トルコ・エーゲ海 地中海沿岸のおびただしい
ローマ以前の古代遺跡群
ほったらかしにされ、放置されている。
生活の中の”風景”だから
風景、という言葉でどんな連想をするだろうか。自然だろうか、山。川、海だろうか。
外国での風景は、目に見えるもの全てが、風景である。人間も風景の1ページにしか過ぎない。サッカーに熱狂する国民、デモを行う市民、これらは旅行者にとって見ればすべては「風景」である。
いままで見てきた風景は、地球上で、人類が作った建造物のかけらが、荒れるにに任せたものばかりである。緻密な日本人、我々には理解出来ないほどの、放ったらかしの風景である。
吉野ヶ里遺跡にしても、三内遺跡にしても、奈良のい明日香にしても、ほんの僅かな出土品から、当時の建造物を模倣して、想像して作り上げている。
それにくらべたら、エーゲ海沿岸、地中海沿岸に散らばる古代遺跡の何千という残骸は数が多すぎて、始末に困っているのだろう。
この扱いの差、はそこからくるのだろうか。
もはや、文明の残滓などいうものは、日常の生活の中で、いつでも見ることができるから、格別に珍しいものではないのだろう。
1つの風景、としてあるのだろうか。
トルコ政府の発行する日本語のパンフ「トルコ」の冒頭にこんな案内文がある。
「風景というものは私たちの生活の中にあり、生活を繁栄させるものです。その風景というものは、生活の1部であって、特に取り上げるほどものではない。それが、壊されたり、失われたりしない限り,目を向けたりはしない。
時代の流れの中で起こった出来事のシンボルとして残された建造物は文化遺産であります。
様々な国の旅行経験者でも、トルコで見聞きするその多様性には、驚かされることでしよう」
控えめながら、トルコでは、時の流れのなかで起こった出来事のシンボルである建造物もほったらかしにしていますよ、と宣言しているのです。
古代遺跡を持てるものの、余裕でしようか。
トルコ人は親日的だし、至る所で、その恩恵をうける。イスタンブルで、地図を広げていれば、必ずそばに来て、誰かが教えてくれる。路地裏のハマムに行こうとしたら、なんとそこまで連れていったくれたこともある。
こんな余裕、あるいはポスピタリテイは、単なる親切心から来るものではなく、バックボーンとして、綿々として受け継がれてきた、精神文化かもしれないのだ。
持てるもののおおらかさ、とでもいおうか。金銭的な余裕ではなくて、歴史の重み、紀元前1500年頃から西暦1500年後までの3000年間にわたり、人類の最も栄えた都市を築きあげてきたその誇りを感じさせてくれる。
今でこそ衰退して、その過去の遺跡を「観光」産業として生きながらえている国がトルコという国である。そこには、ギリシャをはるかに越える古代遺跡の数々があちこちに存在する。
その遺跡には必ず名前があっただろうが、そのほとんどはその名前すら、今ではわからない。
名前のわかる大きな遺跡で残されているものは、さまざまだが、ほとんどは打ち捨てられたままだ。重要なものは、大英博物館、ドイツのベルガモン博物館、イスタンブル考古学博物館、パリのルーブル博物館 アンカラの古オリエント文明博物館に持ってゆかれている。
現地に残っているのは、重くて運べないものだけだ。
ヨーロッパ人の略奪といってよいほどだ。これも人間の所業にちがいないのだ。
地中海文明を代表するリキヤ文明を築き上げた都市とその遺跡は、日本人にはほとんど知る機会がない。だいたい「リキヤ」という言葉すら、学校で、大学の西洋史でも習わない。
エーゲ海沿岸 地中海沿岸の今は消滅してしまった都市はおびただしい。
かっては繁栄した都市だが、今は誰も住む人もなく、荒涼たる姿をさらし、
ただ何千年も佇んで観光客の驚きの対象になってしまった遺跡。
これらを行く先々で見てしまうと、人間の儚さ 強欲など感じてしまうのである。
これから紹介する消えた街は次のようである。
出典は・イスタンブル考古学博物館・アンタリア考古学博物館・エフエソス博物館・アナトリア文明博物館のガイドブック。
各街で売っているその町の歴史本である。
文中◎印の町は訪問して確認した。赤字の町は詳細な記録が別にあります。
