70代主婦の糖尿病日記~付録として京都つれづれ~

高齢に達した70代主婦が糖尿病に!
悪戦苦闘の毎日を、京都四季折々と共に記します

戦後79年&特攻とは?

2024-08-22 14:22:06 | 日記
暑い 暑い 暑いぃぃぃぃい

とにかく暑い京都なのであ~る

この暑さの中、終戦 ちゅうか まあ 敗戦 だわねこれは
まあ終戦記念日が来た
老婆である私でさえ、まだ産まれてない時のことだわ

実は、私は父母からよく戦争中の庶民や兵隊の話を直に聞いていたこと多数
なのでこの話は全て私の空想ではなく、父母の体験なのであるけれど・・・

父は学徒出陣して朝鮮→満州→中国本土→台湾→沖縄本土→宮古島
の戦地を転々としてきた
まあ大体一周してきたわけだわ ご苦労様 なのである
色々あったが何とか日本に戻ってきた
そして母と見合い結婚した

ところで
父は特攻隊機の修理担当だった それは台湾でのことで、もう戦争も終わり頃のこと
特攻機も余り活躍の場が亡くなった頃
その頃の機体はかなりボロボロで、修理してもしょうがないくらいで
「果たして飛ぶのか?」
「目的地にはたどり着けるのか?」と言うような状態だったらしい

勇ましく?出かけても、十中八九戻って来たらしい
つまりはもう特攻機を飛ばしても何しても、日本は「終わり」ということを察していたらしいのである
だから飛ぶ方も修理の方も、もうこれはどうしようもないよな~という厭世気分だった

ほどなくして父は沖縄戦線に飛ばされた

運よく??宮古島に行かされて、なのでおかげで生き残ったのであるけれども
目の前で、兵站船が米軍(多分B29)機にことごとく破壊され、食べ物もなく、仕方ないから
海水に海藻?などを入れて煮炊きし
「太平洋汁」などという自虐的な名をつけてすすっていた・・・
「もう日本は負けるよな」
「そうだな、こんなにペコペコでは・・・」
そういう会話をしていたらしい

論理的合理的な父には、もう日本が負けることは分かっていたようだ

一方母たちは、毎日ラジオのニュースを聞き、嘘のニュースを聞かされていたけれども
流れる曲はいつも「海ゆかば」という物悲しい曲となり
何だかうすうすと
「日本は負けないはずなのに・・・やっぱり負けるとやろか???」
とひそひそと囁いており、母の妹は、毎日かぼちゃしか食べれなくて わ~わ~ と泣いていたそうだ

これが偽らざる庶民の気持ちであった
なので
TVなのでの終戦の特集はバカバカしくて見ていられないのだ
コメント
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