にわたって王府で編集された『おもろさうし』に収録されているオモロは、時代的に見ると、12世紀頃から17世紀初頭にかけてつくられたものという。(2)この『おもろさうし』には、佐敷関係の地名として「さしき」「よなみね」「なわしろ」「ばてん」「てどこん」「やびく」「ひらた」が見える。さらに、1635年から1648年にかけて)成立したと見られている『琉球国高究帳』(3)によると、「佐鋪間切」(「間切=まぎりは、現今の市町村にあたる行政区域」は、「佐鋪村」、「てどこん村」、「屋びく村」の3「ムラから成っており、島添大里間切の所属として「つはのこ村」、「おこく村」「下里村」があがっている。17世紀前半には、現在の津波古、小谷、新里は、現在の大里村に属していたことになる。

 それから100年近くが経過した1731年に、王府で編集した『琉球国由来記』には、「佐敷村」、「津波古村」、「与那嶺村」、「新里村」、「手登根村」、「外間村」、「平田村」、「屋比久村」、「小谷村」の9村があがっている。この100年近い間に津波古、小谷、新里が大里間切から佐敷間切に編入され、『琉球国高究帳』の時代には小字であった「与那嶺」「平田」が行政的な「村」として独立したと考えられる。それ以後、明治26(1893)年に沖縄県内務部によって発行された『沖縄旧慣地方制度』に至るまで、文献の上では佐敷間切の村名、村数は変わっていない。

 佐敷町におけるヤードゥイの発祥についても、確証できる資料や史料はない。伊原の渡名喜ミサ氏所蔵の『小宗白姓家譜』によると、宗祖元敏は中国年号の乾隆26(1761)年に、佐敷間切の検者(間切の行政監督・指導のため王府から派遣された役人)を命じられ、3年務めた後、まもなく没している。家譜は、記事の内容について王府の検閲を受けたばかりでなく、士族たるものの認定書でもあったから、信頼のおける記事と見なすことができる。伝承は聞けないが、佐敷間切移住は在任中か、その前後と考えられるから18世紀半ばということになる。伊原でもっとも古いと伝えられる金城家は、今は途絶えているが、渡名喜家はそれに次ぐとされているから、発祥は18世紀前半と考えても大差はないだろう。

 琉球大学の田里友哲教授の研究では、ヤードゥイは17世紀後半から18世紀にかけて発生し、尚温王代(1795~1802年)に「屋取現象」が一般化したという。だとすれば、伊原の発祥は佐敷間切においては比較的早い時期に属したと考えられる。町内の他のヤードゥイが誕生したのも、この頃か、その後と見なすことができるだろう。


(1)青磁、白磁は中国でつくられた磁器で、交易品として当時琉球に大量に輸入された。
(2)外間守善「おもろ概説」(岩波書店日本思想体系18巻『おもろさうし』 1972)
(3)梅木哲人「薩藩統治下の沖縄の農村について」(『史潮』新2号 1977)
(4)田里友哲「沖縄における開拓集落の研究」『琉球大学法文学部紀要 史学地理学篇』第23号 1980)


むらの立地と区分け

 手登根、外間を除く在来のムラ、すなわち津波古、小谷、新里、佐敷、屋比久はいずれも傾斜面に立地している。(ただし、津波古は明治40年代に平坦地に移動し、近年は他の集落でも新築家屋は平地に増えつつある)。これに対して、都落ちした士族が形成した集落・ヤードゥイは、どれも平坦地にある。そのうち兼久、富祖崎、仲伊保は海に面し、伊原、桃原(新里に所属、戦後消滅)は海から離れた丘陵麓にある。ヤードゥイは、立地から見ても後年の開拓地であることをうかがわせる。
 むらの境界を見ると、地勢を利用する場合と、人為的な境界に分けられる。
 佐敷町は知念村(そん)、玉城村、大里村、与那原町にまたがる丘陵地帯を背にし、馬天港を扇状に抱く地勢になっている。そのため川はすべて馬天港にそそいでおり、この川が集落の境界にもなっている。丘陵は、上記町村との境界にもなっている。人為的な境界とは道路のことであるが、これは外間と富祖崎を区切る1例のみである。こうしてみると、人々にとって隣の集落とは川向こう、橋の向こうであり、道路の向こう側であった。とくに、子どもたちや若者たちにとって、むら境の川や橋を越えて隣のむら、すなわち「タシマ」に足を踏み入れるには、いささかの緊張を要することであった。一方、集落と丘陵の境目には墓が集中し、あたかも「この世」と「あの世」の境界を思わせた。

 むらが川で区切られた一方、むら内の区分けは大方道路でなされた。傾斜地にあるムラでは、海方向に縦に伸びる道路と、これに直角に等高線に沿うように横に伸びる道路があった。そして「通り」の起点、あるいは中心となるのは、土帝君(トゥーティークン)や御嶽(ウタキ)、殿(トゥン)などのムラの拝所やムラヤー(今の公民館)であり、これらはムラの祈願や日常生活をくくる中心となっていた。

むらの組織

 むらの組織は、2種類ある。1つはクミ、クナなどと呼ばれるもので、現在の班にあたる。新里では、チンジュと呼ばれている。これは道路によって区分けされた。もうひとつは、製糖作業を共同で行なうグループで、砂糖組(サータークミ)と呼ばれた。この組は製糖作業にとどまらず、ところによってはクミの仕事と見られる活動も一部分担し、さらには砂糖組がクミの機能をまるごと果たすところもあった。むらには、3個の石製あるいは鉄製の「車」を横に束ねて、馬を引かせて回転させ、車の合間にサトウキビを通して汁を絞るサーターグルマと、搾り汁を煮詰めて黒糖に仕上げる砂糖小屋があった。サーターヤーと総称された。

 クミとして行なわれる作業には、葬式や「ヤーツクイ」(茅葺家の建造)に伴う相互扶助があり、年中行事としては「アブシバレー」(砂糖仕事が終った旧暦4月に害虫駆除と豊作祈願を期すとともに、互いを慰労する行事、地域によっては「クシユックィー」と呼ばれたが、後者は別に期日を決めて挙行することもあった)があった。クミ中の1家庭に不幸があると、クミの人々は葬式の準備、遂行、食事の世話などを分担して行なった。字佐敷のように二つのクミが一緒になって相互扶助体制をつくるところもあった。家を建てる場合も、茅刈りから茅葺きまで、クミの人たちが手伝った。
 アブシバレー(クシユックィー)のときは、ムラでは1日ないし2日間、田畑仕事を休み、酒肴を持ち寄って、日頃の労を癒す集いを持った。男だけで集まるところがあれば、家族全員集まるところもあった。これはクミ単位で開かれた。

 クミは、道路によって区分けされた地縁的な結合とみなすことができるが、砂糖組の場合は、人々の結びつき方は多様である。小谷では、クミは葬式、家造りなどの相互扶助組織であり、またアブシバレーなどの行事主体である一方、砂糖組としても機能した。ところが、小谷ではクミの構成は地縁中心でも血縁中心でもない。製糖作業の効率面から組織されたものでもなく、むらの人々もどのような構成原理になっているのか知らないということであった。新里でも砂糖組の構成原理はあいまいであるが、親から子へ継承されるのは確かであった。字佐敷では、クミはそのまま砂糖組ともなっていた。屋比久では、クミは3つあったが、砂糖組はムラヤーの前の通りを境にして2つに分けられていた。この2つは同時に、旧暦6月の「カシチー」(稲の刈りいれ祝い)で催される綱引きの組を兼ねていた。一方、サトウキビの生産量が少ない家では、砂糖組に加わらず、借賃を出してサーターヤーを使うところがあった。これはカイグルマーと呼ばれた。

 兼久では、クミは1つであったが、サーターヤーは2つあった。しかし、そのうちの1つは当時の佐敷村(そん)でも有数の富農が所有するもので、これは例外的である。クミの「慰労会」は、次のように執り行われた。製糖作業が終る4月頃、前もって各家庭から米1合もしくは大豆2合を徴収して蓄えておいたものを売って資金をつくり、これで豆腐や肉などの材料を買い、ご馳走をつくった。クミの中の1番大きな家を借り切り、砂糖組を構成する家の家族全員が集まった。クシユックイーとして行なわれたが、後に月をずらせてアブシバレーと合同し、1つの行事となった。 
 新里では、砂糖組の中にさらにクミエーと呼ばれる小単位の組織があった。クミエーは砂糖組中の親戚同士が寄り合ってつくられるもので、それぞれの砂糖組に4つのクミエーがあった。新里では家造りはチンジュ(クミに当たる)単位ではなく、砂糖組で行なわれたが、納屋造りのように少人数ですむ場合は2つのクミエーで作業に当たった。

クミあるいは砂糖組としてカヤモー(茅葺用の茅を刈る専用の原野)を所有するところもあった。津波古では、クナ(クミ)から有志や評議員を出し、また子どもたちの「ムーチーユレー」(後述)もクナごとに行なわれた。字佐敷では、クミごとにフンシ(守り神)を持っており、3月の「サングヮチサンニチー」、4月の「アブシバレー」、8月の「カシチー」のときは、各家庭から金銭を徴収して酒肴を準備し、供えた。歌、三線まで出るクミのレクレーション行事でもあった。ちなみに、サングヮチサンニチーとは、旧暦の3月3日、仕事を休み、海が近いと重箱持参で浜に出て、終日貝拾いや海草採りをして過ごす、特に女性たちにとって楽しい年中行事であった。また、カシチーとは、旧暦6月の24日か25日に行なわれる稲の収穫祭りで、ムラによっては綱引きが行なわれた。

クミにはクミガシラ、クナガシラ、チンジュガシラなどと呼ばれる当番があった。彼らはクミの相互扶助、行事などの連絡や遂行の責任者として働いた。また字(あざ)からクミへの伝達係も兼ね、さらに字の行事のときは、区長(手登根では「ムラガシラ」と呼ばれた)とともに、クミの代表としてその遂行にあたった。クミガシラは、クミ内の各家庭が1年交替の輪番で担当した。津波古の場合、砂糖組にはクミガシラグヮーと呼ばれる世話役がいた。任期は1年で、若い者が務めた。製糖用のニービ(微粒砂)を準備したり、サーターヤーの施設・設備の保全および会計を担当した。また、むらに死者が出たとき、コーヌジン(香典)を組の各家から徴収して回ったり、科銭を徴収するのもクミガシラグヮーの仕事であった。字の「ソージマーイ(字で決めた清掃検査日に、字の役員が各家を回る行事)にも砂糖組代表として参加した。クミガシラグヮーの補佐として、任期半年のコーサクグヮーがいた。
クミは、その内部では相互扶助組織であったが、一方では字の行政単位でもあり、また砂糖組が字の行政機能の一部を担当することもあったということになる。

むらの役職

 むらの役職は、むらによって若干の違いがあるが、どこにでもいるのは区長、区長代理、会計に小使である。
区長は、むらの行政の責任者である。もと「村頭(ムラガシラ)」と呼ばれていたが、明治末期に区長に変わったという(手登根)。区長は有志・評議員会、戸主会,、同士会、などのむらの集会の開催、むらの共同作業の企画・推進、および「ハチウビー」、「アミシ」、あるいは「ガン(龕)マチー」、「ヌーバレー」などの諸行事の中心的役割を果たした。「ハチウビー」とは、旧暦1月の1日から4日の年頭にあたって、集落の安全と繁栄を祈願して、ウブガー(産井)や御嶽、拝所を巡拝する行事、「アミシ」は稲の収穫後に、次年の豊作を祈願する行事で、「雨乞い」祈願とみなされるところもあり、また小谷や外間では綱引きが行なわれた。ガン(龕)マチーとは棺を墓まで運ぶ館状の葬具で、津波古、新里、屋比久、外間などで行なわれるもので、旧暦の8月に味付けのしていない豆腐や肉、酒を供えて、使用者が出ないように祈願する。「ヌーバレー」は旧盆明けの旧暦6月17日に集落あげて挙行されるもので、獅子舞やエイサー、ムラ芝居などが繰り広げられた。
 新里や小谷では、室のいいサトウキビは自分たちのサーターヤーで製糖し、質の悪いものは西原村(そん)の製糖工場に搬出した。この搬出業務は、区長が采配した。むで製造した砂糖の樽詰を出荷する業務も、区長が陣頭に立った。

 区長の選出に当たっては、有志・評議員会で推薦し、戸主会または同志会で決定することが多かった。新里では、選挙期日は旧暦1月17日と決まっていた。前日の16日は、「ジュールクニチー」と呼ばれ先祖祭りが執り行われるしきたりであった。この日は、むら中の家族がそれぞれの一族の墓に集まり、ご馳走を供え、会食して団欒のひとときを過ごした。この時期までには次期区長の立候補者があがるか、うわさの人物の名が出るかしていたので、墓前で誰が適任かも話し合われた。屋比久でも今の伊原、外間が行政区域内に含まれていたため、候補者が2人出ることがあって、そのときは投票で決した。ただし、屋比久、伊原、外間がそれぞれ1人を出して争うということでもなかった。
 選出の条件としては、何よりも読み書き、計算ができることが第一でった。したがって教育水準の低い当時にあっては、区長の役割を果たせる人物も限られていた。字佐敷では砂糖組を兼ねたクミのクミガシラの他にヒッサンがいて、両組の収支決算を担当するとともに、区長、区長代理(書記)、トーヤク(会計)と共同で字の収支決算にも関わった。有志・評議員会にはクミガシラに代わって出席した4つのクミから出るヒッサンの中から区長代理が選ばれ、区長は区長代理から昇進する慣例であった。

 大半のむらでは、区長のなり手がおらず、推されてやむなく勤めたという。手間賃が少ない割りに、仕事が多かったのだという。農業を生業とするだけに、種まき、植え付けは、手入れ、収穫など忙しい時期に区長の仕事が回ってくるのは苦しかった。サトウキビの搬出や砂糖樽の出荷業務に伴う手当てが、わずかの救いであった。したがって、屋比久では比較的裕福な人に区長就任を依頼したという。この点も、区長の条件のひとつとしてあげられるかもしれない。
 任期は2年または4年間だが、なり手が少ないために2期以上勤めさせられることもあった。手当てはない場合もあり(津波古)、あってもわずかで、区民から徴収される字費から充当された。昭和初期になると、村役場からも手当が支給されたという(富祖崎)。
 区長の第一の任務はー今でも同じだというがーむらの人々の心を1つにまとめることであった。とくに、ヒャクショー(平民)で構成される古い「ムラ」では、年中行事が多い分、苦労が多かったという。現在の区長と違う点は、村(町)役場の委託業務が少なかったところである。

