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4- 平安人の心 「夕顔:人工都市平安京大路小路のミステリーゾーン」

2021-06-26 10:31:54 | 平安人の心で読む源氏物語簡略版
 山本淳子氏著作「平安人(へいあんびと)の心で「源氏物語」を読む」から抜粋再編集

  「鬼」といえば、角をはやした赤鬼青鬼などを考えがちだが、そういう想像上の怪物は「鬼」の一部に過ぎない。基本的に鬼とは、超自然的存在で目に見えぬものをいう。「おに」の語源からして「姿を隠している」意味の「隠(オン)」がなまったものと考えられており、その代表格は死霊である。強い怨念を抱いた人間が死ねば、その霊は恨みを抱かせた相手に祟る。逆に愛情を抱いた死霊は守護霊となる。そしてある場所に執着する死霊は、いわゆる「地縛霊」となる。そうした霊の住み処が、都に点在していたのだ。

  東洞院大路を二条大路まで上がれば、「僧都殿」なる悪所がある。空き家に霊が住みついているらしく、たそがれ時には赤い単衣(ひとえぎぬ)がひとりでに宙を舞って、西北隅の榎の枝に掛かるのだという。血気にはやって射落とした男がその夜のうちに死んだというから、よほど強い怨念を秘めた地縛霊らしい。また、左大臣・源高明(たかあきら)が住んでいた「桃園邸」。一条大路を挟んで大内裏の北向かいにあった邸宅だが、ここの寝殿では真夜中になると、母屋の柱から小さな子供の手が突き出して「おいでおいで」をしたという。「小さき児(ちご)の手」というところが恐怖を誘う。いずれの鬼も、何をしたいのか意図が読めないところに、妙な現実味がある。人々は驚き怪しみ、恐れて世に語り伝えた。

  だが、悪所多しといえども「河原院(かわらのいん)」ほど多くの資料に記される場所はあるまい。「源氏物語」-「夕顔」の巻で光源氏が夕顔と宿った「某の院」のモデルとされるこの邸宅は、「今昔物語集」始め、ほぼ同時期に成立した「江談抄(ごうだんしょう)」にも怪異譚が載る。この院に住む霊鬼は、邸宅の創建者、源融(とおる:822~859年)だ。邸宅への執心のあまり亡霊となって、彼の死後持ち主となった宇田法皇(876~931年)の前に姿を現す。
  実は、この説話には根拠がある。宇田法皇は、傍仕えの女官に融の霊が憑くという体験を実際にしているのだ。融の死の約30年後のことだ。女官は融の言葉で、地獄の責め苦に遭っていること、その合間を縫いながらも河原院に憩いに来ていることを言い、鎮魂のため七箇寺での読経を乞うた。歴史書「扶桑略記」がこの読経の事実を記し、美文集「本朝文粋(もんずい)」に諷誦文(ふじゅもん:法事の主旨を記した文)が載る。

  源融といえば、光源氏のモデルの一人ともされる人物だ。嵯峨天皇(786~842年)の皇子でありながら母の身分が低く、「源」の姓を賜って臣籍に降った。藤原基経と拮抗しながら左大臣にまで昇り詰めたが、基経が関白大政大臣となって融の地位を超えてからは政治的な発言力を失った。は失意の中、広大な邸宅「河原院」を造営し、賀茂川から水を引き入れて海を模し、岸辺に陸奥の名所・塩釜を再現した。現実には天皇になれなかった融だが、河原院という仮想空間で日本の名所の所有者となったのである。その思いが死後まで続く妄執となったのであろう。

  はかつて、陽成天皇(868~949年)が廃された折、次の天皇に自らを推薦したという。だが基経から、一旦姓を賜った以上即位はできぬと却下され、引き下がった。しかし三年後、次の光孝天皇(830~887年)の重病を受け帝となったのは、一度は「源定省(さだみ)」の名で臣下となりながら、姓を返上した宇多天皇だった。その即位の時、融はまだ在世中。理不尽を感じつつも、河原院に耽溺して心を癒やしたと思しい。宇田法皇は、その融の、その河原院を譲られたのだ。内心思うところがあったに違いない。

