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ロシア版ホームズの連作をDVD化しましたAlt-artsです。
映画やDVDについて徒然なるままに書いていきます。

何故、日本映画は凋落し続けるのか

2010-02-26 20:59:26 | 日記
 つい先ごろ終わったベルリン映画祭で、山田洋次監督が功労賞を受賞したというニュースがあった。その他にも2本の邦画が何らかの形で評価されたが、それを受けたネット上のニュース記事で「最近はハリウッド映画にも迫る勢いの日本映画」等と書かれているのを見ると、相も変わらず短絡的なことを書いているものだなあと思う。

 映画祭での個々の作品の評価は、日本映画の全体としての凋落を防ぐことはできないし、ましてや世界市場におけるハリウッド映画とのレースで挽回の機会を与えるものでは絶対にない。
 日本映画は、今や真に危機的な状況にある。配給と興行が一握りの大手企業によって寡占され、しかも製作の大部分は映像産業の中で最も寄生的な存在である大手広告代理店とテレビ局の手中にある。

 「寄生的」という言葉は、決して誇張ではない。テレビ番組も大規模に全国公開される映画も、クリエイティヴな部分を担当している「プロダクション」がほとんど収益の配分に与れない仕組みになっているからだ。これは、私のように創作と配給の実務経験をもつ映画研究者だけでなく、今や他分野の研究者からも指摘されている、純然たる事実である(池田信夫氏の次のブログ記事を参照http://ikedanobuo.livedoor.biz/archives/51376379.html)。
 映画のようなハイリスク・ハイリターンが原則の世界で、この一握りの寄生的企業は、経済成長が終わる以前と同様にローリスク・ハイリターンに固執している。そのツケは、クリエイター達とプロダクションに回され、彼らは恒常的な貧困とハイリスク・ローリターンという環境を強いられているのだ。

 経済系の新聞や雑誌が持ち上げていたアニメにしろ、国際的に評価が高いと言われていた実写映画にしろ、創作家はほとんどの場合、食うや食わずの生活を強いられている。これでもし、独立系の配給業者が次々に倒産することにでもなれば、テレビ局の「下請け」プロダクションと「雇われ」監督のような人々以外は、どうにも立ち行かなくなるだろう。いや、もうとっくにそうなっている。

 アメリカで1960年代に文化経済学の基礎的文献とされる『舞台芸術 芸術と経済のジレンマ』を書いたボウモルとボウエンは、少なくとも現実を直視する勇気とそれを社会に知らしめようという気概とを持っていた。彼らは創作家に対する「感謝の念」を持つべきだとも、どこかで書いていた。彼らの本はその後のアメリカの文化政策にも影響を与えたとされる。
 
 日本で「コンテンツ産業」を研究している有象無象の「研究者」の多くには、そのような誠実さが欠けているのではないだろうか? 政府が「メディア芸術」を打ち出せば途端にこれまで無関心だったアニメについて書き始めたり、「コンテンツ産業」振興というコンテクストを与えられれば実務家が決して混同しない各メディアの独自性や歴史的影響関係を無視した文章を書き散らしたりする。経済系の三流新聞・雑誌の無責任報道と一体どこが違うというのか?

 日本映画が凋落し続けるのは、既に触れた映像産業構造の歪みのせいばかりではない。映画に関するまともな言説が先細りする一方で、雨後の筍のように現われた「コンテンツ」や「メディア芸術」や「ジャパニメーション」、「クールジャパン」等に関する無責任で楽天的な言説が流布していることも、その原因なのである。何故なら、そのような言説の流布は、「金儲け」のためだけに映画を制作するという、日本の現在の環境ではほとんど不可能に近いことを目的とする人々の登場を促がすからだ。

 何度も繰り返すが、スタジオシステム崩壊後の映画産業は、基本的に極めてリスキーである。映画への愛がなければ続けることは不可能な仕事である。他のどの主要映画制作国でも、国内市場のある程度の保護や独占・寡占の排除を目的とした政策が、採られている。「官民挙げて」映画の作者やプロダクションに対して常にハイリスク・ローリターンを強いているような国は、おそらく日本だけである。これで邦画が凋落しなければ、それこそ奇跡であろう。

 宗教や芸術の世界以外では奇跡が起きないことは、正常な人間なら誰でも知っている。


経済至上主義的「コンテンツ産業」助成と“研究”の破綻

2010-02-21 14:42:43 | 日記
 映画であれ、テレビ番組であれ、ネット動画であれ、“生活必需品ではない”という点では同じである。消費者がそれらを“赤字にならない”程度に鑑賞する条件、つまり製作資金が回収され製作者に収益がもたらされるような条件を解明することは、如何なる経済学理論を用いても、不可能である。その理由を、中学生でも分かる言葉で以下に述べよう。

