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「私」の系譜

2016-12-26 06:39:53 | 著作案

「私」の系譜
<目次>


①   始祖・元敏のことー (1) (2) 
②   元敏嗣子・元徳とその後
③   「渡名喜元新」翁のこと
④   明治以降の渡名喜一門
⑤   大正以降の「男系」継承意識の展開
⑥   「シジ(筋)タダシ(正し)」ということ
⑦  「家譜」の資料的価値ー雍姓山城興実の事績から
⑧   「沖縄人の幸福観」
⑨   東京時代の父・元尊と「学童疎開」引率
   ・補足:梅島尋常小学校時代の「遠足」 
⑩  両親の帰京、そして帰郷
⑪  帰沖後の家族小景
⑫  「渡名喜家の墓」4基
附録 「足立史談」第570号


21世紀の博物館

2015-09-23 05:33:24 | 著作案
 
 今で言う「教育」に当たる言葉は、江戸時代だと「読み・書き・そろばん」であった。「読み・書き」とは『論語』あるいは「文字」を読み書きできることを指し、「そろばん」とは数字の読み書き・計算ができることを意味する。文字と数字を扱う訓練が教育であったが、その後の近代教育もこの線を踏襲して現在に至っていることは確かだ。しかし、この路線には大きな欠陥があった。「読み・書き・そろばん」的発想には、文字と数字を重視する余り、教育とそれを支える研究の情報源としてもう一つ大事なものがあることを見失わせる危険性があるからだ。

 もう一つの重要な情報源とは何か。「もの(物)」である。まずは、私たちの「身体」からして「もの」である。身体は、科学の対象としては医学や生物学が扱い、美術の対象ともなる。私たちの周囲を巡らしているのも、食物や道具から建物、植物から動物、そして地球から無数の星まで、すべて「もの」である。

 これらの「もの」の世界を、人間の世界も含めて統一的に把握・解釈するために、言葉・文字・数字が生まれたのはまちがいのないところだろう。文字と数字の発明が、人類の大いなる進歩に寄与してきたのも確かである。とはいえ、「もの」抜きに私たちは片時も暮らすことはできないのも事実だ。ところが、日常生活において「もの」をつくったり、収穫したりする人たちは農民や職人であったり、漁師であったりで、歴史的に見ると、残念ながら社会的にはけっして上位に属する身分ではなかった。しかもそれに加えて日本の近代化が、「文明開化」「和魂洋才」のスローガンのもとに、古来日本人が数千年にわたって築き上げてきた「技」とその遺産を廃棄し、欧米のそれらを移入することに性急であったため、近世以前と近代以降の間に深い溝が生まれてしまった。

 「読み・書き・そろばん」に偏った結果、日本における教育の場が教室と図書館(室)をほとんど離れなることができなかったことが、「もの」を教育と研究の情報源とし、その価値を主張してきた博物館に対する評価を高めることのできない環境をつくり、許してきたことの大きな要因である。最高の教育研究機関である大学においてすら、教育・研究のため収集した貴重な物的資料を研究室や廊下に山積みして、大学や社会全体のために公開しないのが通常である。「大学博物館」をつくって学内・一般に公開すれば、大学教育・生涯教育の進展にどれだけ貢献できることか。一歩進んで、高校以下の学校にも博物館があればこんなすばらしいことはない。まだ例外的だが、壺屋小学校には空き教室を利用した「焼物博物館」がある。地域の歴史・民俗資料を収集・展示している学校もあると聞く。

 大量生産・大量消費の20世紀から、省資源・節約型、リサイクル重視の21世紀へ。「もの」を産み、使う視点の大転換、「もの」を後世に大事に残す視点の再確認が今ほど求められている時代はない。そんな時代に、博物館が果たすべき役割はいよいよ重い。
                    
  
沖縄県文化振興会機関誌『島の風』6号(99.2/1)

松村宗棍「武術稽古の儀」

2015-08-15 07:07:34 | 著作案



松村宗棍「武術稽古の儀」
2015.8 渡名喜明読解


 実に久しぶりという他ないのだが、古文書の草書体(くずし字)を再学習することにした。ここで取り上げたテキストは「松村武長」の書簡。故・真栄城勇氏収集、提供は喜佐子夫人。松村武長については後述とする。読み違いもあろうかと思うが、原文コピーを添えてわたしの読解を記す。写真は、画像をクリックすると大写しとなる。



武術稽古之(儀) 其味を知らすんは あるへからす 依て 覚悟之程申し喩候間 得と吟味可致候 さて文武之道 同一理也 文武共其道三ツ有 文道ニ三ツと申ハ 詞章之学 訓詁之学 儒者之学と申候 詞章之
(武術稽古については、その味わいを知らなくてはなりません。よって、覚悟のほどを申しただしますので 得と吟味を致すようにしてください。さて、「文武の道」とは同一の「理(ことわり)」よりなっております。文武、いずれもその道は三つあります。「文道」に三つあると申しますのは、「詞章の学」、「訓詁の学」、「儒者の学」と申します。「詞章の)



学と申ハ 但語言を綴緝 文辞を造作して 科名爵録之計を求め候迄ニ而 訓詁之学者 経書之義理を見究ミ 人を教る而巳之心得ニ而 道に通事 入精不申候 右之両学者 只文芸之挙を得候迄ニ而 正當之学問与ハ難申候 儒者之学者
(学」と申しますのは、ただ言葉を綴り集め、文言をつくって、「科名」、爵位、俸禄を計り求めるだけのものであり、「訓詁の学」は、「四書五経」の義理を見究め、人を教えるだけの心得でありまして、道に通じる点においては、精が入りません。右の二つの学問は、ただ文芸の向上につながるだけのことで、正当な学問とは申しにくいのであります。「儒者の学」は、)



道に通て 物を格 知を致 意を誠ニし 心を正し 推て以て家を斉 国を治 天下を平にするニ至り 是正当之学問ニ而 儒者学之候 武道ニ三ツとハ 学士之武芸 名目の武芸 武道の武芸有り 学士の武芸ハ
(道に通じて、物を格とし、知を致し、意を誠にして、心を正し、家を斉しくし、国を治め、天下を平らにするに至っており、これこそ正当の学問であり、儒者の学と申せましょう。武道に三つとは、「学士の武芸」、「名目の武芸」、「武道の武芸」であります。「学士の武芸」は)




頭ニ稽古之仕様相替り 成熟之心入薄 手数計相習 躍之様ニ而 戦守之法不罷成 婦人同人ニ而候 名目の武芸は 実行無之方ゝ致去来 勝事計申 致争論 或人を害し 身を傷び 依事は 親兄ニ茂 恥辱を懸候 武道之武芸ハ 不致放心
(はじめから稽古の仕方が変わっていて、成熟を心がける気持ちも薄く、小手先のことだけ習い、まるで踊りのようで、戦いにおける守りの法とて成しがたく、まるで女性のようです。「名目の武芸」は「実行」せずして右往左往するのみで、勝手ばかり申し、争論いたし、あるいは人を害し、自身を傷つけ、事によっては親兄弟にも恥辱をかけます。「武道の武芸」は他のことに心を奪われないように心がけ、



工夫を以 致成熟 己か心を治て 敵人之乱を待 己か静を以 敵の悴を待 敵の心を奪て 相勝候 成熟相募候ハゝ 妙微相発し 万事相出来候共 撓惑もなし 乱悴もなし 忠孝の場におゐて 猛虎の威勢 鳥の早め 自然と発して 如何成 敵人も打修候 夫武は暴を
(工夫によって成熟いたし、自分の心を治めて、敵の乱れを待ち、おのれの「静」によって、敵の疲れを待ち、敵の心を奪って、勝つのです。成熟が高じて来ますと、「妙微」が発して、どんなことがあっても、惑乱することがなく、心が乱れて疲れることもありません。忠孝の場面においては、猛虎の威勢や、鳥の俊敏な眼が、自ずから現れて、どのような敵といえども、打ち修めるのです。そもそも「武」は「暴」を)



禁 兵を戢 人を保 功を定 民を安 象を和し 財を豊にすと 是武の七徳と申 聖人も称美しられ候段 書ニ相見得候 されは文武之道 一理にて候間 学士名目之武芸ハ無用にして 武道の武芸相嗜候ハゝ 機を見て 変に応し 以可鎮物をと存候間 右の心得にて 致稽古 可然哉存寄も候ハゝ 無腹蔵申聞
(禁じ、兵を戢(おさ)め、人を保ち、功を定め、民を安んじ、象を和やかにし、財を豊かにするとのこと、これ「武の七徳」と申し、聖人も称美してしられますこと、書物にも見えるところでございます。であればこそ「文武の道」は 一つの理でございます。「学士の芸」、「名目の武芸」は無用でありまして、「武道の武芸」を嗜みますれば、機を見、変に応じて、どんな物事も鎮めることができると考えております。そこで、右の心得を持って稽古を致せば、よかろうかと考えてのうえで、腹蔵なく申し上げ)



所希し候 以上
松村武長
  五月十三日
桑江賢弟
((所記?)書きしたためました。以上。    松村武長 5月13日 桑江賢弟(様))

※「松村武長」について、『沖縄大百科事典』を参照して要約してみる。王国時代末期から明治20年代後半にかけての武人。武長は雅号、実名は宗棍。幼少の頃から武芸に励み、17、8歳の頃にはすでに武術界に名を知られていたらしい。尚灝・尚育・尚泰の3王に仕え、公務で中国・福州、薩摩にも出張している。「桑江賢弟」は「桑江良正」のこと。上記文書は「松村宗棍の伝書」として知られている。
※「文」と「武」、いずれにも三つの「道」があるとして、それぞれを紹介し、論じているが、「文の道」では「儒者の学」、「武の道」では「武道の武芸」を評価し、この2つを武術稽古の基底に置くべしと述べている。



三位一体の世界を写す(比嘉康雄写真展に寄せて)(「沖縄タイムス」1998・3・19)

2013-05-18 06:21:30 | 著作案
 人がいて、神がいて、自然がある。キリスト教的近代の思想では、この三者は明確に区別される。しかし、比嘉康雄のカメラが写す世界、彼の眼から見た宮古島の祭祀世界では、三者が一つに映る。ここでは、人は神であり、自然である。その世界を支えているのは女=母たちである。きびしく、やさしく、おおらかな、女という性、あるいは女という自然。女を育む自然。そこに神が宿るのである。

 その世界に、男というもう一つの性が、カメラという名の近代の眼差しを持ち込むためには、さまざまな障壁があった。比嘉の作品には、いくつもの障壁を越えきれた者のみが写せる世界がある。それは女たちが、比嘉の眼差しを受け入れたことの証だが、それにしても撮影を許されたのはごく一部だろう。女たちの許容と拒絶を、比嘉は比嘉なりの間合いを取りながら、おのれの写真に取り込んだ。
 御嶽の中で座して祈る女=神たちが浴びる木漏れ日、御嶽の石祠を抱く太い樹根。岩上に立ち並び、荒れ模様の海に向かって祈る女たち。樹冠で装われた神=女。

 人・神・自然が三位一体となった祭祀世界を第一部とすれば、第二部は祭り裏・祭り周り・祭り後の表情を写した一連の作品である。それらは祈る男たちであったり、供え物であったり、祭り後の女たちの祝宴の表情であったりとさまざまだが、そこで比嘉が言いたいのは、「神はもともとおおらかな存在であったのだ」という彼の詩句の一節であろう。神のおおらかさを支えているのは、女たちのゆるぎない信仰である。
比嘉は、「近代化」が近代の解体を招きつつある現代の矛盾を、女たちが生きてきた人=神=自然の三位一体の世界に与しつつ告発する。この三位一体の世界にこそ宮古のアイデンティティ、宮古が真の意味で都(みやこ)たる所以があるのだと。その告発は、四半世紀にわたって女=神の世界と向き合ってきた比嘉の魂の叫びでもある。(画廊サロンド・ミツ第114企画展「比嘉康雄写真展 母たちの神 琉球弧の祭祀世界 95年 宮古島」展評、会期:1998年3月17日~29日)

「組踊」を読むー「執心鐘入」と「手水の縁」の交差するところ

2012-11-04 17:10:37 | 著作案


はじめに

 玉城朝薫(1684~1734)。現在国の重要無形文化財に指定されている「組踊(くみおどり)」の創始者、および「琉球舞踊」中の古典女踊りの創作者として知られている。彼の組踊作品「執心鐘入」は、「五番」と称される5本中、最初の作品と見られていて、とくに人口に膾炙するものである。能の「道成寺」を参照したと言われるが、単なる引き写しではない。
「私」の理解では、「組踊」とは、「うた」という「言葉」と「歌」と「身振り=身体言語」を、筋書き=脚本に基づき、音楽に乗せて展開される、琉球伝統の歌劇のことである。
 まずは「執心鐘入」から紹介しよう。その構造と論理と倫理を明らかにし、続いて平敷屋朝敏の組踊「手水の縁」を紹介する。そのうえで、「男女の縁」と「世間の義理」を縦横両軸のキーワードとして、2つの組踊の論理と倫理の対比を試みることによって、平敷屋の「縁」の物語が、先行する作品に敬意を表しつつ逆さまにパロディ化した、あるいはフランスの思想家・デリダのいう「脱構築déconstruction(デコンストリュクシオン)」したドラマ=物語である、という結論に導きたい、というのが本稿の主旨である。「分析」のスタンスは、「作品」を「作者」から独立した「テキスト」として読む、というものである。したがって、「作者の意図」などを探ることはしない。
なお、台詞は伊波普猷「琉球戯曲集」(『全集』第3巻、1974年、平凡社)から、語訳・語註は同書および島袋盛敏『標音評釈・琉歌全集』(1968年、武蔵野書院)、同『琉球芸能全集1-琉球の民謡と舞踊』(1956年、おきなわ社)を参照しているが、あくまで「私」の責任において搭載するものである。

A.「執心鐘入」の構造と論理および倫理

1 「執心鐘入」の構造
①登場人物
・男(若松):中城(本島中部)在住の若衆。年は14、5歳。公務「みやだいり」のため、首里城に向かう。女の対応からして、「美少年」として名高かかったらしい。「未成年」の出で立ち。
・女(無名):村はずれの民家に親とともに住む。若松来訪時は、親は留守にしている。
・座主:首里途上山中の寺院の当主
・小僧(1、2、3):修行僧。
②男女の対面:「人情」と「義理」の交錯と葛藤
・場面:山里の民家。公務で出張の途次日が暮れて、一夜の宿泊を乞う男と民家の娘の出会いと対話。
男:「借り宿」(=情)を求める。「行先もないらぬ(ない)、御情に一夜、か(貸)らち給うれ」
女:親の留守を理由に断る。
男:「露でやんす(でさえも) 花に 宿借ゆる浮世 慈悲よお情けに貸らち給うれ」。「御慈悲」「御情」を泣きつかんばかりに求める。
女:申し出を受けて後に浮世で浮名が立つのを恐れてことわる(情を出さない)。「親の留守なかに 宿貸らち置て、よそ知れてわぬや(私は) 浮名立ちゆめ(立つか)」。
男:親の留守は承知としながら、素性を明かし、再度懇願する。「行先も見らぬ、戻る道ないらん(ない)、たんで(なにとぞ)御情に 貸らち給れ」。
女:男の素性を知って「宿」を貸す。「里(あなた様)と思めば、のよで(どうして)いや(否)で言ふめ(言うか)御宿。冬の夜のよすが 互に語やべら(語りましょう)」。
男:「廿日夜の暗さ 道迷て居たん(居った) 御情の宿に しばし休ま(ん)」。
男:語り合うことなく、すぐさま横になる。
女:途中から、男を起こす。「起きれ、起きれ、里よ、語らひぼしやの(語り合いたい)」。
男:拒否する。理由は、初の出会い(「行合」)で語ることはない。
③「情」と「義理」の入れ替わり:女の説く「情=恋の道=御縁」と男の言い訳「義理の道」
女:約束された出会いに「縁」は生じない。袖を振り合わす関係にこそ「御縁」は生じるのではないか。「約束の御行合や だにす(げにこそ)またしちやれ(したれ)、袖の振やはせど 御縁さらめ(ではないでしょうか」。
男:「御縁」など知らぬ。「恋の道=情」も知らない。知っているのは「奉公=公儀の道=義理」だけだ。早く出立したい。夜明けだけが待ち遠しい。「御縁てす知らぬ、恋の道知らぬ。しばし待ち兼ねる 夜明白雲」。 
女:深山の鶯は、春が訪れると梅の花毎に縁を結ぼうとする。それが「世の中の習い」というもの。あなたは「世間知らず」ですか。「深山鶯の 春の花ごとに 吸(添)ゆる世の中の 習ひや知らね」。
男:知らぬ。
④世間と反世間:男女の言い分
女:万事に優れていても、恋の「情」を解しない男は、玉(ぎょく)の価値を知らない殺風景なお方だと言われます。「をとこ生まれても、恋知らぬ者や 玉のさかづきの 底も見らぬ(見えない)」。
男:いくら女に生まれたからとて、世間の義理を知らなければ、「地獄」というものではないか。「女生まれても 義理知らぬ者や これど(これこそ)世の中の 地獄だいもの(であることよ)」。
女:及ばぬ方とかねてから知っていたなら、どうして悪縁が袖に結びついたのでしょう。「及ばれらぬ里と かねてから知らば のよで(どうして)悪縁の 袖に結びやべが(結べましょうか)」。
男:悪縁があなたの袖に結ばれたとしても、私の知らないこと。私は王城ご奉公の途次、出かけます。「悪縁や袖に むすばはんばからひ(結ぼうともやむなし) 我身や首里みやだいり やてど(であれば)行きゆる(行く)
女:悪縁として結ばれたからには、放しても離されない。私を振り捨てて行くのなら、死出の道を同行しましょう。「悪縁の結で はなちはなされめ(放して離されようか) 振り捨てて行かは(行こう) 一道だいもの(だもの)」。
⑤女と男の鬼ごっこ
男:一夜限りの宿の女が悪縁の綱を離さないと言って、終の道まで一つとして追いかけて、私の命を取ろうとしています。「一夜仮初めの 宿の女 悪縁の綱の 放ち放されぬ 終に一道と 跡から追付き 露の命を とらんとよ」。
女:「露の身はやとて(であるからには) 自由ならぬよりや(よりは) 里とまいて(捜して) 互いに 一道ならに(なろう)」。
男:寺に行き着き、座主に懇願する。「行先もないらぬ(ない) 頼で わない(私は)来ちやん(来ました) 慈悲よ 我が命 救て給うれ」。またもや「
⑥女と僧たちの鬼ごっこ
 座主は、男に同情するが、女の心情に「言語同断」としながらも、一応の理解を示す。島袋のこの段の訳は以下の通り。「命もふりすて、恥もふりすてて探しに来る上は、空しくは戻るまじ。思詰めての果ては、命を奪はることもあるぞかし」。座主は男を梵鐘の中に隠して、小僧たち3人に番を命じる。待機する3人の間でしばし「狂言」が演じられた後に、女が現れる。男を見たこともない、寺は女人禁制として追い払おうとする小僧たち。
女:蟻や虫の類にも情があるというのに、あなた方は「情けある浮世」の良し悪しも区別できない。恨めしいことです。「蟻虫のたぐひ 情ある浮世 是非も定めらぬ(定められない) 人の怨めしや」。
 蟻や虫にさえ劣るとされた小僧1は、女の私情=世間の理とする逆説=詭弁を、真に受け(たふりをして)、それも「理」として女を通そうとする。小僧2も剃髪した身で仏道に言う「慈悲」を知らぬとあっては石や木と同じ、として同意見。頭を丸めながら女の色香に迷うたか、それを座主の言いつけを忘れたのか、と冷やかす若い小僧3。
女:「此の世をて(に居て)里や 御縁無いぬさらめ(無いのなら) 一人焦がれとて 死ぬが心気」。
 この時、女、狂乱状態になる。座主、男を鐘より引き出し、安全な場所に移す。女、鐘の中に入り、鬼になる。小僧たちは女を制止できずにいるうちに、女が鬼に成り変って鐘にまとわりついたことを報告する。座主は命令を粗相にした小僧たちを叱りつけたうえで、こうなった以上は致し方ないとして「法力」を尽くして払いのけようと、五大明王の名を称え、次いで陀羅尼=真言をひたすら導唱する。「ナマクサマンダ、センタマカロシャナ、ソバタヤンタラカンマン」。小僧たちも座主の後ろに従って同唱。女退散。

