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昭和は遠くなりにけり この国を愛し、この国を憂う がんばれ日本

昭和21年生まれの頑固者が世相・趣味・想いを語る。日本の素晴らしさをもっと知り、この国に誇りを持って欲しい。

転載 縄文人の悠久なる旅13

2012-01-13 13:08:10 | 歴史・神秘
牛乳を消化する消化酵素(ラクトーゼ)が少ない為、飲むとお腹がゴロゴロする民族が分布する地域と、「酸っぱい魚」を好む民族の住む地域が何故か重なる。
飛鳥時代にはチーズ(醍醐と呼ばれたらしい)や牛乳は有ったが、広まらなかったところを見ると体質的に合わなかったようで、明治時代から積極的に利用するようになった。

乳を利用しない地域は、東南アジア、ニューギニア、オーストラリア北部、中国、台湾、朝鮮半島、シベリアを横断しスカンンビア半島、アフリカ中央部に広く分布している。
アメリカ先住民も当然アジア出身民族なので「ノンミルク」である。
「牛乳大嫌い人間」は食べず嫌いの偏食家ではなく、体質に起因している。同じ体質を持った遺伝子的関係が想定される。

反対に「牛乳大好き人間」が住むインドが東南アジアに文化的な影響は多大なものがあり、その代表がヒンズー教や仏教で、頻繁な往来が有ったが、それでも牛乳文化は受け入れなかった。
インド人は基本的にはヨーロッパから移動してきた民族である。

「牛乳大好き人間」の代表人間は中央アジアの草原地帯を根拠地とした遊牧民族だが、彼等は牛乳からバター、チーズなどの発酵食品を作り出した。
バターを作るときに欠かせない道具として、牛乳を入れる桶(チャーン)と攪拌用の棒(チャーナー)が有るが、アイルランド、フランス、モンゴル、チベット、プータンに同じものがあり、これが「牛乳大好き人間」の繋がりを示している。
その草原の北方の森林地帯を占領したのが狩猟・漁労民族で、牛乳大嫌いで、酸っぱい魚大好き人間達であった。

シベリアの極寒地帯には草原で牧畜を営む遊牧民族には住むに適さない為に、侵略されない安全な地域であって、うまく住み分けられてきた。
シベリアのツングース族もフィンランドのラップ族トナカイを家畜にして飼い、交通機関として双方がソリやスキーが用居られており、その起源がどちらか意見が分かれているところだ。
シベリアは古くから毛皮を産出し、交易品として、トナカイはそれらを搬送する交通機関として古来より利用されてきた。

中国の文献「後漢書・鮮卑伝」に、2世紀後半にモンゴル系遊牧民「鮮卑(せんぴ)」が、アムール河沿岸に住んでいた「倭人の国」を襲い5000人余もの人を拉致したとある。
人口の急増で食料が不足した鮮卑が湖で魚を捕らえ食用にせざるを得ない状況で、漁労民の倭人を拉致し、連行して魚を採取させたと書かれている。(三国志にも記載されている)

日本列島とアムール河には「双子の兄弟」のような国があり、日本海を挟んで盛んに行き来していたようで、鮮卑族の出自は満州北部の鮮卑山と言われていて、その東側には大陸の漁業先進地アムール河流域が広がっている。
三内丸山遺跡からは、ソバ、ヒョウタン、エゴマ、リョクトウ、をはじめ、タイマ、やゴボウ、それに栽培植物のイネなどが発見されていて、これらの作物はすべて日本原産ではなく、アジア大陸から伝来されたものである
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転載 縄文人の悠久なる旅12

2012-01-13 13:07:14 | 歴史・神秘
イベリア半島は不思議なところで、まるで縄文人が突然、落下傘で降り立ったかのように、環状列石を始めとする巨石建造物が造営され、「正倉院様式」が建てられた。紀元前4500年を境に突然、土器や巨石記念物が作られるようになり、その時姿を現したのがバスク人で、「どこかれともなく」やって来たという。

縄文人が世界に先駆けて土器を発明してからすでに5000年が経過している。
エクアドル出土の縄文土器は6000年前、ニューヘブリデス諸島では5000年前に突如として出現して、ヨーロッパでも同じような時期(6500年前)に土器作りが始まっている。
南太平洋に土器が出現(前1600年)したのも突然現れたラピタ人で、その血を引くのが現在のポリネシア人だ。
そのラピタ人のルーツは縄文人の可能性が極めて高い。
新しい文化が登場するということは、それはたいがい別の文化を持った人が他所からやって来た事を意味し、その良い例は弥生文化で突然始まった外来文化である。

バスク語は、他のどのヨーロッパ語にも属さない言語で、日本語に似た原語であると言われ、5母音で開音節が比較的多く、動詞が節の最後に来る、膠着的(テ、ニ、ヲ、ハ)であり、アイヌ語に非常に近い形態言語といわれている。
バスク人の文化・言語がコーカサスのグルジア人と共通している。
コーカサス山脈と黒海に臨み、トルコと国境を接する国(日本ではヨーグルトを食べる長寿国でおなじみ)である。
バスクとグルジアにある闘牛の伝統も日本の新潟山古志村、四国宇和島の和霊神社神事として残っている。

海岸部のバスク人も縄文人と同じく漁労民で、遠く大西洋に乗り出してクジラを採る海洋民族で一方グルジア人は山岳部に住んでいたが、縄文人と同じくブタを食べ、「正倉院式」高床式木造住宅に住む民族で、しかし近くの他の人々が日干し煉瓦や粘土の家に住んでいる。
クルジア、アゼルバイジャン、アルネニアなどのコーカサス地方は、高い山がせまる風景までが日本にそっくりと大宅壮一氏が描写し、グルジアの首都トリビシは「温泉」と言う意味で、多くの温泉が湧き、地震が多いところや、言語もロシア語とも違い、頭髪や目の色が黒いなどアジア人に近いといわれている。

さらに西に向うと、スカンジナビア半島に最も濃密に「正倉院」が分布し、日本のような完全な島では無いが、共に大陸の縁辺部で北よりに位置し、漁業と航海の盛んな似た環境の地域である。
フィンランドの習俗は、ツングース族や縄文人を彷彿とさせる。
文化は伝播した始発駅と終着駅で高揚し、最も残存しやすいと言う「法則」にピッタリ当てはまる。

