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祭の聖と俗ー伊是名島の綱引きをめぐって(追録中)

2012-07-09 05:27:06 | 著作案
はじめに

 伊是名島の綱引きが、島で続く稲作儀礼の一環をなしていることは、県内の他例と変わらない。(平敷 1991 )ところが現在では、耕地の大半をサトウキビ畑が占めていて、稲作農家はわずか11軒(1991年)しかない。収穫量も村役場発行の『伊是名村村勢要覧ー平成元年度版』によれば、昭和62年度の生産額は2,500円となっていて、サトウキビの生産額の4億4,400万円に比べて少ない。同じ要覧によって、昭和49年度以降の生産の推移を見ると、昭和50年度の1億100万円をピークにして下降を続け、昭和60年度に1,300円まで下がり、その後やや持ち直しているのが現状である。昭和35年夏に伊是名島を調査した民俗学者植松明石のレポートは、具体的な数字をあげないものの、水稲は島の換金作物の首位を占めていると述べている(植松 1961:30)。

 植松は、1713年に首里王府が編集した『琉球国由来記』に記録される年中祭祀と現行のそれとを比較した結果、当時の祭祀がほとんど何等かの形で続いていると指摘している。植松の報告からでもすでに30年近くが経過していて、しかも当時の戸数が960戸、人口5,300人が、昭和63年12月末で674戸、1,951人と激減しているうえ、産業人口にも大きな変化が見られるから、島の年中祭祀にも相応の変化があることが予想される。管見の範囲でもたとえば、たとえば島の神職は男女とも老齢化が進んでいるように見えるし、神職主体の祭祀の費用に、行政としての字(あざ)単位のバックアップはあっても、増額は期待できそうにない。一方では、字の人々全員が参加対象となる祭もあって、綱引きはその1つである。綱引きの一連の過程は、神職ならぬ区長のヘゲモニーによって進行する。後述するように、島の稲作儀礼を主導するのは、各集落の女性神職であるのに対して、綱引きはそれぞれの拝所への祈願は行なわれるが、拝礼・綱引きともに、区長主導によって執り行われる。綱引きが「農耕儀礼」としての側面を残していることは十分考えられるが、くらべてみると、女性神職主導のそれに「聖」的色合いが濃くて、区長主催の綱引きには「俗」的色合いが濃厚だといえるのである。祭の「祭儀(ritual)性」と「祝祭(festivity) 」性の濃度の違いと言い換えてもよいだろう。前者の「閉鎖性」と後者の「開放性」として、対置することも可能であろう。

 島は今、過疎化の波を押し返すべく、さまざまな試みをしているが、社会資本の整備と並んで、島の人々を結びつける核となるものの模索も続いているように思われる。伊是名村主催による「伊是名まつり」の開催などもそのような試みの1つだろうが、伝統的な<祭>である綱引きとそれを巡る一連の行事は、変容を強いられながらも、集落をまとめる紐帯としての役割を相応に果たしていると考えられる。本稿では、<今>という時点に焦点を当てて、関連資(史)料を援用しながら、島・村(そん)の4字、すなわち伊是名・仲田・勢理客・諸見で挙行される綱引きを概観し、その聖なる側面と俗なる側面について、<祈り><祝福><遊び>の3つの視点から若干の考察を加えてみたい。なお、本稿で「伊是名」と表記する場合は「字」(『琉球国由来記』では「村(むら)」)を指し、小字・内花を含む全村・全島を指すときは「伊是名村(そん)」・伊是名島と表記する。

1 祈り

 伊是名島の綱引きは、旧6月15日の「6月ウマチー」に勢理客、旧6月17日の「ナークチ」に仲田、旧6月25日(カシチー)に諸見と伊是名で挙行される。6月ウマチー、ナークチ、6月カシチー(他の地域によっては「浴ミシ」。後述)いずれもこれから述べるように元来稲作儀礼であるから、綱引きがこれらの期日に行なわれること自体、農耕儀礼の一環としての性格を引き継いでいることは明らかであろう。

 『琉球国由来記』から3つの行事について、それぞれの記述をながめてみる。まず、6月ウマチーは「稲大祭」と記され、「六月、公儀ヨリ日撰、拝ミ申。遊三日ノ事」とあり、さらに「神酒食肴、相調、伊是名里主所、並村オヒヤ・火ノ神御前ヘ、ノロ・掟神申請、御祭仕リ、ヲエカ人・サバクリ、御拝四ツ仕也」と儀礼の内容が説明される。(伊波他 1972:521-522)。ノロは島全体の祭祀に関わる王府任命の女性神職、掟神は集落の祭祀をつかさどる女性神職である。ナークチは同書に「ミヤ口折目」とあるもので、「六月、島中ニテ日撰仕申。遊一日ノ事」「右、苗代始、祝トシテ、神酒食肴、相調、村々神アシアゲニ、タモト座仕リ、ノロ・掟神申請、御祭仕リ、ヲエカ人・サバクリ、御拝四ツ仕也」と記される。「遊」とは農耕作業を休むということ。「里主所」「ヲヒヤ・火ノ神」は拝所、「神アシアゲ」は屋根付きの祭場である。現在、ノロは島外在住で島の祭祀に参加せず、「掟神」も不在で、他の女性神職が中心になって祭祀を営んでいる。記述からウマチーが「収穫祭」、「ミヤ口折目」(ナークチ)が次期作の豊年予祝を記念する祭であることが理解できる。

