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昭和は遠くなりにけり この国を愛し、この国を憂う がんばれ日本

昭和21年生まれの頑固者が世相・趣味・想いを語る。日本の素晴らしさをもっと知り、この国に誇りを持って欲しい。

出羽三山の旅5 既視感 déjà-vu

2012-01-13 14:12:47 | 歴史・神秘
ここで私の不思議な体験を披露したい・・・・・湯殿山の事だ。
湯殿山には初めて行った、前回記した様に異様な霊気溢れる場所であった。
私の出羽三山の初めての訪問は今から4~5年前、ここのメンバーでもある敦賀谷さんに羽黒山に案内されて行ったのが最初で最後だ。出羽三山が初めてというより、そもそも山形県に足を踏み入れたのが人生初だった。
その後、書物などを読み、いつか出羽三山に行ってみたいと思いそれが今回実現した。

さて、湯殿山の入り口でお払いを受け、ご神体に参拝しその後そこの周辺で先祖供養もお願いしてきた。
人形(ひとがた)の紙を聖水にさらしてから岩に貼り付けるのも独特のやり方だ。
しかし、この風景に見覚えがあるのだ。この体験がうっすら記憶にあるのだ。
以前にここに来て、同じ様な事をした。ご神体の脇を登り温泉の熱さを感じた、先祖供養のしきたりも同じ事をした。
この日の体験が以前にもあった気がするのだ。

しかし、私は出羽三山はもとより前記したように山形自体に縁の無い人間だ。
ならば・・・・・この感触は何であろうか・・・・・

こうした感じを既視感 仏語でdéjà-vu(デジャブ)と言うらしい。
科学的にこの感覚は解明されておらず、一説には「前世の記憶」という解説もある。
何とも不思議なこの感覚を未だに引きずっている・・・・・・・不思議だ。
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出羽三山の旅4

2012-01-13 14:12:14 | 歴史・神秘
月山から湯殿山に向かった。
湯殿山の本宮は中腹にあるのだが、車は手前の大鳥居までで、ここからは専用のバスで向かう。
バスを降りてから山道を10分ほど(整備されている)で本宮の入り口であるが、ここからがちょっと変わっている。
まず靴を脱いで裸足になる、入り口で祝詞(お払い)を受け人形で穢れを落としてから本宮に向かう。

湯殿山のご神体は巨大な岩だ、ここから滾々と湯(温泉)が湧き出ている。
岩と言っても巨大な小山と言ってもよいほどの大きさだ。この脇を登ってゆく、温泉の温度は結構高い、熱い。
辺り一帯は不思議な霊気に包まれているように私には感じられた。
この地域一帯は神域なので撮影は一切禁止なので、この霊気はお届けできない。

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出羽三山の旅3

2012-01-13 14:11:38 | 歴史・神秘
二日目は月山にまず向かった。
月山は長期間雪に閉ざされここに行かれるのは一年の内ほんの僅かの間だ(7/1~9/末)。
八合目まで車で行けるがここから本宮までは山道を約三時間だ、往復五~六時間だから本宮までは予め断念していた。わずかな勾配の草原(弥陀ヶ原)を15分ほど歩くと月山中之宮(御田原神社)があり、ここに参拝することで勘弁してもらった。

この弥陀ヶ原あたりは高山植物の宝庫で、ちょうど日光キスゲの黄色い花が咲き乱れていた。
尾瀬などと同じ様に木製の歩道が備わっているが、歩いていたらイタチ(多分)が横切っていった。
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出羽三山の旅2

2012-01-13 14:10:58 | 歴史・神秘
羽黒山だけをお参りして帰るのであれば日帰り可能だ。
しかし今回は月山、湯殿山を廻る計画であったので一泊で計画、麓には参拝客用の旅館も沢山あるがよい機会なので宿坊(齋館)に泊まることで予約をした。
この齋館は頂上から石段を30mほど降りたところにあり、これもまた素晴らしい趣のある建物であった(一泊7,350円)。

シーズン前の平日であったので宿泊客は私ら夫婦のみであった。
宿泊部屋は二間続きの茶室で庭の美しさと、遥か目をこらせば山形県側から見る鳥海山の姿が美しかった。
夕食~翌朝食もいわゆる精進料理で胡麻豆腐や山菜が色鮮やかに薄味で提供され美味かった。こういう場所ではあるが夕食にはビールを注文した。
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出羽三山の旅

2012-01-13 14:10:20 | 歴史・神秘
出羽三山(でわさんざん)は、山形県庄内地方にひろがる月山頂上の月山神社、羽黒山頂上の出羽神社、湯殿山中腹の湯殿山神社の3つを合わせ通称「出羽三山神社」と呼ばれる今流行の表現で言うとパワースポットだ。
修験道を中心とした山岳信仰の場として、「行の山」「浄めの山」として古くから羽黒派古修験道の総本山、山伏修行の聖地として伝わり現在も多くの修験者、参拝者を集めている。
過日、一泊二日でここを訪問してきた。
ここの公式サイトでは次のように紹介されている。