2 注釈ー論理と倫理
①座主の論理
 女と座主のために、「私」なりの補足をしておきたい。男は女に「世間の義理」を知らない女は「現世の」「地獄」に落ちると警告した。女は果たして地獄に落ちたのか。おそらくそうではない。座主とてそれを好んで、ダラニを唱えたのではない。むしろ逆であった。小僧たちの話からすれば、女が到着した時座主は留守であった。戻って来たときは、女は半狂乱になって鬼と化し、座主にも説得の余地は残されていなかったのである。「如何なる事か」「いかがすべきか」「如何ともしがたい」として最後に選んだのが、「法力」としての呪言誦唱であった。僧侶たるもの仏の「慈悲」を「衆生」に媒介するのが務めである。それは小僧たちにも、「観念的」には知られていたことである。したがって、座主は女が退散することを祈りはしたものの、地獄に落ちることを願ったのではない。むしろ死んだとしても極楽に再生することを期していたのである。
②女の論理
 一方、女には、仮に世間の「倫理」に反してはいても、おのれの慕情・恋情を貫かずにはおけない、言いかえれば「煩悩」を死を賭して生き抜こうとした「真面目さ」があった。人はそんな女を誰も笑うことはできない。このドラマにおける「道化役」が小僧たちであることは、明らかである。ところが、「私」からすれば、男こそ本物の「道化」である。まず男は、おのれの一方的・私的な「都合」を「浮世の慈悲=御情」に転換して女に「一夜の仮初めの宿」を乞うた。この要請自体が「浮世の不義理」であることは明らかだ。この申し出に対して女は、親の不在中に若い男を泊めることの「不義理」を盾にこれをことわった。
 女の拒否は、誰が見ても妥当である。たとえ男の「男前」に惹かれ、世間の不義理を承知で泊めたとはいえ、彼女が提示した条件も、ある意味でまともである。終夜語り明かそうという提案は、共に寝ないという意味で不自然ではない。しかし男は、旅の疲れを理由にしてすぐさま横になる。そして女の(約束通りに)「語り明かしたい」とする懇願も、「初めて出会った女と語る内容もない」とむげにことわる。この返答は女にとっては言うまでもなく、観客から見ても女が世間への「不義理」を承知で、それが世間に知られた時の「危険」を承知で泊めたことへの男の「不義理」として、納得できるものではない。言ってみれば、男はおのれの「美貌」を餌にして女を「不義理」を誘い、女を世間からの「報復」の危険に晒したのである。
女が男の「身勝手」に腹を立てたのは、しごく当然であった。女が『徒然草』の一段を引き合いに出して、男女間の「興趣」を提案したのに対して、男が身勝手な「世間の義理」を持ち出し、それを女が知らないのは職業女だとののしった場面は、まさに「世間知らずの」「学問で出世することしか知らない」若造の「本性」を見事に表明したシーンであった。それでも女の「惚れた弱み」、まさに「地獄まで一道」とする決意は、すでに男の宿泊の申し出を受け入れたときからの必然的な結論であった。
 もちろん、女は舞踊「シュンドウ(醜童)」の仮面をかぶった醜女のように、いくら美貌だとしてもうぬぼれるな、男女の仲とは器量だけではない、「縁ど(こそ) 肌添ゆる(添わる) 浮世知らね(知らないか)」、と言い放って、男を追い出すこともできた。それでは、舞踊にはなっても「組踊」にはならなかった、ということだ。
女の一途な、理路整然とした追及に男は動揺し、おのれで解決の道を探り、おのれで決着を付けられないままに、座主に「露の身の命」を救ってくれと取り乱しながら懇願する。座主は、若い男の「未熟」と恋にひたむきな女の「熟」、双方をわきまえている。結局男がその後舞台に登場することはない。舞台の影で結末がどうなるかを、怯えながら、震えながら窺い、決着に安堵する姿がかいま見えるだけである。これで、無事「所期の目的が達成される」と。多分女への同情は、一切れもない。
③男は「道化」か
 ドラマの主人公が女であることは言うまでもない。それなら男は、「道化」か。1度は山道に迷い、行きも返りもならずとして女に「慈悲」と「御情」を乞い願い、次は女に追われて寺に駆け込み、おのれの「行先」がない、としてあわてふためきながら、座主の「慈悲」と「救命」を懇願するさまは、道化と言えば道化ではある。とはいえ、おのれの「愚かさ=不真面目」に気が付かず、そのためにかえって女の「真面目さ」を浮き彫りにしている、という意味で、男はその幼さが同情されるよりは、「ジコチュー」として「世間の笑い者」と見なされるのが自然である。それに、道化には「愚者」であり、「知者」でもあるという「双面性」あるいは「両義性」がある。隠された「機知・知性」がほのめかすペーソスがある。たとえば、琉球古典舞踊「シュンドウ(醜童)」における「醜女」のように。しかし、男にあるのは「知」を装った「愚」のみであり、ペーソスは微塵も感じさせない。
ついでに、ドラマの「続編」を想定してみよう。そうすると「私」には、男が首里城ならぬ「竜宮城」に向かう「浦島太郎」の姿とだぶってしかたがない。山中ならぬ「海底」で待っているのは、「乙姫」に姿を変えた女である。しばし滞在した男は、城内の「舞踊り」にも飽きて、(女が引き止めるのも振り切って)またもや女から去る。女が身代わりに贈る玉手箱の「謎」は、「私」の想定でしかないから、作家たるべき朝薫でさえ知るはずがない。もちろん、蓋を開けた後の男の姿も。「竜宮」へ戻れる切符なのか、戻れない切符なのか。浦島太郎は、(多分)期せずして後者に賭けた。続編における男の結末を知っているのは、女だけである。
④男と女の問答ゲーム
 男と女の問答は、それだけを切り取って「ゲーム」としてみてもおもしろい。子どもの遊戯にたとえれば、2人だけでする「はないちもんめ」。「子どもの遊戯の一種。横に一列に並んで向かい合った2組が,はやしことばを歌いながら前後に歩き,互いに相手の1人を指名し,じゃんけんで負けたものが相手に取られて組み入れられ,いずれかの組がいなくなれば終わる。」(『世界大百科事典』、1998年、平凡社) 男と女が声を掛け合い、互いに素性を問うところから始まる。引き続き、「はやし言葉を歌いながら」問答によって、「情」と「義理」を出しつ、出されつの「じゃんけん」によって勝敗を決める。
 結局、男は「御縁」を「悪縁」に変えてでも添いたい、とする女に、ゲームで負け、敗走する。女は追走する。ここからゲームは、「はないちもんめ」から「鬼ごっこ」に変わるが、民俗学上は「はないちもんめ」も「鬼ごっこ」の一種に分類されている遊戯である。
⑤ドラマにおける「笑い」
 3人の小僧の立ち位置:「女人禁制」の寺にいながら、大人の年齢に達した小僧1、2は、まず美少年に心を惹かれつつ、見張り番そこのけに居眠りを始める。「醒めた」年少の小僧3は、そんな先輩二人の頭をぶつけてそ知らぬふりをする。目覚めた二人は不審なままに居眠りに戻る。現れた女の美貌に惑わされ、その「論理をまとうた情」に勝手な論理を持ち出して「同情」する小僧1、2を、座主の言いつけを忘れたかと、たしなめ、冷やかす年少の小僧3。小僧3に拳骨を食らわす先輩小僧2人。結局女を撃退できず、座主の腰に一列に並んでしがみつく。
⑥僧と女の問答ゲーム
 鬼ごっこにもいろいろな種類があるようだが、鬼と化した女と座主を先頭にし、その腰に小僧たちが1列にしがみつく構図は、「子捕ろ、子捕ろ」と呼ばれる遊戯そのままである。すなわち、(1)まず鬼と親を1人ずつ決め他の者は子となる。(2)親を先頭に,子は一列縦隊となって前の者のベルトや腰を両手でもつ。(3)鬼は親の前に立ち,始めの合図で俊敏に左右へ動いて最後尾の子を捕らえようとする。これは各地ともはやしことばを称えて始める。たとえば,鬼:〈子をとろーことろ どの子をとーろ〉,親:〈ちいちゃとってみーさいな〉。(4)親は両手を広げて鬼の前進を阻止し,子が捕らえられないようにする。(5)捕らえられたら,その者は次回の鬼となる。(平凡社、世界大百科事典)。同事典によれば、「その始原は恵心僧都経文の意をとり,地蔵菩醍罪人をうばひ取給ふを,獄卒取かへさんとする体をまなび,地蔵の法楽にせられしより始れりといへり〉とあり,仏法の意に基づいて恵心僧都源信が創案した鬼遊び」というから、ドラマの後半を「鬼ごっこ」に喩えるのも、まんざら的はずれでもないだろう。もちろん、最後尾に「隠れている」のは、逃げる男。
⑦「民間伝承」との対比
 文字通り「鬼」をめぐる習俗として知られているものに、「ムーチー」がある。民間に伝わる由来では、鬼に転身して人間を食う兄を、餅を餌にして兄に対面、秘部を開陳して「上の口は餅を食う口、下の口は鬼を食う口」と迫ったところ、驚いた鬼は逃げ出し、崖から落ちて死んだ、というものである。ここではとりあえず、性的に未熟な男が鬼に変身、性的に熟した女が「性」を「武器」にして男を追い詰め、男を死に至らしめる、という構図を引き出せばよい。性的に熟した女が鬼に「変身」し、性的に未熟な男を追いかけるが、目的を達成できずに、自分が死ぬ、という朝薫のドラマと交差していることは、見てとれるだろう。もちろん、この民潭とて、当時存在したか、したとして朝薫が参照したかどうか、調べようがない。

3 朝薫のテキストに見る「浮世(世間)」の「情」と「義理(理)」、「縁」と「慈悲」
 テキスト「執心鐘入」の論理と倫理の展開を確認しながら、それらを朝敏の組踊「手水の縁」の構造・論理・倫理につなぐため、煩を厭わずにキーワードを拾い上げ、論点を整理してみよう。まず、男が一夜の宿を乞う。この時点では、家内に誰がいるか不明なので、「御情」を求めるのは、とりたてて「不義理」ではない。女は、一人で留守を守る身で「浮世」の「義理」を盾に、依頼をことわる。義理を間に立てることによって、「見知らぬ」男から身を守ることにもなる。
 問題は次である。男は、夜分に若い女が一人で居る家に、あえて泊めてくれという「世間知らず」の「不義理」を持ち出す。「美貌」で「浮名」を立てているおのれの「名前」を明かしたうえで。そもそも、夜が明けるとともに中城・久場を発てば、夕方には首里に到着する距離である。それを知ってか知らずしてか、途中で山道に迷う、というのも不思議な話。男の「非常識」をさらすようなものだし、若い女一人しかいないとなれば、名を名乗らずして、せめて納屋とか庇を貸してもらいたい、と頼むのが「浮世」の「義理」である。したがって、男が素性を明かしたのは、女がおのれの「有名」を知っている、と踏んでの計算からであった。
 案の定、一貫して「無名」のままの女は、男の名を聞くと「不義理」を承知で、「宿」を貸す。いった「御情」という「条件」を断られた男が出したもうひとつの条件は、「本名」であった。先方が噂に聞く美男子であることを知った女は「情」をかける「交換条件」として、終夜語り明かすこと。ただし、この条件提示は、事が「浮世」に露見すれば、「不義理」な女という「浮名」が立って、同時代につくられた「手水の縁」の筋書きから類推する限りだが、「斬罪」をも覚悟してのことであった。ましてや親の留守中の「夜中の密会」である。「地方役人」になるための修行で首里に赴く若者が、その程度のことを知らないわけがない。知らなければ、「浮世」の「義理」に無知であったことになる。いずれにせよ、「御情」を乞うた男自身は「無情」であったことになる。
 女の「御情」に言葉で返礼はしたものの、男の「無情」は即座に発覚する。女の情で泊めてもらったからには、「お義理」でも女の話し相手になるのが、男の「情」というものである。ところが男は、そのような「情」を女にかけることもなく、女が出した「条件」も無視して、早々と横になる。女は途中から男を揺り動かし、稀の出会いであるからには寸分とて惜しい、語り明かそうと持ちかけるが、男は初の出会いならば、語ることもなかろう、とむげに断る。
 語らいを断られた女が、最後に持ち出したキーワードは「縁」。思いがけない「初の出会い」こそ「御縁」というもの。この「縁」を男女の「情」に結ぼうではないか、というのが女の論理であり、提案であった。ここでも男は、「出勤途上」を理由に女の申し出を断る。若い男女が一晩語り明かすこととは、男が言うように「恋の道」を同道するということだ。そのことが分かる分、男は「浮世」を知っていたことになる。当然その「同道」が、おのれが「浮世」で「出世」することの「邪魔」になりかねない、ということも。ここで女は女としての「浮世の慣い」=常識を武器に、さらに男を追い詰める。「深山鶯の 春の花毎に 吸ゆる(吸う)世の中の 習ひや知らね(しらないのか)」。男は「知らぬ」と返答。女は『徒然草』の3段を引用して、男と生まれながら男女間の情趣も知らない男は、いかにも殺風景、と挑発する。しかし男は逆に、女として生まれながら、「義理」を知らないとは、「地獄」にいるも同じ、とやり返す。
しかし、男の反論には、説得力がない。それどころか、自己矛盾をさらけ出したようなものだ。そもそも「情」と「慈悲」を持ち出し、おのれの「美貌」と「名声」をちらつかせて、貸せば身に危害が加わるかもしれない「借り宿」を女に迫って、「不義理」を繰り返しているのは、男の方である。そこで女は、親と世間が認めない不義理を果たしたからには、男の言う「地獄への同道」を突き進む他にない、と決断する。「悪縁」も「縁」とするパラドクスに生きる決心である。「悪縁の縁で 放ち放されめ(放されようか) 振り捨てて行かば 一道だいもの(だもの)」。かくして男は逃走、女は追走という構図ができあがる。
男が座主に泣きつく論理。それは要するに、「一夜仮初めの宿の女」に「悪縁の綱を放そうにも放されない」として「一道=死出の同道」を求めて追ってくる、というのである。普通の女ならば、許せない言い草だろう。「一夜の宿」を懇願したのは男の方であり、「仮初め」とは何事か。名だたる「美貌」に惹かされたとはいえ、貴方の「立身出世」のお役に立ちたい、という気持も重なったのです。こちらは死罪となるかもしれない「決断」をしたのですよ、と。
 男をかばう小僧たちに女が提出した論理。蟻や虫たちにすら「浮世の情」を解することができるというのに、あなた方はそれを知らない。怨めしいことです。蟻や虫に劣ると言われた小僧2人は、それも「理」、「僧」として仏の「慈悲」を知らねばならぬとすると理屈=屁理屈で、女を入門させようとする。以下のシーンは、すでに述べた通りである。
かくして、このドラマにおける座主の立ち位置は、明白である。「情をまとった義理=論理」、「義理=論理をまとった情」で「開門」を迫る女の迫力は、たとえ女の色香に惹かれたとは言え、小僧にそれも「理」だとし言わしめる。あるいは座主が「言葉=論理」を尽くしても、すでに女に聞く耳はなかっただろう。最後の手段として座主は、「衆生」の言葉や論理の上を行く「メタ言語」「メタ論理」、すなわち「仏の言葉」としての「真言」=ダラニで女を帰すしかなかった。座主は、女が求めた「御縁=有縁」を「悪縁」につなげん、とする論理を否定する。それは、男を「現世」の悪縁から救うとともに、女を地獄に赴かせないための「絶縁」でもあった。女には「無縁」を宣告して彼女の「往生」を期し、男の「将来」は現世の「御縁」に委ねたのである。
 論理の展開を整理してみよう。まず、「浮世の情」か、「浮世の義理」か、とする問答から始まる。次いで、「御縁=良縁」(女)か、それとも「無縁」(男)かという論法へ移り、さらに「悪縁」(女)か「無縁」(男)かを迫る論法に移行する。いずれも、「現世=衆生の論理」である。そして最後は、「仏・法・僧」の「メタ論理」と「メタ倫理=慈悲」に従って、女の「来世における有縁」と男の「現世における無縁」に振り分けられて、ドラマは決着するのである。「続編」を残したまま。

