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32- 平安人の心 「梅枝(うめがえ):明石の姫君入内の準備」

山本淳子氏著作「平安人(へいあんびと)の心で「源氏物語」を読む」から抜粋再編集

  光源氏三十九歳の春。一人娘・明石の姫君が十一歳になり、光源氏は裳着(もぎ:女性の成人式)の準備を進める。その先には元服を間近にした十三歳の東宮(朱雀院の皇子)への入内も視野に入っている。支度の一つとして、正月下旬、光源氏は香の新調にとりかかった。二条院の倉から唐物の古い香木を取り出し、女君たちに配って香を調合させ、自らも作る。
  その結果、朝顔の君・光源氏・紫の上・花散里・明石の君の五人による見事な香が仕上がった。二月十日、光源氏は異母弟の蛍兵部卿宮を判者(はんざ)に薫物袷(たきものあわせ)を行うが、いずれも甲乙つけがたい。翌日は明石の姫君の裳着で、秋好(あきこのむ)中宮が腰結役を務めるという前例のない華やかさであった。

  東宮は二月二十日過ぎに元服したが、光源氏は明石の姫君の入内を延期した。人々が光源氏の威光に気おされ、娘を東宮に入内させることを控えたので、東宮の後宮が沈滞してはならないと考えてのことであった。この心遣いを受け、麗景殿に最初の東宮妃が入内。明石の姫君も、四月には光源氏の思い出深い桐壺を局として入内すると決まった。光源氏は入内道具の極みに草紙を豪華に選び整え、自らもしたためた。

  この様子を聞くにつけ、内大臣は無念の思いに駆られる。娘の雲井雁は二十歳で美しい盛りにもかかわらず、かつて目論んだ東宮への入内も成らず、夕霧との仲も袋小路に入った状況だからである。皇族らが夕霧を婿に望んでいるとの噂も漏れ聞こえてくる。内大臣と雲井雁は父娘で辛さをかみしめ合った。
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  光源氏の娘・明石の姫君は、東宮妃として入内した時、数え年でわずか十一歳、満年齢ならば十歳になったばかりだった。幾分幼過ぎはしないだろうか。思い起こせば、既に生まれる前から「将来は皇后となる」と宿曜(すくよう:星占い)の予言を得ていた姫君なのだ。光源氏はもっと余裕を持って、もう少し姫が大きくなってから入内させてもよかったのではないか。

  そんな思いで目を史実に転ずると、「源氏物語」のすぐ近くに、かつていたいけな年齢で入内し、やがて后となった人物がいた。紫式部が仕える中宮彰子その人である。一条天皇(980~1011年)への入内は長保元(999)年十一月一日のことで、数え年十二歳。彰子の誕生日ははっきりしないが、満年齢では明石の姫君と同じ十歳だった可能性もある。

  彰子が入内した時、紫式部は一介の主婦で、夫の藤原宣孝がまだ壮健だった。彰子の父・藤原道長に親しく仕えていた宣孝は、入内の折にも召し出されて働いている。そのとき目にした祝い事の豪華さ、入内調度のきらびやかさなどを、後になって妻の紫式部に話したこともあったかもしれない。

  ここでは道長が彰子のために用意した、あまりにも豪華な調度品を紹介する。
  彰子が入内する十日前の、十月二十一日、道長は人々に依頼して、絵師・飛鳥部常則の手による四尺屏風のための和歌を詠ませた。常則とは、実在の絵師ながら「源氏物語」にも二度ほど名前が見える人物で、その一度はかの「絵合」の巻だ。光源氏に対抗する権中納言、かつての頭中将が作らせた「うつほ物語」絵巻が、絵は常則、字は小野道風で、「目も輝くまで」の最新作だったとされている。つまり常則は、「源氏物語」が舞台とする十世紀半ばに活躍した、当代きっての絵師だったのだ。常則の絵の屏風なら、道長の時代には年代物の名品である。

  そんな品を、道長は娘の入内道具にしようと考えた。だがそのままではない。絵屏風には「色紙形(しきしかた)」という空白部分があって、漢詩や和歌が書き込まれるようになっている。今回新たに、人々にこの屏風の絵に合う歌を詠ませて、書き込もう。それを彰子への祝いの品としよう。道長はそう思いついたのだ。

  道長が依頼した相手は尋常の人々ではなかった。道長は歌人ではなく公卿や殿上人たち(花山法皇、右衛門督公任、・・)に歌作を命じたのだ。道長のもとには予定の数に余る和歌が届けられ、道長は、実際に書き込む作を選ばなくてはならなかった。

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