 映画やテレビの存続条件さえも、経済学的には全く分かっていないし、分かるはずもない。生活必需品でない以上、人々は余暇に、それほど多くの動く映像による娯楽を求めるとは限らない。不況が続けば外出は控えるだろうし、就職や再就職や転職のための活動、或いは副業に精を出すであろう。就職や副業に役立つ情報源は書物やネットであり、映画でもテレビでもない。娯楽としては映画もテレビも既に凋落している。過去に平均して年間15~20回映画を見ていた民族が、現在は特に経済的な理由があるとは思えないのに1回以下しか見なくなっている例さえある。日本人のテレビ視聴時間は、一昔前までほとんど世界一長いと言われていたが、現在それは怪しいと思われる。

 過去の「コンテンツ」があるからといってそれは何の保障にもならない。画質が多少悪いとはいえ、全編或いは“見せ場”をネットで無料で見ることができるものを、わざわざ一日分の食費以上の価格で購入させたり劇場で鑑賞させるには、その商品に何らかの“特別な質”がなければならない。
 この“特別な質”を商品に与えているのは、他でもない、各メディアの特性を十分に理解したうえで制作された個々の意味論的な構成物なのである。古来それは、“作品”と呼ばれてきた。そして質の高い“作品”ほどその意味論的な構造は多層的であり、それ故に時代の試練に耐えて次の時代にも鑑賞されるのだ。

 メディアはメディアに過ぎない。それは“メッセージ”でもなければ“作品”でもない。最近にわか勉強を始めた経済学系の研究者が“コンテンツ”と呼んでいるものは、実際には個々の“作品”のことなのだ。その事実を無視したところに、日本の経済至上主義的「コンテンツ産業」助成と“研究”が破綻している原因がある。

 どんなプロデューサーでも配給業者でも、自分が世に知らしめて売ろうと思う“作品”に対しては、それぞれ個別の、事実上は唯一無二の戦略を見出す。古い作品でも、質の高い作品であればその意味論的な構造の中に未知の領域を探りだして宣伝文句に加えたり、それが分かるように字幕を刷新したりして新しい価値を加える。そのような個別戦略ができなければ、決してその作品は売れない。

 それはそうだ。個々の作品がそもそも唯一無二であり、なおかつ現在の社会・政治・経済状況もまた唯一無二なのに、そのような状況を踏まえた作品の売り方に“お手本”などあるはずがないのだ。それは陳腐化との戦いであり、ある意味で作品との絶えざる対話でさえある。だから、本質的に1から10まで“創造的な”仕事なのだ。既存の理論の「応用」で済むと思ってこの世界に入る者は、最終的には100%の確率で大敗する。

映像文化の分岐点

2010-02-21 00:38:47 | 日記
 私の会社が扱っているのは、今のところ主に映画のDVDソフトである。
映画にこだわるのは、単に私の実務家及び研究者としての経歴のせいばかりではない。

 歴史的事実として、映画は他の全ての動く映像メディアに基本的な“文法”のようなものを提供し続けていた。ところが、最近はこの歴史的事実を知らない人々が急増しているように思われる。“メディア芸術”なる曖昧模糊とした概念が国の文化政策に入り込んでしまっていることも、その傾向に拍車をかけている。
 テレビ番組でも、1980年代前半までの最も優れた作品に関しては、今観返して見るとかなり映画的な作りであることが分かる。ロシア版ホームズの連作はもちろんそうであるが、ドキュメンタリーのミニ・シリーズでもエミー賞受賞クラスになると非常に映画的なのだ。
 例えば、先日も取り上げたカール・セーガン脚本による「コスモス」を観直せば、そこで用いられている一続きの動きに対するショット分割や、ディゾルヴ等のショット交替の手法、主観ショットの適切な挿入、ナレーションが重なる映像の適度にリズミカルで変化に富む編集に気づかずにはいられない。
 ロシア版ホームズの第一作や「コスモス」が製作された1979~1980年当時はまだ、フルCG映像などは存在しなかった。画面サイズはもちろん、SD(4:3)であり、高画質の素材はフィルムで撮影するのが常識だった。メディアがまだアナログで、コンピュータ等のデジタル機器の使用(現在の日本の文化法における“メディア芸術”の規定にそうある)はほとんど全く行われなかった(もっとも、「コスモス」は『スター・ウォーズ』の後なのでモーション・コントロール・カメラを用いた可能性はある)。

 現在巷に氾濫している「エンターテイメント」大作とこれら30年前のテレビ放映用の作品とでは、どちらがより知性や想像力を刺激するだろうか? どちらがより、多くの潜在的観客(テレビ向け作品の場合は視聴者と呼ぶべきだろうが、「放映」よりソフトによる鑑賞が多い旧作の場合は、観客と呼ぶ方が相応しくないだろうか)にアピールし得るだろうか?
更に、(これがもっと重要なことだが)どちらがより、人類の発展や文化の継承に貢献しうるだろうか?

