先日ロンドンで「The Crucible」という舞台を観た。アーサー・ミラーの有名な戯曲だ。私は初見である。単に「ホビット」でトーリン役だったリチャード・アーミティッジが主役なので、それを観たいと言うただそれだけの理由で、戯曲に対する前知識は全く無かった。
「The Crucible」は、セイラム魔女裁判をモデルにしたストーリーだった。改変点はあるけれど、基本的には実際にあったという、19人を処刑にまで追い込んだ魔女裁判をベースにしている。私は席があまり良くなかった事もあり、芝居としての評価は自信がないけど、内容に考えさせられた事をここに書いておこうと思う。
現代では非科学的であり、到底考えられない魔女裁判だけれど、当時は大人が大真面目で携わり、本当に人の命を奪っていた。でも、これは本当に、現代なら有り得ないと一笑に付して終わるものとも思えなかった。人々の集団心理、恐慌、これは今でも存在すると感じたからだ。
私が特に「今でも同じ事が起こっている」と感じたのは、魔女を告発した娘が、聖女として村人たちに讃えられている事だった。糾弾すべき魔女を告発した者は聖女になれる。これは、現代でも同じ構図が見て取れる。ネットの世界でも同じだ。
「誰もが思う存分に糾弾できる悪者」を提供した者は、反動のように聖者となっている。間違っていればいるほどいい。その者を断罪し、糾弾する事は、正しさの元に与えられた権利なのだ。その優越にも似た権利を与えてくれた者が、聖者になるのだ。
魔女を探し出し、糾弾する。魔女を殲滅すれば、世界は浄化される。それは紛れもなく「正義」だ。それは「為さねばならない」事だったのだろう。使命感でもあったのかもしれない。そしてどんなに糾弾しても追いつめても、自分に非は無い。相手が「魔女(悪)」だから。
記録に残るセイラムの魔女裁判では、その最初の告発者であった娘の証言に疑問が生じ、狂気のような裁判と処刑は終息する。聖女は嘘をついていた。でも、誰もそれを疑おうとしなかった。
戯曲中では、そんな裁判の中で魔女に仕立てられてしまった村人、ジョン・プロクターが主役であり、彼の不器用ながら真っ直ぐすぎる性格、頑なな抵抗の姿が観客を惹き付ける。彼を糾弾しようとする村人たち、最初に告発者となった少女たちの狂乱とは対照的な、重厚さを感じさせる存在に見えた。(リチャード・アーミティッジは、そのキャラクターに合っていたように思え、その実直さの伝わる演技が胸を打った)
でも、その裁判の最中にあっては、告発者の娘こそが聖女であり、魔女を追いつめる側こそが正義だったのだ。今では狂気としか思えない行動も、正義であり真実の追及だったのだ。
この構図は、もしかしたら現代でもどこかで起こっているのではないか。私にはそう感じられて仕方がなく、それだけに、心に深く刻まれる舞台となった。
まさに「正義の暴走」なのだろう。でも、何が「正義」で何が「暴走」か。「正義の暴走を止めろ」と叫ぶ側に、暴走はないのか。「幾らでも糾弾して構わない魔女」を前にした時に、どれだけ人は冷静に立ち回れるものなのか。現代でも、笑いごとで済む話とは思えないのだ。
魔女裁判は科学的な思考や考察が浸透していない時代だから起こったのかと言えば、そうとは言い切れないと私は思う。人を追い込む、人を追い込むように熱狂させる「何か」は、科学が発達した現代でも人々の間に蠢いていて、それは魔女裁判の頃から何ら変わりがないのかもしれない。
「自分たちは溺れていない。常に正しい判断を下している」と思い込む事に、過信があるのではないだろうか。例えそこに「科学的な正しさ」という裏付けがあったとしても。いや、あればこそ。「正しさ」を錦の御旗にできるからこそ、正義の暴走は始まるのではないか。
そしてまた、聖女を讃えるのは、彼女(彼)が正しいからなのか。好きなだけ糾弾できる「魔女」を提供してくれるからではないのか。その糾弾に、愉しさを見出してはいないか。
どんなに叩いても、自分に危険の及ばない「魔女」は、人には都合がいい存在とも言える。特に現代に於いては、「どこから叩いても文句なし」の完全な「魔女」を差し出せる「聖女」が、人々の熱狂的な支持を集めるのかもしれない。もちろん、男女関係なく。
(私が今更言うまでもない事と思うが、当時の「魔女狩り」「魔女裁判」で「魔女」とされたのは、女性だけじゃなく男性も同様だった)
「聖女」が実は虚偽の証言をしていた時、自分たちの掲げていた「錦の御旗」である「正しさ」に齟齬が生じ始めた時、その「お墨付き」を以って好きなだけ「魔女」を糾弾していた人たちは、どうするのだろう?
