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ロシア版ホームズの連作をDVD化しましたAlt-artsです。
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ロシアを「ソ連」と言い間違える人々

2010-01-31 10:55:24 | 日記
ソ連という国が存在しなくなってから、今年で20年目になる。

今時、ロシアを「ソ連」と言い間違える人間がいると想像できるだろうか? ところが日本にはいるのである。もうろくした老害でもホームレスでもなく、まだ50代の管理職の人間である。別に政治集会でも何でもない、民間会社のある会議の席だったので、本来なら「口を滑らせた」では済まない間違いである。
この例は、日本の支配層がいかに世界から遅れていたか、それを示しているように思われる。
そんなことだから、今の日本では、イギリスやフランスでは既に公開或いは特集上映されているような現代ロシアの映画作品が全く知られていないのだ。

大体、ロシア本国の劇映画でさえ、90年代初頭からソ連時代の歴史観を逆転させたものがかなり作られている。
「修正主義」的な歴史観に基づくそのような映画で最も早かった例の一つは、カレン・シャフナザーロフ監督の『皇帝殺し』(91)であり、故オレーグ・ヤンコフスキーと『時計じかけのオレンジ』に主演したマルコム・マクダウェルが共演し、カンヌ映画祭のコンペに出品された(日本未公開)。この映画ではニコライ2世とアレクサンドル3世を一人で暗殺したと思い込んでいる精神病患者と、その妄想に感染して自分がニコライ2世だと思いはじめる精神科医が登場する。
もう少し後の2000年前後には、もっとあからさまに修正主義的な歴史観を展開している映画が作られた。例えば、ニキータ・ミハルコフの『シベリアの理髪師』がそうである。
ごく最近の例は、今レンタルショップに「最新作」として並んでいるアンドレイ・クラフチュク監督の『提督の戦艦』(08)である。これは現代ロシア映画における「ハリウッド的」スタイルのかなり巧みな採用という点でも面白い。実際、下手なアメリカ映画よりは良くできている。

修正主義的な歴史観を展開するこれらのロシア映画は、映画としての芸術的完成度をイデオロギーによって損なっている場合が少なくない。
ただ、その辺りの微妙さは我々専門家にしか分からないと思う。
冒頭に挙げた、ロシアを「ソ連」と言い間違えるような人々には、それどころか内容すらよく理解できない可能性がある。自民党政権のもとでアメリカを礼賛・モデル化すればそれで通用した時代が実は20年前に終わっていたことにさえ、気づいていないからだ。

私が自分の会社からリリースしている「ホームズ」ものや、これから機会があれば日本に紹介したい作品は、歴史の修正主義とは全く無関係である。我々もイギリス人やフランス人のように、現代ロシアの映画を単に映画として評価すべきだと思うからである。

映画を映画的な質によって評価する、というのは、映画に対して職業的に取り組んでいる会社や個人にとっては当然のことである。我々は政治や歴史の問題に関わるべきではない。




ネット時代と映画

2010-01-31 00:17:15 | 日記
日本で映画館の利用者が減少し続けているのは確かだろう。
国民一人あたりの年間利用回数が1回以下になっても不思議ではない。

何故なら、今の30代以下の人々の多くは、映画とその他のメディアの本質的な違いが分かっていないように思えるし、映画を作っている人々でさえその傾向があるからだ。

実際、私が教えたある学生は、レポートで映画観客のことを「視聴者」と書いていた。「視聴者」はテレビを見る人々のことであり、映画を見る人々は「観客」であることを、その学生は意識していなかったのだ。

ネット動画を見る人々は「視聴者」だろうか。それは違うだろう。彼らは「ユーザー」と呼ばれているし、その呼び名は彼らの動画視聴スタイルにふさわしい。

「観客」(spectator)とは、ある場所に行き、特定の見世物(spectacle)を見る人々のことだ。ある場所にまで見に行くという行為は能動的であるが、見世物の壮観に身を任せる行為は受動的である。それらの行為の間にある落差は、そのまま、見世物に対する期待値を示している。古代から見世物は視覚的に豪華なものだったが、観客に視覚的イメージだけでなく同時に聴覚的イメージも与えていた。特に演劇ではそうだった。しかし映画では殆どの場合、視覚的イメージの方が優勢である。英語では、映画を見る人々をspectetorと言うだけでなくaudienceとも言うが、日本語における「観客」と「視聴者」の区別はまだまだ明確である。

「視聴者」(audience)とは、もともとは「聴衆」を意味した言葉である。
彼らにとっては「聴く」ことが中心であり、視覚的なイメージの受容は二次的である。ラジオやテレビは最初、ニュースや報道系番組、音楽やそれに近いバラエティー番組の放送からスタートした。そして視聴者は家から一歩も出ずにそれらを「聴いた」。今でも(どちらかと言えば昔風の)飲食店などでつけっ放しになっているテレビは、集中して「見る」ことではなく時々ちらちらと見ながら「聴く」ために置いてある。テレビ番組が基本的に言葉とBGMによって進行していくのは偶然ではない。それは基本的に、受動的で、「見世物」よりは注意散漫な消費を前提としている。

ネットの「ユーザー」は、動画をどのように視聴するだろうか? 集中して見る人もいるだろうが、それはたぶん「ダウンロード・コンテンツ」の場合が多い。YouTubeのようにリアルタイムで見る動画は、端的に言って「3分間の気晴らし」である。その短時間だけ、「ユーザー」はテレビの視聴者よりも視覚的・聴覚的イメージに注意を集中する。お気に入りのポピュラー音楽を聴くように、ネット上の動画を動画投稿サイトの「お気に入り」に入れて気の向いた時に視聴する。その行為はテレビの視聴よりは能動的だが、持続性がない。

ネット時代の映画は、このような「ユーザー」が事実上、世界中に何十億といる事実を無視しては作れないだろう。
面白いことに、ネットが普及し始めてからの「ブロックバスター」の多くは、異常なほどに場面転換が早く、ドラマツルギー的には破綻しているか破綻しかかっている。アメリカ映画だけではない。他の国の「ブロックバスター」にも同じ傾向が現われている。それは70年代の『ゴッドファーザー』や『ジョーズ』といった大ヒット作を見直してみれば分かることである。それらは今の「ブロックバスター」よりもスローで、冗長に見えないだろうか?

おそらく、このようなイメージに慣れた人々を映画につなぎとめるのは至難の業だ。映画は伝統的に2時間前後の上映時間を基本とし、その最も人気ある分野は劇映画なのだから。ヴィデオクリップの連続のような、ドラマ性の希薄な「見世物」を見に、わざわざ映画館に行く人がどれだけいるだろうか?
一方で人々は、ネット「ユーザー」化しておりイメージの素早い展開と転換を求めている。それは人間をある時間的・空間的連続性の中で描くドラマツルギーの要求とは矛盾するのである。