『私の家政夫ナギサさん』。
私にとっては『凪のお暇』以来、本当に次が待ち遠しいドラマです。
脚本の徳尾浩司さん。
たぶん、かれこれ15年ほど徳尾さんのブログの読者をしているのですが、
私はもう、早く朝ドラやって欲しい、
そしてあまちゃん以来の社会現象を巻き起こすしかない、と思っております。
徳尾さんのドラマであさイチで華大さんがどんな風に反応してくれるのか、
金曜のプレミアムトークのゲストに来てくれるんじゃないかとか、妄想が止まりません。
で、家政夫役の大森南朋さんといえば、
お父様はご存知、麿赤兒さんですが、(ひょっとしてゲスト出演・・・ないか笑)
麿赤兒さんといえば、こちらのインタビューがとても素敵です。
15年前のインタビュー。
https://performingarts.jp/J/art_interview/0506/1.html
以下殆どコピペ状態ですが・・・抜粋を。
舞踏とは何かと問われて。
「・・・みんな何とかそれを振り払って違うところに行きたいけど、一歩踏み出しては迂回して戻ってくるみたいな、常にそういう分岐点に立っている。とはいってもそこから抜けてしまおうとかいうのではなく、包含しながら進み、密教的に増殖していく。その時間なり場所を司るというか、つまりは自分自身をどう司るのかということが舞踏にはあるけど、だからといって舞踏の定義となるとそういうのでもないから、難しい。」
「言葉にしろ、身体の動きにしろ同じ感覚が司っていて、それは何か?というと何でしょうねえ(笑)。 言葉の言霊だとか、ある種の始源の強さだとか言うと、民族学みたいな話になるし。まあ、そういう面もあるとは思いますが、身体の置き方、立ち方によってあらゆる疑問が解消するというか、そういう存在の仕方というのがあるんじゃねえかってことですよね。」
「海外の出し物を観ても、文学を読んでもそれなりにわかるでしょ。細かいところは判りませんよ。でもビックリしているとか、泣いているのは悲しいんだろうとか、情念的なものは判ります。まあ、人間なら一応情緒はあるだろうというのが前提ですけど。持ってないヤツもたまにいるから(笑)。」
──情念的、情緒的なものが、麿さんの一番根っこにあると考えていいのですか?
「かなりあります。「あっ!」って驚く時は、世界共通で同じ顔をするだろう、とかね。そういうところで、まず共通認識が生まれると思うんです。」
「我々の立ち方は、カッコ良く言えば、何物かの「容れ物」であり、つまりは生け贄(サクリファイス)として存在している。舞踏人種というのは、芸術とかっていうことではなく、生け贄(サクリファイス)としての肉体の存在を証明するものでして、「他に我々は何も言うことはありません」っていう方向にいくのが、僕の癖なんですけどね。」
──なるほど。じゃあ情緒や情念がどっかにあったとして、それと身体がうまく繋がらないといけないですよね。その繋がり方を学ぶメソッドとして野口体操があるのでしょうか。
「大駱駝艦の合宿でもはじめに野口体操とはこういうものだという説明をしてやらせるけど、それだけではちょっと違うような気がする。野口さんのような身体論は理想論としてはあるけど、そこに異物をどう放り込むか、ということが私にはあります。」
「舞踏という定義はもともとそんなになくて、たとえば異教徒をうまく巻き込んで、その儀式をちょっと入れちゃったりとかしてるうちに、いつの間にかミックスして、それで形づくっていくような。そういう異教徒的なもののリアリティもまたこっちに欲しいというところがあるんですよね。肉体というのを仕事にしちゃってるから、それだけどん欲になっている面もあるとは思いますが。」
「「何ものにも入ってやらない!」「どこにも属さねえ」「輪っかの外にいなければ信用できねえ」みたいな、強い意志があったと思います。」
「土方さんはもっと無意識的でかつ強い直感力で「輪っかになんか入れねえ」っていう、疎外感みたいなものを感受性として一番もっていたように思います。」
──麿さんたちが使っている言葉は、指示というかインストラクションじゃないんですよね。
「方便なんですが、若い人には、まだやっぱり言葉に対する信用があるというか…。「行け!」って言ったら行ったりしちゃうんですよ。」
「我々の仕事として身体の置きっぷりというのがあって。何もしないで板間に立っている意味みたいなことなんだけど。何もしなくても、それこそ言霊ならぬ“体霊(タイダマ)”がウワーンとあって、止まっていてもその波長が変えられる。要するに、身体の一種の多面性(多様性)が、見てる方にいろいろな方向性をもって伝えられるようになってくれれば。「なんじゃこりゃ」「見たことねえぞ」っていうところが最初だとは思うんですが。」
──野口体操的なものからはじめて、「見たことねえぞ」っていうところにいくにはどのように進めていくのですか。
<言霊ならぬ“体霊(タイダマ)って!!>と思うけど、
そのタイダマってものがあるとすれば、息子さん演じる家政夫のナギサさんにも結実しているような気がします。
インストラクションで演じられるものと、演じられないものがある。
息子さんの存在具合は後者では・・・。
それにしても、聞き手の小沼純一先生の物凄さよ。
野口体操に異物を放り込むことの重要性を、そこで止まってちゃダメなんだと、なんかそんな風に読めてしまいます。
──情緒や情念がどっかにあったとして、それと身体がうまく繋がらないといけないですよね。その繋がり方を学ぶメソッドとして野口体操があるのでしょうか。
──野口体操的なものからはじめて、「見たことねえぞ」っていうところにいくにはどのように進めていくのですか。
──情念的、情緒的なものが、麿さんの一番根っこにあると考えていいのですか?