フィンランド人は自称スオミ(Suomi)という。
語源に諸説は有るが、その一つにSuomu(s)=魚のウロコに由来しているという。
ウロコは魚皮の事であるから中国人がホジェン族等のツングース族を指し「魚皮套子(ユピターズ)」と呼んだのと共通し、魚を好む日本人がアジアの「魚皮套子」なら、ヨーロッパの「魚皮套子」はフィンランド人となり、フィンランドという呼び名は英国人がフィン(魚のひれ、魚類)からきた呼び名である。

日本人が好む発酵食品も、かって魚を土中に埋めて発酵させる「なれすし」食品もあり、お隣のスエーデンにはニシンを発酵が始まったら加熱処理をせずに缶詰加工し、腐敗ガスで膨らんだ缶詰を食べる「シュール・ストレンミング」という世界一臭いと言うことで有名な食品がある。
シベリアでも魚を保存するに、凍らせるだけではなく、特殊な穴の中で塩を用いないで発酵させた「すっぱい、キスラヤ」という強烈に臭い「なれずし」が存在する。(井上靖の「おろしや国酔夢譚」という小説でも17世紀末のカムチャッカ半島の「酸っぱい魚」という名で紹介されている。
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転載 縄文人の悠久なる旅11

2012-01-13 13:06:28 | 歴史・神秘
日本とヨーロッパを結ぶ不思議な現象は、まず自分達はアジアから来たという「アジア起源伝承」を有する民族がいるという事である。
それはフィンランド人(エストニア人も)であり、ハンガリー人、トルコ人である。
日露戦争の際、これらの諸国が日本に親近感を抱いたのはこのためで、フィンランドには今でも日本海海戦の提督東郷平八郎(1847~1934)の肖像をラベルにして「トーゴービール」が存在する。

ヨーロッパに猛威を振るったヴァイキングと東アジアを荒らした倭寇の船に構造が酷似する
フィンランド神話と日本神話が酷似している事も挙げられており、フィンランド語、ハンガリー語、日本語は「ウラル・アルタイ語」に属し、言語学的には同じ仲間とされ、住所表記もハンガリーでは「秋田県秋田市○○町」のように大区域から小区域へと表記し、血液分布もハンガリー人と共通しているとの報告もある。

フィンランド、ハンガリー、トルコ、日本の国民は揃って風呂好きで知られる国柄と言われ、フィンランド、トルコ、スペイン、ポルトガルは魚好きで知られている。文化も嗜好も確かに似ていて、これを「他人の空似」と見るか、それとも過去の交流を物語る痕跡と見ると、他にも別の文化に共通する痕跡が有ると思われる。
ユーラシア大陸上に「日本文化」「縄文文化」の残存量が多いと、祖先が移動した軌跡として確実な証拠となることは明白である。
まずその東西に連なる不思議な遺跡は「環状列石」が挙げられる。

英国、オークニー諸島、エイヴァリー、ストーンヘンジ。
フランス、カルナック。  シベリア、ミヌシンクス。  中国甘粛省、大河荘。  日本、鹿角大湯。
これらは東西にユーラシア大陸を横断するように並び、北緯58度から北緯35度付近に位置し、紀元前2500年から大湯の紀元前2000年と、年代差は「500年」しか違わない。年代測定の誤差などを考えると、ほぼ同時期といってもいい範囲である。

夏至の太陽位置を観測した事を物語る設計思想が全く同じ所から見ても、単なる遺体埋葬が目的であれば天体観測を付設する必要は無く、従って、形態が「環状」を呈しているのも偶然ではあるまい。
これと同じように「ユーラシア大陸シベリア横断線」を「環状列石」が駆け抜けたのである。
環状列石の立地も共通して、海や川を見下ろす見晴らしの良い場所に築造されている。
北欧のバルト海沿岸やスペインのガルシア地方からポルトガルに至るイベリア半島にも巨石建造物が存在し、奇妙なことに「正倉院」が存在する地域と一致する。

思い返せば、三内丸山遺跡ではこの二つが揃っている。
「三内丸山村」の正面入り口には道の左右に環状列石の墓が点々と並び、その奥の村の中央に三棟の「正倉院」が建っている。

ユーラシア大陸の西の果て大西洋沿岸と東の果て太平洋岸で、人々は同じような風景の中で暮らしていて、食事でも一般の西洋人が嫌うタコを好んで食べ、イワシやアジを炭火で盛大に煙を立てて焼く、シーフード好きなポルトガル人やスペイン人が居て、日本人意外あまり食べないとされる「海藻」も、ストーンサークルの存在する場所に住む人達が食べているという一致点がある。

さらに奇妙な一致点に環状列石分布地帯には、死者と共に「ヒスイ」のペンダントやネックレスを埋葬する事である。
古代縄文人はヒスイや緑色の石に、死者を甦らせる霊力が宿ると考えていた。今日のダイヤモンドに匹敵するか、それ以上に高価であったに違いない。死者の再生を願い墓に埋葬したに違いないだろう、今日のオマジナイ程度ではなく、切実な思いでヒスイに思いを託したであろう。

中米・ユカタン半島のマヤ遺跡からはヒスイ製の仮面(デスマスク)が出土し、メソ・アメリカでもヒスイ・パワーが信じられていた。
スペイン、ポルトガル、フランスなどの環状列石分布地帯の墓から出土するヒスイのペンダント類もスイスやイタリアのアルプスを越えて運ばれる相当貴重なヒスイに死者の再生を願った。
「死者再生」という死生観、人生観、宇宙観も一致する文化の分布地は縄文人の移動した事を表していて、世界最古のヒスイ文化圏の日本から広がった風習である事に間違いが無い。
現代になってヒスイの原産地糸魚川と判明するまでは、中国から運ばれたとされて来たが、中国で死者の口中に含ませるヒスイもビルマ産であった。
 
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転載 縄文人の悠久なる旅10

2012-01-13 13:05:03 | 歴史・神秘
ミトコンドリア(母系に100%遺伝する遺伝子)で見たら、現代の全人類が約20万年前、更新世後期の初め頃に出現したネアンデルタール人に取って代わったのが、現代のヨーロッパ西部、南部の人達の祖先に当たるクロマニヨン人(4万年前に出現)に祖先を持つといわれている。
コンピューターの発達によりDNA解析が進み、一万年に一回環境適合などによって形を変えるといわれている、ミドコンドリアDNAを辿ると、アフリカのたった一人の母親に行き着きます。
そこから、全ての現代の人類は、35人の母親から生まれたそうです。極論からすると、約20万年前に遡ると人類皆兄弟です。

