真珠

深海の真珠は輝かず。

民主主義と孤独

2005年08月13日 | 政治・経済

 

久しぶりに、ヘーゲル辞典に「大人」と「青年(若者)」の項を追加した。

「伝道の書」の第一章の注釈は、とうの昔に書き上げたのに、電子テキストの空しさ、一瞬の内に消えてしまった。「なんという空しさ、なんという空しさ、すべては空しい」(伝道の書第1章)という言葉を実感させられることになった。苦笑。その後、改めて書き直す意欲をまったく失ってしまう。宮崎駿男さんのアニメ「風の谷のナウシカ」の主題歌を聴きながら書く。安田成美さんの素人っぽい歌い振りが一番良いと思う。


ドラマや映画、演劇、小説、音楽などで本当に良い仕事をする才能が少なくなった今の日本で、宮崎駿男さんは貴重な存在だと思う。大学と大学院を真の意味での学問の府にすることができるか否かに、日本の命運がかかっている。大学での、芸術論や美学の教育の貧弱なことが、ろくなドラマしか作り出すことのできいない原因になっている。大学教育の貧弱なことは、なにも芸術、美学だけではない。学問全体にいえることである。そして多くの有為な若者の進路を正しく指導する能力を失っている。マスコミ関係者も国民に必要な情報や分析を的確に提供し得ているようにも思えない。高額の受信料を徴収していながら、NHKは、自前で優れた脚本家を育てることもできず、国民を満足させることのできるドラマを作ることもできず、韓国ドラマを嬉しげに放送して、恥も外聞もない。それにしても優れた芸術は、神の仕事に等しい。


個人が完全に自立するということには、すなわち自由であることの半面には、孤独を覚悟せざるを得ないのだろう。
特にプロテスタントでは、その精神的な営みのもっとも奥深いところに、ただ、神と自分だけが対面する場があり、そこで人間は絶対的な孤独を意識せざるを得ない。そしてキリスト教の神は精神的な神であり、聖書の神を自己の神とする限り、私の倫理的な性格が、自分の責任において問われざるを得ない。このことは、異教徒の与り知らぬ世界である。これは、ある意味ではキリスト者の特権であると共に、またそれが彼の運命である。善悪を知る果実を味わったキリスト者は、異教徒の持つ天真爛漫さを失ってしまったともいえる。しかし、異教徒の天真爛漫さは、完成されたキリスト者の真の天真爛漫さには、もちろん及ばない。キリスト者の不安は、罪の意識から来るが、しかし、それはもちろんキリスト者の真の姿ではない。キリスト教の目的は、罪からの解放であり、真の自由であるから。


それにしても、わが国の民主主義はキリスト教抜きの民主主義であり、したがって、それは、政治における自己の判断の倫理的な、宗教的な責任を自覚させることがない。民主主義はプロテスタンティズムの論理的な帰結として存在するのに、国家の統治原理として民主主義を導入し採用しておきながら、一方でキリスト教を受け入れないことが、どれほどの茶番になるかということに国民は気づきもしない。GHQの押し付けではなく、国民の主体的な選択になるまでは。


キリスト教抜きのわが国の民主主義が、倫理的な緊張感のない、義理と人情と飲み食いがらみの情実民主主義になるのは仕方がない。靖国神社への公式参拝を標榜する小泉首相を始めとして、現在の自民党員のなかに、いったい、どれだけの自民党員が自由と民主主義を、その真の概念において理解しているのだろうか。自民党の自由と民主主義を、その実態に合わせるのなら、党名を情実的自由民主党とでも改名すべきだろう。この自民党の体質が改革されない限り、日本の政治に乾いた風が吹くことがなく、水臭い孤独な民主主義に耐えるとができない。。


また東京大学という国立大学の中枢で、公務員として樋口陽一氏のように、キリスト教を抜きにした民主主義や人権の理論を展開することが、その真実の概念の理解から遠ざけ、今日の日本の現状に見るように、「欲望民主主義」や「戦後民主主義」、フェミニズム、左翼無国籍者として帰結することになっていることに、いったいどれだけ気づいているか。また、それが一方で、佐伯啓思氏や西尾幹二氏ような保守派から批判を招くことになっているか。とはいえ、彼らもまた、キリスト教を拒否する限り、必然的に、倫理的な根拠を天皇制や教育勅語に求めざるを得ない。しかし、天皇制や教育勅語が、真実の倫理的な基礎と成り得ないのは歴史と論理が証明しているではないか。あるいは、ニーチェのように、自己を神とする絶対的な傲慢に陥るかである。しかし、真理は自己を貫徹する。ただ、客観的な条件によって、それに要する時間がそれぞれ異なるだけだ。


明治期にも国家と社会の腐敗を、東京帝国大学の井上哲次郎教授らは、儒教や神道を背景とする教育勅語の創案によって防ごうとしたが、日本の敗戦と共に、その偽善によってすっかり信用を失墜させてしまった。そして、戦後60年、戦争によって国家に対する信用を失った国民は、その一方でキリスト教を拒否してきた日本は、さまざまな側面で、その倫理的な崩壊に直面することになった。今日の青少年の現実や学校の深刻な危機を、キリスト教と真実の民主主義なくしてどのように解決できるのか、私には分からない。またキリスト教の理解を欠いた、倫理的な宗教的な基礎を欠いた日本の民主主義が、どれだけ浅薄で歪んだものになっているか。


日本の民主主義のほかに、神のいない民主主義の一つの姿が、中国や北朝鮮の「人民民主主義」である。中国や北朝鮮の腐敗と堕落は、やがて、国家の骨組みすら腐らせてしまうだろう。この「人民民主主義」の大多数は、すでに、多くの国で歴史から姿を消したが、北朝鮮、中国、キューバなど、まだ幾つかの国で生きている。


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