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12- 平安人の心 「須磨:政敵による官位剥奪のため都を出て須磨に蟄居を決意」

山本淳子氏著作「平安人(へいあんびと)の心で「源氏物語」を読む」から抜粋再編集

  光源氏は二十六歳の春、都を出て須磨に蟄居することを決意した。政敵・弘徽殿大后の謀略により、官位を剥奪されたためである。花散里、藤壺、朧月夜、故葵の上の一家の人々別れを告げ、亡父・桐壺院の山稜に参り、愛妻・紫の上に資産や使用人の一切を託して、光源氏は三月二十日過ぎに都を出た。

  須磨では、かつて在原行平が流謫(るたく:遠方に流されること)されたという地の近くにわび住まいを営んだ。寂しいことこの上なく、こころの支えは都との文通ばかり。秋、荒涼とした夜長に光源氏は涙を流す。しかし、腹心の側近である惟光(これみつ)、良清はじめ従者たちもそれぞれに都を恋しがり泣く様子を見て、光源氏は気を取り直す。従者たちは自分のためについて来てくれた。その彼らを不安にさせてはならないのだ。それからの光源氏は、手習いの和歌や絵といった風流に寂寥を紛らわせた。

  それが都に伝わると、弘徽殿大后は激怒。面倒を避けたい貴族たちは光源氏との交渉を絶つ。そんななか、一人光源氏を訪ったのは悪友にして義兄弟でもあった、三位の中将(かつての頭中将)だった。親交を温めた二人だが、彼が帰ると須磨はまた寂しくなる。三月初めの巳(み)の日、光源氏は海に出て厄払いの「上巳の祓:じょうしのはらえ」を行った。すると凪いでいた海が一転し、空はかき曇り、暴風雨と雷が光源氏を襲う。そのうえ夢に変化(へんげ)のものまで現れて、光源氏は須磨を耐え難く思うようになった。
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  光源氏の須磨退去。古来「源氏物語」の注釈書には、そのモデルとして十人以上もの名が挙げられてきた。歴史上流罪に遭ったあの人この人、中には中国は楚の国の政治家にして詩人だった屈原や、同じく周の国の政治家だった周公旦を挙げるものもある。

  ここでは、二人の人物に注目したい。一人は「帝の皇子にして源氏」という境遇が光源氏と重なり、その造形自体のモデルと言われる源高明(たかあきら)。もう一人は「学問の神様」として知られる菅原道真。二人とも藤原氏による他氏排斥の陰謀によって、大宰府(死刑禁止の当時最も重罪)に流された。後に都に戻れたのは源高明だけだった。
  だが光源氏の須磨行きに高明の史実が重ねられていることは、二人が京を出た日付からも明らかだ。「源氏物語」では、光源氏の離京は三月二十日余り、いっぽう高明の配流は三月二十五、六日のことで、ほぼ重なる。
  いっぽう、菅原道真が配流されたのは、延喜元(901)年。代々の学者の家に生まれながら、宇多天皇(867~931年)・醍醐天皇(885~930年)に重用されて右大臣にまで昇った菅原道真だったが、「醍醐天皇を廃しようと企てている」との讒言が帝の逆鱗に触れた。裏で左大臣・藤原時平が動いていたことは間違いない。やはりこれも、藤原氏の他氏排斥の陰謀だった。

  零落して果てた源高明。都に戻れなかった菅原道真。不吉な先例を胸に抱きながら、光源氏はさぞ憂鬱の日々をすごしたことだろう。「須磨」の巻は、そんな史実と虚構の入り交じった想像さえ搔き立てる。実際、須磨にはいまだに、光源氏が植えたという「若木の桜」にちなむ地名も残っているのだ。
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