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感想です。

相模原障害者施設殺傷事件で思うこと。

2016-08-11 | 日記
先月の7月26日の事件。ずっと心から離れませんでした。言いたいことがあってもきれいごとや他人事を言っているような気がしてうまく表現できませんでした。

だから私のことを書こうと思います。今回の事件で思いだしたのは伯父のことです。

「障害者はいないほうがいい」今回の容疑者ほど極端でなくてもそう考えている人がいると私は感じてきたのだと思います。なぜなら伯父が精神障害者だとわからないほうがいいとしてきたからです。

統合失調症でした。面倒を見ていた親が亡くなり病気が悪化したので晩年ずっと入院していました。退院できないまま亡くなり、亡骸を引き取りに行ったとき、看護士の男性が「おたくは何かあった時、電話してたらすぐに来て下さっていたから」と家族の気持ちをなぐさめてくださいました。家族が望めば恐らく伯父は退院できました。閉じ込めているのではないか思いが私の両親を苦しめました。けれど退院を言い渡されるのではないかという心配はもっと悩ませるものでした。他人に傷つける恐れを感じ私の父母が強制入院させ、その後は一度も家に帰ることはなく、ほとんど閉鎖病棟にいました。伯父は「措置入院」をしたこともあります。誰かが責任を持って保護しなければ本人も周りも不幸になる可能性があったのです。それでも薬を飲んでぼんやりしている伯父を見ると「この人の人生は何だったのだろう」と思い、どうしてあげることもできない力のない自分を申し訳なく感じました。

伯父の存在をはっきり知ったのは私が大人になってからです。他人とは思いませんが肉親の情があったわけでもありません。伯父のほうは私を姪だとわかっていないように見えました。縁があり私の家族が助けられるから助けているのだと考えてきました。私も誰かに助けてもらって生きているのだからおたがいさまです。いなくなったほうがいいなんてまったく思いませんでした。

生産性がないことが役に立たないということなら、伯父は高額医療費のがかかる役に立たない人間でした。1割負担の医療費だから本人の年金で充分やっていけましたが、2割になったら毎月赤字でした。だから健康保険がとてもありがたかく命綱でした。こういう医療費のことを容疑者は無駄だといっているんだろうと感じます。

誰かを助け誰かに助けられ生きるのが人間ではないでしょうか。お金に換算できない助け合いや思いやりが生きやすい社会を作るのではないでしょうか。子供やお年寄り障害者など助けのいる人が生きやすい世界は、どんな人にとっても生きやすいと私は信じています。

知らないうちに教えてくれたのは伯父かもしれません。