『崇峻天皇の御子である蜂子皇子の開山である。
皇子は、蘇我氏の難を避け、海路を経て出羽の国に入られた。
そして三本足の霊烏の導くままに羽黒山に入り難行苦行の末、羽黒権現の御示現を拝し、羽黒山頂に羽黒山寂光寺を建立して権現に奉仕したという。
次いで皇子は、月山、湯殿山を開き、両神を羽黒山に勧進して羽黒三所大権現と称した。

その後、皇子の御徳を慕い、加賀白山を開いた泰澄大師や修験道の祖と云われる役の行者、また真言宗の開祖弘法大師、天台宗の開祖伝教大師とその弟子慈覚大師なども来山して修行したとも伝えられている。こうして皇子修行の道は次第に発展して羽黒派古修験道となり全国に名を知られ、時代を重ねるにつれ人々の厚い信仰を集めることとなった。』

さて、まず羽黒山大鳥居を経て山頂に向かう。ここには月山と湯殿山が、冬場は雪に閉ざされ参拝ができなくなるので、三山の祭神を合わせてお祀りする三神合祭殿が置かれている。
この祭殿が素晴らしい、屋根は凄い厚みの茅葺屋根で圧倒的な存在感だ。
この周辺には参集殿、鐘楼、霊祭殿、神社、末社が配置されており、そのいずれもが素晴らしい建築美、彫刻に溢れており霊気に溢れている。
霊祭殿の供養場にはこの度の「東日本大震災犠牲者慰霊之搭」が建立されていた。
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生産能力10倍 「石油」つくる藻類、日本で有望株発見!

2012-01-13 13:37:25 | 歴史・神秘
藻類に「石油」を作らせる研究で、筑波大のチームが従来より10倍以上も油の生産能力が高いタイプを沖縄の海で発見した。チームは工業利用に向けて特許を申請している。将来は燃料油としての利用が期待され、資源小国の日本にとって朗報となりそうだ。茨城県で開かれた国際会議で14日に発表した。

筑波大の渡邉信教授、彼谷邦光特任教授らの研究チーム。海水や泥の中などにすむ「オーランチオキトリウム」という単細胞の藻類に注目し、東京湾やベトナムの海などで計150株を採った。これらの性質を調べたところ、沖縄の海で採れた株が極めて高い油の生産能力を持つことが分かった。

球形で直径は5~15マイクロメートル(マイクロは100万分の1)。水中の有機物をもとに、化石燃料の重油に相当する炭化水素を作り、細胞内にため込む性質がある。同じ温度条件で培養すると、これまで有望だとされていた藻類のボトリオコッカスに比べて、10~12倍の量の炭化水素を作ることが分かった。

研究チームの試算では、深さ1メートルのプールで培養すれば面積1ヘクタールあたり年間約1万トン作り出せる。「国内の耕作放棄地などを利用して生産施設を約2万ヘクタールにすれば、日本の石油輸入量に匹敵する生産量になる」としている。

炭化水素をつくる藻類は複数の種類が知られているが生産効率の低さが課題だった。
渡邉教授は「大規模なプラントで大量培養すれば、自動車の燃料用に1リットル50円以下で供給できるようになるだろう」と話している。

また、この藻類は水中の有機物を吸収して増殖するため、生活排水などを浄化しながら油を生産するプラントをつくる一石二鳥の構想もある。

以上はネットのasahi.comのニュース記事であるが素晴らしいですな・・・・
ただ”沖縄の海で発見”が心配、又どこぞの国が領有権を主張してくるかも。それと・・・・・・
もし現実になれば、石油メジャー資本が壊滅する、これを許さないだろう。
この事を せと弘幸Blog「日本よ何処へ」 は次の様に解説している。

もし、これが実用化されたときのことをちょっと想像してみたら、現在の世界情勢は劇的に変化することになります。

 ●原油の大量消費国である日本がエネルギーを自給できるとなれば、石油メジャーなどのユダヤ資本は没落し力を失う。

 ●石油以外に取り得のないロシアや中東イスラム諸国もたちどころに没落して力を失う。

 この二つのことが同時に起きるということは、劇的に世界情勢が変化すると言うことです。ユダヤ資本が力を失えばそのユダヤの本拠地でもある米国や西欧も衰退します。

 ロシアや中東が見向きもされなくなるということは、この地域に流れ込むカネが細るということでロシアは大国から転がり落ちるでしょう。

 日本に取っては良いことづくめとなる訳ですが、果たしてそんなに上手く行くのでしょうか?自然エネルギーは効率が悪く設備に莫大な資金を要するのですが、今回の藻を使った石油エネルギーの開発には、その資金が余り必要としないことが明かされています。

 コストの問題を意外にも正直に先に明らかにしているので、この案件は実は本当に実現が容易なのかも知れません。後は民主党政権が「本当に出来るんですか?」「環境に問題はないんですか?」などと言って介入しないことだけを望みます。

 日本経済新聞社の続報によれば、実用化までは10年で出来るとありましたので、これは本格的に期待の持てることなのかも知れません。絶対に政府などが邪魔をしないで、民間で進めることを望みます。

