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4- 平安人の心 「夕顔:人工都市平安京大路小路のミステリーゾーン」

 山本淳子氏著作「平安人(へいあんびと)の心で「源氏物語」を読む」から抜粋再編集

  「鬼」といえば、角をはやした赤鬼青鬼などを考えがちだが、そういう想像上の怪物は「鬼」の一部に過ぎない。基本的に鬼とは、超自然的存在で目に見えぬものをいう。「おに」の語源からして「姿を隠している」意味の「隠(オン)」がなまったものと考えられており、その代表格は死霊である。強い怨念を抱いた人間が死ねば、その霊は恨みを抱かせた相手に祟る。逆に愛情を抱いた死霊は守護霊となる。そしてある場所に執着する死霊は、いわゆる「地縛霊」となる。そうした霊の住み処が、都に点在していたのだ。

  東洞院大路を二条大路まで上がれば、「僧都殿」なる悪所がある。空き家に霊が住みついているらしく、たそがれ時には赤い単衣(ひとえぎぬ)がひとりでに宙を舞って、西北隅の榎の枝に掛かるのだという。血気にはやって射落とした男がその夜のうちに死んだというから、よほど強い怨念を秘めた地縛霊らしい。また、左大臣・源高明(たかあきら)が住んでいた「桃園邸」。一条大路を挟んで大内裏の北向かいにあった邸宅だが、ここの寝殿では真夜中になると、母屋の柱から小さな子供の手が突き出して「おいでおいで」をしたという。「小さき児(ちご)の手」というところが恐怖を誘う。いずれの鬼も、何をしたいのか意図が読めないところに、妙な現実味がある。人々は驚き怪しみ、恐れて世に語り伝えた。

  だが、悪所多しといえども「河原院(かわらのいん)」ほど多くの資料に記される場所はあるまい。「源氏物語」-「夕顔」の巻で光源氏が夕顔と宿った「某の院」のモデルとされるこの邸宅は、「今昔物語集」始め、ほぼ同時期に成立した「江談抄(ごうだんしょう)」にも怪異譚が載る。この院に住む霊鬼は、邸宅の創建者、源融(とおる:822~859年)だ。邸宅への執心のあまり亡霊となって、彼の死後持ち主となった宇田法皇(876~931年)の前に姿を現す。
  実は、この説話には根拠がある。宇田法皇は、傍仕えの女官に融の霊が憑くという体験を実際にしているのだ。融の死の約30年後のことだ。女官は融の言葉で、地獄の責め苦に遭っていること、その合間を縫いながらも河原院に憩いに来ていることを言い、鎮魂のため七箇寺での読経を乞うた。歴史書「扶桑略記」がこの読経の事実を記し、美文集「本朝文粋(もんずい)」に諷誦文(ふじゅもん:法事の主旨を記した文)が載る。

  源融といえば、光源氏のモデルの一人ともされる人物だ。嵯峨天皇(786~842年)の皇子でありながら母の身分が低く、「源」の姓を賜って臣籍に降った。藤原基経と拮抗しながら左大臣にまで昇り詰めたが、基経が関白大政大臣となって融の地位を超えてからは政治的な発言力を失った。は失意の中、広大な邸宅「河原院」を造営し、賀茂川から水を引き入れて海を模し、岸辺に陸奥の名所・塩釜を再現した。現実には天皇になれなかった融だが、河原院という仮想空間で日本の名所の所有者となったのである。その思いが死後まで続く妄執となったのであろう。

  はかつて、陽成天皇(868~949年)が廃された折、次の天皇に自らを推薦したという。だが基経から、一旦姓を賜った以上即位はできぬと却下され、引き下がった。しかし三年後、次の光孝天皇(830~887年)の重病を受け帝となったのは、一度は「源定省(さだみ)」の名で臣下となりながら、姓を返上した宇多天皇だった。その即位の時、融はまだ在世中。理不尽を感じつつも、河原院に耽溺して心を癒やしたと思しい。宇田法皇は、その融の、その河原院を譲られたのだ。内心思うところがあったに違いない。

  罪悪感のことを「心の鬼」とよぶことがある。研究者は融の霊を、宇田法皇の罪悪感が見させた心の鬼だと言う。ならば「源氏物語」=「某の院」の霊は何だったのだろうか。
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