リキヤを構成していた都市
古代リキアはトルコの南 地中海沿いの地域ですギリシャの伝説ではリキアは、紀元前1200年ごろのトロイの戦争でトロイの同盟国として登場する。詩人ホメロスは "遠いリキアとクサントスから サルペドンと英雄グラウコス率いるリキア軍が到来し」と書いている。
リキア文明は紀元前5世紀から4世紀にかけて、ヘレニズム時代からローマ時代までの間に繁栄し、その多くの遺跡群でも有名です。
年代でいえば2500年前 日本では弥生時代すら始まっていない古い時代です。弥生時代がじまったのは西暦300年ごろですから、いかに古いかわかります。
紀元前2世紀のエジプトならびにヒッタイトの文献によると、リキアはルカまたはルッカと呼ばれていて、ヒッタイト王スッピルリウマが紀元前14世紀にリキアを征服したと書かれています。
またカデッシュの戦いでは‘海の民族’として記載があります。歴史家によると‘ルッカ’は‘光の国’と呼ばれ、リシア王アンティオコス3世によって紀元前2世紀の終わりから中ごろにかけて征服されました。
米国の連邦制と比例代表性の原点がリキヤにある。
紀元前1世紀の中ごろ‘リキア連盟’は23の町により構成されていた。。この連合は歴史上で“最初の民主主義連合”として知られています。アメリカの連邦制の原点です。主な国としてはパタラ、クサントス、ピナラ、オリンポス、ミュラやティオスなどで、のちにファセリスもこの中に加わっています。
これらの国々はその整った町なみや硬貨の製造をおこなったことで知られており、この地域の岩肌には岩でつくられた王墓が今日でも残されています。しかもリキアは女神レトならびにその子供アポロとアルテミスの礼拝の中心地でもあったのです。。
◎米国議会「Congressional Record 」2006年5月16日によれば、
「アメリカ民主主義の源。1800年前、7000マイル離れたパトラで」という議事録にそれが謳われている。
それを遡ること230年前 アメリカ合衆国憲法制定の際、起草された案に、リキヤの比例制に基づく代表制と首長による統治の形が取り入れられている。
それは「Federalist Papers」1787年と1788年で見ることができる。
そのアメリカ民主主義が現在の日本国憲法のもとになっている。アメリカ占領下のマッカーサー元帥が作ったということは歴史上の事実であるからだ。
それゆえ日本の憲法の成り立ちをさかのぼって行くとリキヤ連盟の統治機構にゆきつく。
二院制議会と人口に比例して投票できたる案がジェームズ·マディソンのバージニアプランだった。
彼ジェームス マディソンはこの案に基づき起草した憲法で「アメリカ合衆国憲法の父」といわれるようになった。
人口の比例にもとづく比例制という現代の民主的な統治方式はすでに紀元前の地中海沿岸のこの地で行われていたのだ。
こんな憲法学者さえ想像しないことを、ここで書いても一笑に付されるのがオチがから、あまり書きたくないのだが、憲法記念日にちなんで、これも1つの話題として提供する。
◎ニューヨークタイムズ紙 「古代トルコのアメリカの憲法の例」
トルコの砂に埋もれた、議会
2005年9月19日 <新聞記事>
アメリカ民主主義の源流ともいえる連邦制と比例代表制は実はトルコの地中海沿岸にうまれたリキヤ同盟に端を発したことがこの議会レポートでわかるのである。
リキヤの市民はどういう市民だったのだろうか。
紀元前450年、「歴史の父」といわれるヘロドトスはリキヤについて
すでにリュキアは“どこにも似ていない 習慣”を持っていることを指摘している。
紀元前480年にリキア海軍の乗組員のこについてこう書いている:
リキアは、一般的にギリシャの鎧を身に着けていた小アジアの他の軍隊とは異なる外観を有していた。"彼らは、獣脂(すねプロテクター)とcorselets(鎧)を着ていた、彼らは羽つきのコーネル木材、籐矢の弓を持っていた。彼らは肩から吊下げたコートをまとっており、帽子のまわりには羽がかざったあった。。彼らはまた、短剣ももっていた。
ヘロドトスが生きた時代紀元前480年ごろは、リキヤはいまだこのような民主代表制に基づく共和制をとっていなかった。
ギリシャですらまだ民主主義が芽生えていなかったのだから。
この共和制をとったのは紀元前168年ごろから紀元380年ごろまで500年もつづいた"
長くつづいた理由について
彼らは地形的に山岳と海に挟まれていた。イオニアのほかの諸国が自由に往来できたのだが、彼らは閉じ込められた存在だった。彼らは自由と独立の激しい愛を持っていて、外側の支配に強く抵抗し、彼らはローマ帝国の州として組み込まれた小アジアでの最後の州だった "。
紀元前4世紀にアレキサンダー大王の征服に続いて、その後、徐々にギリシャ語に道を譲ったものの、リュキアは、独自の言語と文字を持っていた。国際情勢の中立制、先祖伝来の伝統への愛着、保守的な彼らの防衛思想、そして激しく勤勉で豊かな人々。
歴史家は今日のスイスに、それらをなぞらえている。
岩窟墓 サルコフアガスを量産した
