アラスカ先住民のクリンギット族のストーリーテラーで、来日中のボブ・サムさんが、ゲストとして出身ゼミにやってくるとうかがい、ゼミにお邪魔しました。
ボブさんのお名前を初めて聞いたのが佐島だったのですが、翌日、佐島からの帰り道、電車内で偶然、鎌田東二先生の本『神道とは何か』を読んでいるとボブさんのお名前を発見(←スピリチュ・あるある)、その後、谷川俊太郎さんと本を出されたりしているのを知り、お会いするのがますます楽しみでした。
そして、もうひとつの楽しみは、チベット医の小川さん。以前当ブログでも紹介した“日本でただひとりのチベット医”が、ボブさんの友人である…ナチュラル・メディスンつながり?、とかで、この会が実現した(・・・のかな?)。あのドライブ感あふれるチベット留学本の著者、小川さんとお会いするのも、だいぶ前から楽しみにしておりました。・・と(小川さんとボブさんがいらっしゃらないときに)話したら、先生に、私たちに会うのは、・・・?といわれてしまいましたが。(相変わらず誤解を招きやすいタチです。。。)
ボブさんは、、、やはり存在の次元がすこし、というか、かなりの度合いで、違います。甲野善紀先生のときの雰囲気とはまたちょっと別なのですが、私たちとは“まったく違うやりかた”でそこにいる。。。不思議な、不思議な、存在感。逆に「存在感」というのは、こういうことなのか、と。ただ威張り散らしたり、ただ威勢のいいことをいうような、「存在感」の示し方は至るところでよく見聞きするけど、本物の存在感っていうのは、まるで、まるで別ものです。何もしていなくても、何も話さなくても、ただそこにいるだけ。それだけで、場の全体の密度が満ち足りて、濃くなってゆく。そこにいるだけで、なにかが包まれるような全体感が生じてしまう。
たぶん、ご先祖、それは、じいさんばあさん、ということだけではない、顔も知らない、名前も知らない、わりと長いスパンの祖先までも含めて、死者たちと共にある・・・“共在”しているからこそ、かもせる存在感なんだろう。ふつう、ひとは自分の身体が自分の所有物のように感じながら、他者から自己の境目を区別して生きているんだけれど、ずっと墓地・聖地の管理を行ってきたというボブさんは、たとえ「ひとりでいても」、ひとりではない、んでしょう。(文脈は違うけれど、岩川直樹先生が言う「居ないけど居る」という状態。)その存在感は、あえていえば、生きるトーテムポール状態とでも申せましょうか。(茶化しているわけではないんです、ほんとに)
聖地を守り続けてきたこと、3年間人間と「何も」話さなかったこと、精霊たちと対話をつづけてきたこと・・・そうした時間の堆積がなければ、絶対にうまれようもない、<ふりつもる時間>としての生命として存在する。そんなありようを、静かに、体現しています。
会は、チベット医の小川さんのおだやかな進行ですすみ、ボブさんがゆっくり、ゆっくり語る、ひとことひとことに、みんなが聴き入り、没入し・・・まるで時間の流れというものがどこかに置き忘れられたようなひととき。アラスカへのショートトリップです。
今回は、神話のストーリーテリングはなかったのですが、ボブさんの存在そのものが既に「語り」なのです。そして、ボブさんが創りだした手作りのナイフやスプーンを題材に、ゆっくりと、その意味を、語っていただきました。
ボブさんの木のスプーンは、(奥様の作品だったのかな?)実際に触ってびっくりです。産毛が生えているかのような、かすかな毛羽立ち感があるのです。輪郭がないというのか。それでいてつるつる、なめらかで、たとえるならスエードのよう。もは~ん・・・として、あったかいのです。
ボブさんのナイフ。自然界には直線はない、という発想で、きもちのいい曲線で創られたナイフの柄は、全然筋肉を使う必要がなく、長時間使っていてもまったく疲れないのだそうです。刃自体は、日本製のものを気に入って使っているそうです。その刃は、ナイフをたとえばテーブルに置いたとしても、テーブルに触れることかないように、柄が“バランスよく曲がって”います。
木を削る作業が、身体的ななにか、慰めのようなものと、深く結びついているようです。(Comfortableを連発。No muscle at allとも。それを聴いて・・・あたしゃ中学の彫刻刀の授業からほんとやり直したいよ、と。はっきりいって苦痛でしかなかったもん。あれ、木との対話時間はゼロでした…どっちかっていうと、、、拷問系?)
