『X-MEN:ファースト・ジェネレーション』のマシュー・ヴォーン監督作品。
キャスト:アーロン・ジョンソン、クロエ・グレース・モレッツ、ニコラス・ケイジ
ストーリー:コミックばかり読んでいるオタクのデイブはヒーローに憧れる余り通販で買ったヒーローコスチュームに身を包み、街で自警活動を始める。デイブは死にそうになりながらも活動を続けるが、ついに死を目前にした時、「本物」のヒーロー、ヒットガールが現れる。
2010年に観賞した新作映画でベストに選んだ一本。
今まで筆を取らなかったのが若干不思議ではありますし、世で既に「面白い!」と評価を下されている本作を改めて紹介するのも妙な気分です。
初見から一年経っていますが、まだ観てない人には是非叫びたい。「いいから観ろよ!!」。
【キック・アスの世界と正義】
この映画では正義のヒーローという存在がフィーチャーされる。正義のヒーローが必要な世界はどういう世界だろうか?それは地続きの我々の世界である。街で暴力が振るわれていても大人は見てみないフリ。警官はマフィアと癒着し犯罪が野放しになっているだけでは飽き足らず、職務を全うする警官を牢屋にブチ込む始末。主人公のデイブも街でチンピラからカツアゲを喰らう。こんな世の中でいいのか?デイブは思う。なんでヒーローはいないんだ?ただ単にコスプレして悪を懲らしめるだけじゃん。
デイブは内に衝動を抱えている。彼はエネルギーを持て余しているがその捌け口はオナニーだ。家ではパソコンでエロ動画を漁り、学校では女教師の胸の谷間に妄想と股間を膨らませる。しかし、デイブは正義のコスチュームに身を包み自警活動を行うようになると女教師への興味を失う。デイブにとって自警活動はセックスと同じ。リビドーを発散させる行為として描かれる。
正義のない世界でデイブは衝動を振り回すが、その衝動の倫理は彼が最も活躍するシーンで語られる。まずデイブが扮するヒーロー「キック・アス」が最初に世間で知られるようになるくだり。リンチを止めに入るキック・アス。悪漢がキック・アスに問いかける。「お前、正気か?こんな見ず知らずのクズのために死ぬつもりかよ?」この論理が我々の世界の中心にある。自分にメリットのない行動を我々は取らないのだ。キック・アスは答える「3人がかりで1人をボコボコにしてる。それで他の人たちは見て見ぬフリ?それで俺が正気かって!?ふざけんな!!」彼の行動はメリットやデメリットを考えない。コミックに描かれた裏表のない正義なのだ。

重要な台詞はもう一つある。最後の戦いに向かう時の台詞「力あるものには責任が伴う。それでは無力な者は何もしなくていいのか?」。この台詞は2002年に公開された映画『スパイダーマン』のテーマに対する批判だ。『スパイダーマン』では「大いなる力には大いなる責任が伴う」と語った。それはひょっとするとそうなのかもしれない。けれどもその結果がこの『キック・アス』の世界なのだ。強い者なんていない。だから不正に対して誰も声を上げない。『キック・アス』はそうした「自分には何も出来ないから」と言って不正を見逃す我々に、血塗れになりながら背中を見せつける。金も能力もない凡人も勇気「だけ」でヒーローになれるのだと。
【ヒーローは飛べる!】
映画(というか物語)には王道の筋というものがあり、この映画はベタにその内の一つを踏襲している。それは「自己実現」というもの。成りたい自分がいる。でも現実にはそこには遠い自分がいる。それを乗り越えていく葛藤と努力の黄金律がこの映画にはある。
それを表象しているエピソードが「空を飛ぶ」という表現。映画の始まりはヒーローにコスプレしたバカがビルの屋上から飛び降りて死ぬ。というもの。ここで「ヒーローなんていない。ヒーローなんてのは絵空事だ」と映画は主張する。そしてキック・アスがヒーローとして訓練する時、建物から建物へ飛び移ろうとするも、出来ない。彼はヒーローではないから。彼はその後ヒットガールと出会う。ヒットガールは易々と建物から建物へ飛び、デイブへ語りかける。「こっちに来なよ!」。

キック・アスは、、またも飛べない。本物のヒーローを直接目にし、仲間として誘われた。憧れの世界への切符を手にした。それでも彼はその機会を目の前で棒に振ってしまう。俺はもうダメだ、、自分の部屋でうな垂れるデイブ。もう気分はドン底。自分は何も出来ない。頭も悪いし、スポーツも出来ない、下らないただのオタクだ。
しかし、そこから始まるクライマックスに連なる流れに巻き込まれるキック・アス。死にそうになり、ヒットガールのピンチを救った彼は映画のラスト、傷ついたヒットガールを抱えて、空を飛んでいく。ビルとビルの合間を抜けどこまでも遠く飛んでいく。彼はついに遠く手の届かなかった夢の存在、ヒーローになれたのだ(ここでかかる「flying home」がまた最高なんだ!)。
【最後に】
この映画は製作がとても難航したという背景があります。ヒットガールの台詞とアクションシーンがあまりに暴力的でアメリカで倫理的にNGが出たため資金集めが難航しました。しかし、この映画の魅力はキック・アスの姿だけではなく、悪鬼羅刹が如く舞うヒットガールを無視しては成り立たなかったことは間違いないのです。そういう意味ではこの映画はこれまでのアクション映画が超えられなかった境界線を一つ壊し、新しい可能性を開拓したと言えるでしょう。本当に熱狂的と言っていいような熱さを携えた一本だと思います。
オススメ度:




