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昭和は遠くなりにけり この国を愛し、この国を憂う がんばれ日本

昭和21年生まれの頑固者が世相・趣味・想いを語る。日本の素晴らしさをもっと知り、この国に誇りを持って欲しい。

英霊の遺書や手紙・遺品2

2015-04-20 02:55:03 | 歴史・神秘
本日も英霊の中から藤井一命をご紹介させていただくが、夫の決意を成就させるために幼子と共に入水自殺した奥様を思うと涙なしには文章も書けない。
陸軍少佐 藤井一命(第四十五振部隊) 

神風特別攻撃隊員の方々は、20才前後の隊員の方が大半でした。しかし、中には既婚の方もおられましたし本来は特攻隊員になる必要もない、なれない位置にいたにも関わらず自ら志願し、自らの責任を果たした方もおられました。
その方が藤井一中尉です。
しかし、その裏にはたいへん悲しい事件があったのです。

藤井中尉は茨城県の農家に生まれ。7人兄弟の長男でした。陸軍に志願し歩兵となりましたが、優秀であったため転科して陸軍航空士官学校に入校しました。卒業後、熊谷陸軍飛行学校にて中隊長として少年飛行兵に精神訓育を行っていました
その中で藤井中尉は特攻作戦が実施される前から「事あらば敵陣に、あるいは敵艦に自爆せよ、中隊長もかならず行く」と繰り返し言っておられました。
その後、特攻作戦が開始され、自分の純粋な教え子達が次々と特攻出撃していく中、責任感が強く熱血漢であった藤井中尉は自分だけが安全な任務をしている事に堪えられませんでした。
藤井中尉は教え子達との約束を果たすべく自らも特攻に志願しましたが、妻と幼子二人をかかえ、学校でも重要な職務を担当しており、操縦士でもなかった藤井中尉には、当然、志願は受け入れられませんでした。
しかし、藤井中尉は生徒達との約束を守るため、断られても、断られても2度も特攻に志願したのです。

藤井中尉の妻、福子さんは高崎の商家に生まれ、お嬢さんとして育ち、戦争中は野戦看護婦として活躍されていました。
藤井中尉との出会いは、中国で負傷した藤井中尉の世話をしたのが福子さんであったことから福子さんは当然、藤井中尉の性格や考えが十分過ぎるほど解っていました。
しかし、解っているからといって特攻に志願することには到底納得できるものではなく、福子さんは夫を必死に説得しようとしました。

しかし、藤井中尉の決死の決意は最後まで不変でした。
夫の固い決意を知った福子さんは、夫の活躍の為に決して邪魔になってはならないと、二人の幼子を連れて飛行学校の近くにある荒川に入水しました。
翌日、昭和19年12月15日朝
「晴れ着」を着せた次女千恵子ちゃん(1歳)をおんぶし、長女一子ちゃん(3歳)の「手と自分の手をひもで結んだ」3人の痛ましい遺体が発見され、その遺書には
「私たちがいたのでは後顧の憂いになり、思う存分の活躍ができないでしょうから、一足お先に逝って待っています。」
と書かれていました。。

凍てつくような12月の荒川べり、変わり果てた愛する妻と我が愛娘の姿を見て、藤井中尉はその前にうずくまり、遺体の砂をやさしく払い、そして呻くように泣きました。

藤井中尉はこの事件の直後、3度目の特攻志願で、自らの小指を切り、「血書嘆願」としました。今度ばかりは軍も諸事情から志願を受理し、藤井中尉を特攻隊員として異例の任命を行いました。
熊谷飛行学校で生徒達に大変人気があった中尉は生徒達に信頼され、尊敬され、あこがれを持たれていましたので藤井中尉の送別会では、学校の幹部や生徒達で集めたお金で軍刀を贈りました。
藤井中尉は大変喜びましたが、福子さんの入水事件の事は公になっておらず、誰も口にする者は居ませんでしたが、皆、既に噂で知っており、別れを惜しんで流す涙はたいへん辛いものとなりました。

藤井中尉は陸軍特別攻撃隊 「第四十五振武隊 快心隊」 の隊長として、昭和二十年五月二十八日、隊員十名と共に沖縄に向け出撃されました。
藤井中尉は、操縦士ではありませんでしたので、小川彰少尉の操縦する機に通信員として搭乗し、教え子達、祖国、そして天国の愛する妻と愛娘との悲願の約束を立派に果たし散華されました。 

藤井一命の遺書
冷え十二月の風の吹き飛ぶ日
荒川の河原の露と消し命。母とともに殉国の血に燃ゆる父の意志に添って、一足先に父に殉じた哀れにも悲しい、然も笑っている如く喜んで、母とともに消え去った命がいとほしい。

父も近くお前たちの後を追って行けることだろう。
嫌がらずに今度は父の暖かい懐で、だっこしてねんねしようね。
それまで泣かずに待っていてください。

千恵子ちゃんが泣いたら、よくお守りしなさい。

ではしばらく左様なら。
父ちゃんは戦地で立派な手柄を立ててお土産にして参ります。

では、
一子ちゃんも、千恵子ちゃんも、それまで待ってて頂戴。

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英霊の遺書や手紙・遺品

2015-04-19 05:09:20 | 歴史・神秘
さて、英霊の方々の中で遺書やその経緯を飾られている方もおられる。
そうした経緯や遺書などを、これから数例ご紹介してまいりますが、恥ずかしながらパソコンを打ちながら涙が流れるのを禁じ得ない場面が沢山ありました。ご紹介するのが本当に切ないです。

今日はまずその中で海軍大尉 植村眞久命(第一神風特別攻撃隊大和隊)をご紹介させていただきます。出陣前に生後三ヶ月の我が子(素子ちゃん)に面会、わずかな接触の時間をもって出撃前にこの我が子に手紙を残しております。

