昭和は遠くなりにけり この国を愛し、この国を憂う がんばれ日本

昭和21年生まれの頑固者が世相・趣味・想いを語る。日本の素晴らしさをもっと知り、この国に誇りを持って欲しい。

帝国ホテルの対応の素晴らしさ!

2015-04-05 03:02:27 | 日本の素晴らしさ
黒人運動家が白人を優遇しない日本の帝国ホテルの対応に感動!!


帝国ホテルは日本を代表するホテルでいささか私らには敷居が高いのだが、上記動画の対応は立派だ。この動画の年代は1936年、昭和11年だ。
しかし、つい先日の東日本大震災の時にも敷居の高いホテルらしくない活動があったのを又々友人に教えられた。以下転載であります。
*帝国ホテル製のチョコレートは絶対に美味いです。

日本を代表する伝統的なホテルと言うと、まずは帝国ホテル東京とホテルオークラでしょう。
ホテルオークラは、新婚当時、妻と所要で上京した折に宿泊をしましたが、帝国ホテルは、宿泊していた英国のバイヤーとの商談でロビーを利用しただけで、今も憧れのホテルです。

帝国ホテルは、戦前に世界で唯一人種差別しない高級ホテルで有名だった。
普通、西欧のなどの高級ホテルも、列が出来ると白人が真っ先に優遇されるのが常識だったが、帝国ホテルだけはその常識を無視し、人種の違いに拘らず、最前列から対応していた。

怒った白人がクレームをつけたが、帝国ホテルの係員はそのクレームを無視し、「これが当ホテルのやり方です」と白人の客に返答した。
それが全世界の有色人種の間で大評判になった事があった。
そんな帝国ホテルにまつわる、素敵なエピソードを今日ご紹介しましょう。

東日本大震災が起きた11年3月11日、震度5の揺れがあった東京では交通網が完全にマヒ状態となり、街は約10万人の「帰宅難民」で溢れ返った。
タクシーはつかまらず、道路は大渋滞で、営業中の店は少なく、あっても満席で入れない。
新宿駅では、シャッターを閉めて客を追い出すという事態が起きていた中、大多数の人はトイレや空腹、寒さを我慢しながら歩き続けるしかなかった。

その夜、行き場をなくした2000人の人々のためにロビーや宴会場を開放したばかりか、毛布やペットボトルの水、保存食などを無料で提供したのが日比谷の帝国ホテル東京です。

当日、陣頭指揮を執ったチーフデューティマネージャーの、山本一郎さんは、地震による建物の損壊は客室の壁の一部に亀裂が入った程度で、電気やガス、水道などのインフラには支障なしだった事で、運が良かったと語る。

しかし毛布はまだしも、2000人分の水や保存食などは、日頃の備えがなければとっさに出てくるはずがない。
帝国ホテルでは、2005年から事業継続計画(BCP)の一環として、大規模災害に見舞われた際の対策マニュアルづくりに取り組んでいた。

阪神淡路大震災を経験したホテルオークラ神戸、神戸ポートピアホテル、ニューオータニ神戸などを訪問してヒアリングをしている。
震災対策マニュアルを作成した。
そのプロジェクトに参加していたのが、広報課長の小松崎宇弘さんでした。

マニュアルづくりにあたっては、社長の小林哲也をはじめとする経営陣に「もっと具体的に」と叱られながら表現を練っていったという。
誰がどうするかまで具体的に書かねば、非常時に使いものにならない。
『A非常階段の扉を開ける』と書いたなら、それは誰が開けにいくのかというような細部まできちんと詰めておく事が求められました。

マニュアルが完成したのは約2年前。
24時間・年中無休のホテル業では全館一斉に訓練を行う事は難しいが、年2回は大がかりな自衛消防訓練を行い、そのほかにも年5~6回、職場単位の訓練がある。

ホテル業は「顧客の命を預かる」という重大な責任を負う仕事です。
お客の安全・安心はホテル側が最も経費をかけ、重視する点で、何ごともなくて当たり前、何かあってはならない。
例えば帝国ホテルの客室の家具は、すべて角が丸くなっています。
暗闇の中でお客様が歩き回っても、ぶつかって怪我をしないようにとの配慮なのだとか。