トロイ遺跡 (Truva / Troy)【世界遺産】
チャナッカレの南西30kmにある遺跡です。
1837年にドイツの考古学者シュリーマンが発掘した遺跡で、紀元前32世紀から紀元後5世紀まで異なった時代の9層の都市遺跡が重なって出土。
紀元前8世紀の古代ギリシャの詩人ホメロスの叙事詩「イリアス」に記述されたトロイ戦争の都市は、第7a層の紀元前13世紀にあたるということです。
入り口には大きな「トロイの木馬」のレプリカがあります。
◎イズミル (Izmir) 日本の企業が巨大な吊り橋を建設
チャナッカレの南220km、人口250万人のトルコ第3の都市で、エーゲ海中南部の観光拠点となる町です。
紀元前10世紀頃に建設された古い歴史を持ち、ホメロスの生誕地とされています。
日本の石川島重工業が巨大な吊り橋を建設〈2018年〉し、日本トルコの友好の橋として友好のシンボルとして時の安倍首相が駆け付けています。
◎ペルガモン遺跡 (Pergamon)
イズミルの北90kmにある紀元前3世紀から1世紀にかけての都市遺跡です。
ペルガモン王国からローマ帝国の属州となり、ヘレニズム文化が栄えた地です。
標高300mの丘の上に南北1km、幅400mの「アクロポリス」があり、「ゼウスの祭壇」、「アテナ神殿」、「トラヤヌス神殿」、「野外劇場」などの遺構があります。また丘の麓には、紀元前4世紀のローマ時代の医療センター跡「アスクレピオン」があります。遺跡の出土品の多くは、ドイツのベルリンにある「ペルガモン博物館」に収蔵されています。なお、「ペルガモン」は古代都市の名称で、現在は「ベルガマ (Bergama)」。
◎セルチュク (Selçuk) エフェソス観光の拠点
イズミルの南南東60kmにある町、エフェス観光の拠点の町です。
町の中心に、エフェスからの出土品を展示する「セルチュク・エフェス考古学博物館 」があり、町の西郊には、アテネのパルテノン神殿を凌ぐ規模だったといわれ、1本の柱だけ復元された「アルテミス神殿跡 (Artemis Tapinagi)」があり古代七不思議の一つに数えられている
◎エフェス遺跡<世界遺産> Efes) クシャダス (Kusadas)
セルチュクの南西10kmにある風光明媚なエーゲ海に臨む入り江にある町です。
エフェス遺跡に近く、ここより南のプリエネやミレトスなどの遺跡観光の拠点になります。
ヨーロッパからの保養地として人気が高く、地中海やエーゲ海クルーズの寄港地にもなっています。
詳細な記事が別フアイル「エーゲ海・地中海」にあります。
そしてエーゲ海沿いには無数と言ってよいほどの古代遺跡がアチコチに散逸し、ほったらかしにされているのである。
エフェソスを特長づけるものは
1 2万5千人収容の巨大な野外劇場
2 聖ヨハネ キリストの聖母マリアの終焉の地 というキリスト教徒にとっての聖地
3 古代ローマ時代の最大のセルシウス図書館
4 世界7不思議の一つ アルテミス神殿がある。
などであります。
紀元前6世紀 アテネより100年前にギリシャ世界最大の都市だったミレトス圏
◎ミレトス遺跡 (Milet) 世界最初の哲学 ミレトス学派生まれる
日食を発見 黒海沿岸まで植民地を広げた
上流からの土砂で港が埋まり 住民は町を捨て滅亡。
クシャダスの南30kmにある、紀元前12世紀に造られたイオニア人の古代都市遺跡で、ターレスをはじめ多くの哲学者を輩出した古代におけるもう1つの重要な都市です。この都市は、経済的に繁栄した交易路の上に位置し、科学への貢献や、古代の有名な哲学者たちを多数生みだしました。この都市で初めて硬貨が鋳造され、きちんとした重さの基準が開発され、フェニキア文字が完成されました。聖パウロが彼の最後のローマへの旅路の前にエフェスの教会の長老たちと会ったのもここミレトスでした。紀元前479年にこの都市が再建されたとき、この地出身の都市計画家であるヒッポダモスによって碁盤の目状にデザインされ、その後このデザインは地中海沿岸の都市で用いられました。
紀元前2世紀に建造された2万5千人を収容する「野外大劇場」があります。
近くの川が古来よりたびたび氾濫を起こし、劇場の前は港だったのが土砂の堆積で海岸線はかなり後退し、遺跡のところどころは水没しています。