 これまでも夢のある構想が幾度も出されたことがありますが、その都度政府によって潰された。所謂(いわゆる)既得権を持つ業界が圧力をかけたと言う事です。

 今回の案件は日本だけの問題ではなく、世界的な発見で国家の命運が問われる所も出てくる訳ですから、これは大事になるでしょう。石油メジャーなどに潰されることにならないように我々は目を光らせなければなりません。
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転載 縄文人の悠久なる旅21 今回で終了

2012-01-13 13:16:00 | 歴史・神秘
縄文人と世界の文明

縄文時代は1万2千年前から2千年前までの1万年の長さにわたった。
世界に先駆け船を発明し、その船が彼らの冒険心に火をつけた。

彼等はシベリアに渡り大陸に足し跡を残し、しかもその足跡は北欧のスカンジナビア半島や大西洋岸のイベリア半島まで続いていた。

ベーリング海峡を越えて最初にアメリカ大陸に渡ったのも縄文人だった。
彼等は「真珠貝」や「宝貝」の道をたどりポリネシアまで達し、さらに南米大陸まで到達していた。

彼等は世界的な交易ネットワークを持っていて、その証拠にアフリカを原産地とするヒョウタン、ヒエ、ゴマの日本伝来だ。
ソバ(中央アジア)、コンニャク(インドシナ半島)、サトイモ(東南アジア)、オオムギ(西アジア)、ムギ(ペルシャ)も全て海の向こうからやって来た栽培植物で、この全てが縄文遺跡から出土している、ということは縄文人の食卓には「世界の食材」が集まっていたと言う事だ。

この事から縄文日本が世界に開かれていた「国際国家」だった事が分かる。
ニューヘブリデス諸島とエクアドルの縄文土器、シベリアの日本産黒曜石の出土は、縄文人が海を越え越えていた事を示す物的証拠だ。

ユーラシア大陸の西の果て、イベリア半島と南北アメリカを結ぶ2万6千キロの大交通線は「縄文国」を中継基地にして結ばれていた。
その「縄文国」の平和は、日本列島に突如として上陸してきた弥生人によって打ち破られた。彼等は金属製の武器を持っていた。
縄文人は交易ルートだった「世界大移動線」をたどり大移動を始めた。

北へ逃れた人たちはアムール河畔の「倭人国」に助けを求めた。
その「倭人国」は「匈奴帝国」を構成する一国で、此処に逃れた縄文人は匈奴と共にヨーロッパへ大移動し、これが「ゲルマン民族大移動」を誘発したと考えられる。

しかも縄文人は匈奴の指導部を構成する中枢民族だったようだ。
ヨーロッパに渡った匈奴は、フン族とその名を変えて、ハンガリーに「フン帝国」を建国し、フン族の血を引くマジャール族が今日のハンガリーを建国した。

ハンガリーはヨーロッパに出来たアジアの孤島といわれている。
フン族マジャール族もユーロッパ全土に軍を進めたから、縄文人の血も全ヨーロッパに浸透した。
そしてこの大遠征の過程でヨーロッパにアジアの騎馬文化や東方文化をもたらした。

マジャール族はヴァイキングの騎兵として行動しているから、大西洋を越えた北米大陸に到達したヴァイキングに縄文人の末裔がいた可能性すらあることになる。

縄文人は世界各地に「縄文文明」の種をまいた。
その痕跡はスペインの大西洋岸まで点々と連なる「正倉院」ではないだろうか、それにヨーロッパのどの言語系統にも属さず、アイヌ語に近い言語であることで浮かび上がってくる。

南米に渡った縄文人たちは、きっとマヤ文明やインカ帝国の建国に参画したはずである。
イースター島の巨石文明やナスカ地上絵といった「失われた文明」も、地下水脈で縄文文明と繋がっていると思われる。

南太平洋に渡った人たちは、その美しい風景と温暖な気候にそこを「地上の楽園」だと感じただろう。

与那国島を南下した人達はインド洋をものともせずにマダガスカル島に渡った。
マダガスカルには人間を襲う猛獣や毒蛇は生息しておらず、此処まで来れば外敵の心配が無く、ここで彼等は人生を楽しんだに違いない。

縄文人たちは日本列島を去っていった、だが、列島に踏みとどまった縄文人もいた。
彼らの末裔は琉球王国を開き、得意の航海術を生かして交易国家を築いた。

北へ去った縄文人はアイヌ民族になって独自の文化を今日に伝えたのである。
日本刀のルーツをアイヌ民族の刀に求める説もある。縄文人の系譜は現代の日本人に最も強く受け継がれている。
弥生時代から今日まで2000年。

だが、その前に縄文時代は1万年も続き、私達が身に付けているのは縄文文化という衣装の方が遥かに分厚い。
 

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転載 縄文人の悠久なる旅20

2012-01-13 13:15:59 | 歴史・神秘
世界に旅立った縄文人たちは、何処を出発点にしたのだろうか。
色々な内外の研究者が発表したレポートから、次の3箇所を仮想する。
   伊豆諸島・神津島→南太平洋、南アメリカ大陸への出発点