B 「手水の縁」の構造・論理・倫理
1.構造
 次に、平敷屋朝敏作の組踊「手水の縁」を、同じく伊波普猷の「琉球戯曲集」と島袋盛敏『琉歌全集』を参照しつつ、あらすじを記す。文脈の展開上、随時、朝薫作品との対比を⇔で紹介する。
①登場人物
・山戸:島尻(沖縄本島南部)・現「八重瀬町波平」の「大主」(地域の首長)の息子。地方役人として首里と往還する若者。「地方」でゆくゆくその地の「行政」を担うエリートであるところは、「執心鐘入」の「若松」と同じ立場。ただし「山戸」は、「世間知を有した大人の男」として登場。
玉津:島尻・知念・山口の「盛小屋の大主(地域の首長)」の一人娘。「執心鐘入」の女と同様、「地方」の娘だが、前者が「村はずれ」の猟師の「世間知を有する成熟した女」であるのに対して、こちらは「地方(じかた)役人」の娘で「無垢な女」として登場。
・志喜屋の大屋子:地方役人。玉津の父親の部下。玉津の処刑執行の指揮役。「世間」の「義理」と「情」を解し、「論理」の裏表を解した「名裁定役」として、「執心鐘入」の座主に比される役回りを演じる。
・山口の西掟::地方役人。「志喜屋の大屋子」の下で働く。玉津に直接刃を向ける役。玉津を幼少の頃から知っていて、「役目=世間の義理」と「情」の板ばさみに会う。「志喜屋」、「山口」ともに、現南城市知念の集落名。「大屋子」、「西掟」は役職名。
・門番:「盛小屋の大主」、すなわち玉津の屋敷の門番。男の来訪に際して「恋の垣根の番」をするものではない、と逃走する「世間の情」を解した道化的庶民。閉門を貫こうとして失敗する朝薫作品の小僧たちに対比される。
②出会いと男の求愛
 舞台は島尻・兼城の波平。名だたる「湧水(カー)」として知られる「波平玉川」が出会いの舞台。《場所:人目の多い湧水=野外⇔人目の少ない村はずれの民家=屋内》。時は(旧暦)3月3日。普段は昼間から外で遊ぶことを許されない女たちが、海岸や野原で出て興じることができる年中行事の1日。《時期:ハレの日の昼間⇔平日(ケの日)の夜間》。
3月3日のハレの行事とあって、男も仕事を離れて「瀬長山」に上り、梅の花と香りを楽しもうと出かける。《公務を離れて遊びに出る男⇔公務で出かける男》。女は「波平(旧兼城村内、現糸満市)」の「玉川(名の知られた湧水)」で、髪を洗おうと外出。《家を留守にして、父親から一時的に逃れる女⇔普段どおりに、留守の父親の帰りを待つ女》。
男:帰途に女を見つけ、「御情」で水を欲しい、柄杓からでなく、手ですくって飲ましてくれと懇望。「情どもやらば(ならば) とても飲み欲しやゝ 無蔵(貴女)の手水」。《昼間の人目に露わな出会い⇔闇夜の隠れた出会い》
女:見ず知らずの男に、「手水」など差し上げることができない「無垢な乙女」だとして拒む。《「無垢=無知」を口実に申し出を拒む女⇔「世間の義理=知」を口実に申し出を拒む女》。《素顔の女⇔「義理」の仮面をかぶった女》
③「手水の情」
男:旅人が美女の手水を得た伝承を歌う「琉歌」を喩えに出して、再度所望。
女:手水の所望は「口先の戯れ」だとして、よそに見つからぬうちに急ぎかえろう、と歌う。「水欲しやゝ名付け 与所の目の繁さ 急ぎ行かに(行こう)」。《「世間の目」をはばかる女⇔「世間への露見」をはばかる女》
男:入水の宣言と身振り。(人間以下の)露と草の間とても、露が下りて縁を結ぶ。手水をいただけないなら、このまま「戻る」より湧水に「身を捨てよう」。《元に戻らない山戸⇔元に戻れない若松》。
・「世間の義理」:人目をはばかりつつも、共に背いて許諾する女2人。《手水⇔宿泊》
・「手水」をもらった男の論理:「手水呑むことや、天の引合か、神のお助けか」。
・名乗る男:男が女に、「音にとよまれる」(世に名の知られた)「知念山口の盛小屋の一人子」「玉津」かと問い、自分は「波平大主の生し子」「山戸」と名乗る。《名乗る男「山戸」⇔名乗る男「若松」》。《有名な美女⇔有名な美男》。《名が知られた女⇔名の無い女》。《「手水の情」⇔「貸し宿の情」》
④求愛の拒絶から許諾へ
名乗らぬ女:「見ず知らずの男」に「人違いではないか」として、「浮世も知らぬ」、「恋の道」とて知らない「当て無し」(未熟)な女として、名乗らぬことの許しを乞う。「人まがひ(違い)やあらね(ではないだろうか) 見ず知らず里前(お方) 浮世てす(とて)知らぬ 恋の道知らぬ あてなしよでむぬ(ですから) 許ち給うれ」。《おのれの「有名性」を知らない玉津⇔おのれの「有名性」を知る若松》
再度「死」を持ち出す男:思いが果たせないのなら、せめてお袖の「匂い」だけでも移してもらいたい。面影と共に、死出の「みやげ」としよう。《「旅」の論理:死=恋の一人旅⇔生=立身の一人旅》。
名乗る女:観念して素性と本音を明かす。そして、自分のように蕾のままで、七重にも張り巡らされた垣根の中から外に枝を延ばし、花を咲かせて、お顔を拝む時節が訪れることもあるのでしょうか、と歌う。「拝み欲しやあても(あっても) 七重ませ(垣)内に 莟でをる我身の 外に枝出ぢやち 花咲きゆる節も ありがしやべら(あるでしょうか)」《男に名乗る女=「有縁」の表明⇔名乗ら(れ)ぬ女=「無縁」の隠喩》。《熟したい未熟な玉津⇔熟した女》。
男:いかなる「天竺の鬼立ちの御門」でも「恋の道」ならば、開けないはずはない、と歌う。
女:人繁く現れるこの場からは、急ぎ離れて、そのうちお会いしましょう。「この川の習や 人繁さあもの(あるものを) 急ぎ立ち戻って 又も拝ま」。
男:「約束や違ふな 偽りよするな 今日や立戻て 又も拝ま」。「別れても互に 御縁あてからや(あるからには) 糸に貫く花の 切れて退きゆめ(退くことはないだろう)」。《「語らいの約束」の実現⇔「語らいの約束」の反故》。《再開を期しての別れ⇔再開を期せずしての別れ⇔》。《有縁と無縁》。《御縁と悪縁》。
⑤再会
場面2:女の実家。密会のシーン。
男:雨笠に杖、小刀と笛を持って忍びの姿で闇夜を行く。「手水しやる(した)情 思ひ増鏡 面影に匂ひ 立つが心気 (中略) 野山越る道や 幾里隔めても(隔てても) 闇に紛れやり 忍で行きゆん(行く)」。
女:琴を引きながら待ち、男は笛を吹いて合図をする。
男:「やあ思無蔵(思い人)よ 面影と匂ひ 立ち増り増て 暮さらぬあてど(暮らせぬとあって) 訪まいて来ちやる(来てしまった)」。
女:「やあ思里よ こまや(ここは)人繁さ 内に入りめしやうれ(お入りください) あはれこの間の 思ひ語ら(語りましょう)」。
伴奏歌:「結で置く契り この世までと思な 変わるなやう(変わってくれるな)互に あの世までも」。《女側からの「語らい」の申し出:快諾⇔拒否》。《熟した女へ⇔熟した女から》。
場面3:門番の出現と男との対面、逃走。
男:「花の上の胡蝶 禁止のなゆめ(できようか) 闇に只一人 忍で来るばかり 名指ししゆめ(するか) 番手 心ある身の 掛かゆらばかゝれ(かかるならかかって来い) 切殺ち棄てら」。《「世間の情」で迫る男⇔「世間の情」で迫る女》。
門番:「はあ、恋のませ(垣)番手 しゆるものや(するものでは)あらぬ 急ぎぬげら(逃げよう)。《「世間の情」で受け入れ、屋外へ
遁走する門番⇔「世間の義理」と「慈悲」で受け入れようとし、座主の後ろに逃げる小僧》
男:「忍ぶ恋」の発覚を懸念し、決意を述べる。「無蔵と我が中の 忍び顕われて 明日や無蔵責めの あゆらと(あろうかと)思ば あらし(嵐)声(よからぬ話)のあらば(あれば) 無蔵一人なしゆめ(一人にされようか) 我身も諸共に ならんしゆもの(ならない訳にはいかない)」。《女と同道せんとする男⇔女を残して逃げる男》
⑥忍ぶ恋の発覚と刑場での応答
 知念の海浜。処刑の現場となる。玉津の父「盛小屋の大主」の筆頭部下。山戸・玉津の密会が世間に知れて隠されぬまま、世間に噂されるに及んで、父親は娘を処刑にするよう「志喜屋の大屋子」に命じる。大屋子と下役の「山口の西掟」が、玉津を連れて刑場となる海浜へ向かう。《現世と来世の境界:山中の(逃げ込み・追い込み)寺⇔処刑の場としての(逃げえられない)海浜》。
山戸:あわれ、玉津よ、秘密裏に知念浜で処刑されると、今頃人づてに聞いた。「無蔵(貴女)よ 先立てて 世界に居てのしゆが(何としよう) とまいて(探して)諸共に ならんしゆもの(ならんとぞ思う)」。処刑の途中なのか、殺されたのか、気が騒ぐ。急ぎ足で行き、彼女の生き目にあいたい。
玉津:「里(山戸さま)と我が中の 忍びあらはれて にや(今や)自由ならぬ(身動きがとれない) 死出が山路に 里前振り捨てゝ 行きゆる涯(きわ)だいもの(ですもの) 恋の氏神のまこと(真)どもあらば 玉黄金里(玉黄金のようなあの人)に 知らち給うれ(知らせてください)」。「捨てる身が命 露ほども思まぬ(思わない) 残る思里や 如何がしゆら(どうしておられるのか)」。 「御主加那志みやだいり(国王様へのご奉公) 夜昼もめしやうち(お勤めなさって) 天の御定めの 下て来る時や 死出が山道にお待ちしゆんてやり(しておりますと) 玉黄金里に語て給うれ」。《山戸を慕い、気遣う女⇔若松を慕う女と女を疎んじる若松》。《女:「世間の義理」から逃げられず、その報復を受諾し、刑死に赴く玉津⇔「世間の義理」を拒絶し、世間から逃げて死出に向かう女》。《「出身」を顧みずに、「世間の情」を求めて女と討っ手を追走する山戸⇔「世間の義理=出身」にこだわって、女から逃走する若松》。《悪縁としての恋の成就を求めて追走する女⇔「身の命」を惜しまず、一途に男を慕い、その安否を尋ね、立身を祈りながら待機、来世でも待つと遺言を託す女》。
⑦山戸と刑吏・志喜屋の大屋子の対論、そして放免
山口の西掟:「朝夕守素立て(守り育て) しちやる(した)我が思子 義理と思て(とはいえ) いきやし(どうして) 紅葉なしゆが(なすことができようか)」。そんな玉津を一刀のもとに切るのは、堪えられない、として志喜屋の大屋子に刑執行を願うが、大屋子とて同じ気持、「気張れ」と促す。ここに山戸登場。
山戸:「余り(にも)盛小屋や 義理立ての大へさ(大げさ) いかな(いくら)天竺の 鬼立の御門も 恋に道やれば(ならば) 開きどしゆる(開かないことがありましょうか) やあ、志喜屋の大屋子 山口の西掟 義理もことはり(理)も 聞分けて給れ 昔物語 百(もも)伝へ聞きゆん(聞いている) 恋忍ぶことや 世界(世間)にある習ひ(慣い) 愛しさよめしやうち(なされて) かなしさよめしやうち 世間取沙汰の うち止みる間や 百隠ち(ひた隠しにして) 知らさごとしゆもの(知られないようにするから) 真玉津が命 我身に呉て給うれ やあやあ 願て自由ならぬ ことよ又やれば(ことであれば) 我身も諸共に 殺ち給れ」。「真玉津」の「真」は名前の冒頭に付けて、敬称とする接頭辞。《首里公務どころか身命を賭して女を救わんとする山戸⇔首里公務を貫徹するため女を捨てる若松》
志喜屋の大屋子:世間の噂も一時のこと。玉津の身は山戸に預けて、上司(玉津の父)には殺しましたと報告しよう。後々になれば、上司もお考えを変えられるでだろうし、お二人とも世に出られて花を咲かせ、「玉の糸御縁」を「結ばれることにもなるでしょう」、として放免。「いとし思い子、かなし思子」を一刀のもとに切り捨てることが耐えがたかった大人の男の「裁定」である。「急ぎ引き連れて 隠れやりいまうれ(身を隠しながら逃れてください)」。
山戸:「あゝ(あな) たうと(尊) 二所が(お)蔭に 二人が命賜うち(賜って) 御恩尊さや 言ちも尽くさらぬ 思事や余多(あまた) 語らひ欲しやあすが(語らいたいところだが) 鳥も鳴き済みて やがて夜も明ける 御恩御情や 後に送やべら(送りましょう)」。
玉津:「二所の御肝(御志) 言ちも尽さらぬ 御恩御情や 後に送やべら
山口の西掟:「やあ思子 やあ真山戸よ 夢ほども予所に あらはれてからや(顕われたからには) わすた(我々の)身の上も 大事あらんしゆも(どんな大事があるかもしれない) 夜深くの内に 急ぎいまうれ(お発ちください)」。
山戸:玉津に向かって、「人づてに密会が露見し、処刑されるとの話を聞き付けて尋ねてきたが、思うことがかない、生きているうちに会えたばかりか、連れ添って同道できるとは夢ではないだろうか」と声をかける。
玉津:「我身も此の事や 言ちも(どんなに話しても)尽きさらぬ(尽きることはない) やがて夜も明ける 与所目(よそめ)無いぬ内に 急ぎ戻やべら(戻りましょう)
歌:「命救られて 連れて行く事や まこと夢中の 夢がやゆら(でしょうか)」。《男女共にする生の逃避行⇔死出の旅路に向かう女と、生の旅路を続ける若松》。

2.「手水の縁」-その論理と倫理
①「手水」の時間は花咲く春のハレの日の昼間。場面は人の往来しきりの名高い湧水。対照的に、「執心」の時は平日の夜間、人出の少ない夜間の村はずれ。
男・山戸は、男・若松と同じように首里城奉公を公務として持つが、社会的に公務を離れることが認められた非日常的なハレの日に、梅の花を愛でに出かける「風流」を解する男として、また、湧水で同じように「家」から「公式」に「遊び」に出かけて浮き浮きする名うての美女を口説き落とせる「大人」の男として、公務しか念頭にない若松と対極的な位置にある。「義理」の隠喩である「父」の目を盗んで、女・玉津に仕掛けた「忍びの恋」が露見すれば、地域の首長である「隠れた父」の義理=体面をつぶすものとして「処刑」に値することも、「公務員」の一人として知らなかったはずがない。それは同じ公務員として、「隠れた父」の義理=世間体に背いて、男を家に導きいれた女の誘いにのれば、女は地域の社会規範=義理によって処罰されかねず、自分も公職を解かれる危険性があること心得ていたのと、対をなしている。2人の男が選んだ道は、ここで2つに別れる。山戸は生か死か、いずれにせよ玉津との同道を覚悟した「賭け」に出て、打って出る。若松は賭けを忌避し、義理=「父」の代役を貫徹するために、見えない父の隠された命令に従い、女から逃げる。この男に、女を気遣うゆとりはまったくない。
ところで、2組の男女が出会う契機は、それぞれにとってどのように解されていたか。「執心」の女が持ち出したのは、「縁」である。この概念の出自が仏教であることは、大乗仏教によって後に否定されようとも、言うまでもない。いわば「超絶者の引き合わせ」であり、この関係は、人と人の間で交わされた「約束」ではない。まったくの他人同士が、「約束=人智」を超えた「袖の触れ合い」にシンボライズされる「違うことのできない」、その意味で「離れられない」「関係」だと、女は男に迫ったのである。「男女の縁」も「仏」が結んだのであり、「男女の情」が交差する「恋の道」は「世間」が受け入れている「習い=倣い=慣らい」だ、と。要するに女は、「世間」を越えた「縁」と「世間」に流布する「情」の二つを武器にして男に迫った。世間一般の「人情」を持ち出して宿を貸してもらった男は、男女間の「縁」としての出会いと「男女の情=恋の道」、いずれも拒絶する。
 一方、世に知られた美女でありながら「未熟」を自認する玉津は、しかし、山戸の誘いによっておのれの「成熟」に目覚め、山戸を受け入れる。山戸にとって「恋の引き合わせ役」は、「天の引合か、神のお助けか」であり、「仏の縁」ではない。一方、玉津においても事情は同じである。引き合わせたのは「恋の氏神のまこと(真・誠)」である。山戸・玉津ともに「天=神」である。「世間の習い」は、「手水」ならびに「執心」共に入れ替わりながらも共通する。「手水」における男の「花の上の胡蝶」、「執心」における女の「深山鶯と春の花」。
さて、求愛を受諾し、処刑も覚悟の上で男を気遣い、慕い、男の立身を祈り、あの世での再会を期する玉津。一方、義理によって男の宿乞いをことわった「執心」の女は、世に知られた美男に惹かれておのれの「成熟」を確認、義理を捨てて若松に求愛し、断られる。求愛の論理として、「義理」の上に「情」を置いたのである。若松の立身を省みず、「御縁」を「悪縁」に変え、地獄までも同道を男に迫る「執心」の「無名」の女。「不義理」を認め、処罰に従う女と、不義理を貫徹し、義理から逃亡してまで男を追う女。期せずして顕われた「忍ぶ恋」と、自ら表した「露わな恋」。「執心」の女に「処罰」を受け入れ、男を気遣うゆとりはまったくない。対して玉津は来世の入り口で「待機」し、後者は来世への「同道」を期す。⇔「達せられた恋」の結末としての「刑死」に対するに、「達せられない恋」の結末としての「自死」。「読者」あるいは「観客」としての「私」(たち)は、二人の女が「女」の2つの顔を代表していることを知っている。
 「手水」の「愛」は、「相互献身的」で「有縁」として成就し、「執心」の男女はいずれも「自己中心的」で、「無縁」として破綻する。朝敏作品は「情」が「義理」に打ち勝ち、朝薫作品は「義理」が「情」を跳ね除ける。「2人で死のう」という男と、「一人で死ね」という男。
 朝敏は「情」の「肯定」でドラマを終わり、朝薫は情の「否定」でドラマを貫く。朝敏は「縁」の現世的肯定でハッピーエンドとし、朝薫は現世における「良縁」か「悪縁」かの二者択一を否定し、その行く末を来世に託す。
《注釈2:男と女の媒介者》
 男女の物語に決着をつけるのは、朝敏作品においては地方役人、方策は現世の論理(虚言)と倫理(情)、朝薫作品では座主の「縁」の論理=真言と倫理=慈悲(メタ情)である。朝薫作品についてはすでに述べたし、朝敏作品について補足することはない。

C.結びー両作品=テキストが交差するところ
作品=テキストに見る「義理」、「情」、「縁」、「慈悲」について、当事者の言葉を確認しながら整理してみたい。若松が一宿を願ったのは「御情」にすがりたい、とするものであった。「宿」たるべき民家の主が知らない時点である。その意味でこの「情」は、いわゆる「人情」である。女が、「夜更けに」「見知らぬ男」に対して、「親」の留守中に宿を貸すことができない、とするのは、「人情」が「男女の情」に転化することを恐れてする「父親の論理」=「世間の義理」である。同時に、深夜一人で「家」を守る一人娘が、若い男に宿を貸したとする「浮名=風評」が立てば、父親ばかりか、彼女とて立場が危うくなる。
男が「名乗る」ことによって素性を明かしたのは、おのれの「名声」を餌にして一宿を釣る魂胆であり、女の「義理」を打ち破る言い草=論理である。「義理」を捨てて餌に食いついた女は、おのれの理論武装を次に「(御)縁」で固めようとした。それがかなわぬことが明らかになったら、打ち出した駒は「世間の習い」(習俗の論理=倫理)。これもかなわぬとなって、「縁」を「悪縁」に変える決意を露わにする。男の防戦の論理=倫理は「(世間の)義理=公務」のみ。「仕事を捨てて、私を選べ」と迫る女に、「仕事を選ぶ」として逃げる男。男は「義理」に生きる!
かたや山戸。こちらは自ら名乗り出て、「仕事よりも女を選ぶ」男。彼の「縁」は仏教のそれではない。「世間の習い=習俗=昔語り」である。昔語りの「手水」の「縁」は、「情」から出たもので今に「流れている」。男は「情」に生きる!
 あらためて、2つのドラマにおける「縁」とは何か。両者とも「自然」に喩える。「執心」の男が迫る。「露」でさえも「花」に宿を借りるのが「浮世」。対して女が迫る。深山「鶯」が春に咲く「花」毎に(蜜を)吸うのが「浮世の習い=習俗=常識=教養」。「手水」の山戸の喩えは、「露でさえも降りて、草と<縁>を結ぶ」。「人間の習い」と「自然の習い」、「執心」においては、女から、「手水」においては男から、共に「縁」として提示=提起される。この「習い」は「両義的」である。かたや「義理」を唱えるものとして、こなたで「情」を訴えるものとして。錯綜する「義理」と「情」と「縁」。錯綜する舞台はあくまで「現世=浮世」である。
 錯綜する論理=倫理に、決着を付けるのは男でもなく、女でもない「第三者」である。かたや「現世」と「来世」の媒介者たる「仏法の僧」、こちらは「現世」と「現世」をつなぐ「法」の番人にして執行者たる「世間知」にたけた「地方役人」。すでに述べたように、前者は「真言」によって「縁」を現世と来世に振り分け、男女の「結縁」をそれぞれの「未来」に託す。一方、どこまでも現世・間の媒介者たる地方役人は、被執行者の父であり、本人の上司でもある「義理」に「虚言」で以って「執行猶予」を図り、男女を「現世」に逃がす。あたかも結論は観客、あるいは読者に求めるかのように。事情は「執心」の場合も同じである。
 かくして「私」の結論。平敷屋朝敏の組踊「手水の縁」は、玉城朝薫の組踊「執心鐘入」における対面=対比の論理を、「浮世=世間における義理と人情、情と縁、縁と慈悲」という「倫理」を交点として交錯させ、逆さに引き写した「本歌取り」である。「本歌取り」とは「古歌の1句または2句を自作にとり入れ、表現効果の重層化を意図する修辞法。そのとられた古歌を本歌という。」(平凡社『世界大百科事典』、1998年)。あるいは「古歌の語句・発想・趣向などを取り入れて新しく作歌する手法」(『大辞林』)。
驚くべきことに、「手水」における山戸の口説き文句「昔手に汲だる(汲んだ) 情けから出(ぢて)(出て) 今に流れゆる(流れる) 許田の手水」なる琉歌は、朝薫の歌「面影よ残す 許田の玉川に 情け手に汲だる(汲んだ) 水の鏡」を「本歌」としているのである。舞台を「許田の玉川」から「波平玉川」に移しただけの「本歌取り」・・・。「玉川の縁」、これを朝敏が朝薫に迫るもう一つの「交点」に加えることに異議は出ないと思う。(了)

仮面の美学ー琉球舞踊「シュンドウ(醜童)」の場合

2012-10-14 12:34:07 | 著作案
A 前提・背景・前景

 国の重要無形文化財に指定されている「琉球舞踊」中の「古典舞踊」に、唯一の「打組踊り」として登場するのが「シュンドウ(しゅんだう・醜童)」(以下現行発音に従って「シュンドウ」と表記)である。他の古典舞踊、すなわち「老人踊り」「若衆踊り」「女踊り」「二才踊り」が、いずれも支配階級たる「士族」の、「凛として」「典雅な」「身なり」と「ふり」のみで構成されているのに対して、士族の娘を「美」に設定し、それと対比させる形で、被支配階級たる「百姓娘」を「醜」として仮面をかぶせて登場させ、対面させ、交差させ、離反させる。両者の「打組」によって、無名の脚本家は、「真」の「美」とは「誠」という「世間倫理」を抜きにして考えられない、とする「美」と「倫理」の交錯と葛藤を、「滑稽」と「笑い」、「ユーモア」と「ペーソス」、「ロゴス」と「パトス」を配しながら展開する「舞踊喜歌劇」に仕立てているのである。

 言い換えれば、この「打組踊り」は、身分=上下社会において、「上から」の「美学」に対して、「下から」の「倫理学」を対置・倒置して引けをとらない民衆の「哲学」を、「笑い」の中で表明するスタイルの、歌三線と演者の無言の「ふり」で構成されるドラマ、と定義できよう。このドラマを背景にして、その前景に、近代における琉球舞踊の「美女」=雅び=象徴性の系譜と、醜女=鄙び=表象性の系譜、この2つが、交錯し、展開しつつ対比の妙を見せる。そのようなものとしてたとえば、歌劇「泊阿嘉」、あるいは短編の「舞踊喜歌劇」「真謝(馬山)川」が現れ、美醜と悲喜のテーマは前後しながら他の「雑踊り」や「沖縄芝居」、さらには「エイサー」などの「民俗芸能」に引き継がれていくのであるが、近代以降の展開は別に譲ることにして、本稿では「さわり」の部分にとどめることになるだろう。

 本論の主旨は、「シュンドウ」が提示する「メタ(超)美学」である。「美」と「醜」の対立という「美学」の課題を、まずは「文学」からドラマへという展開で示し、次に「論理学」で問題の所在を明らかにしつつ、「哲学」によって、ひとまずの決着をつけよう、という試みの一つである。

