さっきまで「スウィングガールズ」を観ていました。
今、スウィングしてます。いい気分だ。
先週に引き続き、一監督一作品を選ぶコーナーです。
Qのつく監督。
クエンティン・タランティーノは「レザボア・ドッグス」。
初監督で予算も少なく、銀行襲撃シーンをカットしたにもかかわらずこの面白さ。
銀行襲撃の映画は親友だったロジャー・アイボリーが「キリング・ゾーイ」で実現した。
最初は共同で、2人で脚本書いていたんだよね。
ビデオ店員が脚本を書いて監督になり、カンヌでグランプリを取ってしまう。
これは映画好きな人間のサクセス・ストーリーでもある。
色んな映画の記憶からパクりにパクって、全く別のものに仕上げてしまう。これも才能。
真に面白い映画が好きなことが端々から窺える作風。
「キル・ビル」まで一貫して、自分の大好きだった映画にオマージュを捧げる。
映画作りを心から楽しんでいる風情がとにかくいい。
Rのつく監督。
ライナー・ヴェルナー・ファスビンダーは「リリー・マルレーン」。
伝説の歌姫の話を、戦争の悲惨さにからめて描く。
「マリア・ブラウン」や「ヴェロニカ・フォス」といった女性を描く映画が多いが、
本人はホモであることをカミングアウトしている。
遺作になった「ケレル」はまさにそういう映画らしい。まだ観てないのだ。
主演が「ミッドナイト・エクスプレス」や「炎のランナー」に出ていた、B・デイビス。
ジェームス・ディーンの面影をこの俳優にかすかに見ていた私としては、ぜひ観たい映画。
ラルフ・ネルソンは「野のユリ」。
黒人青年が異国の尼さんたちと知り合い、彼女たちの教会を一人で建てて去っていく。
劇中歌われる黒人霊歌「Amen」はカセットに録音して何度も何度も聴いた。
DVDになかなかならなかったが、やっとのことでDVD化なる。めでたい。
ドロンものでは「泥棒を消せ」を撮った。
A・マーグレットとのラブシーンよりJ・パランスとの兄弟愛のほうが怪しかったような。
アメリカン・ニューシネマでは「ソルジャー・ブルー」で
騎兵隊によるインディアン虐殺を描いて、騎兵隊神話の破壊を行なった。
ルネ・クレールは「巴里の屋根の下」。
いかにもフランスらしい主題歌は忘れられない。
主題歌といえば、「巴里祭」もそうだ。映画と音楽はいつも不可分。
フランスらしい情緒を描いてほんわかさせてくれたこの監督も、
「リラの門」ではやや深い人間洞察を見せ、ほんわか以上にしんみりさせてくれた。
ルネ・クレマンは「太陽がいっぱい」。
貧乏な青年が金持ちの青年をヨットで殺して、成り代わる。
一見上手くいったかに見えた犯罪が、思わぬところから発覚する。
「青春」と「夏」を見事に、印象的な音楽とともに画面に刻みつけた。
「太陽」以降、サスペンスに傾倒して堕落したとも言われるが、
「雨の訪問者」「パリは霧に濡れて」など、私には面白かった。
「禁じられた遊び」も、両親を失った少女と少年の触れ合いを通して戦争の悲惨さを描出。
同じ戦争ものでも「パリは燃えているか?」より心に迫るものがあった。
リチャード・ブルックスは「プロフェッショナル」。
B・ランカスター、L・マービン、R・ライアン、J・パランスなどの男臭い面々に、
C・カルディナーレのお色気も加わった痛快アクション。
「暴力教室」では「不良」をリアルに描こうとした初期の映画。
「熱いトタン屋根の猫」では不能でホモの亭主を持った妻の疼きを、
E・テーラーの熟しきった肉体で香るように描いて見せた。
リチャード・レスターは「ハード・デイズ・ナイト」。
ビートルズが時代の寵児となって進出していく際の映像的後押しになった。
時代の雰囲気を映した映画は時代とともに古くなるはずなのに、
これらの作品だけは古びずに貴重な映像資料になっていく。
同じく時代のファッションを映した「ナック」は結構古びているのに。
とはいえ、ファッションは繰り返す。今初めて観る目には新鮮に映るかもしれない。
リドリー・スコットは「ブレードランナー」。
アジア系の人間が勢力を拡大していったと思われる未来。
レプリカントという人間そっくりの人造物が、やがて心を持ち始める世界。
「2つで充分ですよ」という流行語を生み出した(笑)。
見事なセンスで具現化された未来はまがまがしくも美しい。
松田優作の遺作となった「ブラック・レイン」も今となっては貴重な作品だ。
ロバート・アルドリッチは「特攻大作戦」。
癖のある登場人物を揃えて、見所満載の戦争映画にしてみせた。
この人の映画は反骨精神に満ち溢れた登場人物が特徴。
「攻撃」の分隊長、「ヴェラクルス」でニカッと笑うB・ランカスター扮するガンマン、