   北海道・小樽周辺→ユーラシア大陸、南北アメリカ大陸への出発点

   琉球列島・与那国島→インド洋、アフリカ・マダガスカル島への出発点

南太平洋とその先の南米大陸に船で島伝いに渡るとすると、どうしても伊豆諸島、小笠原諸島を経由して南下しなければならない。
東京から180キロ、最短ルートの伊豆半島・下田からでも60キロ地点に浮かぶ神津島の黒曜石が本州各地で出土している。

この黒曜石を持ち帰るには船を使わなければならないし、縄文人はこの黒曜石を携えてさらに先の八丈島にまで渡っている。
縄文人の航海民族としての才能は天与のものであった。

弥生人に追われて、北に逃れた縄文人たちは、東北・北海道を経てシベリアに渡った。
その出発港に想定できるのが、小樽周辺の海で、小樽市の手宮洞窟、隣の余市町のフゴッペ洞窟に日本海を渡ったと見られる船の絵が線刻で描かれていて、同じ船の絵がシベリアで発見されている。

南に向った縄文人たちは、琉球列島を南下した。
琉球列島の西端にあるのが与那国島で、この先台湾までは111キロしかなく、さらにはフイリピン、インドネシアと南下して航海していった。
与那国島では伝説に、はるか南に架空の理想郷「南与那国島」が有ると信じられ、その島を目指して渡る「出発の島」である。

石川県羽咋郡富来町、日本海に突き出た能登半島西岸の漁業の町である。
この町のヘラソ遺跡(縄文中期)から神津島産黒曜石の石器が出土した。

黒曜石は、火山ガラスとも言われ、剥片は鋭いナイフのようになり、縄文人が槍や弓の矢じりとして生きる為に欠かせない必需品であって、太平洋上に浮かぶ神津島から日本海のヘラソ遺跡まで400キロもあり、当時の船は丸太をくり抜いた船で、是だけの航海を難なくやり遂げていた。
黒曜石は他では本州で長野や箱根、伊豆半島、那須でも産出する事が縄文人は知っていた。

だが、縄文人は神津島の黒曜石に執着していたのか?それは重い黒曜石を人の背で運ぶより、船が大量搬送が出来、海伝いか川伝いが効率的であった。

さらに南の八丈島からも神津島の黒曜石が出土し、倉輪遺跡からはイノシシやイヌの骨が出て、ウリ坊と呼ばれるイノシシの子供を抱きかかえ、イヌも連れて航海していたのだろう。

糸魚川地方から産出されるヒスイも出土している。
能登半島のヘラソ遺跡はかって大陸にあった渤海国と結んだ福良港があったところ。

伊豆諸島各地からカツオを煮た遺構が出土しており、長期航海用の保存食を作ったのだろう。
神津島の郷土資料館に流れ着いた外国の物と思われる二艘の丸木船が保管されている。
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転載 縄文人の悠久なる旅19

2012-01-13 13:14:15 | 歴史・神秘
過去現在を通じて、世界の中で鰹節を作り、その食習が広範囲に普及している国は、日本とモリジブ以外にはない。

カツオは春から秋にかけ大群となって黒潮を北上する外洋性の回遊魚である。
縄文遺跡からも出土する古くからのなじみの魚で、鰹節に加工する事が文献に出て来るのは、「古事記」「万葉集」「養老律令」「延喜式」などに出ていて、朝廷への献上品として記録されて、煮汁を調味料として古くから使われていたようです。

モリジブでも明の鄭和が15世紀に「南海遠征」した時の記録にもイワシの生餌を撒く一本つり漁法を紹介している。

スリランカではモリジブの鰹節を輸入し、日本のソバ屋のカレーはカツオだしベースにして作られているが、同じようにカレーに鰹節を使って作られている。
長い航海に食料として保存が利く鰹節が積み込まれたことは間違いの無いことだろう。

余談では有るが、スリランカに多く住むタミール語を話す人がいるが、日本語の起源をこのタミール語に求める説があり、やはり日本と無縁ではなさそうだ。
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転載 縄文人の悠久なる旅18

2012-01-13 13:13:30 | 歴史・神秘
謎の島マダガスカル

アフリカの東海岸に、マダガスカルという世界第四位の巨大な島が有る。
大航海時代に入ってからヨーロッパ人によってこの島が発見されたが、上陸した探検家達を驚かせることがあった。

それは此処の人たちがインドネシア語を話し、稲作をして、肌の色や身体的な特徴が明らかに隣のアフリカ大陸に住む人たちとは明らかに違っていた。
そうなると遥か彼方のインド洋を挟んだアジアからやって来たのだといわざるを得ないが、高度な航海技術も持たずに、ちっぽけなカヌーしかない彼等はどんな方法で来たのか不思議であった。

しかし彼らのカヌーは浮材の付いた、いわゆるアウトリガーカヌーであった。
これこそポリネシア人が海上を飛ぶ鳥のように高速で駆け、逆風でもタッキング航法で帆走することが可能な高性能船舶であった。