B 歌詞=脚本=テキストということ

 以下は、宜保栄治郎著『琉球舞踊入門』(1979年、那覇出版社)を参照しながら、「私」の責任で紹介するものである。
・しよんだう節
(1)諸屯長浜に 打ちやり引く波の 諸屯女童の 目笑ひ歯口
(2)諸屯女童の 雪のろの歯口 いつか夜の暮れて 御口吸はな
・それかん節
(3)(髪)油買うて給れ ぢは(簪)も買うて給れ 捨て夫の見る前 みなで(身撫で=身づくろい)しやべら(いたしましょう)
(4)(棘のある)アダニ(アダン)だいんす(でさえも) 御衣掛けて引ちゆ  り(人を引き寄せるものを) だいんす(それならばこそ) 元びらひ(元カレ)や 手取て引ちゆさ(引くものよ)
・やれこのしい節
(5)押連れて互に 遊び欲しやあすが(あるが) むぢやれ(むかつくような)匂ひ高さ 別れて遊ば
(6)よもづら(見た目)の清(ちゅら)さ どく(それほど)頼で居るな(頼みにするな) 縁ど(こそ)肌添ゆる 浮世知らね(知らないのか) 

 「しよんだう節」、「それかん節」、「やれこのしい節」は、三線音楽の曲名であり、(1)~(6)は歌詞にあたる「琉歌」である。「シュンドウ」を舞踊劇と見れば、脚本にあたる。だとして、この「琉歌」として様式化された「作品」=テキストを、どのように「読み」、「分析」し、「解釈」するか。そして、「歌三線」に乗せて演じられる「演技」をどう解析し、どのように結ぶか。琉歌(1)(2)が、始めに登場する「美女」たちのたたずまいを表わす歌であることは明らか、(3)(4)は、続いて現れる仮面をかぶった「醜女」の「もてなさ」を示しているのも、容易に察せられる。そして、(5)(6)は「美女」と「醜女」の「ふり」による掛け合いを語るものである。

C 舞台の「なり」と「ふり」

 舞台に登場するのは、士族身分の美女2人と、百姓身分の仮面をかぶった「醜い」娘2人のペア。片方は、屋内で学び、遊ぶ、富んだ娘たち、一方は、屋内で学べずに、日々屋外で働く貧しい娘たち。両者の違いは、その「身」と「なり」に顕著に現れる。まず、「派手」対「地味」として、「簪」に象徴される髪型から衣装まで、身分差をあからさまにして登場する。

 「豊かさ」を表わすふっくらとした面立ち、共に高い背丈でバランスがとれた体形の美女たちの身なりや統一された「ふり」。かたや「貧乏」を見せつけるように、背丈の長短や顔立ちの細面・丸顔、バランスの崩れた醜女たちの身なりと統一されない「ふり」。「真顔・素顔」に上手な化粧で現れる娘たちに対するに、「仮面」に慣れずに、下手な化粧を施して現れる娘たち。芳香を発しながら、観客の視覚を惹き付ける娘たちと、汗臭さを漂わせる臭覚で美女たちから敬遠され、観客からは視覚で逃げられる娘たち、の対比の赤裸々な露出。

 そのような出で立ちで舞台に現れた2組の娘たちは、観客の前で出会い、それぞれペアで対面し、遊び、美女たちの方が先に舞台を離れる。舞台に漂うのは、美女たちの「雅び」であり、醜女たちの「鄙び」である。かたや「洗練」、こなたは「粗雑」。醜女は、美女のふりを「真似る」。両者における動きの「緩」と「急」、踊りの技の「巧」と「拙」。美女の「無表情」は彼女たちの「静かな知」の芳香を放ち、一方醜女たちの「動きのある表情と所作」は、彼女たちの「動揺する愚」を表出しているかに見える。この場面では、美女そのものが「表」であり、醜女は「裏」を象徴する。

 美女たちの凛と立ちながらする踊りは、彼女たちの「自信と確信」を表わし、醜女たちの「中腰」は「及び腰・弱腰・卑屈」に映り、彼女たちの「自己不信」と「中途半端」さを象徴する。立ち姿だけではない。「眼使い」の不動と動、「手使い」の艶美とバタバタ、「腰(ガマク)使い」の安定と不安定、「足使い」の流美とドタバタ。両者の対比は「差異」として、いやがうえにも強調される。醜女たちの「ふり」は、美女たちのそれの「もどき」、あるいはパロディである。美女を「仲間」に引き入れたい醜女は、「表情豊か」に誘うが、対面し、交差した後、美女たちは「無表情」で断り、先に立ち去る。美女たちの「隠された本質」を発見した醜女たちは、「真」と「世間」はこちら側にあり、自分たちこそ「表」にいることを確認し、おおげさに腰を揺らしながら、舞台を後にする。

D 「表わすもの」・「意味するもの」・「問われるもの」

 「整った顔立ち」に化粧を施した美女が先に登場し、「仮面」をかぶった「醜女」が、いかにも下手な化粧の面持ちで、後に続く。退場も美女たちが先行し、醜女たちが「尻」を振りつつ後尾を務め、退場する。美女たちは、エロスの表=顔=美を先に立てて進む。一方、醜女たちはエロスの裏=尻=醜を観客にアピールしながら終演を告げ、余韻を残す。
 美女は、「生」を表に「表わし」、「性」を、顔と尻の裏に「隠す」、あるいは表に密かに「示す」。醜女は、「性」を「身体の裏の」「尻」の「表」に、露骨に現す。美女の顔は「先頭」、「美」、「生」の「隠喩」であり、醜女の尻は、「後尾」、「醜」、「性」の隠喩である。美女の「真面目」は、醜女の「不真面目」によって際立って見える。不真面目は、真面目の「引き立て役」であり、そして「見えないもの」「隠されているもの」は、「見えるもの」「現れているもの」において「現れる」。

 醜女が、美女のしぐさを「稚拙」にコピーする。それは、一見踊りの「下手さ加減」に映る。しかし、真面目な踊りを意図的に「珍奇な所作」で再現するのは、別の見方からすればおどけながら、相手を「茶化して」いるのであって、「真面目」を「ワーイ、ワーイ」と「冗談」のレベルに引き落とし、冷やかす策略ともとれる。この場面では、醜女はパロディの作者であり、もどきの役者である。それに、仮面の裏には、「以外に」美女がいるかもしれないし、2人は「鄙」において「屋外」の「モーアシビ(野遊び)」や「村芝居」で鍛えられた「芸達者」かもしれない。「技」のレベルからすれば、むしろ「珍奇な芸」、「仮面の踊り」の方が水準が高いかもしれない。もしかすると、それらを「隠す」ための「仮面」かもしれない。そもそも「素顔」が「醜い」のであれば、仮面は不要である。否、仮面の裏の素顔や正体がどうであれ、「究極の」「醜女」を現出するために、仮面は不可欠なのである。醜女の仮面は、醜さを際立たせるとともに、観客の笑いを引き出すために上塗り=化粧が施される。

 当初、双方の踊りは、観客の「美=知」への共感を呼び、「醜=愚」への反感を招くとともに優越感を誘う。ところが、踊りの展開とともに、美か醜か?、知や愚のありかは? 美は醜では? などなどと、観客を懐疑の世界に引きずり込んで行く。もしかして、真顔は「仮面」で、「仮面」は「素顔」を現していまいか? 何がおかしいか、どこがおかしいのか?

 美女の抑制の効いた踊りは、「生」の上昇を図り、「性」の制止を目論む。言ってみれば、雅び=都風として「文化」の側に近い。一方、醜女の自由な踊りは、「生」の奔放な発散を表わすとともに、性の「躍動」を露出する。そしてこちらは、鄙び=田舎風として「自然」に近い。文化は、自然の「露出」を嗤い、自然は、文化の「上っ面」を茶化し、冷やかす。

 後半の舞台で醜女が美女を茶化す論理は、男女間の有縁か無縁かは、「表向き」だけでは決まらない。「表」の「生」と対等の「裏」の「性」、「知」とともにする「情」を天秤にかけ、その是非を判定するのは「浮世」、すなわち常識が浮遊する「世間」に委ねられている、と。どちらが世間知=常識にたけ、どちらが世間知らずなのか? かくして舞台にはまず、「美=是=真」が登場し、次いで美女たちの「表」と「裏」の「矛盾」が露わになっていく。一方、「醜」においてはドラマの展開過程において、「美=非=偽」、「醜=是=真」が確認され、「倫理」として退場する。ドラマは観客に、醜女の論理の「逆(反)転」の是・非=真・偽を、2人の「しぐさ」と「身体」を用いて問いかける。醜女たちは、観客の「笑い」と「共感」を引き起こし、彼ら(彼女ら)の「知」を呼び覚まし、その「情」を誘い出しながら、・・・、消えていく。

 醜女は、美=見える顔と、誠実=見えない顔のどちらが真=是=実で、どちらに偽=非=不実があるかを問い続ける。脇役は終盤で、美女=主役の「主役性」に疑義を申し入れ、観客に懐疑の念を引き起こし、「混乱」を招く。言い換えれば、観客=「私」たちの「常識」に異論を差しはさむ。醜女は、美=不実=偽、醜=誠実=真という「パラドクス」を顕わに提起する。醜女の仮面が暴くのは、美女の「つくられた」「無表情」の「仮面性」である。「仮面の表情」が、「無表情の素顔」を「告発」する。美女の「見せかけ(アッタバジョー)」を暴き、醜女の「見れば見るほど、相がいい(見ー付キ、スーラーサン)」を表に引き出す。仮面が「表情豊か」で、素顔が「無表情」という背理が、作品に妙味を添える。

 舞台上、もしくは脚本上では、美女たちは「表」しか知らない。見方を変えれば、自分たちが「滑稽」に映るということも知らない。醜女の仮面が隠すのは、あるいは現すのは、「誠実=真実」という名の「裏面」である。彼女たちは、「滑稽」の「裏と表」を問い、「有終の美」を飾るのは誰かと問いかける。その問いかけは、すでに提示したように、また後に明示するように、近代以降に引き継がれる。とはいえ、美が一意的に偽であるわけもなく、醜がまるごと真であるはずもない。仮面をかぶった醜女は、「道化」である。

 文化人類学の山口昌男は、『道化的世界』(1986年、ちくま文庫)において言明する。「道化を通して人は、捨てられ、忘れられ、無価値とされて来たものに意味を見出す術を学ぶ」。「道化は生の多様性を人へ開眼させる」。「道化は理性を相対化し、武装解除し、より超越的な理性に至る道を示す」。「私」の言葉でまとめれば、「道化」は「真」の「表と裏」、双方を二重に体現し、開示する「両義的」=「二律並存的」存在である。「道化」は、妹である「風刺家」の「裏からの嗤い」を、姉として「表」から「笑い飛ばす」。

 「醜=偽」を仮装する仮面とは、真顔の「偽」を告発し、「真相」を暴き尽くして止まない「道化的」=パラドクシカルな存在である。それゆえに、展開するドラマは喜劇的であり、悲劇的である。そして、それゆえに、主役に躍り出た醜女は、否応なく知的であり、その「知性」故に笑われ、かつ密かに泣く。「シュンドウ」において、「美」は、「始めに」「醜」を「嗤い」、「終わりに」「醜」に「泣かされる」。「醜」は、「始めに」「美」に泣かされ、「終りに」「美」を「笑う」。美と醜は、「表の笑い」と「裏の泣き」を「同時に」、「両義的」に演出する「開かれた」喜劇=悲劇の作家である。「喜」と「悲」はドラマの「表裏」をなす。

 シェークスピア作の、いわゆる「喜劇」に登場する「高利貸し」の「ユダヤ人」は、借り手の「ベニスの商人」に「契約通り=合法的に」「返済」を迫るが、商人の借金のおかげで商人の友人と結婚できた聡明な新妻は、「男装の裁判官」という「仮装」=策略で、「契約通り」の「合法的な」「取り立て」を迫り、高利貸しは、おのれの論理のパラドクスに敗れる。「正装」した高利貸しは、しかけた「策略」によって逆に敗訴する「トリックスター」として、道化=ピエロの扮装を求められたことになる。このドラマにおいて、どちらが「誠」で、「真」はどちら側にあるか。「私」(たち)からすれば、どちらにもある、としか言いようがない。「高利貸し」は、借り手から見れば策に溺れた「喜劇の主人公」であるが、金融業の仲間からすれば、借り手の策にはまり、「合法的」な取立てに失敗した「悲劇の主人公」となる。「真」と「偽」の「見かけの差異」をこれ見よがしに見せつけておいて、土壇場で見事に逆転して見せる。そこに悲喜劇が生まれ、観客の笑いと涙と拍手が誘導される。

E 「シュンドウ」の「美学」・「倫理学」・「哲学」と「歴史学」

 美醜の「差異」をあからさまに示すような「見えるもの=形」、とその奥に秘められた「見えない」「意味するもの」=内容、美女の表だけの素顔、つくられた真顔に対して、醜女の仮面が対置する「表と裏」。一見すると、美=真顔・素顔が、醜=仮面の上位に立っているかのようだ。ところが、美は非情=不誠実という「真顔の仮面」をかぶり、醜においては、仮面の表情としぐさが、醜の素顔=有情=誠実を如実に露わにする。美が非情=不実として、逆に醜の有情=実を映し出す、というこの逆理! 「シュンドウ」が、観客の「笑い」を誘い、「なぞ」をかけながら、見える「現象」と見えない「本質」の是非=真偽とその見分け方を問うところは、まさに「美学」と「倫理学」と「哲学」が交差する地点である。

 今や、舞台の上で見る限り、エスプリ(機知)とユーモアとペーソス(哀感)、ロゴス=知とパトス=情念、そのどれも美女たちではなく、醜女たちに属する。

 「シュンドウ」を、その「脚本」に焦点を絞り、「文学作品」としての側面に光を当てれば、必ずしも作品の歴史的側面を深く詮索するに及ばない。虚構=仮構の中に「真実」を探ろうというのが作品だからである。しかもその「真実」は、作者だけの独占物ではない。「読者」とともに、読者によって「練り上げられる」。何よりも作品=テキストは、多義的である(小林康夫『出来事としての文学』、小森陽一『出来事としての読むこと』)。したがって、作品内容の歴史的背景を探ることは、「深読み」し過ぎて、逆に「浅読み」に陥る危険性を覚悟しなければならない。しかし、「研究者」の端くれに席=籍を置いた経験がある者として、若干の「実証的」加筆を施さないと落ち着かない。喜劇効果が半減することを覚悟しつつ、しかし裏の「悲劇」効果が増幅することを期待しつつ。

 歴史的に見れば、美女たちにも「言い分」がなかったわけではない。士族の娘が「外」で遊ぶには、身分上、立場上、「忍びの遊び」でなければならない。たとえ相手が士族の若者であったとしても、「よそ」からの誘いをむやみに受けてはならず、その誘いを拒むためには、「無表情」という「仮面」をかぶり、拒絶する他ないのだ、と。それが彼女たちの「倫理」であった。厳格な身分社会において、士族と農民の「落差」は、歴然としていた。したがって、美女が醜女を忌避したのは、脚本上の「田舎臭さ」だけが理由ではない。ただ「若い」というだけで、「対等な」「友だち」として「一緒に遊ぶ」こと自体が、親や周囲に知られれば、士族側からするどのような「制裁」があるかが、予想されたからでもある。士族としての「しつけ」はどうなっているのか、仕込まれたはずの「知性」や「教養」はどこへ行ったのか、などなど。「私」の出身地は、島尻・佐敷の「伊原」というところだが、ここは首里・那覇で立ち行かなくなった旧士族の「落人集落」である。不本意ながら農業で生計は立てていても、今大戦後の早い時期まで、近隣の農民集落と嫁のやり取りはしなかった。下級士族出身なりの「格式」にこだわっていたのである。

 当然ながら、士族・農民間の「倫理」と「論理」を正面から持ち出せば、脚本そのものが成り立たなくなる。だからあえて、「読み人知らず」の作家は、美女=士族がことわる理由を「臭覚」に「矮小化」して、事態を逆に「おもしろく」したのである。当時の士族社会=身分社会が、その事態を知らなかったわけがない。知られていたからこそ、王府公認の舞踊として、国王派遣の使節が上江の際、将軍家の面前で踊られた演目であり得た。士族娘が百姓娘の誘いに乗ることは、身分社会の「規範」に正面から対決することを意味していた。裏返して言えば、農民の娘が士族の娘に、気軽に「一緒に遊ぼ!」などと呼びかけられる時代ではなかったのであり、そのことを知りつつ呼びかけたのならば、何らかの裏=策略がある、と考えるのが自然である。「私」たちの知るところでも、策略=仕掛け=罠は、仮面(あるいは仮装)の出で立ちで現れる。「ベニスの商人」の裁判官、もしくは「赤頭巾」の狼のように。

 美女と醜女の背後にあるのは、支配と被支配、都と田舎の「打組」であった。美女たちは、彼女たちなりに「知的」であったことになる。ドラマそのものが、時代を「裏返し」に映す偽=フィクションであり、それゆえの戯=ドラマであった。しかも、このドラマに、「真」とは何かを、時代を超えて問う「迫真力」があればこそ、「古典」として今に息づいているのである。歴史的背景を知る「シュンドウ」の観客は、「美」も「醜」も、いずれも「真」であるとする「結論」にうなづく。すでに述べたように、立場の逆転が、喜劇と悲劇の逆転に連動することを知っているからである。

 美女と醜女のそれぞれの「言い分」や「論理」は、時代を前後する脚本家や役者たちに、引き継がれ、問われ続けている。同じ「士族間」にも齟齬(そご)があれば、符合もあった。「農民間」にも美醜の対立はあった。美女=士族の系譜上にある近代の悲歌劇「泊阿嘉」は、士族・間の「常識」を踏まえない、美男・美女の「家」・「門」を無視した「秘められた恋」・「忍ぶ恋」が、時に「死に至る」「達成されない恋」で終ることを演出している。舞台上において、士族間の恋を取り持つのは、醜女の系譜上にある老乳母である。

 「士」と「農」、「雅」と「鄙」、あるいはそれに準じる「差異」を超えて「恋の同等性=成就」を図る試みが、時の制度や社会規範に「反する」ものとして「死」に導かれるとする論理は、すでに王国時代に平敷屋朝敏の「組踊」「手水の縁」、近代においては伊良波尹吉作「奥山の牡丹」に、それこそドラマチックに描かれている。農民・間の常識である「家門」なきが故の「露わな恋」は、「シュンドウ」の系譜上にある近代の打組踊りに属する「バザンガー(真謝川・馬山川)」において、美・醜が入り組んだ形で現れる。この後続するドラマにおいては、結果的に美女と醜女は、それぞれで「男」を得て、互いに和解するという、「達成された恋」として謳い上げられる。ただし、農民間=「鄙」の範疇において。

F 美と醜の「弁証法」

 現代の美学において「美」と「醜」は、あれかこれか、ではなくて、「部分集合」を共有する2つの集合体と解されている(「醜」『美学事典増補版』、1974年、弘文堂)。カント・ヘーゲルの時代と違って、今では、「醜」も美学の対象となっている。ここに至って、美と醜の「和解の道」が開かれたのである。日本の美学ではどうか。たとえば、民芸論の創始者であり、民芸運動の唱道者であった柳宗悦の「仏教美学」がある。「美と醜」、「巧と拙」の区別=差別=差異が「無い」「美の浄土」は、差異が「有る」ままに「そのまま」「美しい」「世界」と、「二つにして一つ」である。その世界は、パラドクスを超越した境位、すなわち美と醜の差異を超えた「メタ美」の世界=美の涅槃であり、それが「民芸の世界」に現出している、と柳は明言した(『美の法門』、1973年、春秋社)。「涅槃寂静」という。すなわち、美の浄土=涅槃に「運動」はない。したがって「弁証法」もない。「私」が目指すのは、美と醜の弁証法である。

 舞台を降りて仮面をはずした醜女の「素顔」とは? 「私」には醒めた脚本作家が思い浮かぶが、いずれにせよ、「美女と踊りの世界」から「現世」に戻り、贈られた「玉手箱」を開くことで浦島太郎に明かされた素顔と、正反対の顔がそこにあることはたしかだ。浦島は、おのれの「旅」が「幻の舞台」への登壇と降壇のそれであることを知らずに、竜宮の世界で「観劇」に現(うつつ)を抜かした。機織を日常業務としていたとも伝えられる乙姫は、あるいは伝説の作者は、現世に戻れば「(老)醜」が待っていることの「秘密」を玉手箱に託した。「浦島太郎の玉手箱と掛けて、何と解く? 仮面と解く。その心は? 蓋を開けると素顔が現れる」。

