聖心でのESD学習会私的メモ。
冒頭、ESDをあなたがひとことでいうなら?という問いかけに、
私だったら、transformation かな・・・と考えていた。
そして最後に出された4象限の図。内容というよりも、なんでこの図が今までなかったんだろう、今まで見たことがなかったんだろう、とこの図の不在期間の長さに衝撃。(おとな主導・子ども主体という表現は、私だったら教師主導・学習者主体、と書き換えるかなとおもったけど。)思い浮かんだ事例は釜ヶ崎芸術大学。あそこで生まれている数々の詩も、学ぶことの喜び、“自分が変わる”ことへの肯定と尊厳、自己と共同体の、予定調和的でない、無意識を活用した変容に満ち満ちている。義務教育でもなんでもない、あの場に参加すること自体が、主体的でないと成り立たない学び。
そして、transformative, socio constructive との表現に、えっ 私、“社会構築”論系という専攻で授業(非常勤です)持ってるじゃん、と。変容論系、といいかえてもよいのか…。ならば学生は、トランスフォーマー、私たちはトランスフォーマーを育てようとしているんだね、と。
最近、アレン・ネルソンさんの本『ネルソンさん、あなたは人を殺しましたか?』を読み(うっかり満員電車の中で読み案の定大変なことになった)、変容そのものの権化みたいなひとだ、と思った。暴力と貧困が当然という環境に育ち、暴力と貧困のまっただなかに生き、変容を遂げたひと。(食べられる、という理由で軍隊に行くのは、釜ヶ崎のおっちゃんが、食べられる、という理由で自衛隊に行ったという詩に重なる。)そして、変容を遂げている、にもかかわらず、同時に、最後まで暴力が自身のなかに残っていることに苦しみ続けたひと。もしどうしても道徳が教科化されねばならない、というなら、アレンさんの本こそ教科書にしてほしいが、おそらくそれは日本という国家が一回全てをリセットしないと無理な話だろうとも思う(そもそもアレンさんの本を採用しようという人は教科化することをよしとしない)。ガンジーやキングのことを考えながら読み進めたが、あとがきでアレンさんが、沖縄のガンジーこと阿波根昌鴻に出会い、「ガンジーやキングには会えなかったが、あなたに出会えた」と喜んだというのでちょっと可笑しくなった。だって私にとっては、ガンジーやキングにも会えなかったし、アレンさんにも会えなかったよ、という本だったからだ。
でも、もうガンジーやキングや、アレンさんの類いのひとを生み出してはいけない。そこまで人間性と大地が冒涜され、陵辱されつづけないと、awarenessも、transformationも、ヒーローも生まれないなんて、かなしい。
***
残念なのは、ガンジーやキングの名前は、日本人の多くは知っているけれど、それがESDの課題である、「血肉となっていない」こと。知っているか知らないか、ということも、大事かもしれないけど、血肉となるかならないか、が大事で、ガンジーやキングという知識が、トランスフォームの場ではなく、トランスミッションの場で伝えられた時点で、死んだ知識になってしまうということ。
英語という教科の枠内で出会っているため、内容が疎外されてしまうこと。単語に気をとられ、構文に気をとられ、メッセージが薄味になる。今も、アメリカはもちろん、アメリカ内外で多くの緊張がある。にもかかわらず、転職仲介の会社が、I have a dream とキングの署名を広告に利用して電車の中に貼っているのをみると、これまたげんなりしてしまう。
血肉となる、というのは、たとえばアレンさんの本に出てくる、ベトナム戦争時、ベトコンが撒いていたという英語のチラシや、アレンさんにベトナム兵が死の間際に語りかけたという英語だろう。「なぜ、あなたたちはわたしの国にいて、わたしたちを殺しているのですか? わたしたちは自由のために戦っています。あなたたち黒人も自分の国では自由すらないではありませんか」
