時には目食耳視も悪くない。

読んだ本、観た映画、聴いた音楽、ふと思ったこと、ありふれた日常・・・

【動画紹介】ヒトコトリのコトノハ vol.59

2024年06月21日 | 動画紹介
☆本記事は、Youtubeチャンネル『本の林 honnohayashi』に投稿された動画を紹介するものです。
 ご興味を持たれた方は是非、動画の方もチェックしてみて下さいね!

 ●本日のコトノハ●
  「このピンクがかった肌の色をした人々こそ、みずからを〈白〉人種と規定し、さまざまな度合いの茶色や
  金色がかった肌の人々を〈黒〉人種と決めつけるという誤謬をおかした張本人である。この意味論上の手品が
  どんな結果をもたらしたかというと、ピンクがかった肌は、美徳と清潔さ、茶や金色の肌は、悪と汚れと
  危険を意味する、という連想である」(アリソン・リュリー、木幡和枝訳『衣服の記号論』文化出版局)

  そんな連想をもたらすイメージの伝統が問題だ。

  『悪魔の話』池内紀(2013)講談社より


 今はどうか知りませんが、私は義務教育の期間中に、社会の授業で人種問題について勉強した覚えがあります。
 小学校での記憶が曖昧なので、小学生の時に習ったかどうかは覚えていませんが、中学の授業では、南アフリカのアパルトヘイト政策のことや、アメリカでの黒人差別のことを扱っていました。

 私の両親は、自分たち自身の正義よりも、戦争や社会問題についての意識が高く、よくテレビでそういったドキュメンタリー番組や、記録映画をさも深刻そうな顔で見るのが好きでした。
 そして、子供の私が唯一見てもいいテレビ番組が、その類のものでした。
 普段は、絶対にテレビを見てはいけないと言いながら、そういった番組については、むしろ「きちんと見ておけ」と言って、親としての教育の一環であるという態度で、別に見たいとも思っていない子供に強要していたのです。
 (私がますますテレビ嫌いになったわけです。)

 そんなわけで、高校に入る前までには、黒人と白人がどんな関係で、歴史的にどんなことがあったかということは知っていました。
 それは同年代の子たちも同様だったはずです。(まさか、うちの両親のようなやり方で知らされることはなかったと思いますが。)
 人種差別や核兵器のことなど、知識として全員が認識している問題について、高校生の時に自分の意見を言うことや、友達同士で話し合うことはありませんでした。
 私の両親も、そういった問題があるということは子どもに教えましたが、「そのことについて、自分たちはこう思っていて、だからこういう行動をする」というようなことは言いませんでした。
 ただただ、恐ろしいことだ、良くないことだ、これが現実世界だ、社会は甘くないぞと言うように眉をひそめ、いつもより神妙な面持ちでいるばかりでした。

 子どもの私は、なんでそんなつまらないテレビしか見せてもらえないのか、なんで自分とは関係ないこと(その時はそう感じていた)なのに、まるで自分が間違いを犯した人間のように反省した態度でいなければいけないのか理解できていませんでした。
 ただ、父親は子どもが自分の思う行動をしないと、不機嫌になり暴言を吐いたり、叩くことがあったので、それが嫌なので大人しくしていました。(内心はチンプンカンプンなのに…)

 高校でも大学でも、学問として、授業の一環として人種問題や地域紛争について勉強しましたが、そのことについて、みんなで意見交換をしたり、自分の意見を主張することはありませんでした。
 それどころか、そういった類のテーマは社交の場では今も昔もタブーなのです。それはそうです。
 軽い世間話で人間関係を円滑にしたいだけの場で、いきなり、社会問題について話し出す人がいたら、誰だって困惑すると思います。

 私が学生の頃は、まだ日本で生活する外国の人が今よりも少なかったので、人種の問題は完全なる他人事、別世界の出来事だと思っていましたが、今では都会でも観光地でもない田舎の街なかでさえ、日常的に外国の人を見かけることが珍しくなくなっています。
 そして、それらの外国の人と、日本人の価値観や生活習慣の違いによって生じる問題がニュースで報じられることもあります。

 また、かつて、ヨーロッパに行った時の経験ですが、アジア人の自分が外国では、微妙な対応をされることもあるということは、学校では教えてくれませんし、実際に体験しなければ気がつかなかったことです。
 自分たち日本人が外国に行く時、どんなことが起きる可能性があって、どう対処するべきなのか、あるいは、日本国内で外国の人にどんな対応をしたらよいのかということは、その状況になって初めて勉強する必要があると痛感するのだと思います。

 人種の問題もそうですが、いつか巻き込まれるかもしれない戦争のことや、もっと自分に身近な税金の制度、法律や選挙のこと、年金や健康保険の仕組みのこと。
 学校で教えているようで、教えていないことは結構たくさんあります。
 私は大人になって、それらのことを理解しようと調べたり、詳しい人に説明してもらったりして、どうにか処理してきました。

 学校の勉強は、一見無駄なように思えますが、将来的にいつ直面するか分からない様々な社会問題につながる事項を教えてくれています。
 ただ、それは直接的に各問題について強く示唆するものではありません。教育が思想操作になってしまう可能性があるからです。

 その視点から言えば、私の両親が私につまらないテレビ番組をただ見せただけというのも、あながち的外れではなかったのかもしれません。
 義務教育の場で何を教えるかということは、度々議論されることで、様々な意見を目にしますが、逆に、義務教育の場で何を学び取れるかという問題でもあるのではないかと私は思います。
 私が子どもの時に普通に見ていたものを、今は「子どもに見せてはいけない」と大人たちが勝手に隠すようになっていたり、話題にしなくなっていることもあります。
 目隠しをされ、耳や口をふさがれていた子どもが、18才になって、突然、社会の中で成人扱いをされるのは気の毒なような気もするのです。

 学校教育は単なる知識を身につけるための勉強になりがちですが、将来的に社会で生活する人間の人格を育てる役割も担っていますし、それによって、差別や格差意識がなくなり、それぞれの幸せを大切にできる人々が新しい伝統を築いていけば、人間社会も捨てたものではないと思えるかもしれません。

 学歴至上主義の現段階においては、ただの理想論、キレイゴトにすぎませんが。。。



ヒトコトリのコトノハ vol.59


コメントを投稿