  罪悪感のことを「心の鬼」とよぶことがある。研究者は融の霊を、宇田法皇の罪悪感が見させた心の鬼だと言う。ならば「源氏物語」=「某の院」の霊は何だったのだろうか。

3- 平安人の心 「空蝉:秘密が筒抜けの豪邸寝殿造」

2021-06-25 11:33:58 | 平安人の心で読む源氏物語簡略版
 山本淳子氏著作「平安人(へいあんびと)の心で「源氏物語」を読む」から抜粋再編集

  寝殿造様式の豪邸での平安貴族たちの毎日は、いわば現代の高級ホテルの大宴会場で日常生活を送るようなものだ。
  例えば「年中行事絵巻」に描かれる邸宅「東三条殿」。藤原兼家やその息子・藤原道長も住んだ藤原氏長者歴代の豪邸だが、その中心部分である母屋(もや)はワンルームだ。広さは、この寝殿の場合で南北約6m、東西18m。母屋を取り巻く廂の間は、東・南・西は幅3m、北側は孫廂も合わせて6m。合わせれば南北15m、東西24mと、体育館級の面積になる。
  そのスペースの間仕切りを取り払って、大臣任官を祝ったり正月ごとに客を招いたりの大宴会「大饗(だいきょう)」が華やかに催された。宴会時には外との仕切りである「蔀戸(しとみど)」を開け放つ。御簾を通して、庭の池に浮かべた竜東鷁首(げきしゅ)の船の雅楽隊が奏でる音楽が、寝殿の中に流れ込む。こうした、行事中心の絢爛たる貴族生活のために欠かせない装置が、寝殿造の豪邸だった。

  しかし、宴会には良いが毎日の生活には広すぎる。そこで普段は、主人は母屋、女房は廂の間など居場所を分け、間を仕切って暮らすことになる。しかしその間仕切りは、近づけば向こうが透けて見える御簾、布製カーテンのような「壁代」、最も分厚い間仕切りでも襖障子だ。
  プライバシーをめぐる攻防戦がここから始まる。室内に几帳や屏風を立て、姿を見られたくない女主人や女房はその陰に隠れる。いっぽう男たちは、妻戸の背後や御簾の隙間から目を凝らす。なかには恋に胸をときめかせ、忍び込む好機をうかがう者たちもいるのだ。夜になって蔀戸を下ろすや、外界の光が遮断され闇の世界になってしまうことも、秘密の攻防に拍車をかける。

  ところで、女房たちはこうした空間に局を与えられ、主人たちと共に暮らした。多くの場合は、母屋を取り囲む廂の間を御簾などで仕切って局とした。縦横約3m、六畳弱の広さだ。恋人を招き入れることもある。その逢瀬に聞き耳をたてる隣室の女房もいる。清少納言は「枕草子」の「心にくきもの(いい感じのもの)」の中に、寝殿内で聞く物音を挙げた。夜中にふと目を覚まし、耳をそばだてると、女房が男と話している。内容は聞き取れないが、忍びやかに笑う気配。ああ、何を言っているか知りたい・・。別の段「嬉しきもの」には「人の破り捨てた手紙を継いで見たら、何行もつながって詠めたのがうれしい」などとも記されている。文面からは、清少納言のじれったい気分、思わずほころぶ笑顔が浮かぶ。

  隣室の男女の会話、捨てられた手紙。人の秘密に興味津々の女房が、それを漏らすとどうなるか。いわゆる風聞、噂話が、やがて書き留められれば説話となり物語となる。「源氏物語」-「帚木」巻の冒頭は、いかにも老いた女房らしき人物を語り手に仕立て「これは光源氏様の恋の失敗の暴露話」と始められている。もちろんこれは紫式部の設定した架空の語り手だが、現実においても寝殿造邸宅を舞台に、秘密を知る女房、漏らす女房、語り伝える人々が連鎖して、世間の周知の「世語り」ができてゆく。いわゆるゴシップ、スキャンダルだ。女房とはある意味で、「世語り」の標的である貴人の身辺と世間とをつなぐ、噂のパイプといってもよいかもしれない。だからこそ、貴人たち、特に女主人たちは女房を警戒する。

  その様子は「源氏物語」にも窺える。「帚木」巻で、光源氏に抱き上げられ、連れ去られるところを女房・中将の君に知られてしまった空蝉は「どう思われたか」と死ぬほどに気をもむ。光源氏も「空蝉」巻で軒端荻と契った帰り、老女房に見とがめられ、騙しおおせたものの冷や汗を流す。「若紫」巻で、光源氏との一夜の後、藤壺女御は「世間の語り草になるのでは」と思い乱れ、光源氏を連れ込んだ女房・王命婦を、以後は遠ざける。対照的に、「若菜下」巻で柏木に踏み込まれた女三の宮は、密通を仲介した女房・小侍従を、思慮のないことにその後もそばに置く。案の定、不義の子・薫はやがて「橋姫」巻で、この女房の筋から出生の秘密を知ることになる。