 そのように考えてくると、どうやら1980年代後半から90年代に入る頃に、動く映像文化全体が一つの分岐点を迎え、我々は全体として、それ以降間違った道を歩んでいる気がしてならない。映画が築き上げた文法のようなものは、物語を効率的に語るためだけにあるのではない。それは見る者に、視覚と聴覚を通じて一貫性のある思考や感情の流れを伝達するためにもあったのだ。ビデオクリップの断片性ではなく、我々が普通に生きていて感じ、考えるプロセスに似ていながら、それよりも何倍も凝縮されて体系化された、知性と感情と感覚が一体になった体験を与えるためでもあったのだ。
 映画的な映像作法は、人類の体験や知識の、言わば濃縮エキスを作るための一手段として、1980年代前半まではかなり有効に機能していた。だから教育映画とか科学普及映画のようなジャンルも存在したのである。

 今はどうだろうか?
 映画を「エンターテイメント」の概念に押し込め、その上さらに経済効率によって計るというのは、全ての動く映像メディアにとって自滅への道でしかないように思われる。

確定申告の季節に思う

2010-02-19 00:25:57 | 日記
国民の血税はどれほど、国民自身の「健康で文化的な」生活のために使われているのだろうか?

「文化」の定義はほとんど不可能だが、それは少なくとも価値の体系と、それを更新する伝統や規範との創造的な格闘を前提とするだろう。変化しない文化的規範とは単なる因習や迷信に過ぎず、価値の序列のない文化とは単なる退廃である。それは健康ではないし、「文化的」ではない。

いわゆる「文化」のうちで、単に金儲けに直接結びつくことのない、最近は否定的に語られることの多くなった部分―芸術を中心とする部分―が人間の尊厳の維持や心の安定に必要であることは、よほど粗暴で無教養な人でもない限り、認めざるを得ないだろう。
音楽がアニメ番組の主題歌のようなものだけでもよいとか、映画には儲かるアクションものと「世界に認められた」「巨匠」の古典的作品以外は必要ないとか、そのような主張をする者はいないだろう。だが、現在の日本の映画政策の現実は、あたかもそのような方針に基づいているかのようなのだ。

これで、この国の文化に―いや、国そのものに―将来があるだろうか?

世界的に有名な科学者の中には、偏執狂的に戦略核兵器や「SDI(わゆるスターウォーズ計画)」構想の必要性を主張し続けた者がいる一方で、文学や音楽に造詣の深い理性的かつ人道的な人々も少なくない。
アメリカにおける宇宙人による誘拐話やオカルトの流行を危惧し、青少年が科学への関心を失いつつあることに警鐘を鳴らしたカール・セーガンもその一人だ。
高度な芸術作品は、それを感性と感情だけでなく理性を通しても受容することができるような人々を引き付けるものだ。それとは対照的に、「ポップ・カルチャー」とされるもの(娯楽映画の多くがそうだ)は、感性や感情にのみ働きかけ、人々の理性を鈍らせることが多い。後になって「何故あのような浅薄な作品に熱中したのだろう」という印象を与えることの多いのは、そのようなポップ・カルチャー―儲かる作品―の方である。

先に触れたカール・セーガンは、80年代初めにロナルド・レーガン米大統領がSDI構想に熱中していた頃、彼が国民への演説の中で、映画スターであった頃の俳優として思い出を現実の戦争体験と混同していたことを指摘している。歴史的に見て、レーガンのSDI構想が核戦争の危機を高めていたこと、「核の冬」を警告した科学者達の方がSDI構想を提言した科学者よりも人類に貢献したことは明らかだ。
してみると、ポップ・カルチャーよりも、芸術を中心とする文化のある部分(理性を働かせることを要求するような「ハイ・カルチャー」に属する部分)の方が、人類や国が道を踏み誤らないために重要な可能性が高いのである。

それゆえに、私は伝統的な(1980年代終わりまでは自明だった)意味における芸術の振興や普及のために税金が使われることには反対しないし、映画もそこに含めるべきだと考えるが、ポップ・カルチャーの「振興」や「普及」のためにそれ以上の税金を使おうとしている文化庁の方針には、絶対的に反対なのである。