 区長に次ぐ役職は区長代理で、大半のむらは書記が兼務した。むらの会計はコーサクー、またはトーヤクと呼ばれた。外間が屋比久から分離する以前は、コーサクーはそれぞれの小字の行事、行政の中心となった。屋比久では、さらにその下にイタクと呼ばれる会計がいた。ヤードゥイの兼久では、昭和初年に字佐敷から行政上の分離を果たすまでは、小字兼久で1つのクミをつくり、クミガシラがむらの行政・行事の中心となった。
 むらには、ウッチュー(字佐敷ではヰーシー)と呼ばれる小使がいた。むらの集会や行事の下準備をするのが主な仕事で、ところによってはむらや村(そん)の行事、行政に関する事柄を伝達する任務もあった。もちろん、伝達事項の内容によっては、区長自ら回ることもあった。津波古や新里、兼久にはフリーガシラ(字佐敷ではヰーガシラ)と呼ばれる専任の伝達係がいた。新里では綱引き行事のとき、むらを東(アガリ)と西(イリ)に分けたが、この双方からフィリーガシラを1人づつ出した。新里のフリーガシラは、連絡事項の伝達の他に字費の徴収、葬儀に伴う各戸割り当てのコンーヌジンやそれ以外の字の諸費用を徴収する係でもあった。

  区長代理については、新里のように選挙で選ぶところもあったが、大半のむらでは、区長代理以下は区長が依頼または任命したり、クミから選出し、任期も版年から4年までまちまちであった。ウッチューについては希望者が勤め、任期のないところもあった。
 外間には、カミガミーと呼ばれるむらの神事担当の役職があった(現在も続いている)。30代の男性が年齢順に割り当てられ、2年で交代した。外間殿(フカマドゥン)を始めとするむらの拝所に供えなければならない諸行事の費用の徴収、および供え物の準備だけでなく、コーサクーやノロ(むらの女性神役)とともに拝所を祈願して回った。

 むらの重要事項については、まず有志・評議員会で協議された。有志・評議員はたいていクミから推薦されたが、区長や村会議員の経験者、役場の元吏員など、むらの有力者が選ばれた。行政区屋比久では屋比久、伊原、外間の小字からそれぞれ4人、3人、2人と人員の枠が決まっていたという。
 村会議員のなり手もほとんどいなかった。業務も少なかった。むらの役職としては区長の上位にあったが、むらの行事そのものには重要な役割を果たしていない。それでも津波古では各クナ(クミ)が競い合って議員を出そうとしたという。議員の数で字に割り当てがあったようだが、クナの数には足りないので、むら内で選挙を行なった。そのため、文字が読めない人のために、一夜漬けでクナの推薦する人の名を教えたこともよくあったという。屋比久では小字屋比久から1人、伊原と外間は交互に1人を選出した。

むらの集会

 有志・評議委員会は多いところで月1回、大半のむらでは年に数回開かれた。出席者は有志・評議員と区長で、他にヒッサンの加わるところ(字佐敷)、クミガシラが加わるところ(手登根)もあった。協議事項としては、まずむらの年中行事に関することがげられる。年中行事にはむらとして行なうもの、あるいはむらが祈願に関わるものがある。たとえば、字佐敷の場合でいえば、1月のハチウビー(既述)、旧暦5月、6月のウマチー、6月のアミシヌウゲヮン(既述)などである。ウマチーとは5月のそれが稲作の豊作祈願、6月のそれが収穫祭である。次に、橋や道路の普請や修理、あるいは川や排水溝の清掃などの共同作業に関すること、字費の額、1年間の予算決算に関すること、そしてむらの役職の推薦あるいは決定も、有志・評議員会の協議事項であった。また、風紀取締り、夜警の実施についても協議した。むらの諸規則の案も、有志・評議員会で作られている。製糖期の馬引き手間や借金の利子の額もここで決めたというところもある(屋比久)。有志・評議員会で決定された事項のうち、むらの個々人、個々の家に深く関わる事項については、戸主会や同志会に諮られた。大半のむらでは戸主会が開かれたが、むらによっては男女を問わず、所帯から1人が出席すればよい、という「常会」もあった(小谷)。

 戸主会は年に1,2回開かれ、有志・評議員会から提案される字費の額、むらの行事、次期役職、共同作業あるいは鶏の放し飼いの規制などについての説明がなされた後に、質疑があり、全会一致または多数決で決定された。新里では1月2日が「ハチユレー(初寄り合い)」で、新しく分家した家の紹介が行なわれた。
 同志会は、もとジンチュスリーと呼ばれていた。文字通りだと「地人揃い」で、いわば区民大会であった。年に1,2回催された。4,5月頃開かれるところ(新里)があれば、12月に開催されるところ(屋比久)もあった。本来年末の12月に開かれたものが、学事奨励的な内容が付加されて4,5月に移されたと解される。通常は小学校を卒業した15歳以上の男女が出席(手登根では女子は既婚者)し、主としてむらの諸規則(「内法」)を決めた。新年度のむらの諸事業、役職などについても報告された。手登根、屋比久では、有志・評議員会の協議事項のうち、重要なものはこの場で提案され、決定された。他に、青年会(小学校卒業から25歳までの男子で構成)や、サンジュー・ガシラ(26歳から30歳)からの提案もあった。司会は区長、議員経験者から選ばれた(新里)。集会には子どもたちまで全員が集まり、学校から先生方も出席して、成績のよい子どもたちの表彰が行なわれたところもある(屋比久)。同志会は、ムラヤーの前庭で催された。

 集会における決議は、全会一致を原則とした。クミが1つしかない兼久ではクミ常会の場合、出席者が全員納得が出来るまで議論を続け、頃合を見計らって司会者(クミガシラ、後に区長)が「スーグリー」を提案、出席者全員が頭を下げて決定とした。津波古では橋を架けたり、道を造ったりすることについて、4つのクナ(クミ)のうち、1つのクナの反対があってもとりやめとした。意見がまとまらない時は多数決とする事項もあった。特に字費の額については異論が出ることもあったが、決定した後は全員がこれを遵守することになっていた。発言者は限られており、区長、有志・評議員以外では読み書き、計算のできる役場の吏員や学校の先生などの発言力が強く、これらの人々の意見に直接反対する者はいなかったという。
 戸主会や常会では、区長、有志・評議員、読み書きや計算のできる人たちは上座に座った。男の年寄りは、上座に案内された。女性は男性より下座に、年齢順に座った。

むらの一員であること

 戦前は、他の字や町村から移住してくる家族はめったになかったが、大東島や久高島への出港地として人口が多かった津波古では、移住者はまず区長のところへ酒(泡盛)1升を持参して挨拶に出向いた。それからクナ(クミ)の集会に出席し、同じように酒1升を提出して挨拶した。戦後の例をあげると、新里では村の人2人、外間では1人の保証人を必要とし、戸主会の席上で保証人からむらの一員として承認してくれるよう提案してもらい、同意された。
 新しく分家して集落内に所帯を構える場合、津波古では2月2日の「トゥーティークン(土帝君)」の祭で皆に披露された。この時、分家した家は字に20銭を納め、ヤーヌナー(屋号)の披露が行なわれた。新里では1月2日のハチユレー(既述)の際に、酒1升を提出したうえで、親兄弟と本人が挨拶し、屋号を報告した。外間でも戸主会で披露され、酒1升が供された。自己紹介も含めて人を紹介するにあたっては、まず何ヤー(家)の何男(何女)であることを表明し、個人名はその次とされる慣わしであった。

 むらの一員に加わるといろいろの義務や資格を付与された。まず、字費その他、公的な費用を納めること、むらの諸行事や集会に参加すべきこと、むらの決まりを守ること、むらの役職を務める資格を有すること、などがそれだが、何より望まれたのは協調性であった。

 字費の賦課基準は何種かある。まず、15歳以上の男女を1人あたりいくらで家族数に割り振りし、さらに暮らしぶりを加味する方法(津波古)があり、あるいはクミガシラがクミ内の各家庭の暮らしぶりを見て有志・評議員会に案を出すところ(手登根)もあった。屋比久では、上限と下限を決めてから割り出した。字佐敷では、村(そん)税の何割と決めて賦課した。1つのむらが1つの字を構成しているところでは、行政的な費用と年中行事の費用はまとめて徴収されたが、字屋比久のように、1つの字が3つの小字で構成される集落の場合は、字費と、主として年中行事に関わるサカティと呼ばれた費用は別々に徴収された。サカティの徴収はコーサクーが担当し、区長以下の字の役職は関わらなかった。年中行事の費用は、頭割り、家割りの2通りの方法で徴収された。屋比久ではグムチと呼ばれる公金があり、これで立て替えておいて、行事終了後に割り振りして徴収した。
 字費は、有志・評議員会で協議され、戸主会、あるいは同志会(常会)で決定された。あざ主催の年中行事の諸費用、集会の酒・茶菓子代、接待費、役職の手当などに充てられた。

 家単位でなく個人としてみた場合、尋常小学校卒業後の15歳からは一応一人前と見なされた。一人前とは、独立した労働単位と認識されたということである。まず、字費や年中行事の費用の賦課基準が15歳以上であった。普請などの共同作業や葬式などの相互扶助作業にも家族代表として参加した。ジンチュジュリー(同志会、常会)の出席資格が15歳以上というところもある。後述する青年会の加入も、15歳からであった。

子どもたちの集まり

 子どもたちの恒常的な組織というものはない。年中行事の中で、子どもたちだけで行なわれるものが、ニ、三見られるのみである。その中で、各むらで行なわれた「ムーチーユレー」に言及し、その「社会的意義」について考えてみたい。ムーチーユレー(字佐敷では「ムーチーヤートーシ」)とは、おおまかにいえば、旧暦12月8日の※「ムーチー(鬼餅)」行事の当日またはその翌日、子どもたちが集まって食物を煮炊きして共食し、憩いの場所として事前に造ったムーチーヤーグヮー(ムーチー仮小屋)を燃やすという行事であるが、むらによって若干の相違がある。

 津波古では8歳から15歳までの男の子どもたちが、各クナ(クミ)ごとに集まった。ヤーグヮー(仮小屋)をつくり、そこでジューシーメー(炊き込みご飯)をつくって、皆で食べた。材料は豚肉に大根、ネギ、ニンジンなどの野菜で、鍋や食器は各家庭から持ち寄った。期間は3日間程度で、最後の日にヤーグヮー(仮小屋)を燃やした。ヤーグヮーをつくる場所は各クナで決まっていた。ヤーグヮーに泊ることはなく、年長者が大きな家を借りて泊った。費用は字から出たが」、字では各家庭から2銭ずつ徴収した。女の子どもたちは、クナにこだわることなく親しい者同士で集まり、各自で金を出し合ってソーミンタシヤー(そうめん炒め)やジューシーメーをつくって食べた。年長の女の子たちは、大きな家を借りて泊った。この習俗は、戦後もしばらく続いた。
 新里では、14歳までの男の子(小学生のみ)が集まった。ムーチーヤーグヮーは2週間前には造り、12月8日当日の夕方焼いた。ここに泊るということはなかった。当日の昼間、子どもたちはイリー(西)とアガリ(東)に分かれて対抗角力(沖縄相撲)をとった。東西は※トゥーティークン(土帝君)に面する道路で区分されたが、区分けはむらの綱引き行事に倣ったものである。角力をとる場所は西と東で毎年交替した。西は土帝君前広場、東はサクマジョーモーと決まっていた。子どもたちはそれぞれの家からムーチーを持ち寄り、イリー、アガリのうち、勝った側が負けた方から餅をもらった。その個数や配分方法は、アヒャーヌカタ(14歳、すなわち最年長者の子どもたち)が決めた。

 兼久では、ムーチーの翌日12月9日に行なわれた。小学生の男女が一緒に集まった。むらの森林から4、5本を伐り、各家庭から薪を持ち寄ってヤーグヮーを造った。残り木は薪として売り、その金で米やそうめんを購入し、ジューシーやチャンプルー(炒めもの)をつくって食べた。
 手登根では、20歳以下、3、4歳の子どもたちまで、男女分かれて集まった。集まりはそれぞれ二手に分かれ、北(ニシ)はムーチーヤーモー、南(フェー)はアカバンターの下にムーチーヤーを造った。北・南の区分けは新里同様、むらの綱引き行事における地域区分に倣っている。子どもたちは、男女ともそれぞれ肉や野菜入りの汁をつくり、年長者が味の良し悪しを判定した。これはシルアラガー(汁の味の競争)と呼ばれた。その後、西組と東組の対抗で角力をとった。費用は字からも出たが、子どもたちもアヒャー(兄貴分)たちが徴収して回った。

 屋比久では、7、8歳頃から男で16歳、女で17歳までの子どもたちが集まった。ただし、裕福な家ではもっと幼い子どもも参加させた。前もって年長者の男女がむらの家々を巡って参加者の数を調べ、12月8日当日、一人あたり2銭ないし3銭を徴収した。その金で豚肉を買い、むらの空き家に集まって、男女一緒に泊った。翌9日は朝から、男の子どもたちは山から木を伐って来てムーチーヤーを造り、女の子どもたちは料理を担当した。肉は煮て、適当な大きさに切り、串に差した。別に野菜のおつゆをつくった。ムーチーヤーは昼ごろ燃やした。その後、土帝君前の広場で、碗を持参した子どもたちに肉とおつゆが分配され、皆で食べた。それから鍋のススをユウナの葉につけ、男女とも顔に塗り合いをした。
 外間では、ヤーグヮーをつくったり、料理をつくるのは15歳から20歳までの男たちの役割であった。肉は字から供給され、大根などの野菜は各家庭から供出してもらった。集まるのは12月8日で、その日の夕方ヤーグヮーを燃やした。女の子どもたちは一切加わらず、別に集まることもしなかった。