現地語では「ミレト」と言います。
・通貨を使い 物々交換の経済システムを変えた。
・貿易により栄えた。通貨を決済手段としたために 飛躍的に伸びた。
・外交が巧みでペルシャと同盟を結んだが、ペルシャの領土拡張慾
が強く 分裂し、イオニアの反乱の首謀者となった。
ペルシャにより殲滅された。
・古代ミレトスはエフエソスと同様にエーゲ海海岸にあったが上流からの洪水と土砂とにより港が埋まり、船の出入りができなくなり交易都市としての機能委が失われ、住民は町を放棄した。
放置されている野外大劇場
◎ディディム遺跡 (Didim) メドューサの首 道端にごろん。
古代世界の3大神殿、アポロ神殿
クシャダスの南40kmにある古代ギリシャ遺跡です。 ディディムには巨大なアポロン神殿があり、ギリシャのデルフィンの神託所と同様に、古代の世界で最も重要な神託所でした。白い大理石の柱と囲われた神聖な泉へと続く2つのトンネルを持った神殿に驚かされることでしょう。中心となる「アポロ神殿」が残っており、その入り口付近にある「メドゥーサの首」の彫刻が有名です。
前6世紀 地中海最大の交易都市であったミレトスと、その南 15キロのところにあるディディマは、古代には彫像の並ぶ立派な参道で結ばれていた。
ディディマの巨大なアポロ神殿は大都市ミレトスの周辺都市として信仰の中心であり、神託の地として古代世界では、エフェソスのアルテミス神殿、サモス島のヘラ神殿と並ぶ三大神殿として、多くの人をあつめる壮大なものであった。
アポロ神殿の遺跡の入り口の道端に、ゴロンと放置されている
古代3大神殿に数えられるアポロ神殿
ギリシャのパルテノン神殿の1.6倍。
長さ109M 前面51M 大理石の柱124本の建物が
7段の石の上にのり、14段の階段がついていた壮大な建物。
前494年ペルシャ戦争で敗れ、持ち去られたが 後にアレキサンダー大王が334年解放し、持ち帰った。
現在に残る円柱は直径2.4M 高さ19.7M.
ギリシャのパルテノン神殿と比較してみると<ウイクペエイア>
パルテノン神殿の基盤は長さ69.5m、幅30.9mである[。内部には屋根を支える2列の柱が立てられている。外周にあるドーリス式円柱は直径1.9m、高さ10.4mであり、四隅の円柱は若干大きい。柱の合計は外周に46本、内部に19本ある。
こう見て見ると、ディディマのアポロ神殿はパルテノン神殿よりも1・6倍もでかいことがわかる。
こんな何10トンもある石を、どのようにして建てか、また天井にどのようにして担ぎ上げたのか、クレーンもない古い時代のことである。現代では想像もできないのである。未だアリストテレスやプラトンも生まれていないときにである。
◎プリエネ遺跡 (Priene) 今は廃墟
クシャダスの南25km、綿花畑が広がる小高い丘の上にある、紀元前4世紀に造られたイオニア人の古代都市遺跡です。プリエネはイオニアを形成していた12の小さな町のうちの1つです。その遺跡はまるで映画のワンシーンのように険しいミュカレ山を背景にして平らな高原に位置し、蛇行する川が眼下に広がります。かつては港がありましたが、時と共に土砂で埋まってしまいました。美しいロケーションに加えてこの遺跡では保存状態の良い劇場、ブーレクテリオン(議会所)、ハリカルナッソスの建築家ピュティオスによる建築物アテナ神殿を見ることができます。最古の都市計画といわれる碁盤目状の整然とした街並みに、「アテナ神殿」や「円形劇場」などの遺構が残っていますが、地震などで崩れたままの状態の廃墟になっています。
地中海沿岸
「リキヤ文明」という文明を知っているか、といえば、高校はおろか大学の西洋史でも習わない。旅行雑誌やガイド本にも出てこない。
このことが、これから紹介するカシュ<Kas>という最も地中海らしい小さなリゾートにゆけば、現地で教えてくれる。
最もシンボリックなキーワードとなっている。
こんなガイド本も売っているのだ。<lycia>
最初に行ったのは1992年9月、2回目が2000年の6月だ。
出てくる写真は1992年ものと、あとの男ばかりが2000年のものである。