マダガスカルに住む人たちは、南太平洋一円から南米まで航海した大航海家の末裔であった。
ともかく、インドネシアからおよそ一世紀から五世紀に始まり十四世紀までに波状的に渡ったようで、インド洋を真っ直ぐに横断したのではなく、途上に有るモリジブ諸島やモーリシャスの島々に立ち寄りたどり着いたと思われるが、15世紀にヨーロッパ人が上陸した時には、これらの途中の島々には人が住んでいなかった。

弥生人に追い出された九州に住んでいた縄文人(熊襲(くまそ)と呼ばれている)が琉球列島を南下し、台湾、フイリピン、インドネシアにまで達していた大移動は、言語にその証を残している。
マレー・ポリネシア語の分布から見て、マダガスカル~インドネシア~フイリピン~台湾~沖縄~先島(さきしま)諸島と使用地域は一本に繋がっている。

面白いことに、マダガスカルでは、人前を横切る時に軽く手を差し出して横切る。
この仕草を大相撲の力士が土俵下で審判席の親方の前を横切る時に行われていて、学者によるとこの仕草は、世界でもマダガスカルと日本だけの習慣であるとの主張があるそうです。

さらにマダガスカルには、日本の相撲競技によく似た「ムレンギ」という格闘技が存在し、「サラーカ」というフンドシを着用するという。

食生活でも朝食に「お粥」を食べて、「ヴーラヴーラ」という「オニギリ」もあり、日本的としか言いようが無く、こうした類似現象をどう見るかだが、何の交通往来関係が無ければ不思議である。

日本語のマライ・ポリネシア的なコンポーネントは、特に台湾の高砂族の言語と特徴的な点で一致をみる。
これはフイリピンのタガログ語やインドネシアの言語に繋がり、マダガスカルのマルガシ語とも明確な関連を示す。

面白い一致例として、太陽や月を意味する言葉として「シナ・シノ」がある。
このシナは、聖徳太子が歌った「シナ照る片岡山」と使われているが、フイリピンの公用語タガログ語のsinag「光」、
インドネシア語(マライ語)のsinar「月」と同源で、マダガスカルでも沖縄と同源のma/sina「神聖な」との言語がある。
 
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転載 縄文人の悠久なる旅17

2012-01-13 13:12:39 | 歴史・神秘
この「ツラン民族世界同盟」の結成を呼びかける使節を
ハンガリー側はトルコ、フィンランドにも送り、要するにユーラシア大陸はアジアとヨーロッパを結ぶ「匈奴・フン帝国民族大連合」を結成し、ソ連に対する反ロシア、反スラブ
民族、反共産主義が背景に存在していた。

ハンガリーの親日は、日露戦争の際にも垣間見る事が出来る。
ハンガリーでは日本の戦勝を喜び、生まれてくる男子には「ノギ(乃木)」「トーゴー(東郷)」と命名したという。

これは、フィンランド、トルコでも同じで、フィンランドの反ロシア地下組織と日本は手を組んでいたし、トルコはロシア黒海艦隊のイスタンプール通過監視で日本に加勢し、戦勝の知らせを受けて子供の命名から店や通りにまで名付け、現在もフィンランドではビールに「トーゴー」、トルコでは
タバコに「トーゴー」という命名されたものが残っている。

このように近世になって、ハンガリー人のルーツを求めてアジア一円を調査したセーチェーニ探検隊の記録がのこっている。

セーチェーニ伯爵というハンガリー貴族が私財をもって、調査団を組織して日本にも探索に来ていて「フン帝国末裔のアイヌ民族探訪」としてアイヌの調査報告が残っている。

このセーチェーニ報告に誘発されたのが、世界的探検家オーレル・スタイン(1862~1943)彼は後にイギリスに
帰化して英国人になるが、ブタペスト生まれのハンガリー人である。

彼を有名にしたのは中国・敦煌で発見した「敦煌文書」で、生涯独身で過し、一生をアジア探検に奉げた。(日本にも来ていて、アフガニスタンの首都カブールにて亡くなり、そこに葬られている。)
自身は語っていないが、ハンガリー人のルーツ探しとは無縁ではないだろう。

このように縄文人の移動が、ツングース族~匈奴~フン族~マジャール族~ヴァイキングとなってヨーロッパに到達し、近代になって西から自分達のルーツ探しが行われ、北海道のアイヌにたどり着いている。

フィンランドでは言語から民族の先祖を探る研究が盛んで、言語的に研究され分析されている。

ヘイゲルというフィンランド人がモンゴル高原北部にあるオルホン河畔にて世界を驚かす大発見をしたが、それは有名な「オルホン碑文」である。

解読に成功した言語学者はデンマークのトムゼンで、石碑はトルコ系としては最初の遊牧民族帝国をモンゴル高原に築いた突厥(とっけつ)帝国(552~744年)の顕彰碑で、独自の文字を持たず、従って記録も無かったが、これが騎馬民族が残した最初の言語資料であった。

ウラル・アルタイ語族の言語系統は以下のようになる。
 アルタイ語族     (日本語、朝鮮語、ツングース語、
                モンゴル語、トルコ諸語群)
 ウラル語族      (マジャール語、フィン語)