 一連の行事を要約してみると、まず、参加メンバーの年齢幅は、集落の人口などによって変動が見られるものの、平均的に見れば7、8歳から14歳で、14歳が頭になることが多い。すでに述べたように、15歳からはむらの1人前の要員と遇されたから、この行事はまず、「大人社会」で生きていくための「予行演習」としての意味合いが付与されていたと見なすことができる。それは行事の「メニュー」によっても推測できる。最年長の子どもたちは、費用を徴収する役をこなす他に、ムーチーヤーグヮーを造ったり、料理をつくって分配したり、シルアラガーや角力の判定をするなど、行事全般にわたって中心的、指導者的な役割を果たした。参加者を見ると、男の子どもたちだけで集まるところ、男女一緒になって役割を分担しあうところなど、むらによって違うところもある。クミ毎か、あるいはむらを二分して集まった。新里や手登根のように東西、もしくは南北に分かれて角力をとり、勝敗を決するところもあった。行事の費用や物品については字から支給されたり、それぞれの家庭から徴収することが許されていた。
 ムーチーユレーが、むら社会公認の年中行事であったことは、単に子どもたちの年に1度の「寄り合い」、あるいは「祭り」としての意味合いにとどまらず、子どもたちの自主性、協調性、社会性を培うものとして「社会的意義」が付与され、共有されていたことを示している。


※ムーチー
※土帝君

若者の集まり

 子どもから若者、成人、女性、そして老人にいたるまで、年齢層で区分けされ、明確な目的を持ってつくられた恒常的な組織というのは、むらの伝統にはなかったといってよい。
 若者たちについても、組織をつくり、共通の目的を持って行動するというスタイルができたのは、近代に入ってからである。「青年会(もしくは青年団)」は小学校卒業後の15歳から25歳までの男、あるいは男女で構成された。農閑期の晩集まって標準語会話の勉強や、討論会などを行なっている。運動会などの活動資金をつくるために、大東島航路の船の石炭積みや水積み(津波古)、茅刈りや薪採り(屋比久)、サトウキビ畑の掘り返しや護岸造りの土運搬(富祖崎)、郡道工事の請負(新里)などに従事して、その手間賃を会の予算に充当した。
 青年会を退会したサンジューガシラ(25歳から30歳までの男たち)(新里)や、青年会またはニーセーター(15歳から40歳までの男子)(字佐敷・屋比久)は、※ハルスーブ(原山勝負)、さらにはむらの年中行事の実質的担い手として働き、またむらの風紀取締り、夜警を担当している。

 若者たちの集まりとしては、他にモーアシビーがある。モーアシビーとは、独身の若者たちが晩から明け方にかけて特定の場所に集まり、三線や太鼓に合わせて歌ったり、あるいは語り合ったりする習俗である。この集まりは、若者たちの遊びもしくは男女交際としての性格が強く、明確な目的意識と構成要員を持った社会組織ではない。むしろ、近代の教育制度の整備とともに、社会の良俗を乱すものとして規制の対象となった習俗である。しかし、このモーアシビーによって知り合い、夫婦になるという例も少なくなく、その意味で大人たちから黙認されたという側面もあり、むらの社会生活に占める比重は決して軽くなかった。
 モーアシビーに加わる者の年齢は、小学校卒業後の15歳から結婚前までというのが普通で、ときたま妻帯者が加わることもあった。集まる場所は、集落から離れたところと決まっていた。津波古ではアシトゥシチャ、大里村(そん)稲福のスンジャグヮーあたりで、スンジャグヮーには大里村内はもちろん佐敷村(そん)からは、他に小谷や新里の若者もあつまり、遠くは西原村(そん)からも遊びに来たという。むらの若者だけが集まる場所もあったが、スンジャグヮーや、伊原のワイトゥイ(隣村の知念村知名との境界となる切り通し)、仲伊保ノマガイーグヮー、ヰーブサモーなどのように、他のむら、隣村からも集まり、賑わいを見せたところもある。昭和の初期までは4、50ニンから100人も集まったという。

 集まれば、中には必ず三線の上手な者がいて、それに合わせて、時には太鼓も登場して、歌い、騒いだ。酒も出た。モーアシビーには頭にあたる者はおらず、強いていえば三線を弾く者が音頭をとるという意味でリーダーであった。もちろん男女の語り合いもあり、すでに述べたように結婚にいたるカップルもあった。とはいえ、結婚相手は結局同じむらの娘を選ぶことが多く、よそのむらの娘と一緒になることは「ヌーンナランヌー」(無能者)と馬鹿呼ばわりされたという(津波古)。「タシマヌ、チュラカーギーヤカン、ドゥーヌシマヌミーハガーヤマシ(よそのむらの美人より、自分のむらのめっかちがいい)」という言い慣わしも残っている。同じむらの者同士が気心が知れているということもあっただろうが、現在の90歳代の人々が若い頃まで、よそのむらに婚出すると罰金を課されるというむらの「内法」が規制したとも見られる。

 明治に入ってからまもなく、モーアシビーはむらの風紀を乱すものとして、県や市町村、警察から規制の対象となった。それに伴って、むら内でも区長以下の役職や成人会、あるいはハチニンガシラと呼ばれる風紀取締係が巡視するようになった(津波古)。時代によって規制の強弱はあったようだ。津波古では遊ぶ側が見張りを立てる一方で、取締りの側もエイエイとわざわざ気勢をあげてやって来たという。それでも取り締まりに引っかかると、ムラヤで糾問され、叱責された。したがって、モーアシビーに参加する者は、男も女も手拭で頬かむりをしていたという。

※ハルスーブ

むらの共有物

 むらの共有物、すなわちむらの人々が共同で利用する土地や施設、諸道具は、利用目的によって分類すると、むらの行政に関するもの、信仰に関するもの、日常生活に関するも、年中行事に関するもの、葬制に関するもの、などに区分される。

 まず、ムラヤー(現在いうところの公民館)は、むらの行政および社会生活全般にわたって中心となるところであり、したがって人々が集まりやすいむらの中心部に位置していた。一方、むらの信仰生活の中心となるのは、御嶽や殿、土帝君、フンシと呼ばれるむらの守護神などで、このようなむらの拝所は、各種のむら行事において、むらの役職や神職、あるいは一般の人々が集まり、祈願をし、あるいはその前で、「ムラアシビ(むらの芸能行事)」をするところであったし、拝所によってはその前で会食もした。むらの人々が精神生活の面でも「むらの一員」であることを、確認する場所がむらの拝所であった。

 日常生活に関わるむらの共有財産や、施設はクスなくない。大半の家屋は茅葺であったから、新築もしくは補修のために屋根に葺く茅の確保はむらの人々共通の課題であった。山際で凹凸の少ない平地や傾斜地が茅を育成するための原野として確保されていて、カヤモーと呼ばれた。個人所有のカヤモーもあったが、むらのクミでもカヤモーを所有するところがあった。茅を刈る順番は決まっていて、無断で刈ることは禁じられていた。津波古では、無断に茅を刈る者には罰金が課された。茅刈りが当たる順番は13年に1度回ってきた。むらによっては他に、馬や牛、ヤギなどの草を刈る原野を所有しているところもあった。日常生活に関わるむらの共有財産や、施設はクスなくない。大半の家屋は茅葺であったから、新築もしくは補修のために屋根に葺く茅の確保はむらの人々共通の課題であった。山際で凹凸の少ない平地や傾斜地が茅を育成するための原野として確保されていて、カヤモーと呼ばれた。個人所有のカヤモーもあったが、むらのクミでもカヤモーを所有するところがあった。茅を刈る順番は決まっていて、無断で刈ることは禁じられていた。津波古では、無断に茅を刈る者には罰金が課された。茅刈りが当たる順番は13年に1度回ってきた。むらによっては他に、馬や牛、ヤギなどの草を刈る原野を所有しているところもあった。競馬をするンマウィー(馬場)や、ウシナー(闘牛場)を所有するむらもあった。

 新里では、畑のない人々に字有地を耕作させた。この種の土地はハルバーンジー(畑番地)と呼ばれ、大里村稲福から玉城村親慶原にかけての台地上に4ヶ所あった。また、新里には「地割」で配当できない半端な土地に稲束や大豆、サトウキビの搾りかすなどを干す干し場があった。共同井戸や、新生児の産湯に使う水を汲むウブガーが、むら所有になっているところもあった。
 
 また、ムラヤーにはカニガラ(かなてこ)、シュロ綱、茅刈りはさみ、万力など、通常は使用しないが、家屋の建造などのとき不可欠な道具類がそろえられていて、無料あるいは有料で借りられるようになっていた(津波古)。ムラヤーには、むらの年中行事で使われる小道具も保管されていた。ムラアシビで演じられる組踊、チョージン(狂言)、舞踊などの衣装や小道具、綱引きに用いられる旗頭、鉦鼓、小太鼓、鼓、ほら貝などもむらの共有物である。むらによっては、葬式に使う黒幕を所有するところもあった。当然ながら、むらの集会や行政事務に関わる書類・記録なども、ムラヤーに保管された。

 葬式の時、棺を納めて墓へ運ぶガンは、なくてはならぬ共有物であったが、1つのむらで所有するところと、2、3のむらで共有する場合があった。ガンを持たないむらの人々は、借用料を払って使用した。ガンの係はガンガミーと呼ばれ、ガンの管理や貸し出し、それに伴う金銭の出納その他を担当した。ガンの購入費用はむらから出したが、不足分は他のむらへ貸した使用料や、各家庭からの徴収で充当した。屋比久のように、コーヌカティといって、むらで死者が出たとき、7歳以上の男女からなにがしかの金銭を徴収し、ガンの修理やガンの祭りの費用にあてるところもあった。
 津波古や新里には、漂着や行き倒れなどで死亡した身元不明者を葬る場所があった。また、流行病で死んだ家畜を埋めるところもむらの共有地であった。

 一般に共有施設、共有物の購入や修理に要する費用は、むらで出し、不足分を各家庭から戸割、あるいは頭割で徴収するのが普通で、全額を積み立てるということはなかった。(19411字)

※ムラアシビ

                                                                                               

沖縄の博物館ー戦前・戦後の連続と断絶 (1)

2012-06-23 05:05:31 | Weblog
はじめに 琉球史研究と郷土教育  鎌倉芳太郎・伊東忠太の來沖と有形文化財の保存  教育参考館、博物館設置に向けての動き  「沖縄県教育会附設郷土博物館」の設立とその意義付け  「国民精神の作興」と郷土博物館  米軍による博物館設置とその背景  博物館活動の展開と拡充  博物館の総合化・専門化・地域化・多様化に向けて

はじめに 

 1879(明治12)年、明治政府の強圧的な「琉球処分」によって琉球王国は解体し、沖縄県が誕生した。爾来、沖縄県民(人)にとって、自らの人と歴史・文化を日本のそれのなかにどの様に位置付け、さらに近代国家日本のなかで沖縄県(民)の占める位置をどう理解していかなければならないか、その位置をどのような方法で確証するのか、そのことが絶えず主要な課題であり続けてきた。その位置づけのありようは、また、時の権力の中枢にある者にとっても、ニュアンスを変えながら重要な施策のポイントとなってきた。以上の点は、政治、経済、社会の各分野で指摘できようが、教育の場面においては、問題が先鋭に現出することが多かった。
 地域の博物館が、当該地域の自然、歴史、文化等に関する物的資料を、何らかの教育的目的のもとに収集・保存・展示するものである限り、上記の事情から沖縄の博物館も逃れることはできず、戦前戦後における県レベル博物館の場合も、設置をめぐる状況と設置主体・県民双方による博物館の位置付けには、いちじるしい変遷が認められるのである。本稿の記述は、その変遷の過程に見られる連続と断絶の両側面を対象としている。

琉球史研究と郷土教育

 沖縄における教育的目的を持った博物館設置の動きは、1899(明治32)年2月、当時の首里区(大正10年に市制移行)議員が区長あてに提出した「旧首里城跡並建物払下請願の義に付意見書」に始まるといえよう。(1)同書には、首里城一帯を公園とし、首里城の建物を博物館に充てて、「各府県と趣を異にする所の熱帯地方植物及沿革を異にする所の歴史に関する宝を始め、其他百般の事物を陳列」して、「遊園地」を設け、以て「公衆の偕楽を計る」とともに、「他地方人士の来遊を促して土地の反映を計り」、「人文開発の端緒を開かん」と欲す、とその意義を述べている。その後の沖縄における博物館づくりの指針として、また今日から見ても博物館の「定義」としておかしくない先進的な提案であることがうかがえる。とはいえ、その後順調に博物館づくりが進展したかというと、そうではない。むしろ紆余曲折とも言うべき展開をしたと見なすべきだろう。

 明治時代末期、地方の歴史を小学校の教科に取り入れることについて、県の教育界において議論されたことがある。1906(明治39)年10月29日の「琉球新報」によれば、この件について会議を開いたところ、可否同数であったが、他府県から来たメンバーはことごとく反対で、本県出身のメンバーは皆賛成したので議長採決で採用することにしたという。

 他府県出身者の反対の理由は、琉球史を少年に知らしめたなら、昔を追懐して「国民精神」の発達に障害になるというものであった。そのことに対して「琉球新報」の記者は、他府県出身者が琉球史の知識に乏しいがためにこのような主張が起こるとして、①近年の研究は、「琉球民族」が「大和民族」とほぼ同祖であることをほぼ決定している。②本県人もそのことを自覚すれば、「大和民族」の一員として対等にふるまえる、③そのためには、琉球史のさらなる研究が必要である、と論じている。(2)
 府県史を小学校の教科書にいれることになったという時期がいつか、定かではないが、安良城盛昭は1893(明治26)年をさほど降らない時期であろうと推察している。(3)しかし、記者が論評を加えた段階では「琉球史を小学校にいれるといふことは辛ふして可決はしたものヽ之を編纂するものがない為に今は実行されていない本県の少年は依然歴史なき県民である」という状況であった。

  「日琉同祖論」の歴史的論証と、それによる「大和民族」=日本人としての自覚・確認の必要性を主張し、中央政府派遣の他府県出身官僚・教育者の無理解ないし無視に対するマスコミの批判はその後も続くが(4)、教育の現場では「国民教育」と沖縄の歴史・文化の「調和」が課題とされた。たとえば、1896(明治29)年8月発行の沖縄市立教育会機関誌『琉球教育』第8号は、「本県児童ニ日本国民タルノ精神ヲ発揮セシムベシ」のタイトルで、会員川上豊蔵の主張を掲載している。主張の要点は4つある。①本県児童の教育上もっとも重要な点は、「国民教育」すなわち「日本国民タルノ精神」を発揮させることであり、その精神とはすなわち「日本ノ国粋」である。②本県の40万同胞は、もとより日本人であるが、歴史的に疎遠な関係が続いたために、日本帝国の一員としての自覚が薄く、沖縄は沖縄と考える。③沖縄は、言語そのほか日本の古い形を残しており、地名、物名、人名にも日本の太古、上古の遺風も伝えるので、教育上の好素材となっている。④その意味で、本県人は「日本人」として、「日本国民タル精神」を持ち、「日本帝国ノ国粋ハ、専ラ本県ニ在リ」との自覚を持って教育の任にあたってもらいたい。(5)

