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14- 平安人の心 「澪標:船路を取って祈願成就御礼の住吉詣。哀切の斎宮と典雅の齋院の成立ち」

山本淳子氏著作「平安人(へいあんびと)の心で「源氏物語」を読む」から抜粋再編集
 澪標:みおつくし(身を尽くしの掛詞) 通行する船に、通りやすい深い水脈を示す杭

  光源氏が明石から帰京した翌年、朱雀帝は退位し、弟の11歳の東宮(実の父は光源氏)が即位して、帝(冷泉帝)となった。二十九歳の光源氏は、内大臣となり新帝を支える。光源氏の岳父で朱雀帝時代に一時引退した元左大臣も摂政太政大臣となり、一家は勢いを盛り返した。
  いっぽう明石からは、女子誕生の知らせが届く。光源氏は以前に宿曜(すくよう:占星術)で「子は三人、それぞれ帝・后・太政大臣となる」と予言されたことを思い出し、自ら乳母を選んで明石に遣わす。また誕生五十日(いか)の祝いには、上京を誘う手紙を明石の君におくる。紫の上は光源氏から明石の君と娘のことを明かされ嫉妬するが、そのすねた様子も可愛いと思う光源氏であった。

  秋、光源氏は住吉大社にお礼参りを行う。偶然にもその時、明石の君も例年の住吉参りにやって来ていた。光源氏一行の威光を遠くから見て、明石の君は身分違いを痛感し泣く。後にそれを知った光源氏は「二人の縁は深い」と和歌をおくり、彼女を慰める。

  天皇の代替わりで伊勢斎宮も交代となり、六条御息所は娘と共に帰京した。しかし重病にかかり出家した後、二十歳の娘の後見を光源氏に頼んで、息を引き取る。光源氏は藤壺と会見し、この娘を冷泉帝に入内させようと画策する。
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  伊勢斎宮と賀茂齋院。どちらも、神に仕える未婚の皇女だ。正しくはどちらも「斎王」と呼ばれ、伊勢神宮の神に仕える「伊勢斎王」と、平安京郊外の上賀茂・下鴨神社の神に仕える「賀茂斎王」の二人である。だが同じ呼び名では紛らわしいので、各々の斎王の住まいの名によって、通称「斎宮」と「齋院」となった。「斎王」といえば、現在、上賀茂・下鴨両神社の大祭である葵祭で主役を務める女性を「斎王代さん」と呼ぶことを思い出す方もおられよう。それはその役が、「賀茂斎王」さんの「代理」であるからだ。

  歴史は、伊勢斎宮がずっと古い。制度が整えられたのは、奈良時代よりもっと前の飛鳥時代、七世紀のことである。天武天皇は政権をめぐって甥の大友皇子と戦った。「壬申の乱」である。その際、伊勢神宮に戦勝を祈願し、勝利を収めると、御利益の返礼に娘の大来皇女(おおくのおうじょ)を伊勢神宮に差し出した。それが制度として「伊勢斎宮」の始まりと伝えられている。斎宮のイメージの核は「聖性」に加え都からの「遠さ」、そしてそれゆえの「哀切」だ。

  その斎宮に比べ、齋院のイメージは「典雅」である。居所が平安京のすぐ郊外なので、孤独や哀切さは少ないのだ。成り立ちは斎宮に似て、嵯峨天皇(786~842年)が「薬子の変」の平定を賀茂神社に祈って後利益を得、お礼にと娘の有智子(うちこ)内親王を捧げたことに始まった。

  哀切の斎宮と、典雅の齋院。「源氏物語」は前者に寄せて六条御息所と光源氏の別れを描き、後者に関わっては、凛として最後まで光源氏の懸想に折れない朝顔の姫君を描いた。二つの斎王は、やはりうまく物語に生かされているのだ。
  なお、齋院は十三世紀初頭にはその役割を終え、斎宮も百年後の十四世紀には南北朝の動乱の中で廃絶した。
  「斎王」は、葵祭で一般女性から選ばれる「斎王代」として一九五六年に復活。伊勢斎宮も三重県多気郡の斎宮跡地が一九七九年に国の史跡に指定され、現在でも発掘調査が行われている。
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