alt-artsです、よろしく

ロシア版ホームズの連作をDVD化しましたAlt-artsです。
映画やDVDについて徒然なるままに書いていきます。

日本の「経済学的」映画研究批判、その②

2010-01-15 14:02:24 | 日記
数日前、私は日本における「経済学的」映画政策研究の不毛さを指摘し、「映画は、教育も研究も政策への助言も、我々映画の専門家の手に返すべき」であると書いた。

私がこのような激しい批判をするのは、実際に我々映画人(映画の専門的研究者、映画作家、配給業者などを含む)から見ると、大学教授レベルの地位を持った経済学者の論述がしばしばあまりにも非文化的(映画的教養とこの分野への敬意を欠く)であり、日本の映像業界の歪みに対して無神経であるからだ。

例えば、昨年丸善から出た『映像コンテンツ産業とフィルム政策』という文集(資料的価値はあるが、敢えて「論文集」とは言わない)には、次のような表現がある。

「映画と言えばハリウッドだが」云々、「マイケル・J・フォックスの『バック・トゥ・ザ・フューチャー』」云々。「ある著名な監督によれば」云々。

これを映画の専門家が読んだら、噴飯を通り越して怒ることは必至である。
何故、「映像コンテンツ産業」を主題とした文集で、あれこれの映画作品の制作者名も監督名も殆ど言及されないなどというようなばかげた論述が可能なのだろうか?
また、何故、アメリカ以外の全世界の映画産業にとっての脅威であるハリウッド映画がモデルとして取り上げられるのだろうか? そしてまた、英語という言語の使用や世界配給ルートの支配を含む、ハリウッド映画優勢の経済社会的な要因の分析がなされていないのは何故なのか?

この文集に価値があるとしたら、それは主要映画製作国の映画政策研究の資料としてのみであり、それ以外には研究的価値や教育的価値は全くない。

「映画産業の経済的特性」など、我々映画人には周知の事実であり、我々なら経済学者以外にはほとんど用のない数式ではなく、豊富な実例と歴史的背景を沿えていつでも解説できるのである。

そもそも「製作」と「制作」の区別という、ここ20年間で日本に定着してしまった映像業界構造格差の象徴のごとき言葉の使いわけを、冒頭で「専門用語」だと述べている時点で、この文集の学問的価値や客観性は大いに疑わしいのだ。この構造格差こそが、日本の映像業界全体のアキレス腱であるというのに。

従って、このような文集を無批判に学問的研究の資料として用いたり、ましてや若者の教育に用いることは、百害あって一利なし、と言わねばなるまい。


日本のいびつな映像ソフト市場

2010-01-14 10:16:39 | 日記
この2-3ヵ月間、大体1週間おきにアマゾン・ジャパンのDVD売上100位を検証している。

その間ずっと、マイケル・ジャクソンと深夜アニメを中心とする「アニメ・オタク」向け商品が上位100位の大半を占めていた。映画ではたまに「ハリーポッター」の新作や「トランスフォーマー」といったティーンエイジャー向け英語圏大作が発売日前後に入ってくる他は、大して注目すべき傾向はない。
日本製の「テレビ映画」(テレビドラマの続編や特別編でしかない、名前ばかりの「映画」)が入ることもあるが、せいぜい1、2本である。

数日前もそのような検証を行い、イギリスやアメリカのアマゾン(amazon.uk,amazon.usa)で同様の検証を行ったところ、日本の映像ソフト市場の異常さがますます鮮明になった。

日本が何につけ模倣してきたアメリカや、これから模倣しようとしているらしいイギリスでは、映像ソフト市場の上位100位はほとんどが実写のドラマやドキュメンタリーや映画で占められているのだ。確かに文化的に意義ある映画は少ないが、それは今や世界中で見られる傾向である。

映像ソフト市場は、映画の制作費回収においても重要な位置を占めている。それなのに、日本ではこの有様だ。国民が平均して1.3回(今ではおそらくもっと少ない)しか映画館を利用しない国で、ソフト市場がこのような状態であり続けるとしたら、これから映画はどうなるだろうか?