 川上の論調、すなわち教育者は沖縄県が日本帝国の一員である事を自覚し、沖縄県に「日本の古態」が残ることを自負しつつも、「日本国民タルノ精神」=「日本ノ国粋」の涵養=発揮に努めるべし、とする論調は昭和に入っても繰り返された。当時の沖縄県を代表する歴史学者の1人、東恩納寛惇は、1933(昭和8)年、沖縄県教育会で「本県郷土史の取扱に就いて」と題する講演を行なったが、そのなかでまず次の4点を述べる。①琉球史すなわち郷土史ではない。琉球史は、向象懸(羽地朝秀)以後に組み立てられた王国史の体裁をとったものであり、これに対して郷土史は国史の一部である。②国史の目的は、「国民性の涵養」である。これが郷土史教育の目的でなければならない。③したがって、郷土史を教える場合も、沖縄自体ではなく、「大八洲島国の南の島の一部である」ことから始めてもらいたい、④「日本内地」の文化は、我が沖縄に保存されている。たとえば、日本歴史を誇るのは、皇室を宗家として尊敬することであり、そのもとは氏族制度であるが、これは沖縄人がしっかり守っているものであり、これは「中央」に向かって誇るべきもので、子弟にも十分納得させてもらいたい。(6)
 「日琉同祖」の学問的立証を教育現場で確認すること、日本の古き要素=美風を保存していることに対する自負、それがすでに国民精神=「国粋」であることの強調、その意味での国史の一部分たる郷土史の教育。「他府県」ならず「本県」「出身」の知識人まで、「郷土史教育=「国粋教育」なることを強調する時世になっていたことがうかがわれる。

 東恩納の主張には、従来のそれに付け足すべき新たなベクトルがあった。すなわち、従来の「日本」=北に向かう視線と併行しつつ、「南」=アジアを見据える視角である。講演で彼は、「遠く安南シャムまで小さいクリ舟に、打ち乗って」航海し(注ー近年の研究では、航海に「クリ舟」を使ったとするのは史実に反する)、交易をした「われわれ祖先の気魄を想起せよ」と訴えたが、その物的資料としては、すでに1458(尚泰久王5)年に鋳造された「旧首里城正殿銅鐘」、いわゆる「万国津梁の鐘」が知られていた。その銘文には、「「琉球国は南海の勝地にして、三韓の秀を鍾(あつ)め、大明を以て輔車となし、日域を以て唇歯となす、此の二の中間に在りて湧出するところの蓬莱島なり、舟楫を以て万国の津梁と為し、異産至宝は十万刹に充満せり」(7)(原漢文、東恩納の読み下しによる)と明記されていたのである。

 東恩納は、講演の前年にあたる1932(昭和7)年の暮、久米村天尊廟内に保管してあった「歴代宝案」をじかに調査し、これが1424(尚巴志3)年から1867(尚泰20)にいたる440年余の間の中国、朝鮮、東南アジア諸国との往復文書の写しであることを知った。彼の来沖を機会に、沖縄県教育会は講演会を開催し、その内容を翌月の『沖縄教育』第199号「郷土史特輯号」に掲載したのである。東恩納は帰京後まもなく南中国・東南アジアに「歴代宝案」が記す軌跡を求めて1年間の調査旅行に向かうことになっていた。(8)

 東恩納が、10年近い調査研究の成果を『黎明期の海外交通史』にまとめたのは1941(昭和16)年、同じ年に沖縄師範学校教諭の安里延が沖縄県海外協会の求めに応じて『沖縄海洋発展史』を刊行している。時の沖縄県知事にして、沖縄海外協会の会長も務めた早川元は安里の著作「序」において、次のように述べる。すなわち、「古代琉球人」が15,6世紀に中国・朝鮮・東南アジア諸国と交易し、「舟楫」によって「万国津梁の中継地」となる活躍をした歴史を述べ、このような「南方発展の第一線に立つ沖縄県人の使命」はいよいよ重大さを加えてきたので、その「豪客雄大なる祖先の民族精神」をますます高揚し、「国策に寄与」すべきだと。
 かつて日本の「南島」として、僻遠で、後進とされた地域が、今やその「歴史的=学問的裏づけ」まで付与されて、日本の南に向かう「先進地」として称揚され、「先陣」を切るべく「中央」から叱咤激励される位置に「逆転」したのである。


鎌倉芳太郎・伊東忠太の来沖と有形文化財の保存

 琉球史、郷土史を「国民教育」の中に、どのように取り込んでいくのか。それは、琉球史、郷土史の評価と直接的に関わる問題であったが、一方、別の分野で県外研究者の評価を高めつつあったのだ、美術工芸と建造物のいわゆる有形文化財である。鎌倉芳太郎は、1921(大正10)5月、東京美術学校(現東京藝術大学)を卒業するとただちに沖縄県女子師範学校兼県立高等女学校教諭として赴任、首里に寄宿して首里方言を学ぶ一方、琉球の伝統的染物「びんがた(紅型)」を習得すべく宗家を巡った。2年後東京に戻り、母校の研究科で研究生活に入った。正木直彦校長のはからいで建築学の権威伊東忠太を紹介されると、伊東は沖縄の芸術研究を継続するよう奨励する。鎌倉はほどなくして沖縄から送られてきた新聞で首里城正殿取り壊しの記事を見て、ただちに伊東に報告した。(9)

 伊東はこの時東京帝国大学教授・工学博士で、文部省古社寺保存会委員(現在の文化財保護審議会委員)であった。伊東は鎌倉の斡旋で東京の尚侯爵邸を訪ねて、旧王家に伝わる数々の美術工芸品を観覧し、また東恩納寛惇など、東京在住の沖縄研究者から彼の地の事情を聞いて「古代琉球に一種独物の文化が成立してゐた」ことを知った。(10)
 首里城は1909(明治42)年に陸軍省から払い下げられて首里市の所轄になっていたが、その維持に窮してこれを取り壊し、跡地には沖縄神社が建立されることになっていたのである。伊東はかねて首里城の写真を見ており、これが琉球建築の代表的大作であることを知っていて、即座に内務省に駆けつけ、神社局長に面会して取り壊しの中止を進言したのである。局長はこれを入れて電報を発し、瓦が剥がされかけていた首里城はもとのように葺き返された。(11)

 1923(大正12)年4月、まず鎌倉が沖縄に向けて出発し、伊藤は7月25日に東京を発った。伊東は、在沖中はやりの風邪と台風に見舞われながらも精力的に調査を続けた。この間1日、沖縄県教育会で「本県の建築について」と題する講演を行なった。建築は国民思想の象徴であり、文化の代表である。その前提に立って琉球建築を見ると、と前置きして、①沖縄には各国の建築様式が取り込まれている。中国・東南アジアからの影響が感じられるが、これらが調和して一つの琉球芸術をつくっている、②琉球の建築は、奈良・京都・鎌倉の建築様式も残している、③こんな小さい島国であるが、建築にはゆったりとしたおおらかさが感じられる、④その一方で、特殊な趣を持ち、精巧であると同時に優美である、というものであった。

 以上の話に続けて、伊東は琉球の芸術を研究してこなかったのは研究者の「失敗」であり、以後は東洋美術の分類、すなわち「支那芸術)「朝鮮芸術」「印度芸術」「安南芸術」に「琉球芸術」を加えなければならない、とその価値を激賞したのである。そして、県内に残る古建築や文化財の保存を訴えた。(12)

 ○当地には数々の建築、貴き古建築がある。何処に出しても恥しくない処の一つの芸術であるのであります。是非保存して戴かねばなrぬのであります。若し之を破壊にまかして保存しないといふ事ならばそれは社会的自殺である。先に申しました通り古建築といふ者は其土地の歴史であります。社会の文化を知り、社会の各方面の事情を知る処の重要な史料であります。それを亡びるに任すといふ事は自分で自分の歴史をつぶして居る事である即ち自殺である。是だけ残念なことはないと信ずるのであります。○御当地に於て祖先を崇拝し尊敬するといふ此の美しい新年があられるならば、其祖先が其魂を打込んで造られた処の此の遺物を何故もっと尊敬されないのでありますか。位牌だけ尊敬されたらそれで宜しいのではありますまい。御位牌よりも其先祖が其父祖が其魂を打込んで造られて居る処の其品物が今日存するのであります。それを十分尊重される事が必要なる事ではないかと思ふのであります。即ち此遺蹟、有形無形二つながらであります。史跡名勝も其中に加へて然る可きであります。総て祖先父祖の遺された建物、魂を打込んだ物は何処迄も保存せなければならぬと思ひます。

 伊東の講演は、今読んでも格調の高い見識にあふれるものである。ましてや、当時の県人指導者の耳には、感激もひとしおの内容であっただろう。伊東は帰京後、早速琉球芸術・琉球建築の価値に対する講演を各地で行なう一方、正殿を首里市から沖縄神社に移管させ、その拝殿とさせて、これを「古社寺保存法」によって保管すべく文部省に働きかけたのである。保存の件は1925(大正14)年3月、「古社寺保存委員会」において可決し、首里城正殿は1929(昭和4)年、「国宝保存法」の成立とともに国宝指定となった。すでに文部省では正殿の修理計画を立てていて、1927(昭和2)年から工事に着手し、1934(昭和9)年完了、ここに正殿の再生を見たのである。伊東の尽力によって1933(昭和8)年に18件の建造物が国宝に指定され、結局戦前の国宝件数は21件にも上ることになった。(13)

教育参考館、博物館設置に向けての動き

 県教育会においては、伊東の提言を受けたのであろう。伊東来沖の年(大正13)にさっそく「教育参考館」建設を計画し、資金の蓄積を開始した。(14)
 歴史教育の必要、郷土文化の再認識に加えて、沖縄の自然的特性を評価し、その教育的意義を説いて博物館設置の必要性を強調したのは、はるばるロシア共和国から訪れたレニングラード大学動物学教授兼科学博物館長のピーター・シュミットであった。彼は「汎太平洋学術大会」にロシア共和国代表として出席し、その後大阪・別府・鹿児島および奄美大島を経由して来県したのである。1926(昭和1)年12月から翌年1月にかけての調査を行なっている。若槻首相他の紹介状を持参して訪れたこの「珍客」は、「県内の自然界を実地踏査し特に熱帯的自然物の実際を観察する」ことを目的としていた。県立二中の英語教師山城篤男が通訳となり、栗屋水産校長の案内で各地を巡回・調査したシュミットは、県内教育関係首脳・有識者に次のような趣旨の講演を行なった。

①沖縄県には自然科学者にとって豊富な材料がある。この分野の研究に趣味を持ち、標本等をたくさん収集している人もいて心強いが、個人の域を出ず、相互的な研究や意見の交換ができる組織がないのは、残念だ。②昨今西欧では各地に郷土研究会が設立されて、郷土に関する各方面の研究者を統一する組織的機関となって活躍している。沖縄のような学術界から見て材料の豊富な意義の深い地域では、かくのごとき機関は是非必要である。③この「郷土研究会」には是非学校職員も加わってもらい、標本の収集などに児童生徒の力を借りれば、教育的効果も上がる。④会は単に自然界に限らず、「歴史や価値ある研究とか風俗とか、言語の研究とか、苟も本県下に関する事項は悉く総合的有機的に打って一丸とする必要がある」。会員には、内地や外国の有志も歓迎されたい。⑤自然界の状態分布を一堂の下に集め、これを整理することは科学研究の第一歩であるが、本県に博物館の一つもないのは遺憾である。博物館は文明の備えるべき一つの大きな機関である。⑥本県には文化研究、自然科学、土俗研究上より見て有益な材料が多いのであるが、消滅減退する恐れのあるものが少なくない。⑦これらを各地方から集めてしかるべく展示すれば、その「地方の宝庫」を設立したことになるのであり、学術界のみならず実利的方面にも応用が可能であろう。(15)

 この講演もまた、出席者の大いなる共鳴を引き起こした。講演を翻訳した山城は次のように結んでいる。

 あるべくして未だないものの大なるものは確かに之れ此種の事業だと信じます。生きんがために苦める本県はかくの如き直接役にたたぬ機関は無用視され易いのでありますが、本県をよく知り、耐えず知ることを努め、しかして亦他に之を紹介し尚ほ常に天然の利をより多く実生活に資するためには一見迂遠と思はれる様な根本研究が基礎とならねばならぬ。余りに実利のみ急ぐを止めて百年の大計を立つることを図りたいと思ひます。(16)

 終戦直後の沖縄民政府文教部長、さらには沖縄群島政府副知事を勤めた山城は、この時、県立中学校の英語教師。中学以上の教育機関を持たない沖縄県で、教育者としてのみならず研究者としての自負も持っていたと考えられる。その山城を嘆かせたのは、一つは上級の教育機関がないが故の研究者不足であったろうし、また時の為政者の無理解でもあっただろう。そして、三つ目に、「ソテル地獄」と呼ばれた経済・社会の疲弊によって「生きんがために苦める」当時の沖縄において、「直接役にたたぬ」非「実利的」な機関と言われかねない「郷土研究」「郷土教育」の「総合的」「有機的」なセンターをつくることの困難性もあったことが、推察されるのである。

 歴史学者の安良城盛昭は、沖縄における近代史研究の乏しさの要因は、時の為政者の無理解・迫害のみならず、国立の高等教育機関すなわち、大学・高商・高農・医専が他府県においては少なくとも1校は設置されたにも関わらず、沖縄県のみ設置されなかったことを上げているが(17)、歴史研究に限らず、他分野の沖縄研究についても同様のことが言えると考えてよいであろう。