生きた英語、生き続ける英語、アレンさんのなかで生き続けたこのベトナム人の英語は、こうして幾重にも広がり、生き続けていく。その人はおそらくベトナム語で考えたのだろう。それが英語になり、またあらたに日本語になる。トランスレイターは大事なのだ。
トランスフォーマーの今期最後の授業でアレンさんのことを紹介したところ、沖縄出身の学生のコメントがあった。僕は沖縄に住んでいたのでアレンさんのことは聴いたことがあった。でも、亡くなったことは知らなかった。大変残念に思います。本を改めて読んでみたいと思います。
うれしいけど、なんで、沖縄出身の学生しか、アレンさんのことを知らない社会なんだろう。私も含めて、すべて人ごとなんだ。
あるいは、授業外でこの本を学生に薦めたところ、本なんかしばらく読んだことない、といっていて、普段メールで連絡しても一度も返信したことのない学生が、突然メールしてきて、この本について話したくて仕方がない、と。そんな社会にあっても、だからこそ、トランスフォーマーを育てる喜びというのは、ある。
***
私は高校時代、授業でキングのスピーチを聴き、本当にスピーチがかっこいいな、と思ってしまい、その後U2の音楽に出会ったりして、キングのことは英語で習った、という気持ちはあんまりなく、きっかけを作ってくれたという点で英語の時間に感謝するが、それは高校時代の英語の先生が教科書を使わずに、副読本としてキングのスピーチを採用したからで、教科書通りにやっていたら出会えなかっただろう。確かにスピーチは英語のレベルとしてはすごく難しかった。けど、学習者を冒涜しない、よい先生だったのだ。
こういうことになるなら、だったら英語なんて教科解体したらどうなの、と思う。英語スキルのトレーニングの時間と、キング牧師のことを学ぶのはきっぱり分ければよい。だって明らかに、キング牧師のことを知ることって、英語を学ぶこととは別の次元の問題を、単にツールとしての英語で扱いたいってことだから、英語のついでにキング牧師について知ろう、という順番はおかどちがい?おかしいのでは。キング牧師について調べたら、英語が必要になりました、が本来の順番では? アレンさんがいうように、アメリカの教室にキング牧師の絵が飾ってあるというのなら、それは英語の勉強のためじゃないわけで。
スキルトレーニングのインストラクターは、人間でもいいけど、もうDS?とか、パソコンでも構わないような気がする。生きた英語を!という一派から大反対がくるだろうけど、生きた英語!が学校教育に入れようにも、場そのものが、時間が止まったような、風通しも悪い場では、生命が奪われちゃう。その結果が今の日本の英語教育なんじゃないのかな。
平和や暴力、貧困、差別、などなどについては、社会や理科や体育や美術や音楽や家庭科や養護の先生がこぞって、あるいは倫理や哲学や演劇の先生が協力して、人間が、ことば(日本語も英語も方言もそのほかの外国語も使いながら)とからだを用いて、教えることが大事。
あと、今更驚くことではないのだけど、ESDの学習会では、言語系の先生も少数ながらいるのに、言語の話はほとんど出ない。21世紀型スキルとか眺めてみても、言語って基礎的リテラシーでひとことで片付けられていて、そんな、基礎で済むことなのかな?言語って。その基礎的なリテラシーのひとつひとつが、広大な宇宙なんだ、ことばの問題は5次元時空に存在しているというならそれも納得するけど、そのあたりがよく見えない。対話とか共創、あるいは本当に「聴く」ってこと、基礎で片付けていいのかな。大きな声しか聴けてないポイズンな世の中なわけでしょう。対話なんて、多田先生とかめちゃくちゃ簡単そうにやってるけど、あれを実践しろといわれたら、やっぱり凡人には相当ハードル高い。思考や疑問を持つことをないがしろにして、場をつなぐためだけのおしゃべりを対話だのコミュニケーションだのと捉えているひとが大多数である限り、日本は戦争に参加するしないに関わらず滅びるよね?広田先生?
