日本の恥ずべき「メディア芸術」政策が本格化して10年近くが経とうとしている。
この間、ほぼ一貫して映画はその経済学的リスクと非採算性を無視され、映画の専門家は邪魔者扱いされ、たかだか2-3年の間それも英語文献しかろくに読んだこともなく映画史もろくに知らない経済系の「研究者」ばかり雨後の筍のように現われ、日和見主義的な(しばしばあからさまに「御用学問」的性格を帯びた)彼らの「研究」がもてはやされる状況となっていた。
だが、映画産業の現実は、そのような軽佻浮薄な映画へのアプローチを許容しないほど厳しくなっている。
当初、「メディア芸術」の中核的「コンテンツ」と見なされていた映画のための予算は、文化庁の来年度概算要求では何と「メディア芸術振興」のための予算と別枠になっており、前年度比1億円以上も減額されているのである(アーカイヴ事業は除く)。
これは邦画の需要が国際的にも国内的にも、3年前のバブル崩壊以降、急速に収縮したことを受けたものだろう。だが、そのような風見鶏的な「文化政策」とはそもそも一体何だったのだろうか?
このような日本の映画政策や、その前提となっている「ハリウッド」モデルの称揚と是認を続けてきたのは、他でもない、門外漢の経済学者とその取り巻き連中である。
彼らはそろそろ、自分の浅薄な「研究」の無根拠さを認め、本来の「文献学的」経済学(マル経でも何でも自分の好きな「古典的」文献を選べばよい)にでも戻るべきである。
そして映画は、教育も研究も政策への助言も、我々映画の専門家の手に返すべきなのだ。
彼らの楽天的経済至上主義が映画政策にこれ以上影響を与えれば、この国の映画は文化的には勿論、産業的にも完全に崩壊する。
映画が、労働生産性の低い映像産業の中でも最も効率の悪い「蒸気機関車」並みの(セルゲイ・セリヤノフの表現)効率しか持たないビジネスであることは、我々には周知の事実であった。その事実を粉飾して人々に錯覚を抱かせることは、「スタジオシステム」時代の幻影をまだ大切にしている耄碌した老害だけでなく、若い世代にまで悪影響を及ぼし、我々本当の映画人に対する差別感情を助長することになる。
映画は儲からないものである。リスクの高いビジネスであり、「古臭い金儲けの手段」である。
だからそれを生涯の仕事として選び、しかも文化的に価値ある映画を制作したり普及させるために苦労を続けている映画人は、プロデューサーであれ、映画作家であれ、配給業者であれ、程度の差はあれ高貴な人々である。今の日本では聖人並みに高貴な人々である。
彼らの苦境を無視して「経済学的」な机上の空論を弄し、日本製「コンテンツ」の根拠無き称揚ばかり行っている自称「研究者」や「大学人」は、そんな我々の目から観れば俗物であり、敵であり、日本のゴミであり、ペテン師に過ぎない。
この間、ほぼ一貫して映画はその経済学的リスクと非採算性を無視され、映画の専門家は邪魔者扱いされ、たかだか2-3年の間それも英語文献しかろくに読んだこともなく映画史もろくに知らない経済系の「研究者」ばかり雨後の筍のように現われ、日和見主義的な(しばしばあからさまに「御用学問」的性格を帯びた)彼らの「研究」がもてはやされる状況となっていた。
だが、映画産業の現実は、そのような軽佻浮薄な映画へのアプローチを許容しないほど厳しくなっている。
当初、「メディア芸術」の中核的「コンテンツ」と見なされていた映画のための予算は、文化庁の来年度概算要求では何と「メディア芸術振興」のための予算と別枠になっており、前年度比1億円以上も減額されているのである(アーカイヴ事業は除く)。
これは邦画の需要が国際的にも国内的にも、3年前のバブル崩壊以降、急速に収縮したことを受けたものだろう。だが、そのような風見鶏的な「文化政策」とはそもそも一体何だったのだろうか?
このような日本の映画政策や、その前提となっている「ハリウッド」モデルの称揚と是認を続けてきたのは、他でもない、門外漢の経済学者とその取り巻き連中である。
彼らはそろそろ、自分の浅薄な「研究」の無根拠さを認め、本来の「文献学的」経済学(マル経でも何でも自分の好きな「古典的」文献を選べばよい)にでも戻るべきである。
そして映画は、教育も研究も政策への助言も、我々映画の専門家の手に返すべきなのだ。
彼らの楽天的経済至上主義が映画政策にこれ以上影響を与えれば、この国の映画は文化的には勿論、産業的にも完全に崩壊する。
映画が、労働生産性の低い映像産業の中でも最も効率の悪い「蒸気機関車」並みの(セルゲイ・セリヤノフの表現)効率しか持たないビジネスであることは、我々には周知の事実であった。その事実を粉飾して人々に錯覚を抱かせることは、「スタジオシステム」時代の幻影をまだ大切にしている耄碌した老害だけでなく、若い世代にまで悪影響を及ぼし、我々本当の映画人に対する差別感情を助長することになる。
映画は儲からないものである。リスクの高いビジネスであり、「古臭い金儲けの手段」である。
だからそれを生涯の仕事として選び、しかも文化的に価値ある映画を制作したり普及させるために苦労を続けている映画人は、プロデューサーであれ、映画作家であれ、配給業者であれ、程度の差はあれ高貴な人々である。今の日本では聖人並みに高貴な人々である。
彼らの苦境を無視して「経済学的」な机上の空論を弄し、日本製「コンテンツ」の根拠無き称揚ばかり行っている自称「研究者」や「大学人」は、そんな我々の目から観れば俗物であり、敵であり、日本のゴミであり、ペテン師に過ぎない。