日本の映像ソフト市場は、このように世界的に見てもいびつな展開を遂げている上に、世界に通用しない(最初からそれを目標にしていない)「オタク」向け商品とミーハー的時流にのみ、頼っている。昨年のロカルノ映画祭で日本製アニメの特集上映とアニメ制作者達による円卓会議が開かれたが、そこで日本のアニメ作家の一人が、自分達の作っている商品は15歳の男の子向けだとはっきり述べていた。麻生(元)首相が読んでいる「マンガ」は、エロマンガなんですよ、という発言もあった。
日本の「コンテンツ研究者」その他諸々は、この会議の内容すら知るまい。私が知る限り、それは「映画芸術」というロシア語の映画専門誌にしか翻訳されていないからだ。

文化庁が推進した「メディア芸術振興」の「成果」はせいぜいこの程度のものなのであり、、日本の映像コンテンツ市場が世界第2位の規模だとかアメリカ並みに映画制作本数が増えたとか言っても、別に世界に通用するものが作られているわけでも消費されているわけでもない。

むしろ、そういう表面的な数値だけを重要視する、にわか研究者達の言説が若い世代にもたらした「マイナス・インパクト」の方が深刻なのである。最初に述べたアマゾン・ジャパンのDVDベストセラー内訳の検証は、そのことをはっきりと物語っていた。


映画人への差別を助長する「経済学的」コンテンツ研究

2010-01-13 14:12:26 | 日記
日本の恥ずべき「メディア芸術」政策が本格化して10年近くが経とうとしている。
この間、ほぼ一貫して映画はその経済学的リスクと非採算性を無視され、映画の専門家は邪魔者扱いされ、たかだか2-3年の間それも英語文献しかろくに読んだこともなく映画史もろくに知らない経済系の「研究者」ばかり雨後の筍のように現われ、日和見主義的な(しばしばあからさまに「御用学問」的性格を帯びた)彼らの「研究」がもてはやされる状況となっていた。

だが、映画産業の現実は、そのような軽佻浮薄な映画へのアプローチを許容しないほど厳しくなっている。

当初、「メディア芸術」の中核的「コンテンツ」と見なされていた映画のための予算は、文化庁の来年度概算要求では何と「メディア芸術振興」のための予算と別枠になっており、前年度比1億円以上も減額されているのである(アーカイヴ事業は除く)。
これは邦画の需要が国際的にも国内的にも、3年前のバブル崩壊以降、急速に収縮したことを受けたものだろう。だが、そのような風見鶏的な「文化政策」とはそもそも一体何だったのだろうか?

このような日本の映画政策や、その前提となっている「ハリウッド」モデルの称揚と是認を続けてきたのは、他でもない、門外漢の経済学者とその取り巻き連中である。

彼らはそろそろ、自分の浅薄な「研究」の無根拠さを認め、本来の「文献学的」経済学(マル経でも何でも自分の好きな「古典的」文献を選べばよい)にでも戻るべきである。
そして映画は、教育も研究も政策への助言も、我々映画の専門家の手に返すべきなのだ。
彼らの楽天的経済至上主義が映画政策にこれ以上影響を与えれば、この国の映画は文化的には勿論、産業的にも完全に崩壊する。

映画が、労働生産性の低い映像産業の中でも最も効率の悪い「蒸気機関車」並みの(セルゲイ・セリヤノフの表現)効率しか持たないビジネスであることは、我々には周知の事実であった。その事実を粉飾して人々に錯覚を抱かせることは、「スタジオシステム」時代の幻影をまだ大切にしている耄碌した老害だけでなく、若い世代にまで悪影響を及ぼし、我々本当の映画人に対する差別感情を助長することになる。

映画は儲からないものである。リスクの高いビジネスであり、「古臭い金儲けの手段」である。
だからそれを生涯の仕事として選び、しかも文化的に価値ある映画を制作したり普及させるために苦労を続けている映画人は、プロデューサーであれ、映画作家であれ、配給業者であれ、程度の差はあれ高貴な人々である。今の日本では聖人並みに高貴な人々である。

彼らの苦境を無視して「経済学的」な机上の空論を弄し、日本製「コンテンツ」の根拠無き称揚ばかり行っている自称「研究者」や「大学人」は、そんな我々の目から観れば俗物であり、敵であり、日本のゴミであり、ペテン師に過ぎない。

映画政策の国際比較

2010-01-07 19:57:29 | 日記
今度の週末に開催される某学会の大会で、映画人兼研究者として、現在の日本の映画政策の問題点を指摘する予定である。

「メディア芸術」なる造語の曖昧さその他、国際的に見てかなり特異で非歴史的で恥ずかしい、ここ10年来の日本の映画政策の急所を論理的かつ誰もが納得するように話すつもりだ。