植村大尉は東京都出身。立教大学経済学部商学科在学中はサッカー部主将として活躍。
学徒出陣により、'43.9.23繰上げ卒業。 海軍に入隊し、第13期飛行予備学生となり、三重航空隊(基礎教程)に属す。 翌年.1.7高雄航空隊(練習教程)を経て、3.24大村航空隊、5.31海軍少尉任官、練習航空隊特修科学生となり、7.25佐世保航空隊に配属。 8.1比島セブ基地へ進出。
9月に休暇を許され、帰郷し生後三ヶ月の愛児と面会、手紙を残し戦場に戻っています。

10.26前日の神風特攻隊32機の大戦果を受け、急きょ追加編成されたセブ島の大和隊は爆戦5機、直掩隊3機。 これを二隊に分け、その一隊を植村が指揮することとなった。神風特別攻撃隊大和隊、第一隊隊長として出撃。 目標は前日急襲撃破したT・L・スプレイグ艦隊の残存部隊。米軍側は前日の攻撃を受け、残存戦闘機に加え、他の艦隊からの補充を合わせ、全戦闘機60機を上空に配置して、日本機の攻撃に備えた。
植村隊3機は、60機の米軍戦闘隊と遭遇し、激闘。レイテ島東方海面の米機動部隊に特攻、散華。享年25歳。没後、二階級特進し海軍大尉となる。

なお、植村特効後、日本側は後続隊の3機が、空戦の隙を突いてスワニー、ペトロフ・ベイ突入に成功し、スワニーは連日の猛襲によって大破し、大和隊の活躍は楽観ムードの米海軍を戦慄させた。
戦後、第13期予備学生の遺書を中心にして取り上げた『雲ながれる果てに』で生後三ヶ月の子どもに残した手紙が紹介される。 また、大岡昇平の『レイテ戦記』で植村命のことを触れている。
生後三ヶ月の愛児(素子ちゃん)と面会、手紙を残し戦場に戻る場面の手紙の文面は次のとおりであります。

素子、素子は私の顔をよく見て笑ひましたよ。私の腕の中で眠りもしたし、またお風呂に入つたこともありました。 素子が大きくなつて私のことが知りたい時は、お前のお母さん、住代伯母様に私の事をよくお聴きなさい。 私の写真帳も、お前の為に家に残してあります。
素子といふ名前は私がつけたのです。素直な心のやさしい、思ひやりの深い人になるやうにと思つて、お父様が考へたのです。 私はお前が大きくなつて、立派な花嫁さんになつて、仕合せになつたのをみとどけたいのですが、 若しお前が私を見知らぬまゝ死んでしまつても決して悲しんではなりません。 
お前が大きくなつて、父に会いたい時は九段へいらつしやい。そして心に深く念ずれぱ、 必ずお父様のお顔がお前の心の中に浮びますよ。父はお前は幸福ものと思びます。 生まれながらにして父に生きうつしだし、他の人々も素子ちやんを見ると真久さんに会つてゐる様な気がするとよく申されてゐた。 またお前の伯父様、伯母様は、お前を唯一つの希望にしてお前を可愛がつて下さるし、お母さんも亦、 御自分の全生涯をかけて只々素子の幸福をのみ念じて生き抜いて下さるのです。 必ず私に万一のことがあつても親なし児などと思つてはなりません。父は常に素子の身辺を護つて居ります。
優しくて人に可愛がられる人になつて下さい。お前が大きくなつて私の事を考へ始めた時に、この便りを讃んで貰びなさい。 
昭和十九年○月吉日父 植村素子ヘ 
追伸、
素子が生まれた時おもちやにしてゐた人形は、お父さんが頂いて自分の飛行機にお守りにして居ります。 だから素子はお父さんと一緒にゐたわけです。素子が知らずにゐると困りますから教へて上げます。


父・眞久が散華してから22年目の昭和42年3月、素子さんは父と同じ立教大学を卒業。
4月22日素子さんは靖國の社に鎮まる父の御霊に自分の成長を報告し、母親や家族、友人、父の戦友達が見守るなか、文金高島田に振袖姿で日本舞踊「桜変奏曲」を奉納した。
舞い終わり友達から花束を受け取った素子さんは、「お父様との約束を果たせたような気持ちで嬉しい」と言葉少なに語ったという。

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靖國神社は遊就館に行かねば・・・・・

2015-04-18 04:41:55 | 歴史・神秘
靖國神社にお参りすると何故か心が晴ればれとするのがいつもの事である。
出来れば第一鳥居(大鳥居)をくぐって正面から参拝をしたい、しばらくすると大村益次郎(神社創建者)の高い銅像がある。第二鳥居を抜けると手水舎があるので手を浄める。
神門を抜けると神社境内だが、この神門手前に社頭掲示がある。月替わりで主に英霊の遺書や手紙が掲示され、コピーもいただけるがこれが素晴らしいのだが稿を改めます。
拝殿での作法は神社であるから「二礼、二拍手、一礼」であるのは余計なことか・・・・・・
境内では能楽堂も威厳があって美しい建物で私は心が洗われる。

さて、本殿向かって右側に「遊就館」がある、ここの事であるが・・・・・・
故三宅久之先生によれば,靖國神社への参拝者は年間に500万人であっても、遊就館を訪れる人は35万人しかいないそうだ。
私は必ずこの遊就館をも尋ねるのだが(有料)、靖國に来たからには遊就館を訪れなければ意味がない程に重視している。
入ってすぐにゼロ戦や戦車等の現物も展示されている、大展示室には人間魚雷や高射砲類も展示されているので「戦事博物館」の趣もあるのだが、ここの価値はこうした展示物ではない。
展示室には太古から大東亜戦争に至る詳しい展示物・遺品があり、改めて歴史の勉強になる。
映像ホールでは必ず映画の上映がされていて、私はたまたま水島總さんの制作映画を観る機会も得たりした。