と思っていたら、翌日の国際フォーラムで「聴く」とか「ケア」、自分の声を受け止める、というようなことも触れられていてほんの少しほっとする。自分の声を受け止められないと、他者の声もきっと受け止められない。
気候変動とESD、二本立てではなく一体化していこうという話は、言語にもいえるのであって。危機言語を指定したユネスコだからこそ、危機言語/少数言語という課題と、開発という課題と、ESDを貫く言語教育を提示していかないといけないんじゃないの。それを抜きに市民性とかもありえない。言語教育を、あの第四象限へと動かす。言語教育・市民性教育・ESDの一体化。宿題。
冒頭、ESDをあなたがひとことでいうなら?という問いかけに、
私だったら、transformation かな・・・と考えていた。
そして最後に出された4象限の図。内容というよりも、なんでこの図が今までなかったんだろう、今まで見たことがなかったんだろう、とこの図の不在期間の長さに衝撃。(おとな主導・子ども主体という表現は、私だったら教師主導・学習者主体、と書き換えるかなとおもったけど。)思い浮かんだ事例は釜ヶ崎芸術大学。あそこで生まれている数々の詩も、学ぶことの喜び、“自分が変わる”ことへの肯定と尊厳、自己と共同体の、予定調和的でない、無意識を活用した変容に満ち満ちている。義務教育でもなんでもない、あの場に参加すること自体が、主体的でないと成り立たない学び。
そして、transformative, socio constructive との表現に、えっ 私、“社会構築”論系という専攻で授業(非常勤です)持ってるじゃん、と。変容論系、といいかえてもよいのか…。ならば学生は、トランスフォーマー、私たちはトランスフォーマーを育てようとしているんだね、と。
最近、アレン・ネルソンさんの本『ネルソンさん、あなたは人を殺しましたか?』を読み(うっかり満員電車の中で読み案の定大変なことになった)、変容そのものの権化みたいなひとだ、と思った。暴力と貧困が当然という環境に育ち、暴力と貧困のまっただなかに生き、変容を遂げたひと。(食べられる、という理由で軍隊に行くのは、釜ヶ崎のおっちゃんが、食べられる、という理由で自衛隊に行ったという詩に重なる。)そして、変容を遂げている、にもかかわらず、同時に、最後まで暴力が自身のなかに残っていることに苦しみ続けたひと。もしどうしても道徳が教科化されねばならない、というなら、アレンさんの本こそ教科書にしてほしいが、おそらくそれは日本という国家が一回全てをリセットしないと無理な話だろうとも思う(そもそもアレンさんの本を採用しようという人は教科化することをよしとしない)。ガンジーやキングのことを考えながら読み進めたが、あとがきでアレンさんが、沖縄のガンジーこと阿波根昌鴻に出会い、「ガンジーやキングには会えなかったが、あなたに出会えた」と喜んだというのでちょっと可笑しくなった。だって私にとっては、ガンジーやキングにも会えなかったし、アレンさんにも会えなかったよ、という本だったからだ。
でも、もうガンジーやキングや、アレンさんの類いのひとを生み出してはいけない。そこまで人間性と大地が冒涜され、陵辱されつづけないと、awarenessも、transformationも、ヒーローも生まれないなんて、かなしい。
***
残念なのは、ガンジーやキングの名前は、日本人の多くは知っているけれど、それがESDの課題である、「血肉となっていない」こと。知っているか知らないか、ということも、大事かもしれないけど、血肉となるかならないか、が大事で、ガンジーやキングという知識が、トランスフォームの場ではなく、トランスミッションの場で伝えられた時点で、死んだ知識になってしまうということ。
英語という教科の枠内で出会っているため、内容が疎外されてしまうこと。単語に気をとられ、構文に気をとられ、メッセージが薄味になる。今も、アメリカはもちろん、アメリカ内外で多くの緊張がある。にもかかわらず、転職仲介の会社が、I have a dream とキングの署名を広告に利用して電車の中に貼っているのをみると、これまたげんなりしてしまう。
血肉となる、というのは、たとえばアレンさんの本に出てくる、ベトナム戦争時、ベトコンが撒いていたという英語のチラシや、アレンさんにベトナム兵が死の間際に語りかけたという英語だろう。「なぜ、あなたたちはわたしの国にいて、わたしたちを殺しているのですか? わたしたちは自由のために戦っています。あなたたち黒人も自分の国では自由すらないではありませんか」