- カシュを中心としたトルコ地中海沿岸の遺跡を「リキヤ文明」<Lycia>と呼ばれている。
地図でいえば、トルコの一番南側の突き出たところだ。イスタンブルから地中海最大のリゾートとなったアンタリアまで空路、1時間半、アンタリアからバスでさらに6時間かかる。
私は2回とも自家用車持ち込みのガイドを雇った。自由にどこにでも行けるからだ。
リキヤ文明に属する都市は19都市。みなここアンタリアからカシュまでの途中に点在している。
代表的なものは、
- 岩に墓を掘ったミラ、
- 石棺ばかりがあちこちに散らばっているオリンポス<olympos>
- 古代遺跡の円形劇場が残っているクサントス<xanthos>
・マリーナで有名になったケメル。
- そして極めつけは。カシュの鼻先の地中海に浮かぶ小さな島々。ケコワ<kekova>。ここには水中遺跡、水に浮かぶ石棺などがある。
地中海で一番綺麗で、青い海の色が堪能出来るのである。写真を見ていただければ一目瞭然である。こんなに綺麗な「青色」を見たのは初めてである。現地で見るその色は“すごい、すごい、こんな青色があったんだ”と自然の不思議さを満喫できるのである。見渡す限りの青一色である。
その場所はカシュから、またはミュラからでている小さな船によるクルーズである。
ケコワ島周りの船で小さな入江である。そこで停泊して、スイミングを楽しめる。
水は冷たい。潜ると10メーターぐら下まで見える。
BC700年頃栄えたアンチフェロス(今のカシュ)という古代都市の遺跡が、地震により水没したその遺跡がみえるのである。水中宮殿である。その遺跡の残骸が海水につかるほどに、崩れてきている。写真に見られる海岸の残骸である。
ガイドの話によれば、カシュの町の下に、そのころの旧い街が埋まっている
エーゲ海をトルコで<EGE DENIZ> EGEとは島が多い、という意味。
- 地中海を<AK DENIZ>。白い 海という。イスタンブールにゆくと、AK BANKというトルコ最大の銀行の名前があるほど、AK という名前はポピュラーだ。
- KARA DENIZ という言葉もある。こちらはKARA,黒いいという意味で、<黒海>をさす。
カシュの沖合いがエーゲ海と地中海の分かれ目だそうだ。現地のガイドが教えてくれた。
このエーゲ海と地中海の境界にカシュがあるということが、カシュの町民5000人にとって、
最大の“売り”なのである。
◎カシュー <現地名アンティフエロス>
隠れたリゾート地
古代リキヤ文明の主要都市。カシュとは「肩」の意味。街中にリキヤ時代に作られた石棺があちこちにある。地中海に面した隠れたリゾート地として有名。
アクセスがバスしかなくて不便。日本のパッケージ旅行では入らない。
エーゲ海と地中海の分水嶺
1992・9月と2000・4月 訪問。
バルカン半島からギリシャ トルコにかけて3千の島々がある。だからこの海をエーゲ海・多島の海 という。ヨーロッパとアジアが隣接するこの地域に4000年前から高度の文明が生まれた。現代文明の淵源はこの地域にある。
エーゲ海とそれに連なる地中海との分水嶺上にある。いや境界線があるのだろうか。この地域に旅した人が抱く疑問だ。東洋の果てからこの地域にゆけば、そういう疑問は霧消する。この2つにまたがる海は、人を陶然とさせる。神々の宿るギリシャを背後にもつエーゲ海、古代から幾たびか戦乱の舞台となった地中海。この2つの海に共通するのは“蒼い海”だギリシャのクレタ島から東方へ トルコの南方へ行った先に交差するところが現地の人に言わせると分水嶺らしい。古代リキヤ文明の栄えた地域がある。現代でいえばボドルム、ケコワあたりの沖あたりが分水嶺と言われる。
キラキラ光る陽光の下でのんびりと小型の船に乗り、寝そべってうたた寝する。
この至福のひと時は 何物にも替えがたい経験だ。
ブログタイトルのこの写真は分水嶺と言われるケコワ沖にひっそりと人をよせつけないで横たわる荒涼たる小島だ。
前の写真が地中海沿岸の“トルコのリビエラ”と言われるリゾート アンタリアからみた地中海の青い海だ。
◎ケコワ島