その中から、日本人のルーツと言われている母は、9人となっているそうで、約95%がその子孫となっております。
その9人からは、以下のように拡がって行きました。

「1」、アジア最古の母(D)
バイカル湖西部周辺から、約6万年前日本人の34%を占めていて、長寿で寒さに強い、体温を逃がさないよう皮膚や瞼が厚く、細目、小太りで胴長の身体的な特徴を持ち、一部はベーリング海峡を渡りアメリカ大陸へと渡った。

「2」、原日本人(M)
東中国(上海、蘇州、南京周辺)で約4万年前に発生し、南方系に適応し、古くから日本に住みついた、縄文人などのルーツと言われ、熱を体内に貯め難い丸味を持つ小柄な体型で、広い鼻が特徴。中国南部から海を渡り、台湾、琉球(沖縄)、インドネシア、フイリピンち分布する。

「3」、世界一の冒険者(B)
南中国で約6万年前に誕生し、日本人の15%存在する。陸路をアメリカ大陸に渡り、広く南下し、南アメリカや海流に乗り、日本や、南方はアセアニアの島々、環太平洋に広く分布する。

「4」、北の旅人(G→Y)
東シベリアで約3万年前に誕生し、日本人の7.5%で、広く南下し、朝鮮半島、中国や中央アジアに分布する。

「5」、バイカル湖発祥(A)
バイカル湖畔域に約2~3万年前に発生し、日本人の6%に見られ、D型同様に寒冷地に適応し、東アジア(シベリア~中国南部)に広域に達した。さらにベーリング海峡を渡り、北アメリカの先住民の先祖となった。

「6」、東南アジア最大(F)
北ベトナム、ラオス、中国国境付近で、約4~5万年前誕生し日本人の5%痩せた体型で汗腺が発達していて、日本には朝鮮半島経由で渡来し、一部は中央アジアに達した。

「7」、ヒマラヤ、山岳民(M9)
ヒマラヤ山岳地帯、チベット周辺に約4万年前に生まれ、日本人の3.4%、中央、東アジアに分布する。

「8」、長距離冒険者(CZ,M8a)
北東アジアで約3~4万年前に誕生し、日本人の3.2%存在する。シベリア経由でベーリング海峡を渡り、南アメリカにまで達する。
西は北欧(氷原の狩人ラップ人)、フインランドまで到達した。

「9」、中国起源渡来人(N9)
M7と同じく東中国で2~3万年前に、日本人の7%に存在する。縄文以降の比較的新しい時代に朝鮮半島経由で渡来した。

余談だが、秋田県を中心とした東北の一部に、明らかに白人との混血が多く存在している事が知られている。
その証拠として、元々欧米人にしか無い、JCウイルスーヒト・ポリオマウイルス(DNAに感染するウイルス)の一種に感染が診られる。
秋田美人の特徴と称えられる肌の白さは、色白な東北でも群を抜く特徴を持っている。
DNAと遺跡からの推測では、縄文期の交易時代、白人の遺伝子を運び込んで来た者が、東北の一部に住み着いたのではないだろうか。
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転載 縄文人の悠久なる旅9

2012-01-13 13:03:57 | 歴史・神秘
ロシアと中国の国境地帯を流れるアムール河(中国名黒竜江)の流域にかって、奈良の正倉院にそっくりな建物が点々と並んでいた。
正倉院の建物規模から見ると遥かに小さいが、丸太を組んだガッシリとした造りで、床下は幼児が立って通り抜けられる高床式で正面に板戸が取り付けられ、ハシゴで登るようになっていて、構造的には正倉院と全く同じものであった。

住民はツングース族と呼ばれて、彼らの住居には神社の入り口にあるのと同じ鳥居が建ち、風貌も日本人そっくりで、大陸にありながら彼らだけが魚を常食する漁労の民である。社会は氏族制で、シャーマニズムを信仰し、冬は犬ソリで移動した。
現在は中国側でホジェン(赫哲(せきてつ))族、ロシア側でナナイ族と呼ばれ、小数ながら健在である。

中国人から見ると魚の皮で作った服を着る異形に見えたので「魚皮套子(ユピターズ)」という名前を付けられている。
アイヌ民族も魚皮を用いており、サケ・マスの皮で積雪用の靴を作っていた。大戦末期の日本軍はサメの皮で軍靴やカバンを作っていたので、日本人も立派な魚皮套子である。
ツングース族は古くはスコットランド人のように男子も魚皮のスカートをはいていたと言う。
その名称は「コスク」、「ホシアン」、「フシカニ」と呼ばれ、日本語の「コシマキ」が起源だとする説がある。
さらにツングース語の「ハラ」、「カラ」という同胞を意味する言葉も日本語の同胞を意味する「ハラカラ」に由来するといっている東洋考古学の江上波夫説がある。

北海道の北に位置するサハリンと大陸間の間宮海峡に注ぐアムール河流域に住むツングース族が鳥居の門に、正倉院造りの倉庫を持ち、船を使い漁労を生業としている事から、縄文人との関連を裏付けられ、アムール河沿岸ばかりか、「正倉院」は北アメリカにも分布し、シベリアを西へ途切れる事無く続き、フィンランド、スエーデン、ノールウエーなど北欧にまで連なっている。
北欧にまで達した「正倉院」は「ロフト」と呼ばれ、ここでも倉庫として機能している。

「正倉院の道」は北欧では行き止らずに、スイスにも存在し、スペインの大西洋岸にも存在する。
スペイン西北のガルシア地方にオレオと呼ばれる穀物倉庫として、漁村にしろ、山村部にも高波や、或いはネズミ被害から守る為に高床式の構造で3万5千棟以上もあるといわれている。
正倉院はユーラシア大陸の東の果ての日本から、西の果てのスペインまで延々と連なっている。