「北国の帝王」のただ乗り野郎、「ロンゲスト・ヤード」の囚人たち、
「カリフォルニア・ドールス」の興行主と泥レスの女性たち・・・印象が深い。
ロバート・アルトマンは「ロング・グッドバイ」。
フィリップ・マーロウものの変則作品だが、これはこれでかっこいい。てか、好き。
E・グールドはこれと、「マッシュ」のトラッパー・ジョンが当たり役。
いわゆる「こうあるべき」という所を微妙にはずした映画づくり。定型破りが常道。
「ザ・プレイヤー」や「プレタ・ポルテ」は豪華配役のお祭り映画だったが、
「ショート・カッツ」ではその豪華配役で、
見事にレイモンド・カーヴァーの世界を表現してしまった。これは嬉しい誤算。
ロベール・ブレッソンは「スリ」。
ふとしたきっかけで堕ちていく人間を描くとき、ブレッソンは冴え渡る。
映画的な美しさは排除して、ひたすら現実の厳しさに肉迫していこうとするカメラ。
「少女ムシェット」は犯されてどんどん不幸になっていく少女を、
「ラルジャン」はお金を盗んでどんどん深みにはまる青年を描く。
余計なものを省いて対象物を凝視しようとする眼差しは、今観ても厳しい。
ロベール・アンリコは「冒険者たち」。
新型エンジンを実験中に爆破してしまった中年のエンジニア。
凱旋門を複葉機でくぐったら大金をやると騙され、飛行士免許を失った青年。
アブストラクトの個展を開いて、さんざんな批評に希望を絶たれたアーティストの女。
三人三様、夢に敗れた男女3人組がコンゴの財宝を探そうと冒険の旅に出る。
フランソワ・ド・ルーベの美しい主題曲も忘れられない。
ジョゼ・ジョバンニの原作を甘い青春ものに改作して、青春ものの古典となった。
ネクタイ集めが趣味のギャングがのし上がる姿を描いた「オー!」もいい。
ロバート・マリガンは「アラバマ物語」。
人種差別の激しい南部で、強姦殺人の罪に問われた黒人を弁護するお父さん。
このお父さんを娘の目から見た映画。
子供の目に映る大人の歪んだ世界。それにひるまず立ち向かう父親。
多感な時期に子供に感情移入しながらドキドキしながら観た。
現実にはいないにしても、「こういう人物がいたら」という理想は持っていたいものだ。
以上。
Rの後編は次週に。
じつはもう一本「笑の大学」も借りてきたのだ。早く観たいのだ。
今、スウィングしてます。いい気分だ。
先週に引き続き、一監督一作品を選ぶコーナーです。
Qのつく監督。
クエンティン・タランティーノは「レザボア・ドッグス」。
初監督で予算も少なく、銀行襲撃シーンをカットしたにもかかわらずこの面白さ。
銀行襲撃の映画は親友だったロジャー・アイボリーが「キリング・ゾーイ」で実現した。
最初は共同で、2人で脚本書いていたんだよね。
ビデオ店員が脚本を書いて監督になり、カンヌでグランプリを取ってしまう。
これは映画好きな人間のサクセス・ストーリーでもある。
色んな映画の記憶からパクりにパクって、全く別のものに仕上げてしまう。これも才能。
真に面白い映画が好きなことが端々から窺える作風。
「キル・ビル」まで一貫して、自分の大好きだった映画にオマージュを捧げる。
映画作りを心から楽しんでいる風情がとにかくいい。
Rのつく監督。
ライナー・ヴェルナー・ファスビンダーは「リリー・マルレーン」。
伝説の歌姫の話を、戦争の悲惨さにからめて描く。
「マリア・ブラウン」や「ヴェロニカ・フォス」といった女性を描く映画が多いが、
本人はホモであることをカミングアウトしている。
遺作になった「ケレル」はまさにそういう映画らしい。まだ観てないのだ。
主演が「ミッドナイト・エクスプレス」や「炎のランナー」に出ていた、B・デイビス。
ジェームス・ディーンの面影をこの俳優にかすかに見ていた私としては、ぜひ観たい映画。
ラルフ・ネルソンは「野のユリ」。
黒人青年が異国の尼さんたちと知り合い、彼女たちの教会を一人で建てて去っていく。
劇中歌われる黒人霊歌「Amen」はカセットに録音して何度も何度も聴いた。
DVDになかなかならなかったが、やっとのことでDVD化なる。めでたい。
ドロンものでは「泥棒を消せ」を撮った。
A・マーグレットとのラブシーンよりJ・パランスとの兄弟愛のほうが怪しかったような。
アメリカン・ニューシネマでは「ソルジャー・ブルー」で
騎兵隊によるインディアン虐殺を描いて、騎兵隊神話の破壊を行なった。
ルネ・クレールは「巴里の屋根の下」。
いかにもフランスらしい主題歌は忘れられない。
主題歌といえば、「巴里祭」もそうだ。映画と音楽はいつも不可分。