 かくして博物館設置の<意義付け>は定まったが、県当局が直接動くことは依然としてなかった。ピーター・シュミットが帰国した翌月の1927(昭和2)年2月9日、県教育会主催の「教育参考館設立に関する協議会」が開催された。(18)協議は予算、資料収集方針と資料の所在に関する情報交換、展示室の設置計画、展示会の開催などであり、5部門を設けて各々に委員長ならびに委員を配置、資料の収集に当たらせることになった。部構成を見ると、第1部が美術、第2部は工芸・建築で、第3部は「地歴」(政治・宗教・交通・産業・風俗・貨幣・遺物)、第4部は「博物」(動物・植物・鉱物・物理化学)、そして第5部が「教育」(修身・地理・国史・体育・農業・手工・学校施設経営・国語・理科・算術・家事・裁縫・図面・一般設備)となっていた。第1部の委員長は真境名安興県立図書館長で、委員に書家の謝花寛剛(雲石)、画家で師範教師の我部政達、同じく二中美術教師の比嘉景常がいる。第2部「工芸」の委員長は渡辺喜三工業学校長で女子師範の鎌倉芳太郎が加わり、第3部「地歴」の委員長が女子師範および一高女校長の川平朝礼、第4部「博物」の委員長は二中博物教師の古堅宗昌で、委員に久場長文、比嘉徳太郎、城間朝教などが加わり、第5部の委員長は師範学校の小林和一であった。

 樋口秀雄・椎名仙卓によれば、日本の博物館史のうえで大正期に見られる著しい特徴として教育参考館と「通俗博物館」の誕生があった。前者が地域の歴史、自然、文化および教育に関する諸資料を収集・展示し、主として学校教育の補助もしくはその利用に供するものであるのに対して、後者は地域の社会教育あるいは産業の発達に資する施設であって、教育参考館は小型化した形で学校内の郷土資料室へ、通俗博物館は郷土館もしくは郷土博物館の名称で全国的に設置が増えていくことになる。(19)

また、後藤和民によると、「昭和初期における農村疲弊のため、教育の破綻に直面した文部省は、第1次世界大戦後のドイツにおける郷土教育の成果に範を取り、教育の郷土化を促進」すべく、1927(昭和2)年、「郷土教授に関する件」について各高等師範学校等の調査を開始し、1930年には各師範学校に対して郷土室設置を目的とした補助金の交付を始めている。(20)これに呼応して沖縄県師範学校および沖縄県女子師範学校においても郷土室を設置している。前者の設置は1933(昭和8)年、後者の設置は1931年から1933年の間と推測されている。両校の郷土室の設置とその背景、郷土の教材化および収集資料については阿波根直誠の「沖縄の師範学校における『郷土室』について(1)-沖縄県師範学校(男子)の『郷土資料目録』に関連して」と「同(2)-沖縄県女子師範学校の『郷土資料目録』に関連してー」に詳しい。(21)師範学校の資料を一見して驚くことは、修身科・教育科・文学語学科および郷土教育の参考文献、生徒の各種郷土研究レポートと並んで、郷土史資料、織物、染物、陶器、漆器、装身具、家具什器、拓本・写真・地図、書画、古文書・日記・記録、土器・石器、数学資料、産業資料、染色用植物、工業加工品、動植物標本、農業資料、農産物標本、美術工芸資料、音楽資料を載せていて、その内容がまさしく「郷土全般」にわたっていることである。ジャンルに見る限り、現今の「総合博物館」と何ら変わるところはない。
1933(昭和8)年前後は、県内においても郷土研究が盛んになってきた時期であり、その意味では博物館設置の下地も情勢されつつあった。(22)
 1927(昭和2)8月には「沖縄博物学会」が結成されて、博物館についての議論がなされ(23)、1935(昭和10)年、『沖縄博物学会会報』第1巻1号が発刊された。この年、副会長久場長文が植物標本3000種、貝類他600種を沖縄県教育会に寄贈している。(24)

「沖縄県教育会附設郷土博物館」の設立とその意義付け

 1936(昭和11)年7月4日、「沖縄県附設郷土博物館」び落成式・開館式が、博物館施設にあてられて改修が終った首里城北殿で挙行された。同年8月発行の沖縄県教育会機関紙『沖縄教育』第240号は、博物館開館記念特集号として開館にいたる経緯、開館式の概要そして博物館の概要を紹介している。同誌の記事から設立の経緯とできあがった博物館の性格を見ていくことにする。(25)

 1924(大正13)年に郷土参考館の設立が決定し、1927(昭和2)年、建設委員を委嘱して調査を開始した。収集資金は教育会編集の小学校用ノートの印税で充てることになり、1932(昭和7)年に5千数百円に達したので、参考品の収集を開始した。博物館開館時点では9千円の資金によって「書画を始め、藩政時代の製作に係る漆髹器琉球紅型衣類調度家具陶器石器博物資料等一千数百点」を収集し、開館まで教育会のある昭和会館の1室に「仮陳列」を行なって一般の観覧に供してきた。地元首里市も「年々数百金」を参考館維持のため補助している。
 施設については、1934(昭和9)年、時の堀池英一教育会長の発案になる首里城北殿の修理充当が、首里市当局と沖縄郷土協会の賛同を得た。1935(昭和10)年修理工事に着手、11年1月竣工、3月にいたって内部設備も整い、その後資料の移動・整理・展示作業を終えて7月の開館となったのである。

 設立の経緯はほぼ以上の通りであるが、開館の前年、1934年2月には文部省の補助と技術指導によって行なわれた首里城正殿の修理事業は完成しており、この完成が契機となって北殿を博物館に充当する案が提出されたものと考えられる。いわば、首里城全体を「博物館」と捉え、その一角を「郷土博物館」が占めるという位置づけである。とはいえ、北殿は国宝指定を受けておらず、修復の資金は専ら一般からの寄付に頼った。教育会幹事真栄田義厚の報告によると、正殿完成の翌月に第1回郷土博物館建設実行委員会が開催され、7月に寄付金募集の認可が下って、北殿使用契約を首里市と締結している。寄付金募集開始から1年かかって開館に漕ぎ着けたことになる。

 施設のいわゆるハードの面を受け持った「沖縄郷土協会」の組織を見ると、初代会長が『沖縄一千年史』の著者で知られる県立図書館長真境名安興であるが(26)、設立の経緯、趣旨、構成、事業等不明なところが多い。しかし、先のレニングラード大学動物学教授兼科学博物館長ピーター・シュミットの提言―すなわち郷土研究連絡機関の組織化と郷土博物館の設置―を受けて結成されたものと見られる。博物館開館当時の会長大田朝敷、副会長の志喜屋孝信(大田の後を継いで3代会長になる)が、共に講演を聴いていた(27)ことからも、そのことがうかがえるのである。

 開館とともに成立した「沖縄県教育会附設郷土博物館規定」は、博物館の「目的」として「本館ハ郷土古今ノ美術工芸博物其他教育参考品ヲ蒐集保存又ハ委託ヲ受ケテ公衆ノ観覧ニ供シ其ノ教養及学術研究ニ資スル」ことあおあげ、その目的を達成するために「展覧会講演会又ハ座談会等ヲ開催」するとしている。
 博物館の性格は、「何を」収集・保存し、どのような目的・方法によって展示するかで自ずから決まってくる。その意味では、「美術工芸」と「博物」を柱とし、首里城の一角に博物館を構えたことは注目されてよい。その「引き金」となったのは、伊東忠太・鎌倉芳太郎両人による「琉球建築」「琉球芸術」の水準の高さの強調とその保存の訴え、そしてピーターシュミットによる沖縄の自然科学的価値の評価と博物館設置の提言の2点であったことは確かである。師範学校・女子師範学校の郷土室設置、郷土教育・郷土学習の展開、沖縄博物学会の活動等も、設置を推進した要因と考えられる。

 しかし、展示の実際においては「美術工芸」主体であったことが窺えるのである。このことは、前述の教育参考館建設委員会の構成からしても推察できるのであるが、郷土博物館の専任職員仲吉朝宏によれば、開館時点では「これから蒐集せんとする、土俗動植鉱物其他の部面は他日南殿の修理を待つて延ばさるヽことであらう」ということであった。「土俗動植鉱物」が、今で言う「民俗」「自然史」に該当することはいうまでもない。『沖縄教育』第240号「博物館開館記念」特集号は「沖縄郷土博物館資料紹介」において、まず「皇室関係の御宝物」として「明治天皇御垢付」「ワイシャツ・カラー・靴下」、「後西院帝御宸筆と霊元帝御宸筆 御弐幅」を第一の資料とするのは、時世を象徴するものであろうが、一方では、博物館開館の最大の功労者として、胸像を進呈された島袋源一郎の思想を表明するものでもあっただろう。
 1939(昭和14)年に同博物館が発行した資料目録を見ると、①図書・版木、②図表(地図等)、③書画・写真・彫刻・文房具、④金石文拓本、⑤染織、⑥漆器、⑦風俗資料、⑧陶磁器、⑨石器、そして最後に「博物」標本資料を掲載している。①から⑧までは細部がうかがえる記述になっているのに比して、石器の部と「博物」標本の部が一括扱いになっているところからして、開館から3年を経過した時点でも「南殿の修理を待つて延ばるヽ」事情は変わっていなかったことが推察される。

 「規定」によれば、職員として館長1名(嘱託)、主事1名、幹事若干名、助手若干名を置く。館長は「本館の施設運営に関する一切の事務を管理」し、主事は「館長を補佐し本館経営の事務を靹掌」する。幹事は「本館の庶務会計事務に従事し陳列品保管の責に任ず」る。助手は「主事幹事の命を受け本館の事務に従事」する。以上が所掌事務であるが、職員の仲吉朝宏によれば「給仕共三人」の体制で、島袋は県教育会主事と博物館主事を兼任したものの、館長は結局置かれなかった。開館時点での仲吉の肩書きは幹事であろう。彼は27年間の教職を辞しての着任だが、(好きな社会教育の仕事が出来るやうな気がした)ことと、「三年以上も続けてきた同志の教育座談会が毎月開き得らるヽ」ことが博物館入りの動機であった。「美術工芸」や「博物」などの研究者ではなかったと、推察される。

 一方、郷土博物館創設に直接間接に関わった当事者が、新設なった博物館の意義をどのように見ていたかは、開館式の式辞や祝辞からうかがい知ることができる。すなわち「県民指導鞭撻」の機関、「文化ノ進展ノ招来」、「貴重ナル資料」の「県外流出」防止、「郷土愛の助長」、「古琉球ノ文化」の紹介による県外来訪客の認識不足の是正、「産業開発等」に対する貢献、等があがっている。また地元の首里市長は、博物館新設が「教育都市」、「遊覧都市」としての面目たらしめ、首里市発展のためにも有意義と述べている。教育、産業、観光の進展に寄与することが期待されたことがわかるが、県の直轄ではないことや、館長不在の職員配置などから見ても、同じ「社会教育」施設であった県立図書館とは格付けに違いがあったのは確かである。

「国民精神の作興」と郷土博物館

 博物館の産みの親とも言うべき島袋源一郎は、教育者として、また郷土史研究者として知られ、また沖縄県初の社会教育主事も務めた実行力に富む人物であった。彼の沖縄歴史研究に占める位置と歴史的評価は別に譲るとして(28)、島袋が郷土博物館の意義をどう捉えていたか、そのことを窺わしめる記事がある。まず、博物館開館の9年前、すなわち1927(昭和2)年4月、『沖縄教育』第161号の巻頭言で「教育参考館に就いて」と題して次のように述べている。発言の背景には、前述の伊東・鎌倉、シュミットなどの提言を踏まえつつ、なお沖縄県出身で琉球語や『おもろさうし』他の琉球文学から歴史・民俗まで多彩な研究と啓発で知られた伊波普猷の実績や、柳田國男・折口信夫の民俗学の隆盛と沖縄評価などが横たわっていた。このとき彼は、「沖縄県視学」の位置にあった。

 ①我々は従来あまりにも長く自らの足元に気が付かないできたが、近頃すべての文化はその郷土に立脚して建設されなければ空疎であることを自覚するにいたったのは学界の進歩である。②廃藩置県以来、「進取的思想」が澎湃として勃興し、その反映として古来醇醸されてきた郷土文化は悉く卑下する弊風を生じたため、古琉球の文物は弊履の如く捨てて顧みるものなきありさまであったが、近来漸く学者の賞讃するもの多く、美術工芸はもちろん言語、「土俗」の如きも日本の縮図として中央学界の注目するところとなり、研究者の来沖が重なるのは、喜ばしい限りである。③過般来沖したレニングラード大学動物学教授シュミット博士の2つの提言―すなわち本県の自然界は世界的に研究の価値があるから、内外相連絡して系統的郷土研究の機関を組織すること、そして本県の自然および文化を紹介する「教育博物館」の設立は刻下の急務である事―は傾聴に値する。④過去50年間、多くの貴重な文物・教育材料が煙廃し、県外に流出したのは残念であるが、今回教育参考館建設に向けて準備体制ができた。事業の完成を心から願って止まない。(29)

 6年後の1933(昭和8)年2月発行の『沖縄教育』第199号「郷土史特輯号」において、「本県郷土史の重点」を3点挙げている。①沖縄人の祖先は大和民族の一分団であること。②古琉球の人々即ち吾等の祖先は勇敢にして偉大な素質を持つてゐたことを児童の脳裏に刻むこと。結論として吾々は大に自重発奮して此の偉大なる民族性の甦生を図らなければならぬ。島袋が歴史教育者として博物館に寄せる期待は、「古代日本の縮図」たる郷土の文化を再認識し、そこから「郷土に立脚」した文化の創造を図ること、祖先が「遠く南洋諸国に往来して貿易を行ひ此等の諸国の文物を輸入して琉球独特の文化を創造し」た所産である「美術工芸」を中心とした遺産によって、県民の「偉大なる民族性」を県内外に知らしめることであったということができよう。冒頭で紹介した東恩納寛惇の「本県郷土史の取扱に就いて」とする講演記録と併載された島袋の主張もまた、博物館建設を推進するにあたっての相応の意義は認められるものの、やはり戦争の時代へ大きく傾斜した時流に乗るものであったことに違いはない。

 この時期すでに、日本の博物館総体が戦争体制の確立に向けて着実にイデオロギ-武装を開始していた。たとえば1935(昭和10)年、日本博物館協会の1指導者は「青年の地方開発指導機関」として郷土博物館を捉え、「国土愛」に発展すべき「郷土愛」、「郷土愛」に立脚した「日本精神」の確立を主張している。(31)ドイツの郷土博物館においてもこの時期、ナチス党員の活動が活発になって、近世史よりも先史・古代史に重点を置き、学校教育とも連携して、先史ゲルマン民族の存在を強調し、認識と誇りを持たせる教育が行なわれていた。(32)こうして育成された愛郷精神が、「祖国愛」に発展し、民族意識を高揚させることはそのまま他民族蔑視につながり、ナチズムの狂気の嵐を呼び起こしたことは、周知の通りである。歴史の特定部分を過度に強調することは、逆に時の権力にとって不都合な部分を抹消するか、「書き換える」行為と連動しており、まことに「非科学的」というほかない。