映画はもはや「大衆娯楽」ではない

2010-02-13 13:24:06 | 日記
このように書くと、すぐに「エリート主義」ではないかと批判されそうである。
私は別に、日本国内の観客がせいぜい数千人しかいないようなヨーロッパの作家映画を持ち出す気はない。

単純に、事実を述べたいだけなのだ。
『アバター』を喜んで見る観客と、『チェンジリング』や『グラン・トリノ』に感動する観客と、『トランスフォーマー』を高く評価する観客、『ジュノ』のヒロインに共感する観客の間には、実際、ほとんど嗜好の共通点はない。
日本政府が映画をさしおいて「振興」しようとしている「オタク」向け商品であるアニメーション(日本製アニメーションの全てではないが、産業としては30代までの独身男性がほとんどを占める「オタク」層に依存している)の愛好家に至っては、まさに「ニッチ」である。
だが、上記の諸作品は、実際には程度の差はあれ、全て「ニッチ」商品ではないか。

50歳以上の観客や10歳以下の観客のほとんどは、『アバター』を見たいと思うまい。イーストウッドのファンは『ジュノ』に感動しないだろうし、広告を見ても劇場で見ようとは思うまい。『トランスフォーマー』は25歳以上の観客にとっては耐え難く幼稚であるし、女性観客には全くアピールしまい。
今の映画産業は、黒澤明の『生きる』やヴィットリオ・デ・シーカの『自転車泥棒』のように、男女の別なく幅広い年齢層(10代半ば以上の全て)にアピールし得るような作品をめったに産み出さない。黄金時代の終わり、ネット環境の普及、その他様々な原因が考えられるが、事実は事実である。

そもそも、「大衆」の概念自体が「少数派」の存在を無視した、ある種の無意識的集団主義に基づいている。映画やテレビが主導的で安価な娯楽であり巨大文化産業であった時代の、幻想の一つである。その時代は、少なくとも10年前までには終わった。

高速インターネットが普及し、音楽や動く映像の非常に安価な或いは無料の全世界向け発信が実現してしまった現在、どのような内容・形式の作品であっても大抵はその積極的な鑑賞者をすぐに見出すことができる。インディペンデント作品であろうが、外国の作品であろうが、無関係に、である。
ただ、映画の場合には劇場公開を前提にした品質が要求され、極めて高額な制作費が必要とされる点が、他のコンテンツと決定的に異なるのである。そして、劇場公開を前提とするほど高品質なコンテンツであるからこそ、映画であるというだけで鑑賞者の数はそれなりに保証されるのである。

従って、「映画は大衆娯楽だから、芸術として振興する必要はない」という考え方はもはや成立しない。また、「国民への利益の還元という意味では、少数の観客しかいない芸術的作品への助成は好ましくない」という考え方も成立しない。
事実としてもはや「大衆娯楽」ではない映画は、存続のために何らかの助成を必要とする。また、世界中で「ニッチ」商品として鑑賞されている映画の現状においては、「少数の観客しかいない」という批判は、個々の作品に関する具体的な鑑賞者の数字なしには説得力を持たないのである。まだ制作されていないあれこれの作品に少数の観客しかいないかどうか、誰にも分かるはずがないのだ。

国が映画を振興する必要があるのは、既に映画が、かつてのオペラと同じように非効率的な文化的商品になりつつあり、その原因が既に述べたように「大衆娯楽」的な存在でなくなったことにある。
オペラも最初はブルジョワの娯楽であったが、今の欧米で芸術として「助成」を受けてようやく存続している。オペラと違って、映画の場合はまだ観客はそれなりに多く、その分、入場料が安く設定されている。それでも主要な映画製作国は何らかの形で映画を助成している。
何故なら、オペラ並みの経済的な非効率商品になってしまえば、単に国庫を圧迫するだけだからだ。映画は物理的には容易に輸出が可能であり、観客の多さから文化的商品としてのポテンシャルもまだ高い。

いずれにせよ、スタジオシステム全盛期の「映画は大衆娯楽」という先入観とは決別する必要がある。
観客はもはや「大衆」としては存在していないし(それは情報が国境を越えて迅速に伝達されることとも関係があるが)、映画に対する嗜好は非常に多様なものになっている。その需要に対して採るべき戦略は、食品や自動車の生産におけるそれとはわけが違う。
観客はある作品のあらすじや映像スタイルや設定に魅力を感じるから、見ようという気になる。そして常に何か新しいものをそこに求める。更には、俳優の演技や映像の品質や演出さえも評価される。それが現代の映画を取り巻く現実である。

便利さや、単純な快楽や、ブランド性が求められているわけではないのだ。
これを個別的多様性を持つ「文化」「芸術」として論じ、そのようなものとして振興することに一体何の問題があるのか?