さて、最後に訪れるのが「靖國の神々」である。
ここには去る大戦で命を落とした英霊が神として祀られていて、夥しい写真や遺書・遺品が飾られています。そしてお名前の最後に命(みこと)と言う文字をいただいている、そうこの人々は神様になられているのです。
現在靖國神社に合祀されている人々の数は約246万柱余、この内彼の大戦関連が213万柱、支那事変19万柱、日露戦争9万柱弱で圧倒的に大東亜戦争の死者が多い。

ちょっと話題が逸れるが合祀されていない人もいる。例えば西郷隆盛、戊辰戦争の政府軍は賊軍として、乃木希典は殉死者は戦死ではないので合祀の対象となっていない。

一人ひとりのお顔を見ながら歩を進めれば皆様がお若い、二十歳前後の方々が沢山おられる。
この英霊の方々がこの国を、故郷を、家族を守るために若くして散っていった事を思えば、感謝と慰霊の気持ちが湧き出るのが当然であると思う。
この英霊の方々が自分の命を投げ出してまで守ってくれた日本国が、今彼らが望んだ国になっているのか・・・・・
靖國参拝を頑なに拒否してきた前の民主政権、参拝を批判的に報道するマスコミ・・・・を英霊の方々はどう思っておられるのか・・・・・
そんな事を思えば申し訳ない気分にならざるを得ないのが悲しい。
次の小文はあるサイトの思いを綴ったものです。

そんな平和な国を。。。自分の家族(宝物)を。。。命を駆けて守ってきたのが、この「遊就館」の壁に飾られている(顔写真)多くの英霊たちです。
その方たちの遺品や家族に宛てた最後の言葉(遺書・日記)などが展示されています。そのひとつひとつが。。。その時代の。。。その瞬間を。。。映し出す。。。
今の時代の人たちには創造すらできない情景が浮かぶ。。。
自分と同じ世代。。。自分よりももっと若い世代。。。の人たちがなぜ命を捨ててまで戦ったのか?国益のため?独立国家だからそれもあるでしょう。。。国益の為に洗脳された?わたしもそうなのかなぁ?って思ったこともありました。。。でも。。。ここにある遺書や日記からは洗脳されたようなものは感じられませんでした。。。
自分の死を前にして。。。冷静にして穏やかな文章がつづられていました。。。
もちろん。。。その中には親・妻・子・兄弟・姉妹への感謝の想いと。。。同時に無念さもつづられているものもありました。。。

  

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靖國参拝の批判は何故おきるのか

2015-04-17 04:33:07 | 歴史・神秘
私はなぜ靖國に行くのか・・・・・それは単純、簡単な事だ。
今の先進国日本、国力が落ちたとは言え安全で安心して暮らせる有難い国家で、世界各国と比べても大変に恵まれた国だ。

作家の曽野綾子さんがこう言っている
「日本の庶民生活は、ほとんど世界最高水準にまで達している。私流の感傷的な言い方によると、日本は天国に近い国と言える。
水栓からそのまま安全に飲める水が各戸に配られ、断水がない。誰もが電気、都市ガス、またはボンベに詰めた天然ガスの供給を受けられる。テレビを見られないという人も例外だ。
誰もが、かりに金がなくても医療の恩恵を受けられ、学校にも安全に行ける。誰でもが移動の自由を持っている。今夜食べるものがない、という人はいない。警察や軍隊は、例外の少数者を除いて、正しい目的意識を持ち、その機能を最大限に発揮している。
そして日本人は、男女共に世界最高の長寿を記録している。これを天国と言わないで、何を天国と言うのか。」

この国はこうした状況に最初からあった訳ではない、特に直近の大東亜戦争ー敗戦を経て、その後の国を挙げての努力で成し遂げたものだ。
その戦争で多くの人たちが命を落とし、その大半は若者であった。この人達が靖國神社にお祀りされている。
その人達に感謝の気持ちを捧げ、御霊安らかにを願うのは日本国民として当然の事だと思うからだ。


この際問題になるのが靖國にA級戦犯(B級、C級も)が合祀されているということだ。
つまり戦犯をお参りすることになり戦争賛美につながるという訳の分からない理屈につながっているのだ。
この点では二つの視点から私は否定をしたい、そして、この視点が案外理解されていないというか、知られていないのだ。

まず日本に戦犯などいないのだ。
東京裁判でたしかに戦犯は生まれ幾人もの人がそれで命を奪われた。
しかし、勝者が敗者を一方的に裁くというこの裁判は後年批判にさらされているし、裁判途中でもインドのパール判事などがそれを訴えたが採り上げられる事はなかった。その事は置いておいて

まず日本国内では昭和28年第16回特別国会 全会一致で改正遺族援護法成立。東京裁判その他で戦犯となったものを通常の戦死者と同様に扱うことを社会党・共産党を含む全会一致で決定しています。
当時の国会は、「戦犯」とされた人々を国内法上での犯罪者とはみなさないことにした。「戦犯」とされた人々の遺族も一般戦没者の遺族と同様に扱うように法規を改正した。
これらの関係法を根拠に、国は元戦犯にも恩給を支払い、元戦犯の遺族にも年金を支払うなどを行ってきた。