 ところで、「琉球新報」の1939(昭和14)年6月11日の記事によれば、首里城南殿は首里市の手によって5000円余の工事費によって同年3月竣工、6月10日落成式を挙行している。(33)同紙によれば、改修なった南殿は博物館別館として使用することになっている。とはいえ、当初の予定通り「博物」資料の展示が行なわれたかどうか、今のところ明らかではない。城内にあった首里第一尋常高等小学校で1944(昭和19)年4月から訓導を勤めた真栄平房敬は、しばしば博物館に足を運んでいる。氏によれば、南殿は首里市によって修理が施されたものの、「博物」資料の展示は見られず、北殿の展示では王家・上流士族の調度品、三司官クラスから一般士族までの衣冠束帯、履物はど身分の違いを示す資料等が展示され、正殿2階の「宝物殿」には国王の轎、王妃の駕籠、「涼傘」、国王行列の際の飾り物等が展示されていたという。これらの展示品は尚王家からの借用であったという。

 南殿改修の2ヶ月後、志喜屋孝信を会長、島袋源一郎を副会長に選出した沖縄郷土協会は、東恩納寛惇の提唱を受けて廃藩置県後、首里城から那覇市の真教寺に移されていた首里城正殿の梵鐘「万国津梁の鐘」をもとの首里城(沖縄神社拝殿)に掛け直すべく交渉することを確認したが、(34)しばらく実現しなかった。東恩納は県当局にも訴え、首里市長仲吉良光も協力して(35)、1943(昭和18)年10月15日、城内の博物館に移管された。(36)東恩納の梵鐘復帰主張の論拠は、「尚泰久治下海外発展時代に干り、制海の気魄銘文の中に現れ」「国民の作興」に資するものであるというものであった。鐘は博物館の入り口近くに展示してあったと、真栄平は言う。この梵鐘は沖縄戦の戦火を浴びて黒焦げとなるも、生き延びて、後に中城御殿旧地に建った琉球政府立(後に沖縄県立)博物館入り口ロビーに展示されているのは、周知の通りである。

 真栄平によれば、米軍の空襲が始まり、戦局が急を告げると、大半の博物館資料は円覚寺前にあった師範学校の収容道場と体育館に移されたが、同校は軍の兵舎に使われ、特別な理由がない限り近寄れなかった。そのうち米軍の砲撃が始まったが、首里城は最後まで攻撃の対象からはずされていたという。日本軍は、いわば首里城を盾にしてその地下に壕を構えて陣取った経緯から、最終的に首里市は爆撃の対象となった。真栄平によれば、首里城が焼夷弾で炎上したのは、4月半ばであっただろうか、首里市内からもその様子がよく見えたという。首里市はかくして壊滅状態となり、博物館所蔵の貴重な資料も大半が首里と運命を共にしたと見られるのである。



(1)『那覇市史』資料編第2巻下、1967年、p88。ちなみに、現在の「博物館法」では「公立博物館」を次のように定義している。「この法律において『博物館』とは、歴史、芸術、民俗、産業、自然科学等に関する資料を収集し、保管(育成を含む。以下同じ。)し、展示して教育的配慮の下に一般公衆の利用に供し、その教養、調査研究、レクリエーション等に資するために必要な事業を行い、あわせてこれらの資料に関する調査研究をすることを目的とする機関」。「育成」の語が入るのは、動物園・植物園・水族館も「博物館」に含まれるからである。・
(2)『沖縄県史』第19巻「新聞集成・社会文化」、1969年、p302
(3)安良城盛昭「『沖縄県史』刊行の意義と残された課題」、『沖縄県史料編集所紀要』第3号、1978年 p4
(4)たとえば、1914(大正3)年10月17日「琉球新報」の「県史編纂」、前掲『沖縄県史』 pp631~632
(5)『那覇市史』資料編第2巻中3 pp33~36
(6)『沖縄教育』第199号、pp1~11
(7)東恩納寛惇『黎明期の海外交通史』、1941年 p7
(8)東恩納寛惇前掲書 序p7
(9)以下、伊東忠太、鎌倉芳太郎および首里城保存問題については、由井晶子「伊東忠太」(『近世沖縄文化人列伝』 1969)参照。
(10)伊東忠太『琉球』、1942、p5。
(11)伊東忠太『琉球』、pp75~76。
(12)『沖縄教育』第140号、1924年、pp2~11。
(13)沖縄県教育委員会『沖縄県史』別巻『沖縄近代史辞典』、1977、付録p11.
(14)『沖縄教育』第240号、1936、p40.
(15)『那覇市史』資料編第2巻中3、1970、p168から169。
(16)『那覇市史』資料編第2巻中3、p169。
(17) 安良城(3)p7~8。
(18)『那覇市史』資料編第2巻中3、p169。
(19)「大正期における博物館の発達」、『博物館学講座2-日本と世界の博物館史』、1981、pp85~86。
(20)後藤和民「館種別博物館と地域(市民)社会ー郷土博物館」、『博物館学講座4-博物館と地域社会』、1979、pp178から179。
(21)『琉球大学教育学部紀要』第28巻第1部、1985、同第30集第1部、1987。
(22)新城安善「沖縄研究の書誌とその背景」、『沖縄県史』第6巻文化2、とくに「四 郷土教育普及と郷土研究」。
(23)『沖縄博物学会会報』第1巻第1号、p50。
(24)『沖縄博物学会会報』第1巻第1号pp49~50。
(25)この後、ことわらない限り、同館開館に関わる記述は同誌による。
(26)『師父志喜屋孝信』、1983、p31。
(27)『那覇市史』第2巻中、p168。
(28)「島袋源一郎」、『新沖縄文学』33号、1976、pp128~135。
(29)『沖縄教育』第161号、1927、p1、筆者は「北城生」となっているが、「編集後記」で島袋であることがわかる。
(30)『沖縄教育』第199号、pp39~46。
(31)(20)後藤論文、p179。
(32)後藤和民「館種別博物館と地域(市民)社会ー郷土博物館」、pp178~179。
(33)『那覇市史』第2巻中2、1969、p69。
(34)『那覇市史』第2巻中2、p144。
(35)仲吉良光「戦争と市政(首里)」、『那覇市史』資料編第2巻中6、1974、p183。
(36)東恩納寛惇『南島風土記』「真教寺」、『東恩納寛惇』全集第7巻、1980、p295。
                                                                                             (16938字)

栗原達男写真展「戦争と人々、民族、人生讃歌」(「琉球新報」2,009.3.18)

2012-06-22 17:18:06 | Weblog
 写真家・栗原達男が撮る風景=叙景には、同時に叙事があり、叙情が流れている。ジャーナリスト・栗原達男の文章には、ドキュメントがあり、詩があり、音楽があり、ときに軽妙なユーモアすらある。舞台や背景となるのは、島・海・空・大地。主役は「普通」の人々。テーマは、「国家」と「人間」、両者を縦横につなげる「民族」、「歴史」、「戦争」、「平和」、そして「今」。写真と文章が、それぞれの行間を埋め合う。

 栗原のテーマ・主役・舞台を見ると、すべてが文学と重なる。目下、沖縄県平和祈念資料館で開催中の企画展「戦争と人々、民族、人生讃歌」は、写真と世界文学のコラボレーションである。展示はまず、マーガレット・ミッチェルの「風と共に去りぬ」、アーネスト・ヘミングワエイの「誰がために鐘は鳴る」など、9カ国15の「名作の舞台」を「フォトジャーナリスト」栗原達男が十余年をかけて直接訪れ、その地の人々と出会い、見て、撮った写真と、名作や撮影にまつわるエッセイで構成される。

 合わせて、当の写真や栗原の写真に所感を寄せた人たちの寄稿文と直筆原稿が並ぶ。寄稿したのは、ニュースキャスターの筑紫哲也、女優の杉村春子、映画監督の山田洋次、写真家の大石芳野、イギリスの詩人J・オブライエンなど15人。言ってみればこの展示会は、栗原の写真100枚とエッセイ15篇、それと寄稿者たちで奏でるシンフォニーとなっている。楽譜は15篇の世界文学、隠れた指揮者は、歴史の表舞台に名前を出さない人々だ。

 栗原の生まれは、東京の下町・向島である。大学卒業前の1961年2月から、米軍統治下の沖縄・宮古・八重山に1ヶ月半滞在する。当時もっとも近い「外国」=「異郷」で出会った、当たり前のように歴史と向き合う島民(シマンチュ)たちは、文字通り「アイランダー」=Ikanderであって、しかも向島の住民と何ら変わらなかった。そこから、写真家として島々を巡る長旅が始まる。

 栗原にとって、地球上の30パーセントを占めるに過ぎない陸地は、どこに行っても「島」以外ではなかった。そして、沖縄を含めて世界中のどの島にも戦争があり、平和があった。そんな土地に、今もアイダンダーたちは、根を張り、あるいは浮き草のように生きている。

 50年もの時間をかけて一人旅を続けてきた栗原は、昨年から名護市に拠点を移し、最初の仕事としてこの展示会を手がけた。国家・島・人間・民族・戦争・平和、人々の生と死のありよう。この、人類にとって、そしてここ沖縄にとっても普遍的な課題を、写真とそれに添える文章を通して追求し続ける栗原が、会場を沖縄県平和祈念資料館に選んだことは、彼にとって当然過ぎるぐらいに必然的であったといえるだろう。

(1162字)

<沖縄の美>に向ける眼差しー三つの視角から

2012-06-22 13:09:06 | Weblog
 はじめに

 明治12(1879)年、500年近く続いた琉球王国は解体され、沖縄県が設置された。琉球・沖縄は日本帝国の版図に組み込まれ、そのもとで近代化の道を歩むことになる。しかし、その歩みは他府県とはずいぶん趣きを異にしていた。近代日本が「脱亜入欧」を国家形成の主題にしていたとするなら、沖縄県の近代化においてはそれとあわせてもう一つ、いわば「脱琉入日」とも言うべき政策が併行していたからである。「日本」と「沖縄」の差異を「琉球的なもの」の所在に帰し、その改変=抹消を図るのが沖縄の近代化であった。国家の側からする「日本化」政策である。
 独自の自然的地理的特性を背景に独自の王国を形成してきたことに起因するまぎれもない両者の差異は、国土の近代的統一を課題とする日本国家の側からすれば抹消されるべきものであった。一方、沖縄と本土、双方の知識人にとってこの差異はどうとらえられるべきか、やはり大きな課題であった。ここでは、<沖縄の美>をテーマにした本土側知識人のスタンス三つをとりあげて考えてみたい。

1.有形の視角ー「美術史」から

 日本の南端に弧状をなす琉球・沖縄が形成してきた<美>を、資料調査をベースに体系的に把握しようとする試みは、鎌倉芳太郎(1898~1983)から始まった。東京美術学校(現東京芸術大学)図画師範科を大正10 (1925)年3月に卒業し、沖縄女子師範学校の美術教師として赴任した鎌倉は、写真機材を取り揃え、自らそれを駆使して王国時代の所産である絵画・彫刻・建築・工芸の作品群を撮りつづける一方、緻密な文献調査とフィールドワークを行った。彼の調査を物心両面で支えたのは、建築家で東京美術学校教授を務めた伊東忠太である。(注)
 鎌倉は、伊東等の口利きで調査資金を提供した財団法人啓明会主催の講演会(大正14 1929)で、伊東と共同で成果の一部を発表した。引き続き両者は、大正末期から昭和初期にかけて平凡社が刊行した世界美術全集に成果を写真付きで発表し、解説を付した。解説は、自らも大正13(1924)年7月に沖縄を調査した伊東忠太が「琉球芸術総論」、鎌倉が「琉球美術各論」を執筆している。
 伊東は論考の中で、琉球と日本・朝鮮・中国・東南アジア諸地域との歴史的交流にふれた後、「琉球芸術」は日本と中国をベースとして上記諸地域の芸術を取り入れながらも、「その手法は琉球民族固有の趣味と思想に由って処理されたので、終に茲(ここ)に一種特別の芸術が大成した」として、その特徴をあげている。まず「規模が小さい」ので「雄壮偉大というが如き物はない が」、「常に悠暢寛濶の気分に充ちて居る」。さらに、いずれの分野でも「純真無垢の気分があり、支那の濃艶にも似ず、日本の淡麗にも似ない」。「色彩の調子」は「常に明快でしかも一種の落ち付きがある」。また「琉球芸術は常に(日本のー引用者注)古調を帯びて居る」。そして、このような特徴を生んだのは、琉球が海洋の孤島であり、海洋を活動の舞台として活動したことが起因するのであろう、と述べている。
 鎌倉は、伊東の総論を補足する形で文献記述とフィールドワークに依拠しながら各論を展開する。
 伊東・鎌倉の研究の視角は一言で言えば「美術史」のそれである。<沖縄の美>を産み出した力は、文献に記される作家・工芸家や、無名の職人たちの技も含めて、彼らを動かした独自の地政学的位置と独自の歴史である、とするものである。
 伊東・鎌倉のスタンスは、「東洋美術」の範疇に「琉球芸術」を正当に位置づける必要性を説くことで、日本美術史の再構成を迫るものであった。その後刊行された美術全集のなかで、戦前・戦後を通じて琉球・沖縄がこれほどまともに取り上げられた事例はない。取り上げられた作品の多くが戦争で灰燼に帰すか、散逸した事実を差し引いても、ふたりのスタンスの確かさに対する評価はゆるがない。

2.有形の視角ー「工芸論」から

 柳宗悦(1889~1961)は、無名の庶民や職人が日常の暮らしでつくり、使う工芸品(「民衆的工芸品」)に日本の伝統美の正統がある、とする民芸美学を生み出し、その生きた姿を沖縄で目の当たりに見た。昭和13(1938)年から15(1940)年にかけてのことである。地理的自然、人々の暮らしぶり、ものづくりのシステムがいわば論理必然的に美しいものを産み出すという彼の民芸論は、沖縄の地で再確認されたといえるだろう。
 柳は、昭和17(1942)年に書いた「現在の壺屋とその仕事」で、次のように述べている。
 すなわち、壺屋の焼物は中国・朝鮮・薩摩の流れを汲むが、真似事に終わらず、「すべてのものを琉球の血と肉とに変えてしまった」(以下原文を現代表記に改めた)。ここでは「実に独自の世界を形に於て模様に於て色に於て充分に表現」されている。壺屋を「現存する日本の民窯の中で、最も優れたものの一つに数えることが出来る」理由として、柳は「材料がいいとか手法が独特だとか云うこと」をあげながらも、それに止まらない、もっと深い要因としてその「暮らしぶり」をあげる。壺屋では「暮らし方が自然で、人為的に歪められたところが少な」く、「信仰が純一で、或見えない霊の世界に対する感じが、まざまざと動き、之が暮らしの方向を支配してい」て、「如何に正しい仕事と信仰が密接な間柄にあるかが分る」、というのである。
 同じく昭和17(1942)年に書かれた『芭蕉布物語』は、次のように文末を結んでいる。