人間を後世に知らしめるために建造される建造物は墓です。エジプトのピラミッドでわかるように、非常に重要な建造物なのである。個人の名前が刻まれたのがサルコフアガスと呼ばれる石棺です、家のように立ち並んでいるのである。
サルコファガス(sarcophagus)とは石棺のことで、死体またはもう一つの棺を中におさめる容れ物。サルコファガスは、A Tomb(墓)と呼ばれる埋葬室の中で、ミイラを守っている。語源は、ギリシャ語の sarx(肉体)+ phagein(食べる)で、つまりサルコファガスは「肉体を食べるもの」という意味である。サルコファガスという言葉は、チェルノブイリ原子力発電所事故以来、チェルノブイリ原子力発電所跡を周囲と隔離するために作られた巨大なコンクリートの構造物にも使われている。コンクリート塊の通称(石棺)でもある。<ウイキペデイア>
古代エーゲ文明はその墓を独特な方法で作ってきた。石棺、岩窟墓などである。それが集中的に残っているのがトルコのエーゲ海沿岸、地中海沿岸で発達したリキヤ遺跡である
墓の集団がネクロポリスと呼ばれている。死者の都市のことである。
ネクロポリスの典型都市ミラ 今は誰も住まない
岩窟墓の集まり 死者の町
岩窟墓が山の肌にまるで高層アパートのようにみられる。古代リキヤ文明の6大都市の1つ。歴史は古い。サンタクロースの聖ニコラウスはパタラで生れこの地で活躍した。彼の墓と教会がのこされている。
街全体がネクロポリス<死者の町>風で町中にある墓は神殿風。劇場も有名である。
死者の都市だから墓の集団、墓地を意味する。
日本のあちこちにある“・・霊園”の古代版とも言える。
古代では城壁に町は囲まれていたから、その外側に造られた。
地中海のリキヤ文明の遺跡として最も今日まで残っているのは、このネクロポリスであり、いまは誰も見向きもしない荒野にジーとして佇むその姿をみていると、神妙なきもちにすらなる。古代人は何を思ってこんなものを造ったのか。
石棺の外にはきれいなレリーフが施され、それが戦闘のすがただったり、ライオンとの格闘姿だったり、奴隷の姿だったりする。
建立者は生前のことを残したいために立てたのだろうが、2500年もたつと、どこの誰かさえ分からない。
現代に名前を残しているアレキサンダー大王などの有名人の石棺はイスタンブル博物館に収められているように、たいてい有名博物館にもって行かれている。
そうでない多くの金持ちや高位高官のサルコフアガスはそのまま打っちゃられている。
- ネクロポリスの代表的なものがトルコのエーゲ海沿岸から少し内陸にはいったパムッカレにあるヒエラポリスである。パムッカレは石灰石の石棚で有名であるが、その石棚を上りきったところにるのがヒエラポリスである。
- パムッカレはトルコ西部・デニズリ県にあるユネスコの世界遺産(複合遺産)の登録名。パムッカレは石灰華段丘からなる丘陵地の名前であり、2世紀頃、ヒエラポリスというローマ帝国の都市が存在した。
地中海沿岸のリキヤ遺跡のサルコフアガスが最も有名である。
リキヤのものでも“岩窟墓”が突出している。岩を掘ってそこに遺体を安置したものである。リキヤ遺跡を紹介するガイド本にはこれがシンボルとして表紙に出てくるほどある。
- 石棺・サルコフアガスでは
特に有名なアレキサンダー大王はイスタンブル博物館にある。同館にとっては最大の目玉の陳列品である。どのガイドブックをみてもこの石棺は詳しく書かれている。
やがてフクシマの原発もコンクリートで覆われるようになるが、今はまだサルコフアガスの名前は使われていないが、やがて使われるようになる。
現在の様子をみてみると
◎リゾートなったケコワ島
地中海クルージングの行き先NO1である。海の上に石棺が浮かびその下には沈んだ街の遺跡があるシメナ。10M下の海底が見え、パンを餌にまくと小魚が集まってくるほどの透明感のある青色の海が美しい。ボートから飛び込んで泳ぐこともできる。
ケコワ島クルーズでは、海中に横たわる石棺、水際に原形をかろうじて留める石積みの壁や門など、地震で水中に沈んだ古代都市が見れる。 |
●「死者は天に帰るので墓は高い場所ほど良い」と信じた古代リキア人の墓には精巧なレリーフが残り、古代の人々の美意識と篤い信仰心を垣間見ることができます。 |
●世界で初めて共和制をとったといわれるクサントス、そして神殿や劇場が残るレトゥーン。
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◎熱いガスが噴き出て 人が住めない町オリンポス
火山性の土地のため町のアチコチから熱いガスが噴き出しており火が絶えない。
リキヤ連盟の中心都市だった。2世紀の硬貨が出土している。街の面影はない。
遺跡があるのは確認できるが手をつけられていない。トルコの地中海沿岸はアンタリヤにいたるまで、開発途上の地域である。ゆえに日本の旅行者は行かない。
1992年のこの地に行ったとき、アンタリヤの旅行会社が「ヤポンのパスポート初めて見た」と驚くほど日本人は訪れていない、2000年にも訪問した。
石棺のコレクションの一番集めているイスタンブル考古学博物館
アレキサンダー大王の石棺