勝手に戦犯をなくしたのか、そうではない。サンフランシスコ講和条約第11条第2項には、東京裁判を行った国の過半数の同意を得た場合は「戦犯」を赦免できることになっていた。
わが国はこの規定に基づき、国会で「戦犯」の免責を決議し、関係各国に働きかけた。「A級戦犯」は昭和31年(1956)3月末までに、「B・C級戦犯」は昭和33年(1958)5月末までに、全員赦免・釈放を勝ち取った。
つまりこの段階で戦犯などいないと国会が全会一致で決定、いわば名誉回復措置をとったのです。これは日本国民も皆と言ってよいほど賛同したのです(戦争受刑者釈放を求めた署名運動がはじまり、国民運動として大きな広がりをみせ4千万人という署名を得た)。
こうした経緯を無視していまだに「戦犯合祀」と言っているのが、そもそも大間違いなのです。

しかし、戦争を引き起こし結果的に多くの国民の命を奪う結果になった責任者ではないか・・・・のご意見もあろう。
これについても終戦後に日本駐留の責任者であったマッカーサーがアメリカの議会で「この度の日本の戦争は大部分が自衛のためであった」と証言しているのが案外採り上げられていない。

昭和26年5月3日、米国議会上院の軍事外交合同委員会で行われた質疑応答の一部です。
日本は絹産業以外には、固有の天然資源はほとんど何もないのです。彼らは綿が無い、羊毛が無い、石油の産出が無い。錫(すず)が無い、ゴムが無い。それら一切のものがアジアの海域には存在していたのです。もし、これらの原料の供給を断ち切られたら、1000万から1200万の失業者が発生するであろうことを日本人は恐れていた。したがって、彼らは戦争に飛び込んでいった動機は、大部分が安全保障の必要に迫られてだったのことだったのです
ついでに言うとマッカーサーは朝鮮戦争に介入せざるを得なくなり、この時初めて中国大陸に共産勢力が手を広げる危険性を認識した。
つまり、日本のこれまでの主張が正しかったことが初めて分かったとも言っている。

もう一つは日本の「死生観」に対するものです。
我々日本人の発想として、亡くなれば皆仏さんになり、生前の事は厳しく問わない心根・風習がある。
しかし中国や韓国では日本と違い、死んでからもその人の墓を暴くというのだ。
鞭屍(ビエン・スイー)と言う言葉が中国にはある、言葉通り死者(屍)に鞭打つのだが、そのためには墓を暴かねばならない、暴いた墓は跡形もなく破壊してしまうというのだ。
我々には考えにくいが敵対する人物の先祖の墓を暴き、死体をバラバラにしたり(韓国の愛国者の金玉均)、鞭で打ったりして辱める行為(中国の愛国者の汪兆銘)をしてきたのである。
このような風習が中国・韓国にはあり、かつて清朝最後の皇帝であった溥儀は、自分の先祖である清王朝の墓を中国人に暴かれた為に、日本と手を組み中国から離れて満州国を建国したのである。
墓を暴く、死者を冒涜する行為は日本では考えにくいが中国では今も行われている。文化大革命の時、祖先の墓を暴かれるのを恐れた小平の故郷四川の親族たちは、日夜その墓守をしたそうである。

宗教観に基づく死生観はみな異なる、例えば仏教とキリスト教を比べてみれば明白だ。
キリスト教はいまだに”土葬”である、これは復活(キリストは死後3日目に復活した)を信じその為には遺体を残しておく必要があるのだ。
仏教はどうか、宗派によって考え方の差はあるが霊魂の存在、輪廻転生が基本にある。だから肉体は仮の姿で重視しないから火葬をするのだ。
思わぬ方向にいってしまった、次回に続きます。
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今年は終戦後70年 靖國神社参拝は私の信念

2015-04-16 03:32:04 | 歴史・神秘
今年は大東亜戦争が終結して70年になる。
安倍首相の談話がどのようになるかが話題になったり、産経新聞では特攻隊の逸話が連載されたりしている。
そうした中、安倍首相の靖国神社例大祭への出席が見送られたとの観測記事(多分真実)が出たりしている。
久々に靖國神社に的を絞って記事を書いてみよう。

私は靖國神社を上京の度に参拝している。
これだけで
1,戦争を美化している。
2,右寄りだ。
3,時代錯誤。
等々と言われかねないのが今の日本の実情だ。そう言う批判がなぜ起きるのか・・・・・私の靖国参拝を通じて得た思いを記して皆様のご意見を伺いたい。

私は生を受けたこの国が好きだし、国旗・国歌を尊重する気持ちは強いし皇室も崇拝している。
これだけで”あいつは右寄りだ”と言われかねないのが今の日本だが、これはおかしいことだと思っている。
世界中のどこに自らの国・国旗・国歌を好きだといって批判される国があろうか。
国旗や国歌を法律で定める(平成11年)のに多くの反対者が出て、それらの人が民主政権の閣僚となり首相まで務めた。

今年3月の卒業式で国立大86校のうち、国旗を掲揚したのは74校、国歌を斉唱したのは14校にとどまったという。
国立大学法人・奈良教育大付属中学校の入学・卒業式では生徒らを着席させた上で「君が代」の曲のみを流していたという。
異常ではないか・・・・・・国立大学は国の補助を受けて運営されている、その大学が国の定めた国旗・国歌をないがしろにしているのである。
かっての戦争で尊い命を捧げた御霊はこんな日本にしたかったのか? そうである筈がない。

     
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ブラジルからの手紙

2013-10-30 01:14:59 | 歴史・神秘
靖國神社に替わる無宗教の慰霊施設を作るという構想がある。
千鳥ヶ淵に「戦没者墓苑」がある(昭和34年建造)が、これは身元不明の遺骨や引き取り手のない遺骨の納骨堂で靖國神社とは性格を異にする。