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キャスト:アーロン・ジョンソン、クロエ・グレース・モレッツ、ニコラス・ケイジ
ストーリー:コミックばかり読んでいるオタクのデイブはヒーローに憧れる余り通販で買ったヒーローコスチュームに身を包み、街で自警活動を始める。デイブは死にそうになりながらも活動を続けるが、ついに死を目前にした時、「本物」のヒーロー、ヒットガールが現れる。
2010年に観賞した新作映画でベストに選んだ一本。
今まで筆を取らなかったのが若干不思議ではありますし、世で既に「面白い!」と評価を下されている本作を改めて紹介するのも妙な気分です。
初見から一年経っていますが、まだ観てない人には是非叫びたい。「いいから観ろよ!!」。
【キック・アスの世界と正義】
この映画では正義のヒーローという存在がフィーチャーされる。正義のヒーローが必要な世界はどういう世界だろうか?それは地続きの我々の世界である。街で暴力が振るわれていても大人は見てみないフリ。警官はマフィアと癒着し犯罪が野放しになっているだけでは飽き足らず、職務を全うする警官を牢屋にブチ込む始末。主人公のデイブも街でチンピラからカツアゲを喰らう。こんな世の中でいいのか?デイブは思う。なんでヒーローはいないんだ?ただ単にコスプレして悪を懲らしめるだけじゃん。
デイブは内に衝動を抱えている。彼はエネルギーを持て余しているがその捌け口はオナニーだ。家ではパソコンでエロ動画を漁り、学校では女教師の胸の谷間に妄想と股間を膨らませる。しかし、デイブは正義のコスチュームに身を包み自警活動を行うようになると女教師への興味を失う。デイブにとって自警活動はセックスと同じ。リビドーを発散させる行為として描かれる。
正義のない世界でデイブは衝動を振り回すが、その衝動の倫理は彼が最も活躍するシーンで語られる。まずデイブが扮するヒーロー「キック・アス」が最初に世間で知られるようになるくだり。リンチを止めに入るキック・アス。悪漢がキック・アスに問いかける。「お前、正気か?こんな見ず知らずのクズのために死ぬつもりかよ?」この論理が我々の世界の中心にある。自分にメリットのない行動を我々は取らないのだ。キック・アスは答える「3人がかりで1人をボコボコにしてる。それで他の人たちは見て見ぬフリ?それで俺が正気かって!?ふざけんな!!」彼の行動はメリットやデメリットを考えない。コミックに描かれた裏表のない正義なのだ。

重要な台詞はもう一つある。最後の戦いに向かう時の台詞「力あるものには責任が伴う。それでは無力な者は何もしなくていいのか?」。この台詞は2002年に公開された映画『スパイダーマン』のテーマに対する批判だ。『スパイダーマン』では「大いなる力には大いなる責任が伴う」と語った。それはひょっとするとそうなのかもしれない。けれどもその結果がこの『キック・アス』の世界なのだ。強い者なんていない。だから不正に対して誰も声を上げない。『キック・アス』はそうした「自分には何も出来ないから」と言って不正を見逃す我々に、血塗れになりながら背中を見せつける。金も能力もない凡人も勇気「だけ」でヒーローになれるのだと。
【ヒーローは飛べる!】
映画(というか物語)には王道の筋というものがあり、この映画はベタにその内の一つを踏襲している。それは「自己実現」というもの。成りたい自分がいる。でも現実にはそこには遠い自分がいる。それを乗り越えていく葛藤と努力の黄金律がこの映画にはある。
それを表象しているエピソードが「空を飛ぶ」という表現。映画の始まりはヒーローにコスプレしたバカがビルの屋上から飛び降りて死ぬ。というもの。ここで「ヒーローなんていない。ヒーローなんてのは絵空事だ」と映画は主張する。そしてキック・アスがヒーローとして訓練する時、建物から建物へ飛び移ろうとするも、出来ない。彼はヒーローではないから。彼はその後ヒットガールと出会う。ヒットガールは易々と建物から建物へ飛び、デイブへ語りかける。「こっちに来なよ!」。

キック・アスは、、またも飛べない。本物のヒーローを直接目にし、仲間として誘われた。憧れの世界への切符を手にした。それでも彼はその機会を目の前で棒に振ってしまう。俺はもうダメだ、、自分の部屋でうな垂れるデイブ。もう気分はドン底。自分は何も出来ない。頭も悪いし、スポーツも出来ない、下らないただのオタクだ。
しかし、そこから始まるクライマックスに連なる流れに巻き込まれるキック・アス。死にそうになり、ヒットガールのピンチを救った彼は映画のラスト、傷ついたヒットガールを抱えて、空を飛んでいく。ビルとビルの合間を抜けどこまでも遠く飛んでいく。彼はついに遠く手の届かなかった夢の存在、ヒーローになれたのだ(ここでかかる「flying home」がまた最高なんだ!)。
【最後に】
この映画は製作がとても難航したという背景があります。ヒットガールの台詞とアクションシーンがあまりに暴力的でアメリカで倫理的にNGが出たため資金集めが難航しました。しかし、この映画の魅力はキック・アスの姿だけではなく、悪鬼羅刹が如く舞うヒットガールを無視しては成り立たなかったことは間違いないのです。そういう意味ではこの映画はこれまでのアクション映画が超えられなかった境界線を一つ壊し、新しい可能性を開拓したと言えるでしょう。本当に熱狂的と言っていいような熱さを携えた一本だと思います。
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