よく、落語の演目では、物知りのご隠居さんが登場して、うっかり物の八っつぁんにいろんなことを教えてあげる場面がありますが、最近では、何か知りたいことを誰かに聞いてみたりすると、「ggrks」と暗号のような答えが返ってくるのが当然のようになってしまいました。
「ggrks=ググレカス」は元々、インターネット上で使われていた言葉で、誰でも知っているであろう初歩的なことを聞いてくる人に、「そのくらい自分で調べなさい」と言うための隠語でした。
ところが、今では日常会話でも頻繁にこの言葉が使われているようなのです。
『言葉のキャッチボール』と表現されるように、人と人と対話には、話題の本質以外にも「やりとり」されるものがあります。
他愛のない会話の中には、その場の雰囲気を和ませたり、交わす言葉から相手の人柄が伝わってきたり、難しい人間関係の改善などの糸口を見出したりという役割も少なからずあるのです。
確かに、知りたいと思うことを尋ねてはいますが、その答えだけが欲しいわけではありません。
その話題についての、相手の意見やプラスアルファで知っている、その人だけの「特別」を知りたいのです。
でなければ、私の場合は自分で調べて解決します。
私が何かを誰かに尋ねる時は、一通り自分で調べて、それでもよく分からない場合です。
そんな時でも、人によっては「自分で調べれば?」という顔をされてしまいます。
こうした重要でない事柄についての会話を大切にするかしないかは、世代によって考え方が違うという指摘もあるのですが、人と人が関わり合う社会の中に存在しながら会話を拒絶することは、あまり建設的な態度ではないと思われます。
往々にして、「ググレカス」と会話の中で返してくる人は、答えるのが面倒臭いか、聞かれたことの答えを知らないか、あるいは、知らないということを隠したいかのどれかでしょう。
それに、インターネット上の情報が正確性に欠けるということは周知の事実ですし、もしも、そうした検索ですべて事足りると信じていて、「ググレカス」と言ってくるのであれば、私はその人を信用することはないと思います。
実際、世の中にはインターネット検索では答えの出ない問題が沢山あります。
沢山の人と出会い、対話をする中で、そのような問題に対する解決策が見つかることもあります。
もちろん、そうした言葉のやりとりの中で、不愉快な経験をすることもあるでしょうし、反対に自分が相手を傷つけてしまうこともあります。
しかし、それらのことを経て、人は自分がどんな言葉を使えばいいのかを学習していくのではないでしょうか。
いわば、その人が使う言葉は、その人がどんな人と出会い、どんな経験をしてきたかということを物語っているのです。
言葉にはその人が生きてきた歴史が表れていると言っても過言ではありません。
インターネット文化の負の側面は、顔も名前も知らない相手に一方的に言葉を投げつけることができるという点であり、しかも、それに対する反応は、言葉を投げつけた本人に直接届かないことが多いという所です。
自分が発した言葉がどんな影響を及ぼしたのか、どんな結果を招いたのかが実感として伝わらないのです。
つまり、投げたボールを誰がどんなふうにキャッチしたのか、あるいは、顔面にぶつけてしまったのかということは問題ではないのです。
「オレはボールを投げた。おしまい。」
それではキャッチボールが上達するわけはないのですが、そんな人に限って「自分はプロ野球選手並みの肩の持ち主だ」と言わんばかりに、不特定多数の相手にボールを投げつけまくるので本当に迷惑です。
ところで、音楽がどうやって誕生したのかという研究においては、言語起源説というものがあり、抑揚をつけて言葉を唱えるところから、音楽が生まれたのではないかと考えられています。(もちろん他の説もあります。)
《音楽と言語》T.G.ゲオルギアーデス著/木村敏訳(1994 講談社)は、古代ギリシャ語の持つ言葉のリズムの解説から始まり、ラテン語、ドイツ語と音楽の関係を実例をあげながら詳細に分析している本です。
現代、私たちが聞くことのできるモーツァルトやベートーヴェンの曲の中にはどんな言葉の要素が含まれているのか。
まるで、古代文字を読み解くような奥深い音楽の世界を堪能できます。
もし、古代ギリシャ人たちが「ggrks」みたいな言葉を使っていたら、西洋音楽の歴史も違ったものになっていたのでしょうか。。。