日本では靖國神社に替わる追悼施設が検討されている。
この事がブラジルでも2002年に報道されました。ブラジルは昭和30年前後を中心に多くの日本人が移民して、苦労の末市民権を獲得、多くの二世、三世の方々がおられます。
日系ブラジル人の子どもたちはこのニュースにびっくりし、悲しがった。勿論それは、靖國神社の重みを両親や祖父母から聞かされていたからでしょう。
そして、異国にいればこそ「愛国心」の重みがより強いためと思われます。
そしてその思いを手紙として認めました。
以下のYou Tubeの動画でその辺の経緯をご覧ください。

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靖國神社に対する思い様々 過去の政治家達

2013-10-26 02:32:08 | 歴史・神秘
終戦記念日の時期になると、NHKをはじめとするテレビメディアは、戦争の悲惨さだけに焦点をあてた番組編成で、視聴者である国民をある方向に引きずろうとしているように見える。 そこには、大東亜戦争の歴史的使命などの考察は微塵もなく、戦後60年余りの間引きずられてきた東京裁判史観をそのまま披露した自虐的内容と私には思える。
勿論戦争を美化したりする必要はない。しかし、なぜそうした道に進まざるを得なかったのかの観点は希薄で、自虐史観にとらわれていると思わざるを得ない。
その結果、日本人が忘れかけている、もしくは忘れさせられているもの、具体的に言うなら、この日本の礎となった先人たちへの畏敬と感謝という、誰もが備えているべきものを思い出させてくれるものがないのである。

終戦記念日もそうである。この日は武道館で行われる全国戦没者追悼式が全マスコミで報道される、これには天皇・皇后両陛下もご臨席され、さらに三権の長も出席されるのだから当然といえば当然ではある。
しからば、この日の靖國神社はどうか?・・・・報道されないし、されてもほんの小さな扱いである。*皮肉なことに今年は韓国から抗議の国会議員が来たので、報道が大きくなった。

民主党政権時代、菅内閣の全閣僚は閣議後記者会見などで、終戦記念日に靖國神社を参拝しない考えを示した。前年も全閣僚が参拝を見送った。中国や韓国などアジア諸国との関係を重視する民主党政権の姿勢を反映した形だ。
菅直人首相(いずれも当時)は就任後の参院本会議で「首相在任中に参拝するつもりはない」と言明。事務所は「(今年も)行く予定はない」としている。
江田五月法相は参拝しない理由を「靖國神社は先の戦争で国民を戦争に駆り立てる役割を果たした。戦争責任や諸外国に迷惑を掛けたことを考えるといかがなものか」と説明。細野豪志原発事故担当相は「ときどき参拝しているが、8月15日に参拝することは、全く違う政治的な意味合いがあるので、参拝しない」と明言した。
他の閣僚も「首相の方針に閣僚としては従う」(中野寛成国家公安委員長)などと話した。

更に野田首相に替わってからも首相就任後の記者会見で「在任中は靖國神社に公式参拝しない」と明らかにした。野党議員だった05年10月、「靖國神社に合祀されたA級戦犯は戦争犯罪者ではない」と発言するなど、首相の神社参拝を支持してきた従来の立場とは違ったものになっている。
まあそれは保守の期待であった安倍元首相もそうであったから、一概に民主批判では片手落ちになるが、安倍さんは先の退任後の産経新聞で「靖國神社に参拝すべきであった」と反省の弁を述べられていた。

戦争終結から29年目にして、フィリピンルバング島から奇跡の帰国を果たした小野田寛郎氏は、こう語っている。
靖國神社に異論があってお参りしたくない人は、来ていただかなくて結構だと私は思います。
とにかく、私たちが『死んだら神さまになって会おう』と約束した場所が靖國神社であり、その靖國神社を国家が護持しないということは、借金をしておいてそれを支払わないようなものです。
それはまだ我慢するとしても、靖國神社とは別の追悼施設をつくるなどというのは、死んだ人間に対する反逆、裏切りであります。
残された奥さんや子どもさんは大変お気の毒だったとおもいますが、亡くなった本人はお詣りしてくれる人がいるのだなあとつくづく思います。
お子さん、お孫さんと代々家でお祀りしてくれる人がいる。
しかし、独身で亡くなった私たちの仲間は、親兄弟が亡くなった後は 誰がお祀りしてくれるのだろう。
最近はついついそういう事を考えてしまいます。
そうしますと、簡単に『死んだら神様だ』と言いながら散華していった 人たち祀ってあげるのはやはり靖國神社しかないのです。


しかし、こと江田五月のような政治家にとっては、英霊は、「アジアを侵略した悪人、日本を間違った方向に導いた悪者」になるようだ。
靖國神社の遊就館にある、戦争で亡くなった方々の遺書を読めば、その方々が日本のため、家族のために命をなげうって散っていった純粋さがひしひしと伝わってくる。あの遺書に涙しない日本人などいないのではないか。 戦後、ご遺族から捧げられた「花嫁人形」を見て、散っていった若者たちの無念さに何も感じないなら、その人は自虐史観に苛まれた不幸な人だと思わざるを得ない。
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小泉純一郎元首相の靖國神社参拝

2013-10-19 00:49:20 | 歴史・神秘
折しも、靖國神社の秋季例大祭の最中であるが安倍首相は参拝を見送ったと伝えられている。
既に新藤総務大臣は参拝をしたが、例によって中韓が批判を寄せている。この悪循環はどうにかならんものか?

