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待機の日々

画像付き日記のようなもの

七五三掛桜 (しめかけザクラ)

2009-07-03 21:24:17 | 語り継がれない、歴史
娘たちが小学低学年のころ、海水浴の帰り道に立ち寄った・・・・・
あのころ、海水浴も含めよく親子4人でいろんなところへ出向いた、カメラ写真好きのお父さんはこまめに撮影もこなし・・・・・
向こうは、即身仏(簡単に説明すれば、修行僧のミイラ)も安置してある「注連寺」小さかった娘は、怖がっていたな~
作家の森敦が長期滞在し、小説「月山」を書き上げた所でもあるという

現在、ここ鶴岡市七五三掛地区は、春先からの治まらない地滑りが続いており、地元新聞にはほぼ毎日関連記事が・・・・・・





伯母さんへの手紙

2009-05-15 20:08:21 | 語り継がれない、歴史
1月末に脳梗塞で入院の婆さん、
その後の容態経過を何度も手紙で問い合わせ、またこうしたらああしたらと連絡してくる伯母がいる
口封じも兼ね、これまでの経緯、現状、今後、を事細かに書き、病室での画像も同封
病人のこと、あれこれやっているのは私です、それを何も出来ないものが口を出すのは・・・・・・・・
そうゆうことで、同じ病気の母を抱え、口出しする姉と疎遠になった従兄がある・・・・


おくりびと

2009-05-07 22:18:37 | 語り継がれない、歴史
1日から毎日医院は行ってるのだが、日ごとに弱っていく
今日は危ないんじゃないかな~と思いつつ、頭を出した状態でコタツに入れ、職場へ・・・・・
昼時間、家へ戻ってみると・・・・・・・
さいわい定時で上がれた、帰宅後早速・・・・・
去年の桜の落ち葉をクッションのように敷き詰めその上に、大好きだった「ねこ缶」を口元に、飲みたかったであろう水も口に含ませてやった



上にも桜の落ち葉を・・・・



1996年3月生まれ、2009年5月7日昼頃死亡 満13歳 名前は「ミキ」♂
右に小さく、彼の父の墓石




土蔵

2009-04-07 21:40:52 | 語り継がれない、歴史
我が家は、明治から大正期に質屋業を営んでおったそうな
それを裏付けるものが、まだ数多く残っている
大福帳、質屋机、そろばん、いまだある質ぐさ、など等、そしてこの土蔵
それは、曽祖父の時代 村長でもあり、質屋、絹糸の仲買、炭の仲買、生活用品食料品などの小売店もやってたそうな・・・我が家が経済的、社会的にも一番輝いていた時代
その後は、連帯保証人、また娘が次々と結核に斃れ、その間医療費静養費と・・・・・・没落・・・・・
現在我が家は、歴代最低の世帯主である・・・・と、幾度と我が母親から言われたことか
母屋、納屋とも戦後建替え、当時の建物はこの土蔵だけとなった・・・




幼なじみ?

2008-12-15 21:22:47 | 語り継がれない、歴史
夜、スーパーへ買い物へ
小学校の同級生に会った、夫婦で惣菜の買い物中、奥さんこの店は初めてとか、いつも来ている先輩の?爺さんは 「夜8時過ぎると、半額だよ」 といろいろアドバイス・・・
彼とは、1学年33名1組だけの小学校で6年間一緒、中学は1学年50名程で7組あったがクラスが一緒ということはなかった、その後は顔を合わせれば立ち話をちょっとする程度、家は近所といえるほど近くは無かったが、この年になってくれば機会を設けて話したいものだ
お互い、何代も続いた戦前は富農だった家の長男という同じような立場
スーパー内で、こちらの爺さん 「俺、もう孫三人だよ」 [そりゃ~幸せだね~娘、孫よく来てるってね~] 「娘二人、他家に嫁いだんで、我が家も、もうおしまいだよ~良ちゃんは?」 [俺んとこ、まだで、結婚もしてないんだよ~] 彼は確か息子が二人だったよな 「もう何にも楽しいことないし、早く死にたいよな~」 奥さん-[何言ってんの~] 「俺たちの地区だって、30~50年すれば、まあ半分は家無くなるよな~」 [そうだよね~子供の数が少ないし、子供自体が家なんて考えないし、親と同居はいやだって言うし] 「子供10人生むぞ~なんて言ってた娘、二人でもう嫌だって言うしね」 [子供は金かかるし、大変だからな~] 「でも、我が家の存続考えると、まだ死ねないな~」 [そうだよな~それが安泰なら、俺もいつ死んでもいいよな~] 「だから俺もまだ死ねない、100まで生きる、足りないかな200まで」 とお互い奥さん交えての、バカ話