草が生えている草原を人間はウマに乗り何処までも行ける、遠い近いではなく、草がある限り何処までも行ける。

ポリネシア人は風がある限り何処までも航海することが可能であった。
しかし、石炭や石油を使用する乗り物では、供給可能な場所までしか移動が出来なくなった。

有る意味ではこれらの燃料が地球を遠くさせてしまっていると言えるだろう。
  
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転載 縄文人の悠久なる旅16

2012-01-13 13:11:42 | 歴史・神秘
「後漢書」鮮卑伝に「倭人国」という国が出てくるが、アムール河流域にあった「縄文国」をさすのだろう。

その地域を支配していたのは「東胡」という民族が住み、
匈奴に貢ぎ物を要求するだけ強大な民族であったが、やがて匈奴により滅ぼされ、「匈奴帝国」の版図は東に日本海を望む沿海州、西は天山山脈に至る広大な世界帝国になった。

この時から「倭人国」の有るアムール河流域も「匈奴帝国」の領域に組み込まれ、「倭人国」も匈奴の一員になったと思われる。

この「倭人国」に、日本列島の「倭国」から大量の縄文人が移動してくる。

紀元前三世紀頃、大陸からやって来た弥生人が北九州に次々に上陸し、原野を開墾して米を作り、やがて狩猟民であった縄文人が北に南に追い詰められ、(高知県から弥生人に虐殺された縄文人の遺骨が出土している)追い出された。

北に逃げた末裔が今のアイヌ民族で、南に逃げたのが沖縄方面の人たちと言われ、双方の顔の彫が深いという
身体的特徴を持っている。

東北・北海道に住んでいた蝦夷(えみし)はアイヌ民族の祖先だと言われ、大和朝廷による蝦夷征伐は繰り返し行われているし、決して平和的な関係ではなかった。

縄文時代の終わりと言う時期は、日本列島だけではなく、東アジアにも大動乱の時代であった。
紀元前221年、秦の始皇帝による中国全土が統一されたが、秦の平定作戦がおびただしい数の難民を生みだした。

長江流域の稲作地帯に住んでいた人々は、インドシナ半島、雲南省方面、或いは朝鮮半島、日本列島に安住の地を求めた。

戦乱は長期にわたり、「後漢書」倭伝には「倭国大乱」と記され、146年から189年まで、40年以上も続く大戦争が縄文人対弥生人の対立があった。

アムール河流域に逃れ「倭人国」を創った縄文人も安住の地ではなかった。
「匈奴帝国」を打ち破り、新たに「鮮卑」が勃興し「倭人国」も服従させた。

鮮卑に追われた匈奴はアジア大陸を西へと大移動を始めた。
その中に匈奴帝国を構成した「倭人国」の縄文人も居たと思われる。

匈奴やフン族の王墓から発掘されているが、そこには意外にも草原的でない文化、つまり「ツングース的」「縄文的」「漁労的」としか言いようの無い痕跡を残している。

それらの痕跡から推測するに、匈奴に追従したのではなく、中心的な存在であったようだ。

再び歴史の表舞台に登場するのは、アムール河の「倭人国」滅亡から200年を経た374年の事、彼らは怒濤の如くヴォルガ河を越えた。

彼等がフン族の名で呼ばれようになったのはこの時からで、それはゲルマン民族大移動の始まりでもあった。

フン族が安住の地に定めたのがハンガリーで、ドナウ河が流れていて、匈奴の地と同じ地理環境でようやく収まった。
大河に始まり大河で終わった大移動には、漁労民族の介在を想起させる。

彼等はここにアジア国家「フン帝国」を築く。
ハンガリーが今も「ヨーロッパにできたアジアの孤島」と呼ばれているのはこの為である。

明治4年蒸気外輪船が横浜港を出港しサンフランシスコに向った。
船上には岩倉具視、木戸孝允、大久保利通、伊藤博文等の大使節団が乗っておりました。

アメリカからイギリス、ヨーロッパの12カ国を歴訪し、近代国家デザインを描き出すヒントを得る為の1年10ヶ月の旅であったが、他にもう1カ国訪問しようとしていて実現できなかった国があり、それは「匈奴の遺裔にて、匈加利(はんがりー)人と称するものなり」と記されているハンガリーであった。

「匈加利は、元蒙古(もんごり)庵(あん)の一種なる。匈奴人の国にて、其の地積の広さは、ほぼ我が日本に比し、人口の数は半に及ばず欧州の東僻にあり、其の流風遺俗、
みな欧人に同じからず、衣服奇古にて、容貌野朴なり」「旧習の夢を破り、忽然として開化に進歩せんと欲する。その情態を察するに、はなはだ日本の近況に似たり」。