過去の大戦で散ってゆかれた英霊の逸話、遺書をご紹介してきた。涙なしには書けないページもあった。
この英霊の方々が靖國神社に祀られておられる。
「ありがとうございます、安らかにお眠りください。あなたが命を懸けて守ったこのお国を、私達が引き続いて守ってまいります」これが参拝する国民の気持ちであり、他に何もない。
この気持を他国になぜ批判されねばならないのか・・・・・

ここ数代の首相を思い返してみると、直近の民主党首相、閣僚は誰も参拝していない。
その前の麻生太郎、福田康夫、安倍晋三も参拝はしていない・・・・・と言うか、安倍首相は行くも行かないもハッキリさせない方針で退陣後にやはり行っておくべきだったと反省していた。

こうなると小泉純一郎首相は特別であった。
靖國参拝を公約し実行した(8/15参拝だけは前後したが)。特に中国からの批判は強かったが意に介せず参拝された。この為、中国との関係も冷えたと言われるがそんな事はない。
誠にこの面でも筋の通った首相であった。
 


以下は当時の参拝後のインタビューであるが、ここのどこに間違いが有るというのか!!

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金美齢さんの靖國神社での演説

2013-10-17 04:54:16 | 歴史・神秘
金美齢女史の歯切れのよい発言に魅了される方は多いのではないだろうか・・・・・
今は日本国籍をとっておられるが元々は昭和九年生まれの台湾人である。しかし、女史の発言は日本人以上に日本人的である。
金美齢ウィキペディア

私は女史に加えて櫻井よしこさん、稲田朋美さんの三人を日本を変える三大女傑と思っている。
 


さて、次のYou Tube映像は金美齢女史の靖國神社での演説である。
明快かつ説得力のある内容に触れていただきたい。
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靖國神社の社頭掲示 4

2013-10-15 03:48:40 | 歴史・神秘
子に宛てた遺書
陸軍少佐 海野馬一命
歩兵第五十四聯隊 昭和二十三年四月三日 ボルネオ島にて法務死 岡山県出身
愛児へ
 児等よ嘆ずること勿れ。父の死は決して汝等を不幸にはしない。
 汝等は父の死によって何でもよいから一つの教訓を得よ。
 他の人の得ることの出来ぬ教訓を得よ。そして立派な人間となれ。
 汝等よ。汝等の母は日本一の母なることを汝等に告げる自身あり。
 母の言をよく守れ。母の言は即ち父の言だ。
 和幸君瑞子様誠子様仲よくよき母の許にてよく勉強して立派な人となれ。
 人間は何も高位高官の人となる義務はない。国家のため人にためになる人になるのが人間の義務だ。
 和幸君よ父は汝に将来如何なる職業に進めと云ふ権能はない。
 又汝の性格も判らぬから申さぬ。然し弱きを助けるのが男だ。
 父は軍隊生活中この気概を持してやって来た。(中略)
 「弱きを助ける人となれ」これが父の言葉だ。汝未だ五才と雖も父の言を忘るる勿れ。
 瑞子様はお姉さまだから父の心がよく判るであらふ。
 和幸や誠子が成長するに従ひ父の心を傳へて下さい。


弟に宛てた遺書
海軍大尉 水知創一命
急に休暇が許され、又余りにも短かったので呼ぶ事が出来ず悪い事をしました。
 愼二は私のたった一人の弟です。早く立派な人になって父上、母上を喜ばしてあげて下さい。
 兄の様な親の心配を掛けてばかりゐる様な男になってはなりません。
 今に兄達が必ず敵をやっつけますから後は、愼二達が一所懸命勉強して日本をますます良い国にして下さい。
 では元気でしっかりやって下さい。


妻に宛てた遺書
海軍少佐 篠崎眞一命 "内南洋方面にて戦死東京都出身 二十四歳"
横須賀海軍航空隊 昭和十九年六月二十九日 内南洋方面にて戦死

玲子は日本一、否世界一の妻なりと思ってゐる。苦勞のみかけ、厄介ばかりかけ、何等盡し得なかった事済まなく思ってゐる。
 四月十五日以来僅な月日であったが、私の一生の半分に價する月日であった。
父母に孝養を盡してくれ、私の分迄。
私に逢ひ度くば空を見よ、飛行機を見よ、軍艦旗を見よ。私は其処に生きてゐる。
 結婚のすべての手續き、六月十二日に横空で完了して置いた。
 くれぐれも後をむよ。私の出来なかった事も玲子には出来る。
 後顧の憂、一つなく征ける身の幸福を感謝してゐる。
 最愛の玲子、御身を常に見守ってゐるよ。
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靖國神社の社頭掲示 3

2013-10-12 02:15:34 | 歴史・神秘
茂木三郎少尉『特攻出撃に際して』遺言 母親に宛てた遺書です。
福島県出身 神風特別攻撃隊第五神剣隊 昭和20年5月4日沖縄海域にて特攻戦死 19歳

遺言(昭和20年3月 母への手紙)
僕はもう、お母さんの顔を見られなくなるかも知れない。
お母さん、良く顔を見せて下さい。
しかし、僕は何にも「カタミ」を残したくないんです。
十年も二十年も過ぎてから「カタミ」を見てお母さんを泣かせるからです。
お母さん、僕が郡山を去る日、自分の家の上空を飛びます。
それが僕の別れのあいさつです。


海軍中尉  小川 清「両親への遺言」

父母上様
お父さんお母さん。

清も立派な特別攻撃隊員として出撃することになりました。
思えば二十余年の間、父母のお手の中に育ったことを考えると、
感激の念で一杯です。
全く自分ほど幸福な生活をすごした者は他に無いと信じ、
このご恩を君と父に返す覚悟です。

あの悠々たる白雲の間を越えて、
坦々(たんたん)たる気持ちで私は出撃して征きます。
生と死と何れ(いずれ)の考えも浮かびません。
人は一度は死するもの、
悠久の大義に生きる栄光の日は
今を残してありません。