  強固な作りのようでいて、住まう者の秘密は守れない寝殿造。腹心の部下のようでいて、時には裏切り口さがない女房たち。平安貴族の、とにかく世間を気にする感覚の一端は、こうした環境によるものと言ってよい。優雅に見える生活だが、実は常に緊張を強いられていたのだ。

2- 平安人の心 「帚木:光源氏、最初の恋の冒険談」

2021-06-24 17:04:05 | 平安人の心で読む源氏物語簡略版
 山本淳子氏著作「平安人(へいあんびと)の心で「源氏物語」を読む」から抜粋再編集

  光源氏17歳、最初の恋の冒険談。それは人妻・空蝉(うつせみ)を盗む話。「源氏物語」は全54帖の中で男女の密通を幾つも描く。光源氏と義母・藤壺女御との密通、光源氏と兄(後の朱雀帝)の想い人・朧月夜(桐壺帝のきさき弘徽殿の女御の妹)との密通、光源氏が40歳で娶った若妻女三の宮(兄の娘)と柏木(光源氏のライバル頭中将の息子)との密通、そして宇治十帖では、浮舟(光源氏と兄弟の娘)と匂宮(におうのみや:朱雀帝の孫)との密通。この物語が密通を大きなテーマの一つとしていることは間違いない。

  光源氏は空蝉を彼女の寝所から抱き上げ、自分の寝所に運ぼうとするところで、空蝉の女房・中将の君に気づかれている。彼の纏(まと)う薫物(たきもの)の香りが辺りに満ちて、暗闇でも彼の存在を示していた。だが光源氏は中将の君の鼻先で襖障子(現在の襖)を閉め、「暁に御迎へにものせよ (明け方暗いうちに奥様をお迎えに参れ)」と言い放った。この堂々たる盗み方はどうだろう。17歳でこれではちょっと図々しすぎるのではないか。

  実は、平安時代にもいわゆる「姦通罪」が存在した。当時の刑法にあたる「養老律」には、夫ある女性との姦通には懲役2年の刑を加えると記されている。とはいえ、この法律がどこまで実効性を持っていたかはわからない。女性が后妃だったり、天皇の名代で未婚の清らかな女性として伊勢神宮に仕えた斎宮だったりという特別な場合を除き、特に男女合意の上でのいわゆる「不倫」については、処罰された実例が見つからないのだ。合意がない場合にごく一部に逮捕された例が見えるが、処罰されるのは身分の低い者たちだった。光源氏のような高貴な身分で、一般の人妻との姦通により法律的に罰せられた例は見えない。
  空蝉の例でも、光源氏と気づきながら女房・中将の君は声も上げられない。光源氏が並みの身分ではないからだ。平安社会の姦通罪は貴公子の女性関係には厳格でないと言えそうだ。

  いっぽうで、人妻自身が「密通して子供をつくった」と公にした例もある。紫式部の女房仲間で「栄華物語」の作者とされる歌人、赤染衛門(あかぞめえもん)の生まれた経緯である。赤染衛門の母は平兼盛の妻だったが、離婚後すぐに赤染衛門を出産。兼盛が「私の子だろう」と親権を求めて裁判を起こすと、母は「いや、赤染時用(ときもち)と通じて生んだ子だ」と主張し、結果、赤染の子と認められた。
  真実はと言えば、やはり赤染衛門は平兼盛の子なのだろう。平兼盛も赤染衛門も歌人。二人の歌が小倉百人一首に入れられている。赤染衛門の家集によれば、赤染衛門本人も平兼盛を実の父と慕っていたと思しい。

  ところで、赤染衛門といえば夫の大江匡衡(まさひら)とおしどり夫婦と見られていた。だが家集の研究からは、以前からの恋人・大江為基との交際が、匡衡との結婚後も続いていたことが明らかになっている。その思い出を記した「赤染衛門集」は、彼女自身が編集して時の関白・藤原頼通(よりみち)に提出したものだ。夫の死後に公開したものとはいえ、「不倫」への意識が現代とは随分違っていたと分かる。
  実は、人妻の「不倫」が厳しく罰せられるのは、武家社会に入って以後のこと。