どこで「正倉院」は誕生し日本に来たのだろうか。
最も濃厚に分布するのは東南アジアで、人類が誕生したアフリカから世界に広がった人の流れから、日本文化に東南アジア的要素が加わり、やがて正倉院はシベリアで東西に分かれて進み東に向った流れはアメリカへ、西に進んでシベリアから北欧やスペインの正倉院なのかも知れない。
シベリアは特産の毛皮の交易路に重なり、近世になるとペテルブルクへの茶の輸送路となり、晴れた日のシベリアの冬道はイヌソリ移動で快速移動が可能で、その道に沿って近代にはシベリア鉄道が建設された。

日本とヨーロッパは歴史をさかのぼると、遠くかけ離れているような文化圏が、実は驚くほど相似形の文化を営んでいる。
中央アジアのオアシス伝いにユーラシアの東西を結ぶシルクロードが華やかな脚光を浴びている事に対し、「ユーラシア大陸シベリア横断線」は、歴史が忘れてしまった「知られざるシルクロード」とも言うべき縄文人の移動の軌跡である。
 
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転載 縄文人の悠久なる旅8

2012-01-13 13:03:19 | 歴史・神秘
ベーリング海峡・北太平洋横断線の存在が人類学からも立証された。
2001年夏、米国ミシガン大学教授C・ローリング・プレスを中心とする米国、中国、モンゴルの共同チームが「アメリカ大陸一番乗りは縄文人」と発表した。

アメリカ大陸で発見された千数百個の頭蓋骨の特徴を分析し、9000年前より古い地層から出土した人骨の形状から、東アジア大陸の人達との共通点は少なく、日本の縄文人やアイヌ民族、太平洋のポリネシア人に似た構造を持っていることが判った。
これらの人たちの顔立ちは立体的で彫が深く、ヨーロッパ人やその祖先とされているクリマニョン人にも近く、過去に遺伝的な繋がりがあった可能性があるとする。
縄文人の作った船に似たカヌーをアメリカ先住民も広く使用していた。
おそらく、最初に来た人たちは米国西海岸沿いを、食料を求めてカヌーで南下したのではと説明している。

現在のアメリカ先住民は、民族によって顔立ちも違っていて、イヌイットのように直系の祖先がハッキリしない人たちもいるが、ブレスは、ナホバ族は東アジアの大陸系の人に近く、スー族やチェロキー族は縄文人に近い特徴を持っているとのこと。
これは、縄文人が日本列島を拠点にベーリング海峡・北太平洋横断経由でアメリカ大陸に渡った事を意味し、南太平洋・ポリネシア横断経由で移動した縄文人がポリネシア人になったことを示唆する。

アメリカ先住民のイロコイ族には、はるか1万年以上も前、アジアから渡った時の模様を記憶している人がいる。その口承史を本にして500ページ分に相当する記憶を先祖代々語り継がれてきた。
物語は日本列島と思われる島の叙述から始まり、海を越えアメリカに渡ったと伝えられている。
北米ではネイテブ・アメリカンとなって暮らし、中米に渡った人たちはマヤ文明を築き、南米にはインカ帝国を建国した、いずれもアジアに由来する文化であった。

コロンブスはカリブ海の島に到達したとき、アジア大陸の一角に到達したものと思っていた。
そこを未知の大陸と気付くのは、後から来たイタリア人探検隊アメリゴであり、それゆえ新大陸は「アメリカ」と命名された・・・が、コロンブスはそこを死ぬまでアジアと信じていた。
それは無理からぬ事で、其処に住んでいた人たちはすべてアジア人であったからだ。
 
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転載 縄文人の悠久なる旅7

2012-01-13 13:02:38 | 歴史・神秘
縄文人は太平洋大航海をやってのける前に、縄文初期にアメリカに渡っていた。アジアとアメリカが接するベーリング海峡を渡って行った。最も狭い所では85キロでしかない、千島列島―アリューシャン列島を島伝いに渡って行った。
今から何万年前のこと、今より遥かに寒い時期があり、海面が100メートルも低く、ベーリング海峡が陸続きで歩いて渡る事が出来た。
今日のインデアンとかインデイオと呼ばれているアメリカ先住民はすべてアジアから渡っていった私達と同じアジア人である。

海水が結氷し陸地が露出するほどの寒さは並大抵の寒さではなかったはずである。
アフリカ生まれの人類は寒さに弱かったが、シベリアに到達した人類は、寒さに対する適応戦略を編み出したのである。彼らは毛皮で作った防寒衣を発明し、炉を据えた半地下式の住宅を考え出した。
イヌイットの氷の家は、アザラシの脂(あぶら)を燃やしたランプ一つでホカホカするほど温かくなるという。

顔が扁平なのは凍傷を避ける為に身体が適応したと言う学者もいるそうです。
こうして防寒訓練を十分に積んだ人類は陸化したベーリング海峡を渡ったと・・・最近までの通説であったが、実際に出土する遺物はそんなに古くはさかのぼらない事が明らかになって来ている。

アメリカに渡った時期は、寒さが緩んでからで、クローヴィス型尖頭器という石器の出土品で判った。
マンモス狩りの槍先として用いられた打製石器で、時代測定の結果1万1500年~1万1000年前という数字が出て来た。
このクローヴィス型の石器を付けた槍を携えた人達こそ「最初のアメリカ人」となったクローヴィス人である。
クローヴィス人たちは無氷回廊を南下し、これまでの景観を一変させるような大平原が広がり、マンモス、ウマ、ラクダ、パイソンなどが生息していた。

彼らは瞬く間に北米の獲物を取り尽くし、新たな獲物を求めて南へと進路を取り続けた。
南米に入ると、それまでの木の葉に似たクローヴィス型尖頭器を魚尾型尖頭器に替えて南下し1万400年前には南端のフェゴ島に到達する。600年から1100年の間に、猛スピードで南北アメリカを駆け抜けたのである。
世界で最初にトウモロコシ、インゲン豆、トウガラシ、カボチャ、ジャガイモ、サツマイモを栽培したのは彼らの後輩達であり、その子孫達がマヤ文明(2300年前)、オルメカ文明(2200年前)を花開かせ、ナスカに不思議な地上絵(1800年前)を描く事になる。

1万1500年前~1万1000年前に世界で最初にベーリング海峡を渡ってアメリカ人になったクローヴィス人とは一体誰なのか、この答えは肌身離さず携えていたクローヴィス型尖頭器と名付けられた槍先のルーツをさかのぼれば、彼らが何処からやって来てかがわかる。