こういう質問ってどうやったらできるん?
インストラクションで教えて欲しいと思わざるを得ませんが、
小沼先生の言霊がインストラクションじゃないから、もう麿さんの答えも相乗効果でハレーション起こして、
とんでもないところに行ってる気がする。
ハルカ星のハルバルの言葉みたいに聞こえる人もいるのではと心配します。
ちなみに上記リンク先にある注の「野口体操」の説明も、小沼先生によるものだろうか?
<体育教師だった野口三千三が、1960年代に体操による人間改革を目指して創始した実技。「生きている人間のからだは、皮膚という生きた袋の中に、液体的なものがいっぱい入っていて、その中に骨も内臓も浮かんでいる」という独自の人間観に基づいて提唱された「野口体操」は、体操界では異端視されたが、演劇、美術、音楽など芸術の世界に多大な影響を与えた。>
とっても簡潔。これくらいでいいのね。。。いや、これくらい「が」、いいのだ。
私にとっては『凪のお暇』以来、本当に次が待ち遠しいドラマです。
脚本の徳尾浩司さん。
たぶん、かれこれ15年ほど徳尾さんのブログの読者をしているのですが、
私はもう、早く朝ドラやって欲しい、
そしてあまちゃん以来の社会現象を巻き起こすしかない、と思っております。
徳尾さんのドラマであさイチで華大さんがどんな風に反応してくれるのか、
金曜のプレミアムトークのゲストに来てくれるんじゃないかとか、妄想が止まりません。
で、家政夫役の大森南朋さんといえば、
お父様はご存知、麿赤兒さんですが、(ひょっとしてゲスト出演・・・ないか笑)
麿赤兒さんといえば、こちらのインタビューがとても素敵です。
15年前のインタビュー。
https://performingarts.jp/J/art_interview/0506/1.html
以下殆どコピペ状態ですが・・・抜粋を。
舞踏とは何かと問われて。
「・・・みんな何とかそれを振り払って違うところに行きたいけど、一歩踏み出しては迂回して戻ってくるみたいな、常にそういう分岐点に立っている。とはいってもそこから抜けてしまおうとかいうのではなく、包含しながら進み、密教的に増殖していく。その時間なり場所を司るというか、つまりは自分自身をどう司るのかということが舞踏にはあるけど、だからといって舞踏の定義となるとそういうのでもないから、難しい。」
「言葉にしろ、身体の動きにしろ同じ感覚が司っていて、それは何か?というと何でしょうねえ(笑)。 言葉の言霊だとか、ある種の始源の強さだとか言うと、民族学みたいな話になるし。まあ、そういう面もあるとは思いますが、身体の置き方、立ち方によってあらゆる疑問が解消するというか、そういう存在の仕方というのがあるんじゃねえかってことですよね。」
「海外の出し物を観ても、文学を読んでもそれなりにわかるでしょ。細かいところは判りませんよ。でもビックリしているとか、泣いているのは悲しいんだろうとか、情念的なものは判ります。まあ、人間なら一応情緒はあるだろうというのが前提ですけど。持ってないヤツもたまにいるから(笑)。」
──情念的、情緒的なものが、麿さんの一番根っこにあると考えていいのですか?