  とはいえ、ここまでは世間の話だ。社会の通念と当事者の心はまた別。空蝉は光源氏との関係に深く苦しんだ。恋に寛大な時代の物語だからこそ、この苦悩は決して見逃してはならない。

1- 平安人の心 「桐壺:平安時代の天皇は一夫多妻制」

2021-06-23 12:37:47 | 平安人の心で読む源氏物語簡略版
山本淳子氏著作「平安人(へいあんびと)の心で「源氏物語」を読む」から抜粋再編集

しれっと、新シリーズの開始です(笑)

  平安時代の天皇は一夫多妻制である。これを私たちは「英雄色を好む」と受け取りやすい。権力があるから次々ときさきたちを娶って、よりどりみどりで相手をさせているのだろうと。
  確かに平安時代の特に初期には、きさきの数は非常に多かった。しかし平安時代の天皇の結婚は、欲望を満たすのが目的ではない。確実に後継ぎを残すこと、一夫多妻制はそのための制度だった。
  だが、子だくさんだけでは天皇として不合格だ。後継ぎとは次代の天皇になる存在なのだから、どんなきさきの子でもよいというわけではではない。即位の暁には貴族たちの合意を得て円滑に政治を執り行うことができる、そんな子どもをつくらなくてはなくてはならない。一言で言えば、貴族の中に強力な後見を持つ子どもである。ならば天皇は、第一にそうした後継ぎをつくれる女性を重んじなくてはならない。個人的な愛情よりも、きさきの実家の権力を優先させることが、当時の天皇の常識だった。

  こうなると、天皇が「よりどりみどり」という訳にもいかないことも、推測がつくだろう。貴族たちはしかるべき子どもをつくることを期待している。それはしかるべき家から送り込まれた。しかるべききさきと、しかるべき度合いで夜を過ごすことを期待し、見守っているということだ。摂政(せっしょう)・関白・大臣、大納言。天皇はきさきの実家を頭に浮かべその地位の順に尊重しなければならない。その順できさきを愛さなくてはならない。天皇にとって愛や性は天皇個人のものではなかった。最も大切な政治的行為だったのだ。

  こうした当時の常識に照らせば、桐壺帝が「いとやむごとなき際にはあらぬ」更衣に没頭したことは、掟破りともいうべき、許しがたい事件だった。皇子誕生は政界の権力構造に係わる。実家の繁栄を賭けて入内したきさきたちが怒るのは当然のこと、「上達部(かむだちめ)、上人(うへびと)」など政官界の上層部が動揺したのも、これが自分たちの権力を揺るがしかねない政治問題だったからだ。

  さて、「源氏物語」が書かれる直前、時の一条天皇(980~1011年)には心から愛する中宮定子がいた。「枕草子」の作者・清少納言が仕えた。明るく知的な中宮である。だがその実家は没落していた。そこに入内してきたのが、時の最高権力者・藤原道長の娘で、やがて紫式部が仕えることになる彰子である。定子は23歳、天皇は20歳、そして彰子自身はまだ12歳。彰子とは年の差もあって気が進まない天皇だが、道長や貴族たちの手前、定子よりも彰子を重く扱わなくてはならない。その苦しい胸の内は貴族たちの日記や「栄華物語」「枕草子」などから知ることができる。結局定子は翌年、息子を残して亡くなった。
辞世は「知る人もなき別れ路に今はとて 心細くも急ぎたつかな(知る人もいない世界への旅立ち。この世と別れて今はもう、心細いけれど急いで行かなくてはなりません)」。一条天皇は悲しみにくれた。

  「源氏物語」の執筆が開始されたのは、この出来事のわずか数年後だ。いうまでもなく、桐壺帝は一条天皇に、桐壺更衣は定子に酷似している。
更衣の辞世「限りとて別るる路の悲しきに いかまほしきは命なりけり(もうおしまい。悲しいけれど、この世と別れて旅立たなくてはなりません。私が行きたいのはこんな死出(しで: 死出の山(死後の辛さの例え)の略)の道ではない、生きたいのは命なのに)」は定子の辞世と言葉が通う。また遺児の光源氏を桐壺帝が溺愛し後継ぎにしたいと願ったことも、一条天皇が定子の遺した息子・敦康親王に抱いていた願いと同じだ。