使っているのはイチイの木だそうです。イチイは日本の神社仏閣にもよく使われているとボブさん。イチイ、そういえば『日出づる処の天子』にも出てきて、どんな木なんだろとずっと気になってたんですが・・・(←ずっと、ってあれ読んだの高校生のときだから、、、いくらなんでも時間かけ過ぎ!)でも、シャーマン厩戸とここでつながるなんて~。。。
ボブさんは、通算でいったら、ほとんど黙っている時間の方が長い?!というくらいの、ゆったりとした口調でお話されます。
私がこれまで、口調がゆっくりだなあ・・・と感じた人ランキング1位は、ダントツで屋久杉工芸で今や押しも押されぬ職人さんとなったJくんですが、そのJくんをもってしても、ボブさんには、ちょっとかなわないでしょうね(2012年現在)。こういう人たちじゃないと、木との対話なんてできないのかな(二人の対談も希望)。
ちなみにJくんは、同じ日にモンゴルに留学したんですが、留学先のモンゴルにまで砥石を、それも何種類も日本から持ってきていました。砥石。。。日本から。わざわざ? で、どうしてそんな話になったのかまるで思いだせないのだけれど、ある日その砥石で、包丁研ぎを体験させてもらうことになったのです。「私、こういうのまったくセンスないから!」といいながらぎこちなく研いでいたら、意外にも仕上がりを褒めていただいて(そのときのJくんの「お?」という表情、まだ覚えています、、、「全くキミには期待してないから」という前提がハッキリ!と表情に出ていたので・・・まあそれもそのはずで、だってどっからどうみてもその手のセンスがないんですから、ほんとうに。)、それはけっこういい思い出です。そういう、生まれたときから、木と友達だったり、土と友達だったりみたいなひとって、本当にうらやましいな、と思う。
ボブさんは、道具は生きているし、そして同時に自分の身体の一部と考えていて、それをすごく強調されていた。もし道具がそういう存在なら、留学先に砥石を持っていくのって、ごく当たり前の感覚なのかもしれない。そういえば、甲野先生も打ち上げで“本当にいい砥石”の話をされていた・・・。モンゴルにも、砥石をめぐる慣習とか民話とか、けっこうあったような?)
話が脱線しましたが、私たちは、ふだん、短い時間に、なにか、できるだけ意味のあることをいおうとして、どれだけ詰め込めるか、というペースで話している。(当ブログなども、そのさいたるもので、もはや末期症状的うわすべり文体で、我ながらいつまでこの調子でやるんだ、という気持ちがないではないのだが)とにかくことばを矢継ぎ早に放ちさえすればいい、と無意識のうちに植え付けられているような気さえする。
沈黙を恐れ過ぎなのだ。
ボブさんの沈黙にこめられた、奥行きを見よ。
ヒトの話し方のペースが均質であることは、ちょっとおかしいことなのではないか?とも改めて思った。スピード、ペース、間のとりかた。本当は、もっといろいろでいいはずなのに。
・・・もっとゆっくり話したいけど・・・それができないんだよね、と小川さんと苦笑い。
急に明日から私がボブさんをまねて話したら、それこそドラえもんの「スロー・スロー・クイック・クイック」でも服用したと思われかねないし。F先生はやっぱり深いな~(←とか書いてしまうところが浅いっていう)
スローライフ、スローフード、スローリビング、スロートレーニング、スローリーディング・・・スローの名のつくものはたくさんあって、これからはそっちが必要だ、という話はたくさんあるけれど、スロートーク?というのは、あえて、聞かない気がする。スロートークは同時に、スローリスニング。
StorytellingはSlowly telling。
ボブさんは若くして神話の語り手として長老達から指名されたという。
長老達のセンス。
ボブさんは、まったく違う次元で、存在というそのものの次元から、語る。どこからか、それは先祖の魂なのか、木の魂なのか、あるいはその両方なのか、わからないけれど、沈黙の間に、そこまでたどりついて、アクセスし、コネクトし、そこからことばを大事に大事に、両手でつつみこんで、そっとこぼれないように、運んでくるから、私たちの耳に届くまで、それはそれは、時間がかかるのだ。
ボブさんにとって、ことばとははじめから、そういうものなんだろう。
また、ボブさんは、いくつかの祈りの歌、チャントの一節を聞かせてくださいました。
それもまた、ボリュームはわずかなのですが、大地との共鳴が目的というような、世界で一番やさしい地鳴りのような、地響きのような。
どこか、古代の祝詞などを思わせるものもありました。