国家の制度のすべてを学ぶ為派遣された使節団にとって、ヨーロッパにアジア出身の国家が存在している事が驚きだったのだろう。

その後ハンガリー・ツラン民族同盟から日本に寄せられた「日本国民に訴う」という激文が送られている。

「われわれハンガリー人は過去一千年来、中央ヨーロッパのカールパート盆地に生活しているものの、その魂と自覚においては常にアジア人であった。コノアジア魂を我々の誇りとする洪牙利(はんがりー)ツラン民族運動団体の名において、私は、我々の常に敬慕して止まぬ極東の兄弟民族たる大日本国民に訴える」と始めに書かれている。
 
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転載 縄文人の悠久なる旅15-2

2012-01-13 13:10:35 | 歴史・神秘
時代は四世紀後半のことである。
日本は縄文時代、弥生時代を経て、古墳時代に入っていた。

強大な権力を持つ支配者が登場し、人々は田んぼを耕す農民として支配され、統治者の墓工事に駆り出されて、巨大な鍵穴の形をした奇妙な墓の造営が行われブームになっていた。

縄文人の姿は風を食らったように消え失せていたが、地上から完全消滅したのではなかった。

同じ頃、ヨーロッパでは大動乱が起きていた。
ヨーロッパの全民族が西へ向って大移動を開始したのである。
その背後には、アジアからやって来た「フン族」の騎馬軍団が怒濤の如く迫っていた。

騎馬軍団の突進力と機動力に、ゲルマン民族はひとたまりもなく蹴散らされてしまった。
 
東の果てに居たゴート族は、西ゴート族は黒海の西岸からスペインまで逃げ、黒海北岸に住む東ゴート族は、流浪の末に、イタリアにたどり着いた。

スカンジナビア半島に居たノルマン人たちは、海を越えてブリテン島(英国)に渡った。

追い出されたプリトン人(ブリテン島はブリトン人に由来する)たちは、フランスのブルターニュ地方に逃げのびた。
現在のドイツあたりにいたヴァンダル族は、スペインからジブラルタル海峡を越えてアフリカに渡り地中海沿いを東進して、現在のチュニジアに落ち着いている。

今日のベルギー、ドイツあたりに居たフランク人は、現在のフランスに押しかけ、ここに住んでいたローマ人を追い出しフランスを建国している。

ヨーロッパにおける民族大移動はヨーロッパで発生した個別の現象ではなく、ゲルマン民族を押し出しの「ドミノ倒し」はアジアから始まった。

ゲルマン民族を押し出したフン族の前身は匈奴(きょうど)である。
匈奴は紀元前四世紀から紀元後二世紀にかけて中国北方の草原地帯支配した遊牧騎馬民族だ。

「フン」に近い音訳して漢字に当てはめた呼び名は「匈奴」で、「わくわく、おそれる、さわぐ、みだれる」という意味があり、異民族の呼び名には悪字を当てはめる中国の習慣でおぞましい名称になっている。

中国の記録に初めて登場するのは司馬遷「史記」秦本紀で、紀元前318年の事で、民族としてはモンゴロイド系とコーカソイド系(ヨーロッパ)などの「遊牧国家における連合体組織と多くの多人種混合とした合衆国であったであろう。

匈奴は幼少のときから騎射に長け、戦いが天性であった、まさに兵営国家であった。
半農半牧の農民だったゲルマン民族がひとたまりもなかったのは無理も無かった。
大兵力を持った秦帝国、漢帝国も匈奴に悩まされ、収穫時になると匈奴の騎馬軍団が押し寄せ、収穫物を略奪した。

要求されるままに皇女を差し出し、綿、絹、酒、米などを献上しなければならず、漢帝国が衰退を早めた一因には、対匈奴戦争による疲弊があったとさえ言われている。

そもそも「万里の長城」も匈奴の侵入を防ぐ目的で建設されたものであった。

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転載 縄文人の悠久なる旅15

2012-01-13 13:09:52 | 歴史・神秘
ユーラシア大陸の東西各地から旧石器時代の「旧石器時代のヴィーナス」と呼ばれる、マンモスの牙や石などに彫った、豊満な女性裸像が出土していて、「縄文のヴィーナス」と呼ばれているよく似た土偶が日本でも出土している。
これは「江上波夫文化史論集」によると、日本人と日本文化は東の果ての島に孤立するのではなく、非常に古い時代に全ユーラシア大陸と環太平洋地域を結ぶ世界規模の中継基地だった。

縄文文化は1万年の長きにわたって繁栄し、世界に先駆け舟(丸木舟)を造って、世界最初の大航海民となり海を越えた。
彼らの軌道をたどると、まずベーリング海峡を越えてアメリカ大陸に渡り、瞬く間に南米大陸の南端まで到達すると言う驚異的としか言いようの無い大移動である。

次に縄文人は、太平洋を横断してしまうという大冒険を成し遂げる。その証拠がニューヘブリデス諸島(バヌアツ共和国)で採取された縄文土器であり、南米・エクアドルで出土した縄文土器である。
彼等らは日本~南太平洋~南米と延々と連なる「宝貝の道」をたどって南米まで到達したのだろう。
南米に上陸した時、彼らと、ベーリング海峡を越えて先回りしていた縄文人との邂逅があったと思われる。顔も瓜二つで、言葉もおそらく通じただろうと思われ、どのような劇的な場面があっただろう。