  個人が努力して良い仕事を産むのを讃美するなら、大勢の無学な女達が平気で美しいものを作り上げることを尚讃美出来ないでしょうか。私達は誰が作ったか分らない芭蕉布の美し さのその背後に、何か拝みたいもののあるのを感じます。

 「用と美」「暮らしと美」「信と美」「民と美」「物と美」を説く柳民芸論の要諦を示す文章である。
 なぜ、沖縄が「美の浄土」として輝いているのか。柳は、「近代化」を旗印に欧米志向を強める中央ではなく、地方にこそ暮らしに息づく日本の伝統美が生きている、と考えていた。彼が沖縄で見たのは歴史的に関わりの深い中国の影響ではない。「事実は逆で、其の言語も風俗も建築も殆ど凡てが大和の風を止めているのです。それ所ではなく、日本の何処へ旅するとも、沖縄に於てほど古い日本をよく保存している地方を見出すことは出来ません」。
 <もの>にまつわる史実や知識、すなわち<こと>に惑わされることなく、おのれの眼でじかに<もの>を見ることを説いた柳は、しかし<もの>を産んだ<ひと>への目配りを説くことを忘れなかった。沖縄に続いて東北、アイヌ、台湾先住民の工芸を歴訪した柳はこれらの人々の工芸品展覧会を相次いで開催し、その紹介に努めている。台湾先住民の織物について述べた昭和18(1943)年の文章は、次のように結ばれている。

 美しさの魅力は、現れた姿よりも、匿れている力にこそ潜んでいる。物に驚きがあるなら、それを産んでくれる人に、一段と驚きが感じられなければならない。物をのみ愛して、人に冷ややかなのは、真に物を愛していない証拠ではないだろうか。

3.「有形」から「無形」へ

 戦後における「前衛芸術」の旗手岡本太郎(1911~1996)は、1959年11月から12月にかけてと、1966年12月の2度沖縄を訪れている。第1回訪沖における体験をもとに書き下ろした『忘れられた日本ー沖縄文化論』(1961、中央公論社)は、作家三島由紀夫が激賞、毎日出版文化賞を受賞した著作として知られている。
 沖縄を訪れるに先立って、岡本も初めは、伊東・鎌倉や柳のように「具体的な文化遺産、芸術品のようなものを、漠然と期待していた」。ところが、伊東・鎌倉や柳が評価した沖縄の<もの>の文化に対して、岡本は「こいつはどうしても沖縄だけにしかない、というような凄み」を感じなかった。「すべてを通じていえることは、どうも、もとは中国であり、南方であり、朝鮮、日本」でしかない。「いわば借りものであって、沖縄全体がそこからつき出てくる」「クリエートされた気配、その息吹きが感じられない」というのだ。
 岡本をもっとも感動させたのは、鎌倉や柳の報告で一部取り上げられるられるに過ぎない島や村の聖地「御嶽」(ウタキ)だった。

 御嶽―つまり神の降る聖所である。この神聖な地域は、礼拝所も建っていなければ、神体も偶像も何もない。森の中のちょっとした、何でもない空地。
 そびえたつ一本の木。それは神がえらんだ道。神の側からの媒体である。この神聖なかけ橋に対して、人間は石を置いた。それは見えない存在へ呼びかける人間の意志の集中点、手がかりである。

 自然木と自然石、それが神と人間の交流の初源的な回路なのだ。神と人と石が作る聖域における体験を、岡本は「『なにもないこと』の眩暈」と表現した。その感動を次のように表現する。

 なに一つ、もの、形としてこちらを圧してくるものはないのだ。清潔で、無条件である。だから逆にこちらから全霊をもって見えない世界によびかける。神聖感はひどく身近に、強烈だ。生きている実感、と同時にメタフィジックな感動である。静かな恍惚感として、それは肌にしみとおる。

 ところが、聖地の歴史を振り返ると、自然石が切石の香炉となり、陶磁器の鉢に変わる。そして祠ができる、鳥居が建つ・・・。人間の側からする「挟雑物」が入り込むのである。そしていずれは「出雲大社」に至る。その経路は、岡本からすれば「逆に神聖感を消し去り、同時に人間としての充実感をも失わせてしまう」というのだ。
 聖地の何もなさと、暮らしの何もなさとは照応している。「台風に吹きさらわれ、破れ、自然に朽ち、風化し、しかし新しい芽がその下からしっとりと生え育ってくる。」「生きつぎ生きながらえる、その生命の流れのようなもの」。そこには、「美しいものではあっても、美しいと言わない、そう表現してはなら」ず、「美的価値だとか、凝視される対象になったとたん、その実体を喪失してしまうような」「生命の感動」がある。それは大陸から文化が導入される以前の、日本の文化の基盤に通じ合うと岡本は考えた。本書のあとがきで岡本は、沖縄で「ぶつかったのは、はからずも日本の神秘だった」と述べている。
 その後刊行された『美の呪力―わが世界美術史』(1971)は、沖縄体験を踏まえたうえで「無いーあることを拒否するポイントからあるを捉え、またある側から無を強烈に照らしだすべきではないか。そういう弁証法的な捉え方によってこそ文化の全体像を照らし出すことができるのだ」と述べている。

終わりに

 伊東忠太・鎌倉芳太郎は、美術史の正統な視角から<沖縄の美>に眼差しを向けた。向けたのは、建築・絵画・彫刻・工芸などのジャンル分けがあるにせよ、いずれも表現された<もの>としての作品群である。これらは、作者に名があろうとなかろうと、国権・王権の支えがあって出来あがったものである。
 一方、柳宗悦が注目したのは、歴史的な経緯を経ながらも、無名の庶民が暮らしにより密着し、それ故に島々の自然にまるごと依拠してつくられた<もの>の一群であった。彼はそんな<もの>の向こう側に見え隠れする、庶民の生きざまや、<もの>づくりのシステムに眼を凝らした。
 岡本太郎は、人間が<もの>を生産し、生産を組織化し、併行して権力のヒィエラルキーを構造化することで<もの>の体系をつくりあげるに至った現代からはるか遡り、最低ぎりぎりの<生きる>ところで成り立つ<ひと>と<自然>と<神>の交わる接点に立ち戻ったうえで、三者のありようや、三者の間に<もの>が介在を始めることの意味を問うた。
 伊東・鎌倉、柳、岡本に共通するのは、岡本の言葉を借りれば、「外部に位置する切実なポイント」すなわち<沖縄>から「逆に日本文化を浮び上らせて行く」という方法である。これらの視角は、<沖縄>を日本の「地方」=辺境と見なし、「皇民化」、「同化」、「本土並み」をスローガンとする戦前・戦後の国・県の政策や一般の思潮に根底的な疑問を付すものであった。
 しかし今は、その先を問う方法が求められている。「日本」という枠組みを越えて、もう一度<沖縄の美>に向かう眼差しである。その点でも三者は、その方向性を暗示ないし明示している。ひとつは、アジア・東南アジア・太平洋島嶼群から向ける眼差し、そして無名の人々が、工芸の現場において美しい<もの>を産み出すのが当たり前な<生産>のシステムの再生、さらには生産=表現と生き方のありようを、<もの>の<無>・<有>に絶えず立ち戻りつつ捉え直しながら、「クリエートされた」沖縄を人類の「文化の全体像」に繰り込むこと。この三つである。


注:伊東忠太の功績については、本書所載「沖縄における博物館の編成ー戦前戦後の連続と断絶」参照。(5600字)

                                                                (那覇市立壺屋焼物博物館『日本のやきものー日本民藝館名品展』図録 2001.2)

「創作オモロ」から「創作長歌」へ

2012-06-22 12:53:56 | Weblog
       

 以下は、私の「創作オモロ」である。

 (一 )
ときはなる松の
  色どまさる 若くなゆさ 
千歳なる松も
   色どまさる 若くなゆさ 
 いつも春くれば
   色どまさる 若くなゆさ
 めぐて春くれば
   色どまさる 若くなゆさ
 みどりさし添へて
   色どまさる 若くなゆさ
 変わることないさめ
   色どまさる 若くなゆさ

   (二 )
一 ときはなる松の
   千代のひびき 千代のひびき
又 千歳なる松も
又 いつも春くれば
又 めぐて春くれば
又 空に春風の
又 うれしおとづれや

 『おもろさうし』では、(一)の形で唄われる歌詞を、反復部を省略して(ニ)のように記す。基本的に、唄われるシーンは祭場、先導部と反復(復唱)部の「二重唱」からなっていたと推定されている。今風に言えば「リフレイン形式」ということか。私の経験からしても、久高島で実見できた「最後の」イザイホーや、大宜味村喜如嘉のウスデークなどから納得できる説である。

 一番の歌詞が主題とするのは「色どまさ(勝)る 若くなゆさ(なるよ)」、二番の歌詞のそれは「千代のひびき」。言ってみれば、各行の「上句」は「反復部分」を強調するための、手を代え、品を代えた修飾語句ということになる。千年もの間、「若さ」を保ちたいとする願望は、成員の個々を超えて、共同体の願意そのもの、祈りそのものであった。
いかにもそれらしい解説を添えたが、タネを明かすと前記「オモロ」には、「本歌」がある。以下の3首がそれである。
 
 ときはなる松の変わることないさめ いつも春くれば色どまさる  北谷王子
  
 ときわなる松に、経年の変化はないようだ。春が来るたびに、若葉を添えてくれる。その色たるやむしろ、年毎に勝って来るようにも思えてくるではないか、というのである。「ど」は和語の「こそ」にあたり、「まさ(勝)る」は連体形で「強意」の「係り結び」。琉球舞踊中の「若衆踊り」に分類される「特牛節」の伴奏歌ともなっている。
季節は変転するが、循環して戻り来る。規則的な循環それ自体は不変である。冬が来ればまちがいなく春は来るのである。この歌では、 現象界(空間)はまず視覚で捉えられ、それが時間・意識に転化する。

 千歳経る松もめぐて春くれば みどりさし添へて若くなゆさ  読み人知らず

 「老松」は「歳=年」を「経ている」。しかし、「老いて」「枯死」を待っているのではない。春が巡り来れば、「若松」同様に「若葉」を吹き出す。老松・若松の緑に差はない。否、老松だからこそ、若葉の「緑」、色の「若さ」がいよいよ冴えるのである。「老い」の中に「若さ」が秘められていて、それが年々再現するという「法則性」は変わらない。その松にあやかろう。そうすると自分も若くなる、というのが歌い手の実感であり、祈りなのである。黄色や赤が成熟→死を象徴するのと対照的に、緑→青は生成→生長を表す「民俗カラー」である。「色ど」の「ど」は強意の助詞で、連体形の「まさ(勝)る」と「係り結び」の関係にある。

 この歌が「読み人知らず」となっているのは、名のない「庶民」が歌い継ぐうちに作者不明と化したと解してよいだろう。北谷王子や次に引用する尚育王の作品にしても、この種の歌をベースにして詠まれただろうから、両歌が、性格としては「読み人知らず」とされていても、何ら不自然ではない。趣意は同じであり、一方では、それだけ琉歌の世界に身分の違いがなかったことを示している。 千年の樹齢を誇る松だが、それでも春が訪れると、変わることなく若さを添えてくれる・・・。それはまさに「共同体の願意」そのものである。

 2つの歌で詠われるのは、「不変」と「変」の相関である。島人たちの感覚からすれば、「不変」は「不変」のまま、「変」は「不変」と読み替えることができる。
現象界(空間)を視覚で捉え、(時間)意識に転ずる上記2首の琉歌に比して、次の琉歌は空間を視覚と触覚と聴覚、三つながらで捉え、時間・意識に転換する。3首目。

 ときはなる松の空に春風の うれしおとづれや千代のひび(響)き 尚育王

 新春に訪れる松風の音はうれしい。千年の響きを聞かせてくれるから。歌意はそんなところである。 「ときわなる松」に訪れる(音・連れる)春風は、まずは触覚で察知されるが、その風は同時に「松風」と呼ばれて、聴覚を誘う。見れば松は、早くも「新緑」に染まっている。松の色だけでなく、風の響きまで「ときわ」であり、「千代」であることを確信させる。
 この琉歌に、「無常」をはかなむ心情もなければ、無常を「あはれ」と見なす心性もない。 春風=松風の「響き」は、「平家物語」の「諸行無常の響き」とは対極の位置にある。島人たちは昔から、「もののあはれ」と無縁な反復=再生=蘇生=永世の、時代と社会を生きてきたのである

 ひるがえって考えてみる。これらの琉歌を「解体・再編」すると、どうしてオモロスタイルの歌がつくられるのだろうか。前記3首の琉歌は、いずれも新春に当たっての「年ほめ」の歌である。もちろん、そこには個人の願意が込められている。しかし、それにとどまらない。新春をことほぎ、長命を期するのは、共同体を構成する全員の総意でもあり、その総意はしばしば「祭」として結晶した。歌人たちは、その総意を八・八・八・六の、文字通り「短・歌」として表出した、といってもおかしくはないはずだ。学説的前提としては、外間守善の、オモロから琉歌へ、とするそれに負うている。(『南島の叙情―琉歌』)。ならば、複数の琉歌からオモロを再構成することも可能だはずだ。ただし、前提がある。共同体の「願意」が個人のそれに「依り憑いた」ときに限る、と。

    

 次に、前出「オモロ」を、琉球文学史上でいうところの「長歌」に改作してみる。
 
 (一)
  ときはなる松の 
 千歳経る松も
  いつも春くれば 
 めぐて春くれば
みどりさし添へて
 変わることないさめ
 色どまさる 
 若くなゆさ

  (二)
  ときはなる松の 
  千歳経る松も
  いつも春くれば 
  めぐて春くれば
  空に春風の 
  うれしおとづれや
  千代のひびき 
  千代のひびき