※雑談動画【本の林】第二十五冊を再生、コチラをクリックするか、「本の林」で動画検索をお願いします。
「ggrks=ググレカス」は元々、インターネット上で使われていた言葉で、誰でも知っているであろう初歩的なことを聞いてくる人に、「そのくらい自分で調べなさい」と言うための隠語でした。
ところが、今では日常会話でも頻繁にこの言葉が使われているようなのです。
『言葉のキャッチボール』と表現されるように、人と人と対話には、話題の本質以外にも「やりとり」されるものがあります。
他愛のない会話の中には、その場の雰囲気を和ませたり、交わす言葉から相手の人柄が伝わってきたり、難しい人間関係の改善などの糸口を見出したりという役割も少なからずあるのです。
確かに、知りたいと思うことを尋ねてはいますが、その答えだけが欲しいわけではありません。
その話題についての、相手の意見やプラスアルファで知っている、その人だけの「特別」を知りたいのです。
でなければ、私の場合は自分で調べて解決します。
私が何かを誰かに尋ねる時は、一通り自分で調べて、それでもよく分からない場合です。
そんな時でも、人によっては「自分で調べれば?」という顔をされてしまいます。
こうした重要でない事柄についての会話を大切にするかしないかは、世代によって考え方が違うという指摘もあるのですが、人と人が関わり合う社会の中に存在しながら会話を拒絶することは、あまり建設的な態度ではないと思われます。
往々にして、「ググレカス」と会話の中で返してくる人は、答えるのが面倒臭いか、聞かれたことの答えを知らないか、あるいは、知らないということを隠したいかのどれかでしょう。
それに、インターネット上の情報が正確性に欠けるということは周知の事実ですし、もしも、そうした検索ですべて事足りると信じていて、「ググレカス」と言ってくるのであれば、私はその人を信用することはないと思います。
実際、世の中にはインターネット検索では答えの出ない問題が沢山あります。
沢山の人と出会い、対話をする中で、そのような問題に対する解決策が見つかることもあります。
もちろん、そうした言葉のやりとりの中で、不愉快な経験をすることもあるでしょうし、反対に自分が相手を傷つけてしまうこともあります。
しかし、それらのことを経て、人は自分がどんな言葉を使えばいいのかを学習していくのではないでしょうか。
いわば、その人が使う言葉は、その人がどんな人と出会い、どんな経験をしてきたかということを物語っているのです。
言葉にはその人が生きてきた歴史が表れていると言っても過言ではありません。
インターネット文化の負の側面は、顔も名前も知らない相手に一方的に言葉を投げつけることができるという点であり、しかも、それに対する反応は、言葉を投げつけた本人に直接届かないことが多いという所です。
自分が発した言葉がどんな影響を及ぼしたのか、どんな結果を招いたのかが実感として伝わらないのです。
つまり、投げたボールを誰がどんなふうにキャッチしたのか、あるいは、顔面にぶつけてしまったのかということは問題ではないのです。
「オレはボールを投げた。おしまい。」
それではキャッチボールが上達するわけはないのですが、そんな人に限って「自分はプロ野球選手並みの肩の持ち主だ」と言わんばかりに、不特定多数の相手にボールを投げつけまくるので本当に迷惑です。
ところで、音楽がどうやって誕生したのかという研究においては、言語起源説というものがあり、抑揚をつけて言葉を唱えるところから、音楽が生まれたのではないかと考えられています。(もちろん他の説もあります。)
《音楽と言語》T.G.ゲオルギアーデス著/木村敏訳(1994 講談社)は、古代ギリシャ語の持つ言葉のリズムの解説から始まり、ラテン語、ドイツ語と音楽の関係を実例をあげながら詳細に分析している本です。
現代、私たちが聞くことのできるモーツァルトやベートーヴェンの曲の中にはどんな言葉の要素が含まれているのか。
まるで、古代文字を読み解くような奥深い音楽の世界を堪能できます。
もし、古代ギリシャ人たちが「ggrks」みたいな言葉を使っていたら、西洋音楽の歴史も違ったものになっていたのでしょうか。。。
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