不思議な事にアラスカの対岸に最も近いシベリアでは全く出土していない。
シベリアは早くから石器文化が花咲き、マンモス狩りが盛んに行われていたが、マンモスはシベリアからアメリカに渡っているのに、シベリアからはこの石器は出土していない。
これはクローヴィス人はシベリアを通過しないで海路で、アジアからアメリカに渡った事を物語る。

海を越えたのであれば、船という移動手段を知っていた、その最有力候補は日本列島に住んでいた縄文人で、北米大陸に一番近い大文明である「縄文文明」を築いた史上例を見ない大移動民族の縄文人が最初のアメリカ人だった可能性が十分にある。

縄文土器に似た土器の出土として、カムチャッカ半島、セントローレンス島(ベーリング海峡)、からロシア・レニングラード近くのラードガ湖まで発見されていて、ネイテブ・アメリカンが使っている土器が縄文土器に類似した土器が出土している。

アラスカのエスキモーからインカのインデオなどに「海草」を食べる習慣が有る。
外国人から見ると海のゴミにしか見えないそうだが、その真っ黒な物を好んで食べる人達が南米にもいる。
それも高い山の中に住んでいる山岳民族で、年に一度海岸にやって来て、一年分の乾燥海苔を作って山に持ち帰っている。
中南米ではペルー、ボリビア、チリの原住民だけの習慣である。
太平洋沿岸ではハワイからニュージーランドに至たる一円でも同じような海草を食事に取り入れているこれらの食事風習は民族の移動の道筋が見えてくるような証拠ではないだろうか。
 
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転載 縄文人の悠久なる旅6

2012-01-13 13:01:55 | 歴史・神秘
これほどの大航海をやってのけたから、さらに南米まで達した可能性は大いにある。
その証拠としてサツマイモが取り上げられる。
サツマイモは南米原産が定説で、ヨーロッパ人がポリネシアに足を踏み入れた時にはすでに南太平洋全域で栽培されていた。
これはポリネシア人が南米から持ち帰ったものと考えられる。

チリの沿岸でポリネシア人の特徴を持つ古人骨が見つかっており、研磨石斧や石の棍棒、さらにハワイなどで見つかった縄文人特有の形式を持つ釣り針が北アメリカや南アメリカ太平洋沿岸で多数発掘されており、間違いなくアメリカ大陸まで到達していた証拠である。

アジア大陸とアメリカ大陸両岸に分布する古代船の形式が共通していることが、アジア人=倭人 が太平洋を渡った証拠とする学説を唱える学者がいる。さらにエクアドルの帆走イカダとアジア沿岸のイカダは起源が同じだと説く学者もいる。
西はアラビア半島とソマリア半島の突端から始まり、インドの南端をかすめてマレー半島、インドネシア、フイリピン、中国南部、台湾、朝鮮半島南端、九州、四国を通り、ニューギニア北岸からメラネシア、ボリネシアと回廊状に分布域は延びて、エクアドルに達している。

アウトリガーカヌーの分布と重なっているが、アウトリガーカヌーの分布はポリネシアで途切れていて、帆走イカダはポリナシアから延びてエクアドルまで達していると前出の学者が主張している。
ヨーロッパ人が始めて見たその帆船の特徴は「丸太を幾本も寄せてイカダを作り、その上には船室を営み、ハシゴ形の帆柱を立て、四角帆を張っている」、「A」字状の二本柱で、使用しないときには帆柱を倒すスタイルはエジプトの古代船と共通していて、起源と考えられる。
それに対しヨーロッパの船の帆柱は立てたままで三角形となっていて形式が異なる。

これらの古代船分布と興味深いのは発酵食品分布は一致している。
古来より日本人は「なれすし・腐れすし」を作り、魚を発酵した汁に漬けた「くさや」、秋田の「しょっつる」が有名な魚醤、野菜の漬物、オオミズナギ鳥などを発酵させて作る肉醤など、多くの発酵食品を作った。
発酵食品はいったん発酵すると絶対腐らない。
人間に有用な腐敗を発酵といい、航海に出る時にはなれすしを携行したと思われる。

太平洋には現在、なれすしは無いが過去には保存食として用いられたであろう。
サモアやタヒチでは現在カツオ、ボラ、マグロなどを刺身にしてライム・ジュースに浸し、マリネにして食べる習慣がある。(現在の日本でいう「早すし」で、握りすしも早すしです)
発酵技術を応用した例として「口噛み酒」が存在する。唾液の糖化酵素の働きで、米を噛んで放置するだけで酒が出来上がる。
沖縄では最近まで作られており、エクアドルやペルー、ボリビアではキャッサバで作られている。

血液学上からの研究で、DNA分析からもポリネシア人と東アジア人は共通性が多いと発表され、南米チリの太平洋岸にチロエ島という小さな島があるが、国立遺伝学研究所の発表によると、きわめて近いとDNA研究で結論付けられ、風貌なども日本人と良く似ていて、着ている衣服も、古代日本人が着用した貫頭衣風の衣服であった。
さらに日本人とアメリカ先住民との間に血の繋がりがあることを突き止めたと発表されている。

南太平洋に進出した縄文人は世界最初の本格的な航海民族だった。
カヌーという優れた船舶を開発した彼らの行動半径は、広大で、東は太平洋のイースター島、西はインド洋のマダガスカル島に至るまで、オーストロネシア語を話す同質文化圏を形成している。

これほど広い領土を持った帝国は、ついに地球上に現れることが無かった。それでいて、武器らしい武器を持つ事も無く、弓は戦争の道具では無く遊具だったという。
まさに「この世の楽園」だった。

南米大陸の最南端にあるマゼラン海峡のさらに南にフェゴ島という島が浮かんでいる。
この島の住民を100年前に写した写真を見ると、狩猟民族のオナ族と言う家族8人が毛皮に包まれていて、どう見ても風貌は日本人そのもので、洋服に着替えてデズニーランドでも歩けば、今でも日本語で話しかけそうで、海を渡ったか、南米大陸を南下したかは判らないが、彼らは確実にアジアからやって来たモンゴロイドである。

この人達こそ、アフリカを出発した人類の中で最も遠くへ到達した人達だ。
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転載 縄文人の悠久なる旅5