地中海クルージングの行き先NO1である。海の上に石棺が浮かびその下には沈んだ街の遺跡があるシメナ。10M下の海底が見え、パンを餌にまくと小魚が集まってくるほどの透明感のある青色の海が美しい。ボートから飛び込んで泳ぐこともできる。
ケコワ島クルーズでは、海中に横たわる石棺、水際に原形をかろうじて留める石積みの壁や門など、地震で水中に沈んだ古代都市が見れる。 |
●「死者は天に帰るので墓は高い場所ほど良い」と信じた古代リキア人の墓には精巧なレリーフが残り、古代の人々の美意識と篤い信仰心を垣間見ることができます。 |
●世界で初めて共和制をとったといわれるクサントス、そして神殿や劇場が残るレトゥーン。
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◎ミラ<現在名デムレ> 町全体がネクロポリス
岩窟墓の集まり 死者の町
岩窟墓が山の肌にまるで高層アパートのようにみられる。古代リキヤ文明の6大都市の1つ。歴史は古い。サンタクロースの聖ニコラウスはパタラで生れこの地で活躍した。彼の墓と教会がのこされている。
街全体がネクロポリス<死者の町>風で町中にある墓は神殿風。劇場も有名である。
◎オリンポス
火山性の土地のため町のアチコチから熱いガスが噴き出しており火が絶えない。
リキヤ連盟の中心都市だった。今は街の面影はない。
遺跡があるのは確認できるが手をつけられていない。トルコの地中海沿岸はアンタリヤにいたるまで、開発途上の地域である。ゆえに日本の旅行者は行かない。
1992年のこの地に行ったとき、アンタリヤの旅行会社が「ヤポンのパスポート初めて見た」と驚くほど日本人は訪れていない、2000年にも訪問した。
◎アンタルヤ (Antalya) トルコのリビエラ
トルコ南部、地中海 (Akdeniz / Mediterranean Sea) 沿岸の中央部にあるトルコ随一の海浜リゾートです。
年間で300日は太陽が輝き、紺碧の海が広がる風光に恵まれた地です。マリン・スポーツの他、登山や洞窟探検なども楽しめます。
松の木に覆われたトロス(タウラス)山脈がキラキラと輝く澄んだ海まで広がって、岩の多い岬とひっそりとした入り江による複雑な海岸線を作り出しています。日光浴や水泳、ウィンドサーフィン、水上スキー、セーリング、登山、洞窟探検などのスポーツのパラダイスです。3月か4月にアンタルヤを訪れると、午前中はスキーを、午後は温かな地中海で水泳が楽しめます。松林、オリーブや柑橘類の果樹園、椰子の木、アボカドやバナナのプランテーションが広がる景観の中に点在する重要な史跡を、目にすることができるでしょう。
トルコのリビエラは、トルコ地中海沿岸の観光の中心地です。
メリハリのある素晴らしい景観に囲まれたトルコの主要なリゾート地アンタルヤは、木陰を作り出す椰子の並木道と賞を受けたマリーナのある魅力的な町です。まるで絵画の様な美しいカレイチの古い界隈では、細く曲がりくねった通りと古い木造の家々が、古代都市の城壁に隣接しています。
紀元前159年、彼自身にちなんでその都市をアッタレイアと名付けたペルガモンの王、アッタロスⅡ世によって築かれて以来、ローマ帝国、ビザンチン帝国、セルジュク朝 オスマントルコによって次々に占領されてきました。
西暦130年にハドリアヌス帝がアンタルヤを訪れた際には、同帝をたたえて、コリント式円柱と美しく装飾された3つのアーチを持つ門が、町の城壁に作られました。それが城壁を通り抜ける唯一の入り口でした。マリーナの近くには、城壁の他の部分だけでなく、この門に隣接する2つの塔が今でも残っています。
アンタリア古代博物館
アンタリヤ古代博物館の展示品は
皇帝たちの人物像サルコフアガス<石棺>
世界最古のカライン洞窟からの出土品
に分かれている。
イギリスの大英博物館、イスタンブールの古代額物館とならぶ、豊富な展示品がある。
リキヤ文明が栄えた地域
ヒッタイトの一派がアナトリアを追われ、逃げ込んだ先の南トルコ・リキアの地。アンタルヤからフェティエにかけてこのあたりに栄えた文明は、紀元前5世紀頃にまで遡ることができます。このことは、ホメロスの『イリアス』やヘロドトスの『歴史』に記述され、アレキサンダーや聖パウロの記録にも名が挙がります。しかし、まだまだ多くの謎に包まれており、今後の発掘に期待されます。