豊かな内容とともに、内容以上に豊かな、まったく違うメッセージを、身体そのもので発すること。倍音成分が高い、存在の仕方。
とはいえ、ご自分ではモダンワールドの住人です、といいながら、16階の窓から夕日をデジカメで撮ったりしてらっしゃいました。カレー屋さんで食事をし、アラスカでの再会を期して(マジかよ!)お別れしたのでした。
ボブさんのお名前を初めて聞いたのが佐島だったのですが、翌日、佐島からの帰り道、電車内で偶然、鎌田東二先生の本『神道とは何か』を読んでいるとボブさんのお名前を発見(←スピリチュ・あるある)、その後、谷川俊太郎さんと本を出されたりしているのを知り、お会いするのがますます楽しみでした。
そして、もうひとつの楽しみは、チベット医の小川さん。以前当ブログでも紹介した“日本でただひとりのチベット医”が、ボブさんの友人である…ナチュラル・メディスンつながり?、とかで、この会が実現した(・・・のかな?)。あのドライブ感あふれるチベット留学本の著者、小川さんとお会いするのも、だいぶ前から楽しみにしておりました。・・と(小川さんとボブさんがいらっしゃらないときに)話したら、先生に、私たちに会うのは、・・・?といわれてしまいましたが。(相変わらず誤解を招きやすいタチです。。。)
ボブさんは、、、やはり存在の次元がすこし、というか、かなりの度合いで、違います。甲野善紀先生のときの雰囲気とはまたちょっと別なのですが、私たちとは“まったく違うやりかた”でそこにいる。。。不思議な、不思議な、存在感。逆に「存在感」というのは、こういうことなのか、と。ただ威張り散らしたり、ただ威勢のいいことをいうような、「存在感」の示し方は至るところでよく見聞きするけど、本物の存在感っていうのは、まるで、まるで別ものです。何もしていなくても、何も話さなくても、ただそこにいるだけ。それだけで、場の全体の密度が満ち足りて、濃くなってゆく。そこにいるだけで、なにかが包まれるような全体感が生じてしまう。
たぶん、ご先祖、それは、じいさんばあさん、ということだけではない、顔も知らない、名前も知らない、わりと長いスパンの祖先までも含めて、死者たちと共にある・・・“共在”しているからこそ、かもせる存在感なんだろう。ふつう、ひとは自分の身体が自分の所有物のように感じながら、他者から自己の境目を区別して生きているんだけれど、ずっと墓地・聖地の管理を行ってきたというボブさんは、たとえ「ひとりでいても」、ひとりではない、んでしょう。(文脈は違うけれど、岩川直樹先生が言う「居ないけど居る」という状態。)その存在感は、あえていえば、生きるトーテムポール状態とでも申せましょうか。(茶化しているわけではないんです、ほんとに)
聖地を守り続けてきたこと、3年間人間と「何も」話さなかったこと、精霊たちと対話をつづけてきたこと・・・そうした時間の堆積がなければ、絶対にうまれようもない、<ふりつもる時間>としての生命として存在する。そんなありようを、静かに、体現しています。
会は、チベット医の小川さんのおだやかな進行ですすみ、ボブさんがゆっくり、ゆっくり語る、ひとことひとことに、みんなが聴き入り、没入し・・・まるで時間の流れというものがどこかに置き忘れられたようなひととき。アラスカへのショートトリップです。
今回は、神話のストーリーテリングはなかったのですが、ボブさんの存在そのものが既に「語り」なのです。そして、ボブさんが創りだした手作りのナイフやスプーンを題材に、ゆっくりと、その意味を、語っていただきました。
ボブさんの木のスプーンは、(奥様の作品だったのかな?)実際に触ってびっくりです。産毛が生えているかのような、かすかな毛羽立ち感があるのです。輪郭がないというのか。それでいてつるつる、なめらかで、たとえるならスエードのよう。もは~ん・・・として、あったかいのです。
ボブさんのナイフ。自然界には直線はない、という発想で、きもちのいい曲線で創られたナイフの柄は、全然筋肉を使う必要がなく、長時間使っていてもまったく疲れないのだそうです。刃自体は、日本製のものを気に入って使っているそうです。その刃は、ナイフをたとえばテーブルに置いたとしても、テーブルに触れることかないように、柄が“バランスよく曲がって”います。
木を削る作業が、身体的ななにか、慰めのようなものと、深く結びついているようです。(Comfortableを連発。No muscle at allとも。それを聴いて・・・あたしゃ中学の彫刻刀の授業からほんとやり直したいよ、と。はっきりいって苦痛でしかなかったもん。あれ、木との対話時間はゼロでした…どっちかっていうと、、、拷問系?)