 また、旧6月25日の行事は、『伊是名村史』下巻によれば、この日「25日ガシチーといって霊前に御飯を供える」という(伊是名村 1989:355)。沖縄本島ではこの日の行事は一般に「6月カシチー」として知られ、「各家庭ではカシチーと称される新米やもち米の強飯とお汁を、火の神や祖霊に供える。部落行事として夜は綱引きが行なわれる」(桃原 1983:989)。一方、湧上元雄はこの行事を「かつての<年浴(としあみ)>にあたり、現在でもアミシまたは浴(ア)みしの御願(ウグヮン)ともいう。」と述べている(湧上 1983a:702)。『琉球国由来記』には島におけるこの祭について「年アメノコト」(六月、公儀ヨリ日撰、拝ミ申。遊ニ日ノ事)として、「神酒食肴、相調、村々神アシアゲニ、タモト座仕リ、ノロ・掟神申請、御祭仕リ、ヲエカ人・サバクリ、御拝四ツ仕也。附。家々炊飯仕、喰申也。」と記されている(伊波他 1972:552-3)。この行事は、記事では王府で吉日を選定して公布することになっているが、同じく王府編集の『球陽』によれば1735年に6月25日と定まったと記されていて、もち米を炊き蒸して飯となし、祖霊に供えるとともに親戚に贈って豊穣を祝うというから、王国の一部ではカシチーを炊く慣習が当時からあったことになる。筆者の見聞では、当日家庭では祖先の霊前にご飯とおかずを供えるものの、すでに「カシチー」「年アミ」などの名前を聞くことはできなかった。平敷によれば、「六月カシチー」のことを島尻のいくつかの町村では「雨乞い祈願」と解されている。そして、沖縄諸島では「6月カシチー」に綱引きを行なう頻度がもっとも高いという。これらの儀礼に参加する「ヲエカ人・サバクリは、先行する「麦穂祭」「麦大祭」の記述からすると、「所々夫地頭・掟」(および「地人」)に相当すると考えられ、「夫地頭」は「間切(まぎり)」(現行の村=村)役人、「掟」は村(むら、現字)の長であることがわかる。それぞれ、女性神職のノロと掟神に対応する。現今では、3つの儀礼のどれにも区長以下の「行政」関係者は参加しない。世話役相当の男性神職だけが参加する。

 『琉球国由来記』記載の3行事を比較してみると、いずれも稲作儀礼であることの他に、いくつかの共通点と相違点がわかる。①日取りが特定されず、②「稲大祭」(現今のウマチー)「年アメ」(同じくカシチー)は「公儀」すなわち王府で、「ミヤ口折目」(ナークチ)は「島」の「番所」(現今の役場)で、年毎に決められる。③いずれも「神酒・食肴」を準備する。神酒(みき)・米飯・おかず、ということだろう。④間切(現今の村=そん)レベル、「むら」(字)レベルの女性神職たるノロと掟神を招請し、「御祭」(神事)を行なう。⑤間切レベル、「むら」レベルの行政担当者が「御拝」を4回行なう。⑥祭場は、「稲大祭」が「伊是名里主所」ならびに「村々ヲヒヤ・火ノ神」となっているのに対して、「ミヤ口」「年アメ」は「村々神アシアゲ」で場所が異なる。期日の選定が国家レベルか、間切レベルか、あるいは「遊」が3日か、2日か、1日かの違いで区分けすると、「稲大祭」・「年アメ」「ミヤ口」の順となるが、あるいはこれらの順位が祭場の違いに現れているのか、今はわからない。いずれにせよ、「行政」が直接関わる「公的祭祀」であったことは確かである。⑦「年アメ」の時だけ「家々炊飯仕、喰申也」と記され、他の2行事に同様の記載がない理由も明らかでない。