父母上様もこの私の為に喜んで下さい。
殊に(ことに)母上様にはご健康に注意なされお暮し下さる様、
尚又、皆々様の御繁栄を祈ります。

清は靖國神社に居ると共に、いつ何時も父母上様の周囲で
幸福を祈りつつ暮らしております。
清は微笑んで征きます。
出撃の日も、そして永遠に。


陸軍衛生伍長 伊藤 甲子美命 二十六歳

季代子 かう呼びかけるのも最後になりました。短かつたけど優しい妻でした。有り難く御礼申し上げます。まこと奇しき縁でしたけど、初めて幸福が訪れた様な気がして嬉しく思つていました。折角永遠の誓ひを致しながら最後になりますのは、何かしら心残りですけど、陛下の御盾として果てる事は、私にとりましても光栄と存じます。
短い生活で、もう未亡人と呼ばれる身を偲ぶとき、申し訳なく死に切れない苦しみが致しますが、すでに覚悟しての事、運命として諦めて頂きたいと思ひます。若い身空で未亡人として果てる事は、決して幸福ではありませんから佳き同伴者を求めて下さい。
 私は唯、幸福な生活をして頂きますれば、どんな方法を選ばれませうとも決して悲しみません。
さやうなら季代子、何一つの取り柄のない夫を持つて、さぞ肩身の狭き思ひで有りませう。至らない身、お詫びを致します。
何日の日か幸福な妻にさして上げたく思ひ乍ら、その機会もなく心残りでなりません。
どうぞ御健やかに御暮らし下さいます様、お祈り致しています。さやうなら。


市川尊継遺書 回天特別攻撃隊千早隊 海軍大尉 昭和20年2月28日 小笠原諸島方面で戦死

人生二十五年転変の世に処し、回天特別攻撃隊千早隊の一員として愈々明日出撃することになりました。唯今申し上げたきは、御慈愛を深く感謝致すと共に、敵爆沈に集中成功を期するのみであります。菊水の兵器に乗り、白鉢巻の中に御両親様の御写真をひそめ、千人針に胆を締めて、敵撃滅に猛進する小生の姿を御想像になられ、尊継聯か御国の御役にたちたることを喜んでやって下さい。
 では行ってきます。

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靖國神社の社頭掲示 2

2013-10-11 01:41:23 | 歴史・神秘
海軍少尉 須賀芳宗
神風特別攻撃隊・第1正気隊、昭和20年
4月28日、南西諸島海域にて戦死、24歳
この桜程美しい桜を未だみたことがありません。きっとこれも見る者の心のせいでせう。

海軍大尉 関 行男
神風特別攻撃隊・敷島隊、昭和19年
10月25日、比島レイテ沖にて戦死、24歳

何もしてやる事も出来ず散りゆく事はお前に対して誠にすまぬと思って居る。
何も云はずとも武人の妻の覚悟は十分に出来て居る事と思ふ。
教へ子へ(42期飛行学生へ)
 教へ子は 散れ山桜 此の如くに


海軍2等飛行兵曹 新井春男
神風特別攻撃隊・神雷第7建武隊、昭和20年
4月16日、南西諸島海域にて戦死、19歳
決戦場に出たからには、生きて再び故国の地を踏まうなどとは毛頭考へません。
今度皆々様と会ふ日は、必ず九段の桜花咲く下であらうと思ひます。


海軍少尉 松尾 巧命 二十歳 
神風特別攻撃隊第三御盾隊 沖縄西方海域にて戦死 
謹啓 御両親様には相変らず御壮健にて御暮らしのことと拝察致します。 
小生もしごく元気にて精励致してをります。 

今までの御無沙汰おわび致します。本日をもつて私も再び特攻隊員に編成され、出撃します。出撃の寸前の暇をみて、一筆走らせました。 
この世に生を受けて以来、十有余年間のお礼を申上げます。 

沖縄の敵空母にみごと体当たりをし、君恩に報ずる覚悟であります。 
男子の本懐、之に過ぐるものが他にあるでせうか。護國の花と立派に散華致します。 

私は二十歳をもつて君に身命をささげます。 
お父さん、お母さん、泣かないで、決して泣いてはいやです。賞めてやつて下さい。 

家内揃つて、何時までも幸福に暮らして下さい。 
私の小遣いが少しありますから、人に頼んでお送り致します。何かのたしにして下さい。 

近所の人々、親族、知人、小学校時代の先生にもよろしく。 
妹にも・・・・・・・・・。 
後はお願ひします。では靖國へまいります。 

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靖國神社の社頭掲示

2013-10-09 01:24:14 | 歴史・神秘
靖國神社の神門手前に社頭掲示がある。毎月、月替わりで英霊の遺書や遺詠が展示されコピーもいただける。
これが当時の状況を偲ばせ何とも切ない内容である事が多いのだが、この内のいくつかをご紹介してまいりたい。
なお、ネットでも閲覧できるが以下の通りです。
靖國神社社頭掲示

なお、ネットで閲覧できる期限以前のものは「英霊の言乃葉」として遊就館で販売されています。
また、チャンネル桜で女優 烏丸せつこさんによる言乃葉朗読も放映されております。
【靖國】英霊の言乃葉[桜H22/8/14]

この映像の35分過ぎに先日ご紹介した西田高光少佐も出てみえますが、今回は弟に宛てた言乃葉が朗読されております。

しかし、これらの遺書・遺詠に触れると肝の坐り方、決意の明確さに愕然としない訳にはいきません。
国を想い、故郷を想い、両親、兄弟、妻子に宛てた言葉は死を直前にした悲壮感だけでなく胸に迫るものがあります。