2012-01-13 13:01:15 | 歴史・神秘
謎の航海民族、ラピタ人

南太平洋史は謎の集団の登場で始まる。それは突然のことで、しかも彼等は何処からとも無く現れた。
優れた航海術を持ち、土器と言う文明に利器を携えて・・・20世紀の学者は彼らをラピタ人、土器をラピタ土器と名付けた。

出土した人骨は明らかにモンゴロイドの特徴を備え、刺青をする道具を持っていたところを見ると刺青をした高身長で皮膚の色が淡いポリネシアの祖先で、最近の研究ではそのルーツはアジア大陸東岸の線が濃厚で、当然日本列島も含まれている。

ラピタ人が南太平洋に姿を現したのは今から3600年前で、三内丸山村が「廃村」になって400年後の事である。
ニューギニアの北東ビスマルク諸島を中心とする島々に忽然と現れ、たちまちのうち東方に拡散して、メラネシアや西ポリネシアにも分布するようになり、しかし紀元前1000年紀の後半には、あたり一帯からラピタ土器が消えて、ラピタ人の存在が掴めなくなった。

ラピタ人の分布はビスマルク、ソロモン、ニューヘブリデス、ニューカレドニアなどの諸島を数珠繋ぎにし、南東方向に伸び、さらにニューヘブリデスから東方に伸びて、フイジーや西ポリネシアの島々に続き、東に果てサモア諸島まで4000キロを数百年移動していった。
彼等は、東から吹き付ける風と潮流をものともしないで、今から3100年前にはフイジー、サモア、トンガに到達し、1700年前にはポリネシア拡散基地となるマルケサスにたどり着いた。

1500年前イースター島が最初に征服され、1250年前には、ハワイ諸島に到達するグループが現れ、1200年前以降ニュージーランドにも彼等はたどり着き、南太平洋全域への大移動を達成したのである。
勿論出土された土器や巨石遺跡、羽衣伝説等の伝承説話からラピタ人は縄文人と一致する。

この時代のカヌーは順風なら八ノットぐらいのスピードで走行が可能で、75度ぐらいの向かい風でも平気で前進が出来、完全な逆風ではジグザグに、いわゆるタッキング走行で進んだようだ。
積載量はそれこそ無尽蔵で、発酵技術を知っていた彼等は、豊富なパンの実を発酵させたり、魚はカツオを乾燥燻製にして貯蔵する「鰹節」にしたり、水などは竹筒に入れて運んだようで、らくらく1ヶ月間ぐらいの航海は可能で、タヒチからニュージーランド間4000キロをハワイ大学の復元カヌー「ホクレア号」による公開実験が成功している例がある
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転載 縄文人の悠久なる旅4

2012-01-13 13:00:26 | 歴史・神秘
ストーンサークルと伝承説話

ストーンサークル(環状列石)、メルヘル(立石)は、我が国では縄文遺跡に特有の構築物である。
中でも有名なのは、私の住む秋田県は、鹿角の縄文後期と 推定される大湯環状列石だ。

野中堂、万座の二遺跡が有るが、共に二重(内帯、外帯)の石組みが構築されている。
立石遺構は日時計の名で知られている。ドルメンなどと併せて巨石記念物と呼ばれている。

大湯環状列石は古くから祭祀遺跡説、墓地説などが有ったが、土中から人間の脂肪酸が検出されたところから、墓地説が決定的になっているが、現代人の考えるような墓地ではないのだ。

使用されている石材は七キロも離れた諸助山で算出する石英(せきえい)閃緑岩(せんりょくひんがん)である。
一見手頃な石を寄せ集めているようでは有るが、この石にこだわっている様だ。
緑色の石である、太古の昔から世界各地に緑色の石には霊力があり、死者をも蘇らせると信じられた。
中南米のマヤはヒスイで死者の仮面を作り、中国では死者の口中にヒスイを含ませる風習があり、三内丸山遺跡では、幼子の瓶に握りこぶし大の石が添えられて葬られていた。

南太平洋の小島ニューヘブリデス諸島周辺で倭人が追い求めた「重要物資」、当時の世界貨幣である宝貝(子安貝)と真珠を産していた。
さらに縄文土器を使い、環状列石などの巨石記念物を構築していた。

奈良時代、天皇は都(藤原京)の南の中軸線上に葬られた。
これは南=朱雀(すざく)をよみがえりの方向と考えた中国の道教思想に由来するもので、墓は蘇りの訓練所として 位置づけられていた。
こうした再生思想もきっと縄文時代から引き継がれてきたのであろう。

三内丸山の墓地から出てくる土器はわざわざ壊されていた、現在でも出棺の際、死者の茶碗を割る習慣が残っている事も縄文時代にさかのぼる風習であろう。

イギリスのストーンヘンジも大湯環状列石も、夏至の太陽に向けて石が並べられている。
道教思想でも夏は四季の中で最も盛んな季節と考えられ、それは南=朱雀と共に死者の蘇り、再生と関係が有るのだろう。

道教の不老不死思想はエジプトが起源とされる説があり、ピラミットは石の信仰の典型で、夏至の太陽の位置を意識して建造されている。

日本のストーンサークルの分布は、中部、関東から主に東北、北海道に偏在するというと特異な分布をしている。
しかも北に行くほど時代が下がるという傾向にあり、どうやら南から北へと伝わり、北でストーンサークル文化は黄金期に達したようで、その後発掘により伊豆方面に逆に南下して造営されたような痕跡がある。

土器の分布と併せて考えると、縄文時代の後期から晩期になると、東北地方から大移動し伊豆半島から伊豆諸島に移ったと考えられる。

突如として縄文晩期に三宅島で東北の青森県西津軽郡木造町の亀ヶ岡に出土した有名な亀ヶ岡式土器が現れ、東北から大挙して人が移動してきた事の証拠で、新島、 伊豆半島、相模湾、駿河湾にも展開し、鹿角製の離銛(魚体に突き刺さると先端の銛が外れ逃げないようにする漁具)やかえしの付いた釣り針が、彼等が漁労の民であったことを物語る。

やがて三内丸山の人々は伊豆半島を航海の基地として、大船団を作り南の理想郷に船出して行ったであろう姿を 遺構や遺跡、伝承話、風俗、習慣から証拠づけられている。

ではどのような船で遥かな彼方に乗り出したか?
「日本書記」にアウトリガー(丸木船に浮き状の丸太を着けたカヌー)あるいはカタマラン(双胴船、ダブルカヌー)を連想させる記述がある。

