こうま座通信

終わりのない文章

『ことばの市民になる』~学校では教えてくれないことばの授業を妄想する

2015-01-21 | Weblog
細川英雄先生を囲んでの、著者と読む『ことばの市民になる』、という会に参加してきた。
 学会発表など、細切れで消化不良に終わることが多いので、3時間も著者に好きに質問していいというのはとても贅沢でありがたい機会。

 タイトルにある「ことばの市民」って何?ということが話題になったが、細川先生から(あっさり?といっては失礼かもしれないが)「言語活動を中心とした」くらいの、という説明があり、驚いている自分がいた。
 そうか、私はもっと詩的な解釈をしていたのか、あるいはもっとエニグマティックな何か、にしておいてほしかったのか自分は、と感じた。うつわ? みんなが好きなことを読み込める、好き勝手に盛り込める、そんな容器のようなことを考えていたため。「ことばの市民ってなんだろう」とみんなが考えるきっかけとなるための謎の啓示、古代文明の碑文に記されたメッセージ…などのように捉えていたのだ。

 3時間の会で、私の隣には手話通訳の方、反対隣には、英語教育・日本語教育・国語教育の3つを行っている方がいて、この手の集まりとしては大変珍しいことにあまり寂しくなかった。ごくたまに、英語の先生や国語の先生の集いに顔を出すことがあるが、たいていはどこに行っても清々しいくらいに寂しい想いをして帰ることになる。それは私のコミュニケーション能力が極めて低く挙動不審力が高いという事実を差し引いても、教科・専門の枠があまりにもがっちりしていて、部外者の入り込む余地がないから。そんな枠組みばかり固めても、それらを同時多発的に(学校や学校外で)学んでいる学習者には枠がないはずで、その枠組み外しに興味がある私はどうしても話に入れない。方言は?危機言語は?手話は?音楽は?アートは?政治は?暴力は?つけ入る余地が、どこにも、ない。
 でも、今日はおそらく志を同じくする人たち、枠組みに疑問を持つひとたちが<なぜか>日本語教育をフィールドにする細川先生の読者に少なくないことが確信できた。おやつを食べながら、30年後には変えたいですね、寿命が尽きる前に、ということもお隣さんたちとお話しできた。(30年という単位は、なんとなくノーマライゼーションのことをイメージしている。)

 何かの意見に、細川先生が、「僕は兵隊を育てているわけじゃないから」、とあっさりおっしゃっていて、その場には笑いが起きた。しかし私には全然笑い事ではなかった。
 というのも、ちょうどその日の昼どき、信頼するNM先生に、兵隊に関して思っていることを初めて告白?したばかりだったのだ。今の日本は、兵隊を必要としている社会であると思う、鉄砲担いでいくわけじゃないけど、結局は企業も兵隊を必要としていて教育もそのための兵隊養成機関になってはいないだろうか、それは旧日本軍と何が違うんだろう、グルーバル人材育成と兵隊育成の何が違うの、と。もちろん、グローバル人材とはグローバルな課題を解決できる人材です、と前向きに定義することはできる。けど、実際そんな意味で使われているとはとても思えない。旧日本軍だって、口先ではアジアの民衆に平和と独立と繁栄をもたらしめんといっていたのではないかな。
 そして、細川先生がおっしゃる、教育は個の形成に立ち会うことしかできない、ということばは、岩川直樹先生がいつもおっしゃっている、教育は人間を形成できない、場づくりしかできない、ということと呼応し、私にはすとんと納得がいくが、この社会はグローバル人材育成の大合唱、つまらぬハモリはコミュニケーション能力育成である。そんなもん、鉄砲がコミュニケーション能力にかわっただけじゃん、担がされたくねーよ、と。

 最近、大友良英さんの『学校で教えてくれない音楽』を読み、ああ、田中克彦さんの『ことばと国家』を思い出すなあと思いながら読み進めるとやはり『ことばと国家』が出てきた。『ことばと国家』に出会ったのは、たぶん細川先生の授業、94年、確か言語学概論のようなタイトルの授業だった。(ちなみにその後、私の修論の副査を引き受けてくださったモンゴル人の先生は田中克彦先生のお弟子さんだった。)改めて埃まみれの『ことばと国家』をめくると、フランスの原発は、非フランス語話者の多い地域に集中している、という。80年代に書かれた本。大友さんが考えている福島の現状や、沖縄の基地と、言語と「開発」の構図は一緒だ、と思う。

 英語教育も国語教育も日本語教育も、もちろん学校教育そのものも『ことばと国家』の強い影響のもとにある。そのうえで結果的に、考えない人間・思考停止人間を機械的に大量生産しようとしている。コピペの蔓延はその象徴で、思考することは損だ、とでもいいたげな大学生はいまどき珍しくもないだろう。思考の放棄、自由な思考からの逃走。その結果はみごとに成功している。多くの人が疑問に思っていることが次々と進められている。その根底にはこんな価値観がある。考えること、意見することは無駄なこと、軋轢を生むことだと。
 以前ある場所で、学校の勉強、文字の読み書きの話になった。そのとき「女の子は馬鹿なくらいがちょうどいいから」というひとがいて、げんなりした。女も男も何も関係ないだろう、ことばを使って生きてくってことに、と。たぶん、stay foolish とは何の関係もないこと。草の根男尊女卑が、進んで選び取られ、染み渡っている。(その点、モンゴルは楽だった。女の人こそ学問が、知識が必要だと多くの人がごく普通に考えていた。)

 細川先生のこの本に出会ったとき、私はことばの無力さをもっとも思い知らされていたし、今もそのことに大きな変化はない。しかし、口絵のリベルテという絵を見て、ちょっと目頭がおかしくなった。リベルテ。小沼純一先生に教えて頂いたエリュアールの詩が頭をかすめる。個の自由、思考の自由のために、そしてそこにもとづく協働知・集合知を形成していくために、協働知や集合知は、個の思考の自由を促すために、ことばの市民になる、ということ。それは「学校で教えてくれないことばの授業」を学ぶことに、どこかで通じているかもしれない。

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