 乙姫のプレゼントは、はずしてはいけない「竜宮の仮面」だったのである。浦島の事例は、「滑稽」と決めつけるには、あまりに身近すぎて、笑えない。評論家・翻訳家・劇作家・演出家として知られた福田恒存は、三島由紀夫『仮面の告白』(新潮文庫)の解説において、次のように書いている。「真相は、現代においては、素面を追求するしぐさによってしか仮面は完成しえず、素面を仮面と見なさずしては素面は成立しえないということにある。」 仮面の告白は偽か?真か? 素面の告白は真か?偽か? 「私は嘘つきである」と告白した人は、ウソつきか? 「作品」は、交替可能な作者と読者、転換可能な素面と仮面を両面として構成されている。だとすれば、「シュンドウ」はまさに「古典」にして「現代作品」なのである。
 
 浦島伝説が「私」たちに残すのは、悲喜劇ではなく「なぞなぞ」であり、「格言」である。「善」と「悪」が「表裏をなす」2つの「因果応報」で構成された「往還の物語」が教えるものとは、何か。「行きは善い良い、帰りは怖い、ナーニ」。生き物は扱い方によって、相反する報いが訪れる、あるいは「働く」ことと「遊ぶ」ことのバランスを忘れないように、「夢」と「現」をしっかり弁えること、さらには「祭り」はいつまでも続かない、とする格言、・・・etc。「なぞなぞ」とは「喩えられた問い」であり、「格言」とは「上句の喩え=問い」を伏せながら、明言された「下句=答え」である。美とは? 醜とは? この問いは、「見せる側」「演じる側」の「舞台」と、「観る側」の「観客席」の二つで成り立つ「現世=劇場」において、「当事者」として「両義的=互換的」に生きる「私」たちに、引き続き提起され続けている。「私」たちは日々、素面としておのれの仮面と、また仮面としておのれの素面に対面しながら生きている。

 美の「裏」は「醜」、醜の「裏」は「美」、すなわち美=醜。この両面的な存在は、しかし、決して固定化されたそれではない。絶えず「内側から」「躍動」する「生」を生きている。美は醜を内包し、醜は美を内包しながら、そして共に「時間」を内包しながら、互いに相手を相対化しようとする。絶えず相手を否定しながら、おのれを肯定し、また、肯定するおのれを否定しつつ、相手を肯定する継続的な「運動」としてある。生きられる過程において、事態は時に「笑い」として現象し、時に「泣き」の場面となる。要するに、美と醜は、「ミューズ」の弁証法的運動における「その都度」の「素顔」であり、その都度の「仮面」である。山口昌男の表現を拝借すると、「シュンドウ」の「仮面」は、「美」と「醜」、「喜」と「悲」、「生」と「性」の対立を相対化し、武装解除し、より超越的な「ミューズ」に至る道を示す。

「私」・<私>・《わたし》の哲学と哲学「以後」(構想案)

2012-08-15 15:46:53 | 著作案
テーマ1:「私」とは何か→「(この)私」と<私(というもの)> と<他者>
・「(この)私」、<私(というもの)>、そして「私」と<私>=《わたし》の<世界>
・「私」と<私>が、「自然的存在」であり、「社会的存在」であるという2つの機軸を介して
・<関係>としての「私」と<私> 、<世界>に<表出=創出>する「私」
・あるいは、<差異>の内と外:<疎外>=対象化された「私」と<私> 、<疎外>=対象化する「私」
・「私」と<私> における「個」と「共同性」、あるいはその<差異と同一性>
・「個」と「共同性」の媒介としての「私」の「言表」あるいは「作業」、表出=創出(文字化あるいは形象化)された「私」の「作品」

テーマ2:「私」と<私> の<外>の<世界>とは→<外>からの「私」と<私>の位置づけと確認
①物理学からの補助的アプローチ
・<地球>という<世界>=ユークリッド的・ニュートン的時空間
・<宇宙>=極大の<世界>=非ユークリッド的・非ニュートン的時空間
・<量子>=極小の<世界>=非ユークリッド的・非ニュートン的時空間
・<宇宙><地球><量子>の世界相互はどう関連付けられているか
②数学からの補助的アプローチ
・<世界>を数式で表わす
③生物学・社会学からの補助的アプローチ
・「私」と<私> を<世界>に結ぶもの→<生命>とは、<関係=社会>とは
・「自然的存在」として「生まれ」、自然的存在かつ「社会的存在」として生き、自然的=社会的存在として「死ぬ」
④「物理学」「生物学」におけるアプローチの視点
・<起源>を問う
・<構造>を問う
・<運動>を問う
・「どのような(に)」を問う
⑤哲学からのアプローチ
・物理学的・生物学的・社会学的<世界><内>の「私」と<私>
・生きている時空間、生かされている時空間において、ひたすら《「私」と<私> とは》を問い続ける
・ひたすら(「どのような(に)」)を介して「なぜ」を問い続ける
・ひたすら「論理的」であり続ける→分析・覚知・検討・統合・検証・統覚→分解・加減・判断・統一→、・・・
・「私」の「存在論」の継続的構成→「どのような」「私」か=「私」の「起源」「構造」「運動(の軌跡と方向)→なぜ「私」か→「私」を包括する<私>の<哲学>=「私」の<思想>を目指して

テーマ3:哲学=「知」と「論理」の彼方ー<差異>を超えて→「私」=<私>の<思想>と<表現>を求めて
・「私」と<仏>あるいは<神>、あるいは<自然の摂理>
・<信>と<悟り>→親鸞と良寛を介して
・「仏」が「私」に「訪れる」ということ、「仏」が「私」において「現れる」ということ、「私」を「あるがまま」に「任す」ということ、「天=自然の摂理に則って」「私」を「去る」ということ、「私」において<私>として<生き抜く>ということ
・「私」=<表出=創出>の行方→「私」から<私>の「作品」が「現れる」という境位!

小田静夫著『壺屋焼が語る琉球外史』(08.4 同成社)

2012-07-14 20:39:00 | 著作案
 考古学者とは、比喩的に定義すれば「モノ」に「語らせる」ことで一つの「物語」をつくりあげる作家のようだ、というのが最初の読後感である。とはいえ、即座に付記しておかなければならない。彼の手法はどこまでも科学的=実証的でなければならず、「作品」はフィクションであってはならない、と。

 「物語」の発端は1972年、東京都教育委員会が無人となった小笠原諸島で実施した遺跡分布調査である。大学で考古学を専攻した著者は、この年同教育委員会に採用されたばかりであった。この調査で産地不明・由来不明の「無釉焼締陶器」(大甕)類が発見された。この陶器類は、引き続き調査が行われた伊豆大島の八丈島でも大量に発見された。島では「南蛮カメ」と呼ばれ、「島焼酎」や水貯蔵として多用されたという。
 この陶器類は、当時産地不明として調査報告書にも記載されないままに推移したが、1991~1993年の東京都港区汐留遺跡(仙台藩伊達家上屋敷跡)から発掘された「無釉焼締徳利」の調査・分析結果から、いずれも那覇市壺屋で焼かれた「壺屋焼」であることが判明した。小笠原での発見から20年が経過したことになる。言い換えれば著者は、20年間この陶器の出所と来歴を尋ね歩いてきたということだ。本書の出だしは、その旅程を「考古学的」に縷々述べることから始まる。

 どの「科学」も特定の対象と特定の方法を持っている。考古学の場合、まずは「発掘」という方法がある。対象はモノ。出土したモノ=物的資料の比較・分析・分類が行われる。そのための指針は、それまでに発掘された同類の資料の分布と編年である。問題は出土した資料が、ラベル名がはっきりした「引き出し」に入れられない「新発見」の場合だ。この発見が従来の研究に新たな一ページを加えるか、あるいは従来の説を覆すかする可能性を予期させる場合は研究者の注目を集めるが、そうでないと判断された場合は「その他」のラベルがついた引き出しに収められ、眠って(眠らされて)しまう。
 
 本書が対象とする「無釉焼締」の陶器とは、結論から言えば「壺屋焼」のそれである。したがって著者は、長年引き出しの中で「無視」されてきた「その他」の陶磁器類を比較=分析することによってその中から一つの共通項を見つけ出し、「壺屋焼」というもう一つの引き出しを作り上げることに成功したのである。この方法を「科学的=学問的」と言わずして何と言おうか。

 この種の調査研究=作業がどれだけの労苦を求めるものか。著者は述懐している。「(本土の)近世遺跡から発掘される膨大な陶磁器類の中から、壺屋焼を探す作業は大変な労力と時間、それに幸運(偶然)を必要とした」。その理由の一つは「近世陶磁器研究の主流は産地が著名で文様による判定が容易な」「磁器」類であり、もう一つは「大型でかつ素焼・無文のため産地判定などの難しい」「陶器・瓦器」類は「あまり注目されることもなく収納されてしまうことが多かった」からである。

 いわゆる「壺屋焼」は、地元の言葉で「ジョーヤチ(上焼)」と「アラヤチ(荒焼)」に大別される。前者は釉薬を施した陶器類で、後者が「無釉焼締」の陶器類を指す。前者には碗や皿、土瓶などの日常食器類が多く、後者は壺や甕などの貯蔵用具・酒器などが多くつくられた。近年観光土産品店にならぶのはジョーヤチで、アラヤチ製品はほとんど見られない。著者らのこの間の調査研究によって、「アラヤチ」を中心とする「壺屋焼」が出土した(本土の)遺跡は東京都内で23箇所、他に京都・堺・金沢・博多湾・長崎などで7箇所、鹿児島県内で40箇所を超えるという。

 出土した「壺屋焼」の器種は、「ウニヌティー」と呼ばれるアラヤチの徳利とアラヤチの「カーミ(甕)」に大別される。だとして、これらはどのような用途を伴って「本土」に運ばれたのだろうか。結論から言えば、泡盛の容器としてである。そこで著者の関心はその経路と経緯に広がって行く。ここからは通常の考古学的手法を越えて、歴史学的方法すなわち文献渉猟の旅と、民俗学的手法すなわちフィールドワークの旅に移る。文献探索の旅程は、近世にあっては琉球王府による「江戸上り」の旅に焦点が当てられる。王府派遣の一行は旅宿の大名や将軍に泡盛その他を献上ないし進呈したが、泡盛の容器がアラヤチ陶器である。その物証が発掘調査で確認されたのである。著者のフィールドワークは、近代においては糸満漁民や移民の足跡を追ってマリアナ諸島にまで及ぶ。
 
 これらの行路は、「黒潮圏の壺屋焼」を追い、「泡盛の道」をたどる追跡=研究の道筋と言い換えることもできよう。モノの移動を追う旅は同時に、そのモノを運んだヒトの軌跡を訪ね、関連する情報を収集する旅でもある。

 一連の記述は冒頭の表現を使えば、ノンフィクション作品を読むときにも似たときめきをおぼえさせる。その根拠は、繰り返すことになるが何よりも科学的=実証的=資(史)料的な裏打ちが施された説得的な記述にある。壺屋焼の記述にしても、アラヤチに限定しない。専門の考古学的検証と研究史を踏まえた上で、沖縄における土器=焼物の出現から始まる一連の「沖縄のやきもの史」の中で「壺屋焼」を正統=正当に位置づけようとするスタンスや、いわゆる大交易時代に始まるとされる泡盛のルーツとその後の「泡盛(焼酎)の道」全行程を「黒潮圏」全体を視野に入れながら記述しようとする著者のスタンス=方法が、読者の信頼感を高めるのである。「部分」をたえず「全体」の中で捉えなおそうという視角である。

 「大変な労力と時間」を割きながら辛抱強く続けてきた調査研究の道筋を支えてきたのは、旅程の長さと広さをものともせず渉猟する著者の熱意、換言すれば考古学者としてのモノとその軌跡へのこだわりであったのは十分にうかがえる。また、著者がいうように、その「発見の旅」は運に恵まれていたという側面もあるだろう。しかし、度重なる「偶然」の積み重ねがこの著作を生む幸運=必然に転化したということも、確かであると思われる。( 2008/11/04 21:05)
(2535字)

与那原大綱曳ー「むら」の「祭り」から「まち」の「まつり」へ  (3)

2012-07-14 11:26:14 | 著作案
「まつり」の二元性と一体化に向けて

 振り返ってみると、まずは大里間切の1つの「むら」として他の「むら」と変わらない「農耕儀礼」として始まった「与那原・村(むら)」の綱引きがあった。集落を東西に区分けして引き合う形はとっても、そこに流れる人たちの協同の思いは収穫の感謝と、続く豊年へ向けた祈願であった。この「行事」は、集落をいったん二分(カオス化)して後に再統合(コスモス化)=再生する「むら」の「祭り」=「祭儀(ritual)」であった。これに他の「むら」の「ムラシバイ」にあたる演芸会=「祝祭(festivity)」が続いた。両者は不離一帯であった。ある時期から、沖縄本島東海岸に位置し、王都の首里にも近いとする地の利の良さによって、与那原「むら」は交易地・商業地として栄えるようになった。首里や那覇で公職に就けない士族たちが近隣に居住して交易や商業に従事するようになった。それにつれて人口が増えた。明治以降もその賑わいが続いて、与那原には有数の芸能人も集まり、芸を披露する態勢ができてきた。それでも生業の基盤は農業にあり、「むら」の繁栄を祖先に感謝し、祈願する思いは微塵も変わらなかった。

 ところが、沖縄戦によって集落に停泊する山原船から軍艦・船舶まで米軍の砲火で撃沈、その後の海上交通・陸上交通の激変によって、「まち」への移行を進めていた与那原は、新たな「町づくり」を模索しなければならない事態に立ち至った。そこで、県下に勇名を馳せている「与那原大綱曳」を核とする「新生・与那原」のイメージづくりが開始された。町営団地・県営団地入居者を始めとする「新町民」の多様な嗜好に沿うためには、斬新で魅力的なイベントが企画されなくてはならなかった。比喩的にいえば、与那原町の「むら」は「伝統」に比重を置き、「まち」は「革新」を唱えた。ある意味で背反・対立する要素をはらむ両者の危ういバランスを保ちながら、町当局はむずかしい舵取りを迫られてきたのである。その起動力・機動力となったのが商工会青年部であった。リーダーの照屋義実の言葉を借りれば、「(大綱曳の)長い歴史と伝統を生かしつつ、町民の総力を結集して時代の変化にマッチした個性化、多様化の演出」である。「大綱曳」が「祭事」として持つ「祭儀(ritual)性」と「祝祭(festivity)性」、綱引きを支えてきた農業中心の在来住民(ジーンチュ)に対する山原船を駆使した新来の士族出身者による交易・商業、あるいは山原船の海上交通に対する在来住民の馬車引き、そして県営の軽便鉄道が加わった陸上交通、戦後の陸上・海上交通の様相の激変に「新町民」の増大。

 「与那原大綱曳」は、これらの「二元性」を踏まえつつ、取り込みながら、言い換えれば「一元化」を図りながら、戦中から戦後にかけての2年間を除いて、欠かすことなく続けられてきたのである。その「二元性」は、「まつり」の構成と空間にも反映されている。しかし、改めて考えると「二元性」がはらむ「緊張」を保持しない「一元化」は、「活性化」どころか、しばしば「マンネリ化」、「硬直化」、「自己満足」に進む。旗頭に記される「国豊」・「民栄」という「むら」から「まち」に引き継がれた共通の願いを町民の<絆>として、与那原という「まち」の「試行」は、今も続いている。(1415字)

なぜ「撮る」か

2012-07-14 03:25:18 | 著作案

                                            
目次

 1枚の写真を撮る。撮られた画像は1枚の「平面」だが、その中には「時間」が埋め込まれている。「動画」が1枚に集約されていると言ってもいい。「ドラマ」が写し込まれているのである。背景があり、主役がいて、脇役がいて、ストーリーがあって、・・・。

 3次元を2次元へ。2次元から3次元へ。その継続的な往還が「撮る」ということだろう。あるいは・・・。「見える」ことと、「見えない」ということの「落差」を「撮る」というのも「撮る」という営みか。

 「撮る」ということは、おのれが脚本家であり、監督であり、写真家であることの確認作業なのである。それぞれの場面で、写真家はどのような「脚本」を用意し、「見えない」世界や「時間」というもうひとつの「次元」を、「監督」としてどう写し込むのか。そして「見せる」のか。

 「見えない」世界をどう「見る」か。見る側に即していえば「言語」の問題、すなわち「発語と沈黙」とか「文章表現」の領域における「沈黙の有意味性」や「行間」を、どのように聞き、どう読みとるかという課題につながると思われる。(2008.03.11 Tue 03:20)

「ヤマ暮らし」への誘い

2012-07-13 15:17:33 | 著作案
<音楽雑感>
ロストロポーヴィッチの死を悼む

 カザルスの後に続く世界的チェロ奏者として、また後年は指揮者としても活躍したムスティスラフ・ロストロポーヴィッチの訃報が新聞に出た。
 彼の名、彼の音楽を知ったのは学生時代だから、40年近く前である。
 当時わたしは西部新宿線の中井という駅の近く、2階建てながら四畳半の部屋が1、2階に1室づつというトタン屋根の木造住宅の2階で暮らしていた。近所には高級住宅が多く、我が「2階木造住宅」の前に「立ちはだかる」家主の家は、都内ではすでに珍しくなっている茅葺き木造住宅で、その後東京都の指定文化財になったと聞いた。当主の父は、職人気質丸出しの植木屋さんで、その頃すでに70歳を越えていたと思うが、現役であったことも加わってか、かくしゃくとしていた。前庭に建てた茶室風の「別荘」に一人で寝起きしていた。

 学生でなければとても暮らせそうもない部屋に、航空工学の権威と言われていたさる大学の教授宅からゴミとして道に出されたソファー・ベッドを深夜に運び込み、アルバイトか何かで貯めた金をはたいて買った新品のステレオセットまで設置した。最低必要な夜具と服類、本なども加わる猫のひたいのような狭い空間で、好んで聴いたのがロストロポーヴィッチのチェロによる、シューベルトの「アルペジオーネ・ソナタ」。イギリスのピアニストで作曲家でもあったベンジャミン・ブリテンのピアノ伴奏で、LP版。他にシューマンの「5つの民謡風の小品集」、ドビュッシーの「チェロ・ソナタ」も収録されているが、シューベルトの作品が特に印象的であった。
 当時、留年を繰り返していて、さすがに焦りも感じていたが、たまたま読んだ宮沢賢治の童話「セロ弾きゴーシュ」に大いに共感。それがチェロを知るきっかけとなり、ロストロポーヴィッチのレコードを聴く契機ともなった。
 何とか卒業して、給料生活者となってからは、チェロのCDはできるだけ買い集めることにした。この頃、LPそのままのデザインで「アルぺジオーネ・ソナタ」のCD判が出ていることを店頭で知り、なつかしく、またうれしさも加わってさっそく買い求めた。
 その前後だと思うが、バッハに「無伴奏チェロ組曲」全6曲があること、世界的な演奏家カザルスが毎日この曲を弾いていたことも知った。今では、ロストロポーヴィッチが演奏する「無伴奏チェロ組曲」も、抜粋判も含めて何枚か持っている。

 ここ2、3日、追悼の意味も込めてこれらの曲を流しながらロクロをまわしている。ジャケットを調べてみると、「アルページオーネ・ソナタ」の録音が1968年。録音年不明ながらモスクワで収録された「無伴奏チェロ組曲」の2番と5番のジャケットでは、髪が白髪に変わっていてその後の録音であることはわかる。ジャケットの解説は1971年。演奏はダイナミックであり、円熟期の作品といってよい。そして2枚の全曲演奏。これは待望のCDだったが、録音は1992年。演奏は全体にソフトで、いかにも晩年の作品という感じ。
 CDでは他に、ジャン=ピエール・ランパルのフルートによるモーツアルトの「フルート四重奏曲」全曲、チェロをロストロポーヴィッチが担当している。ヴァイオリンはダヴィッド・オイストラフ。豪華協演である。
 朝日の記事で「91年8月の旧ソ連クーデター未遂事件では、軍部隊に囲まれたロシア共和国庁舎にエリツィン大統領らと立てこもり、防衛に当たった」ことを知った。エリツィンの死の4日後であった。芸術と芸術家への不当な政治介入に終生異議を唱えた音楽界の巨匠が一人去った。慎んでご冥福を祈る。(2007.04.30 Mon 20:18)


白洲正子『器つれづれ』(1999.7、世界文化社)を読む(1)
読評・エッセイ
以下は同書からの引用。
・「ただ、美しいものがあるだけだ。ものが見えないから、美だの美意識などと譫言を吐いてごまかす」(青山二郎の言葉)
・メタフィジックな物言いは、ごまかすのにはまことに都合のいい言葉で、お茶は「わび」の精神の蔭にかくれ、お能は「幽玄」の袖に姿をくらまし、お花の先生は、蜂みたいに花の「心」の中で甘い汁を吸う。形が衰弱したからそういうところに逃げるので、逃げていることさえ気がつかないのだから始末が悪い。・・・小林(秀雄)さんも青山さんも、ずぶの素人が見ても面白いとわかるものしか認めなかった。逆にいえば、説明つきで感心させるものなんて、死んだ芸だと思っていたのである。
・本当に見るとは、かくれたものを引き出すことであろう。
・要するに古くても新しくても、美しいものは美しく、醜いものは醜い。ただ、それだけのことで、ほかに私がいいたいことはないのである。

