祇園祭の主役・各山鉾の由来
【長刀鉾】
「くじとらず」の名があるように、山鉾巡行の先頭を受け持つ鉾。命名は、鉾のてっぺんを飾った三条小鍛冶宗近作の大長刀による。宗近が娘の病気平癒を祈願して八坂神社に奉納したが、鎌倉期にある武人が愛用。しかし何かと不思議が起こり、返納したという。大永2(1522)年、疫病がはやり、神託で長刀鉾町で飾ったところ、疫病は退散した。創建は、嘉吉元年(1441)説がある。真木は全長20メートル。現在、稚児が乗る唯一の鉾である。
【蟷螂山】
かまきり山、とも。文字どおりカマキリが屋根の上に乗り、子供たちも喜びそうな楽しい趣向だ。「蟷螂の斧」とは、自分の力のほどをわきまえず、大敵に立ち向かうことだが、その勇猛さを賞した中国の君子の故事が出典。町内の事情で、明治初め以降巡行をやめたが復帰した。
【孟宗山】
中国・24孝の1人、孟宗は、母親が病気になったため、好物のたけのこを求めて竹林を歩きまわったが、寒の季節で1本もない。疲れて座り込んでしまったとき、たけのこが出、母親は元気を回復した話からきている。町名が笋(たかんな=たけのこの意味)町というのもこれに由来する。白綴地に雄渾な筆致で孟宗竹林が描かれた見送りは、竹内栖鳳の筆。極彩 色が多い山鉾のなかで、墨一色が異彩を放っている。
【山伏山】
山に飾る御神体が山伏の姿をしているので、この名前がある。前(さき)の祭りでは一番北の山。役行者山と同様、当時民間信仰として人気のあった修験道・山伏から着想された。正面の水引は、雲中の竜、青海波と麒麟を精緻な刺しゅうで描いた中国からもたらされた豪華なもの。見送りも中国・明時代のものとされる。
【函谷鉾】
「かんこぼこ」とも呼ばれる。中国古代史話、孟嘗君の故事に基づく。戦国時代、斉の孟嘗君は秦の昭王に招かれ、宰相に重用された。しかし讒言によって咸陽を脱出して、函谷関まで逃げたが、関の門は鶏が鳴かねば開かない。配下が鶏の鳴き声をまねたところ、あたりの鶏が和して刻をつくったので見事通り抜けたという。真木は22メートル。鉾頭に、三角形の白麻を張り、先頭に三日月が上向きにとりつけられる。
【占出山】
釣り竿を持った人形は、神功皇后の姿をかたどっている。九州・肥前の川で、鮎を釣って戦勝を占った伝説が由来。この山には「あいわい山」の別名が明治まで語られていたが、町衆に人気のあった山であったことをうかがわせる。色鮮やかな日本三景を描いた胴掛けが特徴。
【綾傘鉾】
徒歩の傘鉾として応仁の乱以前のふるい鉾だが、元治元年に焼けて以来、明治10年代に一時復活したもののふたたび中断。ようやく昭和54年、巡行を再開した。形の上でも変転を繰り返す。江戸期、どうした理由からか、徒歩から引き鉾に変化、御所車風の屋根に風流傘が乗る古図が残る。明治の復活では再び徒歩に。鬼形の踊り手を中心に、棒振り、鉦、太鼓のはやしかたが行列する。
【伯牙山】
戦後に町会所が無くなったため、綾小路に面した旧家・杉本家の表の間の格子を外し、お飾り場にしている。琴をまえに、斧をもった人形は、中国・晋時代の琴の名手・伯牙。怒りの目、紅潮した両頬は、友人の訃報を聞き、悲しみに打ち震えながら、まさに琴を打ち破らんとしている様を表す。明治になり多くの山が名前を改めさせられているが、この山も「琴破(ことわり)山」から改称した記録がある。
【長刀鉾】
「くじとらず」の名があるように、山鉾巡行の先頭を受け持つ鉾。命名は、鉾のてっぺんを飾った三条小鍛冶宗近作の大長刀による。宗近が娘の病気平癒を祈願して八坂神社に奉納したが、鎌倉期にある武人が愛用。しかし何かと不思議が起こり、返納したという。大永2(1522)年、疫病がはやり、神託で長刀鉾町で飾ったところ、疫病は退散した。創建は、嘉吉元年(1441)説がある。真木は全長20メートル。現在、稚児が乗る唯一の鉾である。
【蟷螂山】
かまきり山、とも。文字どおりカマキリが屋根の上に乗り、子供たちも喜びそうな楽しい趣向だ。「蟷螂の斧」とは、自分の力のほどをわきまえず、大敵に立ち向かうことだが、その勇猛さを賞した中国の君子の故事が出典。町内の事情で、明治初め以降巡行をやめたが復帰した。
【孟宗山】
中国・24孝の1人、孟宗は、母親が病気になったため、好物のたけのこを求めて竹林を歩きまわったが、寒の季節で1本もない。疲れて座り込んでしまったとき、たけのこが出、母親は元気を回復した話からきている。町名が笋(たかんな=たけのこの意味)町というのもこれに由来する。白綴地に雄渾な筆致で孟宗竹林が描かれた見送りは、竹内栖鳳の筆。極彩 色が多い山鉾のなかで、墨一色が異彩を放っている。
【山伏山】
山に飾る御神体が山伏の姿をしているので、この名前がある。前(さき)の祭りでは一番北の山。役行者山と同様、当時民間信仰として人気のあった修験道・山伏から着想された。正面の水引は、雲中の竜、青海波と麒麟を精緻な刺しゅうで描いた中国からもたらされた豪華なもの。見送りも中国・明時代のものとされる。
【函谷鉾】
「かんこぼこ」とも呼ばれる。中国古代史話、孟嘗君の故事に基づく。戦国時代、斉の孟嘗君は秦の昭王に招かれ、宰相に重用された。しかし讒言によって咸陽を脱出して、函谷関まで逃げたが、関の門は鶏が鳴かねば開かない。配下が鶏の鳴き声をまねたところ、あたりの鶏が和して刻をつくったので見事通り抜けたという。真木は22メートル。鉾頭に、三角形の白麻を張り、先頭に三日月が上向きにとりつけられる。
【占出山】
釣り竿を持った人形は、神功皇后の姿をかたどっている。九州・肥前の川で、鮎を釣って戦勝を占った伝説が由来。この山には「あいわい山」の別名が明治まで語られていたが、町衆に人気のあった山であったことをうかがわせる。色鮮やかな日本三景を描いた胴掛けが特徴。
【綾傘鉾】
徒歩の傘鉾として応仁の乱以前のふるい鉾だが、元治元年に焼けて以来、明治10年代に一時復活したもののふたたび中断。ようやく昭和54年、巡行を再開した。形の上でも変転を繰り返す。江戸期、どうした理由からか、徒歩から引き鉾に変化、御所車風の屋根に風流傘が乗る古図が残る。明治の復活では再び徒歩に。鬼形の踊り手を中心に、棒振り、鉦、太鼓のはやしかたが行列する。
【伯牙山】
戦後に町会所が無くなったため、綾小路に面した旧家・杉本家の表の間の格子を外し、お飾り場にしている。琴をまえに、斧をもった人形は、中国・晋時代の琴の名手・伯牙。怒りの目、紅潮した両頬は、友人の訃報を聞き、悲しみに打ち震えながら、まさに琴を打ち破らんとしている様を表す。明治になり多くの山が名前を改めさせられているが、この山も「琴破(ことわり)山」から改称した記録がある。