生きた英語、生き続ける英語、アレンさんのなかで生き続けたこのベトナム人の英語は、こうして幾重にも広がり、生き続けていく。その人はおそらくベトナム語で考えたのだろう。それが英語になり、またあらたに日本語になる。トランスレイターは大事なのだ。
トランスフォーマーの今期最後の授業でアレンさんのことを紹介したところ、沖縄出身の学生のコメントがあった。僕は沖縄に住んでいたのでアレンさんのことは聴いたことがあった。でも、亡くなったことは知らなかった。大変残念に思います。本を改めて読んでみたいと思います。
うれしいけど、なんで、沖縄出身の学生しか、アレンさんのことを知らない社会なんだろう。私も含めて、すべて人ごとなんだ。
あるいは、授業外でこの本を学生に薦めたところ、本なんかしばらく読んだことない、といっていて、普段メールで連絡しても一度も返信したことのない学生が、突然メールしてきて、この本について話したくて仕方がない、と。そんな社会にあっても、だからこそ、トランスフォーマーを育てる喜びというのは、ある。
***
私は高校時代、授業でキングのスピーチを聴き、本当にスピーチがかっこいいな、と思ってしまい、その後U2の音楽に出会ったりして、キングのことは英語で習った、という気持ちはあんまりなく、きっかけを作ってくれたという点で英語の時間に感謝するが、それは高校時代の英語の先生が教科書を使わずに、副読本としてキングのスピーチを採用したからで、教科書通りにやっていたら出会えなかっただろう。確かにスピーチは英語のレベルとしてはすごく難しかった。けど、学習者を冒涜しない、よい先生だったのだ。
こういうことになるなら、だったら英語なんて教科解体したらどうなの、と思う。英語スキルのトレーニングの時間と、キング牧師のことを学ぶのはきっぱり分ければよい。だって明らかに、キング牧師のことを知ることって、英語を学ぶこととは別の次元の問題を、単にツールとしての英語で扱いたいってことだから、英語のついでにキング牧師について知ろう、という順番はおかどちがい?おかしいのでは。キング牧師について調べたら、英語が必要になりました、が本来の順番では? アレンさんがいうように、アメリカの教室にキング牧師の絵が飾ってあるというのなら、それは英語の勉強のためじゃないわけで。
スキルトレーニングのインストラクターは、人間でもいいけど、もうDS?とか、パソコンでも構わないような気がする。生きた英語を!という一派から大反対がくるだろうけど、生きた英語!が学校教育に入れようにも、場そのものが、時間が止まったような、風通しも悪い場では、生命が奪われちゃう。その結果が今の日本の英語教育なんじゃないのかな。
平和や暴力、貧困、差別、などなどについては、社会や理科や体育や美術や音楽や家庭科や養護の先生がこぞって、あるいは倫理や哲学や演劇の先生が協力して、人間が、ことば(日本語も英語も方言もそのほかの外国語も使いながら)とからだを用いて、教えることが大事。
あと、今更驚くことではないのだけど、ESDの学習会では、言語系の先生も少数ながらいるのに、言語の話はほとんど出ない。21世紀型スキルとか眺めてみても、言語って基礎的リテラシーでひとことで片付けられていて、そんな、基礎で済むことなのかな?言語って。その基礎的なリテラシーのひとつひとつが、広大な宇宙なんだ、ことばの問題は5次元時空に存在しているというならそれも納得するけど、そのあたりがよく見えない。対話とか共創、あるいは本当に「聴く」ってこと、基礎で片付けていいのかな。大きな声しか聴けてないポイズンな世の中なわけでしょう。対話なんて、多田先生とかめちゃくちゃ簡単そうにやってるけど、あれを実践しろといわれたら、やっぱり凡人には相当ハードル高い。思考や疑問を持つことをないがしろにして、場をつなぐためだけのおしゃべりを対話だのコミュニケーションだのと捉えているひとが大多数である限り、日本は戦争に参加するしないに関わらず滅びるよね?広田先生?
と思っていたら、翌日の国際フォーラムで「聴く」とか「ケア」、自分の声を受け止める、というようなことも触れられていてほんの少しほっとする。自分の声を受け止められないと、他者の声もきっと受け止められない。
気候変動とESD、二本立てではなく一体化していこうという話は、言語にもいえるのであって。危機言語を指定したユネスコだからこそ、危機言語/少数言語という課題と、開発という課題と、ESDを貫く言語教育を提示していかないといけないんじゃないの。それを抜きに市民性とかもありえない。言語教育を、あの第四象限へと動かす。言語教育・市民性教育・ESDの一体化。宿題。