「要するに」の一文は、著書の三分の一を読み進んだあたりに出てくるが、この本の結論とおぼしきような説得力がある。

・古いものの中から生活に合ったものを見出すのは、利休以来の日本人の伝統である。現代は独創ばやりの世の中だが、現在を支えているのが過去ならば、先ず古く美しい形をつかまねば、新しいものが見える道理はない。こんな自明のことを皆忘れている。忘れているのではなく、ふり返るのが恐ろしいらしい。が伝統を背負って生きて行く勇気のないものに、何で新しいものを生み出す力が与えられよう。

上記結論の内容を具体的に述べた一文。

・値段のことなんか考えていたら、物とはつき合えない。ただ、好きだから買う、それだけのことで、物から貰うものが無限にあることを考えれば、そして、殺伐とした現代生活を豊かにしてくれることを思えば、どんな値段でも(自分に買える程度なら)けっして高くはないのである。・・・その最たるものは、炉ぶちかも知れない。・・・最初のうちは、人みしりをしているように見えたが、二、三年経つと部屋の中におさまってくれた。今では昔からそこにいたような顔をしている。私は毎日このいろりのかたわらでお茶を飲み、松風の音に耳を澄ましつつ、ひと時のいこいを愉しんでいる。

著者の「骨董」に対するスタンスを如実に示している一文。(2007.04.24 Tue 20:40)

白洲正子『器つれづれ』(1999.7、世界文化社)を読む(2)
<いけばなと花器>
同書からの引用の続き。

・牡丹花は咲き定まりて静かなり 花の占めたる位置のたしかさ
・これは木下利玄が大正11年(1922年)、病床において詠んだ歌で、数年後に四十歳で亡くなった。この歌は何か動かしがたい覚悟とでもいいたいものが表れており、幽明の界にほのかに浮かんだ牡丹の花に、永遠の生命を託した静かな喜びが感じられる。
 もともと花とはそういうものである。これは切り花ではなく、鉢植えだったかも知れないが、どちらにしても一日かぎりのはかない命であるから、咲き定まって器に入れたその瞬間が「花」なのだ。では、自然のままで眺めたらいいだろうにと思うのは美を解さぬものの言で、自然の花が美しいののは当たり前のことだが、人間が関わることによってそれは一つの「思想」となる。
・有名な利休の逸話に、秀吉に所望されて、庭一面に咲いたみごとな朝顔で茶会を催すことになった時、利休はその朝顔を全部切ってしまい、たった一輪だけほの暗い茶室の床の間に活けたという。これが茶道の神髄であり、花を生かすことの意味である。

 利休は、「一輪の朝顔」によって「すべての朝顔」を代表させる。この一輪は、人間によって「象徴化作用」が施されたことによってー白洲の言葉を援用すればー「ひとつの『思想』」となった。この一輪は、「活けられる」ことによってすでに「花」でなく、「生けられた」ことによって<花>となった。たくさんの朝顔のなかの一つが、一輪だけ残されることで、「たくさんの朝顔」(の美)を「象徴」する。仏教でいう往相(色即是空)と還相(空即是色)の姿、禅宗の比喩で言えば「柳は緑、花は紅」の趣がここにある。「柳は緑、花は紅」は出発点であり、到達(帰着)点なのである。マルクス『経済学・哲学草稿』風に言えば、「生けられ」た<花>は、「自然の一部」である人間によって「人間化された自然」なのである。
 花器についての白洲の言及も傾聴に価する。
・もちろん花を活ける時は、花器が大いに物をいう。近頃は、花を見せることだけに重点がおかれているが、わたしの場合は、花器が師匠であった。器を見た時に、花の形はきまっている。別に高価なものでなくてもよい。・・・私が一番うれしかったのは、近江の堅田のつくだに屋さんで、つくだ煮を煮ていた大笊(おおざる)を貰った時である。何十年も使ったのですばらしい味になっており、あれに寒菊をばっさり入れたらどんなにいいだろうと思っていたら、二つ返事でゆずって下さった。今は私の宝物の一つになっている。(2007.4.27 Fri 16:29)

『別冊太陽』「白洲正子の世界」(2000.9 平凡社)より
 白洲正子の「茶の湯観」。「茶の湯」とは、彼女にとって「用と美」の哲学であり、「暮らしの美学」であって、それ以上でもそれ以下でもなかった。以下は同書からの引用。
 
「骨董は買ってみなければわからない」といわれるのも、使ってみなくてはわからない、のと同義語で、すべてお茶の伝統に出ている。茶道とは、ひと口でいえば「生活」全般にわたる心構えで、この混沌とした人間社会に、いかにして秩序を与え、いかに美しく、たのしく過ごせるかという公案を課すことにほかならない。(「私の茶の湯観」『風姿抄』から。『白洲正子の世界』)

 骨董ではなく、新作ではいけないのか。白洲の結論は、はっきりしている。新作で「用」に耐えうるのは少ない、使ってみなければ器の美しさはわからない。「用」に耐え得たものは、さらに使えば使うほどその美しさに磨きがかかる。それが彼女の「骨董観」であり、「器の美学」なのだ。(2007.04.28 Sat 22:15)

白洲正子『器つれづれ』(1999.7、世界文化社)を読む(3)
読評・エッセイ
 同書からの3回目の引用。魯山人について書いた文章に、「新作」にふれた一段がある。
・・・・近代の陶芸家の作品は使いこんだものより新しい方が、旧作より新作の方が高いというのも、おかしな風潮である。骨董屋さんに訊くと、それにも一理あることで、近頃の新しい陶器は、使うときまって悪くなるからだという。魯山人の作品にはその心配はない。使えば使うほど味がよくなるのは、当人も証明していたし、私も実験済みである。そういう点でも、彼は傑出していたと思うが、元はといえば、日本の美術品について、独特の鑑識眼を持っていたからに外ならない。というより、日常の暮らしそのものが美しかった。

 「使うときまって悪くなる」「新作」が「高い」というのも不思議な話だが、「作る側」の立場にある身からすれば、「使えば使うほど味がよくなる」器づくりを心がけねばならないということだ。次は、「趣味人」としての魯山人について触れた一段。
 私は魯山人の作品だけでなく、魯山人が愛蔵した骨董もいくつか持っているが、大した名品でなくても、そのいずれにも卓越した趣味がうかがわれ、彼の作品の、源流ともいうべきものが見出される。たしかに彼は日々の暮らしを大切にし、愉しむことを知っている偉大な趣味人であった。作品は、いわばそこから自然に咲き出した花にすぎず、またそれ故に美しいのでもある。

 このような文章を読むと、自分の「暮らしぶり」がそぞろ気になる。せめて、工房だけは散らかさないようにしておきたい・・・。(2007.04.30 Mon 19:55)

「沖縄」を読む:目次ー渡名喜明

2012-07-12 18:54:42 | 著作案


※本ブログでは、下記2著及びそれ以後に活字化された文章から、標題に沿う文章を掲載している。
 ※『文』:『沖縄の文化ー美術工芸の周辺からー』(1986.3 ひるぎ社)収載
  『ひと』:『ひと・もの・ことの沖縄文化論』(1992.2 沖縄タイムス社)収載
 ※近年、書いた文章を活字面に掲載することを控えている。文章を書くことは続けていて、それらは、次のブログに収載している。そこで、本ブログの内容に沿う文章は、標題だけこの目次に転記し、当該ブログにリンクできるようにした。 明王庵から 「私」の写真帳 「私」をデッサンする
 ※本ブログの続編を<「沖縄」を読むー2>として別途開設した。参照いただければ幸いである。
 
総論
 ・日本「本土」と沖縄の<差異>はどのように解釈されてきたか
 (『戦後20年・沖縄の社会変動と文化変容』 琉球大学 1995.3)
 ・序章 ひと・もの・ことの文化 (書下ろし 1992.2 『ひと』)
  はじめに
  ①<差異>の通念とその転倒ー柳宗悦の場合
  ②見える文化と見えない文化ー岡本太郎・谷川健一の場合
  ③見せる文化と見せない文化
  ④見る側と見られる側
  ⑤見せものー「みもの」と「みごと」
  ⑥身(み)・もの・こと
  おわりに
 ・差異と多様性の沖縄論 (『ひと』)
  (「富士通ファミリー会講演」 1991.1.30 『ひと』)
・差異の起源と教育の原点 (『ひと』)
  (『私学公論』第24巻第5号 1990.12)

第Ⅰ部 沖縄文化の系譜ー差異・受容・変容ー
 ・中国文化と沖縄ー美術工芸の分野からー (『文』)
  (原題「中国文化と沖縄」 『歴史公論』118号 雄山閣出版 1985.9)
 ・琉球における中国文化の受容をめぐってー美術工芸の分野からー (『ひと』)
  (『琉中歴史関係国際会議論文集』 1987.10)
 ・沖縄文化史の一断面ー近世琉球におけるいけばなの受容を巡ってー (『文』)
   付:御書院御物帳 御座飾帳 御書院(並)南風御殿御床飾
 (『琉球の歴史と文化ー山本弘文先生還暦記念論文集』 本邦書籍 1985.4) 
 ・近世琉球における仏教受容の一様相ー沖縄の経塚・経碑(『ひと』)
  (『球陽論叢』 同刊行委員会 1986.12)
 ・琉球における技術史・工芸史の画期と中国
 (『久米村ー歴史と人物ー』 小渡清孝・田名真之編 ひるぎ社 1993)
 ・産業史から見た近世の工芸(『近世の諸問題シリーズ第Ⅴー近世の産業・近世産業史の問題点』所収 浦添市教育委員会 1987.3)
 ・同上「関係史料」(同)
 ・窪徳忠先生と沖縄研究
 (『沖縄国際大学南島文化研究所報』第58号、2013.3)
 ・「沖縄病」と「台湾病」(『新沖縄文学』60号 1984.6)
 ・琉球列島における宗教関係資料に関する総合調査
(琉球大学『同報告書』 1994.3)
 ・近世琉球の服喪の制
  (『家族と死者祭祀』 孝本貢・八木透編 早稲田大学出版部 2006.2)
 ・士族門中とシジタダシー渡名喜門中の場合ー (『ひと』)
  (書き下ろし 1992.2)
 ・「私」の系譜
 
第Ⅱ部 表層の王権、基層の王権
 ・琉球王権論の一課題ー国王の久高、知念・玉城行幸の廃止を巡ってー
(窪徳忠先生沖縄調査二十年記念論文集『沖縄の宗教と民俗』 1988.3 第一書房)
 ・「琉球王権ー歴史と伝承のはざまで」(雑誌『別冊文藝ー歴史・王権・大嘗祭』1990.1110 河出書房新社)
 ・アジ・ノロ・王ー物語の構造と論理ー
  (谷川健一編『琉球弧の世界』 小学館  1992.6)
 ・国王=「てだこ」思想と即位儀礼についての覚書 (『ひと』)
  (『脈』33号 1988.2)
 ・イザイホー・お新下り・大嘗祭の間 (『ひと』)
  (「沖縄タイムス」1990.11.12.13)
 ・古琉球王権のメッセージー金石文からみたー
  (『新沖縄文学』「特集:琉球王権論の現在」 第85号 沖縄タイムス社 1990.9) 
兄と妹の物語ー聖と俗のはざまでー

第Ⅲ部 沖縄文化論の系譜
 ・カオスとコスモスの美学(『ひと』)
  (『新沖縄文学』80号1989.6)
 ・美の三様と風景 (『ひと』)
  (『スペースモデュレイター』76号 1990.8) 
 ・<沖縄の美>に向ける眼差しー三つの視角から
 (那覇市立壺屋焼物博物館『日本のやきものー日本民藝館名品展』図録 2001.2)
<柳宗悦>
 ・柳宗悦論ー沖縄文化論を中心として (『文』)
  (『新沖縄文学』29号 沖縄タイムス社 1977.7)
 ・沖縄と近代ー柳民芸論から(『文』)
  (「沖縄タイムス」 1977.12)
 ・沖縄の近代化と民芸運動
(「沖縄タイムス」 2009.9)
・柳宗悦著『沖縄の伝統』(柳宗悦全集第15巻) (『文』)
  (「沖縄タイムス」 1981.11)
<岡本太郎>
 ・「なにもないこと」の発見(『彷書月刊』1990.2)
 ・引き算の沖縄文化論(「沖縄タイムス」 2002.8.11)
 ・「岡本太郎展」シンポジウム([沖縄タイムス」 2002.8.20)

 ・岡本太郎と沖縄と久高島
  (新沖縄フォーラム刊行会議編 季刊『返し風』37号 2002.12)
 
第Ⅳ部 工芸・技術の諸相
 ・柳民芸論における伝統と現代 (『文』)
  (『新沖縄文学』37号 沖縄タイムス社 1977.12)
・沖縄の藍覚書ー蓼藍・インド藍・琉球藍をめぐって (『文』)
  (『えとのす』第10号 新日本教育図書 1977.10)
・芭蕉布と荒焼 (『文』)
  (『やちむん』第4号 やちむん会 1973.12)
・民芸品 (『文』)
  (沖縄タイムス「唐獅子」 1973.7)
・越来文治さんと山原船 (『ひと』)
  (『コーラルウェイ』1988)
・桃原正男さんとガラス工芸 (『ひと』)
  (『コーラルウェイ』1988)
・又吉健次郎さんとジーファー (『ひと』)
  (『コーラルウェイ』1988)
・大城立裕・安次富長昭編『沖縄の工芸ー伝統と現代』 (『文』)
  (「沖縄タイムス」1984.10) 
<紅型>
 ・「筒描きの紅型」(『日本の染織14 筒描染』1977.3)
 ・紅型の話(原題「解説紅型」) (『文』)
  (『染織の美』第6号 京都書院 1980.8)
・紅型の技法ー城間栄喜さんからの聞き取りをもとに
  (『沖縄県立博物館紀要』)
・戦後紅型の歩み
  (『沖縄県立博物館紀要』)
 ・城間栄喜・人と作品 (『文』)
  (『沖縄紅型ー城間栄喜作品集』 京都書院 1978.11)
・城間栄喜の<技と仕事> (『ひと』)
  (「琉球新報」1989.6.2)
・城間栄喜・栄順親子展 (『文』)
  (「沖縄タイムス」 1984.9)
久米島喜久村家所蔵の紅型幕について
  <織物>
 ・喜如嘉の芭蕉布 (『文』)
  (『喜如嘉の芭蕉布』(講談社 1977.10)
・大城志津子の世界 (『ひと』)
  (「沖縄タイムス」 1991.2.13)
・新垣幸子さんと八重山上布 (『ひと』)
  (『コーラルウェイ』1988)
 ・新垣幸子「八重山上布展ー琉球の光と風」に寄せて
  (「沖縄タイムス」09.5.12)
 ・書評『ミンサー全書』(09.12 南山舎刊)
・澤地久枝『琉球布紀行』(新潮社 2000.12)のスタンス
  (「北海道新聞」 20012.24)
  <陶芸>
 ・なぜ「陶芸」か
  (『(株)都市科学政策研究所25周年記念誌』2008.7)
 ・パリ国立人類博物館所蔵の沖縄陶器
  (琉球大学『フランスにおける琉球関係資料の発掘とその基礎的研究』 2000.3)
 ・琉球の茶と陶
(壺屋焼物博物館企画展「人間国宝の茶陶」図録解説、2000.7)  
 ・沖縄の木と私
  (『島たや』第4号 クイチャーパラダイス友の会 2007.12)
 ・ある出会い
  (『沖縄パシフィックプレス』No.126(2000年春季号)
・カーミの復権 (『文』)
  (沖縄タイムス「唐獅子」 1973.7)
 ・島常賀さんとシーサー 
  (『コーラルウェイ』1988.1)
 ・金城次郎さんと沖縄陶器 (『ひと』)
  (『コーラルウェイ』1988.9)
・下地正宏作陶展 (『文』)
  (「琉球新報」 1985.8)
<那覇市立壺屋焼物博物館特別展に寄せて>
・「壺屋の金城次郎ー日本民藝館所蔵新里善福コレクション」(沖縄タイムス 2003.1/24)
 ・「壺屋焼ー近代百年の歩み展」(「沖縄タイムス」2009.1.22) 

 ・島袋常秀陶芸展に寄せて
  (2002.11 画廊沖縄)
 ・具志堅全心作陶展に寄せて(「沖縄タイムス」2003.8.25) 
 ・松田米司陶芸展に寄せて
  (「琉球新報」05.6.20)
 ・島武己「陶の世界」展評
  (「琉球新報」2004) 
 ・彩度の白、明度の白ー黒田泰蔵の白磁
  (「琉球新報」06.7.29
 ・大嶺實清陶芸展に寄せて
 ・国吉清尚陶芸展に寄せて3題
 <酒器>(「沖縄タイムス」1996.1/17)
 <華器・食器ー世紀末の卵シリーズ>(「琉球新報」1999.2.4) 
  <「国吉清尚の世界>(「琉球新報」 2004.9)

 ・新垣栄茶陶展に寄せて
  (「琉球新報」 2005.12)
 ・小田静夫『壺屋焼が語る琉球外史』(08.4 同成社)
  (書き下ろし)

第Ⅴ部 文化の基層ー「暮らし」の視座
 ・「むら」の仕組みと労働慣行ー戦前の佐敷村の場合ー(1) (2)  (『ひと』)
 (『佐敷町史 二 民俗』 佐敷町 1984.3)
 ・祭の聖と俗ー伊是名島の綱引きをめぐってー
  (『島の文化と社会ー伊平屋村・伊是名村ー』 仲宗根勇編 ひるぎ社 1993.5 pp69~93)
 ・「町づくりの民俗ー<祭>から<まつり>へ」(『国立歴史民俗博物館研究報告第60集』 同館、1995.3)
 ・『与那原町史』編集・刊行の存廃をめぐって(「琉球新報」「沖縄タイムス」 2006.3.4)
 ・近頃の墓事情に思う(ブログ”「私」の写真帳” 2015.10.5)
  
