時には目食耳視も悪くない。

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旅する心。

2020年02月17日 | 本の林
 音楽のことを書く時、音楽以外のことに触れずに書くのは難しいと私は感じます。

 1つの曲を演奏する時、その曲を作った人のことや、その曲が作られた理由について知らなくても、楽譜の読み方と楽器の弾き方が分かれば、曲を演奏することはできます。
 実際、楽譜さえあれば、曲にまつわるその他の知識や情報は必要ないと考える人もいると思います。

 それでも、私は曲を弾いていて、なにか腑に落ちないものを感じる時がたまにあります。
 そういう時、作曲した人の育った環境や、その人の気質や考え方に触れると、なるほど!と合点がいく場合が多いのです。

 自然をテーマにした曲でも、日本と外国では月の見え方や、雨の降り方は違います。
 恋愛観や宗教観だって同じではありませんし、さらに言えば、喜怒哀楽といった感情の表し方にも違いがあります。
 そうした違いが、音楽の感じ方にも反映されるのだと思います。

 日本でも、関東と関西では食文化や生活習慣が微妙に違いますし、好まれる音楽にも違いがあるような気がします。
 そのため、全く知らない国の音楽の楽譜を見ただけでは、音の高さや長さなどは分かっても、音の持つキャラクターまでは分からず、腑に落ちないものを感じるのだと思います。

 これは、私個人の感覚なので、他の人はまた別の視点から音楽と向き合うと思いますが、私の場合、例えばアルゼンチンタンゴを演奏する時、作曲者について調べるのは当然で、それに加えてアルゼンチンタンゴがどのように成立したのかを知りたくなるのです。

 そして、その時にはまず、それらに関する本があるかどうか調べます。
 今は本当に便利な時代で、インターネットで検索すれば、いろいろな国や地域について書いているブログや動画を見つけることもできます。

 もちろん、そのようなサイトも参考にしつつ、でもやはり本を読みたいと思うのですが、あまり有名でない音楽や作曲家の本は簡単に見つけられないので、がっかりすることも多いです。

 家にいながらにして、外国の様子を知ることができるのを当然のように思うかもしれませんが、それができるようになったのは本当に最近のことのように感じます。
 今回、【本の林】で取り上げた《旅と音楽―幾山河越えて―》北嶋基子(1991 保育資料社)が出版されたのは、1991年ですが、本書で紹介されている著者の旅行記は1980年代のものです。

 ※動画へはコチラをクリックするか、「本の林」で動画検索をお願いします。

 1980年代といえば、今から約40年前です。
 今よりも海外旅行が身近でない時代に、著者の北嶋基子さんは、インド、ネパール、中央アジア、シルクロード、また南米、ブエノスアイレスやクスコ、マチュピチュ、そしてオーストリア、フランス、イタリアなどのヨーロッパ、さらにエジプト、イスラエルにまで訪れています。

 本書には、訪問先で撮った遺跡や建物、土地の民族衣装、山などの自然の写真が多く収録されているので、それらを眺めるだけでも面白いです。
 そして、著者がその地で聞いた音楽の一部を楽譜に書きとったものが掲載されていますので、楽譜が読める人には、異国のメロディーを知ることのできる貴重な資料になると思われます。

 この本が書かれた頃よりも、海外旅行をする人が増えている現在ですが、やはり、時間とお金に余裕がなければそれも容易ではありません。
 まして、モーツァルトやベートーヴェンの時代では、移動手段も道路事情も今とは比べものにならないくらい過酷でした。

 旅をするということは、各地の音楽情報を得ると同時に、自身の情報をも発信するという、音楽家として生きていくには必要不可欠なことだったと窺い知ることができます。

 バロック、古典時代(それ以前からもそうですが)の音楽家のみならず、文学者や画家たちは皆、危険を冒して旅を続けながら、知識や情報を取り入れ、優れた作品を発表していったのです。
 旅が芸術を育てたと言っても、過言ではないと思います。

 今は旅行をしなくても映像を見たり、旅行のエッセイを読んだりすることができます。
 「思いを馳せる」という言葉の通り、人はそうしたものを見たり聞いたりすることで、心を旅の空の下におきたがるものなのかもしれません。

 そんなふうに、私はいつも本の中の世界を旅する日々を送っていきたいと思います。


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