フランスらしい情緒を描いてほんわかさせてくれたこの監督も、
「リラの門」ではやや深い人間洞察を見せ、ほんわか以上にしんみりさせてくれた。
ルネ・クレマンは「太陽がいっぱい」。
貧乏な青年が金持ちの青年をヨットで殺して、成り代わる。
一見上手くいったかに見えた犯罪が、思わぬところから発覚する。
「青春」と「夏」を見事に、印象的な音楽とともに画面に刻みつけた。
「太陽」以降、サスペンスに傾倒して堕落したとも言われるが、
「雨の訪問者」「パリは霧に濡れて」など、私には面白かった。
「禁じられた遊び」も、両親を失った少女と少年の触れ合いを通して戦争の悲惨さを描出。
同じ戦争ものでも「パリは燃えているか?」より心に迫るものがあった。
リチャード・ブルックスは「プロフェッショナル」。
B・ランカスター、L・マービン、R・ライアン、J・パランスなどの男臭い面々に、
C・カルディナーレのお色気も加わった痛快アクション。
「暴力教室」では「不良」をリアルに描こうとした初期の映画。
「熱いトタン屋根の猫」では不能でホモの亭主を持った妻の疼きを、
E・テーラーの熟しきった肉体で香るように描いて見せた。
リチャード・レスターは「ハード・デイズ・ナイト」。
ビートルズが時代の寵児となって進出していく際の映像的後押しになった。
時代の雰囲気を映した映画は時代とともに古くなるはずなのに、
これらの作品だけは古びずに貴重な映像資料になっていく。
同じく時代のファッションを映した「ナック」は結構古びているのに。
とはいえ、ファッションは繰り返す。今初めて観る目には新鮮に映るかもしれない。
リドリー・スコットは「ブレードランナー」。
アジア系の人間が勢力を拡大していったと思われる未来。
レプリカントという人間そっくりの人造物が、やがて心を持ち始める世界。
「2つで充分ですよ」という流行語を生み出した(笑)。
見事なセンスで具現化された未来はまがまがしくも美しい。
松田優作の遺作となった「ブラック・レイン」も今となっては貴重な作品だ。
ロバート・アルドリッチは「特攻大作戦」。
癖のある登場人物を揃えて、見所満載の戦争映画にしてみせた。
この人の映画は反骨精神に満ち溢れた登場人物が特徴。
「攻撃」の分隊長、「ヴェラクルス」でニカッと笑うB・ランカスター扮するガンマン、
「北国の帝王」のただ乗り野郎、「ロンゲスト・ヤード」の囚人たち、
「カリフォルニア・ドールス」の興行主と泥レスの女性たち・・・印象が深い。
ロバート・アルトマンは「ロング・グッドバイ」。
フィリップ・マーロウものの変則作品だが、これはこれでかっこいい。てか、好き。
E・グールドはこれと、「マッシュ」のトラッパー・ジョンが当たり役。
いわゆる「こうあるべき」という所を微妙にはずした映画づくり。定型破りが常道。
「ザ・プレイヤー」や「プレタ・ポルテ」は豪華配役のお祭り映画だったが、
「ショート・カッツ」ではその豪華配役で、
見事にレイモンド・カーヴァーの世界を表現してしまった。これは嬉しい誤算。
ロベール・ブレッソンは「スリ」。
ふとしたきっかけで堕ちていく人間を描くとき、ブレッソンは冴え渡る。
映画的な美しさは排除して、ひたすら現実の厳しさに肉迫していこうとするカメラ。
「少女ムシェット」は犯されてどんどん不幸になっていく少女を、
「ラルジャン」はお金を盗んでどんどん深みにはまる青年を描く。
余計なものを省いて対象物を凝視しようとする眼差しは、今観ても厳しい。
ロベール・アンリコは「冒険者たち」。
新型エンジンを実験中に爆破してしまった中年のエンジニア。
凱旋門を複葉機でくぐったら大金をやると騙され、飛行士免許を失った青年。
アブストラクトの個展を開いて、さんざんな批評に希望を絶たれたアーティストの女。
三人三様、夢に敗れた男女3人組がコンゴの財宝を探そうと冒険の旅に出る。
フランソワ・ド・ルーベの美しい主題曲も忘れられない。
ジョゼ・ジョバンニの原作を甘い青春ものに改作して、青春ものの古典となった。
ネクタイ集めが趣味のギャングがのし上がる姿を描いた「オー!」もいい。
ロバート・マリガンは「アラバマ物語」。
人種差別の激しい南部で、強姦殺人の罪に問われた黒人を弁護するお父さん。
このお父さんを娘の目から見た映画。
子供の目に映る大人の歪んだ世界。それにひるまず立ち向かう父親。
多感な時期に子供に感情移入しながらドキドキしながら観た。
現実にはいないにしても、「こういう人物がいたら」という理想は持っていたいものだ。
以上。
Rの後編は次週に。
じつはもう一本「笑の大学」も借りてきたのだ。早く観たいのだ。