これらすべての備えが、あの3月11日に生きた。
地震発生から僅か4分後には、総支配人を責任者とした現場指揮所を1階ロビーのフロント裏に設置し、館内放送で従業員に対して状況確認を命じる。
安全確認後は、お客に向けて「余震があるので、次の放送があるまでその場で待機してください」と英語と日本語の両方で指示した。

ロビーに続々と人が集まってきたのはその頃からだった。
予約客がチェックインしようとしてもエレベーターが停止したままなので、ロビーで待っていて貰うしかない。
その一方で、上階にいた人々は不安を感じて非常階段を使って下りてくる。
予定されていた宴席の招待客も、単なる通りすがりの人々も入ってくる。
そんな中、人々のために椅子を200脚用意し、タオルと氷の入った水を提供した。

帰宅難民に対してロビーを開放したのも、自然な流れだったと山本さんは振り返る。
「私がそうしようと決めて宣言したというより、スタッフが、『椅子をご用意しますか?』『お水をお配りしますか?』と聞いてくる。
その都度『はい、お願いします』と許可していきました」

その後は無我夢中だった。
ホテルはほぼ通常どおり営業を続けるかたわら、情報を求める人々のためにテレビを見やすい場所に設置し、電車の運行状況など新しい情報が入るたびに拡声器で案内するなどの対応を続けた。



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これが日本の伝統と品格

日本を代表する伝統的なホテルと言うと、まずは帝国ホテル東京とホテルオークラでしょう。
ホテルオークラは、新婚当時、妻と所要で上京した折に宿泊をしましたが、帝国ホテルは、宿泊していた英国のバイヤーとの商談でロビーを利用しただけで、今も憧れのホテルです。

帝国ホテルは、戦前に世界で唯一人種差別しない高級ホテルで有名だった。
普通、西欧のなどの高級ホテルも、列が出来ると白人が真っ先に優遇されるのが常識だったが、帝国ホテルだけはその常識を無視し、人種の違いに拘らず、最前列から対応していた。

怒った白人がクレームをつけたが、帝国ホテルの係員はそのクレームを無視し、「これが当ホテルのやり方です」と白人の客に返答した。
それが全世界の有色人種の間で大評判になった事があった。
そんな帝国ホテルにまつわる、素敵なエピソードを今日ご紹介しましょう。

東日本大震災が起きた11年3月11日、震度5の揺れがあった東京では交通網が完全にマヒ状態となり、街は約10万人の「帰宅難民」で溢れ返った。
タクシーはつかまらず、道路は大渋滞で、営業中の店は少なく、あっても満席で入れない。
新宿駅では、シャッターを閉めて客を追い出すという事態が起きていた中、大多数の人はトイレや空腹、寒さを我慢しながら歩き続けるしかなかった。

その夜、行き場をなくした2000人の人々のためにロビーや宴会場を開放したばかりか、毛布やペットボトルの水、保存食などを無料で提供したのが日比谷の帝国ホテル東京です。

当日、陣頭指揮を執ったチーフデューティマネージャーの、山本一郎さんは、地震による建物の損壊は客室の壁の一部に亀裂が入った程度で、電気やガス、水道などのインフラには支障なしだった事で、運が良かったと語る。

しかし毛布はまだしも、2000人分の水や保存食などは、日頃の備えがなければとっさに出てくるはずがない。
帝国ホテルでは、2005年から事業継続計画(BCP)の一環として、大規模災害に見舞われた際の対策マニュアルづくりに取り組んでいた。

阪神淡路大震災を経験したホテルオークラ神戸、神戸ポートピアホテル、ニューオータニ神戸などを訪問してヒアリングをしている。
震災対策マニュアルを作成した。
そのプロジェクトに参加していたのが、広報課長の小松崎宇弘さんでした。

マニュアルづくりにあたっては、社長の小林哲也をはじめとする経営陣に「もっと具体的に」と叱られながら表現を練っていったという。
誰がどうするかまで具体的に書かねば、非常時に使いものにならない。
『A非常階段の扉を開ける』と書いたなら、それは誰が開けにいくのかというような細部まできちんと詰めておく事が求められました。

マニュアルが完成したのは約2年前。
24時間・年中無休のホテル業では全館一斉に訓練を行う事は難しいが、年2回は大がかりな自衛消防訓練を行い、そのほかにも年5~6回、職場単位の訓練がある。