舞台では裁判の行く末までは描かれないが、その行き先は、現代の方が始末に負えないようにも思える。
戯曲は、モデルとなる過去の事件があっても、現代にも通じる「人の普遍的な何か」を描いているものが面白い、といつも思う。それは映画でも他の芸術でも同じなのだろうけれど。そういう意味で、「The Crucible」は私にとって大変「当たり」の舞台だった。
「The Crucible」は、魔女裁判以外にも、書かれた当時の赤狩りなどを批判した部分もあったそうなので、そういう視点から見れば、また感想も違ってくるのだろう。
「非科学」が恐ろしいのか。「科学への冒涜」が恐ろしいのか。
私はそうではないと思う。
非科学であっても科学であっても、何ものかを武器に掲げ、「悪」を糾弾する事に躊躇の無くなった人間こそが。そしてそれが「糾弾」という自覚さえなく、集団で誰かを弄り、追い詰めて行くようなる事。そんな「悪意のない弾劾」こそが、恐ろしいのだ。
※そして以下は舞台としての感想。
ちなみに私は、一番安い席だったので、円形の劇場の脇側、天井桟敷にも近いような席でした。だから、視界も限られているし、見えてない部分も多々ありました。それでもこれだけ感じるものがあったのだから、良い席であればもっと、楽しめたと思います。The Old Vic は大きすぎず小さすぎずのとても良い劇場と感じました。ウォータールー駅からすぐ近くです。
天井桟敷のような、ほぼ立見にも近いような席なだけに(なんと10£ですから…)、若い子たち多く、お菓子を持ち込んで、きゃっきゃと芝居に見入ってるような席で、これはこれで面白いな~と思っていました。ああいう舞台を、若いうちから気軽に見れる環境は、素直にうらやましいです。
リチャード・アーミティッジさんは、何よりも一番最初に、日本のプレミアの時に真ん前で見てしまったので、男前さ加減にびっくらしたんですが、遠目でもすっごく素敵だったし、何度も書くようにすごくあの芝居に合っていたと思います。舞台でもろ肌お風呂シーンあったし(関係ない)。
「The Crucible」は、セイラム魔女裁判をモデルにしたストーリーだった。改変点はあるけれど、基本的には実際にあったという、19人を処刑にまで追い込んだ魔女裁判をベースにしている。私は席があまり良くなかった事もあり、芝居としての評価は自信がないけど、内容に考えさせられた事をここに書いておこうと思う。
現代では非科学的であり、到底考えられない魔女裁判だけれど、当時は大人が大真面目で携わり、本当に人の命を奪っていた。でも、これは本当に、現代なら有り得ないと一笑に付して終わるものとも思えなかった。人々の集団心理、恐慌、これは今でも存在すると感じたからだ。
私が特に「今でも同じ事が起こっている」と感じたのは、魔女を告発した娘が、聖女として村人たちに讃えられている事だった。糾弾すべき魔女を告発した者は聖女になれる。これは、現代でも同じ構図が見て取れる。ネットの世界でも同じだ。
「誰もが思う存分に糾弾できる悪者」を提供した者は、反動のように聖者となっている。間違っていればいるほどいい。その者を断罪し、糾弾する事は、正しさの元に与えられた権利なのだ。その優越にも似た権利を与えてくれた者が、聖者になるのだ。
魔女を探し出し、糾弾する。魔女を殲滅すれば、世界は浄化される。それは紛れもなく「正義」だ。それは「為さねばならない」事だったのだろう。使命感でもあったのかもしれない。そしてどんなに糾弾しても追いつめても、自分に非は無い。相手が「魔女(悪)」だから。
記録に残るセイラムの魔女裁判では、その最初の告発者であった娘の証言に疑問が生じ、狂気のような裁判と処刑は終息する。聖女は嘘をついていた。でも、誰もそれを疑おうとしなかった。
戯曲中では、そんな裁判の中で魔女に仕立てられてしまった村人、ジョン・プロクターが主役であり、彼の不器用ながら真っ直ぐすぎる性格、頑なな抵抗の姿が観客を惹き付ける。彼を糾弾しようとする村人たち、最初に告発者となった少女たちの狂乱とは対照的な、重厚さを感じさせる存在に見えた。(リチャード・アーミティッジは、そのキャラクターに合っていたように思え、その実直さの伝わる演技が胸を打った)
