家康殿がぐずぐずしてくれたおかげでこんないい季節に関が原を歩くことができました。。
関が原陣跡ウォーキング、まだまだ引っ張らせていただきます^^
松尾山は下りもハードでした。
もう膝が笑う笑う・・・。
そして急にひょこっと古い町並みの残るへ出ました。
竈がある・・
麓から見上げた松尾山です
松尾山を中仙道方面へ下りると、「間の宿」山中村です。
義経の母「常盤御前」のお墓です
ここで再びお菓子とお茶のご接待・・ありがたや~・・。
滝の水にも癒されました
鶯の滝というそうです
大谷吉継の陣跡へ続くトンネル。レトロですね。
上を走っているのは東海道線です。
結構険しい山道を登って漸くたどり着きました
関が原の出口に陣取った大谷吉継の陣跡です
ここから眺めた松尾山
陣跡から北へ百メートルほど進むと・・
この墓は藤堂高虎の甥藤堂高刑が建立しました。隣には介錯した家臣湯浅五助の墓もあります。
病んだ顔を敵に見せたくないという吉継の遺志を守る為、
家臣の湯浅五助は自分の首を藤堂高刑に差し出しました。
その意を汲んだ高刑は家康に詰問されても吉継の墓所を隠し続けました。
そして戦いが終わった後、二人の墓所を建てたのです(号泣)そして心からの合掌。
更に北側へ山を下ると・・
平塚為広の碑です。
彼は関が原の隣の垂井城主で、大谷吉継の盟友でした。
小早川秀秋の裏切りにより窮地に立った吉継を救う為小早川隊に突撃しました。
大谷吉継の周囲には男の友情にまつわる逸話が多く残されています。
本当に彼は信義の人だったのでしょう。
戦況不利を察知しながらも、盟友石田三成を見捨てることなく、
病重い身でありながら自ら率先して家康の進攻をとめるべく、
最も激戦になると思われる場所へ陣取りました。
日和見する大大名の多い中、少ない兵力で東軍の大軍勢を向こうに回して
善戦しました。
大谷吉継の墓所は今回関が原で最も行きたかった場所でした。
英雄は深い森の中で静かに眠っておられました。 (続く)
関が原陣跡ウォーキング、まだまだ引っ張らせていただきます^^
松尾山は下りもハードでした。
もう膝が笑う笑う・・・。
そして急にひょこっと古い町並みの残るへ出ました。
竈がある・・
麓から見上げた松尾山です
松尾山を中仙道方面へ下りると、「間の宿」山中村です。
義経の母「常盤御前」のお墓です
ここで再びお菓子とお茶のご接待・・ありがたや~・・。
滝の水にも癒されました
鶯の滝というそうです
大谷吉継の陣跡へ続くトンネル。レトロですね。
上を走っているのは東海道線です。
結構険しい山道を登って漸くたどり着きました
関が原の出口に陣取った大谷吉継の陣跡です
ここから眺めた松尾山
陣跡から北へ百メートルほど進むと・・
この墓は藤堂高虎の甥藤堂高刑が建立しました。隣には介錯した家臣湯浅五助の墓もあります。
病んだ顔を敵に見せたくないという吉継の遺志を守る為、
家臣の湯浅五助は自分の首を藤堂高刑に差し出しました。
その意を汲んだ高刑は家康に詰問されても吉継の墓所を隠し続けました。
そして戦いが終わった後、二人の墓所を建てたのです(号泣)そして心からの合掌。
更に北側へ山を下ると・・
平塚為広の碑です。
彼は関が原の隣の垂井城主で、大谷吉継の盟友でした。
小早川秀秋の裏切りにより窮地に立った吉継を救う為小早川隊に突撃しました。
大谷吉継の周囲には男の友情にまつわる逸話が多く残されています。
本当に彼は信義の人だったのでしょう。
戦況不利を察知しながらも、盟友石田三成を見捨てることなく、
病重い身でありながら自ら率先して家康の進攻をとめるべく、
最も激戦になると思われる場所へ陣取りました。
日和見する大大名の多い中、少ない兵力で東軍の大軍勢を向こうに回して
善戦しました。
大谷吉継の墓所は今回関が原で最も行きたかった場所でした。
英雄は深い森の中で静かに眠っておられました。 (続く)