海軍少尉 真鍋信次郎
神風特別攻撃隊・隊名不明、昭和20年
 5月25日、南西諸島海域にて戦死、22歳
散る桜 のこる桜も 散る桜

海軍中尉 緒方 襄
神風特別攻撃隊・神雷桜花隊、昭和20年
3月21日、沖縄周辺海域にて戦死、23歳
いざさらば、われは栄えある山桜、母の御もとに帰り咲かなむ(遺詠の一部)


上記の歌を、御母堂のカバンの中にそっと入れて少佐は出撃しました。
その歌をあとになって発見し少佐の御母堂、緒方三和代の今は亡き我が子への返歌

 散る花の いさぎよきをば めでつつも
                  母のこころは かなしかりけり


我が子は国難に我と我が身をささげたんだからきっと本望だったでしょう。母も名誉に思いますがでもね、やっぱりあなたがいなくなってしまったことが悲しいんです。
そんな風な思いだったのでしょうか・・・。

母にあてたものとは別に、緒方襄氏には出撃三十分前に、鉛筆で海軍手帳に走り書きした絶筆の辞世がある。

清がすがし花の盛りにさきがけて 玉と砕けん丈夫我れは
死するともなほ死するとも吾が魂よ 永久にとどまり御国まもらせ
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靖國神社の風景2

2013-09-19 01:55:24 | 歴史・神秘
暫く選挙・民主党・韓国等に話題を集中させ”靖國神社”が途絶えてしまった。
書き留めた物がもう少しあるので、再開いたします。

前回ご紹介した馬、犬、鳩の慰霊碑のコーナーに二つの像(顕彰牌)がある。
一つは「母の像」である。着物姿の母が幼子を抱き、足元には更に二人の子どもが母にまとわり見上げている。
靖國の公式サイトでは、この像は、苦難と孤独に耐えながら子供を育て上げた戦争未亡人への敬意と感謝を込めて、昭和49年(1974)に建てられました。立派に成長した子供(遺児)たちが奉納したもので、「お母さん、ありがとう」の気持ちの表れです。と言っている。
碑文はつぎのとおりである。
強くきびしく やさしかった母 おかげで私がある

お母さんありがとう

私たちのかなしみが くりかえされることのないように


昭和49年秋 日本遺族会青年部

先の遺書でも母親に対する英霊の切々たる想いが多かったのであるが、この対戦で未亡人となった、或いは子供を失った母親は多かったであろう。
そのご苦労を思えばこの銅像も悲しい・・・・


もう一つがパール博士顕彰牌である。パール博士の経歴はウィキペディアでは次の通りである。
ラダ・ビノード・パール (英語:Radhabinod Pal、1886年1月27日 - 1967年1月10日) は、インドの法学者、裁判官、コルカタ大学教授、国際連合国際法委員長を歴任。ベンガル人。
ヒンドゥー法を専攻。日本では主に、極東国際軍事裁判(東京裁判)において判事を務め、被告人全員の無罪を主張した「意見書」(通称「パール判決書」で知られる。東京裁判以降、国際連合国際法委員長や仲裁裁判所裁判官として国際法に関与した。

パールは「裁判の方向性が予め決定づけられており、判決ありきの茶番劇である」との主旨でこの裁判そのものを批判し、被告の全員無罪を主張した。“裁判憲章の平和に対する罪、人道に対する罪は事後法であり、国際法上、日本を有罪であるとする根拠自体が成立しない”という判断によるものである。
パールは『パール判決書』の中で、
「戦争に勝ち負けは腕力の強弱であり、正義とは関係ない。」
と記述している、また
「現代の歴史家でさえも、つぎのように考えることができたのである。すなわち『ハル・ノートのようなものをつきつけられれば、モナコ公国やルクセンブルク大公国でさえ戦争に訴えただろう』」。
とA.J.ノックの言葉を紹介している。これについて、日本の保守系論者(伊藤哲夫:日本政策研究センター)は「『戦争を始めたのは日本ではなく、アメリカなのだ』ということを意図したものである」と主張している。

パールは1952年11月3日より4日間、「世界連邦アジア会議」の講演のため広島市を訪問した。4日の講演「世界に告ぐ」では「広島、長崎に原爆が投ぜられたとき、どのようないいわけがされたか、何のために投ぜられなければならなかったか」など、原爆投下を強く非難した。
講演では、「いったいあの場合、アメリカは原子爆弾を投ずべき何の理由があっただろうか。日本はすでに降伏すべき用意ができておった」「これを投下したところの国(アメリカ)から、真実味のある、心からの懺悔の言葉をいまだに聞いたことがない」、連合国側の「幾千人かの白人の軍隊を犠牲にしないため」という言い分に対しては「その代償として、罪のないところの老人や、子供や、婦人を、あるいは一般の平和的生活をいとなむ市民を、幾万人、幾十万人、殺してもいいというのだろうか」「われわれはこうした手合と、ふたたび人道や平和について語り合いたくはない」として、極めて強く原爆投下を批判した。
 

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出羽三山の旅6

2012-01-13 14:13:25 | 歴史・神秘
最初の羽黒山に戻るが信心深そうな高齢の男女がグループで来ていた。
皆白装束で金剛杖を持っていて、本殿でご祈祷をうけていたが、楽曲の笙や笛も本物、巫女の踊りも披露された。中々に厳粛で、威儀が感じられた。
 
さて、こうした神社仏閣訪問の記念に「ご朱印」をいただいてくる事にした。
ご朱印帳を当該場所に差しだしお願いすると目の前で毛筆でサラサラと、しかし素晴らしい字で記した上でご朱印を赤々と押していただける、大体が一件300円ほどである。
しかし、こうした素晴らしい文字がスラスラと書けるようになりたいものだ・・・・
左上の出羽三山の文字なんか・・・・うら若き巫女さんがスラスラと・・・・文字の感じはこれが私にはベストだ。

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