こうま座通信

終わりのない文章

『俺の家の話』最終回

2021-03-27 | Weblog
クドカンさんに畏敬の念すら覚える最終回。

前回を見たあと、ネット上で12月31日のホセとの試合に向かうという描き方が、寿一の死の前触れだと書き込まれているのを見た。ん?まさかね・・・と頭を掠めたりもした。ホセのくだりが二度あって、妙に印象付けられた。でも、主人公だよ、流石にそれはないでしょ、と。で、案の定ジュジュの介護と寿命に気を取られ、最終回の悲しみに気を取られ、長瀬くんの見納めというやるせなさに気を取られ、それでもホセとの試合でまた長瀬くんのプロレスシーン見れるなー、なんて呑気な期待もどこかで抱きつつ臨んだ最終回。。。

ジュジュ同様、寿一の死を受け入れられず、嘘、嘘、どこかでひっくり返って!!と思いながら見ていました。

しかし驚きながらも、どこかで、能という、死者が現れて生きていた頃のことを語るという芸能を扱う最終回としては、当然の、最高の展開、なんだよな・・・とも思いながら・・・。

そんな中でも、弔辞のパワーホール合唱など、笑わせつつも感慨深いシーンが盛りだくさん。
異能の人がこれだけ集い、虚と実がない混ぜになる、プロレス、能、芸能の世界、エンターテイメントの世界・・・

これまでだってクドカンさんにはちょくちょく脱帽させられてはきたけど、今回ばかりは脱帽の域を超え過ぎた。

そして、介護ができるって、改めてありがたいことなんだ、とも。
今回は、伝統芸能やショービジネスの世界が舞台で、あまりに特殊な世界なはずなのに、そこには普遍性があるから、見ている人はみんな自分ごとになってしまう。誰もがそれぞれの「俺の家の話」を生きていることに気づかされてしまう。

人間の命は本当に短い。
宇宙の時間から眺めたら、生きている状態こそ異常事態。
私たちは死が異常事態で、生が通常だと思い込みがちだけれど。
46億年の地球の時間に対してだけでも、人の一生の時間なんて塵芥みたいなものだ。でもその塵芥みたいな時間の中に、笑ったり泣いたり怒ったり悩んだりということがぎゅーっと詰まっている。塵芥みたいな時間の中で、必死に、もがいたりあがいたり、有頂天になったり凹んだり・・・ある意味滑稽な姿で右往左往してあくせく動き回っている。
そしてひとたび、その塵芥に強いエネルギーが加わり、ビッグバンが起こり、能のような芸能に昇華されれば、その塵芥みたいな、本来一瞬で消えるはずだった時間は、たびたび舞台に戻り、通常の人間の生にはなしえない形で引き伸ばされる。塵芥すらも、何百年という長寿を生きることになる。結果、これだけ多くの人を揺さぶることすらできる普遍性を纏う。芸能そのものがもつ命のビッグバンを仕掛け、奇跡みたいなドラマを作ったクドカンさん。なんだかプロセスワークみたいだ。長瀬くんと西田さんという二人の絡み合い(entanglment)よ。死後すらも続く、生も死も超える関係性。リングと舞台を、現世とあの世を重ね、終わることのない量子の絡み合いを描いた。たとえ目に見える地上から二人が去ったとしても、その絡み合いは永劫、続いていく。

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