第Ⅵ部 表現の諸相ー詠む・描く・撮る・舞う・書く・読む
<琉歌で遊ぶ>
 ・私の創作ー「琉歌」から「オモロ」へ、そして「長歌」へ  
 (書き下ろし 2012)
 ・琉歌「恩納岳あがた」の構造ーその詩と曲とドラマとー 
 (書き下ろし 2012)
<沖縄の私>を詠む短歌
 ・玉城寛子の短歌世界  
 (『くれない』103号 紅短歌会 2011)
 ・夫(つま)恋うる歌ー名嘉真恵美子第2歌集『琉歌異装』(短歌研究社)に寄せて
 (書き下ろし 2012)
<描く>
 ・「描く」ことの神話性
   (書き下ろし 2011)
 ・普天間敏の世界 (『ひと』)
 (「沖縄タイムス」1989.8.4)
・喜友名朝紀の世界 (『ひと』)
 (「琉球新報」1987.8.29)
 ・赤・アカマタ・表現ー新城剛個展に寄せて (『文』)
 (「沖縄タイムス」 1983.8)
 ・境界の発見ー新城剛第二回個展に寄せてー (『ひと』)
 (「琉球新報」1990.9.29)
 (「沖縄タイムス」2001.11.7)
<撮る>
 ・なぜ「撮る」か
<比嘉康雄:「撮り手」として、「書き手」として>
 ・三位一体の世界を写す(「沖縄タイムス、1998.3.19)
 ・「記録者」と「書き手」の間:比嘉康雄『神々の古層』から『日本人の魂の源郷』まで
  (『EDGE』11号 APO 2000.7)
 ・「祈りの手-神仏に向き合う形」ー比嘉康雄写真展に思う
  (「沖縄タイムス」2011.1/5.6)
 ・写真集『岡本太郎の沖縄』(2000年7月、NHK出版)の前後
 (琉球新報 2001.3/4)
 ・『島クトゥバで語る戦世―100人の記憶―・ナナムイ・神歌』(琉球弧を記録する会)
 (書き下ろし)
 ・栗原達男写真展「戦争と人々、民族、人生讃歌」(「琉球新報」2,009.3.18))
  <舞う・演じる>
 ・伊良波尹吉の遠近法ーその庶民性と構想=構成力を巡って
 (新里堅進作・与那原町教育委員会発行『沖縄演劇の巨星・伊良波尹吉物語 奥山の牡丹』解説 2000.3)
<佐藤太圭子の芸>
 ・異界のメッセンジャー (『ひと』)
 (第7回佐藤太圭子の会 1988.11.12)
 ・観音の舞い
 (『琉球舞踊太圭流ー踊い歓ら(ウドゥイ・フクラ)・舞い歓ら(モーイ・フクラ)』2009.11)
 ・主役と脇役
(第15回佐藤太圭子の会」公演パンフレット 2012.12)
<新城知子の芸>
 ・聖なる主題 (『ひと』)
 (第4回 光扇会 新城知子の会 1086.7.5)
<高嶺久枝の芸>
 ・祈りの舞 (『ひと』)
 (第1回 琉舞華の会 高嶺久枝練場踊りの会 1987.6.26)
 ・不条理の美学 (『ひと』)
 (『第ニ回 高嶺久枝の会』 琉舞 華の会 高嶺久枝琉舞練場 1991.9)
 ・芸のおおらかさと繊細さと
  (『踊り愛がなとー琉舞かなの会発足記念誌』 琉舞かなの会高嶺久枝練場 1998.11)
 ・柳は緑、花は紅
  (『芸道40周年記念高嶺久枝の会ー琉球芸能の源流を探る』 同会 2009.12)
<平良昌代の芸>
・舞いの想 (『ひと』)
  (『第一回 琉舞 華の会 平良昌代の会』 琉舞 華の会 平良昌代練場 1991.7)
<佐渡國鼓童>
・私の「鼓童」体験 (『ひと』)
  (「琉球新報」1983.2.25)
・「鼓童」ショックの意味ー八重山公演に寄せて (『ひと』)
  (「八重山毎日新聞」1983.3.23)
 ・天台声明の世界ー琉球芸能との関わりを求めてー(1995.12 佐敷町シュガーホール)
 ・天台声明と琉球舞踊の共演ー東京版(2003.12 大正大学)
 ・あふれる香気ー琉球民謡歌手・大城美佐子さんのこと
<書く><読む>
 ・なぜ「読む」か
  (「沖縄タイムス」2007.4.22)
 ・文学に見るノロとその神ー神島-小論 (『ひと』)
  (『沖縄文化』32号 1970.11)
 ・雑誌『新沖縄文学』が問いかけるものー状況への対峙と基層を掘る作業
  (『新沖縄文学』特集号「『新沖縄文学』を総括する」第95号 1993.5)
 ・島尾敏雄著『離島の幸福・離島の不幸』(未来社 1960)
  (『新沖縄文学』特集号「沖縄・戦後の知的所産ー著作・論文にみるアイデンティの変遷」 第91号 1992.3)
 ・南風原町字与那覇誌『うさんしー』書評(「沖縄タイムス」 2004.7.24)
 ・花田俊典著『沖縄はゴジラかー<反>・オリエンタリズム/南島/ヤポネシアー』(2006.5 花書院)
  (書き下ろし)
 ・
仲里効著『オキナワ、イメージの縁(エッジ)』(2007、未来社)評
  (書き下ろし)
 ・知念盛俊著『沖縄ー身近な生き物たち』(沖縄時事出版)
  (「沖縄タイムス」1998.10.16)
 ・松村宗棍「武術稽古の儀」(2015.8 書下ろし)
<沖縄芸能を「読む」>
 ・「組踊」を読む-「執心鐘入」と「手水の縁」の交差するところ  
 ・仮面の美学ー琉球舞踊「シュンドウ(醜童)を読む」 (1) (2)

第Ⅶ部 暮らしと文化の拠点づくり
 ・沖縄の博物館ー戦前・戦後の連続と断絶ー(1)(2)
  (『民衆と社会教育ー戦後沖縄社会教育史研究』 小林文人・平良研一編著 エイデル研究所 1988)
 ・博物館づくりの理念と主体性
   (「沖縄タイムス」1999.9・20/21)
 ・21世紀の博物館 (沖縄県文化振興会機関誌『島の風』6号 1999.2/1)
 ・[沖縄県立博物館・美術館」の開館に思うー「博物館・美術館」とは何か
  (「琉球新報」2008.1.10/1.12/1.14 )
 ・沖縄県立芸術大学を「アジア=沖縄ルネッサンスの拠点」に!
  (「琉球新報」2008.8/29.30) 
 ・地域博物館の試みー南風原文化センター開館の意義
  (「琉球新報」1989.12)
 ・新平和祈念資料館開館に寄せて
  (2000年4月29「琉球新報」掲載文に加筆) 
 ・法律にみる博物館ー壺屋焼物博物館の場合
  (2001.7/16 琉球新報)
 ・那覇市立壺屋焼物博物館の誕生ー焼物を展望する拠点に
  (「沖縄タイムス」1988.1/28・29の末尾を改稿)
 ・「博物館・美術館」ということー中黒「・」の意味ー
  (The Gallery Voice No33号 画廊沖縄 2008.1.12)
 
附録1:「世情」を読む(2005年1月~)

<参考>『沖縄ー暮らしと文化の系譜』 第Ⅰ

2012-07-12 16:17:08 | 著作案
中国・日本文化と沖縄
 中国文化と沖縄ー美術工芸の分野から
  (原題「中国文化と沖縄」 『歴史公論』118号 雄山閣出版 1985.9)
 近世琉球における日本文化の受容ー座敷飾りといけばなー
  (原題「沖縄文化史の一段面ー近世琉球におけるいけばなの受容を巡って」『琉球の歴史と文化ー山本弘文先生還暦記念論文集』 本邦書籍 1985.4)

柳宗悦と沖縄
 柳宗悦論ー沖縄文化論を中心として
  (『新沖縄文学』29号 沖縄タイムス社 1977.7)
 柳民芸論における伝統と現代
  (『新沖縄文学』37号 沖縄タイムス社 1977.12)
 沖縄と近代ー柳民芸論から
  (「沖縄タイムス」 1977.12)

沖縄の染織文化
 紅型の話(原題「解説紅型」)
  (『染織の美』第6号 京都書院 1980.8)
 城間栄喜・人と作品
  (『城間栄喜作品集』 京都書院 1978.11)
 喜如嘉の芭蕉布
  (『喜如嘉の芭蕉布』(講談社 1977.10)
 沖縄の藍覚書ー蓼藍・インド藍・琉球藍をめぐって
  (『えとのす』第10号 新日本教育図書 1977.10)

沖縄の美雑感
 芭蕉布と荒焼
  (『やちむん』第4号 やちむん会 1973.12)
 カーミの復権
  (沖縄タイムス「唐獅子」 1973.7)
 民芸品
  (「同上」 同上)
 紺地と浅地
  (「同上」 1974.2)
 かすりの世界
  (「同上」 1974.3) 

書評
 柳宗悦著『沖縄の伝統』(柳宗悦全集第15巻)
  (「沖縄タイムス」 1981.11)
 大城立裕・安次富長昭編『沖縄の工芸ー伝統と現代』
  (「沖縄タイムス」1984.10)

展評
 城間栄喜・栄順親子展
  (「沖縄タイムス」 1984.9)
 平良敏子・大城志津子・藤村玲子三人展
  (『沖縄の染と織ー三人展』 1983.5) 

 下地正宏作陶展
 (「琉球新報」 1985.8)
 赤・アカマタ・表現ー新城剛個展に寄せて
 (「沖縄タイムス」 1983.8)

あとがき
                                                                                        (『沖縄の文化ー美術工芸の周辺から』ひるぎ社 1986.3)
                                                                                        (おきなわ文庫 2012.7

沖縄の経塚・経碑

2012-07-12 13:47:00 | 著作案
はじめに 現存する経塚・経碑 散逸した経碑 比較と考察

はじめに
 
 首里から浦添に通じるバス道路をしばらく行って首里を抜けると、まもなく経塚という名の集落に至る。バス道路が右にカーブする地点で、左側にまっすぐ細い道が伸びていて、これは旧道である。旧道を50メートルも歩くと、右手の小高い丘に石碑が建っていて、一帯は拝所になっていることがわかる。碑には「金剛嶺」と刻まれている。
 
 この碑は、『浦添市史』第3巻によると、俗に「経塚の碑」と呼ばれ、土地の人々は氏神として尊崇参拝し、旧10月1日には例祭が執り行われるという。また、この一帯は「ウチョーモー」(お経を埋めた野原)とも呼ばれ、地震の際、この地だけはけっして揺れないと言われ、「チョーチカチカ」を3度唱えると被災しないとも伝えられているとのことである。「チョーチカ」は「きょーつか」がなまったものと見られている。

 沖縄で、経塚に関連する地名を持つのはこの地だけであり、経塚に関する調査・研究も少ない。これまでの報告を二、三紹介すると、まず八重山石垣市富崎にあったとされる妙法蓮華経碑に関する喜舎場永氏と宮良賢貞氏の論争があり、当事者の一人宮良氏の論説が氏の『八重山芸能と民俗』に3篇収録されている。氏は、『球陽』に記録される桃林寺住職義翁建立の経塚は、近世日本で盛行した「一字一石経」経塚であり、本島の経塚(事例として浦添の経塚と首里西来院の経碑)もこの部類に属すると述べている。(1)

 一方、宮家準氏は、「遊行宗教者ー山伏の跡を求めて」の中であらまし次のように述べている。

 琉球の遊行宗教者の足跡には、彼らが修験僧と密接な関係を持っていた、あるいは修験者地震であったかもしれないと推測せしめる多くのものがある。まず、大蛇退治の伝説がある。これは、基本的には修験僧が土地の悪霊を封じ込めて鎮める力を持つという信仰に根ざしている。経塚の造塔も同様の信仰に根ざす宗教活動である。経塚造塔の大部分は除魔の目的で経石、金剛般若経などの経を納めたものである。似たような話で、宮古狩俣で空海が刀を土中におさめたとする伝承がある。これらはいずれも、地霊を鎮める目的で地中に経石、経・刀などをおさめて埋める修験道の信仰と類似している。(2)

 多田孝正氏は、「浦添経塚について」において、他の地に建つ経塚・経碑・梵字碑等の伝承、記録を比較しながら、考察を加えておられるが(3)、氏の所説については、後で触れることにしたい。

 本稿では、沖縄県教育委員会文化課が昭和58年度、59年度の2年がかりで調査した金石分遺品調査の調査実務、および報告者編集担当者として、筆者が得た若干の知見を述べてみたい。(4)なお、本稿で述べる経塚については、いずれも正式な発掘調査が行われたことはない。関秀夫氏は「経碑は単なる経典を書写したことを記念するために建立する場合もあり、地下埋納の経石の確認調査が行われないものについては、一石経塚とはいえないものであろう」と述べておられる。(5)本稿も近世琉球の経塚・経碑が一字一石経の系列にあることを述べんとするものではあるが、経石の確認がない現段階では、あくまで仮説的な論考である。

現存する経塚・経碑

 ところで、浦添の経塚は文献にも記載がある。たとえば、『琉球国旧記』(1731)では、「経墓」の見出しで次のように記されている。 

 昔日、此地多妖怪、時時出来、詐変状貌、屡悩行路人、時有日秀上人、写経于小石、蔵之于小石、即建碑石、以圧之、碑石有大書、金剛嶺三字、自此而来、妖怪不復起、而行旅之人、亦楽往還之安御焉。

 昔、この地に「妖怪」が出没し、しばしば往来する人々を悩ませた。時に日秀上人という人がいて、小石に経文を筆写してこの山に埋め、その上に碑石を建てて「金剛嶺」の三字を大書したところ、妖怪は再び現れることなく、人々は安心して往還した、というのである。『琉球国由来記』(1713)はでは「窃ニ思フニ、日秀上人、当国滞在之時、金剛経書写シ玉ヒテ、為被埋歟」として、経名まであげている。
 日秀については、島尻勝太郎(6)、宮家準(7)、多田孝正(8)、氏等の考察があり、ここで詳述はしないが、1503年、上野もしくは加賀の出自で、尚真時代、16世紀の初めに来琉し、多くの仏教的事跡を残して、20余年後に薩摩に渡っている。宮家、多田両氏は日秀を琉球に数多く渡来した高野聖の1人と推測している点で一致している。

 浦添の経碑には「金剛嶺」と記されるのみで、建碑者も建碑年も書かれていない。現存する経碑中、建碑者・建碑年が明記されているものでもっとも古いのは、沖縄本島北部国頭村奥間の「金剛山碑」である。同碑は正面に「金剛山」と刻され、向かって左側面下段に次の碑文が刻まれている。

 康煕四十五年丙戌八月十四日国頭奥間村江参り向氏国頭親方朝稘公請我がるまをさせ給也 其志誠以難申述候 我無徳ニ而別ニ無可謝恩為結縁経墓相企候ニ付老若男女相喜浜ニ至り過分ニ石を拾い聚候 依之がるまの余ニ奉書写金剛経也
 願ハ此功徳を以て朝稘公及間切中老若男女等ニ至迄無病息災延命ニ而弥児孫繁栄 東峰拝書

 碑文の内容は、康煕45(1706)年8月14日に、国頭間切奥間村に来たところ、国頭親方朝稘公より「がるま」を請われた。その志の深さは誠に申し述べがたく、自分は無徳で、別に謝恩の意思を表明できるものもないので、人々に仏縁を結ぼうと「経墓」を建てることを企てた。そうしたところ、老若男女皆ともに相喜び、浜に行って多くの小石を拾い集めて来た。そこで、「がるま之余」にこれらの小石に「金剛経」を書写し、奉納した。願わくばこの功徳によって朝稘公始め間切中の老若男女に至るまで、無病息災、延命にして、子孫もいよいよ繁栄せんことを、というものである。

 「がるま」は、仏教儀礼のようだが、意味不明。この碑は社殿の中に「南無阿弥陀仏」と刻まれた同室石材の碑と並べて建てられていて、奥間集落の拝所になっている。現在は定例の祭りはないが、戦前から終戦直後にかけては、10月15日が例祭で、村・字で祭ったという。個人的にも旅に出たり、出征のときは、集落を離れている間の健康と無事を祈願し、また子供が生まれたときは、奥間の浜から小石を拾ってきて、ここに奉納したという。

 奥間の人で碑文の詳しい内容を知る人はなく、筆者の東峰という人物も知られていない。ただ、碑の建立された10月5日を例祭としていたこと、健康祈願や生まれた子供の無事・長命を祈願したというところに、僧東峰の経塚を築いた意図が貫かれていることをかいま見ることができる。興味深いのは『沖縄県国頭郡志』でここを俗に経塚と言い、日秀上人の建立だと伝えられていると記されていることである。(9)
碑文から経塚築造および経碑の建立年、そして築造の当事者まで明らかであるにもかかわらず、各地を巡行し、多くの事跡を残したとされる日秀上人に付会して語り伝えられていたところに、著名な仏教的遊行者が、伝説世界に進入する有様がうかがえておもしろい。

 東峰は、東恩納寛惇の『南島風土記』によれば、首里万松院不羈の弟子元仁のことで、名護に万松院を創建し、首里の万松院は蓮華院と改められた。不羈は脱心(諱祖頴)の雅号で、詩をよくしたが、弟子の元仁も詩才があり、東峰はその雅号だという。(10)尚敬王の冊封副使徐保光が「為東峰上人賦」として詠んだ「天授山万松院歌」が、彼が著した『中山伝信録』に収録されている。なお、『琉球国由来記』を見ると、東峰は天王寺、天界寺、崇元寺、安国寺の住持も勤めている。

 「金剛経」を小石に書写し、経塚を築いて碑を建てたと見られる事例は、伊江村にもある。現在は伊江村教育委員会に保管されているが、もと照太寺にあったと言われる「金剛尊経碑」である。同碑は表に「金剛尊経」と刻まれ、裏に「乾隆三十九年甲午三月吉旦 棟山盥手書之一石三拝建立」とある。1774年の建立で、棟山は『伊江村史』によれば、1772年から1775年まで照太寺の住持を勤めている。照太寺は臨済宗に属する寺で、尚清王時代(1527~1555)の創建と伝えられる。

 首里の西来院達磨寺庭に建つ碑は、細粒砂岩製で剥離がひどいが、現在台湾大学に残る戦前の拓本を参照しつつ見ていくと、碑の表には中央に「妙法蓮華経全部」と大書され、その下に「謹奉書写一字一拝太本敬立」と記されている。その両側には、国頭村奥間の「金剛山」碑と同じ法華経「化城喩品」中の偈文「願以此功徳云々」が刻まれている。裏文は、剥離が進んで、判読不能な箇所が少なからずあり、全文の解読は不可能だが、僧古関太本が仏道帰依について半生を振り返り、「児孫」の仏道成就を祈願する旨を述べたものと推察される。法華経「法師品」には、法華経を書写することの功徳が説かれている。

 古関については、『球陽』に記事がある。尚穆9(1760)年の条に「古関和尚、奏して天徳山号を改め、併せて禅鑑師の木主を設く」(原漢文)と題して、古関が国王に奏して浦添にある天徳山龍福寺の山号寺名を元のとおり「補陀洛山極楽寺」と改称し、開祖禅鑑の神主を寺内に設置したことが、書かれている。(11)古関が臨済宗の僧侶であったことは、龍福寺が禅宗の寺院であること(『琉球国由来記』など)によって知ることができる。王国時代に公認された仏教宗派は「真言宗」と「臨在宗」に限られていたからである。碑文中の「丙申」という干支と、『球陽』の記事から建碑念は1776年と推測される。この碑が建つ西来院は菊隠(?~1620)の創建で、もと首里上儀保村にあったが、100年ほど前に現在地に移転したという。この碑文が本来西来院にあったものかどうか不明である。碑文中に「当山」とあるが、それがどの寺を指すかも明らかでない。

 経碑と考えられるものが、もう一基宮古平良市(現宮古島市)にある。祥雲寺に隣接する観音堂の境内に建つもので、表に「経呪嶺」と大書され、裏には「雍正丙辰冬白川氏恵道建焉」と記されている。1736年、白川氏恵道によって建立されたもので、恵道は1731年から1737年まで平良の頭職を務めており、在任中に建てられたものである。経文の呪力によって願意を成就しようとしたものだろうが、経名や建碑の趣旨は明らかでない。島の役人として首里に上る機会もあっただろうし、観音堂の境内に建つところからすると、あるいは航海の安全を祈願して建てたものか。


(1)「富崎経塚記」「続・富崎経塚記」「富崎観音堂経塚塔婆面の刻字について」宮良賢貞『八重山芸能と民俗』(根元書房 1979)
(2)宮家準「遊行宗教者ー山伏の跡を求めて」窪徳忠編『沖縄の外来宗教』 弘文堂 1978)
(3)多田孝正「浦添経塚について」沖縄県教育委員会編『沖縄県歴史の道調査報告書』 1985)
(4)本稿における経碑の資料は、ことわらない限り同調査の報告書『金石文ー歴史資料調査報告書?』(沖縄県教育委員会 1985)に収録されたものを利用している。
(5)関秀夫「歴史考古学の現状と課題?ー宗教の諸相」板詰秀一・森郁夫編『日本歴史考古学を学ぶ』中 有斐閣 1986)
(6)島尻勝太郎「護国寺の創建と日秀上人」『沖縄大学紀要』第1号(同大学 1980)
(7)宮家準前掲論文。
(8)多田孝正前掲論文。
(9)島袋源一郎『沖縄県国頭郡志』(大正8)
(10)東恩納寛惇『南島風土記』「蓮華院」の項。
(11)球陽研究会編『球陽』(角川書店 1974)


散逸した経碑

 文献に見えながら、現存が確認されないか、残欠のみの経碑ないし経塚がある。
『球陽』の尚敬27(1739)年に「経塚並びに一堂を八重山島富崎に営建す」と題する次の記述が見える。

富崎浦は、常に船隻往還する所の処なり。是を以て桃林寺住僧義翁長老、海上安瀾の為に、塚を此に建つ。乃ち記して曰く、妙法蓮華経全部を一字一石に書写し奉ると。又、乾隆七年、順天氏西表首里大屋子真香、其の一堂を造営す。(原漢文)

 桃林寺の創建は1614年で、臨在宗妙心寺派の寺として今日に至っている。義翁が何代の住職か不明だが、現存仁王像の背面に刻された「奉喜捨 現住義翁代 当所頭並諸役人 維時雍正十五歳在丁巳作 (以下略)」中の「義翁」と同一人物であろう。「正十五歳」は1737年に当たる。

 戦後、この経塚の性格について地元石垣市で論争が行なわれている。喜舎場永氏と宮良賢貞氏の間で行なわれたもので、宮良氏の批判は、喜舎場氏が「(義翁)が妙法蓮華経の全文を一字一石毎に書写して土中に埋めて、その上に石碑を建て、南無妙法蓮華経の七字を刻して経塚といって創建したのである。これが八重山での日蓮宗の芽生えである」(12)、と述べたことに対して加えられた。批判の主旨は、はたして法華経の「全文」を書写したかどうかと、禅宗の寺院桃林寺の僧義翁が日蓮宗の題目である「南無妙法蓮華経」を刻したことの是非である。