  物語を書き始めた時、紫式部はまだ彰子に仕えていない。一個人の立場から、ドラマチックな史実を効果的に掬いあげて、この物語を構成したのだ。だがそれは面白さを狙っただけではない。一条天皇の苦しみは、一人の男性として抱く愛情と、天皇として守るべき立場とに挟まれての人間的葛藤だった。紫式部の描く桐壺帝も、実に人間的だ。人間を見据え、天皇という存在までもリアルに描く、それが「源氏物語」だといえるだろう。
  こうした「源氏物語」は、定子を悼み天皇の心を癒やす力をも持っていた。当の一条天皇がやがて「源氏物語」の愛読者となったこと、これは紫式部自身が「紫式部日記」に記している。

6.日本-三浦按針(ウィリアム・アダムス)の情報 6回目 終章

2021-06-13 09:31:49 | 三浦按針 ウィリアム・アダムス
6.日本.-三浦按針(ウィリアム・アダムス)の情報 6回目 終章

 アダムスのオランダ人との交流 アダムスの死亡と、残された日本への好意的手紙

 ●オランダ貿易 つづき アダムスの死と手紙

 「1611年、オランダ船が一隻日本にやって来た(ブラック号が平戸入港)。積荷は絹織物、毛織物、鉛、象牙、ダマスク織、黒タフタ織、生糸、胡椒などだった。オランダ商人は前年に来る約束に反していたが、大いに歓迎された」

  アダムスはこうしたオランダ人との交流で、本国のイギリスが東インド諸島で活発な交易活動に入っていることを知った。特にインド南西部で商館の設置を計画しているらしい。自分の存在をイギリスからの仲間も知ったら好都合のはずだ。今おかれている状況を家族に伝えることもできるだろう。家族の近況も気になった。妻や子供たちのことを思うと涙があふれてくるのだった。離れ離れになって既に13年。

 「どんな方法でもいいから家族と連絡が取りたいと願い、手紙を書いた。誰の手を経てもいい。何とか家族にこの手紙が届くように神に祈った。生きている間に何としても会いたい」

  アダムスの願いは叶わなかった。皇帝に最後まで使え、ここに引用した手紙が家族に届くことを願いながら平戸の港でその生涯を終えている。彼が亡くなったのは1619年か1620年のことだ(1620年平戸にて没。家康は1616年6月1日没)。この頃にはオランダの日本との交易は活発になっていた。日本への影響力も出始めていた。アダムスの貢献に対するオランダ人の感謝の気持ちは当然にあるべきだろうと思うのだが、多分オランダ人は何もしていないだろう。

  日本のオランダとの交易の経緯にはロマンに満ちたこうした事件があったのだ。大航海時代にあって、確かにバーチャス(1575?~1626年)の旅行記も面白いのだが、アダムスの描き残したこうした出来事にかないはしない。この時代に航海に従事した英国人は数々の未開の地の発見や、そこでの起業に多大な貢献をしてきた。商業の発展と文明の伝搬の担い手だったと言える。もし手紙が故国に間違いなく届くような環境であったなら、アダムスはもっと詳細にこの国の出来事を書き残していたはずだ。彼が手紙で伝えるこの島のことはあまり多くないのだが、ほとんどが好意的な記述となっている。

 「この国は素晴らしい国である。北は北緯48度、南は35度。北東から南西に広がる国土は二百二十リーグ(およそ1800Km)の長さをもっている。東西の広がりは経度で13度。この緯度での経度一度の差は二十リーグである。日本人は礼儀正しく好感が持てるのだが、戦になると勇敢である。仁義が重んじられ、それに違反する者は厳しく処分されている。礼節によって統治されているといってもいいくらいだ。この国よりも礼節が重視されている国は他になかろう。神を敬うことには熱心である反面、多様な考えを持つことには寛容である。イエズス会とフランシスコ会の僧侶がいて、多くの日本人の改宗に成功し、教会も各地にできている」

 ●カソリック宣教師の傲慢

  最初のオランダ商館は、アダムスが生涯を終えることになった平戸に開設されている。商館はこじんまりとしたものだったが、ポルトガル人は必死になって設置を阻もうとしたり、破壊させようと画策した。
―中途半端ですがおわりますー

参考
 本書の原題「日本:地理と歴史 この列島の帝国が西洋人に知られてから現在まで、及びアメリカが準備する遠征計画について」 著者チャールズ・マックファーレン(1799~1858年) 訳者 渡辺惣樹(1954年~)訳者書名「日本 1852」