 『琉球国由来記』の記事を、現行の行事と簡単に比較してみよう。理由は、何が継続して行なわれ、断絶したのは何か、を探るためであり、綱引きとの関連はどうなっているか、を確かめるためである。日取りについては、確定していることを、この節の初めで述べた。③の供物について。儀礼の性格を検証したいがためである。筆者が1990年8月(新暦)の「6月ウマチーにおいて字・勢理客の「クシ(後)ヌモーヤ・火ヌ神」(上記「村々ヲヒヤ・火ノ神」に当る)神前で拝見したところでは、まず金杯に酒(泡盛)を供える。次に、椀に水を入れ、その中にモミ粒7個・玄米7粒をを入れたものを高膳に載せて供える。椀の傍らに、ワラを短く切り、小さく束ねたものを置く。これは稲束を示すという。高膳の側に、新米を炊いたご飯を丸盆に敷いたサンニンの葉の上に大盛りにして、その隣に包丁を置く。さらに「ウンサフ」(水に漬けた米を擂ってつくった神酒)を、2つのお膳にそれぞれ1椀づつ置いて供える。火の神の隣には稲穂が捧げられている。

 ④の儀礼を担当する人たちと、その役職、内容について。儀礼は字諸見の神職名「ユシガミ」(女)、字伊是名の神職名「シドゥ」(女)に諸見の神職名「アガリズミ」(男)、伊是名の神職名「ワチガミ」(男)、字勢理客の神職名「アマイ」(男)が参加して行なわれた。注目すべきは、島の伝統集落のすべてから神職が合同していることである。まず、アマイが線香(15本+3本)の3組に火をつけ、香炉に立てる。火の神は3体だという。アマイが手を合わせて拝んでから、ユシガミ以下全員も手を合わせる。その後、アマイがサンニンのご飯を中央に出して、包丁で十字に切る。手伝いの女性がサンニンの葉にそのご飯を少しづつ分けて、ユシガミ以下に順次配ると、全員おしいただく所作をしてから食べる。次にウンサフを各自いただく。その後アマイが米粒の入った水をおしいただき、ユシガミ以下もならう。最後に高膳に戻す。そして全員でもう1度手を合わせて拝んだ後に、男性たちのみ「ウチトゥミ」を行なう。これは立ち上がって合掌、座って拝礼という所作を4回繰り返すもので、内容からして『琉球国由来記』が記す「御拝」に相当する。沖縄本島南部では「ウヌフェー」と呼ぶ。翌年1991年8月(新暦)に行なわれた同じ字勢理客の「6月ウマチー」も調査の許可をいただいた。この年は字諸見のユシガミ、字仲田のシナドノが参加できず、字伊是名のシドゥと新しく神職を授かったという女性に、諸見のアガリズミ、伊是名のワチガミ他男性1人が参加した。祭主は島の呪術的職能者を兼ねるワチガミ(男性)が務め、供物にはご飯におかずが出たり、漆椀におにぎり3個を入れたものを順次おしいただくなど、儀礼の方法にも若干の相違があったが、ここではこれ以上は言及しない。

 ⑤の祭場について見ると、


2 準備・祝福

 字勢理客で聞いたところでは、以前は旧暦4月29日(『伊是名村史』下巻では4月末日)から始まる「ヤマンチュミ」以降、屋外で火を燃やすことは禁じられ、また山に入って青木を伐ってはならなかった。綱引きが終ってはじめてこの忌みが晴れた。『琉球国由来記』では、この「山留)は4月1日に始まり、5月30日に解かれることになっていて、この間「鉦鼓・糸竹・管弦・鳴物等」が禁じられ、また竹木や芭蕉を伐ったり、「芽葦」を刈りたち、あるいは川で水浴びしたり、婦女が海辺に出たりすると、大風が吹いて作物に被害が及ぶ恐れがあるので、斎戒するのだという。


 「鉦鼓」や「管弦・鳴物」などの解禁は、綱引きの準備が許されることを意味する。綱作りの材料集めは、もと子どもたちの務めで、各戸をまわって集めた。一方では、ムラガーイが始まった。戦後しばらくは綱引きの1週間前から、昭和30年代に入ると3日前から始まった。まず子どもたちが屋敷に入り、縁側で手を叩いて合図をすると、青年を主体とする三線やバクー(1斗入りの四角い空き缶。語義は缶箱。開け口に木枝を打ちつけたものを左手で持ち、右手に持った木切れで叩く)を手にした部隊が前庭に入り、歌と鳴り物、踊りで気勢を挙げる。一行の来訪と時を違わずして、その家の主婦が泡盛1升敏を片手に、もう一方の手に茶碗を持って酒を注ぎ、一向にふるまう。一行はひとしきり囃して次の家に向かう。これを綱引き当日のガーイに対して、メー(前)ガーイという。ムラガーイの始まりである。ただし、現在はメーガーイは行なわれない。1991年、92年の調査時点では、綱引き当日青年と主婦を中心とした部隊が子どもたちを先頭にしてムラガーイが行なわれた。集落を巡るガーイだけでなく、綱引き現場でもガーイが行なわれるが、これもムラガーイと称される(後述)。「ガーイ」は国立国語研究所編『沖縄語辞典』のgaaee(ガーエー)(名詞)と同義で、同辞典はその動詞型gaa=juN(ガーユン)の第一義として「おごり高ぶる。威勢を振り回す」をあげている。