そもそも日本映画は「復活」などしていない。
映画館の利用者は年間1億6千万人、つまり国民一人当たり平均して1.3回しか映画を見ていない。アメリカ人は平均6回以上(2007年)、イギリスを含むヨーロッパの主要映画製作国では3回前後、カナダ人もおそらくその程度は観ている。
そんな需要の少ない国で、日本語という特殊な言語で、民放テレビ局という国内市場に頼り切ってきた業界主導により製作されているのが、今の日本映画である。
「国際的に評価されている」のは一握りの監督達であり、彼らの作品も別に世界中でヒットしているわけではない。ヨーロッパの「アートハウス」館で細々と上映されてるのが実情なのだ。

日本は近年、年間300本も400本も映画を制作するようになったが、それだけの映画を必要とするほどの需要は国内にない(既に述べた通り、それは海外にもない)。「製作バブル」だったのである。
1年、2年もの間、企画からシナリオの練り上げ、製作にかかった費用と時間は、多くの場合は映画作品の「お蔵入り」によって水泡に帰す。テレビ局や東宝・東映・松竹が関わった大手の作品はそうはならないが、それはつまり、アメリカでは半世紀以上前に違法とされた寡占状態がまかり通っているというだけのことである。

日本の映画政策は予算的にも欧米の主要映画製作国に比べて非常に少ないが、その少ない予算の大半は製作への助成に回され、ヨーロッパの場合と違って非大手による「アートハウス」映画の配給や興行には全く助成がない。

これでは、観客の嗜好がアメリカ映画と「テレビ映画」(テレビ局テイストの、多くの場合は我々映画人が見てうんざりするような映画)に偏るのを助長するようなものだ。
そして、この「テレビ映画」は絶望的に現代の世界市場には通用しないのである(日本の民放テレビ局は冷戦時代における強いアメリカ志向の下に生まれ、現在でも冷戦時代の「一億総白痴化」をもたらした低俗な嗜好から抜け出していないからだ)。

日本が目指すべきなのは、むしろヨーロッパ的な映画政策である。なぜなら、日本はアメリカのように強大な映画輸出国ではなく(そうなる可能性もない)、国民の映画館利用回数は主要映画製作国中で最低レベルにあり、公的な補助のない自由競争のもとでは映画的な質の維持は到底、望めないからである。




映画文化の黄金時代

2010-01-06 22:37:56 | 日記
映画文化の黄金時代は、国や地域によって異なっている。
そもそも何をもって「黄金時代」とみなすのか、と問われても、あらゆる文化史上の時代区分と同じく厳密な定義など誰にも不可能だろう。
「黄金時代」という言葉には何か「失われた楽園」的な響きがある。その時代にはそれと自覚されず、後になってから「当時の人々にも色々と不満はあったが、振り返ってみると素晴らしかった」と分かる、そのような時代だと言えるかもしれない。

映画は20世紀の代表的な文化産業であると同時に、産業革命以降初めての国際的な文化産業でもあった。だから、映画文化の黄金時代は映画産業の盛衰と分けては考えられない。

映画というメディアは映画館での上映と集団的な鑑賞という制度に基づいているので、映画作品の映像と音の品質には非常に高い技術的レベルが要求される。そのため映画制作には基本的に非常にお金がかかる。その高額な制作費を回収して利益を上げ、次の作品制作に投入できなければ、映画産業は成立しない。インターネット用コンテンツとしての動画制作の手軽さや資金効率とは対照的である。

そう、映画は決して恒常的には儲からないものなのだ。
だから、現代ロシアのあるプロデューサーは「蒸気機関車の効率だ」と述べているし、日本以外の主要映画制作国(アメリカを除く)は大抵、映画産業及び映画文化のセーフティネットとして、儲かりそうもないが文化的には例外的に意義のある映画の制作や配給への公的助成制度を確立している。

映画文化の黄金時代は、どの国でも地域でも、基本的に20世紀にしかあり得なかった。アメリカでさえ実は1920年代~40年代に終わっており、日本では1930年代と50年代、ソ連では1950年代後半から70年代末までである。それ以降は、基本的に「衰退の歴史」なのである。

現在の映画文化は、演劇がそうであるように、愛好家と映画人と公的機関によって「保護」され「継承」、「育成」されるべきものである。日本ではその両方が成立していない。だから映画は非常に危機的な状況にある。もはや、映画の専門家達を加えた議論により、「保護」「継承」「育成」のための極めて明確な施策を採るべきときなのだ。

文化庁よ、10年来の迷妄から覚めよ、と言いたい。「メディア芸術」などという造語は世界にも、映画観客にも、映画人にも通用しないのだから。