 空間と時間を軸とする座標上で、空間寄りに描いた局面を歌うのが一番目の歌詞、時間軸に引き寄せた局面の歌が二番目ということになる。

 「長歌」とは、基本的に八音が琉歌以上の回数で繰り返された後に、末句を六音で結ぶスタイルである。ただし、八音で止まる作例もある(たとえば島袋盛敏『琉歌全集』)。いずれにせよ、琉歌にくらべて数は少なく、琉歌にくらべて「定型性」は緩い。
私の「創作長歌」で言えば、(一)(二)における冒頭2行「ときはなる松の 千歳経る松の」の反復が、一連の歌を「詠む」歌から「歌う」歌へ、「共有」される歌へと引き戻し、2番目の歌詞末句の「千代の響き」を繰り返すことでで「めでたさ」が増幅される。冒頭2行の反復と末句「千代の響き」の繰り返しに、個と共同体の「永続」を期する「祈り」が秘められている、と言い換えてもよい。それぞれの「琉歌」=「短・歌」にくらべれば「共同性」は強調されるが、とはいえ、反復部が消えた分、「創作オモロ」に比して、共同体の「願意」が薄れ、一方、個人の願意としても、短歌形の琉歌にくらべて平板で、メリハリが効いていない。

 琉球文学史上「長歌」と呼ばれているもので、よく知られるのは次の歌。

あはぬ徒らに
戻る道すがら
恩納岳見れば
白雲のかかる
恋しさやつめて
見ぼしやばかり

 発音上は、8・8・8・8・6となっていて、琉歌より八音が一句多い。琉球舞踊のジャンルの一つ「古典女踊り」の中でも典雅さで知られる「伊野波節」において、三線の音色に乗せて歌われることでも知られている。白雲に恋慕の情を仮託する心象は、必ずしもこの作者の特性ではないようだが、それにしてもこの歌に、共同体成員が共有する「願意」が秘められているとは思われない。

 そこで次は、「叙情性」の強い琉歌を「本歌」として、長歌形式の「恋歌」をつくってみたい。題して「寝屋」。

 春に咲く梅や 
梅も匂しほらしや 
春の夜(ゆ)やねや(寝屋)の 
い語らひもあ(飽)かぬ
あ(明)け雲とつ(連)れて 
手枕にうつ(移)る
匂のしほらしや 
声のしほらしや

 季節は春、舞台は、歌人もしくはその恋人の家と庭。背景に深山、姿は見えないが声でわかる鶯。「明け雲」の光が差し込む時間帯、登場人物は恋人二人。詠うは男。語り合っていたら一睡もしないうちに時間が経過したという場面、差し込む朝日のほの明るさで、恋人のかわいい顔が目の前に浮かぶ。梅の香りと併せて娘の放つ香りは、日が映る枕に移り、残る。漏れ入る梅の香りとこもごもで、そのかぐわしいこと。娘のひそやかな声が、鶯の鳴き声と響き合って、何ともかわいらしい。・・・

 本歌は4首。

 1.春の夜やねやの 内までも梅の 手枕にうつる匂いのしほらしや
 2.梅も匂いしほらしや い語らひもあかぬ 寄らて眺めゆる花の木陰
 3.あけ雲とつれて ほける(歌う)鶯の 声に初春の夢やさめて
 4.春や花盛り 深山鶯の 匂いしのでほける声のしほらしや

 メインのシーンは1。舞台背景は4から。屋外に梅の木が植わっている。登場人物は一人か二人か不明。私の「創作長歌」では、恋人二人に設定する。2から、寝屋に満ちる梅の香りのかんばしさと、一晩中二人が語り合った様子を借用。ただし本歌の時間帯は昼間で、主人公は複数、梅の美しさと匂いのかぐわしさを愛でるのは梅樹の下なので、この場面はカット。会話が語り尽きないうちに入日が漏れて朝が訪れ、鶯の声が聞こえる場面を3から借用、ただし下句の内容も削除。そこで出来上がったのが、「寝屋」。
 もちろん、それぞれの琉歌単体だけでは、ここまでの情景設定は望めない。こうしてみると、語句の選び方と配列において、私の作為(恣意性)が相当に加わっていることになる。言い換えれば、語句はすべて借用ながら(それが私の隠された意図でもあるが)、「私の作品」らしきものに近づいてきたということだ。
 
 一転して「恋人を待つ歌」。題して「寝屋の戸」。 

 約束のあてど ねやの戸はたたく
  夜嵐のたたく ねやの戸はあけて
  里待ちゆる夜や ねやも清めとて
 つぼでをる花の 花の露待ちゆす
 
 場面は娘の部屋、時間帯は夜半。夜嵐が吹いて、戸をがたがた鳴らす。契りの約束があって、「里」=恋する男を待っているのである。寝屋も清めて、ひたすら待つ。つぼんでいる花は露と出会って開く、と人は言うが、その花が露を待つ心境もこのようなものか。胸がさわぐ。戸をたたくのは、待ち人か、夜嵐か、別人か、・・・。もしかして、あのせかすようなたたき方は、と戸を開く。違った。たたいたのは、やはり夜嵐。訪れて部屋に入り込むのは、月明かりだけ。

 つぼむ花は露を受けて開く。それがうれしく、めでたい、という心情や心境がこの島々にはあった。末尾に本歌を列記する。本歌の一つ「けふ(今日)のほこ(誇)らしや・・・」は、今でもめでたい唄として、正月や結婚披露などの祝宴で、三線にのせて歌われる。「かにがあゆら」は「かくあらん」(このような心境であろう)の意。「(約束の)あて・ど」と「(戸は)たたく」、および「月・ど」と「入ゆる」、双方とも「強意」を表す「係り結び」の関係。
出だしの「約束の」から最終行「かにがあゆら」までは、詠み手=私が憑依した歌い手の娘が主体。末句「月ど入ゆる」には、幻想から醒めた娘の心意と、憑依した娘から離脱した詠み手の「第三者の眼差し」が重なっている。本歌は下記の通り。

1、夜嵐のたたくねやの戸はあけて 見れば里や来ぬ月ど入ゆる
2、約束のあてどねやの戸はたたく 誰がすてやり言ゆすや二人待ちゆめ
3、ねやの戸よあけて里待ちゆる夜や 花の露待ちゆす かにがあゆら
4、寝屋も清めとて無蔵(んぞ=男からする恋人)待ちゆる宵の 弓貼りの月やしまの西に
5、けふのほこらしややなを(何)にぎやなたて(譬え)る つぼでをる花の露きやた(行き会った)ごと


                                                                                              (書き下ろし)

近世琉球の服喪の制

2012-06-22 12:46:28 | Weblog
 近世琉球における服喪の制は、1667年4月23日に王府から布達された「不浄定」によって方向が定まった。時の摂政は羽地朝秀。彼のヘゲモニーのもとに示達された一連の布達類を総称して「羽地仕置」と呼んでいる。その中に収められた「不浄定」は前月16日付けの「葬礼之定」に続いて出されたもので、内容的にはこれと連動するものである。「不浄定」の内容は、次の通りである。

 一 祖父母父母夫婦兄弟は三拾日の事
 一 継父母伯父母弟妹子孫は弐拾日の事
   但弟より下は髪差不抜事
 一 甥姪拾日の遠慮の事
 一 従弟より下は五日遠慮の事
 右此中父母より下親類中差合の刻、不依遠近に一か月の忌にて候付、如此申渡候事
  (寛文七年)羊四月二十三日

 この布達によれば、従来は親族関係の遠近にかかわらずひとしく30日の間、喪に服することになっていた。それを今回、喪に服すべき親族を祖父母・父母・夫婦・兄弟、継父母・伯父母・弟妹・子・孫、甥姪、従弟の4種に区分けし、それぞれ30日、20日、10日、5日と服喪の期間を定めたのである。

 改革の理由について「不浄定」は何も述べないが、「葬礼之定」を見ると、「孝行」を名目として祭儀が華美に流れ、子孫に出費多端の結果を招くことになり、ひいては「奉公」方まで疎意・粗略になるような状況があって、それを牽制することが改革の趣旨であることが述べられている。今回の服喪制の改革にも同様の趣旨が伏在していたことが推察できる。ただし、人はなぜその親族の死にあたって喪に服さなければならないか、その理由は述べられていない。

 この「不浄定」に見える「親類」という用語が、父方親族と姻族の双方を指すことは理解できよう。ただし、後に父方親族、姻族を用語上それぞれ「一門」、「親類」(たとえば「系図座規模帳」1730年)、あるいはそれぞれ「本宗方」、「外戚方」(「服制」、後出)と区別し、双方を併せて呼ぶ場合は「一門親類」と称したことからすれば、ここにいう「親類」はいかにも内容があいまいである。そして、細則が別に定められていたかどうか、それも明らかでない。

 近世琉球における服喪の制(服制)が、制定の論拠を明らかにし、親族関係の遠近を細部にわたって規定したうえで施行されたのは、18世紀に入ってからである。

 1725年制定・37年改定の「服制」は、「本宗方之服制」「妻たる者夫家之為之服制」「外戚方之服制」「出嫁之女本生方之服制」というように、喪に服する側の立場から親族を4つに区分している。その内容を一見すると、たとえば本宗方の場合、服喪期間が50日、25日、20日、10日、5日の5つに分かれ、親族については「父母」「継母」に始まり、「又姪孫」に至るまで52に分かれている。親等でいえば5親等までの規定である。

 なぜ、人は親族の死去に当たって喪に服さなければならないか。1732年に公布され、以後地方支配のテキストとなった蔡温の「御教条」は、つぎのように明記する。

本宗外戚とも忌定の儀は、服制を以て申し渡し置き候通り、いささかも緩疎無く相勤むべく候。この儀、疎略いたし候はば、人情相廃れ、五倫の妨げは勿論の事候。上下ともその心得これ有るべき事。

 すなわち、世間に「人情」を維持すること、具体的にいえば「五倫」の道、すなわち「父子の親」「君臣の義」「夫婦の別」「長幼の序」「朋友の信」を社会関係の規範として維持することであった。「御教条」は、「士農工商之働」7ヶ条、「人倫之働」13ヶ条、「諸事之訳」12ヶ条の32条にわたっているが、その根底には羽地に続いて近世琉球の改革者となった蔡温の儒教思想が一貫している。

 近世の琉球には、士族・農民(「工商」も身分的には「百姓」)の身分的区別があったが、儒教倫理の実践はまずもって士族に求められた。具体的にはどのような形で喪に服することになっていたのだろうか。「服制」付則は、装束に関しては男女とも年齢や官の上下に関わりなく「髪差(かんざし)」を抜き、「大帯」をはずすよう求めている。簪は、身分や位の上下、男女の違いによって素材や形・文様が異なっていたが、国王から農民までいずれも装着することになっていた。服喪に当たって「髪差」を抜くことはすでに「羽地仕置」に明記されているが、髪結いを解くとともに、士族が正装のとき着用する大帯も禁止されたということは、要するに自宅謹慎すること、公職にある者は公務を控えるということであった。

 当然、正月他の家内の祝儀、すなわち「賀礼」も控えるよう指示された。たとえば本宗方の忌50日の場合、「拠ん処無き」公務に差し当たるときは二七日(=14日)で忌みを終えて出勤すること、と記すが、賀礼の停止期間はそのまま二七(14)ヶ月となっている。

 服喪に関する細則を今少しながめてみると、たとえば忌中は白衣を着用すること、本宗20日内に盆に当たった時は行事を取りやめ、また婚礼の儀についても可能な限り取りやめること、やむを得ない事情があるときは軽く行うよう指示している。ただし、「農工商」に従事する者は、「家業の務は毎日衣食の営に相係」るため、たとえ忌中であっても家業に精励するよう求めている。

 この「服制」は、宮古・八重山のような離島まで同時に布達され、地方役人にも遵守が求められた。中国渡来で蔡温と同族の蔡文溥が、儒教倫理を柱として著した『四本堂家礼』(1736年)は、後に首里那覇の士族ばかりでなく離島の地方役人の間でも書写され、家礼のモデルとされたが、それでは忌50日中の殺生、夫婦同衾、読書を禁ずるなど、より細かい指示を与えている。「服制」改定の1年前の著述であることを見れば、儒教倫理による服喪の思想は、この時期すでに蔡温一人のものではなかったことがうかがえるのである。
  

         孝本貢・八木透編『家族と死者祭祀』(早稲田大学出版部 2006.2)

なぜ「読む」か

2012-06-22 12:43:10 | Weblog
 なぜ書を読むか。

 読書に関する論や効能はすでに数多く提出されているはずで、今さらの感がないわけではない。とはいえ、それはそれとしてあえて思いつくままにあげてみると、①新しいデータを得る、②課題(問題)の解決(整理)法を学ぶ、といったハウツー的な読み方もあれば、③違う考え方を知る、④違う生き方を知るという、より踏み込んだ読み方もあるだろう。

 それでは、書をどう読むか。
 内田義彦は『読書と社会科学』(岩波新書)のなかで、読書法を「情報として読む」と「古典として読む」のふたつに区分しているが、これまた本人が指摘しているように、「情報」を「古典」として読むこともあれば、「古典」を「情報」として読むことだってないわけではない。

 わたしの場合、ある時期まで社会科学畑を歩んできた関係上、書物(広く「文章」)を読み、その質を測るに当たって、以下の五つをおおまかな基準としてきた。①主題は明白か、②論理の展開は明快か、③表現は平易で的確か、④結論は斬新(ざんしん)か、⑤「経」(次)や「横」(他領域)への広がりは用意されているか。

 要するに、「読みやすく」「説得力がある」文章や書物が、いい文章、いい本ということになる。
 領域が「文学」に移ると、上記の基準に「喩(ゆ)の使い方の新鮮さと的確さ」、「行間が醸し出すイメージ喚起力」なども加えられると思うが、まだまだあることは確かだ。

 手元にある中条省平著『小説家になる!』(ちくま文庫)は、「芥川賞や直木賞だって狙える」ほどの小説を書くための十二講で構成されているが、書き方というよりも小説の解析力をいかにアップするかに紙数の大半を割いている。「よく書く」ためには、「深く読め」ということだ。

 ともあれ、以上の基準をあらためて読み直してみると、何のことはない。これらは、わたしが文章を書くにあたっての「指針」としていることなのだ。わたしにとって「書くために読む」というのが読書の意義のひとつであることは、ここで率直に表明しておきたい。そして、目下「つくる」ことに忙殺されていて、読むことも書くこともままならない生活が続いていることも。

                       
                                                                                        (「沖縄タイムス」2007.4.22)