昭和は遠くなりにけり この国を愛し、この国を憂う がんばれ日本

昭和21年生まれの頑固者が世相・趣味・想いを語る。日本の素晴らしさをもっと知り、この国に誇りを持って欲しい。

逝きし世の面影で語られる旧き良き日本8

2016-02-13 02:16:26 | 日本の素晴らしさ
もう少し”日本賛美”を別な面で網羅してみよう。まず、工芸品・職人の技も絶賛されている。
イザベラ・バード「桶屋と籠屋は職人仕事の完璧な手際を示し・・・・・用材の慎重な選択と細部の仕上げと趣味への配慮によって、一個の芸術品になっている」

アンベール「江戸の職人は真の芸術家である」

アリス・ベーコン「日本の職人は本能的に美意識を強く持っているので、彼らの手から作り出される物はみんな美しい」

モース「一件簡素な日本家屋の部分部分に”指物師の工夫と芸術心”が働いている。大工は仕事が優秀であるばかりでなく”創意工夫にたけた能力”を持っている。アメリカの大工より技術的に上だ」

ムラヴィヨフ艦隊の一員テイリー、宿舎の三田の寺で大工の働きぶりを実際に見て
「20人ほどの大工が半裸で庭で忙しく働いていた。板を引き割り、それをまるで手品のように椅子やテーブルなどヨーロッパの備品に変えてゆく。
彼らは疑いもなく世界で最も熟練した指物師であり大工だ。私はずっと彼らのすることを見つめ、彼らの手際を快く感じていた」

国民観察は色々な角度で・・・・・・・・
メアリー・フレーザー(英国公使の妻)
「この国の下層の人々は、天が創造し給うたさまざまな下層の人間の中で、もっとも生き生きとして愉快な人々」

イライザ・シッドモア(度々来日の米人)「日本は汲めど尽きぬ何かを持った、意外性の国です。その新奇なものたるや、日本人の生活では、ほんの日常的なことなのです」

ディアス・コバルビデス「日本の女性の着こなしは粋だ。普通下に着けているものの方が派手で鮮やかであり、上のものはやや地味な色合いである」

モース「日本の家屋は一件無造作に見えるが、細部は様々な工夫と装飾に富んでいる。
中でも素晴らしいのが”欄間”で、デザインも彫り上げる技術が素晴らしいが、それが名も無き地方の職人の手によってなるものである事は特筆すべきことだ」
「なぜそうした事実があるのか。日本の職人は”単に年季奉公をつとめあげた”のではなく、”仕事を覚えた”のだ。従って”自由な気持ちで働いている”のであり、”日本人は芸術的意匠とその見事な出来栄えを賞賛することができる人々”なのだ」

チェンバレン「この国の魅力は下層階級の市井の生活にある・・・・・日常生活の隅々までありふれた品物を美しく飾る技術にある」

同じくモース「(ヨイトマケの作業を観察して)日本の労働者は働く時は唸ったり歌ったりする。これは、労働の辛さを、気持ちの良い音か拍子で軽める面白い国民性だ」
*私はこれに関して、例えば”酒屋唄”や”船頭唄”があるのも日本独特かなと思っている。

タライトナー中尉(オーストリア)有馬へ向かう途上、陶器・食料を運搬する山間地の住民に行き会って
「荷物を担いでいる人たちは裸に近い恰好だった。肩に竹の支柱をつけ、それに大変重い運搬籠を載せているので、その重みで支柱の竹筒が今にも割れそうだ。
彼らの身のこなしは走っているのか歩いているのか見分けのつかない態のものだ。汗が日焼けした首筋をしたたり落ちた。
しかし、かくも難儀な仕事をしているのにもかかわらず、この人たちは常に上機嫌で気持ちの良い挨拶をしてくれた。彼らは歩きながらも、締め付けられた胸の奥から仕事の唄を口ずさむ。喘ぎながらうたう唄は、左足が地面につく時、右足が大股に踏み出す力を奮い立たせる」

又々モース「モースは小樽で、おそるべき体力を持った老婆に出会った。彼女は天秤棒を担いで帆立貝の行商をしているのだったが、その荷はモースと彼の日本人の連れが持ち上げようとしても、どうしても上がらぬほど重かった。
彼らが断念すると老婆は静かに天秤棒を担ぎ上げ、丁寧にサヨナラを言うとともに”絶対的な速度”で立ち去っていった」
「この小さなしなびた老婆は、すでにこの荷物を数マイル運搬してきたにもかかわらず、続けざまに商品の名を呼ぶ程、息が続くのであった。*勿論この老婆は当時の小樽の行商の中で、特別の力持ちだったわけではなかったろう」

日本の子どもたちに対する記述も多い。
日本について「子どもの楽園」という表現を最初に用いたのはオールコックである。
彼は初めて長崎に上陸したとき、”いたるところで、半身または全身はだかの子供の群れが、つまらぬことでわいわい騒いでいるのに出くわして”そう感じたのだが、この表現はこののち欧米人訪問者の愛用するところとなった。
事実、日本の市街は子どもであふれていた。スエンソンによれば、日本の子どもは「少し大きくなると外へ出され、遊び友達にまじって朝から晩まで通りで転げまわっている」のだった。

エドウィン・アーノルドは1889(明治二十二)年来日して、娘とともに麻布に家を借り、一年二ヵ月滞在したが、「街はほぼ完全に子どもたちのものだ」と感じた。
「東京には馬車の往来が実質的に存在しない。四頭立ての馬車はたまにしか見られないし、電車は銀座とか日本橋という大通りしか走っていない。馬にまたがり、鞍垂れをつかんで走る別当を連れて兵営を往き帰りする将校にときたま出会うくらいだ。こういったものは例外だ。

従って、俥屋はどんな街角も安心して曲ることができるし、子どもたちは重大な事故をひき起す心配などこれっぽちもなく、あらゆる街路の真っただ中ではしゃぎまわるのだ。
この日本の子どもたちは、優しく控え目な振舞いといい、品のいい広い袖とひらひらする着物といい、見るものを魅了する。手足は美しいし、黒い眼はビーズ玉のよう。そしてその眼で物怖じも羞かみもせずにあなたをじっと見つめるのだ」。

モースは東京郊外でも、鹿児島や京都でも、学校帰りの子どもからしばしばお辞儀され、道を譲られたと言っている。
モースの家の料理番の女の子とその遊び仲間に、彼が土瓶と茶碗をあてがうと、彼らはお茶をつぎ合って、まるで貴婦人のようなお辞儀を交換した。「彼らはせいぜい九つか十で、衣服は貧しく、屋敷の召使いの子供なのである」。

彼はこの女の子らを二人連れて、本郷通りの夜市を散歩したことがあった。
十銭ずつ与えてどんな風に使うか見ていると、その子らは「地面に坐って悲しげに三味線を弾いている貧しい女、すなわち乞食」の前におかれた笊に、モースが何も言わぬのに、それぞれ一銭ずつ落し入れたのである。
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