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33- 平安人の心 「藤裏葉(ふじのうらば):夕霧の結婚、明石の姫君入内」

山本淳子氏著作「平安人(へいあんびと)の心で「源氏物語」を読む」から抜粋再編集

  十八歳の夕霧は、雲居雁を想いながら、内大臣が折れるまではと辛抱を続けていた。雲居雁も、夕霧の縁談の噂に心乱れつつ夕霧を慕っている。内大臣は思案を巡らし、自分が折れる潮時と悟った。
  そこで夕霧にさり気なく自分の非をわび、四月上旬、自邸の宴に招いた。「我が家の美しい藤を見に来るように」との誘いに、夕霧は内大臣の真意を測りかねる。が、光源氏は結婚の許しと悟り、夕霧には自分の落ち着いた色の装束を貸し与えて向かわせる。果たして内大臣は一家で夕霧を歓待し、婿に迎える。夕霧と雲居雁はこうして長年の恋を実らせ、内大臣は以前とは打って変わって夕霧を気に入るのだった。

  やがて明石の姫君が東宮に入内した。紫の上は、明石の君を姫君の内裏での後見役にと、自ら光源氏に提案する。姫君は紫の上と共に入内。紫の上は三日後に参内した明石の君と心を交わし、姫君を託して六条院に戻った。その折には東宮妃の母として、輦車(てぐるま)の使用が許されるという最高級の扱いを受けた。

  子どもたちの幸福な結婚を見届け、一息ついて出家さえ考えた光源氏だが、秋には太政(だいじょう)天皇(上皇)に準ずる地位を与えられた。母の身分の低さゆえ皇族となれず「源」の姓を与えられた皇子が、自らの力と運により、今や皇族となったのである。十月には冷泉帝が六条院に行幸(ぎょうこう)。紅葉の折とて朱雀院までもが御幸(ごこう)し、光源氏の栄華はここに極まったのだった。
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  平安の貴族たちは、実によく歌った。宮廷の管絃の会では帝や聴衆に喉を披露し、宴でも順番に盃を傾けては歌った。日常生活でも、歌をくちずさむだけではない。歌謡の歌詞を織り込んだ和歌を詠んだり会話を交わしたりと、彼らの生活は歌に彩られていた。何を歌ったか。例えば「朗詠」である。和歌や漢詩にメロディーをつけたもので、「和漢朗詠集」はその歌詞集だ。清少納言は「枕草子」の中で、中宮定子の兄・藤原伊周(これちか)が朗々と漢詩を歌い上げる姿を何度も描き、うっとりとした視線を送っている。

  いっぽうで、「源氏物語」が「朗詠」と同様にしばしば登場させるのが「催馬楽」だ。「サイバラ」という名前自体が奇妙だが、それもそのはず、その名の意味も由来も、平安時代には既にわかりにくくなっていたらしい。それほど古くから日本に伝わる民謡を歌詞とし、大陸伝来のメロディーをつけたものである。土臭く、俗っぽく、時にはドキッとするほど艶めいた内容をあか抜けた旋律でくるんだ催馬楽は、平安貴族にとって身近な教養の一つだった。そしてその「艶」を、「源氏物語」はうまく活かした。誰にもお馴染みの催馬楽を恋の場面に使い、読者をにやりとさせる方法をとったのだ。

  「源氏物語」は、物語のテーマに沿って催馬楽を効果的に使う。「梅枝」「竹河」など、巻名に催馬楽の曲名をそのまま使うのも、そうした方法の一つだ。また「藤裏葉」巻ではそれが、夕霧と雲井雁との幼恋の成就というテーマに関わって、試みられている。
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