 ムラガーイで回る家々を『伊是名村史』下巻で見ると、地元出自の第二尚王統初代・尚円王ゆかりの旧家、『琉球国由来記』にも記される「ヲヒヤ火ノ神」を祀る家、ノロ殿内、神アサギのある家など島の歴史と信仰に関わる家のほかに、呼び込みを申し込まれた個人宅を巡る。筆者が調査した1990年、91年には区長宅や農協長宅あるいは字の婦人会長宅、米作農家なども巡った。過去1年間に新築した家のように予約を受けて回る場合もある。その「意義」については、経路からして、綱引き行事の「予告」と、家々の「厄除け」の意味合いがあると推測される。

 さて、勢理客・伊是名・諸見では綱作りからムラガーイ、綱引き、その後の相撲(勢理客では1990年からカラオケ大会に変更)まで、集落を東(アガリ)とイリ(西)に分けて行なう。仲田では南北に分かれる。90年、91年の調査をもとに綱作り・ムラガーイの様子を記す。

 ワラは各戸から3束づつ供出する。最近では数少なくなった稲作農家から字の費用で購入し、各戸が農家から綱つくりの場所に運ぶ。まず、手でにぎれるほどのワラを3人がかりで左綯いにする。木陰で木の枝に綱をかけ、綯い続け長くしていく。この綱の直径は、ほぼ10cm、長さは50~70m程度である。綱は集落を構成する各班の責任でつくられる。各戸から1人づつ出て、1班あたり3本をつくり、字に提出する。各班から供出された「小綱」から大綱がつくられる。大綱をつくる場所は、綱引きの場所でもあり、ここが集落の<中心>ともなっていて、この地点によって集落を東西(伊是名・諸見)や南北(仲田)にわける。勢理客では、元は現在の売店前で綱をつくり、ムラガーイがここから出発する。ここが東西の分岐点であった。今は公民館前で綱をつくり、ここで綱を引く。綱引きの場所は、勢理客・伊是名・仲田ともに、もともとウマウィー(馬場)だったところで、伊是名・仲田の場合は通常の道路より道幅が一段と広くなっている。勢理客の場合、綱を引く公民館前(もと馬場)を磁石で測ると南北に近いが、綱引きの区分けは東・西となっていて、以前は売店前で綱引きが行なわれていたことを予測させる。1~3班、6班が東、4、5、7、8班が西とされる。

 大綱つくりには、各戸から1人あて出ることになっている。男女を問わない。午後4時頃、各人鎌を持って三々五々集まる。字で準備した市販の細縄を使いながら、各班供出の小綱を大綱に仕立てていく。供出の綱を2~3本束ね、これをまとめて束ねて大綱に仕上げる。太いところで直径60cm程度である。頭部分は、輪状にする。勢理客では輪の大きい方がミーンナ(雌綱)、小さい方がウーンナ(雄綱)となるが、東がミーンナ、西がウーンナと決まっている。全体の長さは40mから50mである。大綱にはこれを持ち上げ、引くための小綱が添えられる。東・西それぞれ大綱が仕上がると、綱引きが行なわれる中央部、両綱を結合する場所に移動する。先に出来上がった側が遅れたところをひやかすところがあれば(勢理客)、先方の出来上がりを見て、同時に移動を始めるところもある(仲田)。「ハルエイ」などと掛け声を上げながら移動する。それぞれの大綱の頭部を男女の陰部になぞらえて、それぞれの出来具合を卑猥な言葉で批評しあったりする。この段階ですでに、東・西(南・北)の競り合い=競演は、始まっているのである。両綱がそろった場所には、酒やビール、ジュースが出される。他の字にはないが、勢理客では青年会に夜で店が準備される。飲み物各種と焼鳥販売を目的とする。会の資金づくりを兼ねているが、沖縄本島の地域「まつり」に触発された最近の趣向のようである。

 一方、公民館や青年会館(伊是名)では、青年たちの手でトゥールがつくられる。これは、太い竹竿などに取り付けて綱引き会場に立てられる灯篭で、本番の時は電灯が中に灯される。形は鼓状で表紙に紙を貼り、「豊作」「豊年祭」などと大書され、絵が描かれるが、これについては後述する。

 大綱やトゥールとは別にバクーがいくつも準備される。そして、広場の一角には砂が放られる。これは相撲の土俵となるものだが、字仲田では広場の中央部に放られている。これは、後に述べる「スネー」の際、

 


 



参考文献

平敷令治 1991 「沖縄の綱引」植松明石編『神々の祭祀』(凱風社)
植松明石 1961 「沖縄伊是名島調査報告ー祭祀組織をめぐってー」『日本民俗学会報』21