シベリアからユーラシア大陸を西へ西へと向う縄文人もいた。
だからこそ、フィンランドのカレワラ神話と日本神話が同じモチーフなのだろう。フィンランド~日本間のユーラシア大陸に住む人々は、正倉院にそっくりな倉庫を建て、発酵させた魚を好物にしていた。
ヴァイキング船も東アジアを起源としているというのだから、北海と太平洋は、陸路をたどる「舟の道」で結ばれていた。
それどころか、スペインの大西洋岸にも「正倉院」は分布し、スペイン・バスク地方の人々が話すバスク語はヨーロッパのどの言語系統にも属さず、アイヌ語に近いという。アイヌ語に近いということは、縄文語にも近いことを意味する。
まさに日本列島は世界と結ばれており、縄文人は世界を縦横に往来し、縄文語も世界中どこでも通じた世界語であった。

だが、縄文人の繁栄と平和は突如として崩壊する。
稲作文化を持って弥生人が大陸からやって来たのである。(秦の中国統一までの戦乱から逃れた中国農民が難民状態で海を越えて日本列島に雪崩れ込んできた)
彼等は金属製の武器を持っていて、原野の木々を焼き払って水田に替えていった。
そこは縄文人が狩をしたり、木の実を拾う大切な森だった。
縄文人も米作は知っていたが、弥生人のように地上に生えている全てを焼き払って米に変えるようなことはしなかった。

行き場を失った縄文人は争いを逃れ日本列島を脱出した。
そして「縄文人の大移動」は、ヨーロッパにおける「ゲルマン民族の大移動」を誘発する事になる。
 
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転載 縄文人の悠久なる旅14

2012-01-13 13:09:07 | 歴史・神秘
ヴァイキング船のルーツ
インドシナやインドネシアで出土する銅鼓(どうこ)の上に出てくる鳥舟の模様に、白鳥が太陽のシンボルであり、スカンジナビアの青銅器時代の人々が崇拝した太陽の船と関係が有るとされ、ギリシア神話に太陽神アポが北方の世界から白鳥の引く車で帰ってくる話がある。
このような鳥舟思想は日本の鳥舟信仰とも無縁ではないと考えられている。

造船構造から見て、舟の内側に弓形の支骨がはめ込まれ、舟を補強する技術はスカンジナビアにおいて、先史時代の舟からヴァイキングの舟まで綿々として続く技術であり、ユーラシア大陸を東西に連なる文化の路線がヨーロッパから極東におよぼし、気候の暖かな時代、もっと北辺のシベリアを経てアムール河水域あたりから太平洋に連なる東西文化の交流が活発に有り、ヨーロッパを震撼させたヴァイキング船の構造は、東アジアから伝わった。

東から西へ、縄文人の中央アジア大移動

ユーラシア大陸を東から西へ大移動した人たちがいたことは、最近の解剖学も示唆している。
シベリアのモンゴロイドは基本的に三つの集団から構成されているようだ。
その一つは極北の集団(エスキモー)、それに北東シベリアの人々(バイカル型の人)、そして内陸の集団(中央アジア型のモンゴル、ブリヤート、中国人、カザフ)の三つである。

バイカル新石器人が現在同じバイカル湖周辺に住むブリヤートなどの中央アジア型の集団よりもバイカル型であるアムール流域の集団に類似している。
内陸のブリヤート、モンゴルなどは、バイカル新石器時代人よりも中国からの遺伝的影響を受けた人々であると考えられ、ヒト白血球抗原(HLA)をもとにした分析でも、これらの集団に近い関係にあり、新石器時代より後に、東アジアからバイカル湖一帯、中央アジアへ人々の移動、拡散があったと推定される。
紀元以降にもモンゴロイド集団がモンゴル西半分へ大移動した事を示唆している。
日本列島の住民について大まかに見ると、現代日本人は中国人を含む内陸集団に近い。
しかし一方で、縄文人ないし北海道アイヌに類縁性を持つ新石器時代以降のシベリア、極東のモンゴロイドは存在しない、もしかすると日本の弥生時代における大陸からの渡来と、先の東アジアから中央アジアへの人々の移動は同じ時期に起こったのかもしれない。

大陸から弥生人と呼ばれるようになる人々が渡来したのと入れ替わりに、縄文人は遠く中央アジア方面へ移動したのではないかと言うのである。だから、中央アジアの人たちはすぐ近くのシベリアの人たちよりも日本人(縄文人)に似ている。
こうした「西への移動」が正倉院をはじめとする「日本文化」がユーラシア大陸シベリア横断線に点々と連なっていることが理解できる。

「羽衣伝説」も途切れる事が無くユーラシア大陸を下記のように連なり横断している。
イヌイット・チュクチ・ヤクート・アイヌ・日本・朝鮮・中国・モンゴル・サモイエード・南スマランド・ロシア・ラップ・スエーデン・ハンガリー・クロアチア・オーストリア・ポーランド・ドイツ・ビヘミア・英国・フランス・スペイン
東はイヌイット、西はスペインに至るまで同じ伝説が語られている。
  
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