旧 自分ブランド「COMME des KAORI」

私が他の誰でもない私になるために・・・
独立系FPを目指す私の成功ノート

感動を共有できることの幸せ

2009年10月13日 | 心=ハート


こんばんは、CFP@aromaです

汗をかきたくて夕方はエアロビに直行とばかりに急いで着替えていた今日の帰り際。
新婚の先輩が三連休に東京に遊びに行って、「アッコにおまかせ」の収録見てきたよと話をしてくれた。
こんな私もちょっと前まで、「笑っていいとも」を見にアルタに行ったしていた。
「ルミネザよしもと」に通ったり、ディズニーシーやUSJなど新しいものが出来るとすぐに出かけるようなミーハー娘だった
しかし今はあまり興味がない・・・。
やっと落ち着いてきたのかは知らないが、数年前まで目先の楽しさばかりを追って浅はかだったという言い方もあるかもしれない。
しかし、きっと当時の私はその時の精一杯の感性で遊びつくしたのだろうし、だからこそ記憶のどの断片を輪切りにしてもこれ以上ないくらいの楽しい時間だったと心底思える。そしてそこから繋がる今という時間は、自分の選択の結果であり、やはり幸せな時間なのである

当然、私も先輩と同じテンションで早池峰に登ってきた話をした。
すると、「同じ趣味の友達が見つかったなんてすごいじゃん。登山する人なんて珍しいから。大切にしなきゃね」と言ってくれた。
なるほど。確かに私の趣味に付き合える人は相当珍しい。
親しくなるとつい当たり前になってしまい、付き合ってもらっているという感覚を忘れてしまう。趣味云々の前に、むしろ私のような適当人間に飽き足らず付き合ってくれることの方がよっぽど珍しいのかもしれない。
そう思えば思うほど、友達の存在というのは有難いものだ

先日、倉本聰さんが講演の中でこんなことを言っていた。
「創作」という単語は、「創」も「作」も同じ「つくる」に違いない。しかし、「創」は、お金がなくても気持ちでつくることができる。一方「作」は知識とお金の両方でつくる。
その大きな違いは、「感動」を与えることができるかということ。「創」にはそれができる。
例えばレトルトカレーは「作る」であるが、母親が愛情かけて手づくりしたカレーは「創る」なのだ。
そして倉本さんには密かな楽しみがあるそうだ。
「将来自分が死んだとき、自分の葬式を天井裏から覗きたいという夢がある。
天井裏から葬式に来た知り合いを眺め、『おっ、あいつもきてるか』、『なんだ、あいつは香典これしか持ってこないな』、『あいつは悲しい振りをしているだけじゃないか』、と自分が本当はみんなにどう思われていたのか知りたい。
でも中には『あんなに憎まれ口たたいてたのに本気で号泣しているよ、あいつ』・・・。でも、そこで気づいた。そんな風に言ったところで、もう自分の隣には誰もいないのだということを・・・それは虚しいことだということを・・・」
人間は動物と違って、唯一「感動を共有できる」生き物なのだというジョークであった

一人で登る山もいい、一人で旅行する風景もいい。
だけど、もし、同じものを見て、同じものに感じてくれる人があるのであれば、それ以上に幸せなことはない。
きっと新婚の先輩はそれを今感じているのかもしれない

「自分の幸せを考えるのはいわば人間の一つの本性で、だからそれはそれでかまわないけれど、同時に他人の幸せをもあわせて考え、人と人がつながって成り立つこの世の中が、すこしでもゆたかになるようにと願うその思いの中に、人間として真に充実した日々が生み出されてくるのではあるまいか。
どんなことでもよい。どんな一隅にあってももよい。やっぱり、人につくし、世につくし、自分も幸せなら他人も幸せ、そんな働きをしてみたい。そんな支えになってみたい。」
(松下幸之助・新「道をひらく」より)




宮沢賢治もそんな風に本気で思ったんじゃないかなぁ。
「世界全体が幸福にならないかぎりは、個人の幸福はありえない。」 って。


成田からドイツに向かう飛行機で、松下幸之助を読んでいた。大元の方は友達に貸しているので、新の方である。
ふと、もしかしたらドイツ・スイス・フランスでも68
億分の1の確立で「袖ふれ合うも多生の縁」があるかもしれないと思ってしまった。言葉を超えて国境を越えて、そんな風に思っただけでもワクワクしてしまう
実際、ドイツ人は実直で日本人の気質に似ており、フランクフルトで道を尋ねてた時も非常に親切に案内してくれ、大変気に入った。
フランスのレストランでは陽気なボーイさんに散々遊ばれたが、「可愛いねぇ」と言ってくれたので許す!としても(笑)、パリのスーパーでお土産にワインを買おうと手に取ったところ、「それは美味しくないから止めておいたほうがいいよ」と教えてくれた人もいた。
袖ふれ合うも・・・などとこちらが思っても、ヨーロッパの人にはそんな感覚はあるのかわからないが、人間関係においてお互いが素直に心通わせることができたのならギスギスすることもないのに・・・と思う。

確立は下がるが、1億2千万分の1の確立で成田からのJALで隣に座ったご夫婦は念願かなってのドイツ周遊だと話してくれた。私と友達はチェックインが遅かったため、席が離れてしまったのだ
そのご夫婦は窓側の私に、機内サービスで何かと気を回してくれたり、トイレを心配してくれたり、逆に私も窓を明けていてまぶしくないかなど気遣いながら、たわいもない話をした。
いよいよフランクフルト入るころになると何だか別れがたくなってしまい、それなのに最後に「良い旅を」と言いそびれたことが悔やまれてならなかった。
それが帰りの成田行きを待つカウンターで、また再会したのである
「あら~」と言いながら、どちらからともなく握手してしまった(笑)
お互いずっと天気に恵まれ、好きなワインを楽しんできたことなどを話し、帰国したかのように心がホッとしてあったかくなった
「これでまた隣になったらどうする~」なんておばさんが言うから、「もうそれはご縁ですねぇ」なんて返したけれど、帰りの席は同じ並びではなかった。
本当はすでにご縁があったということは間違いないのだけれど。

秋の夜は静かである。静かだからいい
またもや有難い気持ちでいっぱいになってきた。
袖ふれあった人にも、いまだ袖ふれあわざる人にも、今日もいい日でした。
おやすみなさい&ありがとう


最新の画像もっと見る