従兄、孤独死

2008-10-27 17:59:28 | 語り継がれない、歴史
朝一番に入った連絡、県北に住まいする父方従兄、65歳の孤独死
私の父は8人兄姉の末っ子、いずれも山形市内での生活であったが、彼の親だけは県北の町に居を構えた、そんなこともあり、家督を継いだ者同士でも付き合いは薄く冠婚葬祭で顔を会わす程度
彼は長く一人暮らしであったが、近くに住まいする娘がよく出入りしてたという、それでも娘が訪ねたときは死後3日であったとか~
我が父が末子ということもあり、家督を継いだ者の中で私が一番年少者、同じ立場の従兄がまだ1人残ってるがアルツハイマーが酷く廃人同様、したがって事実上の生き残りは、私ただ1人となってしまった~

是よりふじ見ゑし

2008-08-24 22:57:27 | 語り継がれない、歴史
明治12年に72日間かけて、総勢14人が神社仏閣を訪ね歩いたという記録
14人中大半が我が地区の住人、その記録を曾孫がこのような形にしたもので、
行程は 山形~新潟~長野~京都~大阪~琴平~岡山~大阪~奈良~伊勢~東京~日光~山形 時期は農閑期の12月~2月、もちろん徒歩旅行
このグループとは別に、私の曽祖父も、明治の同じような年代に出向き、琴平には寄進の記録も残ってるそうな、行って確認したいものだ
土蔵を探したが、道中記録は無かった、他の誰やらが記録してるやも知れないのだが~


父の復員

2008-08-15 13:40:02 | 語り継がれない、歴史
終戦は、今のインドネシアであったそうだ
その後、イギリス軍の管理下に・・・そしてシンガポール沖のレンバン島収容所へ
レンバン島収容所・・・・椰子の木で作ったという杖を持ち帰った、長さ約100cm イニシャルのZ.Yとレンバン島と、小刀彫り
復員船で舞鶴上陸、すでにアメリカ兵などおり、ステッキで頭をコツンされたそうだ、列車で山形へ 山形駅では 「ご苦労様」 と、おにぎりをいただいたとか、家へは道ではなく田んぼのあぜ道を戻った・・・ 「軽巡洋艦水兵のオヤジ、恥ずかしいという気持ちがあったと、話したことがあった・・・」

私の母親の兄姉
長女は1子を残し20代で、次女19歳未婚、三女19歳未婚、いずれも戦前に結核で死亡、四女山形市内に嫁ぎ、五女、六女、七女は関東圏に嫁ぎ、八女と長男は満州で所帯を持っていた
戦後、満州引揚げの八女家族は北海道に落ち着き、同じく引揚者の長男は満州飛行機で培った技術を生かしたいと、現日本航空に職を得東京へ
そこで10人兄姉末っ子で未婚の九女に、家督を継げと、同じ地区内で身内であるインドネシア引揚のあの人との話が持ち上がった (かの人も10人兄姉末っ子の七男) 引揚げ後、することもなくブラブラしてた
入り婿養子とし・・・・・・オヤジも婿養子との立場で苦労したようだ・・・・
あれから・・・・・・・・・・・・・・・・





Kさんの奥さん

2008-08-14 22:42:31 | 語り継がれない、歴史
昨日13日早朝、母とお墓参りに出向いた、暑いのと込み合うのを避けていつも、こんな時間
一足遅れで、ご近所のKさん夫妻も・・・kさんの奥さんは東京生まれ育ち、私の母の従姉の長女で、この辺に近親者はおらず、私の母が一番近い血族という関係になる、そんなことから常々、夫妻とも私なんぞにも気軽に声をかけてくれて、長話もたびたび
このKさん宅は、戦後の農地解放で没落した典型的な家、どこの家にも栄枯盛衰はある、我が家も現在最悪もう風前の灯・・・・
墓所の前で、Kさん夫妻と私の母親が60数年前のことを懐かしそうに話してる、Kさん 「お宅の土蔵では、楽しかったな~」

戦時中、我が家には6家族が生活してたそうな (当然、私は生まれておらず)
母屋には、(一家族目、九女である私の母(未婚)と 両親)、(二家族目、東京の五女と子供五人)、(三家族目、同じく東京の臨月六女と子供二人)、納屋には、(四家族目、茨城の七女と子供二人)、(五家族目、家破産後、仲人である私の祖母を頼り転がり込んだ、一家五人)、そして土蔵には、(六家族目、母の東京に住まいする従姉と娘五人)
母屋、納屋、土蔵に、家主家族、疎開四家族、破産家族の合計26人が生活してたことになる
土蔵で暮らしてた長女に、Kさんは・・・・
両親の反対、本人も気乗りせずのようだったが、Kさんは頑として諦めず・・・・
慣れない田舎暮らし、結婚後幾度も実家に戻ったそうな・・・・

Kさんは、我が家の土蔵に通いつめてた頃を、眼を細め笑顔で母と話しておった・・・
Kさんの奥さんにとって、私の母は一番近い血族、そんなんで私とも立ち長話もしばしば・・・・
身内、妹たちは関東圏、遠い山形に一人、別の人生があったのでは? 私なんぞに、ぼやく事も・・・・