ホテル業は「顧客の命を預かる」という重大な責任を負う仕事です。
お客の安全・安心はホテル側が最も経費をかけ、重視する点で、何ごともなくて当たり前、何かあってはならない。
例えば帝国ホテルの客室の家具は、すべて角が丸くなっています。
暗闇の中でお客様が歩き回っても、ぶつかって怪我をしないようにとの配慮なのだとか。

これらすべての備えが、あの3月11日に生きた。
地震発生から僅か4分後には、総支配人を責任者とした現場指揮所を1階ロビーのフロント裏に設置し、館内放送で従業員に対して状況確認を命じる。
安全確認後は、お客に向けて「余震があるので、次の放送があるまでその場で待機してください」と英語と日本語の両方で指示した。

ロビーに続々と人が集まってきたのはその頃からだった。
予約客がチェックインしようとしてもエレベーターが停止したままなので、ロビーで待っていて貰うしかない。
その一方で、上階にいた人々は不安を感じて非常階段を使って下りてくる。
予定されていた宴席の招待客も、単なる通りすがりの人々も入ってくる。
そんな中、人々のために椅子を200脚用意し、タオルと氷の入った水を提供した。

帰宅難民に対してロビーを開放したのも、自然な流れだったと山本さんは振り返る。
「私がそうしようと決めて宣言したというより、スタッフが、『椅子をご用意しますか?』『お水をお配りしますか?』と聞いてくる。
その都度『はい、お願いします』と許可していきました」

その後は無我夢中だった。
ホテルはほぼ通常どおり営業を続けるかたわら、情報を求める人々のためにテレビを見やすい場所に設置し、電車の運行状況など新しい情報が入るたびに拡声器で案内するなどの対応を続けた。

コメント欄に続く。

2015年03月12日 05時53分 [ 通報する ]
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コメント
1 ひげのととろさん 2015年03月12日 05時54分

続きです。

日が暮れて気温が下がってくると、ロビーはおろか、地下のショッピングアーケードから2階の宴会場まで、人で埋め尽くされた。
JRが止まったままの中、私鉄や地下鉄は順次運行を再開していたが、「いつ止まるかわからない電車に乗るより、ここで一夜を明かしたほうが安全」と判断した人が多かったのだろう。
絨毯敷きの床で毛布にくるまってごろ寝する人たちの数は、ピーク時には2000人を数えた。

翌朝6時30分には水とパンを再度配布したほか、宴会場で温かい野菜スープを振る舞った。
7時すぎにJRが運行を一部再開。
午前11時頃ロビーにいた帰宅困難者が全員いなくなった時、ようやく山本さんは胸をなで下ろした。

だが話はそれだけでは終わらない。
ロビーで一夜を明かした人々から、お礼の電話や手紙がひっきりなしに届き出したのです。
どの手紙にも、感謝の言葉が切々と綴られていた。

その中からいくつかを紹介すると、
“寒かったから室内にいられるだけでも有り難かったのに、お水や食料まで差し入れして貰った”
“近隣の外資系ホテルではドアを開けても呉れなかったのに、毛布を貸してくれたばかりか、毛布の数が足りなくなったら大判のバスタオルを出して来てくれた”

“携帯電話の電池が切れて途方に暮れていた時、フロントで充電してくれたおかげで家族と連絡が取れた”。

2000人の中には、ホテルとは無関係な、いわば通りすがりの人々も多かったはずであるが、にも関らず、分け隔てなく水や保存食を提供した。
実は帝国ホテルでは1923年の関東大震災の時も、避難してきた人々におにぎりなどの食料を提供している。

「困っているお客様がいれば、どうしてもお助けしたくなってしまう。
なんとかしてお客様のお役に立ちたいというホテルマンの使命感は受け継がれているかもしれません」
どうですか、とても素敵なお話でしょう。

話の中に、「ドアを開けてもくれなかった近隣の外資系ホテル」とありましたが、これ等の外資系チェーンホテルは、防犯マニュアルがしっかりした良いホテルなのでしょうね。
何故なら、日本以外の外国なら絶対混乱に乗じた略奪や破壊が起きるものだから、当然のホテル対応なのでしょう。

帝国ホテルの様な対応が出来るのは、「お・も・て・な・し」という、接客の真髄を見る事が出来ます。
これこそが民族と国家の品格の違いと言うものなのでしょうね。
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