履中天皇三年冬十一月条に『天皇、両枝船を磐余市磯池にうかべたまう、皇妃とおのおの分かち乗りて遊びたまう』。
太古の昔から両枝船と呼ばれた双胴の構造を持った船が存在し、遠洋航海に使われた事は間違いの無い事で、  二股小船といわれるアウトリガーカヌーなどは、西はマダガスカル島から東はタヒチ、イースター島にかけて、インド洋、太平洋に広く分布している。

いずれある日を境に一斉に南太平洋を目指す大航海に旅立って行った。
その顕著な証拠はニューヘブリデス諸島のヤムイモ畑で発見された、青森津軽の土で作られた縄文式土器が雄弁に物語っている。

何年かかって到達したであろう、また何人の人が脱落し、多くの悲劇が演じられたであろう。
そしてどんな思いで、緑したたる常夏の島を眺めたであろう。
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転載 縄文人の悠久なる旅3

2012-01-13 12:59:34 | 歴史・神秘
1990年国際シンポジュ-ムで南太平洋に浮かぶ島国 バヌアツ共和国で縄文土器が発見されたと発表された。

ニューカレドニアの北、英・仏共同統治領だったニューヘブリデス諸島が1980年に独立し出来た国で、フランスの考古学者がヤムイモ畑から採取した。
漂流や難破で漂着した可能性は低いと考えられ、定住していた可能性も他の角度から研究していた事で証明されている。(分析の結果日本の青森地方の土で製造された土器と判明)

その根拠は当時シベリア・日本・ミクロネシア・ポリネシアに分布する同系の釣り針が太平洋上の島々に点々と存在し、人が移動し、文化も移動したということは、交通線が存在したからこそ、日本からバヌアツに縄文土器の伝播が可能になったのだ。

紀州の串本・潮岬・大島などこの周辺の漁民が江戸時代の鎖国されている以前から、太平洋戦争前まで、毎年オーストラリア沿岸に貝類採取の出稼ぎ漁業を続けていた。
採ってくる物は真珠で、相当古くからこの海域で真珠が採れる事を知っていた事は驚きで、国禁を犯し発覚したら死罪は間違いない危険を犯し、真珠を持ち帰り、ひそかに広島方面の仲介者に渡され、博多で中国人に売却されたと伝えられている。

村から大勢の人が消えることは村人全員で口裏を合わせ、莫大な渡航費用も準備し、遭難や潜水による事故や病気の恐怖と戦う事もいとわずに、彼等は行ったのは費用対効果を考えても十分に引き合ったであろうと考えられる。
紀州和歌山は熊野水軍の本拠地であり、外征海軍を率いた古代豪族の紀(き)氏が繁栄したところである。
この周辺一帯では太平洋の南の彼方に理想郷「補陀落(ふだらく)」信仰がある。

鎌倉時代の「吾妻鏡」によると食料30日分を積んで航行すると理想郷に到達すると有るが、実際の航海に基づくのではないだろうか? たしかに侏儒国(サイパン島)に渡海が可能である。
また、四国の足摺岬や室戸などにも、この信仰が存在する、「倭種の国」が此処にあったとされる事と無関係とは思われない。

魏志倭人伝に、卑弥呼の死後女王の地位についた「台与(とよ)」が魏の皇帝に倭国の特産品として「真珠5000個」を献上したとある、当時中国では道教の不老不死の秘薬として真珠が尊重され、極上品の献上品は国内産ばかりであったとは言い切れず、太古から南太平洋の島々から採取された真珠が混じっていても可笑しくなく、戦前までオーストラリア沿岸の木曜島に真珠取りに往っており、ニューヘブリデス諸島も真珠貝分布地で、紀州漁民の売り捌き先も中国であった。

紀州漁民に伝わった「真珠伝説」は、あるいは卑弥呼の時代までさかのぼるかもしれない。
そうなると縄文人との航路や停泊地も似通っていたであろうと思われる。
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転載 縄文人の悠久なる旅2

2012-01-13 12:58:51 | 歴史・神秘
エクアドルで発見された縄文土器
太平洋の遥か彼方日本から1万5000キロも離れた南米のエクアドルのバルデイビアで、多数の縄文土器が出土した。
鑑定の結果6000年前の縄文土器で、西日本から太平洋を渡って導入されたと発掘者のスミソニアン博物館、考古学者K・エバンス、B・メガーズ夫妻とエクアドルの考古学者E・エストラーダ3人が日本各地の縄文土器の調査を行い結論が出された。

縄文土器は1万2000年前、縄文人が日本列島で縄を押し当てて文様をつけた土器で、それまで地球上の人類が土器と言うものを知らなかった。ヨーロッパ最古の土器は7500年前であるから、縄文土器は間違いなく世界最古級の土器で、北は千島列島から沖縄まで、広く日本列島に分布している。

縄文人が、この人類史上画期的な大発明によって、単に温かいものが食べられるようになったばかりか、煮炊きする事でしか得られない栄養素を摂取する事が出来、栄養学的にも飛躍的な進歩を獲得した。
その事は生命維持、体力増進、運動能力、作業効率の向上、長命、病気予防といった計り知れない恩恵をもたらし、豊かな食文化を持ちえた縄文人は、アジア人の中でも長生きであって、その事が中国の人達からは日本を不老長寿の国として憧れられた。

縄文人の土器はユニークなその文様で日本中何処へ行っても同じバリエーションのデザインで、これは縄文人が列島を移動した事を表す。ゴテゴテした縄文土器独特のデザインは縄文人の宇宙観を表しているのであるから、縄文人が直接作るか、直接伝授しなければ真似る事が出来ない。
と言うことは日本列島に留まらず、海を越えてはるかな旅を経て、南米の太平洋側エクアドルまで行っていたと言う事になる。

K・エバンス博士はエクアドルの海岸に流れ着いた日本の木材は3ヶ月前に紀伊方面を襲った台風で熊野川の洪水で流出した木材と判明し、海流に乗ると南米の太平洋沿岸まで漂着する事実で、縄文人が太平洋を丸木舟で渡来した事を確信した。
丸木舟で果たして3ヶ月間も生命が保てたかは、小形ヨットで3ヶ月間単独太平洋横断した堀江謙一氏が証明しているし、復元された古代船「野生号」は太平洋を横断しエクアドルに到達し、縄文人が遥かな航路を乗り切った事は疑いの無い事実であろう。