2000年 米国駐在員仲間
クルーズ船の中でのドイツ人との談笑
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◎アスペンドス (Aspendos)、保存状態が良い古代劇場
現在 国際オペラコンクール開かれる。
アスペンドスはアンタリヤから東へアランヤへの途中、すこし内陸へ入るとベルクス村がある。距離にして45キロ。そこにアスペンドス古代劇場がポツンとある。周辺には古代ローマの水道橋が1キロほど残っている。アゴラ(集会場)の跡もあり、紀元前5世紀ごろから栄え、デロス同盟の1員であった。この地方一帯は古代にはパンフリアと呼ばれていた。隣のリキアと並ぶ勢力圏であった。通貨を持っていたのはこのパンフリアではこの町とシデだけであった。
ご他聞にもれず、トルコの南部はペルシャに征服され、4世紀にアレキサンダーによって、この地は破壊された。
今日残る古代劇場は2世紀ごろローマ帝国の属領となってから建設された。その後破壊されたが現存する劇場は13世紀のはじめセルジュクトルコのより再建されたものである。トルコに残る古代劇場の代表といわれるこの劇場は、美しい礫岩のブロックを積んでおり、ドアや窓枠にはクリーム色の石灰岩を使っている。舞台建物には5つの入り口があり、壁にはさまざまな装飾がほどこされている。この劇場はマルクス・アウレリュース(161-180)に捧げられたものといわれる。劇場最上階には回廊がとりまいている。
収容人員2万人といわれ、今日でも「アスペンドス国際オペラフエテイバル」が6月から7月に開かれている。昨年 2011年はズービンメータ指揮ウイーンフイルが出演した。
アスペンドスの裏手 手つかずの遺跡
劇場の内部
◎シデ (Side) 地中海で泳ぐ。
海水浴客が遊ぶ直ぐ近くにそれこそポツンと佇むアポロ神殿の跡。大理石の石柱が僅かに過去の栄光の残照を感じさせてくれる。
- シデのビーチ 地中海をのぞむ海辺にひっそりと建つ神殿遺跡
日本でいえば湘南の茅ヶ崎 平塚のイメージでしようか、「これぞ地中海」といってもいいほどの地中海の魅力をたっぷりそなえているのが南トルコのリゾート地、アンタリヤと少しシリアよりの海岸地帯。SIDEは海の蒼さと陽光がふりそそぐビーチ、地中海をAK DENIZ(アクデニズ、白い海)と地図に載るほどの海の白さ、が印象的なビーチである。ヨーロッパ最大のリゾート地となって、フランスのリビエラとならぶほどの人気を誇るアンタリヤが有名になりすぎて、今その奥地ともいえるSIDEが人気急上昇と聞く。
ここには、古代の栄光をポツン ポツンと残す遺跡がみられる。なんとなく寂しげなリゾートなのである。
この写真は1992年9月、夏まだ終わらないシーズンのビーチ。
東洋人は我々家族3人のみであった。
エーゲ海よりの沿岸地帯には、それこそ古代遺跡の残骸が沢山ありすぎて、処理できずにうち捨てられていた。日本人からみれば、あーもったいないと想いながらもイヤというほど見せ付けられたものだ。シデの町は幅400M 長さ1キロの半島全部を占める。かってペルシャの支配下にあったが、アレキサンダー大王により解放された。後 ローマにより支配された。
ミレトスのお話で、私もここに行ったことがあるので投稿したくなりました。会社の先輩が、イスタンブールに住み、夫婦で先輩宅から二度トルコ国内を旅行しました。一度目はデニズリからパムッカレ、アフロデシアス。二度目はイズミルからエフェソスに行きシリンジ村に泊まり、二日目はディディムまで行き、ミレトス、プリエネと北上しクシャダスに泊まりイズミルからイスタンブールに戻るといった小旅行でした。遺跡の数々で驚くのはメデューサなど彫像が同じメデューサ顔をしていること。。つまり確立されたものがその時代にあったということです。写真もないのにどうして?と思いました。
繁栄していた文明は必ず衰退するのでしょうか。。為替によるインバウンド観光需要頼み、子供に対する投資の教育など、こんな政策で良いのか。。何十年かけてもよいので目先の損得ではなく、国が長く栄える政策を実現できる政治を望みます。