松村宗棍「武術稽古の儀」

2015-08-15 07:07:34 | 著作案



松村宗棍「武術稽古の儀」
2015.8 渡名喜明読解


 実に久しぶりという他ないのだが、古文書の草書体(くずし字)を再学習することにした。ここで取り上げたテキストは「松村武長」の書簡。故・真栄城勇氏収集、提供は喜佐子夫人。松村武長については後述とする。読み違いもあろうかと思うが、原文コピーを添えてわたしの読解を記す。写真は、画像をクリックすると大写しとなる。



武術稽古之(儀) 其味を知らすんは あるへからす 依て 覚悟之程申し喩候間 得と吟味可致候 さて文武之道 同一理也 文武共其道三ツ有 文道ニ三ツと申ハ 詞章之学 訓詁之学 儒者之学と申候 詞章之
(武術稽古については、その味わいを知らなくてはなりません。よって、覚悟のほどを申しただしますので 得と吟味を致すようにしてください。さて、「文武の道」とは同一の「理(ことわり)」よりなっております。文武、いずれもその道は三つあります。「文道」に三つあると申しますのは、「詞章の学」、「訓詁の学」、「儒者の学」と申します。「詞章の)



学と申ハ 但語言を綴緝 文辞を造作して 科名爵録之計を求め候迄ニ而 訓詁之学者 経書之義理を見究ミ 人を教る而巳之心得ニ而 道に通事 入精不申候 右之両学者 只文芸之挙を得候迄ニ而 正當之学問与ハ難申候 儒者之学者
(学」と申しますのは、ただ言葉を綴り集め、文言をつくって、「科名」、爵位、俸禄を計り求めるだけのものであり、「訓詁の学」は、「四書五経」の義理を見究め、人を教えるだけの心得でありまして、道に通じる点においては、精が入りません。右の二つの学問は、ただ文芸の向上につながるだけのことで、正当な学問とは申しにくいのであります。「儒者の学」は、)



道に通て 物を格 知を致 意を誠ニし 心を正し 推て以て家を斉 国を治 天下を平にするニ至り 是正当之学問ニ而 儒者学之候 武道ニ三ツとハ 学士之武芸 名目の武芸 武道の武芸有り 学士の武芸ハ
(道に通じて、物を格とし、知を致し、意を誠にして、心を正し、家を斉しくし、国を治め、天下を平らにするに至っており、これこそ正当の学問であり、儒者の学と申せましょう。武道に三つとは、「学士の武芸」、「名目の武芸」、「武道の武芸」であります。「学士の武芸」は)




頭ニ稽古之仕様相替り 成熟之心入薄 手数計相習 躍之様ニ而 戦守之法不罷成 婦人同人ニ而候 名目の武芸は 実行無之方ゝ致去来 勝事計申 致争論 或人を害し 身を傷び 依事は 親兄ニ茂 恥辱を懸候 武道之武芸ハ 不致放心
(はじめから稽古の仕方が変わっていて、成熟を心がける気持ちも薄く、小手先のことだけ習い、まるで踊りのようで、戦いにおける守りの法とて成しがたく、まるで女性のようです。「名目の武芸」は「実行」せずして右往左往するのみで、勝手ばかり申し、争論いたし、あるいは人を害し、自身を傷つけ、事によっては親兄弟にも恥辱をかけます。「武道の武芸」は他のことに心を奪われないように心がけ、



工夫を以 致成熟 己か心を治て 敵人之乱を待 己か静を以 敵の悴を待 敵の心を奪て 相勝候 成熟相募候ハゝ 妙微相発し 万事相出来候共 撓惑もなし 乱悴もなし 忠孝の場におゐて 猛虎の威勢 鳥の早め 自然と発して 如何成 敵人も打修候 夫武は暴を
(工夫によって成熟いたし、自分の心を治めて、敵の乱れを待ち、おのれの「静」によって、敵の疲れを待ち、敵の心を奪って、勝つのです。成熟が高じて来ますと、「妙微」が発して、どんなことがあっても、惑乱することがなく、心が乱れて疲れることもありません。忠孝の場面においては、猛虎の威勢や、鳥の俊敏な眼が、自ずから現れて、どのような敵といえども、打ち修めるのです。そもそも「武」は「暴」を)



禁 兵を戢 人を保 功を定 民を安 象を和し 財を豊にすと 是武の七徳と申 聖人も称美しられ候段 書ニ相見得候 されは文武之道 一理にて候間 学士名目之武芸ハ無用にして 武道の武芸相嗜候ハゝ 機を見て 変に応し 以可鎮物をと存候間 右の心得にて 致稽古 可然哉存寄も候ハゝ 無腹蔵申聞
(禁じ、兵を戢(おさ)め、人を保ち、功を定め、民を安んじ、象を和やかにし、財を豊かにするとのこと、これ「武の七徳」と申し、聖人も称美してしられますこと、書物にも見えるところでございます。であればこそ「文武の道」は 一つの理でございます。「学士の芸」、「名目の武芸」は無用でありまして、「武道の武芸」を嗜みますれば、機を見、変に応じて、どんな物事も鎮めることができると考えております。そこで、右の心得を持って稽古を致せば、よかろうかと考えてのうえで、腹蔵なく申し上げ)



所希し候 以上
松村武長
  五月十三日
桑江賢弟
((所記?)書きしたためました。以上。    松村武長 5月13日 桑江賢弟(様))

※「松村武長」について、『沖縄大百科事典』を参照して要約してみる。王国時代末期から明治20年代後半にかけての武人。武長は雅号、実名は宗棍。幼少の頃から武芸に励み、17、8歳の頃にはすでに武術界に名を知られていたらしい。尚灝・尚育・尚泰の3王に仕え、公務で中国・福州、薩摩にも出張している。「桑江賢弟」は「桑江良正」のこと。上記文書は「松村宗棍の伝書」として知られている。
※「文」と「武」、いずれにも三つの「道」があるとして、それぞれを紹介し、論じているが、「文の道」では「儒者の学」、「武の道」では「武道の武芸」を評価し、この2つを武術稽古の基底に置くべしと述べている。



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