中国の史書「魏志倭人伝」にそれを示唆するような記述がある。
『女王国の東へ、海を渡って千余里のところにまた、国がある。みな、倭の種族である。また、侏儒(しゅじゅ)国がその南にある。この国の人の背丈は三、四尺で、女王国からの距離は四千里余りである。また、裸国や黒歯国がその東南にある。其処へは船旅一年で着く。』

女王国は卑弥呼(ひみこ)で有名な邪馬台国(やまたいこく)のことで、ここから約千里航行した所(当時の距離を現代の距離に換算すると約434キロ)にも倭の種族が住む土地があった。
さらに南に四千余里(約1736キロ)に侏儒国つまり背丈が72~96cmぐらいの小人国が有り、この国から一年の航海で裸国と黒歯国に行く事が出来ると、倭人の体験を記録されている。

具体的に地名を当てはめて見ると、邪馬台国を北九州説では、東に船旅400キロというと、だいたい室戸岬周辺になり、ここから南に1700キロ航行するとサイパン島の北に位置する。

サイパン島やミクロネシアには実際低身長の人達が住んでいた。現在もサイパン島は太平洋交通の要石として重要な地位を占めている。そしてサイパン島から東南に線を延ばすと、やがてエクアドルやペルーに到着する。

耶馬台国大和説から見ても、奈良から400キロで伊豆諸島周辺になり、南に1700キロでやはりサイパン島に辿り着く。裸国と黒歯国は魏志倭人伝に記述されているように航行すると南米に到達する。
日本列島とエクアドル間には「南太平洋・ポリネシア横断線」と名付けてもいいような丸木船航路が存在していたと推察される。

航海途中に停泊し、水や食料を補給出来る「縄文人の港」が南太平洋の島々に有り、船の修理や休養を執った筈で、その「縄文人の港」にはサポートに当たる縄文人が住んでいたと思われる。
であれば、南太平洋の島にも「縄文人の痕跡」が残ってなければならない。
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転載 縄文人の悠久なる旅1

2012-01-13 12:51:29 | 歴史・神秘
私のネットでの友人に”白ひげトトロ”さんと言う方がいる。西木村のご出身で今は秋田市内にお住まいだ。
大変な博識である他、ご見識や人間性に深く触発される所があり、お付き合いをいただいている。この方があるサイトで「縄文人の悠久なる旅」と言うシリーズを掲載された。
ともかく面白いのだ。原始的な生活をしていた筈のこの時代の人が、実は世界に飛び出していた。当時の地図も、海図も何もない時代に、世界中に散らばっていった、その証拠(背景)と共に語られる内容は新鮮且つ強烈であった。
執筆者のご了解を得て、本ブログに転載して皆様にご紹介できる段取りとなった。なお、原作を歪めない範囲で画像等のデータは追加させていただいた。

最近読んだ本に、古代の縄文人が世界の多くの場所まで遥かなる旅をしていたという痕跡が残されている事を紹介されていた。
旅好きな私にもきっと縄文人のロマンがDNAとなって果てしない世界への夢を掻き立てている。
その本の中から主なストーリーを掻い摘んで紹介します。

青森県の三内丸山遺跡(5500年前~4000年前)は縄文時代前期から中期の集落遺跡。突如として廃絶され、村人全員が忽然と姿を消した。
縄文農耕とも呼べる食料生産活動を行い、食料不足は考えられず、陸奥湾を見下ろす巨大な「六本柱タワー」を建設し、集団のエネルギーは最高潮に達していた。
遠く新潟の糸魚川から取り寄せたヒスイや、岩手の久慈から運び込まれた琥珀(こはく)などで造ったペンダントやネックレスなどの大切な宝物を惜しげもなく放置して消えてしまった。

三内丸山村は海に面した漁労の民の村であった。彼等は航海に長けた民で、秋田のアスファルトや糸魚川のヒスイを手に入れたり、遠洋性のマグロを食料にした遺構からも想像が付く。

鹿児島県加世田市から造船工具として用いられた丸ノミ形石斧が出土されており、これは1万2000年前には丸木舟が作られていた事を意味する。
京都府舞鶴市からは6000年前の丸木船が出土し、推定全長10mに達し、10人が乗船可能であったし、太平洋側の埼玉ではポリネシアの海を航海した双胴船を思わせる3000年前の丸木船が出土している。

縄文時代早期に彼らは太平洋に浮かぶ伊豆諸島の神津島(こうづしま)で黒曜石(こくようせき)を見つけ、矢じりや刃物として活用している。驚くべき航海技術で、縄文人の船乗りは伊豆諸島の島々を島伝いに航海し、遠く八丈島までも足を延ばしている痕跡が残っている。
縄文中期に入ると造船技術も飛躍的に進歩し、縄文人の冒険心に火を付けた。航法も島伝いの「各駅停車」航法から脱皮し、外洋を航海する「長距離航海」を可能にした。

丸木船は転覆する事はあっても、絶対に沈没しない船で、帆を張った時の速力は動力船が発明されるまで破られず、心地良いスピードと機動力が彼らを夢中にさせ、各地の物産と珍味が彼らを驚喜させた。
大海原を前にして彼らは海の向こうに「別の陸地」を予感し、海岸に海流に乗り漂着する見慣れぬ物から、もっと素晴らしい事があるかもしれないと、縄文人の冒険心が新天地を目指す大航海へと駆り立てた。

「三内丸山村」の人達は、定住生活を1500年間で切り上げ、どこへともなく立ち去っている。
彼等が、日本列島内の別の場所で定住した形跡が無い。
だが、彼等は地上から消えてしまったわけではない。日本からはるかに離れた世界の各地で「縄文人の痕跡」を発見されている。
彼等が水平線の向こうと旅立ち、その痕跡は世界の各地に残っている。

しかも、彼等はその名を変えて、世界史の表舞台に登場し「世界史の形成」と「文明の形成」に関与していた可能性がある。
知られざる縄文人の世界大移動の謎は、大いなる日本人の歴史ロマンを感じさせる。

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