「かなりあります。「あっ!」って驚く時は、世界共通で同じ顔をするだろう、とかね。そういうところで、まず共通認識が生まれると思うんです。」
「我々の立ち方は、カッコ良く言えば、何物かの「容れ物」であり、つまりは生け贄(サクリファイス)として存在している。舞踏人種というのは、芸術とかっていうことではなく、生け贄(サクリファイス)としての肉体の存在を証明するものでして、「他に我々は何も言うことはありません」っていう方向にいくのが、僕の癖なんですけどね。」
──なるほど。じゃあ情緒や情念がどっかにあったとして、それと身体がうまく繋がらないといけないですよね。その繋がり方を学ぶメソッドとして野口体操があるのでしょうか。
「大駱駝艦の合宿でもはじめに野口体操とはこういうものだという説明をしてやらせるけど、それだけではちょっと違うような気がする。野口さんのような身体論は理想論としてはあるけど、そこに異物をどう放り込むか、ということが私にはあります。」
「舞踏という定義はもともとそんなになくて、たとえば異教徒をうまく巻き込んで、その儀式をちょっと入れちゃったりとかしてるうちに、いつの間にかミックスして、それで形づくっていくような。そういう異教徒的なもののリアリティもまたこっちに欲しいというところがあるんですよね。肉体というのを仕事にしちゃってるから、それだけどん欲になっている面もあるとは思いますが。」
「「何ものにも入ってやらない!」「どこにも属さねえ」「輪っかの外にいなければ信用できねえ」みたいな、強い意志があったと思います。」
「土方さんはもっと無意識的でかつ強い直感力で「輪っかになんか入れねえ」っていう、疎外感みたいなものを感受性として一番もっていたように思います。」
──麿さんたちが使っている言葉は、指示というかインストラクションじゃないんですよね。
「方便なんですが、若い人には、まだやっぱり言葉に対する信用があるというか…。「行け!」って言ったら行ったりしちゃうんですよ。」
「我々の仕事として身体の置きっぷりというのがあって。何もしないで板間に立っている意味みたいなことなんだけど。何もしなくても、それこそ言霊ならぬ“体霊(タイダマ)”がウワーンとあって、止まっていてもその波長が変えられる。要するに、身体の一種の多面性(多様性)が、見てる方にいろいろな方向性をもって伝えられるようになってくれれば。「なんじゃこりゃ」「見たことねえぞ」っていうところが最初だとは思うんですが。」
──野口体操的なものからはじめて、「見たことねえぞ」っていうところにいくにはどのように進めていくのですか。
<言霊ならぬ“体霊(タイダマ)って!!>と思うけど、
そのタイダマってものがあるとすれば、息子さん演じる家政夫のナギサさんにも結実しているような気がします。
インストラクションで演じられるものと、演じられないものがある。
息子さんの存在具合は後者では・・・。
それにしても、聞き手の小沼純一先生の物凄さよ。
野口体操に異物を放り込むことの重要性を、そこで止まってちゃダメなんだと、なんかそんな風に読めてしまいます。
──情緒や情念がどっかにあったとして、それと身体がうまく繋がらないといけないですよね。その繋がり方を学ぶメソッドとして野口体操があるのでしょうか。
──野口体操的なものからはじめて、「見たことねえぞ」っていうところにいくにはどのように進めていくのですか。
──情念的、情緒的なものが、麿さんの一番根っこにあると考えていいのですか?
こういう質問ってどうやったらできるん?
インストラクションで教えて欲しいと思わざるを得ませんが、
小沼先生の言霊がインストラクションじゃないから、もう麿さんの答えも相乗効果でハレーション起こして、
とんでもないところに行ってる気がする。
ハルカ星のハルバルの言葉みたいに聞こえる人もいるのではと心配します。
ちなみに上記リンク先にある注の「野口体操」の説明も、小沼先生によるものだろうか?
<体育教師だった野口三千三が、1960年代に体操による人間改革を目指して創始した実技。「生きている人間のからだは、皮膚という生きた袋の中に、液体的なものがいっぱい入っていて、その中に骨も内臓も浮かんでいる」という独自の人間観に基づいて提唱された「野口体操」は、体操界では異端視されたが、演劇、美術、音楽など芸術の世界に多大な影響を与えた。>
とっても簡潔。これくらいでいいのね。。。いや、これくらい「が」、いいのだ。