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音楽家として生きること。

2020年07月06日 | 本の林
 もし、子供が将来、ミュージシャンになりたいと言ったら、たいていの親は反対するでしょう。

 音楽は趣味として楽しむ分には、とても素敵なものですが、職業とするには収入が不安定ですし、社会的な立場も脆弱なものです。
 成功して有名になったとしても、音楽家という身分ではローンも組めません。

 つまり、音楽家は社会的信用を築くことができないのです。
 音楽家になるために何年も修行をしたり、音楽家として活動を積み上げた実績などは、社会の仕組みの中では何の意味もなく、評価に値しないのです。

 音楽家を辞めて、他の職業に転職しようとしても、長年、音楽しかやってこなかった人間を雇ってくれる会社は珍しいと思います。
 音楽家としての活動は職歴としては見なされないので、社会的には無職とほぼ同じことになります。
 もちろん、失業保険もありません。

 人々に夢を与えるはずのミュージシャン自身は、夢とは程遠い厳しい現実と直面しながら生きているのです。


 ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト(1756-1791)が音楽家になったのは、ひとえに父親レオポルト・モーツァルトの影響であることに疑いの余地はありません。
 ザルツブルクの宮廷楽師であったレオポルトは、幼いヴォルフガングに音楽の基礎を教え、最新の音楽を学ばせるために、二人でヨーロッパを旅しました。

 その際、ウィーンのマリア・テレジアに強引に謁見を求めたため、後年、ヴォルフガングがウィーンの宮廷で冷遇される原因になったと言われています。

 当時のヨーロッパでは、イタリア人の音楽家を雇うことが常識的でした。
 オーストリア出身のモーツァルトがウィーンで宮廷音楽家として採用されたのは、彼よりも前に音楽家として成功していたグルック(1714-1787)が雇われた先例を作っていたからという見方もあります。

 とにかく、モーツァルトはウィーンで彼の代表的な作品、オペラ《フィガロの結婚》(1786)K.492を始め、いくつかの作品を上演しますが、その反応はあまり良いとは言えず、給料も低いままでした。
 そんな時、ボヘミアの商業都市プラハで、《フィガロの結婚》が上演され、プラハ市民に熱狂的に支持されるという出来事が起こります。

 女帝の目が光るウィーンでは、どんなに良いオペラでも、表立って支持を明らかにする有力者など皆無でしたが、遠く離れたプラハでは事情が違いました。
 モーツァルトはまるでスターのように、プラハに迎え入れられたのです。

 彼の作った音楽に違いがあったわけではありません。
 政治によって、人々の思惑によって、モーツァルトや彼の作品に対する評価が違ったのです。

 モーツァルトは晩年、密かにロンドンで活動することを計画していたようです。
 残念ながら、それは彼の死により実現することはありませんでしたが、もし、ロンドンで成功できていたら、また違った天才モーツァルト伝が生まれていたことでしょう。

 《旅の日のモーツァルト》メーリケ作/猿田悳訳(1969 白水社)はプラハで、自作のオペラ《ドン・ジョヴァンニ》を初演するために、モーツァルト一行が旅をする様子を描いた、フィクションです。
 長雨のお供に、紅茶でも飲みながら読みたいオシャレな一冊です。




第二十九冊《旅の日のモーツァルト》【本の林】(雑談)


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