旧 自分ブランド「COMME des KAORI」

私が他の誰でもない私になるために・・・
独立系FPを目指す私の成功ノート

あなたが好き=あなたといる私が好き!

2009年10月20日 | 心=ハート


こんばんは、aroma@CFP(R)です


冬があり夏があり
昼と夜があり
晴れた日と
雨の日があって
ひとつの花が咲くように
悲しみも苦しみもあって
私が私になってゆく
(星野富弘)


星野さんの描いたサフラン
暮秋を思わせる、JAF MATE」の11月号より


そうなんだ、昨日流した涙は今日の私をつくる。
サフランが雨の恵みを受けて花をつけたように
「涙のたびに私という花が咲くのですね」というJAF理事の館内さんの投語に、
「君の歩いた道にはきっときれいな花が咲いていますよ」との星野さんの答語。

この掛け合いから二人の人柄と間柄が読み取れる。高校時代からの親友だそうだ。
職場に届く「JAF MATE」のこの連載だけは欠かさず読んでいる私である。

最近ちょっぴり忙しいです
何もない日というのがほとんどない。
休日出勤があったり、残業があったり(・・・は社会人であればよくあることだが)、秋口から研修会が増えたり、勉強会に参加したり、講演会にすっ飛んでいったり・・・。それ以外の日は、週3回の有酸素運動、エアロビと水泳と登山をローテーション
試験関係が全て終われば暇になるから10月くらいからまた
スピーチ講座にも参加しますと言っていたのに、いつ暇になるのやら・・・(だから安請け合いしちゃいけないね
結局のところ、私は自分で忙しくしているだけなのだ。だから「忙しい」なんていっちゃいけない。だけど、たぶん私はずっとこんな感じでいくんだろうなと最近わかってきた。
だって、常に何かをしている
自分が好きなんだもん
でも、「こういう自分が好きっていえるのっていいと思いませんか

誰が言ったか忘
れましたが、
「個人」という単語は「an individual」、つまりインディビジュアルはdivide
に否定のinがついた、「これ以上分けることができない単位」として「個人、個々」を表す
でも実際のところ、私という個人にもいろんな側面があり、いろんな私がいる

同義語に「personal」がある。このパーソナルはラテン語のペルソナから来ていることを考えると、人格は仮面でもある
仮面をつけた個人というと、どうも否定的な意味に捉えてしまう・・・
それは小学校で、「誰にでも同じように接しなさい」と教えられたからか・・・。
だれど、それって間違ってる

自分でいうのもなんだけれど、最近まで私はいわゆる「使い分け」ができない人間だった。(最近もあやしいけれど)どこにいっても「わかりやすいよね」と言われた。それくらい「そのまま」らしい
これらについて、昔、親につっかかったことがある。
AさんはBさんにはこの話しをするが、Cさんには話さない。でもCさんにしか話さないこともある。そして三人揃えば無難な話しかしない。
これっておかしくないか?何のために集まるんだ?
つまり、大人になるとだんだん人は相手によって言葉や態度やスタンスを変えるけれど、いい人ぶってみたり、明るい自分を演出してみたり、それって詐欺だと。
誰にでも同じ顔、同じ話題ができなければ「平等」とは言わないでしょ、と。
延々しゃべったけれどさっぱり分からなかった。困った子供である

早い子は中学生、高校生から、遅くとも大学生、社会人1・2年で相手によって見せる自分を使い分けるようになる。だけど、その使い分けができるようになると、もう彼女は少女ではなく、いっぱしの女になる。
こうして女たちは世の中を渡り歩くのだ。だから女同士の集まりは嫌いだ。(・・・自分も女だった、あはっ(笑))

私はこれまでも、いろんな自分がいる中で、一体自分は誰なんだろう・・・他者を通した目で自分を知るなど、「自分は一体誰なのかという問題提起を何度も繰り返している。
その度に、死ぬまでわからないし、わからないから生きていけるのであり、「自分には『既に全てが与えられている』ということ、そして『全てのことは自分が何かを学び、深まるために起こる』ということを自覚して、常にどう変わるか分からない今を尊く生きることが人生の大事なテーマ」という玄侑宗久さんの言葉を胸に、いずれ訪れる(かもしれない)そのときを楽しみに「聖なる諦め」を持つわけである

個人(individual)はイン+ディバイドだが、ペルソナ(personal)でもある。
やはり人はいろんな側面を持っており、それを意識するかせざるか、また良いか悪いかは別として、少なくとも生きていくうえで、その方が賢く、そして生き易いことは確かだ

誰もがどこかで壁にぶつかり、そこから学び処世術なるものを身に付け、大人になっていくのであれば、小学校で習った「誰にでも同じように接しなさい」という道徳は、BさんとCさんを比べたときにAさんが流した情報量ではなく、あくまでもAさんの内面として、「自分の中で平等であれ」ということではないだろうか。
なんとなく、断る力で得られるものとは・・・で書いた「自分軸」の話にも通じる。

だとすると、その基準は何だろうか
思うにそれは、単純だけど、最も大事な「こういう自分が好き」ということ
つまり、相手によってつけかえるペルソナのお蔭で、自分はその人といると心地よくいられるということ。
ということは、「あなたのことが好きあなたといる私が好き
やっぱり男は顔でしょとイケメン大好きなはずが、なぜかイケメンじゃないその人を好きになってしまった、あなた(笑)
その人といると楽しい、落ち着く、会話が弾む、知らないことをいっぱい教えてもらえる、居心地がいい・・・だから彼が好き、なのではなく、そういう空気を一緒につくってくれる彼が好き、つまり彼といるときの「自分が好き」なのかもしれませんよ~。

だからindividualが個人という最小単位ではなく、実は自分という個人もいろんな自分に分けることができて、それは相手によっても使い分けるし、場面によっても仮面をかけ替えたりしながら、自分の中に新しい自分を発見し、もっと自分を好きになっていく
そうして自分が自分になっていくのかもしれない


一昨日は朝日連峰に出かけた
紅葉が進み、ブナとナラの木立がまるで京の錦絵を思わせるような、錦秋という言葉がぴったりの風景であった。
出発が遅かったので、朝日鉱泉から鳥原コースを散策した程度で夕方になってしまったが、風の又三郎が登場しそうな北風が木の葉を撒き散らして去っていった
先週登った早池峰は岩手という緯度の高さからすっかり凍っていたが、朝日は初冠雪は終えたものの、まだ行けそうな気配。
朝が遅かったのは他でもない。前日の土曜日は午前中が出勤、午後はみっちりFPの研修会、そして夜は交流会、さらに友達の誕生日会と帰宅が夜中になってしまったためだ。

「それでも、山に行く」と言われそうだけど、
だって、山に登っている自分も好きなんだもん


本日の収穫。
ムキタケ、アカモダシ、ナメコ少々・・・美味しくいただきました。ごちそうさま


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