使っているのはイチイの木だそうです。イチイは日本の神社仏閣にもよく使われているとボブさん。イチイ、そういえば『日出づる処の天子』にも出てきて、どんな木なんだろとずっと気になってたんですが・・・(←ずっと、ってあれ読んだの高校生のときだから、、、いくらなんでも時間かけ過ぎ!)でも、シャーマン厩戸とここでつながるなんて~。。。
ボブさんは、通算でいったら、ほとんど黙っている時間の方が長い?!というくらいの、ゆったりとした口調でお話されます。
私がこれまで、口調がゆっくりだなあ・・・と感じた人ランキング1位は、ダントツで屋久杉工芸で今や押しも押されぬ職人さんとなったJくんですが、そのJくんをもってしても、ボブさんには、ちょっとかなわないでしょうね(2012年現在)。こういう人たちじゃないと、木との対話なんてできないのかな(二人の対談も希望)。
ちなみにJくんは、同じ日にモンゴルに留学したんですが、留学先のモンゴルにまで砥石を、それも何種類も日本から持ってきていました。砥石。。。日本から。わざわざ? で、どうしてそんな話になったのかまるで思いだせないのだけれど、ある日その砥石で、包丁研ぎを体験させてもらうことになったのです。「私、こういうのまったくセンスないから!」といいながらぎこちなく研いでいたら、意外にも仕上がりを褒めていただいて(そのときのJくんの「お?」という表情、まだ覚えています、、、「全くキミには期待してないから」という前提がハッキリ!と表情に出ていたので・・・まあそれもそのはずで、だってどっからどうみてもその手のセンスがないんですから、ほんとうに。)、それはけっこういい思い出です。そういう、生まれたときから、木と友達だったり、土と友達だったりみたいなひとって、本当にうらやましいな、と思う。
ボブさんは、道具は生きているし、そして同時に自分の身体の一部と考えていて、それをすごく強調されていた。もし道具がそういう存在なら、留学先に砥石を持っていくのって、ごく当たり前の感覚なのかもしれない。そういえば、甲野先生も打ち上げで“本当にいい砥石”の話をされていた・・・。モンゴルにも、砥石をめぐる慣習とか民話とか、けっこうあったような?)
話が脱線しましたが、私たちは、ふだん、短い時間に、なにか、できるだけ意味のあることをいおうとして、どれだけ詰め込めるか、というペースで話している。(当ブログなども、そのさいたるもので、もはや末期症状的うわすべり文体で、我ながらいつまでこの調子でやるんだ、という気持ちがないではないのだが)とにかくことばを矢継ぎ早に放ちさえすればいい、と無意識のうちに植え付けられているような気さえする。
沈黙を恐れ過ぎなのだ。
ボブさんの沈黙にこめられた、奥行きを見よ。
ヒトの話し方のペースが均質であることは、ちょっとおかしいことなのではないか?とも改めて思った。スピード、ペース、間のとりかた。本当は、もっといろいろでいいはずなのに。
・・・もっとゆっくり話したいけど・・・それができないんだよね、と小川さんと苦笑い。
急に明日から私がボブさんをまねて話したら、それこそドラえもんの「スロー・スロー・クイック・クイック」でも服用したと思われかねないし。F先生はやっぱり深いな~(←とか書いてしまうところが浅いっていう)
スローライフ、スローフード、スローリビング、スロートレーニング、スローリーディング・・・スローの名のつくものはたくさんあって、これからはそっちが必要だ、という話はたくさんあるけれど、スロートーク?というのは、あえて、聞かない気がする。スロートークは同時に、スローリスニング。
StorytellingはSlowly telling。
ボブさんは若くして神話の語り手として長老達から指名されたという。
長老達のセンス。
ボブさんは、まったく違う次元で、存在というそのものの次元から、語る。どこからか、それは先祖の魂なのか、木の魂なのか、あるいはその両方なのか、わからないけれど、沈黙の間に、そこまでたどりついて、アクセスし、コネクトし、そこからことばを大事に大事に、両手でつつみこんで、そっとこぼれないように、運んでくるから、私たちの耳に届くまで、それはそれは、時間がかかるのだ。
ボブさんにとって、ことばとははじめから、そういうものなんだろう。
また、ボブさんは、いくつかの祈りの歌、チャントの一節を聞かせてくださいました。
それもまた、ボリュームはわずかなのですが、大地との共鳴が目的というような、世界で一番やさしい地鳴りのような、地響きのような。
どこか、古代の祝詞などを思わせるものもありました。
豊かな内容とともに、内容以上に豊かな、まったく違うメッセージを、身体そのもので発すること。倍音成分が高い、存在の仕方。
とはいえ、ご自分ではモダンワールドの住人です、といいながら、16階の窓から夕日をデジカメで撮ったりしてらっしゃいました。カレー屋さんで食事をし、アラスカでの再会を期して(マジかよ!)お別れしたのでした。