当該地の発掘調査がなされておらず、また宮良氏が観音堂の裏山から発掘した経碑と見られるものの残欠は文字の部分を欠いているため、十分な批判たりえていないが、少なくとも『球陽』記述では「妙法蓮華経全部」とあって「南無」の字は見えないこと、また当時の琉球にあっては、仏教宗派の布教は真言宗と臨在宗に限られていて、日蓮宗他は禁制となっていたことからして、また前述したように臨済宗の首里西来院に同じく「妙法蓮華経全部」と記され、「一字」毎に「一拝」して書写し、奉じた旨の記述が施されている1776年建立の経碑が現存することから、そして法華経は日蓮宗に限らず優れた大乗経典として天台宗を始め、他の宗派でも珍重されていることからして、「日蓮宗の芽生え」とするのは、勇み足の感が否めない。

桃林寺の住持が境内に経塚を築いたとする記事が、もう一篇『球陽』にある。尚敬30(1742)年の項に、「経塚を八重山島桃林寺の囲中に営建す」と題するものである。

八重山島桃林寺の住僧徹道長老、衆人の為に災いを除き、福を祈りて此の塚を建つ。乃ち記に曰く、金剛般若経全部を一字一石に書写し奉ると。(原漢文)

この経塚も現存しない。

 戦前の沖縄図書館や郷土博物館の資料目録をめくると、経碑らしきものの拓本が見える。いずれも原碑、拓本ともに存在しない。

1. 妙法蓮華経碑   一品三拝  脱心  康熙30(1691)年
                『郷土誌料目録』(昭和4年3月 沖縄県立沖縄図書館)
※脱心(祖頴)(1632~1697)は、尚貞王時代の冊封使汪楫滞在時(1683年)の万松院3世住持で、隠遁した後を弟子の徳叟に譲り、院号はもう1人の弟子東峰(元仁)に譲った。雅号を不羈と称し、詩を良くしたことは既述の通りである。脱心の略歴は、真境名安興著『沖縄一千年史』にも記されている。
2. 一品三拝   首里蓮華院   康熙31(1692)年
                『沖縄県教育会附郷土博物館目録』(昭和14年11月 同館)
3. 妙法蓮華経碑   一石一字拝   祖頴 
                  前記『郷土誌料目録』
4. 一石一字拝  首里蓮華院  康熙31年
※以上4基のうち、1と2、3と4は、それぞれ同一経碑と考えられる。
5.金剛土   弁ヶ嶽   康熙52(1713)年
                  前記『郷土博物館目録』
※真栄平房敬氏によれば、戦前弁ヶ嶽頂上に石碑が建っていたという話を古老から聞いたことがあるが、何と記されていたか記憶していないと言っておられたとのことである。
6.妙法蓮華経   那覇市若狭町  乾隆41(1776)年
                  『郷土博物館目録』
7.妙法蓮華経   首里市鳥堀町   嘉慶3(1798)年

比較と考察

 現存する経碑、散逸した経碑を含め、建碑年、経碑名、建碑者、建立場所、建立目的、出典などを表記すると、別表の通りとなる。
 経塚・経碑の歴史的、仏教史的意義については、今後の発掘調査の結果を待たなければならず、また今回の金石文調査で初めて全県的な分布が明らかになった梵字碑や、他の仏教関係石碑?、史跡なども含めて総合的な考察が必要であり、現在の筆者の手に負える課題ではない。ここでは、とりあえず既出資料から直接的に判断できる分を整理してみたい。既述は、建碑年・ 経碑名: 納経名・ 建碑者・ 建立場所・建立目的・備考(現存もしくは記載文献)の順である。


不明    金剛嶺碑    金剛経?    日秀上人?   浦添市経塚     除魔・伏魔   現存
1691    妙法蓮華経碑(一品三拝)   法華経    脱心    不明    不明    『誌』
1692    一品三拝   不明   不明     首里蓮華院   不明     『博』
不明    妙法蓮華経碑(一石一字拝)        法華経    祖頴(脱心)   不明    不明    『誌』
1692    一石一字拝      不明    不明    首里蓮華院    不明    『博』
1706    金剛山碑      金剛経    東峰    国頭村奥間    無病・息災・延命   現存
1713    金剛土 金剛経?    不明     首里弁ヶ嶽    不明    『博』
1736    経呪嶺碑      不明    白川氏恵道    現平良市観音堂     航行安全?    現存
1739    妙法蓮華経全部碑      法華経    桃林寺僧義翁   石垣島富崎    航行安全    『球陽』
1742    金剛般若経全部碑    金剛般若経    桃林寺僧徹道   石垣島桃林寺    除災・招福    『球陽』
1774    金剛尊経碑      金剛経?    照太寺僧棟山   伊江島照太寺   不明    現存(村教委)
1776    妙法蓮華経全部碑      法華経    古関太本    不明    仏道成就      現存(首里西来院)
1776    妙法蓮華経      法華経    不明    那覇市若狭町    不明    『博』
1798    妙法蓮華経      法華経    不明    首里鳥堀町    不明    『博』

 ところで、多田孝正氏は「浦添経塚について」において、国頭村奥間の「金剛山)碑、伊江村の「金剛尊経」碑、北中城村島袋の「諸尊供養碑」、県立博物館の梵字碑等と、日秀上人についての伝承・研究等を比較、考察したうえで、造営・建碑者を必ずしも日秀に限定する必要はない。日秀は高野聖の1人と考えられるが、造営・建碑者は別の高野聖であって、日秀が傑出していたためにたまたま彼の事績に付会されて伝えられたことも十分考えられる、と述べている。表では、冒頭に浦添の経塚を挙げたが、国頭村奥間の「金剛山」碑の建碑者が碑文から「東峰」であることが明らかであるにもかかわらず、日秀上人の建立として語られている事例や、多田氏の考察などからして、日秀以外の建碑と考えてもおかしくはない。

 建碑年を見ると、浦添の経塚を除けば、1691年から1798年の百余年の間に建てられている。この点については、後ほど考察を加えることにして、建碑者は、明らかな分について見る限り、宮古の頭役白川氏恵道を除けばいずれも僧侶で、しかも日秀以外ではすべて禅宗(臨在宗)の僧侶と考えられる。宮古唯一の寺院祥雲寺も臨在宗であったから、隣接する観音堂に残る「経呪嶺」碑の建立にも同寺の住僧が関わったと推測される。とはいえ、地方役人が「奉納」したこと、さらには国頭村奥間において地元の「地頭」の依願で建立が実現し、それに住民が参加した、とする事例もあわせて考えてみると、檀家制度が存しなかった近世琉球において「現世利益」を媒介として仏教側からする布教の姿と、民衆側からする受容のあり方の一例を示すものとして、注目されてよいであろう。

 埋納経では、金剛般若経が一例、「金剛経」もしくはそれと見られるものが4例である。中村元・紀野一義訳注『般若心経・金剛般若経』(岩波書店)の解題によると「金剛経」は「金剛般若経」の略称である。法華経は6例となっている。経塚築造ないし経碑建立の場所では、寺院内の他に観音堂境内、村境、拝所等となっている。建立の目的は除魔・伏魔、無病・息災・延命、航行安全、除災・招福、仏道成就祈願等いろいろあるが、総じて現世利益的となっているのは、前述の通りである。

 ここで、金剛般若経や法華経を埋納する経塚について、他県の事例を垣間見ることにしよう。法華経を埋納するのは古代、中世、近世の如何を問わず、一般的であったようだが、金剛般若経についてはどのようなものであろうか。兜木正享氏著『経塚埋納の経典』にこの経の名が見えるが(13)、古代に限られている。中世、近世における金剛般若経埋納の全国的な報告を知らないので論及は控えるが、試みに琉球と歴史的・文化的に関係の深かった薩摩の事例を、眼に触れた限りで紹介しておきたい。
 金剛般若経埋納の事例が、『鹿児島市史』3巻所収「鹿児島の金石文」に坂元町の経碑として紹介されている。
 奉納石写金剛般若経一誦
  宝暦十年 八月彼岸日
     有無軒観水直計
     実相軒文教志
 国家長久 子孫繁昌 宿願此山 永離塵網(14)
 宝暦10年は1760年に当たる。同書に記載される次の例も金剛般若経のことであろう。川上町にあるもので、1730年の建立である。
 奉発願文及般若経全部一石一字供養
  享保十五年庚戌二月一五日
                      願主密山己龍謹白(15)
 『川内市史』石塔篇にも、「金剛経」に関する経塚が1例収録されている。田海町堂坂にある経塚は、不動明王の坐像で、台座背面に「上原男女百余名員各捨衣資刻不動尊納金剛経石於台之下而結般若縁也」、その側に「宝永三年二月念又八日□□也」と刻まれているという。註では、昔この坂に妖怪が出て人々を苦しめたので、その妖怪を退治するために造立されたとある。(16)宝永3年は、1706年に当たる。

 石を集めて「金剛経」と書写し、嶺の頂きに埋めて、その地を「金剛嶺」と称した事例が、『三国名勝図絵』の玉龍山福昌寺の項にある。説明では「金剛嶺 当寺の艮嶺を指す、石屋禅師石を※(あつ)めて金剛経を書写し、是を埋めて、鎮護とす、是なり」となっている。(17)福昌寺は1394年に島津氏七代元久の請により、石屋真梁禅師が開いた寺で、藩主の菩提寺である。絵では、嶺頭に石碑が建っているが、「金剛嶺」と書かれているかどうかは明らかでない。同寺は明治初期の廃仏毀釈により消失したとされ、同碑が現存するかどうかも不明である。とはいえ、鹿児島の禅寺に浦添と同様の経塚が存在したことは、注目に値する。

『三国名勝図絵』には、日秀上人と法華経経塚に関する記事もあるので、簡単に紹介しておきたい。「善光寺、西寿院」の項によると、同寺は日秀上人の開山になるが、現在地は後世の移転によるもので、当初は諏方道の篠原氏宅地に建っていた。旧地には供養の石塔が多く建っていたが、現在地に移した。そのなかに、「奉書写法華妙文字一石成就所」と記したものがある。また、往時、篠原氏の宅地の一場所に糞桶を置いたところ、この地がその夜鳴動して光明を放つので、家人が驚いてその地を掘ったところ、法華経の一字一石が埋まっていた。そこで、この字石を納めて善光寺に移したという。(18)

 ところで、経塚の発生当初は紙に書写して経筒に納めるというのが、一般的な形式であり、小石に経文を書写して埋める方式は、一字一石経あるいは礫石経と呼ばれた。三宅敏之氏によると、この形式はすでに鎌倉時代にその形を窺わせる例が見られるものの、全国的に盛行するのは江戸時代だという。そして、経文を小石に書写して埋めたとする旨の石塔や石碑は北海道から鹿児島にいたるまで、随所に見られるとのことである。(19)関秀夫氏によれば、礫石経の経典書写方法としては、法華経を一石一字ずつ墨書した例が多く、多字一石経の例は少ない。(20)

 三宅氏は、「経塚ー遺跡と遺構」において、近年ようやく礫石経経塚に対する関心が高まり、調査・研究が進められて来てはいるが、まだ十分とは言い得ないとして、現時点における概要を次のように述べておられる。(21)
 造営の位置は、社寺の境内やその近辺の他、街道筋にも多く見られ、外見からは標識を立てたものが相当数ある。その事例のもっとも早いと考えられるのは暦応2(1339)年の大分県大野郡朝地町上尾塚のは近く石幢で、正面に「浄土三部経一石一字」と刻されているが、経を埋納したとする記述はなく、発掘もまだ行なわれていない。近世の礫石経経塚では、「法華経」、(一字一石)、「石経」などと記した碑石が、各地に多く遺存している。碑石があれば、その大部分は礫石経が埋納されていることが予想されるが、調査は十分進んでいない。

 また、関秀夫氏は『経塚』において、埋経の願意について、追善供養や現世利益のものがかなり多く見られる、と述べている。(22)氏は続けて、近世の礫石経経塚が、中世までに造営されてきた紙本経の経塚と大きく異なる点を、経塚の造営に多数の庶民が直接参加できるようになったことだと述べ、次のように結んでいる。「全国いたるところに、一字一石経の埋納を伝える口碑や経碑が残るが、これも、一紙半銭をもって手軽に経塚の営造に参加し、多数の人と多量の経石をもって功徳の増大をはかることのできる多数作善の思想が、庶民にたやすく受容され、一字一石の経塚を広範囲に広め得たものと考えられる。」国頭村奥間の「金剛山」碑の事例と比較して興味を引かれるところである。

まとめにかえて

 冒頭で述べたように、沖縄の経塚については、発掘調査が行われたことがなく、経文を書いた小石が出土したという話も聞かない。しかし、本稿で紹介した沖縄の資料の範囲で日本本土の礫石経(一字一石経)経塚の場合と比較すると、鹿児島で金剛般若経と法華経の埋納事例が見られる点や、『新版仏教考古学講座』6巻に三宅氏が執筆した「経塚遺物年表」において、経碑と礫石経が並行して多出するのは1709年以降で、以後この形が主流を占めることからして、また薩摩と琉球の深い歴史関係から見ても、礫石経(一字一石経)経塚の伝播が薩摩経由であった、と推定するのは不可能ではない。ただし、その実証は今後を待つ他ない。


(12)喜舎場永『八重山歴史』(1978 復刊)p187
(13)『考古学ジャーナル』第153号(1978 ニュー・サイエンス社)
(14)『鹿児島市史』(同史編纂委員会編 1971) p756
(15)『鹿児島市史』p754
(16)『川内市史』石塔篇(川内郷土史編纂委員会編 1974) p217
(17)『三国名勝図絵』第1巻(1982 青潮社)p335
(18)(17)掲載書p247
(19)『経塚論攷』(1982 雄山閣出版) p331
(20)『経塚』(1985 ニュー・サイエンス社) p93
(21)『新版仏教考古学講座』第6巻(再版 1984 雄山閣出版) pp160~164
(22)『経塚』 p93
(23)『経塚』 p94

島尾敏雄『離島の幸福・離島の不幸』(1960、未来社)

2012-07-11 14:22:46 | 著作案
 この著作が、作家島尾敏雄にとって最初の「南島論」であることを知る人は、彼の「ヤポネシア論」を知る人の数にくらべれば、たぶん少ない。「Ⅰ名瀬だより」と「Ⅱ南島での覚え書き」の2部で構成される内容を分類するならば、おおまかにⅠを奄美の<風土記><民俗誌><歴史物語>、Ⅱを三者を踏まえた<南島論>と分けることができる。さらに、著作全体から「ヤポネシア論」の原型を見てとることも可能であろう。とはいえ、この本はけっして「原型」として持つ意義だけで評価されてはならない。1950年代後半のアマミの時代と社会を描写する優れた<南島誌>として、固有の価値がある。

 島尾は、先の戦争のとき、人間魚雷艇部隊の隊長として、一時期このアマミに滞在したことがある。彼は、その間に島の娘と恋をした。戦後、その娘と結婚して作家生活を再開したが、妻の病気との闘いに疲れ果て、10年後に妻の静養も兼ねて家族ぐるみでアマミに戻ってきた。福島県出身の両親を親に持つ島尾は、少年のときから南の島々に憧れていたという。そこは「なにかわくわくするような桃源郷」であった。彼には本州が「単調で退屈な場所」でしかなく、「どの部分に行ってみても単一の生活感情がわだかまっていて似たような服装と平板な言葉でおさえつけられている」としか感じられなかった。しかし「日本国をのがれることを為し得ない」。だとするなら「同じ国家の中において多彩な異なった要素が混交しぶつかり摩擦し合う興奮を経験する」場を求める他ない。

 奄美の中心地名瀬に生活の拠点を構えることになった島尾は、今度は「この島のあらゆる現象が私の生活を豊かにするか、おびやかしてくるかのどちらかだ」という事態に直面する。島尾を豊かにするのは、「日本列島の初発の文化形式」が今なお残されている「日本の古俗の宝庫」としての島々だ。そして彼をおびやかすのは、来島直後から急速に変貌を始めた街並みと人々の生活文化の変容である。たとえば、ときたま町中に鳴り響く拡声器のぶしつけで押しつけがましい音、一日中流れっぱなしの親子ラジオの声。あるいは、表現豊かで典雅な伝統語が滅んで、方言と「内地」の言葉があやしげに混ざり合い、できあがっていく「名瀬普通語」の普及。それらは、島々の「近代化」を謳歌する人々の歓喜の叫びだったはずだが、昭和10年代に沖縄を訪れて「日本の古俗」に驚嘆し、その「変容」に異議を呈した柳宗悦のそれとつながる「文明の旅人」の立ち位置であった。しかしいずれにせよ、島尾にとってそれらの「音」や「声」は、「離島の不幸」に映った。

 戦争中はただ古事記さながらに見えていた島々の近代的変容は、島にも相応の歴史があることを明かすものである。振り返ってみれば、アマミにも琉球と薩摩の間にはさまれて、島々の外との間で続いてきた交流と軋轢の物語があり、島々の内部で伝えられ、あるいはそれらが変遷を重ねながら作り上げてきた幾重もの層が横たわっている。だから島尾は、古代と現代が入り組みながら当面する島々の過酷な現実を記録することが、おのれに課された使命でもあると宣言するかのようだ。それは同時に、「貧しさと分かちがたくからみ合って」はいるが、「本来この島の生活の底に流れている強靭な何か」「つとこころをとらえて放さぬ底光りのするもの」、あるいは日本本土には失われた「生命のおどろきに対するみずみずしい感覚」を「古くからこの島に住みついた人々の生活から見出す」ことでもあった。この表現に、本著発行の前年に沖縄の島々を訪れ、得もいえぬ感銘をうけてこの年60年に『中央公論』に紀行文を連載、後に『忘れられた日本ー沖縄文化論』(中央公論社)として刊行した岡本太郎の文脈に通じるものを、見出すことはたやすい。「ここはおそらく一個の歴史の試験管であり解き目なのだ」と述べる言葉は、大学で歴史学を専攻した者の発言ととることもできよう。しかし、それだけなら、島人の生活と歴史のひだを細やかに描く記録者として名が残るのみである。記録を支える視座ないし思想がここで浮かび上がってくる。

 1959年1月に地元紙に書いた一文で彼は、「アマミ」のことを知るためにはトカラ列島や大隅、薩摩から、より関係の濃い沖縄、宮古、八重山のことまで分からなければならないし、さらに太平洋を視野に入れたうえで、たとえばインドネシアやポリネシアなどのたくさんの島々で繰り広げられる生活と文化の了解が、「われわれの島々」ばかりでなく日本の姿を明らかにするだろうと述べている。一方では「沖縄を見失うことはわれわれの枯渇だ」として、「やはり日本列島は北方の千島列島と南方の南西諸島によるけん引がなければちぢかまりくぐまったふぐ者になってしまう」とも記している。「白い昼と青い夜」に包まれる島々が、孤立的で差異に満ちていればこそ、この南の列島をひとまとめにして、しかも「日本という世界の一地域」としての考察が求められてくるとする主張から、「ヤポネシアと琉球弧」の思想に至る距離は長くない。「日本」の「外」に置かれながら、「日本」を基層において「内包」しているにも関わらず、それが「表層」においては「日本」との「差異」を現出する。その「差異」性を前面に立てて硬直化した「日本」を相対化し、柔構造にしようという提案は、後の吉本隆明「異族の論理」や、新川明の「反国家の狂区」をに先行し、あるいは先導したかも知れない思想であった。

 しかし、というより、にも関わらずというべきだろうか。次に引く島尾の言葉は、当の島の人々が<ヤポネシア>の成立する根拠を、自らつき崩す存在でもあることを示唆している。「閉鎖しておくと、ひとつのひとりだちした文化をつくりあげ、解放するとその抵抗のエネルギーを霧散させてしまうのだろうか」。「言葉などをふくめて孤島のひとりだちした文化を続かせるためには孤島を閉じこめて置かねばならないことも起こってくる。しかし孤島民の多くにとってはそのことに耐えることができない」。近代の「日本」・「国家」の枠組みにおいては、アマミ・沖縄双方において現象する<差異>は、「落差」と見なされ、「本土並み」に「解消」されるべきものと見なされてきた。「国家」側からのみならず「地元」から望むところでもあった。その差異は、<近代>と<前近代>の「落差」でもあったが、この差異を巧みに使い分けたのが、沖縄を直接統治する米軍の「差別」論理であり、実はそれを裏で支えていた「日本」「国家」でもあったことは、「復帰」前のみならず、その後の両国による基地政策から見ても、明瞭である。<差異>を保持しつつ「反・差別」の論理を如何に提示できるか。ヤポネシア論の延長に琉球弧の像を結ぼうとする私たちに残された課題でもある。(2805字)

                                                                                (『新沖縄文学』91号 沖縄タイムス社 1992.3)