でも、その裁判の最中にあっては、告発者の娘こそが聖女であり、魔女を追いつめる側こそが正義だったのだ。今では狂気としか思えない行動も、正義であり真実の追及だったのだ。
この構図は、もしかしたら現代でもどこかで起こっているのではないか。私にはそう感じられて仕方がなく、それだけに、心に深く刻まれる舞台となった。
まさに「正義の暴走」なのだろう。でも、何が「正義」で何が「暴走」か。「正義の暴走を止めろ」と叫ぶ側に、暴走はないのか。「幾らでも糾弾して構わない魔女」を前にした時に、どれだけ人は冷静に立ち回れるものなのか。現代でも、笑いごとで済む話とは思えないのだ。
魔女裁判は科学的な思考や考察が浸透していない時代だから起こったのかと言えば、そうとは言い切れないと私は思う。人を追い込む、人を追い込むように熱狂させる「何か」は、科学が発達した現代でも人々の間に蠢いていて、それは魔女裁判の頃から何ら変わりがないのかもしれない。
「自分たちは溺れていない。常に正しい判断を下している」と思い込む事に、過信があるのではないだろうか。例えそこに「科学的な正しさ」という裏付けがあったとしても。いや、あればこそ。「正しさ」を錦の御旗にできるからこそ、正義の暴走は始まるのではないか。
そしてまた、聖女を讃えるのは、彼女(彼)が正しいからなのか。好きなだけ糾弾できる「魔女」を提供してくれるからではないのか。その糾弾に、愉しさを見出してはいないか。
どんなに叩いても、自分に危険の及ばない「魔女」は、人には都合がいい存在とも言える。特に現代に於いては、「どこから叩いても文句なし」の完全な「魔女」を差し出せる「聖女」が、人々の熱狂的な支持を集めるのかもしれない。もちろん、男女関係なく。
(私が今更言うまでもない事と思うが、当時の「魔女狩り」「魔女裁判」で「魔女」とされたのは、女性だけじゃなく男性も同様だった)
「聖女」が実は虚偽の証言をしていた時、自分たちの掲げていた「錦の御旗」である「正しさ」に齟齬が生じ始めた時、その「お墨付き」を以って好きなだけ「魔女」を糾弾していた人たちは、どうするのだろう?
舞台では裁判の行く末までは描かれないが、その行き先は、現代の方が始末に負えないようにも思える。
戯曲は、モデルとなる過去の事件があっても、現代にも通じる「人の普遍的な何か」を描いているものが面白い、といつも思う。それは映画でも他の芸術でも同じなのだろうけれど。そういう意味で、「The Crucible」は私にとって大変「当たり」の舞台だった。
「The Crucible」は、魔女裁判以外にも、書かれた当時の赤狩りなどを批判した部分もあったそうなので、そういう視点から見れば、また感想も違ってくるのだろう。
「非科学」が恐ろしいのか。「科学への冒涜」が恐ろしいのか。
私はそうではないと思う。
非科学であっても科学であっても、何ものかを武器に掲げ、「悪」を糾弾する事に躊躇の無くなった人間こそが。そしてそれが「糾弾」という自覚さえなく、集団で誰かを弄り、追い詰めて行くようなる事。そんな「悪意のない弾劾」こそが、恐ろしいのだ。
※そして以下は舞台としての感想。
ちなみに私は、一番安い席だったので、円形の劇場の脇側、天井桟敷にも近いような席でした。だから、視界も限られているし、見えてない部分も多々ありました。それでもこれだけ感じるものがあったのだから、良い席であればもっと、楽しめたと思います。The Old Vic は大きすぎず小さすぎずのとても良い劇場と感じました。ウォータールー駅からすぐ近くです。
天井桟敷のような、ほぼ立見にも近いような席なだけに(なんと10£ですから…)、若い子たち多く、お菓子を持ち込んで、きゃっきゃと芝居に見入ってるような席で、これはこれで面白いな~と思っていました。ああいう舞台を、若いうちから気軽に見れる環境は、素直にうらやましいです。
リチャード・アーミティッジさんは、何よりも一番最初に、日本のプレミアの時に真ん前で見てしまったので、男前さ加減にびっくらしたんですが、遠目でもすっごく素敵だったし、何度も書くようにすごくあの芝居に合っていたと思います。舞台でもろ肌お風呂シーンあったし(関係ない)。
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